浜松中納言物語 0
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2008.06.16
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「杭州西湖旅情2」「上海豫園旅情」は「杭州西湖旅情1/2」を、更新後、再開致しますので暫くお待ち下さい。質問--あなたは一人旅をしたことありますか?一人旅はない・ある・二人旅はあるの三択。皆さんのコメントでは、二人旅が多いようですね。でも一人旅の願望は皆さんあるようです。ある人は、一人旅は私の青春の思い出とのコメント。私は一人旅が好きで、若い頃から1人で旅をしてました。色々な思い出が沢山ある中で、ふと思い出すのは、2回目の北海道へ行った帰りの出来事が印象深い。(柳浪聞鶯公園の中の柳)北海道旭川から函館まで一緒に話した彼は、京都大学の学生で高校教師を目指しており、色んな夢を語ってくれた。そして、函館から連絡船に乗り、青森へ着き、そこからも同行できるかと楽しみにしていた。しかし、彼はお金が無くて、各駅停車を乗り継いで、東京まで行くと言うので、私が東京までの特急券を、購入し彼に手渡し、東京まで同行できた。彼も本当に色々な事柄を語ってくれ楽しかった。その当時私は23歳で彼は19歳だったと記憶している。東京で別れた後、私は東海道線に乗り名古屋まで、しかし、今度は特急券が買えなくなってしまっていた。(西湖天地のラウンジから柳と湖を見る)京大の彼の為に、青森から東京までの特急券を、買ってしまった為に、今度は私の特急券が800円の差で、買えなくなってしまっており、私が各駅停車で帰った。その当時、結構な時間が掛かったような思い出。そして、1ヶ月が過ぎた頃に、その京大生から葉書が届いた。お礼文の後には、世の中あんなにも親切な人が居ると、初めて知りましたと、あまり上手ではない字で書かれてあった。彼からは、その後も何度か葉書や手紙が届いた。そして、東京の高校の教師になったと書かれた手紙をもらった。その内容には、自分の教え子に、私の事を良く話すと、書かれてありました。どんな内容なのかは定かではない。質問--困った人を助け、自分が困った事あります?ない・助けたが困った事はない・騙された事があるの三択。(西湖新天地のスターバックスの小道)
2006.08.10
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「杭州西湖旅情1」「上海豫園旅情」は「杭州西湖旅情1/2」を、更新後、再開致しますので暫くお待ち下さい。質問--始皇帝とはいつ頃の人か分かりますか?約2550年前・約2250年前・約2050年前の三択。回答は、「約2250年前」でした。始皇帝は、BC247年(2253年前)13歳で皇帝になる。中国では、始皇帝が不老長寿の実がなる日の国へ、聡明な男女3000人を選び出し、送ったとある。その聡明な男女3000人が今の日本の礎になった。今の日本を作り出したのは、始皇帝の力があった。このような事が伝説として語り継がれている。(柳浪聞鶯公園入口の柳)やっと一人旅から帰って来ました。正直言って疲れました。やはり一人旅は、道に迷い、人に聞きまた迷い、有名な観光名所もさながら、朝早く年配の人が、公園などで、中国将棋や麻雀をしている人達と、話す時間も、とても印象に残った。団体旅行では体験出来ない事が体験できた。本当に色んな人達と話しが出来た。(西湖天地の店で麻雀する人たち)初めタクシーを使い、観光名所で降り、徒歩で見て周り、広い道路へ出てタクシーを待つが中々来ない。仕方なく、路線バスに乗り、次の目的地へ向う。観光名所の名前を、乗客に見せたりしながら目的地へ。バスから10分ほど歩いて、目標の観光名所に辿り着く、やはり団体旅行の方が良かったかとも思ったりする。でも時間に束縛されない今回の旅には満足だった。質問--あなたは一人旅をしたことありますか?一人旅はない・ある・二人旅はあるの三択。(西湖湖濱一公園で見つけた舟)
2006.08.09
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「上海植物園1」昨昼より上海植物園に行ってきました。上海植物園は、車で30分足らずで、門まで辿り着くのですが、始めて行った。今日何とかその上海植物園の画像を、5枚ほどでも登録しようと頑張ってますが、中々登録できなく大変です。皆さんゴールデンウィークに入り、多く人が楽天ブログを使用しているのだろうと、思ったりしながら登録している。登録に時間が掛かるだけならまだいいが、登録に時間が掛かり完了しない前に中断し、また始めからしなければならず、そのような状態が、何回も続いた。昨夜は、ADSLが不通になっていてもいつも通り、深夜2時に床に就いた。上海植物園の中を5時間歩きずめだったせいか?普段運動をしてないせいなのか?太腿やふくらはぎが重たく、痛みも感じた。この2枚の画像の登録に、60分以上掛けた。今日は、休みだから少々の時間のロスは問題ない。しかし、明日から仕事が始まる。そうなれば仕事中に画像の登録など出来なくなる。今までは、夜10時から2時ごろまでと、朝7時から8時ごろまでの時間を登録の時間に、充当していたが、丁度この時間帯にADSLが、不通の状態になるので、精神的に参っている。この2枚の画像は、「サボテンの花」と、下の画像は、何なのか分からない。今日は、中国時間5時からサウナに行って、思う存分、入浴をして来ようと予定を立てていたが、上の画像の1枚の更新で3回エラーを起こし、下の画像でも、もう7回目のエラーを起こしている。祭日の時の画像の登録には時間が掛かるとは、分かっていたものの、これほどとは思わなかった。中国人の友からも、もう2度目の電話が入った。5時の約束が6時過ぎても何の準備もしていない。今では、私が中国人の時間の観念になってしまった。3枚目の画像は断念して、2枚のみの画像のみ更新する。
