Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

蘇州旅情3



「蘇州旅情35」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

30.jpg

寒山寺の大雄宝殿の釈迦如来像を、
撮影しようとしたところ制止された。

大雄宝殿の中は撮影禁止とのことで、
外からなら良いかと聞いたところ、
外での撮影は構いませんよと言われた。

外に出る前に参拝の親子を撮影し、
敷居を、またいで外へ出た。

外から望遠レンズに交換しMFに切り替え、
ISO値を上げ、連写をした写真の一枚が、
上の写真であるが、やはり手ブレしている。

再度、大雄宝殿の敷居を越え中に入った。
レンズを交換しカメラをバッグの中へ入れて、
見上げるように釈迦如来像を見た。

32.jpg

係りの中年女性が近づいて来て、あなた撮影は、
禁止ですよって言ったのに撮影していましたねと。

私よりは、外からの撮影は問題ないとの事で、
中での撮影はしておりませんよと話すと、
お釈迦様の撮影は禁止になっていますので、
外からでも撮影は困りますと、
中国人が近くで釈迦像を撮影していても、
注意をするわけでもなく私に話していた。

私は中年の彼女を手招きして外に出た。
バッグからカメラを出し釈迦像を撮影した。

望遠レンズから広角に代えてあったので、
撮影した画像を液晶パネルで再生して見せた。

広角レンズなので、私も驚くほど釈迦像が、
小さく写っていたが、係りの女性は不服そうに、
基本的に撮影は禁止ですからと中に入った。

相変わらず中ではフラッシュが焚かれていた。

33.jpg




「蘇州旅情36」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

32.jpg

寒山寺の大雄宝殿から少し行くと、
五重の仏塔、普明宝塔を見上げる。

寒山寺が出来た当時は妙利普明塔院と、
呼ばれており、また北宋の時代には、
七重の仏塔が建っていた。

北宋(10世紀頃)の七重の宝塔は、
元代の末期(14世紀頃)戦火で焼失。

それ以後寒山寺は何度も戦火に見舞われた。
約700年の長きに渡り仏塔の再建はなかった。

20世紀も終わりが来た頃、寒山寺普明宝塔の、
再建事業を始め4年の歳月を掛けた後、
五重の宝塔が建てられ今日に至る。

33.jpg

普明宝塔の中には、東西南北方向を向いて、
座した普明如来の仏像が静かに微笑む。

普明宝塔は普明如来と共に、寒山寺を、
象徴するに値する存在となっている。

普明塔院の南側に法堂が建てられているが、
寒山寺を訪れる高僧が仏法を論ずる場所である。

また僧侶の教学水準や文化的知識を高めるため、
各地から多くの書籍を買い整え、パソコンもある。

ネットができるかどうかは分からないが、
寒山寺の文化的水準は高くなったようである。

寒山寺の僧侶は36人で昔に比べれば少ないが、
近隣の寺から比べれば、僧侶の数は多い方である。

34.jpg




「蘇州旅情37」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

34.jpg

寒山寺の五重塔普明塔院の階段を上り、
上から周辺の景色を見た。

蘇州の最北端に位置する北寺塔の、
階段の幅に比べると半分ほどの狭さ。

狭いため人と人がすれ違う事が出来ずに、
人が階段を降りるときや登るときに、
上下を確認して待っていなければならない。

その狭さは上に行くに従って狭さを増した。
何とか階段を下りて外に出て普明塔院と、
同じ敷地内にブロンズの獅子像があり撮影した。

35.jpg

子供獅子が母獅子を見上げるかのように、
子供をあやしている母獅子像と手まりを置く像が、
ブロンズで出来ていること自体珍しいが、
獅子のリアルな造りに新鮮ささえ感じた。

今まで見てきた獅子像は石で出来ているものが、
多く、また姿も厳格な感じがしたが写真の、
ブロンズ獅子はゆったりとした感じが伺える。

法堂へ進み右方向へ進んで行くと回廊に、
造られたガラス張りの中に、僧侶たちが、
太い筆で書いた詩が飾られていると思って、
眺めていたが、回廊には歴代の有名な書道家の、
書跡を彫った石が入っているとの事だった。

