Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

香港にての盗難に遭った出来事1


「5月/6月に並ぶ商品は注意して買うべき」

「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こった
ペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。

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中国の作業員は春節に帰省すると友人達から良い待遇の話を聞き勝手に辞める。
工場は納期期限があるので頭数のみ合わせようと適当に採用している。

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品質など分からない作業員がなだれ込んでくると収拾がつかなくなってしまう。
日本で4万ほどで売られる商品を2千円の商品しか縫った事のない者に縫わせる。
品質が落ちる事は分かっているが背に腹は代えられないのだろう。

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中国では健康保険の制度も一部しかなく作業員は少しでも高賃金な方へと移る。
工場の1ラインには20名ほどの作業員がいるがライン毎ごっそり代わってしまう。
中国国内で販売される商品の工場へ高賃金だからと移っても給料をもらえない。

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ボロボロになって泣きながら元の工場へ戻って来た作業員も少なくない。
工場経営者は納期重視で出荷して日本の市場に流れるので閉口する。

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MADE IN PRCやMADE IN ROKで5月/6月に並ぶ商品は注意して買うべき。
中間検査や最終検査員も平気で高賃金の噂に心動き検査もいい加減で出荷される。
出来栄えは目を覆いたくなるほどの製品がどんどん出来上がって来て頭が痛い。

「一歩ずつ踏みしめて歩いて行こう」

「ワンダーフォトライフ」では14年前に起こった
ペニシリンによるショック後の後遺症を公開しています。

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中国でのペニシリンの点滴によるアナフィラキシーショックの物語は、
2016年2月27日から書き出し3月22日で終止符を打って次の物語へ移ります。

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途中過去を書くより奥さんとホープの為に生きなさいとか怖い話はもういいと、
コメントを頂いた時は的を得ているだけに止めようか迷ったが続けた。

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過去を振り返る事で大袈裟かも知れないが人には定めと言うものが有ると知る。
ペニシリンのアナフィラキシーショックに掛かったら死亡する確率が高くなる。

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臨死状態を電気ショックで息を吹き返して生き返ってきたのである。
今こうしてこの世に生き色んな人と交流し物の価値観も変わってしまった。

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またいろんな人との出会いに新鮮さを感じるようになっていった。
はじめは生きる事に辛ささえ感じたがどうにか望みを持てれるようになった。

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人生が楽しくて仕方がないと言っていたが人生って不思議なものである。
4年半前私が一時帰国した日に妻が脳出血で倒れ瞬時に私の人生も変わった。
違う意味で忙しい日々ではあるが着実に一歩ずつ踏みしめて歩いて行こうと思う。

「パスポートが無く何処にも泊まれない」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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警官にお金は諦めますがパスポートが何とか出ないですかねと聞いた。
それは無理でしょうねパスポートを拾ったと届に出る人はないです。
パスポートが無ければ香港から出て中国へは入られないと話した。

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香港で盗難に遭った人は殆ど直ぐに日本へ帰っていますから帰れますよ。
友人に通訳を頼み日本へ帰っても意味がなく中国へ行かなければと話す。
それなら先にパスポートの再発行の手続きをされた方が良いと言う。

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だが私は初めてパスポートを盗難に遭い再発行など経験した事が無かった。
警官は再発行の手続きもご存知ないんですかと驚いている様子だった。
相当昔に盗難に遭った時のQ&Aを読んだ記憶が有ったが忘れている。

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私は落ち着いている様に思ってもかなり動揺していたのではと思う。
そんな私の気持ちを察してか香港中環の日本領事館の地図を書いてくれた。
交易広場横のビルの46階に日本領事館があり手続き等相談する事になった。

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翌朝香港日本領事館へ行く事にしたが今晩宿泊するホテルも決まってなかった。
いつも宿泊しているホテルは身分を証明する物がなく何処も泊まれなかった。
全てのホテルがパスポートが無ければ顔見知りでも厳しくダメだった。

「盗難届が一番多いのは日本人」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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30分を過ぎた頃には担当者から所長まで帰っていて私の情けない話を聞いていた。
所長はいやっ~最近に無いヒット話ですよと笑っているので余計に辛く感じた。
申し訳無いが当分の間話のネタに不自由しないと1000HKドルを手渡してくれた。

