浜松中納言物語 0
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「周庄旅情19」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。「中国第一の水郷」と言われる周庄には水路が入り込み多くの石橋がある。写真の犬は野良犬のようであり誰かが餌付けをしているから野良犬が増えると話していたがいつの間にか私の回りに野良犬が多く集まってきていた。私は犬が大好きであるが何となく不気味な感じがするほど犬が集まってきた。だが何か食べ物を狙っているようでもなかった。犬同士でじゃれあう光景にも見えたがこの付近には団体観光客は入っては来ない。 「中国の旅」
2011.11.21
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「周庄旅情18」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の街並みは狭くて迷路みたいだが古い歴史があり重量感のある家が多い。昼食を食べようと古い建て住まいの老舗レストランに入ってメニューを見た。テーブルには私一人だけで他のテーブルにはグループで座って注文をしていた。中国ではレストランへ入ってメニューの料理の値段を見ると1品20元から50元ほど。だが一人で3品ほどとっても四人で3品でも同じ値段で四人で程よい量になっている。私一人なので勿体無く思い店の人に一皿に3品を一人で食べる量にして下さいと交渉した。決まりなので盛り合わせは出来ないとの事で店の女主人と交渉して50元で盛り合わせを作ってくれ美味しく食べることができた。「中国の旅」
2011.11.20
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「周庄旅情17」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。水郷周庄の水路は家のすぐ横にあり石の階段を下りて行くと洗濯や野菜など多くの生活空間に利用するものを洗える。だが周庄の街並みに住む人のみ許されている。土地の人は昔のような澄んだ水は見られないと各々言うが手には洗濯石鹸を持っているので何となく滑稽にも見えたが日本の昔にも似たり。写真からは見えて来ないが水は黄色っぽく汚れているのが分かるほどだが手漕ぎ船で観光する中国の人達も平気で物を捨てる。今回は手漕ぎ舟には乗らなかったが以前乗った時にはお菓子の袋からティッシュまで舟から川の水面へ向け投げ込むので閉口した。「中国の旅」
2011.11.19
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「周庄旅情16」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の路地を歩いていると土産物屋と並び筆が売られているが太い筆に墨を点け紙目掛けて振り下ろすならばさぞ心地良いだろうと思った。3年ほど前に来た折に小筆を買っていった。未だに身近に置いているが書きやすい。小筆で墨汁の墨を点け書くにはスペースはそれほど要らないが大筆ともなると相当大きな紙に書かなければならず写真のような大筆は持ってはいない。筆の事はあまり分からないが書いていてとても気持ちの良いまた、相性のよい筆は中々お目にはかかれないが、小さい頃は自分の書道の腕前の悪さを筆のせいにしていたが書き慣れるということが大切なのだろう。「中国の旅」
2011.11.18
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「周庄旅情15」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。中国の水郷などの都市に限らず田舎の町では早朝掃除をする人達がいる。中国の人達の清掃意識はまだまだ低い。自分の家や車の中は綺麗にしているが平気で外にゴミや空き瓶を捨てる。私が家から道にポイポイ捨てないようにと言っても「清掃の人達に仕事を作ってやってんだから感謝してもらいたいよ」中国の寺院や有名な観光名所ではゴミの意識は相当徹底されて来たようである。だが旅行して気付くとは思うが清掃の人が必ず立っているしゴミが捨てられたら直ぐに拾っている光景が見られる。ゴミに対する意識は日本の40年前程である。ゴミの仕分けなどになったら統一など出来ないのではないかと思う。「中国の旅」
2011.11.17
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「周庄旅情14」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。沈万三の旧居にて厨房の中も公開されていた。片隅の説明書きには明代の厨房だというが厨房で使う鍋や包丁などは清朝に入ってからもそれほど大きな変化はないようであった。今でこそIHクッキングヒーターやレンジ等目まぐるしく新しいデザインが出てくるが明代ごろの流れは緩やかであったのではと思う。中国の一般家庭で特に内陸部では未だに写真のような厨房になっている所が多い。厨房の説明を信じるならば600年ほど前の厨房設備が清代や現代にまで受け継がれる事になる。この厨房そのものが周庄自身の観光化に伴い集められたとも考えられるが、明代の生活の水準を推し量る上で換気の設備が不十分だと思った。「中国の旅」
