YEMEN―イエメンの旅 4


まるくん駅舎


イエメン 影と青



―― サユーンに響く太鼓、シバームに響く鈴の音 ――その1



 その夜、ある意味では「山賊」より怖い襲撃にあう。
蚊である。
まさか、マラリア病原をもつ蚊ではなかろうな―――。
 マラリアはおもに、後日訪れる紅海沿岸のティハマ地方が熱帯性気候のため、寄生に要注意である。
蚊に刺されるなどして発病するまでの潜伏期間は10日から1ケ月とされ、発熱、嘔吐などの症状がいつなんどき訪れるかわからないだけによけいに怖い。
感染症には、おもに昆虫による感染と皮膚からの感染、飲食による感染がある。
「マラリア」は、ハマダラ蚊に刺され発病を起こすアフリカで最もポピュラーなものだ。
潜伏期間はまちまちで、嘔吐、悪心、下痢、肢体痛などの症状で、その昔ヨーロッパを視点とした「アフリカ探検」が盛んな頃、多くの探検者はこの発病を原因として命を落としていった。
「黄熱病」は、ウイルスをもつ蚊に刺されることにより発病。悪寒を伴う高熱が続き、血液の混じった嘔吐、死にいたることも稀ではない。
「眠り病」の感染は、マサイ族の牛たちが次々と倒れていくツェツェバイにより、この病気も発熱を伴い、やがてリンパ腺が腫れ、昏睡状態に陥る。
「フィラリア症」は、寄生虫病のことである。
高温多湿な地域でしばし発症し、慢性期には、「象皮病」という奇病に発展。
 続いて、皮膚からの感染では、「砂ダニ症」がある。
海岸地方では、足の指と爪の間に卵を産み付けられるのに注意。
「破風症」は、外傷により菌が生まれる毒素により神経麻痺、心臓麻痺なり、死にいたるケースも高い。
「狂犬病」は、犬やマングースなどに噛まれることにより感染し、頭痛から始まり、不眠、呼吸困難などに陥り、発症するとまず100%近い致死率である。
「住吸血虫病」は水中から感染する。
血尿、血便から進み、肝硬変にいたるケースが多い。
飲食による感染は「赤痢」がある。潜伏期間は数日以内で、血便性の下痢、悪寒、発熱に悩まされる。
「腸チフス」は、発熱から徐々に高熱を伴う。
「コレラ」は、コレラ菌特有の下痢、嘔吐、脱水症状、そして意識障害などに陥る。
その他にも、「サルモレラ菌」、「腸炎ビブリオ」、「黄色ブドウ球菌」などの細菌性食中毒がある。
「ちょっと、Sさん・・・・・・。食欲減退するじゃないっ」
「配られる肉、ほとんど食べたくせによく言うよ(笑)」
 そして、今日、アフリカ大陸発祥とされるウイルスで避けて通れないのが、「エイズ」である。
感染すれば、一週間から八週間くらいで血栓抗体が陽性になり確認される。
発病にいたるまでは3年から10年かけての潜伏期間がある―――――。
他にも挙げれば枚挙のいとまがない。
(ケニアの旅―「ナイロビは今日も黄昏て―』より http://plaza.rakuten.co.jp/hunkorogashi/14000)


