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Dog photography and Essay
「家族と私」その2
「家族と私」その10
私のブログ「上海発!画像の更新!」は、
旅行などの画像を更新するためのみ、
記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。
--------10--------
このままでは工場の印象まで悪くなると、
妻が、長女・長男を連れて、大自然の島根県の、
妻の在所へ送り届ける事を私は決断した。
妻の居ない9ヶ月以上の私の生活は大変だったが、
新しい生命の誕生の為には仕方ないと思った。
愛知から島根までは今でこそ高速道路が、
開通しているが、その頃はまだ開通してなく、
京都から9号線をひた走った。
島根の妻に実家に着いたが、妻のお腹の事も、
考慮して休み休み車を運転してきたので、
出発が夜の9時で、着いたのが、
朝の6時で11時間掛かった。
私と友人は仮眠を取り、
昼に出発し愛知へ向けに戻った。
3人目の次男が生まれたとの連絡が入ったのは、
長女と同じ1月19日の午後3時ごろだった。
こうして3人目も子供の出産に立ち会う事が、
出来なかったので、親戚からは、大変な人と、
結婚したものだねとか言われたそうだ。
ある親戚は、もう3人も子供がいるんだから、
離婚なんて考えたらいかんよ!などと、
妻に話したというが、非常識な人も、
世の中には居るもんだと思った。
妻にはそんな気持ちは、さらさらなく、
人は面白がって色んな事をもっともらしく、
言うと思ったが、この時私は29歳だった。
子供が生まれてから3ヶ月が過ぎた頃の、
ゴールデンウィークを利用して、
妻と3人の子供達を私一人で迎えに行った。
妻のご両親に深々と頭を下げ、子供達や
妻の事などもお礼を言って、帰ってきた。
その夜、妻の父は、
声を押し殺して泣いたと連絡が入った。
9ヶ月の間、長女と長男がお世話になり、
その間の出来事を、泊まった3日間の間に、
酒を交わしながら色々と話してくれた。
今まで毎夜、賑やかで子供達の世話に、
忙しいながらも幸福感に満ち足りていた。
それを、私が全て簡単に持ち去ってしまった。
島根の夜は車も少なく、心悲しむには、
十分すぎるほどであったようだ。
その義父も8年前に他界して、その時は、
中国から取る物も取りあえず駆けつけた。
子供の成長と共に、工場も大きくなっていった。
それに比例して妻の仕事の負担も段々と、
増えて行ったように今思う。
幼稚園時代、小学校時代、中学、
高校、大学と成長する中、私は子供が、
中学生・高校生の時に中国へ出てきてしまった。
その頃には仕事が中国へ流れ、日本での仕事が、
年々少なくなって行ったのである。
私が中国行きを決意し、妻一人では工場の、
運営は負担が多すぎると考え、外注先は全て、
他の工場に分散し従業員も、妻の人脈を選ばせ、
退職金を手渡し、妻がやり易いようにした。
そのようにして、中国へ出て来たつもりだったが、
実際にはそんな簡単ではなかったようだ。
父親参観や、進路決定のときの教師との語らい等、
色々と大変であったと長女は語る。
最近、日本へ帰った折に、自分の人生を棒に振って、
貴方のため、子供の為に頑張って来た奥さんに、
感謝をしないと罰が当るよと親戚の人達に言われた。
その事に関しては、難しい事であり理解し難かったが、
そうですねなどと言いながら笑うしかなかった。
3人の子供とは、私が中国へ来てから1年ほど経ち、
メールのやり取りを始めた。3人にはパソコンを、
購入してあったが、相当古いパソコンであった。
2台を買い換え、3人の中で一番新しかった、
パソコンを妻が引き継いだが未だに難しいらしい。
「家族と私」その11へつづく
「家族と私」その11
--------11--------
長女からは、高校での友達関係(人間関係)に、
悩みながら、それに対する質問メールが多かった。
私の高校生活では、先生から言わせると、
結構、悪い生徒であったそうであるが、
自分では悪い生徒と思ってないので始末が悪い。
友人は多かった。不良の友人から文学学生まで、