2006.05.03
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「上海B級グルメ3」今日も上海浦東閔行区一体でADSLが不通のまま。画像の登録には大変時間がかかった。相変わらず外に来て、更新しているので、皆さんが思っている以上に、苦労して更新している。上海MLが主催している上海B級グルメの会が、2006年4月22日午後6時半より開催された。下の料理は、海参(hai3shen1)と言い、日本では「ナマコ」どうして海の人参の参と書いて、ナマコなのかと言うと、人参(ren2hen1)朝鮮人参と同じような薬効があるとされ、昔は重宝がられたが、今では料理に頻繁に出される。「海のニンジン(人参)」で「海参」とは上手く名付けた。「海の豚」は何?「河の豚」は何か分かりますか?ナマコを乾燥させたものを水で戻して料理をする。ナマコの硬い感じはしなく、非常に軟らかい。これは点心(dian3xin1)と呼ばれているもので、中国の食生活では、欠かすことの出来ないものになっている。13年前、お腹がある程度、一杯になりかけたときに、この点心を出されたときには閉口したものだ。しかし、今では私が菜単(cai4dan1)メニューを見ながら、選ぶ時にも、この点心を選ぶから「郷に入らば郷に従え」点心はお菓子では有るが、最後の方で食べるご飯のような感じのものと理解すれば良いと思う。画像の点心は「芝麻餅(zhi1mabing3)」で、少し甘いが、ホカホカして美味しいから、一度試してみては如何ですか?中国語で「桂魚」と言うこの魚は、中国へ来たばかりの頃は、広東省に居た為、広西省に近く「桂林」の魚とばかり思った。そして、上海付近の江南地方で、同じ魚を食べた時に、「桂魚gui4yu2」という魚でしょう?と話すと、「よく知ってますね?」と言われ、そこで話を止めておけば、良かったものを「この魚は桂林で獲れるんです」と話し、大笑いされた事があります。私も、昼のおかずで作って頂き、食べた事があります。「ポン酢」で食べると美味しいと言われ掛けたところ、結構、美味でした。皆さんもお試しあれ!青蟹(qing1xie4)と呼び、海蟹(hai3xie4)である。海蟹(hai3xie4)とは、海にすむ蟹の総称であり、河蟹(he2xie4)は、シナモスクズガニである。あと上海付近で獲れる「虫偏に旁」の蟹で(pang2xie4)この上海蟹はモチモチしている感じである。好き嫌いがあるが、私は好きで3匹でも食べれる。この青蟹(qing1xie4)は、塩胡椒で炒めてあるので、足などもパリパリと食べる事ができる。青菜(qing1cai4)の一種であり、正式名は知らない。味は、まあまあであり、噛めば味が出てくる。青菜(qing1cai4)と言えば、青梗菜(チンゲンサイ)を、思い浮かべるが、この野菜はそのような種類ではない。杓子菜でもないと思うが、ご存知の方は、コメント下さい。-------広岡@東京さんよりコメントです------青菜ですが、形からして多分上海の家庭でよく食べる「鶏毛菜」だと思います。比較的クセが少なく、アクもないため、食べやすいお野菜ですよね。----------ありがとう御座いました----------酒糧団子(jiu3kiang2tuan2zi)でも実際には、団子を、国構えに員を入れて書き、更に子を足して(yuan2zi)と、呼び、丸子(wang2zi)と呼ぶ地方も有る。一番通じる呼び方は、「ユゥェンズ」を付けるのが良い。甘酒の呼び方を江米酒(jiang1mi3jiu3)と言うが、今回ご夫婦で参加されていた奥様に、母が昔作ってくれた、甘酒のような味を思い出しますねとお話しし、頷いてました。「草冠に磨」の文字で「mo2」と呼び、「mo2gu」である。「mo2gu」の「gu」は「草冠に姑」と書き「モーグ」と言う。この「mo2gu」とは「キノコ」の事を言うのであって、別名「菌jun1」とも呼び「菌草冠に姑」で(jun1gu)と呼ぶ。キノコと豚肉のスープである。私は結構家で食べていると、思ったが、これも中々、乙な味がした。「上海B級グルメの会」の画像もこれでお仕舞いです。では、また~ ブーザン@上海
2006.04.24
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蘭の花言葉は「美人」「蝴蝶園」を更に歩いて進むと、右側に見かけた花が咲いていた。この花は蘭の花ではないでしょうか。私がまだ日本にいた頃、名古屋で行われた、蘭の花博覧会を見に行った事があります。その時に、蘭の花でも色々な種類が、有るんだなと思ったものです。もう18年以上前のことでしょうか。蘭の花言葉は「美人」その中でも白色の蘭は「純粋な愛」では、この蘭はなんて言うのでしょうね。見事な色ですから「妖艶な愛?」下の花は、何でしょうか?「黄色い花」で検索を掛けてみました。すると、凄い数の黄色い花が有りました。分からないが、ゆり科の花ですかね。それとも水仙の仲間なのでしょうか?分かりません。この花は何と呼ぶのでしょうか?
2006.02.24
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バンコク12緑の風景が果てしなく1時間の宝石店での時間は、色々な漢語や、誕生石の英語名・中国名・日本名などノートに書き、その宝石の宝石言葉などを、書き出していたら、1時間では足らなかった。案の定、片隅で必死に書き写していた私を、中国人が、探しに来た。ここは撮影禁止だから時間を、持て余してると思ったら、今度は、書き物ですか?日本人って皆貴方のようです?と聞かれたが、・・・?バスは既に待機しており、バスの2階へ階段を上った。中国の皆さんから、また貴方が一番後ですよ!って、言われて、話そうと思ったら、探しに来た中国女性が、この人宝石の言葉を書いてましたよ!と言ったものだから、皆さんは、私にも見せて!女性達・・だった。バスは、バンコクの街からリゾート地のパタヤへ向け、先を急いだ。その途中の道路脇の景色をカメラに収めた。行けども行けども、緑の風景が果てしなく続き、椰子の木畑が結構、長い距離に渡って生い茂っていた。私は、カメラを外に向け撮影し、ふと座席を見ると、私の方を見て、ニッコリ微笑みを浮かべながら、バスが走っていても写真を撮ってるのですか?と首を傾げた。途中、ガソリンスタンドでトイレ休憩した折に、スタンド近くのセブンイレブンで、コカコーラを2本買った。外に、15分間出ていただけで、汗が噴出して来た。既にバスが走り出した中で、先ほど買ったコーラの、蓋のネジを切った途端に、コーラの炭酸が50cmほど、勢いよく飛んだ。運悪く私の隣の席に医科大学の女子大生が、座っており、その手に掛かってしまい大騒ぎ・・・。そんなドタバタな時間も過ぎ去り、快い睡魔が襲ってきた。ふと、周りを見ると皆も眠りに落ちていた。バスは、そんなことに関係なく、一路「蝴蝶園」へ向け、走り続けていった。
2006.02.23
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バンコク11名も知らぬ 遠き島より流れ寄る 椰子の実一つとはじまる歌を思い出した。伊良子岬へは若い頃よくサーフィンに行った。豊川インターには何度降り立った事か。ネット友人より、伊良子岬にちょっと待った~!「伊良湖岬」が本当の名前ですよ!とカキコあり!あれほど通った伊良湖を間違えるとは、日本語をよく間違えるようになった・・・これはタイの椰子(ye1zi)この時の気温が34度あった。私でも汗ばむ暑さであった。中国の人は、タンクトップ姿もあったが、私は、半袖の白の肌着に長袖のシャツを羽織っていた。この下の画像の椰子は氷で冷やしてあり、そのまま飲むと、何とも生き返るようであった。
2006.02.15
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バンコク10仏塔プラ・スワンナ・チェディを支えているヤック少しの時間暑さも忘れ見入っていました。ヤックとは鬼の事ですが、いろんな表情をしてます。タイでは鬼が寺院の中で守りを担当しているが、その意味も回廊に描かれた壁画にヒントが、隠されているかも知れない。徐々に勉強しよう。
2006.02.10
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バンコク9三島由紀夫小説 「暁の寺」 ここへ行ってはみたいと思っていたが、河をボートで下る時に通っただけだった。旅行スケジュール表にも中国語で眉南河(mei2nan2he2)鄭皇廟(zheng4huang2miao4)途経(tu2jing4)と確かに書いてあった。画像はエメラルド寺院の建物の先が非常に曲がっており興味を抱いた。タイの国民の90%が仏教徒と言われるが、その仏教(小乗仏教)からの影響だろうか?中国にもこの影響が広まり中国建築物の礎を造ったのだろうか?