 明け方、足の痒みで目が覚めると、あちこちが刺されていた。
防虫スプレーはしたし、電気蚊鳥線香もした。
しかし、マットが置かれただけの簡易ホテルのこの部屋には電気が通っていなかった。
実は部屋の発電スイッチを入れてなかったらしい。
夜中ずっとホテルの外からディーゼルエンジンの音がうるさくてしょうがなかったが、どうやらこのホテルに供給する自家発電機のようだ。
窓を開けると、まったくの暗闇のなかでは気づかなかったのは無理もないが、あたり一面ナツメ林だった。
サユーンは「百万の椰子に囲まれた町」という別名もあるくらい、椰子の木が多い。
椰子林の向こうには、昨日から見つづけてきたワディの渓谷の巨大な岩山が朝日を受けてピンク色に染まっていた。
 朝食までずいぶん時間があったので、戸外を散歩してみることにした。
民家が何軒かある。素っ気ない石や土づくりの家だが、扉だけは派手な色をして立派な装飾をしており、しかも重厚だ。
しばらく歩き、民家が途切れるとあとは椰子林と迫り来る岩山の絶壁の麓で、道をはずれ岩山に向かって歩いた。
ワデイの底の土地は雨期の濁流のすごさを物語るように、日陰は土が緩く起伏が激しいので歩くのに一苦労する。歓声が届いてきた。こんなに朝早くからサッカーをする少年たちの姿があった。
砂漠のひとびとの朝は早い。
農業が中心のイエメンでは日中は日差しの強さからあまり作業がはかどらない。
したがって早朝の仕事が一日のすべて、ともいえる。少年たちもきっと農耕などの手伝いの合間に、あるいは学校へ行くまでの時間を有意義に過ごしているのだと勝手に合点した。
そのあたりにあった大きな石に腰掛け、しばらく彼らの遊びを眺めていた。
彼らはみんな素足でサッカーをしている。ひょいと飛んできた茶色のボールはなめし革の匂いがした。
少年たちのサッカーに気を取られていたが、すぐ近くにやせ細った眼つきの鋭い犬の集団がいた。
野犬だ。
サナア初日のナジプサのホテルでナジプサが注意していた。
「キャルバ、ハタル(犬、危険)」ナジプサにかかれば、イエメンは危険だらけだ。
ナジプサの忠告はともかく、やはり危険は危険だ。
恐怖から体が硬直し、彼らと目を合わせないようにして恐る恐る後ずさりした。
なんとか彼らから離れ道にでると、また恐ろしい一団に遭遇した。
黒尽くめの衣装の、つばが広く異常に丈が長く先の尖った帽子を被っている。
それらが集団でいる。魔女の隊列、そのものだ。
異様な集団の前は羊の群れだ。
ハドラマウト独特の衣装で、羊飼いの女たちと、朝食時ナジプサから聞いた。
サユーンは、いやイエメンはまったくもって、「アナーザー・ワールド」な世界だこと!

sayun



―― サユーンに響く太鼓、シバームに響く鈴の音 ――その2




 午前中、サユーンの市内観光をした。例によってくじ引き。
今日も、3号車のアリだった・・・・・・・。アリ、今日は頼むよ。
 町の中心らしい広場に車は止まる。
インド様式の白い立派な宮殿と緑鮮やかなミナレットが空にそびえていた。
白の建物は1960年代までスルタンが住んでいた王宮で、現在は博物館になっているらしい。
訪れたタイミングが悪くあいにく今日は休館日だそうだ。
サナアでも軍事博物館が鍵をもった門番が不在、という考えられないような理由で入館できずじまいだった。しかし、旅の後半、タイズの町にてイマームの城がそのまま博物館になったところでの印象を思えば、無為な時間を過ごさなくてよかったのではと、今なら思える。
 豪奢な王宮の向かい側は小さなスークだった。
狭い路地に日よけの竹細工があり、ここでもアジアの風が吹いているような気がした。
こじんまりしたこのスークを歩くのは楽しい。どこか、ホッとさせられる。
それはひとびとの表情である。
サナアでは今朝遭遇した野犬のように眼つきの鋭い部族たちに、意味もなく怖がっていたが、サユーンのひとびとは見るからに朗らかで穏やかだ。
「古代シバ人はとても平和的だったらしいです。ハドラマウト地方はモンスーンによる交流などの影響から南方アラブ人とマレー人の混血が進んでいたとされています」
昨日のガソリンスタンドで、最初に出会ったひとたちの表情からアジア人の風貌を感じ取っていた。
「サユーンの人口はこの地方最大で約3万人、ハドラマウトで20万人います。宗教はもちろんイスラム教ですが、北部山岳地帯の部族と異なり、スンニー派を信仰しています。このあと訪れるタリムの町は17世紀から19世紀にかけて、スンニー派の学問の中心地でした」
「さきほどの王宮もインド様式みたいだし、それもマレー系のひとびとの影響?」
「ラム、アフハム(さあ、わかりません)」彼は悪びれる様子もなく、またスークの乾物を一掴み取り上げて口にほうりながらスークの奥へ歩いていった。
私は彼を旅の中ごろには「アフハムさん」と呼んでいた。
 竹細工の天井のスークを出ると、リズミカルな太鼓の音が届いてきた。
王宮の隣のモスクで広場には大勢のひとだかりができている。
ひとごみをかき分けて覗いてみると、ダンスをする男たちの姿があった。
ジャンビアを空にかざして踊る男もいる。
旧南イエメンのひとびとで、ジャンビアを腰にさしていた男はみかけなかったので不思議だ。
「旧北イエメンと旧南イエメンの交流」らしい。
ジャンビアの男たちは招かれて祭りに参加しているのである。