2011.11.16
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「周庄旅情13」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。中国の中でも取り分け江南の漢民族は資源の宝庫で中国の伝統の見方からみればすぐ金をかき集めて私腹を肥やすことに優れているので、家事を切り盛りすることや勤勉節約と関連させ教育した。神話の中の資源の宝庫はいつもまめな者の手に落ちていったが沈万三もその一人である。沈万三の旧居には8つの庭がありその庭を取り囲むように家が建てられている。写真の水牛の像は明王朝において水牛の力無くしては沈万三の富は成就できなかった。水牛は、その時代の崇め祭るほど大切であり人々と共存した尊い労働力にもなっていた。「中国の旅」
2011.11.15
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「周庄旅情12」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。沈万三は海外との貿易で巨万の富を築き上げたが当時の中国で敵国との貿易を強行していた為に皇帝からも良い印象を持たれていなかった。江南一帯の小鎮には歴史に残る有能な人材が埋もれていた事も沈万三という先駆者が歴史を切り開いていったからだろう。沈万三は当時の不動産としての田畑の管理や商業資本を開発することに優れる経済と貿易の実践家でもあり多くの人が驚嘆した。沈万三の対外貿易は長江デルタと東南アジアの沿海地区で資本主義生産の芽生えを促した。中国全体の商品経済の発展を動かして明王朝の政治に対して決定的な影響を及ぼす事となる。「中国の旅」
2011.11.14
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「周庄旅情11」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄にて沈万三の家を散策していた。沈万三は農民から巨万の富を手に入れた。周庄の水郷を糧に豪商の道を走ったが彼の苦難に満ちた道は周庄及び江南の歴史の上に足取りをしっかりと刻み込んだ。沈万三の伝奇的な商業の歴史を参考にして沈万三の飛躍的な各種の原因を探求した。沈万三が富を手にした広大な道を研究すると改革開放を進めたことが明らかになる。今まで誰もが思っていた運河の工事を実施し社会の経済の繁栄を現実のものとして行った。「中国の旅」
2011.11.13
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「周庄旅情10」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。中国では沈万三の名前を知らない人は少ないという事だったが、その旧居が周庄にあり見学する事ができる。沈万三の旧居は富を手にするまでの各種の伝説や商業を営むまでの波乱の歴史や一生の伝奇的な経歴と沈家の日常生活のいろいろな保存品が公開されている。旧居なので暗い部屋が多かったが銅像やレンガの彫り物またロケの場面の模型などや紙面でも紹介されており、泥人形や小型の連続絵物語などの芸術的手法も展示されている。周庄での開拓と周庄観光地の重要な人を紹介し沈万三旧居を通して水郷周庄を代表する文化や周庄を代表する商業の文化にも体現できる。「中国の旅」
2011.11.12
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「周庄旅情9」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の名物に万三蹄と呼ぶ豚足がある。豚の足を醤油で甘辛くにてあり豚足の 表面はかりっとしてあり美味しい。周庄古鎮で一番目にする醤油煮込みである。なぜ万三蹄と呼ぶのかというと明の初代皇帝の朱元璋が沈万三を快く思っていなかった。なぜならば元との商いで巨額の富を手に入れそのことで無理な要求を沈万三に突きつけていた。だが、沈万三は財力に物を言わせて実現させていた。ある時、朱元璋が蘇州を訪れた折に沈万三が朱元璋を宴に招待した時、豚足の醤油煮込みを食べさせたところ朱元璋は気に入って料理名を尋ねた。中国語で「猪zhu蹄」と呼んでいたが、「猪」の発音と朱元璋の「朱zhu」と同じなため、猪蹄と呼ばず咄嗟に「万三蹄」お答え、以来、これを万三蹄と呼ぶ。「中国の旅」
2011.11.11
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「周庄旅情8」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の中にあって張家という家は明代の中山王徐達の弟であった徐逵の子孫が明の正統年間に建設した家である。清代初めに張家に売却され以後張家の持ち家となり昨今では一般に公開されている。 明代の建築の中で住居が残っているのは少なく貴重な建築資料となっている。張家には中庭が6つありかなり広い建物である。また部屋数は70部屋をあり広さに驚く。張家の建物の中を周庄運河の水が流れ家の中を小船が通るようにもなっている。水郷建築の典型である張家の中に阿婆茶と額が掛けられているが水路沿いの露天でも飲ませてもらえる少し甘いお茶である。 「中国の旅」