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私はてっきり頂けるものと思っていたら必ず返して下さいねと落ちをつけた。
他の人からよりも合計3000HKドルを借りれたがいずれ返さなければならない。
返すのは当たり前の事だが何となく自分自身に腹が立って仕方がなかった。

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友人と被害届を出しに佐敦(ジョーダン)にある香港警察まで歩いた。
日本語も話す友人はその時3年の付き合いで香港に来ると会っていた。
佐敦は商社のある尖沙咀から1つ目の駅だが20分ほどで香港警察へ着いた。

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香港生まれの香港育ちの友人が被害届の手続きの全てやってくれた。
警官からは盗られた物全てを書き一度受理してしまえば変更できないとの事。
警察官よりサンプルは被害届に載せても受理できないと被害リストから省いた。

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バリーのカバンとジャケット・翻訳機・ダンヒル財布・サンプル3点、カメラ。
パスポートと78000香港ドルと20万円の被害届を出し警官は再度確認していた。
盗難届が一番多いのは日本人と言いそれにしても沢山の現金を盗られたねと言う。

「幾ら金を積んでも帰れない事情が」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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質問している日本人も慌てていて日本語で言わず英語で問い掛けてきた。
私が英語になってますよと言うと苦笑しながら慌てると英語になるようだ。

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出先のホテルでアメリカ人と商談していた担当者から電話が入ってきた。
今電話で聞いたけど何やってたのと当たり前だがサンプルは再作成と言う。

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今すぐ中国へ引き返して3日間で香港へ届けるよう段取りして下さいと言う。
私は直ぐに戻りたいが戻れないんですよと言うと金なら心配しなくて良いと。
盗難に遭ったのだからお金がない事は分かっている直ぐに用立てると言う。  

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幾ら金を積んでも帰れない事情があり何か帰れない事情でも有るのと察した。
パスポートも盗られたんですと言うとなぜそれを早く言わないと荒い口調。
それを聞いていた商社の人からは参ったな~パスポートまでか~とため息。

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電話の向こうからは直ぐに帰るから待っていて下さいと電話を切った。
香港の友人には事の仔細を連絡してあったので商社のロビーへ来ていた。
友人はどうして体から離したのとまずは香港警察へ被害届を出す事になった。

「カード会社へ通知し不正利用防止」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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暗証番号を失いドアーベルのチャイムを押し中より開けてもらった。
女性事務員が暗証番号忘れられたんですかとにっこり笑い応対する。
私はそんなとこですかねと笑ったが私はどんな表情だったのだろうか。

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担当の人は予定より商談が長引いているようでまだ戻ってなかった。
他の日本人から少しの間そこへ腰掛け待っていて下さいと言われた。
だが落ち着いて座ってはおれず立っていると今日はサンプル確認ですか。

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そうですと答え私の身の回りに目をやりサンプルは何処に有るんですか。
サンプルはちょっとした事で盗難に遭って手元には無いんですと話す。
興味深げな様子で自分の仕事を置き私の座っている椅子の横へ座った。

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何処で盗難に遭ったのと聞かれネーザンロードのファッションショップと。
あそこは皆狙われるんですよね~サンプルの他に何を盗られたのと聞いてきた。
この頃には珈琲を手に商社内に残っている4人も同席して興味深く聞いていた。

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財布や現金も盗られてしまい2枚のカードも入っていた事を告げた。
商社だけあり直ぐに香港から日本のカード会社へ通知し不正利用を防止した。
盗られた現金を問われ78000HKドルと20万日本円と言うとどよめきが起こった。

「暗証番号メモもカバンごと消えた」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
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私が店長へ一礼して立ち去ろうとすると店長は申し訳ない表情をして見せた。
責任を感じたのか盗られた事実を私から説明しましょうかと言ってくれた。
店長の心遣いが嬉しかったがこれ以上余分な時間を費やす事は避けたかった。

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私一人で大丈夫なので店長は仕事に戻って下さいと告げてショップを出た。
そう告げたがバックもない全くの手ぶらで商社へ行く事も悪夢を見ているよう。
何とも表現のしようのない気持ちで15分足らずの道のりをため息をつき歩いた。