サユーン ダンス


 太鼓の音は一定のリズムを保ちつつ速度を増していった。
ステップには一定の決まりがあるらしく、なかなか真似できそうにもない。
今晩、ドライバーたちがカーステレオから流すアラビア歌謡で踊っていた姿をみようみまねで私が踊ったマガイモノとは明らかに違っていた。
輪をつくって見物する朗らかな南のひとびとが、手拍子をはじめ歓声をあげた。
近くのひとびとが、ビデオカメラで撮っていた私に気づき、前にいるひとをかき分けて一番前に座らせてくれた。
「ヤバーン、タマム(日本、いいね)」
北イエメンの男たちはひとに笑顔をみせることはめったになく、気難しいといわれる。
長らく閉鎖的な山岳部族社会で内向的にならざるをえないのは理解できる。
南のひとは違う。
砂漠の青空のようにくもりひとつなく、どこまでも聡明な印象を受けた。
ひとの輪の向こうに建つ、モスクの屋根のエメラルドグリーンが眩しい。
今回の旅で最もなごませてくれ、お気に入りの町となったのはサユーンだ。
いや、あらゆる旅のなかでもっともお気に入りといってもいい。
なごりおしいが、広場の祭りを離れ、神学の町タリムへ向かう。

 タリムに近づくにつれ、尖塔がたくさん見えてきた。
その昔、スンニー派イスラム教徒の中心地で、アラビアをはじめアフリカ各地からも多くの神学者が学んだとされる。
町に往時の活気はなく、当時の栄光の面影を残すものは少ないが、それでもこのこじんまりとした町に360ものモスクがあるというから驚きだ。
町外れのアズ・ムダール・モスクを外からのみ見学した。
高さ50メートルもあるミナレットは、インドや東南アジア建築の影響を感じさせられる。
モスクの隣は図書館があり、イスラム神学や法典に関する貴重な蔵書が膨大に保管されている。
 タリムでもスークを訪れた。
やはり、サナアのように殺伐とした雰囲気はなく、のんびり歩くことができる。
ナシプサからもらったサメの燻製はカツオブシの味と同じだった。
 スークの見学の後、これまた博物館になっている元宮殿の中庭で休憩だ。
急に頭痛と眩暈がして、―すわマラリアか―と訝ったが、紅茶に含まれている薬草が原因のようだ。
 タリムからサユーンに戻り、サユーンの町を見下ろす丘のホテルで昼食をとった。
イエメンではサナアなど町中も含めて、なかなかレストランなどがない。
丘から見下ろした椰子とモスクの町、サユーンは旅する身にありながらも、どこかへ誘われるような不思議な魅力がある町だ。
いま、この瞬間、サユーンは私のものだ。
モスク前でのジャンビアダンスの太鼓の音色がまだ耳に残っている。
丘から見下ろした町の調べは、夕刻のシバームの丘へ受け継がれていく――――。