2011.11.10
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「周庄旅情7」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の大きな民家で小麦を石臼を使い挽いて小麦粉にしており日本でもその昔は各家で臼を使い挽いていた。私は日本では見たことがないが中国の古い家並みではよく見かける。写真では人の手がハッキリ写っていないが薄暗い中でフラッシュを焚かずに撮影したので動きのある人の姿は画像が薄らいでいる。夜の街などで多くの通行人がいた筈だが三脚を立ててスローで撮影すると人影が見えなくなり寂しい光景になる。「中国の旅」
2011.11.09
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「周庄旅情6」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。水郷周庄は上海と蘇州に近く50キロから70キロほどであり、杭州までは130キロほど。豪商の古い家の造りの裏には絢爛な江南庭園が造られ、奇岩も多く置かれており、写真のように見方によっては駱駝に見える石もある。明代から清代の建築物が多く立ち並びいにしえの水郷の活気ある風景を思い描き気持ちを馳せられると当時の息吹が聞こえて来そうである。各家の裏側の水郷には裏木戸から石段が作られ川で洗い物が出来る。「中国の旅」
2011.11.08
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「周庄旅情5」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の街を歩くと土産物屋が多く見られまた豪商の家がいくつか開放されている。建物は当時の江南の特徴的な建築様式で徽州や蘇州、また紹興の様式を取り入れ独特で明及ぴ清時代のものである。 周荘の街並みへ入るにはチケットが必要で商家の建物に入るには更にチケットが必要。バス停の前で瀋家や全福寺、また周荘博物館など1セットになったチケットを売っていたが全部は見れないと周遊券は買わなかった。のんびり歩いて商家の家に来ればチケットを購入して中へ入る方が気が楽と感じた。「中国の旅」
2011.11.07
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「周庄旅情4」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の街並みの中には多くの商家がありまた水運で栄えた商家を公開している。江南地方の大富豪も多く見受けられる。西に延びる運河は京杭大運河へ流れ込み東に延びる瀏河により海につながり交通の要衝としての位置を活かし交易を行った。周庄を食料とシルクはもとより各種の手工業品の集散地として発展させた。周庄は手工業品生産地としても発展しシルクや刺繍また白酒等が生産された。明代や清代には更に街が大きくなり江南地方の重要都市の一つとなった。「中国の旅」
2011.11.06
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「周庄旅情3」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。上海からバスに乗り青浦まで行き青浦でバスを乗り換え周庄まで来た。3時間ほどバスに揺られたのんびり旅。周庄は明代初め2000人ほどの人口で清代初めになると3000人の人口だった。周庄の人口は現在では2万人を超えている。清代始め当時の中国の人口は3億人ほどなので現在の12億人から比べ4分の3の25%ほど。3000人の人口に比べ2万人は7倍ほどに増加しており生活の安定を求め移り住んで来ているが現状止まりである。400年ほど前までの周庄は「貞富里」と呼ばれ、貞富里から周庄という名に変わったのは清代の始めの頃である。「中国の旅」
2011.11.05
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「周庄旅情2」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。周庄の歴史は900年以上あり商業の要衝として栄えた街である。昔は江南の水運として利用されたが現在の水路は生活に使われているため昨今汚染が進んでいるようである。水路である濠(ごう)と古い家並みや石橋とが美しい街並みをつくっている。「天上には極楽があり、地上には蘇州と杭州がある」という有名な言葉を中国語で「上有天堂、下有蘇杭」と言われている。周庄は蘇州と杭州の中間辺りで知られている。「中国の旅」
2011.11.04
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「周庄旅情1」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「水郷周庄」の写真を公開しています。上海から70キロほど離れた水郷古鎮の周庄に宿を予約してありバスを乗り継ぎ何とか周庄まで辿り着いた。周庄へは何度も来ていたがバスを乗り継ぎ訪れたのは初めての事だった。以前周庄を訪れたのは中国人の車に乗り1時間30分足らずで来れて食事をしてまた上海へ車で移動していた。今回は自由気ままな一人旅なので宿のみネットで押さえて移動手段は電車とバスの乗り継ぎで3時間ほどかかった。「中国の旅」
