浜松中納言物語 0
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「西岳華山の旅37(完)」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。険しい華山登山もロープーウェイで、降りる頃には、夕方近くになっており、急ぎ荷物を預けてあるホテルへ行った。ホテルで西安行きバスの時間を、聞いていたところ、ホテルまで荷物を、届けにきたトラックの運転手が話をしており、フロントの人が「あんた西安へ帰るの」と、聞いていたが、私の所へ来て「西安手前の、長安区までなら乗せて行っても」と・・。私は長安区と西安市中心と、どれ位の距離、離れているか知る由もなかったが、フロントに挨拶して2トントラックに乗った。華山を出て暫く走ると高速道路に入った。どれくらい走ったのか、私は疲れから熟睡し、起きたところが何処かも分らなかった。もう直ぐ長安区に着くよと言われて時計を、確認するとホテルを出て1時間40分ほど過ぎ、私は何も気づかず寝入ってしまった事になる。約束通り長安区まで乗せてもらったので、100元を手渡そうとすると、要らないと断られた。長安区で降り、旅行バッグを引きずりながら、まずは腹ごしらえと肉料理を注文した。少し、ビールも飲んだが清算時点65元だった。タクシーに乗り西安空港まで15分程の範囲で、ホテルを探してもらったが三ツ星ホテルだった。翌日13時10分発のフライトで上海まで帰った。次回の旅は「蘇州・周庄」を予定している。
2010.08.03
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「西岳華山の旅36」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳西峰まで、8分ほどのところで、両足の痙攣により不安を感じ登頂を、断念し引き返したが、やはり少し後悔。1時間40分の道のりだったが、下りは、1時間20分でロープーウェイ乗り場へ着いた。普段から運動していない事を後悔した。だが、ロープーウェイ乗り場へ下る道を、通り過ぎてしまい、北峰近くまで行き過ぎ、引き返すという無駄をしてしまった。ロープウェイ乗り場へ着いたものの登山客は、先に降りたのか誰も待っていなかった。私一人で乗ったが、登りは6人で狭く感じ、降りるときは1人のため、広く感じた。一人で乗っていると、癒される思いと、下を見て不安になる気持ちとが交錯していた。そして、不安はこの先、西安までバスがあるか、というような不安に変わっていた。今回の旅は、体力の限界を感じて断念したが、転んで怪我をしたりするよりは良かったのかも。
2010.08.02
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「西岳華山の旅35」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山の登山道を下りながらも、左右の景色を見ながら花を探した。高山植物が咲いていないかと思ったが、もともと一枚岩が多い華山でもあり、松の木は多いものの花は見当たらなかった。心の中では、危険な所を避けて、目標地点を踏破出来なく充実感はなかった。そんな中でも、岩が途切れたところに、花の名前は分らないが高山植物に出会った。その昔、尾瀬や八ヶ岳、また、中央アルプスや北アルプスへ行った時にも、重たいカメラとレンズを背負って、登ったものだが、崖の危ない所に、一輪の花が咲いており、その花を撮るため、かなり危ない思いをしながら撮影した。昔はデジカメなどない時代で銀塩カメラに、36枚撮りフイルムを入れ、1ショットに、3枚ほどしかシャッターを切れなかったが、デジカメの時代になった今、気軽に、シャッターを押せる分、気合いが入っていない。
2010.08.01
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「西岳華山の旅34」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山の単独登山は完全走破出来ずに、中途半端なままで終わってしまった。だが、東峰や南峰また、西峰へは、あと少しの所で筋肉の不調により断念した。強行突破して大きな怪我をしてしまっては、仕事にまで影響してしまうと無理せず、引き返してしまったが、若くはないゆえに、断念して引き返す事も出来たのか・・?結局、登れたのは5つの峰のうち、2峰だけ。北峰と中峰で、北峰を最初に行っておいて、良かったと思うし、今回の不調な足では、最後に北峰を残しておいては、結局何所にも、登れずに山を降りなければならなかった。ロープーウェイ降り場口までは、1時間40分ほど、登りよりは早い時間で到着出来るかもと、思ってはみたものの疲れ切った両足で、更に衝撃の多い下りでは、十分に気をつけて、降りなければなどと思いながら下った。
2010.07.30
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「西岳華山の旅33」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山で有名な「長空桟道」絶壁に4・5枚の細長い板を鎹で、つなぎ合わせた足場を、上のワイヤーに、カラビナにつけた命綱を絡ませて、渡って行くが、私は断念した。断念した一番の原因は、両足の筋肉の、疲労が限界に達していたことだった。「長空桟道」は南峰へ向かうルートにあり、一般の登山道から、20mほどロープを、伝い降りたところにある。だが、ここでは転落事故も多く発生している。天候の急変により、あたり一面霧だらけで、ルートを見誤ったり、滑りやすくなった崖より、転落事故を起こしてしまうケースも多い。華山の険しい登山道やロッククライミングの、ポイントでは1ヶ月平均10人ほどが転落死を、遂げており、私は体力の限界を感じ、引き返したことは言うまでもないし後悔もない。転落事故の中には、経験豊富な人が多く、初登山や不慣れな人の転落事故は少ない。