 当然のこととはいえ、砂漠の日中はとても暑い。
午後は夕刻まで休憩だ。
しかし、じっとしていられないのがふたりいる。
私と、大阪のおばちゃんだ。
「ホテルのすぐ近くに、町の有力者のプライベートプールがあるらしいですよ」
「え?なんでそんなん、知ってんの?ここのホテルにはプールないさかい、どないしよおもてたところや」
「ナジプサのおっさんに聞きましてん」
「ひゃー、やるときはやるやん兄ちゃん。で、どないして行くん?あんまり時間ないみたいやで。また睨まれるで(笑)、ガイドさんに」
―また睨まれるで、ガイドさんに―はふたりの旅中の合言葉だ。
「まかしとき!アリがいてますやん。もう話しつけてます。アリーッ」
「やるわー。でもあんた・・・・・そのヘンテコな大阪弁やめときっ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
そういうわけで、私たち二人はすっかり仲良しさん(?)になった3号車のアリの車で出かけた。
ナツメ椰子の林を行き、しばらくすると豪奢な民家に着いた。
私たちは、頑丈な扉が開かれて、男に手招きされて中へ入ると、そこがプールだった。
大きなつくりで、ご当主の孫たちなのか、大勢のこどもが水遊びをしていた。
私たちをみかけると、子どもたちは大歓声だった。
水着姿はもちろん子どもたちだけで、プライベートだからと半分期待していた若い母親や年頃の娘さんらしきひとたちはベールに身を包んだままだ。
そして、突然の訪問者をプールの壁際で静かに見守っていた。
「イスラムだから、女性の水着はまずいんでないですか、まだ女性かどうかはべつとして(笑)」
「ゆうねえ~~、ええねん、ムスリムやないしっ」とおばちゃんは勢いよく飛び込んだ。
いきおいよく飛び込んだが、同時にすぐ立ち上がり犬掻きで泳ぎだした(笑)。
「まぁ、ロバにみえんこともないか(笑)」
「なに、ブツブツいうてるの。はよこなっ。気持ちええよぉーっ」
楽しいひとときを過ごした。いつ間にか私はおばちゃん以上にはしゃいでいた。
しかし、「秘密の場所」、お別れの時間が来た。
アリが迎えにきたのだ。
アリを通じて、「お礼を」申し出たが、世話役みたいな男性は「いらない」と手を振る。
そのかわり、「シェイフ(長老)の写真を一枚撮って送ってあげてください」と頼まれた。
男はプールサイドの壁際で椅子に座って微動だに動かない老人を指さした。
老人はかなりの高齢者のようで、目が不自由なのか黒いサングラスをかけたまま記念撮影に応じた。
「このひとがここの主さんかいな。オーケイオーケイお安い御用よ」
おばちゃんは老人の手を握り、喜んで写真を撮っていた。
 帰国後しばらくして、大阪のおばちゃんから丁寧な挨拶をしたためた、シャイフの写真が送られてきた。
手紙にはこう添えてあった。
――住所がわからないので送ってあげてください――
しかし、私はそのとき住所のことなど気にかけず、シャイフの写真は手元にあるままだ――。





 プールから帰ってきた私たちは、夕刻の観光への発車ギリギリだった。
しかし、私は間違いなく今日一日乗る3号車に乗っているのだから安心だ(笑)。
今から昨日訪れる予定だった「世界最古の摩天楼都市シバーム」へ行くのだ。
今回の旅行の目玉商品のひとつである。
サユーンから東へ30キロ。
突如、渓谷に小高い山が見えてくる。それが寄せ合うようにして建つシバームの町のビルだ。
外壁に囲まれた町への進入口は1ケ所のみで、入り口にモスクの広場があり、車はここまでだ。
通路を歩きながらひしめきあい、空にそびえる家々を見上げるが、サナアのように家によって異なる
カマリアというステンドグラスの窓があるわけでもなし、幾何学模様の漆喰があるわけでもない。
日干しレンガをただ積み上げていった塔のような住居が高さを競うようにそびえている。
ほとんどの家が8階建てで、この住居群をみたドイツ人旅行家ハンス・ヘルフリッツが「砂漠のシカゴ」
と呼んだのもあながち嘘ではない。
「文献によれば、シバームは3世紀頃からハドラマウトの中心の町として栄えましたが、このような高い家が建てられるようになったのは8世紀頃といわれています。何年かに一度は大洪水に見舞われます。
その対策として、この地方の住居は高く積み上げられ、サナアや山岳地帯の高い家が狭い土地の事情によるのとは少し理由が異なります。記録によると、現存する家はすべて1532年の大洪水のあと復旧されたので、古いので500年建っているとされています」
すごい。火災にさえ見舞われなければ日干しレンガの家とはいえよく500年ももつものである。
しかし、もっとすごいのは、そこにひとが住みつづけていることである。
「この町は500ほどの家があります。現在でも永住しているひとは7千人ほどです。シバームももちろんのことハドラマウト地方は農業に適していません。古い時代からひとびとは海外、おもにインド西部に住みつき、そこからインド全域やインドネシアに南アラブ人のコミュニティが広がり、現在に至っています」
サユーン王宮をはじめ、街角で東南アジアの様式が多くみられたことがこれではっきりした。
現在、シバームの町はユネスコの世界遺産に指定され、急ピッチで修復がなされているそうだが、費用面で苦慮していることをあるテレビ番組で放映していた。
文化遺産もけっこう大変なのである。
 日没前、町の手前のワディを渡り、新市街が広がる裏山からこの旧市街のシバームを見下ろした。
砂漠の摩天楼都市は、みるみるうちに夕焼け色に染まっていった。
私は岩山に太陽が落ちきる瞬間まで見守っていた。
町から、子どもたちが鈴を鳴らしながら歌う声が風に乗ってきた――――。