2011.11.03
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「蘇州旅情2-57(終)」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州の夜の街をゆっくりと歩いた。夜空には綺麗な三日月が出ていた。肌寒い夜の蘇州は少し遅くなると人通りが少なくなるのを感じた。蘇州の街を歩いていると何処からともなく水餃子やワンタンまた肉饅頭などの匂いが漂って来て思わず肉饅頭を買って食べながら歩いた。店も閉店間際なのと、あと二つで売り切れだからと一つを食べながらもう一つを懐に入れ撮影した。「中国の旅」
2011.11.02
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「蘇州旅情2-56」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。私が始めて中国を訪れたのは1986年の事。友人からラーメンのルーツは中国だよと言われて日本の中華そばを探した。だが中々見つからなかったが中国の人より日本のようなラーメンは中国ではないとの事。2度目に中国を訪れた1993年当時になると日本のラーメン店が中国へ出店しており中に入ってメニューを見ると結構高い。中国の弁当が4元(60円)ほどの時に日本のラーメンは60元(900円)だが中国人のお客は満員状態だったのには驚いた。写真は蘭州ラーメンで値段は3元(45円)「中国の旅」
2011.11.01
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「蘇州旅情2-55」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州の庭園には中国の中でも有名で北京や広州からも多くの観光客が訪れるが報恩寺公園では寺が主体の為四大庭園のような優雅さはない。だが他の庭園と同じように掃除が行き届き清潔感を感じるが中国にあり公道の汚さから思えば不思議である。上の写真は弥勒菩薩を後から撮影。下の画像は北寺塔の入口の写真である。「中国の旅」
2011.10.31
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「蘇州旅情2-54」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。報恩寺境内の庭園の散策をしていたが蘇州四大公園の特徴を上手く取り入れて庭園や池また石橋など造られていた。屋根の形が鳳凰が羽根を広げたように造られており蘇州に限らず中国江南地方の建築文化が如実に現されておりゆっくりと歩きながらシャッターを切る指に力が入った。「中国の旅」
2011.10.30
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「蘇州旅情2-53」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。報恩寺の北寺塔から回廊を通り抜け裏側の庭園まで来た池のほとりで北寺塔をバックに撮影した。夕陽が綺麗に北寺塔を射していたが雲に隠れて綺麗な光景は撮れなかった。池に映る北寺塔を撮影した。ピントを北寺塔に合わせたため奥の景色がピンボケ状態になってしまった。開放で撮影すると被写界深度が浅くなり前後の描写がピンボケしてしまう。この場合、やはり絞ってF8位のほうが良い。「中国の旅」
2011.10.29
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「蘇州旅情2-52」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。北寺塔から報恩寺の塀を潜り抜けると観音堂へ着いたが煌びやかな色調ではなく落ち着いた感じの色調の観音像であった。観音堂を後にして報恩寺の外側回廊を歩いた。中国では公園などでも回廊をよく見かける。 回廊とは宗教建築などで重要部分を囲んでいる屋根のある廊下の事を回廊と呼ぶ。日本では神社や寺院などで金堂や塔などの一郭を囲んでいる屋根がついているので雨の日でも傘ささずに歩く事ができる。武家屋敷などでも住居と離れを中庭を通り行く場合などで中庭に回廊を設け渡り廊下のようにしたものも回廊と呼ぶ。「中国の旅」
2011.10.28
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「蘇州旅情2-51」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。北寺塔の報恩寺の階段を下りながら各楼の回廊に出ては四方を見渡した。蘇州で最も古い仏寺というが1500年ほど前に北寺塔は建てられ幾たびか破壊されてきた。現在の回廊なども清朝に入ってより造られたものが多く更に最近修復され見るものが真新しい感じがする。76メートルある北寺塔の建物自体は南宋時代や明代と歴史ある建物である。少し離れた所に造られた庭園と回廊は蘇州の感じがよくあらわせている。回廊には写真が額に入れられ飾られており立ち止まって鑑賞したりできるが何故か先を急ぐ人が多い。「中国の旅」