幅広く付き合ったため、色んな勉強をした。
他の高校の生徒と殴り合いの喧嘩をし、
お互い血を流し、最後には握手をし友達になった。
高校生でありながら、夜の街を徘徊したり、
ある夜には、「生田春月」「太宰治」
「生田葵山」の文学者の入水自殺について、
夜が明けるまで、文学青年と話し合った事もある。
その中での、娘とはいえ、女子高生の交友関係の
相談メールには、どう答えていいか分からず、
人生についてとのテーマで送信した事もあった。
長男からは、私が日本へ帰る度にプレゼントした
時計やゲームなどを、盗られてしまったと、
嘆きのメールが届き、物を盗るより盗られた方が、
どれだけ気が楽か分からない。
あなたの物を盗った友達はきっと後悔しているに、
違いないだろう。あなたと会う度に苦しい思いを、
しているだろうから、逆の立場にならないようと、
結構長いメールのやり取りをしていた。
長男が高校から推薦で就職し、次男が大学へ、
行くようになってからも、「父さん!元気ですか」と、
始まるメールは続いたが、次男は皆に比べ少なかった。
そんなメールのやり取りも時は過ぎ、1月15日の
スキー場問題で大騒ぎの中で生まれた長男から、
「結婚」と言う事に対してメールが来た。
私と妻の時の結婚の事をメールに託した。
お父さん達は、反対されていたが、父さんの、
最後の「家から出て来いよ」という一言で、
母さんは、島根から愛知までバッグ一つで出てきた。
街の公衆電話から「私来ちゃった」と、迎えに行き、
父さんがその時のお母さんを見た時は「可愛かったよ」
と書き、お母さんとの出会いがなかったら、
あなたは、生まれてはいなかった。とも付け加えた。
その後、長男は半年もしない間に、結婚してしまった。
私も当然中国から結婚式の為に参加し、披露宴の父親の、
お礼の言葉で1月15日のスキー場の事も話ながら、
皆に見守られ、実に幸せな人生の出発点だった。
今素晴らしき伴侶を得て、彼もこれから私が羨むような、
家庭を築いてくれる事でしょう。とのお礼と祝辞を、
父親の挨拶の中で述べ終わり、ふと長男を見ると、
一筋の涙がスポットライトに照らされ、光っていた。
長男は22歳であったが大学へは行ってなかった。
親戚のまだ早いという反対を押し切って、私のみ、
お互いの愛を引き裂いてはいけないと賛成した。
私は、長男の心の動きをメールではあるが、
何度ものメールのやり取りで把握していたと、
親戚の人達にも、説明したが、「たかが文章で、
人の心の何が分かると言うのか」と、
笑われてしまったが、長男達の心は理解していた。
「家族と私」その12へつづく
「家族と私」その12
--------12--------
その長男もやはり大学の大切さを感じたのか、
結婚してからも勉強をし、3度目の挑戦で合格し、
会社のお金で大学へ行っていた。
今は、5歳の娘がおり、家族で元気な姿を妻の所へ、
連れて来て見せるようで、その報告メールを読むだけで、
私は何とも言えない幸福感に浸ったものだった。
我が家では、長男がいち早く結婚し、一番早めに、
結婚しなければならない長女が後になってしまった。
中国にいる私と、我が家の4人との連絡は、
1995年よりメールでやり取りをしていた。
だが、1999年以降になると私のHPの
「中国ひとりぽっち」
に「IDとPASS」を設定し、
その中でのやり取りになった。
しかし、私も何日経っても返事をしないと、
携帯から直メールで「掲示板見ました?」と。
我が家では、長男がいち早く結婚し、
一番早めに、結婚しなければならない長女が、
後回しになってしまった。
メールのやり取りでも、色んな事を書いていたが、
自分の伴侶になる人の事を書き込むのが、
恥ずかしいのか結婚を決意してより連絡があった。
中国より娘の婿になる人を見に帰った。
娘からどんな人なのかと色々と聞いてたが、
会えば分かるからと中々話さなかった。
妻よりは会えば分かるけど、とにかく肥えた人だと、
その肥えている表現を、いつも連れて来る前に、
ご飯を炊くんだけど、どんぶりでお代わりと、
そして、3杯も食べるとご飯も無くなってしまう。
そんな人と結婚して、うまくやって行けれるのか?