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商社へ歩いて行く間にも色んな事が脳裏を過ぎっては消えまた過った。
金馬倫道の恒生銀行へ行かなくとも商社一階の銀行へ行けば良かったのでは。
商社の担当者が2時間後と言っても商社で待っていれば良かったのでは。

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商社にサンプルを届け買い物をして再度商談に戻れば良かったのでは・・・。
香港へは60回以上来ておりなぜ初心者のように盗難に遭ってしまったのか。
本社にどう伝えれば良いか工場サンプル室の人達に何と謝罪すればよいのか。

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流石に盗られたお金やパスポートの事が浮かばなかったのは不思議だった。
皮肉な事に商社ビル一階の銀行員が久しぶりですねと手を上げるから情けない。
商社の中へ入る為には暗証番号が必要だがそのメモもカバンごと消えてしまった。

「お金は仕方ないがパスポートだけでも」

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警官はアラブ系の人が雑居しており証拠が無い限り捜索は難しいと言い。
雑居ビルの中の部屋に入るのは危険だから止めた方が良いとも言う。
店長はハッキリとした訛りのない中国語で訳すのでよく理解できた。

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店長は私の手に視線をやり見つめているので自分の手を見た。
私の手には先ほど選んだ服がしっかりと握られていたので店長へ返した。
警官たちと別れ今度は二人してネーザンロードのゴミ箱をあさった。

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道行く人の目には私が浮浪者のように映ったのではないだろうか。
ゴミ箱の中を確認したが、それらしき物は捨てられてはいなかった。
私は途方に暮れ重い足取りで店へ帰る途中に別の警官たちに出会った。

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店長が詳細を話していたが広東語なので私には分からない。
ネーザンロードは犯罪が多いのか警官の姿が目に付いた。
警官は被害届を出された方が言いと思いますよと言い去った。

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被害届でお金は仕方ないがパスポートだけでもが出て来ればと思う。
だが香港へ来た目的はサンプルを持って商談に来たのである。
先に商社の人と連絡を取り合う事が先決と考え足取り重く歩いて行った。

「女が途中で私のカバンを男に手渡す」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
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私が腰を屈めてカバンを探していると女性店員が私に声を掛けてきた。
何か探し物ですかと尋ねるのでここに置いてあったカバンが無いんですと。

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店員はそのカバンなら今お連れの女性が慌てて持って行かれましたよと言う。
それってドロボーですよと言うと店員はお連れの方かと思いましたと緊張する。
どっちの方へ行ったかと尋ねるとネーザンロードを左の方と指で方向を指した。

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店長と共にその後を追いかけるが前方200mほど先にそれらしき女を見つけた。
後を振り向くが人ごみにまぎれて見分けがつかないほど早く手慣れたものだ。
途中2人の警官に出会いドロボーを捕まろと声を掛けたが慌てる様子はない。

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広東語でシウタウと言うが通じなくバッグラーと言うとショットガンを構えた。
後で分かったがシウタウはドロボーの意味だがバッグラーは強盗の意味であった。
店長は先の方へ走って行っており英語力の無さを感じ私は警官には構わず走った。

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女が途中で私のカバンを男に手渡すのが見え店長と二手に別れて追った。
分かれた道は合流してイスラム人が多く住む雑居ビルで完全に見失った。
ネーザンロードで店長は見失ったと息を弾ませて言い警官もやっと着いた。

「女が途中で私のカバンを男に手渡す」

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香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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私が腰を屈めてカバンを探していると女性店員が私に声を掛けてきた。
何か探し物ですかと尋ねるのでここに置いてあったカバンが無いんですと。

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店員はそのカバンなら今お連れの女性が慌てて持って行かれましたよと言う。
それってドロボーですよと言うと店員はお連れの方かと思いましたと緊張する。
どっちの方へ行ったかと尋ねるとネーザンロードを左の方と指で方向を指した。

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店長と共にその後を追いかけるが前方200mほど先にそれらしき女を見つけた。
後を振り向くが人ごみにまぎれて見分けがつかないほど早く手慣れたものだ。
途中2人の警官に出会いドロボーを捕まろと声を掛けたが慌てる様子はない。

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広東語でシウタウと言うが通じなくバッグラーと言うとショットガンを構えた。
後で分かったがシウタウはドロボーの意味だがバッグラーは強盗の意味であった。
店長は先の方へ走って行っており英語力の無さを感じ私は警官には構わず走った。