2011.10.27
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「蘇州旅情2-50」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。八角七層の北寺塔の高さは76mあり各階に回廊も作られているので回廊に出られる。最上階からの蘇州の街並みを眺めると日本の城下町の街並みによく似ている。上の写真の方角は南の方角だと思ったがこの日の天候も良く蘇州の郊外も望めた。北寺塔である報恩寺塔は「報恩寺」内にあり現在、北塔公園として庶民に親しまれている。北寺塔の脇から浦に回ると「観音殿」がある。観音殿は明代に建てられたものと言う事だった。上の写真は報恩寺の三門から弥勒菩薩までを北寺塔の回廊から撮影した。下の写真は蘇州の夕陽を撮影したが冬の日暮れは早い。「中国の旅」
2011.10.26
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「蘇州旅情2-49」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州で最も古い報恩寺の北寺塔の中で日中でも真っ暗闇の1階中心部に安置してある釈迦如来像を撮影した。フラッシュを持参していなかったので真っ暗闇の中撮影したが手ブレが酷い。北寺塔は三国時代に孫権が母の恩に報いるため「通玄寺」を築造したが唐代に通玄寺を元に寺を再建した。北寺塔は母の恩に報いることを表して報恩寺と名づけたが塔は梁時代の創建で当時は十一層の宝塔であったが度々壊され北宋年間に九層の塔に再建された。現存する塔は、一層から六層までは南宋時代に再建され七層以上は明代に再建されたが屋根から迫り出した庇と欄干は清時代に再建補修された。「中国の旅」
2011.10.25
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「蘇州旅情2-48」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州虎丘からバスに乗り報恩寺塔へ蘇州では北寺塔と呼ばれ親しまれている。報恩寺塔の門を潜ると獅子像が迎えてくれ更に中へと入って行くと弥勒菩薩像へでる。釈迦の未来の姿を現しているとか何とも生活習慣病でも患いそうな姿である。弥勒菩薩像の後ろ側に見えるのが八角九階の高さ76メートルの北寺塔である。蘇州では最も高い塔として人気である。蘇州城の最北端に位置する北寺塔は虎丘と並んで蘇州のシンボル的な存在。北寺塔の中へ入って階段を上がるがこの時代の塔としては広い階段である。「中国の旅」
2011.10.24
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「蘇州旅情2-47」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。写真の斜めに傾く塔は虎丘塔と呼ばれ賑わう。八角七層の「雲岩寺塔」の塔1050年前の五代の周時代に着工し2年後に完成した。だが今までに何度も火災に遭遇している。記録では8回ほどの火災という事である。この古い磚(レンガ)塔の高さは45m以上あり蘇州の観光スポットとしても人気である。現在では虎丘斜塔へは登れなくなっているが10年ほど前までは人数を規制して2階まで登る事ができ登る目的で長蛇の列が出来た。雲岩寺塔は地盤沈下の為に傾いており虎丘斜塔と呼ばれるがピザの斜塔ほどには知られていないにしろ蘇州の名所である。虎丘斜塔の傾斜は15度で1年に1ミリほど傾斜が進んでいるようで補強工事がされた。帰り道何度も振り返って雲岩寺塔を見上げてはシャッターを切った。「中国の旅」
2011.10.23
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「蘇州旅情2-46」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。虎丘の門には「入解脱門」と書かれている。解脱の門とは一般の寺院の三門の事である。空門・無相門・無願門の三境地を経て仏国土に至る門との意味だが詳細は勉強不足であるが三煩を解脱する意味である。三煩とは人間が抱える三つの煩悩の事で一つは貪欲の煩悩で、万物を必要以上に求める心で最悪は戦争にも繋がる心である。上の写真は解脱門の片隅から今上がって来た道を撮影してみた。二つは瞋(しん)で自分の心に反するものを怒り恨む憎悪の感情の心で落ち着かない。三つは癡(ち)別名を愚痴や無明という。万の事物の理にくらき心を指して呼ぶ。仏教で言う所の三つの煩悩の三毒から抜け出る門を三門であり解脱門と呼ぶ。下の写真は八角七層の「雲巌寺塔」の塔を門越しに撮影したが前方に小さく写っている。「中国の旅」
2011.10.22