聞いたが、ご飯なんて安いものだから問題ないと言う。
そして、妻に何だか文句を言っていた。
また、苗字を聞いたり、家を聞いたりしているうち、
偶然にもその彼の、ご両親を知っていた。
楽しみに待っていると、車の音がしてホープが、
吼えると同時に、長女から「お父さん!来たよ!」と、
座敷の方に座って頂きますからねと妻も促す。
私は彼より早く座敷に行く為、小走りに走った。
廊下と座敷との3センチほどの敷居につまづき、
座敷に手を突いて倒れ込むように転んだ。
娘は「お父さん!何を遊んでるの!」と私を急かすが、
余り慣れてない家の作りに肘を、摩りながら、
結婚相手入って来る時「そこ気をつけて下さい」と、
敷居を指差し注意すると「知ってますから大丈夫です」と
頭を下げた。
結構、毎日のように来ているようで、嫉妬心が湧いた。
妻が座布団を差し出したが、その上には座らなかった。
色々な質問を、私の方からしたが、結婚に関しては、
中々切り出す事が、出来ずに困っていると、
娘が入ってきて「何処まで話が進んだ~」と聞いていた。
お父さんからは「仕事は何をしている?楽しいか?」
その他は「車は何に乗ってるとかガソリン代は?」とか、
「朝はすっきり起きれるか?正座して足が痺れないか」
「それから・・・」と言って、「父さん・・・」と、
長女は「お母さ~ん」と妻を呼びに行った。
その暫しの間にも「娘と一緒にいて楽しいですか?」など、
聞いていると、妻がやってきて、「今日は結婚の事で、
折角来ているのですから、その話をしてほしいのです」と。
私は、「一番大事な事ばかり聞いていますよ」と言うと、
どうしてなのかと言うような顔で私を見た。
「仕事が面白いか、車に金を掛けすぎてないか?や、
朝はすっきり起きれる事は一番重要だからね」と言うと、
妻から彼に「ごめんなさいね、内の人は、ちょっと、
変わってますから」などと、言っているので、
「私達二人にしてくれないか?」と、娘達を追い出した。
私は「あなたのご両親は偶然にも知っています」と言い、
続けて「娘をどうしたいと思っているの?」と聞くと、
言葉を見失ったように黙ってしまった。
私が「妻と娘を呼んできて下さい」と言い、彼は
立ち上がったものの、巨体で正座をしていた為、
痺れが切れたらしく、這う様にして座敷を出た。
中国では私も、椅子の生活なので、痺れた。
彼が呼びに言っている間に、足を投げ出したり、
屈伸運動をしたりしていた。
「家族と私」その13へつづく
「家族と私」その13
--------13--------
「娘と結婚したいのですか?」と聞くと「ハイ!」と、
「いつ結婚式を挙げるんですか?」と再度聞くと、
「お父さんが中国から帰ってこれる日にしようと、
二人で話しているのですが・・・。」と言った。
「よし!来年の中国春節に帰ってくるから、その時で、
予約を取ったほうが良いよ」と言うと「そうですね~」と、
なんだか拍子抜けした様子だった。
そして、その中国春節で日本へ帰国し、バタバタの日々。
いよいよ長女の結婚式の当日になってしまった。
娘から「お父さん!お母さん!長い間・・・」と、
言い出し困ってしまった。
私は「まだいつでも会えるんだから」と、
そして、まだ言っているので身の置き所に困った。
妻に、「お前もこのように言ったの?」と聞くと、
私は、家を飛び出して、あなたの所へ来たので、
親不孝者で後悔してますなんて言われて、
薮蛇だったと思ったりもした。
妻は「折角覚えたのですから聞いてあげたら」などと、
「そんなもの覚える必要はなかったのに」と、
言ったものの、「いつでも帰って来いよ!」と、
言うと、妻は「どんな事があっても我慢して、
帰ってくるなよ!と言うのが普通でしょう?」と・・。
私も「結婚してからでも、気兼ねなく帰って来なさい」
と、そのような意味で話しているのに、どうして、
話しが飛躍してしまうのかとも思った。
結婚式場は仏前結婚だった。
仏前結婚と聞いていたので、すぐに思った事は、
正座など出来ないが困った事になったと思った。
しかし、会場に着くと、テーブルや椅子が設置してあり、
今は相当変わったんだな~などと思い、ホッとした。
長男の時は、教会で結婚式を行った。
賛美歌を歌い、アメリカ人牧師の日本語の、
イントネーションが、まだ耳に残っていた。
それから比べると、仏前結婚は、葬儀をしているような、
感じだったが、段々と式が進むにつれ、
厳粛な感じで身が引き締まった。
結婚披露宴会場に車を置いていた人もあるので、
大型バスで移動したり、自分の車で移動したりして、
結婚披露宴会場に着いた。
私は、親戚関係に来て頂いたお礼を回っていた。
そして、娘婿の親戚や友人にも挨拶して回った。
しかし、誰が誰だか分からず、全く関係のない、
人にまで、挨拶に行っていたので、妻から、
「どんと構えて座っていて下さい!」と注意を受けた。
落ち着かない時間が過ぎた。長男の時には、
感じなかった感覚で、何とも変な感じだった。