2010.07.29
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「西岳華山の旅32」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山の中峰の高さは2042.5m。中峰の別称玉女峰と呼ばれる。海抜2042mは日本北アルプスの山々に、比較すれば、相当低いイメージがする。だが険しさという点を比べてみると、勝るとも劣らないと豪語する人も多い。中峰が玉女峰と呼ばれる由縁は、中国春秋時代に、秦の王女の弄玉が、仙人である蕭史の吹く簫(笛)の音に、すっかり感激、宮廷生活を放棄した。そして、仙人の蕭史と風に乗って、華山の中峰に飛ばされ住みついた。この伝説の話が今に伝えられている。
2010.07.28
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「西岳華山の旅31」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山金鎖関から東峰の中間あたりに、中峰へ縦走出来る登山道があり、その険しい登山道に入り少し後悔した。一枚岩に造られた石段であるが、鎖を持たなければ登れない角度であった。カメラをバッグに収納しバッグを石段に、擦れないように、背中の方へ回し登った。面倒でも一度金鎖関まで戻り、回り道の、安全な方法を取った方が良かったかも・・。中峰の玉女峰まで行くと足がガクガクした。このままでは、先へ登れないだろうと思い、自分で片方ずつの足をマッサージはじめた。いつもなら、これほどの疲労感を感じないが、今回の旅行前に体を作るための時間がなく、着実に体の衰えが忍び寄っているにも拘らず、いきなり飛行機で飛んで来てしまった。中峰より左方向へ進めば南峰へ登るための、長空桟道が見れるとのことでまた寄り道をする。
2010.07.27
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「西岳華山の旅30」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。どこの山でも初めは川沿いの緩やかな、登山道であるが、次第に急な登りになる。槍ヶ岳などでも松本側と高山側から登る。高山側からの方が緩やかであるが、最後の2時間はかなり急な登りになる。華山の場合は、ロープーウェイが出来た分、簡単に登れるため、登山者の危険意識に欠ける。昔の詩人は華山の尾根道で恐怖と死を、覚悟して遺書を書いたと物語で伝えられる。私は金鎖関から中峰・西峰の予定だったが、東峰への登山道へと向かった。だが途中で東峰を撮影だけ済ませたのち、金鎖関へ引き返したが、来た登山道とは、違うルートで中峰方向へ向かった。この時点で両足にはかなりの負担を負わせ、普段の運動不足が石段を一歩ずつ登る太腿に、辛さを感じ、登るスピードもかなり落ちた。
2010.07.26
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「西岳華山の旅29」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山は古来より今も一本道しかない。写真は北峰から登って来た金鎖関。これより左へ行けば東峰へ辿り着き、右折れすれば中峰へ着く。中峰から左方向へ行けば南峰方向へ、そして右斜め前へ向かえば西峰へ。1930年から1949年頃まで国民党の兵士や、共産党の解放軍兵士たちが、この一本道を、通り作戦を練っていた事も岩への文字で、その当時の様子を伺うことができる。まだロープーウェイがない1990年頃までは、山麓の玉泉院から徒歩北峰を目指し登り、金鎖関までの一本道を目指し歩き続けた。
2010.07.25
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「西岳華山の旅28」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。天下一の険しい山華山主峰は南峰で、落雁峰と呼ばれているが、今回は、西峰の蓮花峰を目的地として登った。華山には東峰の朝陽峰と北峰、そして、南峰と西峰、中峰からなっている。中国北魏時代に書かれた地理書の、「水経注」と呼ばれる書物の中には、遠くから山を望めば花の形に見えると、記載されており、花から華山になった。華山は中国五岳の山の一つとして、道教の山と数えられており、道教の道士の修行の場と知られる。その昔は、仙人が住む山として伝わり、仙人に一目逢いたいと人々は登った。華山の中で危険な個所も多くある。だが、一歩ずつ着実に登れば安全である。足下を確認しないで、よそ見をして登ると、転落する事も多い、あとから更新する写真の、地点では年間に120人は転落死をする。
2010.07.24