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女が途中で私のカバンを男に手渡すのが見え店長と二手に別れて追った。
分かれた道は合流してイスラム人が多く住む雑居ビルで完全に見失った。
ネーザンロードで店長は見失ったと息を弾ませて言い警官もやっと着いた。

「現金は海外旅行保険の補償対象外」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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香港恒生銀行を出てよりラフな気持ちで歩いていたが後を付けられていた。
地下鉄チムサーチ駅近くまで来て気に入った洋服が目につき店に入った。
イスラム寺院の向かい側の店で良く服を買っていたので店長も顔見知り。

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九龍公園を通り抜けるとイスラム教寺院見え前がネイザンロードである。
近くの雑居ビルにはイスラム諸国地域出身の人々が多く住む地域である。
立派なイスラム寺院が香港には沢山建っていたが店の前の寺院は奇麗である。

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店に入ってより手に持っていたカバンを日本人の悪い習慣で下に置いた。
服を選んでいる時に掛けてある服の下を綺麗な女性が通り抜けようとしている。
私はその中腰の女性と目が合い後退りし女性が通り抜けるのを手伝った。

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自分の欲しい服が見つかったのでレジに行こうとカバンを探すが無い。
カバンを蹴飛ばしたのかと屈んで周りを探すが何処にも無い。
この時点でもまさか盗られてしまったなどとは疑わないので馬鹿である。

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海外旅行中に盗難の平均額1人当り6万6000円で10万円以上の被害は10%。
100万円以上の被害では1%だが私は20年前に150万なので多いのかも。
現金の盗難被害に遭っても現金は海外旅行保険の補償対象外である。

「4月末の香港は蒸し暑かった」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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4月末の香港の気候は蒸し暑くジャケットを脱いで邪魔になりカバンの中へ。
盗難に遭うなどとは思わず胸にしまっていたパスポートもバッグの中へ。

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香港へは日本の香港支社に中国工場で作成したサンプルを届けるために来た。
1万枚の生産に入る為確認のサンプルであるが変更があれば先には進めない。

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広東省広州から高速に乗り深センの羅湖(ローフ)駅ビルの駐車場へ停めた。
ローフ駅から九廣鐡路の直通列車で九龍市街地最後の九龍塘駅で降りた。

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九龍塘駅から徒歩で地下鉄觀塘線に乗り換え油麻地(ヨウマテイ)まで向かう。
油麻地で降り地下鉄を乗り換えて佐敦(ジョーダン)まで向かい降りた。  

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バリーのカバンの中にはジャケット・翻訳機・ダンヒル財布・サンプル3点と、
カメラ・パスポートと78000香港ドルと20万日本円の150万円が入っていた。

「窃盗団がカバンに入れるのを見ていた」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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1993年中国広州工場へ赴任するまでに合計4回香港へ行った。
また工場に赴任してからも毎月2回香港へ商談を交えて出張した。
当時広州から香港へ行く方法は広州駅右隣の香港行き直行便を利用した。

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列車で約3時間の道のりであるが香港へ入るには通関で長い間待たされた。
広州飛行場(白雲機場)より香港(啓徳機場)へ飛行機を利用した事もある。
30分のフライトだが道中時間が掛かるので費用が安い鉄道を利用していた。

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私が置き引きに遭ったのは1996年の4月29日午後2時頃の事である。
地下鉄尖沙咀(チムサーチ)の1つ手前の佐敦(ジョーダン)で降り、
ネイザンロードをチムサーチョイの方へ歩き香港支店へ向かっていた。

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商社へ向かおうとして電話確認した所担当者はホテルで商談中だった。
アメリカよりのお客さんとホテルにて商談中で2時間掛かるとの事。
予定を変更して金馬倫道(カメロンロード)の恒生銀行へ行った。

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米ドルをHKドルに両替して72000HKドル(130万日本円)を手にしていた。
財布の12000HKドル(20万日本円)と合わせてカバンの中へ放り込んだ。
どうやらこの時に窃盗団がカバンに入れるのを見ていたようだった。

「若夫婦は夢膨らませ将来を語った」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
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広州のホテルのスイートルームで日本の商社と香港の商社で会談した。
2000人規模の工場で商談担当だった26歳の奥さんが工場を起業を要望。

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奥さんの実兄が香港や深セン、広州で手広く商売をやっていた。
実兄の出資で300人規模の工場を建設したい意向を伝えてくれた。

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この時点で私の中国語会話力はゼロに近く何を聞いても分からない。
だが広東語のイントネーションが妙に懐かしく感じられた。
話している内容は分からないが日本で広東映画を多く見ていた。

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語尾を伸ばす辺りがジャッキーチェンにも似て親近感を覚えた。
この時点では香港から私の給与が出るという事で承諾はしなかった。  
中国人は信用できないと承諾しないので日本から支払う事になった。

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中国広州行きの帰りに広州香港直行便で香港へ寄り街並みを歩いた。
翌1993年プロジェクト案を持って再度中国広州へ行く事となった。
広州での出迎えは半年前に夢膨らませ将来を語ってくれた若夫婦だった。

「ブルースリーは脳浮腫で32歳に逝った」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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香港へ始めて行ったのは1976年の事であるが旅行で行った。
香港で作られたブルースリーの映画を見て衝動で行ってみた。
ブルースリーは鎮痛剤が合わずに脳浮腫により32歳で世を去っている。

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ブルースリーが亡くなったのは1973年7月だが私が結婚した翌年香港へ。
映画のロケシーンとは全く違いどちらかと言うと映画慕情を思い浮かべた。

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4日間の香港マカオの旅で只々疲れるのみであった記憶がよみがえる。
仕事で香港を訪れたのは1993年中国人独資で中国広州へ工場を建設。
当時工場を経営していた私に商社より打診があったのは1992年の事。

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半年間の間に三度工場へ訪れて中国へ行って頂けないかとの言葉。
悩みに悩んだ末商社の駐在員として広州で中国人と出会う事になった。 

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会ってみるとその中国人ご夫妻は26歳と29歳と実に若い。
私は既に41歳となっており何とか協力したいと話が弾んだ。
工場建設の為1年後に中国へ来る事となったが私の工場は妻に任せた。

「中国侵略と植民地支配が終わった」

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イギリスとの共同声明の中で中国は香港の社会経済を尊重すると確約。
香港は1997年7月1日返還され歴史的な時間を私は香港で味わった。

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共同声明の中では返還後50年間は資本主義制度を維持することだった。
社会経済、政治法律制度など一国二制度を中英共同声明で合意した。

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中国の全国人民代表者会議で香港の憲法香港特別行政区基本法を採択。
150年以上イギリスの長期にわたる中国侵略と植民地支配が終わった。

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香港は中国に返還され中華人民共和国香港特別行政区となった。
現実的には中国より香港の政治方針は変更され不安を招く事になる。
中国国内の資本主義経済は以前とは比べ物にならないほど発達し出した。

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中国は英国に対し共同声明の道義的責任や義務はないと破棄した。
民主的選挙を求める香港のデモ隊に対し強制排除したのも記憶に新しい。
私が盗難に遭ったのは1996年4月末で香港返還の1年3ヶ月前の事である。

「1949年に新疆1950年にチベットを占領」

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香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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共和制国家の中華民国から共産主義国家の中華人民共和国が誕生。
1949年蒋介石は中国の財宝を持ち台湾へ毛沢東は天安門で建国宣言。

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共産主義の中国は1949年に新疆を占領し1950年にチベットを占領。
この時点で多くの資本家が共産主義を恐れて香港へ避難した。

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大躍進政策の失敗で失脚していた毛沢東が1966年より文化大革命を発動。
官僚化した共産党打倒の呼びかけに紅衛兵が呼応し資本家の香港避難に拍車。

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イギリスは1997年新界の租借権が切れるが香港の植民地維持を目論んだ。
中国トウ小平の強行姿勢に犠牲が大きいと香港を返還する事に決定した。

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1984年9月イギリスと中国の香港返還交渉は中英共同宣言で結実した。
1984年11月イギリスは1997年7月1日に香港へ返還する文書に調印した。

「国民党を破ったのは日本軍の功労かも」

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1941年香港島では激戦となったが給水を断たれイギリス軍は降伏した。
イギリス軍はわずか18日間で日本軍に降伏し香港攻略は完了した。