いよいよ披露宴も始まり、披露宴も終盤に・・。
父親が長女の花嫁をエスコートして、花婿に、
手渡す場面になったが、リハーサルもなかったせいか、
私は花嫁の手を持ち、拍手の中を歩いた。
司会者から、「お父さん!おとうさん!」と、
呼ぶ声がしたが、音楽に合わせて花嫁の手を引っ張り、
いつまでも歩いていた。
会場の進行補助の女性が小走りに来て、
「お父様、花嫁の手を離されて花婿に手渡して下さい」
などと、言われてから、やっと自分の置かれている状況を、
把握する事ができた。
司会者がマイクで「お父様が、いつまでも花嫁の手を、
離したくない気持ちよく分かりますね」とフォロー。
私は、呆然と立っている花婿を、手招きして、
やってきた花婿に「この手を離すんじゃないぞ!」と、
言って手渡すと、会場から拍手が舞い起こった。
妻からは、「もう恥ずかしいですよ」と言い、更に、
「あのまま黙っていれば花婿の席に座っていたのでは?」
実際に「お父さん!早く早く」と、進行役の人から、
いきなり「娘の手を引いていって下さい」などと、
言われた時には、心が舞い上がったのも事実だった。
「家族と私」その14へつづく
「家族と私」その14
--------14--------
式が終わり、長女や娘婿の友人から、
「すごく楽しかったですよ」とか、
「いいノリで良かったですよ」などと握手・・・。
長女からも「一時は、どうなるかと思った」と、
「父さんは、いつもの父さんと違ったね」などとも、
言われながら、取りあえずは無事に終了した。
次男から「父さん!僕っときには、
あんな恥ずかしい事せんどいてよ!」と生意気。
その次男から中国の私の元へ「結婚するから」と、
いきなりメールが入ってきた。
私は「それは良かった」と送信したら、
「もっと他に適当な言葉がなかったの」と、
自分のメールの事を棚に上げていた。
結婚式の日取りが決まってから、
次男に「先方のご両親と会って話しをしたい」と、
メールを打ったが、「その当日でいいよ」と、
素っ気無いメールが来たので悲しかった。
そして、「結婚式の当日に、始めまして!なんて、
挨拶をするなんておかしいのでは・・」と、
更に「いくら非常識なお父さんでも物の良し悪しは、
分かるぞ!」などとタイプしメールした。
いつの間にか、「妻と長女・長男・次男、
相手のご両親と長女で会食会を済ませたから、
やっぱり父さんは、結婚式の当日で良いよ」などと
馬鹿げたメールを送りつけて来た。
しかし、どうしても納得がいかない、お父さんを、
一生の笑い者にするつもりですかと日程を調整して、
会う事になったが、結局、当日になり、相手の、
父親が来れないとの連絡が入った。
私は、一人娘を取られるようで、「私と会いたく、
ないのだろうか?」とも思ってみたりした。
仕方なしに母親に会った。娘とは2回ほど、既に
会っていたので「元気?」と言うと、
「はい!」と答えてくれた。
相手の父親に会えなかったが、母親が携帯電話で、
撮影した父親の写真を見せてくれた。
残念な思いもしたが、また中国へ戻った。
次男の結婚式は、中国の春節ではなかったが、
自分の子供の晴れ舞台であるので飛んでいった。
次男の結婚式は、教会で行った。
長女の時と違い、結構落ち着いていた。
しかし、花嫁の父ばかり気になり目で追っていた。
なぜならば、一人娘で、兄弟姉妹が居ないので、
その心境を思うにつけ、心が痛んだからだった。
花嫁の腕を取りバージンロードを歩く父親の、
姿を見ていると、私の長女の時の事が浮かんだ。
花嫁のウェーディングドレスの後の丈が長く、
子供が2人で持ちながら、あとを歩いていた。
一番前に座っていた私と父親との目が合ったが、
緊張している雰囲気が伝わってきた。
披露宴も終盤になり、皆様にお礼の挨拶を申し上げたが、
花嫁の父親は、花嫁の父としての挨拶をしなかった。
妻や娘から、「花嫁のお父さんは男らしいですね」と、
私に嫌味を言っていた。私も何を言っているのか、
分かったので何も言わなかった。
長女が結婚する時に、花嫁の父として、
話しをさせてほしいお願いして、実際に長々と、
スピーチをしてしまったからである。
こうして私の長女・長男・次男の結婚式も、
無事終了という運びになりました。
長男には5歳の女の子が、長女には間もなく、
1歳になる女の子がいる。
「家族と私」その15へつづく
「家族と私」その15
--------15--------
子供が生まれたら生まれたで、その成長振りを、
写真に撮りメールで、送ってくれた。
また、「ID・PASS」の掲示板に貼り付けては、
私を楽ませてくれた。
しかし、私には悩み事があった。
私の実父は13年前に他界していたが、
私の義母(実母と同じ感覚)は一人でいる。
私は長男であり、この中国から日本へ帰国するならば、
現在、妻が住む家は、次男が継ぐ事になっていた。
そのような将来の話になると困り果てた。
自分達の老後の生活にも関係してくるゆえに、