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「西岳華山の旅27」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。金鎖関の手前にある平安鎖区。登山道の安全柵の柱には、一生平安と書かれたタスキが、巻かれていたが、1本10元する。中国での平安の意味は、「無事」と言うことの意味に使う。他にも意味があるが、無事という、意味が、一番無難な感じである。華山は険しい山として知られている。登山道を登りながら、山の角度を見ると、これぞ絶壁と呼ぶのかと思うほど角度がある。登山道の中にも、上から下を見ると、下の石段が見えない不安感から、後ろ向きに、降りる人も見受けられる。登るときは、意外と楽に登れるが、自分の目線から石段が近くに見えるが、降りるときには、自分の身長分の高さから、下を見るので、恐怖感が先に立つ。
2010.07.23
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「西岳華山の旅26」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山金鎖関へ向かう途中に、岩に彫られた文字が数多く見かけた。いぜん彫られた文字を削り落し、その上に新たな文字が彫られていた。鴻と彫られているが、オオトリと読み、オオトリの声というような意味だろうか。華山は一枚岩で出来た山肌が多く、その山肌に石段を彫り、その石段を登る。危険が伴い、1年で120人が転落死している。その昔、北アルプス穂高岳を縦走していた時、女子グループの一人が転落して死亡した。私も手伝い遺体の収容までは順調に事が運んだ。だが、まだ転落死したことを知らない遺族に、山小屋から電話連絡しなければならなかった。意を決して女の子が遺族に電話をしたが、泣いてばかりで、亡くなった事が伝わらない。結局、警官から事務的な連絡が行っただけだった。山を簡単に理解し、浮き石を踏みつけ転落した。華山は頑丈な岩なので、その点では危険は無い。
2010.07.22
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「西岳華山の旅25」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。急な登りの華山登山道を、ゆっくりと、風景を撮影しながら登っていると、下の方から甲高い男性の歌声が聞こえてきた。右手に杖を持ち、一段一段を踏みしめながら、ゆったりとした速度で登って行く人に出会い、その人の後を追ったが、ゆっくりと、登っているように見えても、置いて行かれた。少し休むというので、私も横に座り休んだ。5分ほどの時間であったが、色々質問した。私の質問に笑いながらも、嫌な顔せず、丁寧に答えてくれたので20元を手渡した。写真の左手に20元を持っているのが、分るだろうか。この人も華山で担ぎ屋をして、25年との事で、50歳くらいかと思ったら、60歳とのことで、毎日、荷物を歌いながら、運んでいるのが若さの秘訣とか。大きな声で歌いながら登るのは、自分に、元気付けのためと、リズムを取っているとの事。
2010.07.21
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「西岳華山の旅24」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。険しく狭い登山道を登って行くと、平地に出来た土産物屋に出くわす。多くの人は、目もくれず先を急ぐ。私は、土産物は買わないが、写真だけ撮影するので、あまり歓迎されない。中国人が日本の観光地に来て、写真だけ撮って、何も買わないので、土産物屋さんから苦情が出ているとのこと。私は、逆に中国の人から、あまり歓迎されず、写真だけなら早く行って下さいくらいに、思われているのかとも思った。いろいろな土産物が売っているが、華山登頂記念として買う人は、ロープーウェイで下って、乗り場付近の、売店で買う人が多いようである。登覧華山の赤い布のタスキが売れているようで、近くの登山道の安全を確保する柱や鎖に、縛られてあったが、記念に持ち帰る人も多い。
2010.07.20
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「西岳華山の旅23」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山は、8千万年前の地質の活動により、出来た山で、花崗岩でできている。人間が自然と関わってきたのは、わずか50万年で、実質歴史に残るのは、5千年ほどであり、風雨による浸食は、想像を絶する長きに渡り行われた。華山は火山の噴火によりできたものではなく、地殻変動により起こり巨大な一枚岩なため、山頂までの道のり程が長く、険しい。また華山は断崖絶壁が多く、登頂は困難で、昔から華山に登る道は一本しかないという。最近になり、一枚岩に階段を作り、セメントで固めたところも多く、昔に比べれば、安全で登り易くなっている。華山は、雨が多いと聞いていたが、天候に、恵まれ、遠くの岩肌も霞まずに移っている。
2010.07.20
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「西岳華山の旅22」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山は、道教の聖山として、多くの神話が生み出してきた。華山には、道教の廟も多く残り、岩壁の彫られた石刻は到る所にある。また華山は険しさのあまりに、500年前まで登山道の開発はされなかった。中国では、皇帝が即位すると、道教の、名高い山に登って式典を行った。だが、華山だけは皇帝が登ったことはない。清朝に入り、山麓に道教の廟を建立し、その廟で、封禅の儀式を行った。封禅とは皇帝が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式。その昔に、道教の廟が高い所に無いのは、現在のようにロープーウェイも無い時代、華山険し過ぎ建立が困難だったのだろう。 険しい華山の上まで登ったのは、地元の、村人が、少数の道士を案内して登った。
2010.07.19
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「西岳華山の旅21」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山登山道の両サイドには鎖で、登山する人の安全を確保している。私は単独行だったが、他の中国人の、ガイドがツアー客に、鎖が錆びていると、手に刺さり易いので手袋を購入するように、説明していたが、私もつられて買った。だが、錆びている様子もなく手袋を、使うこともなく石段を一歩ずつ登り、途中で振り返り撮影した画像が上。登って行く道の脇の岩には、必ず文字が、彫られていると言っても過言ではない。中には、以前彫ってあった文字を削り取り、その上へ新たに文字を彫った所もある。写真の彫られた文字は「胆大」と、中華民国時代に彫られたもの。民国時代の登山道は現在のようには、整備されておらず、危険な個所もあった。大胆で、かつ細心を心がける。つまりは、度胸は大きく持って登るが、注意は細かく払うべきことを書いているのか。
2010.07.18
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「西岳華山の旅20」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山には南に聳える落雁峰と、東峰の朝陽峰、そして西峰の蓮花峰が、有名であるが、今回運動不足により、ふくらはぎに痙攣を起こしてしまった。単独登山のために、仕方なく中峰の、玉女峰まで行き、他は断念し下山した。上の写真は西峰方面の崖である。下の画像は、登山道脇に設けられた出店に、売られていた飾り物類である。華山で一番高い峰は南峰の落雁峰で、2160mあり、北アルプスの峰々に、比べると1000mも低いが険しさは違う。また中国の五岳の中で、一番高い山である。 とくに華山は、険しいことで世に知られ、昔から多くの人々の心を引き付けてきた。華山には名所旧跡も多く、山麓から頂上まで、道教の廟や、自然の名所が見られるが、体力をつけて、余裕をもって登りたい。
2010.07.17
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「西岳華山の旅19」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山北峰から上天梯の石段に登る右側に、三元洞という建物があり、岸壁にも、三元洞と文字が彫られている。三元洞には立ち入り禁止となっているが、少し登って行き右方向を眺めると、西峰の切り立った崖が目の前に見える。西峰の崖は、直角に近い角度はあろうかと、思われる崖が、下の方まで延びている。その崖でロッククライミングもできる。崖は木で下の方までは見えないが、裕に500mはあるのではないかと思う。私は、登山をしていた頃、最終行き着いた先が、ロッククライミングだったが、150mほど上の、垂直岩場で3m落下し、それ以後登っていない。
2010.07.16
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「西岳華山の旅18」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山に限らず、どこの山の岩には、文字が彫られており、彫った文字の中に、赤か黒の塗料が塗られている。上の画像の文字は「正義戦勝」と彫られ、彫られた年号を見てみると民国34年8月18日。民国34年は、民国最後の年号である。この1ヶ月半後に中華人民共和国が建国した。旧日本軍が中国を侵略したが敗北した。その後、毛沢東の共産党と蒋介石の国民党との、内戦のつづきが始まり、共産党が勝利を得た。華山の岸壁に正義戦勝と共産党が彫った。下の画像は、光緒23年に書かれ、日本では、明治30年ごろに当たるが、殆どが清朝から、中華民国時代に彫られたものが多い。
2010.07.15
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「西岳華山の旅17」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山へ登った日は天候に恵まれた。上海の中国友人の話では、雨や霧に遭い、足下が悪く、大変怖い思いがしたと話していた。だが、山での撮影は、少し霧がかった方が、絵になるのであるが、険しい華山では、岩山を登るようなところもあるので、一年に120人ほどが転落事故死がある。華山の山並みは険しく、奇峰がそびえ立ち、中国で最も険しい山といわれ、無理は禁物。古くから、華山には道は一本しかなく、その登山道は非常にせまく険しい道の連続である。今回の旅では、最終危険とされるところへは、行ってはいない。怖いというより、ふくらはぎの、けいれん発作により、断念してしまった。登山道の脇に安全を確保するための鎖には、多くの南京錠が掛けられている。鍵は各自持ち帰っているので、開けることはできないが、恋人同士で、誓った願いの南京錠ならば、結果の良し悪しは別にして、いつまでも、二人の心に残り続けるのでは・・・?