36.jpg




「蘇州旅情38」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

37.jpg

回廊を右に曲がると張継が詠んだ詩が見える。
張継は唐の詩人で、寒山寺に詩を贈った。

その詩のタイトルは楓橋夜泊と言い楓橋は、
蘇州の楓江にかけられた橋のことをさす。

張継は官僚政治家になる前、科挙の試験に落第し、
落胆のあまり船の旅に出て、楓橋の船着場の船の中で、
夜を明かしたが、その折に詠んだのがこの詩である。

「楓橋夜泊」の詩
月落烏啼霜満天 江楓漁火對愁眠 
姑蘇城外寒山寺 夜半鐘声至客船 

「楓橋夜泊」の訳(落第した心境)
霜が夜空に満ち月は隠れ鳥が啼いている。
紅葉の川辺の楓が漁火で照らされ眠れない。
蘇州郊外に建つ寒山寺から時を告げる鐘の音が、
客船にまで聞こえてくる。

38.jpg

3年後、張継は科挙試験に合格し官僚になるが、
この時は、科挙試験に落第した心境を詩っている。

忍び寄る冬の中で詠んだ詩であるが、
蘇州の川に浮かぶ船で一夜を過ごす彼の、
やるせない思いを、霧が空を覆い月の灯りもなく、
鳥(カラス)が虚しく啼くと自分の心境を、
上手く状況を反映させた詩である。

西条八十の詩に蘇州夜曲があるが、よく似ている。
季節は桜咲く春と秋口の肌寒い季節の違いあり。

「君がみ胸に抱かれて聞くは 夢の船唄鳥の唄
水の蘇州の花散る春を 惜しむか柳がすすりなく

花を浮かべて流れる水の 明日の行方は知らねども
今宵映した二人の姿 消えてくれるないつまでも

髪にかざろか口づけしよか 君が手折りし桃の花
涙ぐむよなおぼろの月に 鐘が鳴ります寒山寺」

(ネット上では歌詞をコピーペーストしては問題あり)

39.jpg




「蘇州旅情39」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

41.jpg

寒山寺を出てより地図を見ながら、
西園へ向かって歩きだした。

タクシーに乗った方が早いのだが、
のんびりと西園向け歩くことにした。

寒山寺から西園までは1キロもなく、
周りの風景を眺めながら歩いていると、
西園へ着き、入場券を購入し中に入った。

一人旅の場合には集合時間は全く心配しない。
だが、予定の目的地を消化できない事も、
多く発生するが、致し方ない事でもある。

上の写真は西園の鼓楼であるが、中には、
太鼓が保管してあり普段は鍵が掛かっている。

鼓楼の向かい側には、鐘楼があり、
古き時代より、時を告げるために打って来た。

42.jpg

上の写真は、西園禅宗の寺院の大雄宝殿前の、
香炉であり、中に入ると、いきなり撮影禁止と、
係りの人が歩み寄ってきた。

私は、仕方なく裏側へ回って直ぐにシャッターを、
切ったものの、私の横には先ほどの係りの人が、
ニッコリ笑って、撮影は駄目ですよと言われた。

写真は観音菩薩像であるが、色鮮やかな塗料で、
塗られており、暫しの間眺めていた。
この観音像のマントはベージュ色だが場所によっては、
真っ赤なマントを羽織らせている寺もある。