慎重になるが、仕事とは別な慎重さであった。
特に妻との話し合いには特に慎重さが増した。
母一人で住む家に妻に行って欲しいためでもあった。
命令口調も言えないし、懇願する勇気も無かった。
まずは母の元へ行った。140kmの道程であった。
3年ぶりに訪れる実家で、夕飯には早かったが、
近くのスーパーで、買い物をした。
だが、買い物などしたこと無い私にとって、
その時間が楽しくも感じた。
一晩泊まるのに9千円もの刺身や出来合いの、
惣菜類を買ったものの、私を待っていた母は、
私が、家に着くなり「こんな沢山誰が食べるの?」と、
言いながら、早速お湯を沸かしていた。
そして刺身類などは冷蔵庫にしまった。
弟を電話で呼び、妹の旦那も呼んだが、
妹が既におかずを用意しており、母の家に着くなり、
少し話をして帰って行った。
弟も来たが、ビールを飲むばかりで、
買って来たものは減らなかった。
弟は相変わらず取り留めのない事を話しては、
自分で受けていた。自分で話し、自分で、
面白いのか自分の言葉に笑い声を上げていた。
私は重要な用事で来ているとも思いながらも、
半分は弟の取り留めない言葉に耳を傾け、
半分は母の行動を目で追っていた。
私は3年間実家へは来なかったが、長女の結婚式で、
会っていたが、親戚や多くの人の中で、
注意してみなかった。
今回も次男の結婚式で、母も参加してくれたが、
あまり気に留めなかった。だが、実家で普段着の、
母の姿や動きを見るにつけ、年老いたな~と実感した。
父が他界して既に14年が過ぎた。父は血圧が高く
いつも寝ていたように思う。
父が倒れたのが58歳だった。それから亡くなるまでの、
16年間病院を出たり入ったりし、その間、
母の苦労は、いかばかりだったか?
父の最期のとき、医師は延命措置を取りますか?と、
母は、お願いしますと言ったが、私は、もうこれだけ、
父の為に尽くしたのだから良いよと、
医師に延命措置を断った。
延命と言っても5時間か6時間であろう。
もう既に16年間苦しんできたのである。
その後、私は父の死を見届けた。母は育ての母であり、
世間では継母ともいうが、その感情は全くなかった。
一生懸命生きてきた母の後姿や肩をすぼめた姿に
自分の家族の事だけを考え生きてきた、
自分が恥ずかしかった。
私の横では相変わらず弟がいろいろと話をしていた。
母は私が買って来た刺身を綺麗に皿に盛って
テーブルの上において更にビールの栓を抜くべく
「栓抜きをどこに置いたかな~」と言いながら、
茶箪笥の引き出しの中をまさぐっていた。
弟は缶ビールをそのまま口に運んでいたが、母は私が、
瓶ビールの方が好きな事を覚えているようであった。
栓抜きが見つかり、栓を抜くが、2回3回とビール瓶の
口に持って行きカシャカシャ音がするだけで、
ビールの栓は、なかなか開かなかった。
「家族と私」その16へつづく
「家族と私」その16
--------16--------
母は、「普段は私一人だからビールの栓を、
抜くこともないな~」と、言いながらやっと、
「よっこいしょっと!」と言いながら椅子に座った。
そして、弟の話を制止するように「今日はまた何か、
大事な話ですか」と、私に切り出した。
私は、「次男が結婚して、これで3人の子供達は、
順調に結婚した」と語ると、母も「そうだね~」と、
相槌を打って、「あなたの所が、一番順調片付いているね」
と、頷きながら親戚の例を挙げ、活き活きと話し出した。
弟は、母に、「そんな事どうでもええやん!」と
「今兄貴に話しとるさかいに、ちょっと黙っといてんか」
などと話すものだから、実家の近くに住む弟との会話に、
半ば、羨む思いをも感じた。
母は、弟に、「少し黙ってなさいな」と、
「お兄ちゃんは、久しぶりに帰って来たんやのに、
あんたの話は、もうええ!」とすこし、
苛立つ思いで話した。
私は、何から切り出してよいか母の元へ来る道程に、
いろいろと考えてはきたのではあるが、いざとなると、
何から話してよいか?一瞬考えてより話し出した。
母は何かを期待するような表情で私の顔を見入った。
あなた「髪の毛どうしてそんな茶色や金髪に染めているの?」
と聞かれ「今流行ってるんですよ」というと、
「三人目が結婚する年なのに、そんな子供より派手なのでは?」
と、私は、今まで考えていた言葉を一瞬にして見失った。
今日来たのは、妻の事についてでもあり母にも大きく、
関わって来る事柄であったが、突然髪の毛の事を、
切り出され、出端をくじかれてしまった。
この頃には、弟も私が何を言い出すのかと固唾を呑んで、
聞いているようであった。私は、刺身の一切れ箸で、
つまんで、わさびをたっぶりつけ、口へ運んだ。
突然、「弟が兄貴!何でも話したらええやん!俺が、
おってあかんのやったら、出とってもええで~」と、
関西訛りの口調で話す。
私は、「いやっ!お前にも聞いておいて貰ったほうがいい」
と、言いながら、再度話し出した。