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香港島内の戦いで日本軍の戦死者680名余りで戦傷者1400名余り出た。
イギリス軍の戦死者は1500名余りで戦傷者2000名余り出した。

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イギリスの植民地の香港を日本軍が占領統治したが陛下の決断で日本敗戦。
1945年8月日本のポツダム宣言受諾によりイギリス軍が香港に再上陸する。
香港の日本統治期間はわずか3年8ヶ月間でイギリスへ返還された。

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香港の製造業のキャパシティは増加し銀行や保険などサービス産業が発展した。
1949年には中国本土で共産党が国民党を打倒し中華人民共和国が樹立された。

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日本と中国との戦争はアメリカが後ろ盾の国民党との戦いだった。
国民党は日本に勝利したとは言え大きな打撃を受け疲弊していた。
高みの見物の毛沢東共産軍が国民党を破ったのは日本軍の功労かも、、。

「インフレと食糧不足で餓死者が出た」

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1842年の南京条約で清国からイギリスに割譲された香港島。
1860年の北京条約で割譲された九龍半島以外の領域がイギリスへ。
1898年には香港島でのイギリス人らの利益を守る為に租借を提案。

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1898年に99年間の期限で新界地区が租借されイギリスは租借権を得た。
香港は99年後の1997年にイギリス領から中国へ返還された。

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第二次世界大戦前香港は貿易から製造業へ次第にシフトし始めていた。
1920年代の中国内戦と1930年代の日本の侵略で中国の資本家たちが、
イギリスの植民地の安全な境界へ逃れてから製造業が加速した。

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1941年12月香港は日本軍によって占領され弾圧支配と軍票を乱発した。
日本敗戦により軍票は紙切れとなりインフレと食糧不足で餓死者が出た。
日本の敗戦後日本政府はいまだなんの補償もしていない。

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朝鮮戦争の間アメリカは中国の物資を禁輸措置にしてしまった。
中国貿易の拠点である香港は干上がりそうになった。

「日本軍より理不尽な事をやっていた」

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1839年清朝道光帝の命を受けた林則徐はアヘン2万箱以上を没収し廃棄。
広東省に赴きイギリス商人の商いするアヘンの輸入を全面禁止した。

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イギリスは1840年報復として軍艦10数隻を派遣し中国沿岸を攻撃した。
アヘン戦争でイギリス軍は広東省の港を封鎖し清朝を脅迫した。
イギリスは中国の香港島を永久に譲渡するよう圧力をかけた。

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清朝はイギリスに停戦を申し入れたが最終的に両者の合意は破れる。
1841年にイギリスは厦門(アモイ)浙江省寧波ニンポーを占領した。

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1842年清朝はイギリスと南京条約を結び香港島の永久割譲を要求される。
広東や上海などの開港を迫られ戦争賠償金の支払いなどを強いられた。

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1859年イギリスとフランスの連合軍が中国を侵略し翌年北京に進撃した。
中国に北京条約を結ばせイギリスは九龍半島南部を永久譲渡させた。
100年近い前に日本軍より理不尽な事を中国国内でやっていた。

「腐敗中国官僚を利用しアヘン貿易」

「ワンダーフォトライフ」では20年前に起こった
香港にての盗難に遭った出来事を公開しています。

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今回からも過去の出来事を書き綴って行きたいとタイプし出した。
過去の出来事でも心に残る貴重な思い出であり未来より書き易い。
香港で遭遇した盗難であるが時折ブログの端々に語って来たものである。

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だが断片的に書いたものであり詳細については多くを語ってはいない。
妻やホープの現状を語るのが良いとは思うが我慢して読んで頂きたいと思う。

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香港へは多くの人が訪れており香港の歴史を書いても知っていると思う。
ここで再度香港について自分自身でも整理しておきたいと思う。

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ヨーロッパと中国の貿易は16世紀頃から行われお茶と絹の需要が高まっていた。
銀での支払いを求められた中国は完全な輸入超過の貿易不均衡が続いた。
次第に耐え難くなって1773年イギリスはアヘン70トンを中国に下ろした。

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インドのベンガル産の阿片吸引者は中国で瞬く間に増えていった。
アヘン中毒者の増加に警戒して清朝皇帝はアヘン貿易を禁止した。
だがイギリスは腐敗した中国官僚を利用しアヘン貿易を継続した。




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