写真では、慌ててシャッターを切ったために、
観音の足元の動物が見えないが、龍の頭に、
魚の体をもつ「鰲」という動物である。

「鰲」の説明は、またの機会に説明しようと思う。

43.jpg




「蘇州旅情40」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

44.jpg

西園を出るときに、振り返った時に、
屋根の魔除けたちが目に飛び込んで来て、
レンズを交換して撮影した写真。

中国の宮殿や寺院の建物の屋根には、
数種類の動物の形をした装飾施されている。

通常は走獣などと呼ばれているが、
原型となった魔除けの装飾は昔から存在している。

大棟の両端部には、大きな口の龍が置かれている。
日本の鯱のように火災から守ることのようである。

45.jpg

隅棟の先端には、獣が並んでいたりする場合も多い。
走獣の装飾をで先頭には霊鳥に乗る仙人の像や、
その後ろにつづき、色々な霊獣が並んでいる。

霊獣の置かれる順番は決められた順序があるようだ。
だが、寺院が建つ土地や宗派により順番が違う。

屋根の先端を保護する役割を担っていることに、
間違いはないが、意味合いについては不明。

屋根の上に並べて置かれている龍や獅子や麒麟など、
想像上の動物が一列に並んでいるのを見るのは楽しい。

46.jpg




「蘇州旅情41」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

1.jpg

西園を出て西園の前を流れる川に架かる橋を、
渡って広い道路へ出たが、次に向かう、
「留園」の位置を地図を見ながら確認していた。

気がつくと、オートバイの後に荷台を牽引した、
3台の三輪車が私の周りを取り巻いていた。

三輪車の事を中国では「サンルンche」と、
呼んでいるが、いわゆる輪タクなどと呼ぶ。

西園から留園まで2キロ足らずの道のりだが、
歩いて行こうと考えていたものの、2元(30円)で、
乗せて行ってくれると言う人の車に乗った。

乗り心地はお世辞にも良いとは言えなかったが、
便利な乗り物ではあると思った。しかし一般には、
初乗り4元なので私は3人の中で一番安い賃金に乗った。

だが、中国ではボッタクリも横行するから、一人旅の、
場合は、やはり中国語だけは話せると良いかも。

2.jpg

もう少し話していたいと思うほどに早くに留園へ、
着いたが、運転手には気の毒に思い3元を手渡した。

初乗り4元からすると、1元安いが、
私と交渉した賃金からすると1元多くなり、
笑顔で3元を受け取ってくれた。

留園の中に入ると、どこかで見たような風景に、
今まで見てきた拙政園と獅子園を併せたような、
そんな景色が目の前に広がっていた。

留園は蘇州の西にあり、拙政園と並び、
中国四大庭園のひとつに数えられ世界遺産である。

明代に西園と東園と造られ、その後西園は寺院に、
東園は園主の劉恕名の姓にちなんで劉園となった。

留園は清代に大改修が行われたが、蘇州の各名園の、
長所を取り入れられており私も何所かで見た庭園と、
思ったのも納得ができると思った。

3.jpg




「蘇州旅情42」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

4.jpg

今回の旅の重要な目的は世界遺産に指定の、
滄浪亭、獅子林、拙政園、留園の四大名園を、
見ることが最大の目的であった。

蘇州の四大名園は上記の四庭園だが、
中国の四大名園は、蘇州の拙政園と留園に、
北京の?和園と華北省の避暑山荘を呼ぶ。

留園は中国の国宝庭園で1997年に、
世界遺産に登録されている。

蘇州の四大名園の中で一番広いのは、
拙政園であるが、二番目に留園が続く。

5.jpg

留園の入口から回廊を進んで行くと、
それほど大きくない池に出る。

どこからともなく中国琵琶を奏でる音色に、
引かれ歩いて行くと草庵の中で、
当時の姿をした女性が琵琶を弾いていた。

彼女一人しか居なかったが、近くには、
二胡も置いてあり、ここで琵琶や二胡で、
演奏会が開かれるのだとも思った。

下の写真は太湖の石を築山にした近くの庵で、
留園の到る所に、庵が建てられており、
庭園の中で緑と築山と池の青さによく似合っている。

6.jpg




「蘇州旅情43」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

7.jpg

蘇州の庭園には東屋とか亭などと呼ぶ、
休憩場所が造られている。

日本でも森林公園やゴルフ場などで、
東屋と呼ばれる休憩所を見かける。

その東屋の天井から灯篭が吊下げられ、
旅ゆく人たちの心を和ませてくれる。

灯篭は主に人を迎え入れる応接間などや、
回廊の天井から吊下げられている。

イギリスよりの旅行客たちも灯篭を見ては、
ビューティフルを連発していた。

8.jpg

上の写真や下の写真の塀の上の姿を見ると、
龍を連想するのではと思うが如何だろうか。

塀の上に作られた龍の胴体のように見える。
龍と言えば、大蛇から想像されて作られたもので、
架空の動物であるが、日本にも浸透している。

横浜などの中華街で、龍を躍動的に操る祭りがある。
龍の胴体に何本もの棒をつけ、それを大勢の人が、
上手く操り、龍が宙を舞っているように見える。

そのような躍動感を感じさせる龍の背を、
回廊横の塀の上に模り庭園造りをしている。

3.jpg




「蘇州旅情44」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

1.jpg

留園の中を一人で自由気ままに、
観て回っていると、同じ所に戻ったり、
まだそんなに時間が経っていなくても、
出口に出たりして、一体何処をどのように、
観て回ったのかさえ分からなくなっていた。