実は、次男が結婚したのは、お袋も結婚式に参列したので、
分かっていることだが、私は、次男たちが、
妻と一緒に、住むものばかりと思っていた。
しかし、どうも妻と嫁が、しっくりこないらしく、
外にアパートを借りて住むと言い出し、すでに、
アパートの手続きも済んだとか。
次男は嫁の言いなりで、何も話せないでいるようだ。
話すのが怖いようにもみえる。
私は中国で好き勝手な事をして、妻をほったらかしていて、
こんな事は言いにくいのだが、気の毒でならない。
それで、昨夜は次男と妻に、はっきり伝えたことがある。
その内容について協力して頂きたいと思い今日来たと話した。
弟は大体分かってきたが、妹を呼んで、俺達家族で
話した方が良いのではないかと、私に言うが、
母が口を挟んだ。
すでに、旦那とともに食事をしている最中だから、
あとから母さんが話しておくと、私に早くその内容を、
話しなさいと、急かしているようでもあった。
2年の年月で、今の家を、次男の名義に変更する。
妻は、その2年の間に次男の妻や、次男と話し合い、
家に戻るよう説得し、妻自身も、身の回りの整理や、
自分の心の整理をするようにと伝えた。
2年のその前になるのか?その後になるのか?
この家に入り、お袋と一緒に住む。
勿論、明け渡した「家」へは、いつでも妻が遊びに行けれる、
環境を作っておく事も必要だが、まずは、お袋や皆の意見を、
聞きたいと今日は来たのであると話した。
その話が終わらないうちに、弟が口を挟んだ。
「じゃ兄貴は、お袋の面倒を、見てくれると言う事?」
俺の女房も、いつもその事を、口に出していた。
「兄貴は親父が亡くなった13年前の、葬儀の中でこの家に、
入るって、参列した人達に喪主の話で話しとった」と語った。
「それが兄貴は家に入るどころか中国へ行ってしまった。」
「家族と私」その17へつづく
「家族と私」その17
--------17--------
私の実家で弟が話していた。
その兄貴が日本に居ない間、残された兄弟で、
何度喧嘩した事か、兄貴は知らへんやろ?
妹の旦那も「お兄さんが、ハッキリして中国へ、
行かなかったから、財産の問題でももめた。」と、
俺達の間が変になったのも兄貴がハッキリしないからや。
お袋が話の中へ入った。弟に「あなあたは黙ってなさい」
何かと言うと、訳の分からない事を、言ってちょっとは、
黙ってなさい!と・・・。
母は、私の方は、いつでも良いよ。○○さんには、明日からでも、
良いから早く来て下さい。って、伝えておいて下さい。
妻の心配は「こんな長い間、お母さんの所へ来ないで、
今更来なくても良いよって、言われたらどうしよう?」と、
不安がっていた事を母に告げた。
母は、「そんな事は何も考えなくて、足も弱ってきたから、
来てもらうだけで、もう十分と伝えて下さい」と付け加えた。
私は母と血がつながってないが、弟は母が産んだ実の子で、
あり本来なら弟がこの家に入るのが自然だった。
そのような弟の気持ちを思うと、何も言えなかった。
弟は苦労して美容師を目指し勉強して、いくつもの店で修行し、
自分の店を出し土地を購入し店舗と住宅を建てた。
私といえば、プレタポルテの修行後、デザイナーを夢みた。
しかし、今まで半ば軽蔑していた縫製工場を経営していた。
25歳だったが、この時に長女もできた。
25歳から40歳までの好景気も、1991年末に起こったバブル崩壊の
2年後より段々とかげりが見えはじめ、崩壊の波が押し寄せて、
来るのが肌で感じられた。
工場を大幅縮小今で言うリストラを行い、妻に工場を任せ
以前より話の有った中国の仕事を承諾した。
その中国へ行く8ヶ月前に父を見送り、中学2年と高校1年、
そして高校3年の3人の子供を残し中国へ向かった。
バブル崩壊で私の友人たちも財産を失った者や、
一瞬にして2億の借金を背負った者もいた。
多くの悲惨な状況をも目にしたが、友人などは負債が負債を、
呼び、追いやられ、悲惨な最期を迎えた者までいた。
私が中国へ行く気になったのは、そのような背景もあってのこと。
自分が培ってきた腕が、どこまで通用するのか、
試したい気持ちもあった。
しかし、そんな自分を飾り立ててもどうなるものでもない。
そして私が中国へ来て5年を過ぎた頃、私が妻に託した工場の、
お客様が倒産し、当然のごとく、1ヵ月半の加工費が入らず、
中国にいる私は工場の閉鎖を通達した。
妻は、もう少し頑張って仕事をして行きたいと懇願もしたが、
これ以上の負債は命取りになると説得仕方なく応じてくれた。
すべて清算した。私が思っていたより負債額は少なかった。
早く決心して、工場を閉鎖したからだとも思った。
25歳で工場を経営し、気付いてみたら何も残っていなかった。
残ったのは思い出だけのようにも思えてならなかった。
そして、妻が必死の思いで建てた家も、あと4年ほどで、
私から子供の名義に替えようとしている。
妻はそんなにあわてて、あなたから子供に
名義を変えなくてもいいのではありませんか?
とは言うけれど・・・。
三番目の次男が結婚する前に妻から来たメールには、
○○ちゃんともうまくやってるから、私は黙ってみてます。
しかし、その喜びも束の間次男と嫁は結婚式を挙げた後、
嫁の言いなりで外に出てしまった。
やはり、名義は次男に変更し、彼らの幸せを願うのが、
一番良いと思う。そして妻の幸せをも考えるとその方が、
得策なのではと、私が判断した事である。
そして、母一人で、ほったらかしていた実家に妻を行かせて、
ゆくゆくは、実家に私も入ろうとしている。
私は今まで、何でも自分で判断し決定して、それを家族に、
押し付けていたように思い「兄貴は勝手過ぎる」と、
弟が文句を言いたいその気持ちがよく分かった。
「家族と私」その最終回へつづく
「家族と私」最終回
40-loveさんから「バトンリレー」が、
回って来ました。彼女からバトンされた、
テーマは、「家族と私」でした。
私のブログ「上海発!画像の更新!」は、
旅行などの画像を更新するためのみ、
記事を書いていますが、今回初めてお受けしました。
--------最終回--------
「家族と私」もこの章で最終回です。
私の実家へもそうであるが、妻の島根県の実家へ行く事は、
中国へ出てより全く実現しなかった。
島根の義父は酒が好きで、私も中国へ出るまでは義父と、
よく酒を飲んだ。晩年義父は葉巻の葉の栽培に追われ、
お盆などに妻の実家へ着くなり、葉の乾燥作業を、
手伝ったものだった。
温厚ないつも笑顔の絶やさない義父であった。
その娘である私の妻が自分の嫁との何かのトラブルで、
一人取り残されてしまった。
私というと母の元へ妻と一緒に住むことを相談に来ている。
過去、18年の間に何度も、実家に入るように母より言われてきた。
しかし、色んな事情で、それを妻が断ってきた。
「子供と共に住みたい」その母の思いと妻の思いとが、
オーバーラップして脳裏に浮かんだ。
幸せに、息子とその嫁と生活をしていくという
その妻の思いは、一瞬のうちに打ち砕かれて、
大きな亀裂が入り、思い悩み苦しみ、
以前44キロあった体重が39キロまでに痩せてしまった。
我が家の問題も仕事中は忘れており、忘れられる。
移動中の車の中で現れては消えまた現れては消えるが、
このように我に返ると、妻のことが不憫でならなく思う。
我が家の問題も、何とか解決しなければならないとは、
思うが、所詮、焦ってみてもどうなるものでもない。
覆水盆に帰らずというこの世間一般の慣わしは、
夫婦の事に対して語った諺のようであるが、
我が家の人間関係もまた、姑と嫁の人間関係である。
しかし、まだ盆を傾けて水をこぼした訳でもない。
まだ姑と嫁の人間関係が始まったばかりで、
それにまつわる私も、心悩ます問題に直面し
「家族と私」のエッセイに織り込んだ。
姑の夫である私は、嫁の夫である次男が、不憫でならない。
だが、その中にあり妻の心の内を察すると私も辛い。
どこの家庭でも通り抜けなければならない問題でもある。
これだけは、避けては通れないので、どんな方法が、
この場合に適しているのかも思い悩んだりもした。
そして、2年後には新たな姑と嫁人間関係が始まる。
つまりは、私の母と私の妻の間に入らなければならない。
全てを捨て、私の母の元に身を寄せよるよう話したが、
私の一存によって、妻の一生を左右しようとしている。
2010年5月14日更新
この記事を書いてより既に5年が過ぎてしまった。
今まだ、私の妻は自分で購入した家に住んで、
私の母の所へは行ってはいない。
次男は大分前に結婚してより嫁と共に外に住み出し、
その後は家には寄りつかないようである。
何処の家庭でもそうであるように、次男の嫁も、
故意に寄り着かないようにしているのではなく、
自然に、そのようになってしまっているようである。
そんな頃、7年ほど出来なかった子供に恵まれたようで、
余計に嫁は寄り付かなくなってしまっている様である。