― 闇にカマリアの灯りが浮かび 頭上には月が ――その1


yemen sky




 サナア近郊の町をいくつか訪れた。
今日は「4号車」のジープだ。
「サラーム、アレイコム、よろしくねっ」握手、握手。
「ワッレイコムサラーム。アナ、イスミー、ムハンマド、アリ(こんにちは。私アリですよろしくね)」
「ええええええええっ??」あなたもアリさんですか?
なんと5台のジープ中、3人が「アリ」さんだ。
イスラムの聖人にちなんだ「ムハンマド・アリ」さんはアラブ中にいらっしゃる。

 昨日の夜、私たちはサユーンかサナアに帰還した。
私たちはプロペラ機に乗って2時間で帰ってきたのに対し、ドライバーたちは復路ルブアルハアリ砂漠を二日がかりで無事(?)、サナアまで戻ってきたのだ。「3号車のアリ」も(笑)。

 再び合流した私たち一行はワディ・ダハールへ向かう。
ジープは赤茶けた岩山に近づいた。
岩山の麓に溶け込むように町があった。アル・カビルという町だ。
岩山に建つイマームの城を見学する。
サナアの6階層の家より外観は豪華だが、どの部屋も狭く薄暗く、通路や階段ですれちがうのに苦労しながら、白い漆黒で塗られた屋上に立つ。
宮殿のまわりは緑が多い盆地だ。
この宮殿は1930年代、イマームの夏の別荘として建てられ、現在ではロック・パレスと呼ばれ、
サナア市民の格好のピクニック地として親しまれている。
当日も、この宮殿に外国人観光客以上にイエメン人の家族連れなどで賑わっていた。
今日は、イスラムの聖なる金曜日の休日ではない。
木曜日は会社・官公庁などは半ドンになるらしいが、今は木曜日の午前中なのだが・・・・・。
この賑わいはなんだろう。女の子たちはみんな綺麗な洋服でおめかしして、男の子たちはみんな小さな玩具のようなジャンビアを腰にさしている。
私はこのロックパレスの屋上でかわいい子どもたちを撮ろうと追いかけまわしていた。
「なんで、女の子ばかり撮るの?」
イエメンの女性に美人が多いことは子どもたちを見ればすぐにわかる。
彼女たち南方アラビア人は、インド人、エチオピア人との混血が多く、皆スタイルがよく、鼻筋がとおり、瞳はこちらがドギマギするくらい大きく美しい。
子どもたちとはなごりおしいがロックパレスを後にして、スーラの町へ向かう。
途中街道沿いの変哲もない村で私は4号車のアリに叫んだ。
「キフ・フナー、ミファドゥリカ(止めてください)」
「え?トイレ?また?」
「違います(笑)」―またって、なんだよ、またって―それより、ほらあれ、ジャンビアダンスでは?
村の一角で男たちが輪を作ってジャンビアを片手に踊っている。