15人前後で行動をしガイドが着いていたが、
やはりガイドと共に見て回った方が、
良いとも思ったが、自由に観て回った。

下の写真は池の対岸に建つ建物で明瑟楼と呼ぶ。

留園は徐泰時が明代に造園した個人庭園。
庭園の中ほどに造られた池や築山は殆ど、
明代に造られた当時のまま残されている。

2.jpg

明代や清朝と書いても西暦が分らないと思うが、
北宋は960年~1127年 南宋は1127年~1279年

元代は1271年~1368年 明代は1368年~1644年 
清朝は1644年~1912年 中華民国 中国

下の画像は徐泰時が留園を描いた絵である。

徐泰時の死後、留園である「東園」も、
荒廃の一途を辿ったが、清代末になり、
劉恕の手によって改築され、東園から劉園へ。

その後も時の流れと共に人から人へと、
持ち主が入れ替わり、庭園もそのたびに、
改築されたが自然は変わらぬまま人を和ませる。

3.jpg




「蘇州旅情45」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

5.jpg

留園の資料室を過ぎると土産物売り場へ着いた。
外の土産物店とは違い、売られている品数は、
さほど多くはなく、目についた絵皿に興味がいった。

土産物屋で多く売られているのは、刺繍や書画、
また掛け軸など、特に多いのは紹介DVDや本など。

大きな陶器の皿に生き物の絵が描かれていた。
鶏の絵やカエルから魚など色々な絵が描かれ、
展示されていたが、清朝時代の陶器も沢山陳列。

写真の白い器肌にコバルト一色で絵模様を、
描き出したもので、白い器面によくうつる。

店の人は、この器は清朝時代に絵付け職人が描き、
これほどの筆遣いのものは、中々ないですよと、
勧められたが、偽物が横行するなか写真だけにした。

6.jpg

土産物店を出ると出口で、少し離れた所に、
入口があったが、道に迷ったと言って、
再度留園の中へ入ってみると建物の位置関係が、
よく分かり苦笑いをしたものの、すぐに外へ出た。

留園から、さほど遠くない所にバス停があり、
留園から北寺塔まで行き、そこから15分ほどの、
私が宿泊しているホテルまで歩いて帰った。

時計を見ると、まだ4時前だったが、庭園周りには、
中途半端な時間であるし、虎丘へは翌日にして、
ホテルでシャワーを浴びた後、夕方の蘇州の街へ、
繰り出し、お酒と食事を十分に堪能した。

9.jpg




「蘇州旅情46」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

10.jpg

宿泊している北寺塔の近くのホテルから、
徒歩にて北寺塔バス停まで行った。

ホテルからバス停までの道のりは10分ほど、
その道のりの歩道には、個人個人の朝市が出ていた。

もぎたてのトウモロコシや果物、マントウから、
健康食品まで、色々な物が並べて売られていた。

朝市の様子を見ながらバス停まで歩いたが、
思いのほか早くに着いた感じがした。

11.jpg

蘇州游2線バスに乗り、最終駅の虎丘へ着いた。
私は虎丘の入口がバス停の近くにあると思い、
言われた方向へ歩いて行くと10分以上して、
呉中第一山と書かれたゲートへ着いた。

「東洋のピサの斜塔」と呼ばれる八角七層の、
「雲岩禅寺」がある「虎丘景区」の参道を歩いた。

中に入り少し行くと回廊の壁に虎丘の資料が、
ガラス張りの中に展示されていた。

12.jpg

更に歩いて行くと、広場があり女子中学生達が、
ダンスをレオタード姿で練習していた。

広場から虎丘への登り道になる所に「虎丘剱池」と、
彫られた中を赤く塗料で塗られた岩を撮影した。

この付近に呉王の遺体が葬られ、副葬品として、
剱が3000本埋められたと伝えられている。

呉王の墓の建設に携わった千人以上の人が皆殺しに、
その血で石を赤く染めたという言い伝えがある。

13.jpg




「蘇州旅情47」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

13.jpg

春秋時代に呉の最後の国王であった夫差が、
虎丘に埋葬されたが、埋葬された3日後に、
白虎が埋葬した周りに出没していた。

白虎の虎にちなんで、虎丘と呼ぶようになった。

下の写真には「入解脱門」と書かれたゲートを、
潜りしばらく進むと虎丘塔が見上げるほどに、
目の前に広がり、そのスケール圧倒される。  

解脱に入るとは、煩悩の縛られた苦痛から、
解放され、安らかで自由な悟りの境地に、
達することであるが、煩悩から離脱しても、
一瞬であり、次の煩悩が待ち受けている。

14.jpg

下の写真は虎丘塔で、別名「雲岩寺塔」と呼ぶ。
造りは八角形で七層になっている。

虎丘塔は、レンガで建てられたが風化が進み、
中国国務院や江蘇省また蘇州市の歴史建物の、
文化保存会では、宋代960年に建てられた塔の、
美観を損ねないように修復作業に当たっている。