100年に一度といわれる不況が、昨年10月より押し寄せ、
リストラの嵐が吹き荒れているようである。
中国にいる私の足元にも、不況が微笑みかけ、
私もリストラの対象になってしまった。
リストラになってしまえば、次の雇用先を探すが、
そんな簡単に雇用先が見つかるはずもなかった。
半年以上考えて出た答えは、住宅ローンを払い続ける事が、
出来ないと次男に話し、この家に入ってもらい、私達は、
田舎へ帰ろうとまで覚悟をしたが、名義変更のみは、
法律上出来ない事が分かり、次男に全てを託しても、
次男の家計を苦しめる事になるだろうと考えていた。
2年後3年後10年後の事を考えていた。
妻の話では、家を購入した時には、次男が結婚してからでも、
住宅ローンを支払って、迷惑をかける事はないとの事だったが、
結婚してしまえば、妻の考えているような簡単には行かない。
そんな思い通りに行かず、このまま住宅ローンを払い続けても、
先々、必ず行き詰ってしまい競売に掛けられてしまう。
既に次男は所帯を持ち、2010年4月に子供も授かった。
そんな、次男夫婦に不憫な思いはさせたくはなかった。
競売になれば、世間には直ぐに広まる所となり、
任意売却の方法を考えるようになり出していた。
だが任意売却で家を売却したおしても負債が残る。
その負債のために、老年時代でも支払い続けなければならない。
自分の住む所が無くなった上に無駄な支払いをせねばならず、
どのように考えても払っていけそうに無いと次男を呼んだ。
家の売却について話した。そして残った負債も長期で、
支払って行く事が可能かどうかを相談した。
不動産屋さんや司法書士の先生には、次男が購入する事を、
伝えた所、ローンが残っている場合には親子間の、
住宅売却は基本的に出来ないといわれた。
しかし、抜け道がある事が分かり、一度第三者の名義にし、
その後次男に名義を移すというものだった。
次男も承諾して家へ帰って行ったが、次の日、嫁と相談したが、
購入する事には反対されたので、話しは降り出しに戻った。
色々と考えた末に、やはり任意売却の事を考えて、
残った負債は、支払って行くことになると老後が悲惨と、
何とか、実家の土地を抵当に入れてでも相殺しようとしていた。
現在、まだ実行には移してはいない。なぜならば、
妻の心中を思うと、実行には移す事は出来ないでいる。
辛き日々が続くが、夫婦だからこそ分かりあえる事もある。
だが、それはあまりにも、私のエゴなのではないだろうか。
この世に生まれた時が、プロローグ・・・・。
そして、よちよち歩き出したときが人生第1章・・・。
母の、乳房を離れるときが人生第2章・・・・。
言葉が話せるようになった時が第3章・・・・。
人生なんて長くもあるが、振り返ってみると実に短いと、
実感する。あの時は、あのようにすれば良かった。
またあの時は、このようにすればと・・・。
妻は、いつも私の後から付いて来てくれた。
結婚してから、妻には苦労の掛けっぱなしだった。
そして、16年前には妻の反対を押し切って中国へ出てきた。
その間、3人の子供を育てるために精神的に苦労を掛けた。
3人の子供達も伸び伸び育ってくれた。
また3人の子供達も、それぞれの人生に旅たってくれた。
あとは、3つの人生を見守るだけである。
私自身、このように中国で子供のように伸び伸びと、
人生を送れるのも、妻のお陰だ。
今でも、妻の行為に甘えてしまっている私。
何も文句を言わずに、ここまで有難う!
今まで言葉に出して言えなかったけど、
私が倒れて、のたれ死にするその、死ぬ時に、
「おまえのお陰で良い人生だった」と妻に告げたい。
このフレーズは、歌にも歌われたが好きなフレーズだ。
「家族と私」は、この連載は、フリーページへ更新致します。
そして、2010年5月14日更新しました。
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