2006.02.09
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バンコク8バンコクの寺ワット プラケオ (エメラルド寺院)中国語で玉佛寺という。玉佛寺(エメラルド寺院)は1782年にラマ1世がバンコクへ遷都した際に王朝の守護寺として建立された。その金色の寺へ行く途中の左側に日本で言う鬼が、左右対称に立っていた。高さは3mほどはあると思われた。上の画像の右側の鬼が小さくしか撮影できなかったのは、それ以上後に下がれなかったからである。そして金色の寺の上から撮った下の画像。日本の鬼とは相当ニュアンスが違う。
2006.02.09
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バンコク3通関を終えた人達が待っていた。中国人の中で誰が一緒のツアーなのか添乗員に一人ずつその人達の所へ行き紹介をして頂きノートに記した。旅行へ出発する時に撮った上海国際空港いつになく、花やちょうちんが飾られ、空港から旅立つ人や来られる人の目を和ませていた。
2006.02.08
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バンコク1やっと部屋に帰りつきました。今回も中国人に紛れてのツアーでした。バンコクで風邪をひき、シンガポールでスコールに遭い、風邪をこじらせてしまいました。シンガポールから再度バンコックへ移動途中に、ボストンバックが壊れてしまい、タクシーに乗り知っているだけの英語を連発し、やっとの思いで買って来たが、アクシデントに遭遇・・・。しかし、今回も無事に帰れたので良しとするか!その色々な話は画像を更新しながらとしましょう・・・。そして、南十字星は空が曇っていて見る事が出来ませんでした。残念!
2006.02.07
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上海金茂大廈1本日中国時間午後2時にいつものタクシーが、私の住まいの玄関先に車を停めて、相変わらず車から降りタバコを吸っていた。私は手編みのマフラーと真っ赤な羽毛のジャケットを手に持ち、階段を降り、「やっ!」と運転手に手を上げてみせた。運転手もそれに応えるかのように手を上げていた。車に乗った私は先に中国ビザを預かってくれている所へ行くように指示した。中国での年末という事もあって車が込んでいた。パスポートを急いで頼んでくれた中国女性と別れた後、航空チケットを取りに旅行会社へ向かわせ、約束通り頂いた。その帰りに、急に上海テレビタワーの東方明珠へ行きたくなり、タクシーに頼んだ。15分ほどして東方明珠へ着いたが、車を停める所を探していたので、広い道路の片隅に停めれば良いよと促したが、罰金になるのが怖いようで、仕方なく10分後に迎えに来てくれるよう良い置き、私は車を降り、直ぐに撮影した。一番上の画像は何となくテレビ塔という感じがしない。何となくセメント工場のよう。真ん中の画像は、正面入口の左側から旗の揺らぐのを待って撮影した。下の画像は300mほど離れた所から撮ったが左からの日差しで画像が飛んだ。
2006.01.26
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北京故宮17中国と龍は、いにしえより深い関係が有るが、獅子も中国にとっては切り離せない動物である。でもこの獅子は何ともいえない形相です。髪は逆立ち、足の爪もリアルに出来いる。今にも飛び掛らんとするようですが、これも魔よけ!御花園へ行くまでにある庭園で、小さな池には鯉が泳いでおり、石で作られた橋の上には観光客が鯉を眺めていた。そして餌をやるからだろうか、それともゴミを落とすのだろうか?水面には白い紙くずのようなものが浮かんでおり汚いと感じた。私はゆっくりと当時を偲ぶ時間も無く、ここより急ぎ立ち去った。
2006.01.25
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北京故宮221655年再建された坤寧宮の北側の石段を降りようと前方を見ると綺麗な赤の坤寧門が目に入り、私は急いで石段を上に上がった。そして、直ぐ下の黄色の瓦と前方の坤寧門の窓枠の朱赤とのコントラストを気に入りシャッターを切ったものの、肉眼で見た感動は出す事が出来なかった。カメラのレンズを通す場合、やはり露出とシャッタースピードの関係をよく把握しないとと失敗する。坤寧宮の北側の石段を降りながらも、ふと私を呼ぶような声に振り返っても知っている人は居なかった。でも何となくカメラを向けシャッターを切った。左側の東暖殿では多くの皇帝・皇后の世話をした女官が無念で怒り苦しみ泣き、それでも人を愛する事も許されず、どれだけの女官が悲しみの中に散ったのか?そう思うだけで私の胸は切ない思いに駆られながら重い足取りで石段を降りていた。
2006.01.24
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北京故宮12坤寧宮は1420年に創建され1655年再建された。明代には皇后の寝殿として利用され暮らしたところ。明の崇禎17年に、李自成率いる農民軍の北京入城時に、崇禎皇帝(1628~1644)は皇太子を脱出させ、皇女を斬ったのちに故宮の北にある万歳山(紫禁城後方の景山)で自害した。皇后もここ坤寧宮で自害し、明の滅亡を引き起こした。清代には祭神の場所となった。清代に入ると改築され、皇帝の結婚儀式の場所となり、皇帝・皇后の活動の中心でもあった。
2006.01.23
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北京故宮11乾清門から一気に乾清宮へ向かった。多くの人が養心殿へ向かっていたが、この時、中国人女性ガイドさんから「今何処ですか?私たちは後20分ほどで出口ですよ」と電話が入った。「もう少し掛かりますから待ってて下さい」と言った所、「何処に居るんですか?」「乾清宮を超えた所」というと「早くして下さいね」と、しかし、私は乾清宮へも達してなかったので、急ぎ乾清宮へ。乾清宮の瓦の先にいろんな動物が飾られていた。そしてどんな動物なのだろうかと考え出したが、また悪い癖がでたと思い直し、その何の動物なのかそして避雷針のようなものも設置してある。魔よけなのだろうか?また分からないまま画像の更新をした。この乾清宮は皇帝・皇后の活動の中心でもあった。
2006.01.22
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北京故宮10中和殿の横を通り抜ける時、一瞬のチャンスがあり撮影した画像。この女性は中国の女性で画像に収めてより、「貴女の後側ウエストの刺青は本物ですか?」と、彼女は「本物ですよ」と答えてくれた。今中国の若者の間でこの刺青が流行っている。職業柄パンツのベルト通しの付け位置が左右で1センチ違う事に気付いた。Low-Waistの場合、特にこのベルト通しの付け位置が悪いと品質基準を満たさないのである。その後私は中和殿の裏へ回り中和殿の上から保和殿を撮影。
2006.01.21
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北京故宮9太和殿の石段の両脇に置いてある「焼香の鉄の器」これって何と呼ぶのでしょうか?禅宗の寺や儒教の寺の前に必ず置いてあります。ここ紫禁城にも置いてあります。これは香をこの中に入れて焚くと思います。いろんな形の物がありますが、いつもこの画像や寺の前の背の高い焼香の器の紹介の時、何と呼んでいいのか困ってしまいます。このような焼香の大きな器を何て呼ぶのでしょうか?
2006.01.20
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北京故宮4午門を背に太和門を撮った画像であるが、前方に固まっているツアー客がいる。ブルーの目印旗が見えるが、今回のツアー客の人達である。私は昨日のガイドさんと同じだが、ツアー客は昨日と一人として同じではない。昨日ガイドさんは一日中英語を話していたが、今日は殆ど中国人であるため、中国語で説明していた。しかし、私は相変わらず自由行動をしている為、ガイドより「何処に行っても良いですが必ず連絡して下さい」でも「私は夢中になると何処にいるか分からなくなり、ガイドさんより電話を下さい」とまたまた無理を言ったらため息。下の画像は「太和門」に立ち、「午門」方面を撮影したものである。
2006.01.19
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明の十三陵20「定陵」入口からそんなに遠くない所にある亀の所へ再度来た。始めは亀の頭と亀の横から撮っていたので、亀が背負っている石碑に何が書いてあるのか分からなかったが、今正面から見ると何も書かれてない事に気付いた。
2006.01.18
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明の十三陵15博物館には、冠服や金銀の器、玉器、生活用品など多くの副葬品が陳列されていた。この木で造られた像が誰で何の為に用いられたのか分からないが、魔除けに使われたのだろうか?そして当時の馬が鞍を付けた置物を画像に収めた。発掘した3000点の金銀玉の宝飾品や美術品が「定陵博物館」に順次展示してあった。二度のガイドからの「余り時間が有りませんよ」との電話に慌てていた。そして十分確認しないまま、当時のお金や着物を撮影したが、また人の頭の上から撮ったためピントが合わないもの、画像が斜めになったもの、またフラッシュが使えず手振れをしてしまい多くは更新出来ない。これは鉄瓶?
2006.01.17
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明の十三陵11明の十三陵にある14代皇帝「万歴帝」の陵墓「定陵」の出口を出て少し歩くと「昭稜」に着く。ここでは大きな石碑があった。そして石碑の礎石の縁に綺麗な龍の彫り物があったので画像に収めた。龍の頭が右を向いたものと左を向いたものの左右対称を撮ったつもりだったが、大きさはや位置は左右対称ではない。
2006.01.16
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明の十三陵6万暦帝も22歳のときから定陵の造営を始め、その造営は6年の歳月と白銀800万両を使って定陵を完成させた。当時の白銀800万両は、当時の一千万人の民衆の一年分の食糧に匹敵したという事で、それを現在に換算すると1200億元(1兆8千億元)凄いとしか言いようのない資金を投じて造らせたのである。ここで14代皇帝「万歴帝」を非難するつもりは毛頭無いのである。このような歴史的文化遺産を残せた事は評価され、1999年世界遺産としても登録されている。私も日本で36歳で自分の墓を建てた。しかし、当然の如く父が先に入った。その後、母の33回忌の時に九州へ出向き分骨してもらった。この時に初めて母の顔を知った。そして今悩んでいる事は、育ての母が既に75歳になっている。同じ墓に入れていいものか?いずれ私もその中に入る。何となく大騒ぎになるのではと悩みの種。行動してから考える私の性格を直さなければと思うが、既に墓を建立し、その中に父と生みの母が入っている今、複雑な関係に万暦帝の事をとやかく言えないが、明朝の滅亡の引き金となったのが万暦帝である。/center>
2006.01.15
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明の十三陵1「定陵」参道左側に大きな亀の背中に石碑が設置してあった。何を意味しているのかは、そのとき撮影に必死でガイドの説明を聞いてなかった。またガイドの説明は英語でもあり、中国語で説明をしてくれればと思ったりもした。亀の頭を撮影した。亀の頭ってまじまじと見ると、鬼瓦のようにも見えた。そしてこの亀の鼻を手で撫でるとご利益があるとの事。手で触るところを画像に収めたが、私は迷信は信じないので、写真に収めることだけに専念した。
2006.01.14
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万里の長城14毎回旅行をして思うことは、必ずと言って良いほど工芸展や翡翠などのみやげ物屋へ連れて行かれることである。今回もホテルを出て高速道路に入って間もなく工芸品の店へ連れて行かれたが、今回は鍼灸や脈を診る所へ連れて行かれた。ツアーの皆さんはイギリスやアメリカ人だったので、医師に英語の通訳が付いていた。レディーファーストで女性が先に行った。脈を取ったかと思うと直ぐに何処が悪いかを伝えていた。そして漢方の高い薬を買わされるのである。私も見てもらったが脈を見るだけで、私にも色んな事を言っていた。始め英語だったので分かり難かったが、中国語を話されて90%理解できた。最後には高い薬の処方箋を書いてくれたが、それは買わなかった。
2006.01.13
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居庸関雲台跡で元代1345年に建てられラマ教(チベット仏教)の白石塔が建っていたとの事であるが、元末明初に破壊されてその台のみ残っていた。その記念碑を見て、今登ってきた男坂の方を向いてその全景を画像に収めた。居庸関の関所の跡を画像に収め、右側は畳翠閣で中は翡翠などの工芸品のみやげ物屋さんになっていた。そして待ち合わせ場所に行ったら同じツアー客のイギリスやアメリカ人が先に待っていてお互いに写真撮影をしていた。私に気付くと「ハーイ!ジャパニーズ」と声を掛けて下さった。彼らはとにかく元気だ!
2006.01.12
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万里の長城8石の階段を一歩一歩登りつめながら、耐えられなくなると他の人がそうするように、息を切らせ休憩をする。私の場合はその休憩の間に写真撮影がある。あまり息を切らせ辛いときはカメラを出すのも嫌になるが、自然と手がカメラに言ってしまう。父が日本では有名な会社の社内報の編集者で、俳句やコラムを書いたり、校正や写真の撮影の仕事をしていて晩年はフリーのカメラマンとして活動し、私は小学校から父の暗室へ出入りし、現像液につけたあと画像が浮き出てくる感動をまだ新鮮な思い出として時々思い出す。やはり好きなのだろう。
2006.01.11
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万里の長城311年前香港で航空チケットを購入し北京まで来て、西直門のバスターミナルまで行き、そこから八達嶺長城まで行ったが、万里の長城でも今回は居庸関長城へ来た。ここは居庸関長城の関所跡で切り立った峰をぬって造営された難攻不落の九塞のひとつ(紀元前5世紀)画像はその頃の兵士の像と武器のモニュメント。
2006.01.10
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北京の漆工芸14石を削って作る印鑑のことを篆刻(zhuang4ke4)という。中国では銀行の通帳でさえ日本のような印鑑は必要ない。その他殆どの文書はサインで済む。しかし、警察(中国公安)ではサインだけでは駄目で、拇印が必要になる。この画像のような篆刻(てんこく)は中国何処でも観光地に行けばお目にかかれる。そして早ければ30分ほどで彫って下さる。いつも書道の最後の印のためにほしいなとは思うけれども、実際にその場に遭遇すると時間がないのが現実である。
2006.01.09
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北京の漆工芸9作品群を描いている横の台には、油絵を描くのに必要な道具が所狭しと置いてあった。画像には写ってないが絵の具も15cm×3cmの大きなチューブが置いてあり、その横にパレットナイフ、パレット、ペインティングオイル、油つぼなど、また必要な色をオイルに溶かし茶碗に入れてあった。そして手にはペインティングナイフを持ったその目は真剣である。ふとそこに学生時代の私を思い出した。絵が好きで油絵も良くやった。そして下は万里長城の力強いタッチ。
2006.01.08
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北京の漆工芸4仏像の見分け方になると、これまたさっぱり分からない。画像の仏像は菩薩なのだろうか?今まで菩薩は女性だとばかり思っていたが、元々男性という事。仏教発祥の地インドでは菩薩には立派な髭がある。仏教伝来の途中に慈悲ある菩薩の顔は段々優しくなり、日本へ伝来し変化して行ったのだろうか?この菩薩像も高額な値段が付いていたが、何となく分かるような気もする。しかし、私には全く必要ない。なぜならば信仰とは心内面の問題だからであると信じているからである。そしてこの菩薩は観音菩薩なのかとも思ったりもしたが分からない。
2006.01.07
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北京の特産品は堆朱、玉器、七宝焼(景泰藍)、象牙彫りが北京で最も有名な四大工芸品で、堆朱とは、伝統的な漆工芸の一つで、黒、黄、緑など色の異なる漆を幾重にも塗り重ねることによって、その積層断面の美しさを表現するもので起源は唐代。日本には、14世紀の中頃に伝えられたとのこと。画像のオスとメスの獅子は中国では有名で、上海豫園などでも各文化財の入口門に大きいものから小さいものまで色々と置かれている。そしてこの北京の店の全景を画像に収めた。一番前の長刀を持った武将は三国志の関羽である。
2006.01.06
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上海北京直行便3今回上海北京夜行寝台特急にしたのは、列車を降りてより地下鉄に乗り、市内の自分で予約したホテルに着くのが便利であるからであった。そして、地下鉄の階段の上り下り以外は快適であった。しかし、10年前に乗った地下鉄の感じと今では、何となく10年の歴史を感じさせるが如く、古めかしく感じた。それは上海の地下鉄に慣れてしまっているからかもと思いながらチケットを購入した。
2006.01.05
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上海北京直行便1上海北京直行便。夜7時発車し翌朝7時に北京火車站に着く。寝ている間に北京に着くと言う事ではあるが、乗り合わせたお客が静かであれば、旅行への思いを馳せながらという情緒旅情も味わえるが、夜中遅くまでがやがやとか新聞を読んで新聞紙を何度も翻す音が耳につくと悲惨な列車の旅行になってしまう。夜行寝台列車軟座の方は、食事が付いている。付いていると言っても画像のような何とも味気ない食事。良くこの列車を利用する中国の人は事前に手作りの弁当を作ってきている人も有ればフライドチキンを購入して来ている人様々。私は仕方なく画像の弁当を食べた。上海発北京行き特急列車は間もなく発車する。
2006.01.04
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中国の列車では各車両の車掌さんがお客様を出迎えてくれます。外で出迎えるのはチケットの確認のためだが重要な仕事である。そして夕食の各部屋への配達と、朝食の注文を各部屋毎にお聞きして回ったりと至れり尽くせりでした。日本のその昔はこのような光景はあったのだろうか?また中国の列車で軟座(特急)の場合も同じように車掌(女性)が出迎え、お客様へお絞りから飲み物まで全てを遣りこなし次の駅(站)が近づく頃に、制服に着替えてお客様を出迎える。今の日本ではとても考えられない事だが、ここ中国では行われている。でも人件費が高騰すればとも思うが人口13億の中国、今世界から注目されている。
2006.01.03
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北京方面への候車室(待合室兼出発ロビー)の時計の針はまだ午後6時10分前であった。出発は午後7時だったので、待合室入り口通路に設置してある肯徳基(ケンタッキー)で、チキンを購入して控え室隅で食べながら、駅構内の行きかう人の群れを目で追った。大きなバッグを抱えている人や自分のホームがどこか分からず、待合室の番号を見たりまた戻り人に聞いたりする人もいた。
2005.12.31
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上海火車站へ上がって行くエスカレーターの前に立って撮影。私の立っている右斜め後側に荷物検査するところがあります。この上に上がりきると各候車室(控え室)とその前に改札口がある。私は北京へ行くので入って左側だった。
2005.12.30
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この上の画像は上海火車站(ステーション)のアップ画像です。そしてその上海駅の地下一階はどうなっているかと上海駅の下の画像を更新しました。中央の地下にはタクシー乗り入れ場があり、そこで下りると前後に4台の大型テレビが設置されている。そしてエスカレーターを上りきるとそこが上海駅の入口ですが、その画像は次に更新したいと思います。
2005.12.29
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北京へ向け旅行の初日の夕方の上海火車站の画像。北京へは飛行機を使わず夜行寝台列車を使った。殆どが上海空港から飛び立つのであるが、夜眠っている間に北京の中心地域の北京火車站に付くので時間の節約にはなると思ったが。
2005.12.29
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この彫ってある文字が天南kong1tong2この字がどういう文字なのか分からないままになっていた。ある書物によると山偏に空の文字と山偏に同の文字で、kong1tong2と読み、甘粛省にある山の名と言うそうだが、字が違うゆえに、本当のことは分からない。下の画像は太陽の光が山越に梅を照らしている光景である。
2005.12.28
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石林での岩肌に半ば感動しながら歩いていたが、そんな時ふと途中に造られた池の中の鯉を見て心和み、鯉の動きを時間を忘れて眺めていた。そして歩き疲れたそんな時、地元の年の頃16歳ほどの阿詩瑪(a1ci2ma3)にお願いして、写真を撮らせて頂いた。まだまだ乙女の初々しさ漂う感じである。
2005.12.26
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皆さん一斉に注目し、見上げている標的は一体何なのでしょうか?と質問を受けました。手を広げている男性の前がその娘でその前が妻です。この3人は私を見ています。この3人以外はもっと上を見ています。と言う事で画像アップ。皆さんが見ていたのは、石灰岩で出来た石林の岩は長年の風雨により侵食し、そして出来た芸術品の「象」のように見える岩を見ていたのです。2億年前にここは石林は大海であったが、その後の地殻変動で地面に露出。約200万年前に石灰岩の溶解作用で石柱に分離され、更に長年にわたる風雨の浸食で石林ができた。なんとなく頭が落ちて谷間に挟まっているように見えますね。この壁の高さは40mくらいあります。もし震度5くらいの地震が起こったら、この一塊の岩はどうなるのでしょうか?下の画像はなんとなく恐竜に見えませんか?高台に登る前にその高台に設置された庵を画像に納めた。今回の旅行も最後のほうになってしまった。この旅行のために、2ヵ月半競歩紛いの早歩きと運動器具で身体を鍛えたので苦痛には感じなかった。しかし、今はそれもやってはいなく、もし今突然に旅行に行く事になったら大変だと思うが実行に移せない。今日はお客様がみえましたので、上海中心街の南京西路のレストランまで行ってきました。明日はクリスマスイブということもあり、上海のレストランもクリスマスムード満々、食事もお客様の前で、ちょっと失礼とは思いましたが、「ちょっと待った~!」と撮影させて頂きました。その画像はまた更新致します。高台の庵から下の岩場を撮影、中心辺りに人が蟻のように見えるのが分かりますでしょうか。自然の前には人なんてちっぽけなものでしかない。雄大な景色や星空を見上げる度に思う事ではあるが、もっと大きな気持ちで接しようと!ゆかりんさんのページで、クリスマスが近づくと思い出すナゾで、まだサンタクロースさんを信じていた少女の頃、クリスマスの日に目が覚めると頭元にプレゼントそれはなんと赤いスポーツカーが!なぜスポーツカーなのか謎、そして私はスポーツカーはまずスタイルがイイ、ハンドル操作も楽で曲がりやすい、ブレーキもよく効き、個性的なものが多く、何よりスポーツカーに乗ると嫌な事も吹っ飛びます。ご両親は貴女にそんな人生を歩んでほしいと贈り物に託したのでは・・・?ちょっとロマンが過ぎたかなと書き込み致しました。メリークリスマス!
2005.12.24
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石林も奇峰怪石が林立している。樹木のように直立する岩石もあれば、険しい岩壁ようなものもある。その中で観光客の手垢にまみれて光る存在の捻じれた幹を画像に収めた。そして下は私と同じツアーの中国人、手を広げているのが北京から参加し、一番前のめがねを掛け、石林には似合わない服装をしている人は江蘇省から参加。皆さんご自分で事業をされている実業家たちである。
2005.12.21
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中国明代(14世紀から17世紀)に有名になった。この石林は200万年前に形成され発達した石灰岩からなる奇岩怪石がさまざな姿態をなす。この画像の部分も石林で有名なところである。何万年の風雨の侵食により画像のような岩になった。
2005.12.20
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石林の文字がいつ頃彫られたのかは定かではないが、文字が繁体字であり、右から左へ書かれ石林が林石になっているところから1920~30年頃なのか?デタラメな事は書けない。下は天造奇岩と書かれている上に細かい字で書かれてある文字は、群峰壁立千嶂畳翠~~などとノートには控えたが屏風のように重なり峰は群れとなり壁のように立っている。というような内容が連綿と綴られていた。
2005.12.17
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ある意味この画像は石林を代表する画像かもしれない。よく空がコバルトブルーでこの岩もきれいな色で鮮明に撮影された画像を見かけるが、今回の旅行ではそれを望む事が出来なかった。どんより曇った空と少し霞の掛かった条件化での撮影。やはり何度も通い良い条件で撮れる日を待ち望むべきなのだろうか?
2005.12.16
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昆明市から115キロ車で1時間半離れた雲南省昆明市東南部に石林は位置する。緑の芝生と海底から隆起し何百万年もの風雨の浸食で形成された岩石の林の石林、高いものは40メートルの岩もあり、そのコントラストが鮮やかだ。
2005.12.15
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中国でも四大自然景観の一つである石林は、初めて行く人の目には、私がそうであったように、とても新鮮な感動を受ける事であろう。またこの画像の更新でもアップしてきた昆明の民族で女性の事を阿詩瑪(a1ci2ma3)と呼ぶ。
2005.12.13
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