娯楽の少ないイエメンでは毎日の午後、仲間が家に集い、カートをかじりながらおしゃべりする「カートパーティー」が生活に花を添えている。
ジャンビアダンスは祭りごとに踊られる。
今日はもう「犠牲祭」の騒ぎは終わっているはずだ。
なぜ今、ジャンビアか?それは村の結婚式だからだ。
私はジャンビアの輪に加わらせてもらった。
親切な男のひとが私にジャンビアを貸してくれた。
サユーンのモスク前でも勧められ、あのときは躊躇したが、今日は意気込みが違います。
なぜか?
今日は上から下までイエメンスタイルの装いなのだ。
5日前、サナアの旧市街で道に迷い、いつしかバーバルヤマン広場にたどりついたとき、私はちゃっかりワンピースのようなフーカとスカーフのようなターバンを買い求めていたのだ。
東洋人の飛び入りに、村びとも喜んでいるではないか。
しかし、5拍子らしい(?)足のステップはなかなか難しい。滑稽でしたか?
「はーい、もうイキマショウ」ノリノリ気分を寸断したのは、聞き覚えのあるナジプサの声。
あれ?いつも間にやら、全台止まっていたのですね?滑稽でしたか??
 後ろ髪を引かれる思いで1号車から今度は4号車に乗り込んできたナジプサに尋ねた。
「イエメンのひとは何才くらいで結婚するの?」
「山岳部族の男はだいたい、14、15才で成人男子とみなされます。村の村長をはじめ長老たちの「マジュリス」という会議で成人として認められた男は家人からジャンビアを持つことを許され、ライフル銃も携帯できます。その頃から婚期がはじまっているといえます」
日本人の成人式が14・5歳でジャンビアを持ち、ライフル銃までとは、恐るべしイエメン!
「一方、女性はというと、これは家によって異なるのですが、男性の視線から身を守るためのベールをかぶり始めた時期が婚期のはじまりです」
女性は男性の「結婚相手」としか捉えられていないのか・・・・・ナジプサの話はつづく。
「近年は、農村部を含めて成人男子の9割近くは学校へ通います。女性も92年の統計調査によると32%の就学率です。また、乳幼児の死亡率はかなり低下してきているので、農村部でも一家に子どもは3、4人と減っています。婚期は遅れる傾向にあるのです。なぜなら男性はかなりの結婚資金がいることはどこの国でも同じことですから・・・」
3年前旅したエジプトで、なんと私と生年月日年齢すべて同じのガイド、ヤスルは「7年越しの許婚がいるのに資金が溜まらないから結婚できない」と、嘆いていた。
「どのくらい資金がいるの?」と尋ねたら、「ラクダ千頭買えるくらいだ(笑)」――――。
ナジプサはさらに興味深い話しを続ける。
「慣習に従い、イエメンでは親が決めた結婚が大前提です。父方の従兄弟や従姉妹どうしで結婚するのが理想です。生まれた赤ん坊でも結婚相手はだいたい決まっているのです」
族外婚が世界の大勢であるのに反し、アラブ世界では婚姻は族内婚が当たり前らしい。
「昔から、イスラム暦9月に婚約して、12月の巡礼月に結婚式を挙げるのがよいとされていますが、
今では都市部のサナアなどではこだわってはいません。曜日でいえば、木曜の夜から金曜日にかけて披露宴が行われることが多いです。披露宴は男性と女性は別々です。男性はカートパーティーをしながらジャンビアダンスですね。女性は屋内でやはりカートをかじりながら踊りをします。見たことはないですがね(笑)」