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「蘇州旅情2-45」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。虎丘塔の下に池があり、池の中に春秋時代の呉の王だった闔閭こうりょの墓地がある。闔閭(こうりょ)とは紀元前514から18年間春秋時代の呉の第6代の王だった人物である。闔閭(こうりょ)は越王勾践の戦に破れ子の夫差(ふさ)に復讐を誓わせ世を去った。夫差(ふさ)は亡き王の父のために全力を尽くし一時は優位に戦いを進めたが越王勾践の反撃に反撃により敗北して自決した。写真は虎丘の剣池だが水を抜いた底に古代王の呉王闔閭の墓の入口があるとのことだった。今では水没してしまっているが40年ぶりに「剣池」の水がポンプで抜かれ紀元前496年に世を去った呉王の墓の入口を確認したと報道。虎丘は2500年の歴史があり各時代の詩人が景観を称え詩に詠んでいる名勝である。剣池の岩には多くの詩人の詩が彫られている。王の墓は開けられた事はなく謎は明かされていない。「中国の旅」
2011.10.21
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「蘇州旅情2-44」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州虎丘の剣池手前の東屋の下側の岩に彫られた文字を暫く眺めていたが撮影しただけで意味は結局分からず仕舞いだった。更に進み行くと秦の始皇帝や三国時代の呉の孫権らが3000本の埋められた剣を何度も掘り返した池に出る。 虎丘剣池が覗ける高台から池を見下ろすがよくこのような人工的な池を掘り3000本もの剣を埋めたものだと思った。 何代にも埋められた名剣を手に入れようと何度も掘り返したが見つけられなかった。よくよく話を聞いてみると何度も掘り返したところが池になり名剣は出て来なかったが、その池を剣のゆかりの池として剣池とした。「中国の旅」
2011.10.20
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「蘇州旅情2-43」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州の虎丘へ行く目的は八角七層の「雲巌寺塔」の塔を見ることにある。だが登って行く途中に幾つもの名所がある。写真の岩に彫られた文字は「虎丘剣池」と彫ってあり朱色で文字をなぞらえている。「虎丘剣池」の文字を撮影するためには相当な勇気を持って望まなければ中国人が次から次へ陸続と岩の横で記念撮影する。のんびりと人波が静まるのを待っていればいつまで経っても撮影など出来ない。私は大きな声で取材のための撮影なので暫しの間待っていて下さいと言い放ったのち30秒ほどの時間で連写した。カメラの連写の音を聞いた中国人からはプロのカメラマンですかと聞かれたが場所が空きましたよと言いその場を離れた。「中国の旅」
2011.10.19
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「蘇州旅情2-42」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州虎丘景区には千人石と呼ばれている砥石(といし)のように平かで一枚の大きな岩があるが梁時代に千人の人がこの岩に座して高僧の話を聴いたので千人石との名が受け継がれる。虎丘景区は八角七層の「雲巌寺塔」の塔と「剣池」と呼ばれる剣を埋めた池がある。斜めに傾く塔は虎丘塔と呼ばれ賑わう。八角七層の「雲巌寺塔」の塔1050年前の五代の周時代に着工し2年後に完成した。だが今までに何度も火災に遭遇している。記録では8回ほどの火災という事である。レンガ造りの雲巌寺塔は高さ61m以上あり見上げても、その高さに首が痛いほどである。写真は「剣池」に辿り着く手前の岩である。「中国の旅」
2011.10.18
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「蘇州旅情2-41」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。虎丘景区内には園芸通の万景山荘の盆栽も人気があり時間があれば見てみよう。中国の庭園の中には日本の盆栽と同じような品質の高い盆栽が庭園に置かれている。日本の盆栽のルーツは、もしかして中国蘇州や杭州あたりの盆栽なのかも知れない。虎丘の虎門を潜り抜けると坂道が続き途中伝説の石がいくつか置いてあった。名剣師「莫邪」が試しに剣で切った石がある。試剣石と彫ってある手前の石が割れている。莫邪が注文を受け剣を打つが中々満足のいく剣が出来ないが火に入り打ち出来上がった剣で試し切りをしたというが信じ難き伝説である。下の写真は石枕と書かれた石だが何の意味なのか?「中国の旅」
2011.10.17
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「蘇州旅情2-40」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。虎丘は蘇州市中心位置から西北方向にあり標高30メートルほどの小高い丘である。太古の時代には海中に浮かぶ小島だった。虎丘の歴史は長く遺跡も多く発見されている。春秋時代の王だった父は剣を愛したのため息子の夫差は3000本の剣を埋めた伝説がある。その後の始皇帝や孫権がその剣を探し求めて掘られた剣池、唐妓女真娘の高潔を偲ぶ真娘墓王の墓を建造した千人の工匠達を殺戮した。鮮血に染まった岩石は雨のたび紅く染まった。その伝説にまつわる巨岩の千人石など見所は多い。写真は第三泉の汲み場で昔の名残だとの事。「中国の旅」
2011.10.16
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「蘇州旅情2-39」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。虎丘景区の中を「雲岩禅寺」目掛け歩いて行くと「花轎」の輿が見えてきた。「花轎」は中国伝統の婚姻の時に花婿を迎えるときに花嫁が乗る輿の事である。「花轎」に色々な綺麗な飾り付けをしており現在では乗用車に飾り付けを新郎新婦が乗る。虎丘景区の坂道はそれほど急ではないが年配の観光客には辛いようで「花轎」に乗り情緒あふれる輿を楽しんでいるようだ。虎丘は春秋時代の呉王が父を葬った陵墓で葬儀の3日後、墓の上に白い虎が現れたことから虎丘と呼ばれるようになったといわれる。「中国の旅」
2011.10.14
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「蘇州旅情2-38」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。寒山寺から出て表通りを少し歩いてバス停まで向い虎丘行きの蘇州游2線バスを待った。蘇州游2線バスの終着バス停が虎丘だった。バス停に着いた後、10分ほどの道程を歩いた。呉中第一山と書かれたゲートを潜り中へと入った。 虎丘には「東洋のピサの斜塔」と別名がある八角七層の「雲岩禅寺」がある。私は「虎丘景区」の参道を歩きながらもっぱら色々な角度からファインダーを覗き構図を決めてはシャッターを切った。 中に入り少し行くと回廊の壁に虎丘の資料がガラス張りの中に展示されており更に行くと雌獅子が子供を抱えて参道を歩く人々を見ていた。「中国の旅」
2011.10.13
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「蘇州旅情2-37」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。中国一般の寺院獅子像は子供を抱える像が多く見られるし実際に見てきた。だが、子供獅子が母獅子を見上げるかのように子供をあやしている母獅子像には少し驚いた。また父親獅子が手まり前足の下に置くのではなく獅子の前に置く姿のブロンズ像に驚いた。非常に珍しい獅子像の姿と獅子のリアルな造りに新鮮ささえ感じて何枚も撮影した。 今まで見てきた獅子像は石で出来ているものが、多く、また姿も厳格な感じがしたが写真の、ブロンズ獅子はゆったりとした感じが伺える。 「中国の旅」
2011.10.12
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「蘇州旅情2-36」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。寒山寺の法堂から少し歩き右方向へ曲がると回廊に出るがガラス張りの中に歴代僧侶たちが太筆で書いた詩が飾られている。回廊には歴代の著名な書道家の書跡を彫った石が入っているとの事だった。回廊を右に曲がると張継が詠んだ詩が見える。張継は唐の詩人で、寒山寺に詩を贈った。 その詩のタイトルは楓橋夜泊と言い楓橋は、寒山寺前の楓江にかけられた橋のことをさす。 張継は官僚になる前、科挙の試験に失敗し落胆のあまり船の旅に出て、楓橋の船の中で夜を明かし、その折の詩が中心の石碑に記される。 「中国の旅」
2011.10.11
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「蘇州旅情2-35」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。張継 楓橋夜泊月落烏鳴霜満天江楓漁火対愁眠故蘇城外寒山寺夜半鐘声到客船月落ち烏鳴いて 霜天に満つ江楓漁火 愁眠に対す故蘇城外の寒山寺夜半の鐘声 客船に到る 月が落ち、カラスが鳴いたが眠れない試験に落第したことが悔しくて眠れない。船室から出てみると外気が冷たい明朝はきっと霜だろう。魚を獲る漁師の点けた松明と、その火に照らされた赤い紅葉が眠れない目にしみる。故蘇城の外にある寒山寺から真夜中を告げる鐘の音が客船まで届いてきた。 「中国の旅」
2011.10.10
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「蘇州旅情2-34」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。寒山寺の法堂の写真である。法堂は中国語読みで「fa3tang2」日本語読みは「はっとう」と詠む。仏教寺院で僧侶が仏教を講義する建物で「法堂」は主に禅宗寺院で用いられた。仏教一般寺院では講堂と呼ぶことが多い。 法堂の成立はインドではなく中国である。仏教が貴族階級に浸透し始めたころの南北朝時代から成立している。仏舎利を祀る塔、仏像を祀る仏殿と共に最重要の建物であり、日本においては仏殿の次に位置づけられるようになり大抵は寺院の中心に設置されている。「中国の旅」
2011.10.09
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「蘇州旅情2-33」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。君がみ胸に 抱かれて聞くは夢の船唄 鳥の唄水の蘇州の 花散る春を惜しむか柳が すすり泣く花をうかべて 流れる水の明日のゆくえは 知らねどもこよい映した ふたりの姿消えてくれるな いつまでも髪に飾ろか 接吻しよか君が手折(たお)りし 桃の花涙ぐむよな おぼろの月に鐘が鳴ります 寒山寺メロディを聞けば若い人達もきっと何処かで聞いたと思う歌1940年に渡辺はま子が歌い最近では平原綾香が歌っている。福田麻由子《蘇州夜曲》「中国の旅」
2011.10.08
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「蘇州旅情2-32」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。寒山寺の本殿東側に寒拾殿がありその東端には普明宝塔がある。寒山寺は奥に長い造りではなく東西に細長い境内となっている。参道から寒山寺五重の塔の「普明宝塔」が見えるが近過ぎて見上げなければならない距離である。五重の塔の普明宝塔は1995年12月に建てられた高さ52mの木造の塔である。唐代の楼閣式仏塔を模して造られた。日中戦争の戦火にも被害は受けていない。1940年の日本映画「支那の夜」の挿入歌「蘇州夜曲」の歌詞に寒山寺が登場する。「中国の旅」
2011.10.07
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「蘇州旅情2-31」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。寒山寺の寒拾殿へと向った。 「鐘楼」から北方向に「寒拾殿」はある。下の写真は高僧の寒山と拾得の2人のブロンズ像に金箔を施したものである。高僧の寒山と拾得に由来する殿ということで「寒拾殿」と名付けられている。高僧の寒山と拾得の像は仏像ではなく一瞬カラオケでもやっているのかと思うほど楽しげな2人の姿に興味津々であった。「中国の旅」
2011.10.06
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「蘇州旅情2-30」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。山門を潜り抜けると寒山寺の本殿の「大雄宝殿」が見えてくる。写真の釈迦如来像の背後に「寒山拾得図」の彫刻が配置されていると聞いた。唐代の貞観年間(627~649年)に「寒山寺」と改名される事となった当時の住職である寒山と拾得の2人の姿も刻まれていると話していた。 「大雄宝殿」の左側に「羅漢堂」があり右側に「大悲殿」があり中に入った。「中国の旅」
2011.10.05
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「蘇州旅情2-29」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。寒山寺の門を潜り抜け進むと常楽池に出る。常楽池の脇を抜けて更に進むと「碑楼」や「弘法堂」また「鐘房」に行く事ができる。「寒山寺」の出入り口は西と東の2ヶ所で西側の入口は楓橋の運河に向かっている。寒山寺の写真で見受けられ有名なのは西側の入り口で「照壁墻」の黄色い壁に刻みこまれた「寒山寺」の文字が知られる。照壁墻を通り抜けると「千年古刹の寒山寺へ」と寺門に掲げられているから見てみるとよい。 「中国の旅」
2011.10.04
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「蘇州旅情2-28」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州で「除夜の鐘」で有名な寺というと今訪れている「寒山寺」であると思う。写真は「大悲殿」脇の通り道を抜けると「常楽池」と石に刻まれた池である。 南朝時代梁武帝の天監年間(502~519)に創建された歴史ある寺院だが当初の名前は「妙利普明塔院」や「楓橋寺」と呼ばれていた。寒山寺を有名にしたのは、唐代の詩人張継が詠んだ「楓橋夜泊」の詩の中で寒山寺の鐘の音のことが詠まれ次第に知れ渡った。 「中国の旅」
2011.10.03
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「蘇州旅情2-27」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「蘇州」の写真を公開しています。蘇州の寒山寺は比較的日本人が多く参拝する。特に大晦日ともなると中国人が驚くほどに日本人の参拝者であふれかるようである。森鴎外も小説「寒山拾得」の中で寒山について触れ、徒然草の最初の佛はどうして出来たかと問われて困ったという話があった。子供に物を問はれて困ることは度々であり中でも宗教上の事では、答に窮することが多い。だが、答えを拒んで答えないままにしてしまうのは殆どそれは嘘だと言うのと同じことになる。寒山詩が活字本で出されるのを広告を見た子供が買いたいと何度も言うので「漢字ばかりなのでお前にはまだ読めないよ」と言うと「どんな事が書いてあります」と質問され困った。「中国の旅」
2011.10.02
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