虎丘塔の高さは48mほどあり15階建てビルの、
高さがあるが、地盤沈下のために、およそ、
400年程前から傾き始めたと説明にはある。

現在は禁止されているが、数年前までは、
2階までの見学は許可されていたという事だ。

だが、登る人数を制限して、一度に多くの人が、
登らないように係りの人がチェックしていた。

15.jpg




「蘇州旅情48」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

16.jpg

蘇州市内バスの游1線と游2線共に、
蘇州駅から直通で虎丘まで行ってくれる。

タクシーに乗る必要は、あまりないと思う。
私の場合は、バスを利用して土地感覚を、
養いたい思いで利用している。

確かにタクシーを利用した方が例え寝ていても、
確実に目的地まで行ってくれる。

だが、バスの次は何駅と言うアナウンスを、
聞きながら目的地までワクワク向かうのも、
また一人旅の醍醐味である。

17.jpg

上の写真は、虎丘塔に登ってみようと、
列を成し待っている旅行客たちである。

だが、登れるのは2階までで、それ以上は、
階段に鉄格子が置かれ鍵が掛けられている。

虎丘塔の近くまで寄ってみると新しいレンガや、
色褪せたレンガがまた時代を感じさせていた。

18.jpg

私は虎丘公園を横切るように、反対側の、
虎丘入場入口まで歩いて来た。

虎丘塔もかなり遠くに見えるが写真でわかる。
外に出てバス停まで来たもののバス路線の時刻表も、
設置してなく、車で来ている人に聞いてみた。

私の次の目的地である盤門風景地へは、どのバスに、
乗ればよいかと聞いたところ、バスを3度乗換して、
行かなければならないと言われ、それに従った。
19.jpg




「蘇州旅情49」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

10.jpg

当初の予定では虎丘から蘇州游2線バスで、
1回乗り継ぎ、目的地である盤門の予定だった。

だが、私が虎丘にて虎丘塔を見た後で、直ぐに、
引き返さず、反対方向へ歩いて行ったため、
バスの本数が少ない上、目的地へ行くには、
2回の乗り継ぎをしなければならなかった。

1.jpg

虎丘から游2線バスに乗り、游5線に乗り換えれば、
盤門テーマパークへ着く筈が、バス路線も、
分らず、地元の人の案内で、心配いらないと、
言われたものの、その人は先にバスを降りてしまい、
この先6つ目か7つ目のバス停を降りて、
そこで、もう一度聞いた方がいいよなどと言われ、
着くのかという心配から不安に変わった。

横に座っていたご婦人が、何処へ行きたいのと、
聞いて来たので、盤門を告げると、友人に聞いていた。

2.jpg

蘇州語で話をしているので詳細は分らないが、
あなた、モス少し行った所で降りてタクシーに、
乗った方が間違いないなどと言われた。

予定では虎丘から50分ほどで着く筈が、1時間半、
経ってもまだ目的地へ着かなかった。その時、
ここで降りてタクシーに乗りなさいと言われた。

タクシーに乗ってものの8分足らずで目的地へ、
着き、料金を支払うとき、何となくホッとして、
笑顔になっていたのか、運転手から、何か良い事が、
あったのですかと言われるほどであった。

3.jpg

y


「蘇州旅情50」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「蘇州庭園」の写真を公開しています。

4.jpg

当初(秦)蘇州城の城門は8か所にあったが、
現在に至っては写真の盤門一つのみ残る。

秦代に建てられた城壁は、三国時代に破壊され、
宋代になり改修されたが、元のモンゴル時代に、
破壊され、明代に入りすぐに再建されている。

破壊と再建を繰り返してきた盤門だが、
現在では、写真の城門一つだけになってしまった。

文化大革命時代にも城壁が破壊されたが、
戦争のない今、盤門三景の中心的存在になっている。

5.jpg

盤門三景は、古城遺跡公園としても知られる。
公園内は、きれいに整備されゴミ一つたりとも、
落ちてはいないほど、観光客の意識も向上。

盤門は陸門と水門に別れており、写真の錆びた、
鎖を巻きあげる道具は敵の侵入に対する工夫の、
一端であるが、古代の戦略が随所に見える。

下の写真は、ウェーディングドレス姿の花嫁の、
写真撮影であるが、中国では結婚式前に、
花嫁花婿の撮影にお金をかけている。

6.jpg



「BACK」へ 「中国写真ライフ」へ 「NEXT」へ


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: