「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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フィレンツェの・・
姉にトランクを預けたまま
私は、サンタ・マリア。ノヴェッラ駅を右往左往した。
掲示板という掲示板を見尽くし、それでも目的の物は見当たらない。
列車の入線番号は表示されているものの、列車の編成表がないのだ。
ヨーロッパでは他の車輌への移動が出来ない列車があるから、
自分の座席のある車輌に初めから乗り込まなければならない、と
ガイドブックに書いてあったのに、
この長いホームの何処で待てばいいのか。
ホームが地面と同じ高さだから、乗り込むだけでも大変なのだ。
思案の挙句、私は駅の事務室に入り、カウンターの中の男に声を掛けた。
すると男は顔を左右に振り、イタリア語で仲間を呼んだ。
怪訝そうな顔で近づいてきた一人に私がチケットを見せて二言三言話すと、
その男も何か喋りながら私から離れていった。
どうしよう、英語が通じない。
イタリア語なんて、まるで解らない私は途方に暮れた。
と、一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。
がっしりとした体躯に穏やかな優しい目、
微笑むその口元の豊かな白い髭が印象的であった。
「メーアイ ヘルプユー?」
ああ、英語だ。これで間違いなく列車に乗れる。
風貌と同じく、その穏やかな声に
私の体の中の神経がいちどきに弛緩していくのが判った。
彼は、チケットを見ると、列車は9番線に入ると言い、
私の座席のある車輌はホームのずっと前のほうに停まる、と教えてくれた。
前の方といってもはっきりしない。
「アイドン アンダスターンド ワットユーセイ
クッジュー テイクミーゼアー プリーズ」
もう私は必死であった。
彼は腕時計と電光掲示板を見ると
十分前に必ず迎えに来るから待合室で待つように、と告げ
私が渡そうとしたチップを笑顔で制した。
私は、必ず待っているからと、くどいほど彼に念を押してからも、
半信半疑のまま姉と共に仕方なくベンチに腰を下ろした。
出入り口の上の棚に据えられたテレビは、逐一列車情報を伝える。
どうやら私達の乗る列車は20分程遅れるらしい。
私はトランクに手を添えたまま、
同じように列車を待つ人達の様子を所在無く眺めた。
旅馴れているのか、言葉に不自由しないせいなのか、
彼らはゆったりと時を過ごしているように見える。
私はベンチに深く腰掛け直した。
何とかなるだろう。
そう思った時、先刻の白髭の男が近づいてきた。
約束の時刻までにはまだ1時間もあるのに、
しかも、部下らしい小柄の一人を伴っている。
「コーヒーは如何ですか」
断っても断っても誘う。
「飲みませんか」が「飲みましょう」になり、
やがて「野みたいでしょう」と彼の言葉は変わっていった。
姉が洗面所から帰ってくると心配するから、と言えば、
私より年上だから心配いらない、とまで言う。
荷物が心配だと言えば、友人に見させておくから心配いらない、と。
待合室の入り口を見れば、いかつい身体の、
恐そうな顔つきの男が立ってこちらをじっと見ていた。
胸には写真入りの名札を着けている。
私は白髭の男に従った。
「ジャポーネー」
「チャオー」
カップを高々と挙げた。
私は白髭の男に従った。
「ジャポーネー」
「チャオー」
カップを高々と挙げた。
彼はエスプレッソを、私はカプチーノを選んだ。
運ばれてきたエスプレッソに砂糖を入れてかき混ぜる。
苦いエスプレッソに沢山砂糖を入れる、これがいいのだ!
とオーバー過ぎる位大きく手を動かして砂糖を入れた。
女性はそれがいい、こっちは苦すぎる。
と私がカプチーノを選んだことにも満足気だった。
彼の太い指先にあるエスプレッソのカップは
あまりにも小さくてユーモラスでさえある。
私は、たっぷり入ったカプチーノを飲みながら、
可笑しくなって、思わず笑うと、
彼は、もうなくなっってしまった、と言わんばかりに
空のカップを持ち上げて、首をすくめた。
陽気なイタリア人達である。
バールはたちまち友好の場となった。
日本の何処から来たのか、東京は知っているか、
イタリアの何処へ行ったか、イタリアは好きか、
カプチーノは好きか、と矢継ぎ早に尋ねてくる。
その合間に店の従業員だの客だのに、
ジャポーネ、ジャポーネと
遠来の客だ、と紹介するのだから目まぐるしい限りである。
小柄の部下らしい男はその都度、うんうんと頷くだけであった。
暫くすると白髭の男は、仕事をしなければ、
と首をすくめて私を促し、
待合室の前で、必ず迎えに来ると言い置いて、
小柄の部下らしき男と立ち去っていった。
待合室に入ると、
不安げにトランクに手を掛けて待っていた姉は、
私が事情を説明すると余計に不快な表情をした。
「危ないのに・・」
姉にしてみれば、当然のことである。
ヨーロッパの、ましてやイタリアなどは
もっとも危険な国とも言えるのだから、
姉が心配して怒るのも無理はない。
ご馳走のお礼に何か、と鞄の中を漁るが目ぼしい物は何もない。
出発前、土産用の小物を用意するつもりでいながら、
多忙でそれが出来なかったことが悔やまれる。
「本当は、いっぱいお礼をしたいのだけど、何もなくて・・」
再びやってきた白髭の彼に、
3色ボールペンとヴィタミンC入りのキャンディーの新しい袋を差し出した。
彼は、カチカチと芯の出具合を確かめると、
「メイドイン ジャパン?」と尻上がりに聞き、
大きく頷く私の顔を見て大層喜んだ。
「メイドインジャパン う~ん メイドインジャパン」
私は、彼が安心するように、
自分のバッグからもう一つのキャンディーの袋を取り出し、
その小さな粒を口に入れて食べて見せた。
すると彼も、私に倣って黄色い小さな粒を幾つか掌に出したかと思うと、
さっと口に放り込んだ。そして、酸っぱいと言わんばかりに、
目をむいて両手を広げ、ひょうきんにおどけて見せた。
ヴィタミンC入りだから酸っぱいけれどヘルシーで女性の肌にもいい、
だから、我慢して私はいつも食べるのだ、と私は再びその小さな粒を口に入れ、
彼と同じように、酸っぱい、と目をつぶっておどけて見せた。
彼は、暫く待つようにと私達に告げ置き、事務室に取って返すと、
何やら青い大きなトランク程もあろうかと思われる位の、
大きな紙挟みを抱えて戻ってきた。
促されるまま開いて見ると、手渡された紙挟みの中には、
美しい色の、パステル画が入っていた。
コンパートメントで傍若無人に音楽を楽しむ若者、
その横で泣き叫ぶ赤ん坊と困惑した顔の母親、
迷惑そうな表情で入り口から覗いている老夫婦も描かれている。
寝坊して遅くなり、飛び乗ろうとしたが乗れなかった男の絵もあり、
他人への迷惑や駆け込み乗車による危険防止を呼び掛けるもののようであった。
列車の乗客の様子をユーモラスに描いた4枚の絵は、
マナーを啓蒙する、日本でならさしづめJRの広告の、
原画の複製に当たるものなのかも知れない。
その愉快な絵を見ながら私達の話は弾んだ。
「アイル カムバック ヒアー
アイル リメンバーフォーエヴァー」
2時間程前に出会ったばかりなのに、
もう何年も前からの旧知の間柄のような、
不思議な心の交い合いを覚えた。
今度は、ヴェネチアに行って、それからフィレンツェに来るといい、
日本人はみんなあそこが好きだから。
彼は、長いホームを歩きながら私と姉に言った。
間もなくして列車は轟音と共にその大きい図体をホームに横付けした。
車体は見上げる程である。
乗降口には、梯子のような階段があった。
彼は先に乗り込み、馴れた手付きで荷物を乗せると、
列車から身を乗り出し、腕を伸ばして私と姉を引き上げてくれた。
「スィーユーアゲイン
アイム アプリシェイト・・
アイドンノー ハウトウセイ サンキュウ ・・」
もう、文法があってるかどうかなんて、どうでもよかった。
私は知っている限りの単語を並べて感謝の気持ちを表そうと焦った。
またいらっしゃい、楽しみに待ってるよ、
彼は笑顔で私を抱き寄せた。
西洋風の挨拶に戸惑いながらも、涙が頬を伝う。
がっしりとした躯は思いの外しなやかであった。
私はミラノに向かう列車の中で、大降りの名刺を幾度となく眺めた。
サンタ・マリア・ノベッラ駅の駅長なのか、
淡い夏色の制服と制帽が爽やかで凛々しかった。
彼の言葉に従ってトランクの底に入れて持ち帰った4枚の絵は、
今もあの時の旅を語る。
もう、彼の記憶に残ってはいないだろう。
だが、カプチーノを飲むたびに、フィレンツェの、
サンタ・マリア・ノヴェッラ駅を、
白い髭のピエールを懐かしく思い出す。
ピエールのあの太い指は、
エスプレッソに砂糖をいっぱい入れた、
不似合いな程の小さなカップを、
今も口に運んでいるのだろう。
あのバールの陽気な人達と、そしてピエールとも、
もう一度会いたいと思う。
今度は、どんな「メイドインジャパン」を用意しようか。
カプチーノは私をイタリアへ誘う。
最終更新日 2005年06月14日 07時51分08秒
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