― 闇にカマリアの灯りが浮かび 頭上には月が ――その2







イエメンで出会った、美しい瞳の持ち主たちを思い浮かべてみよう――――。
サナア郊外の「ブスターン」という協同菜園で、素足で弟の世話をしていた女の子。
アルワ女王のモスクの町ジブラで弟と遊んでいた女の子。
タイズの博物館がある丘にいた姉妹。
さきほどのロックパレスで出会った女の子。
スーラの町でピンクのドレスを着ていた女の子。
みんなシバ女王を彷彿するような(実在のシバ女王がどんな容姿だったかはもちろん知らぬが)愛くるしく美人さんであった。
そんな彼女たちもある年齢にくると、嫌おうなく戸外ではベールを被り、ほとんど屋内で過ごし、相手が決まった結婚の準備に備える、そんな人生が待ち構えているのだ。
アデンからの帰国便のアル・イエメニア航空の客室乗務員は、今思い起こすだけでも、頬が赤く染まりそうな絶世の美人であった。
彼女たちの、子どもたちにとっての、「自由の風が吹く」ことを、今でも願ってやまない―――。
 サナア北西約50キロ、大きな岩山を背にしたスーラの町。
スーラは長らく他部族との抗争を続けてきた典型的なイエメン山岳部族である。
丘の斜面に段々畑があり、岩山を背にする村の外側には城壁が築かれている。
近くで見ても、岩山と村が一塊の要塞にみえる。
「16世紀、オスマン・トルコがイエメンを支配していましたが、スーラのように抵抗を続け部族国家として存続した村がたくさなったことは、今でも山岳部族の誇りです」
今は平和そのもので、城壁の門がある広場には、どこの村とも同じように市がたちひとびとで賑わっていた。
広場中心はすごいひとだかりで、もうすっかりおなじみになった太鼓のリズムが青空に溶けている。
そう、ここでもジャンビア・ダンスだ。
フーカを着た東洋人はここでも人気者だ。
また、輪に加わる(笑)。



スポーツがあまり盛んでないイエメン人にとっても、旅中歩く以外は運動不足気味な私にとっても、この日課は「朝のラヂオ体操」みたいなものである(笑)。
 ダンスをひととおり踊り、スーラの村を見学するが、観光ズレした子どもたちがビーズや布を掲げて「買え」としつこい。「売るようなものがない」子どもたちまでたくさんたかり、「カラムカラム(ペン、ペン)」とこれまた執拗な口撃だ。
フーカなんか着ているから、否が応でも他のひとより目立ってしまう。
イエメン政府は観光立国をめざしている。民衆の大部分は私たちを「自由に」旅行させてくれたことは、彼らの、そしてイエメンの名誉のためにつけ加えておこう。
のんびり、イエメンを旅するのは「今」、しかないのかもしれない。
 次に、シバム、コーカバンの町へ行く。
シバムとコーカバンは同じ部族がそれぞれ山頂と麓に暮らし、双子の村として有名なのだそうである。
二つの村は昔からそれぞれ役割を担っており、350メートルの岩山にあるコーカバンは外敵を監視し、おもに軍事面での機能を司り、麓のシバムは平野に広がる耕地で農業や商業を営んできた。
この役割分担は、もう千数百年もつづいているそうだ。
断崖絶壁に築かれたコーカバンの村は外敵を寄せつけぬ自然要塞であったが、2年前(94年)にドイツの援助により舗装道路が完成し、車で村を訪れることが可能になった。
これまで訪れてきたどの町や村もそうであるように、村へ入ることが唯一の門の前で車を止め、村のなかを見学させてもらった。
さきほどのスーラや、ほかの村や町と同じく堅固な石垣が村の周りを囲んでいる。
麓のシバムが敵に襲われると村人は山を駆け上り、コーカバンの要塞に逃げ込んだそうだ。
村の中央には、篭城時のためなのか、貯水池があった。
コーカバンの城壁から見渡すかぎりの豊かな耕地が広がっていた。
 シバムとコーカバンのひとびとは年1回、定期的な友情を分かち合うための交流の祭りが行われるらしい。シバムの男たちがコーカバンに登り、伝統行事が行われる。
両村合同のジャンビア・ダンスがここでも繰り広げられることだろう。
 麓のシバムへの行くのは徒歩で山道を行った。道は険しく、外敵から守るためであろうウチワサボテンが絶壁にたくさん植えられていた。
 山を30分ほど下るとシバムだ。村では愛想のよくない子どもたちに怯えさせられた。
戦闘的とされるコーカバンのひとびとは拳銃を貸してくれたりなごやかなひとときを過ごしたのに、平和を愛する農耕民であるシバムのひとびとが湿っぽく暗い表情をした印象をもったのは意外であった。
昨日、サユーンから戻って、私以外のひとは、これまたサナア近郊のアムラン村を訪れたのだが、陰険な子どもたちから「石が飛んできた」らしい。
イエメンでは訪れる村によって、極端に村びとの対応が変わることが、暗に部族社会が今にも色濃く残していることを物語っているのかもしれない。







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