2010.07.14
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「西岳華山の旅16」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳北峰から下り休憩所の中を通り抜け、中峰方向へコンクリートで固めた登山道を、歩いて行くと、暫くして金庸が題した、華山論剣と彫られた石碑と出会った。北峰の山頂付近だけに金庸の石碑が、建てられているものばかりと思っていたので、白セメンで綺麗に塗られた石碑を撮影した。その折に、食料品類を肩に担ぎ、一歩ずつ、石段を着実に踏みしめて登る中国人が、私の横を追い抜いて階段を登って行った。私は、旅に出る3週間ほど前から、体力を、付けるために、仕事が終わってより、8階建てのマンションの非常階段で運動をする。時間にして50分ほどだが、階段の上り下りは、夏ともなると、汗が吹き出し、階段の上に、汗の雫が落ち、6段毎に雫の輪ができる。8往復から10往復するので、途中で嫌になるが、雫の輪を見つけては、もう少し頑張ろうと、自分に言い聞かせながら上っている。だが、体重が4キロでも肥ると足が辛くなる。自分の前を行く人は、肩に40キロ以上の荷物を、担ぎ石段を登るので、汗が落ちているのにも、納得をしながら、シャッターを切っていた。
2010.07.13
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「西岳華山の旅15」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。華山北峰から中峰・西峰へ向かった。北峰へ登る途中まではロープーウェイを、利用できたので、疲れはさほど感じなかった。北峰から下り、休憩所の中を通り抜け、中峰方向へ登って行くと前方に、見えてくるのが、道教の廟の裏側。中国の五岳と呼ばれる山には、それぞれ道教の廟があり、どんなに、有名な山であったとしても、道教の廟がなければ、五岳に入っていない。下の画像は、険しい山道を荷物を担ぎ、中峰途中の山小屋まで食物を運ぶ人である。荷物の重量も40キロほどになり、天秤棒の、前後に荷物を分けて、担いでいるが、慣れても、一気には運ぶことが出来ない。少し登っては休み、また荷物を担いで登る。ヘリコプターでは、経費が膨大になり、この人たちがいなければ、山小屋では、登山客に対して何もサービスができない。
2010.07.12
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「西岳華山の旅14」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。中国人の中で「金庸」を知らない人はいない。それほどに著名な金庸が書いた華山論剣の、文字が石碑に彫られていたが、ここが北峰だ。多くの中国人が、金庸の石碑の前で、記念撮影をしていたが、その合間を縫って、撮影した一枚が、上の金庸の石碑画像である。金庸は浙江省で生まれ香港で武侠小説活動し、多くの人に読まれているが、記者でもあり、文化大革命では真の目的が劉少奇打倒にあり、終末期には林彪の失脚をそれぞれ予言した。金庸は政治評論家としての才能も発揮した。1999年より浙江大学の人文学院長を務めた。金庸は武侠小説の第一人者であり、長編物は、12篇書いており、中編小説は3篇を発表。作品の多くは香港で、映画化されている。日本でも長編・中編と出版されている。中国一険しい場所での人気ある北峰に、金庸の華山論剣の石碑が建ち違和感はない。上の写真は北峰頂上に建てられた案内石碑で、下は、北峰から少し下った所に造られた廟の、門から、中岳への方向を撮影した。
2010.07.11
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「西岳華山の旅13」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山の登山道脇の鎖に、掛けられた南京錠は登山客や、旅行者が自分たちで用意するのかと、思いながら北峰に向かい歩いていた。しかし、その疑問は直ぐに解けた。登山道の脇で南京錠が売られていた。若い二人に限らず、将来に不安を感じ、気分転換をしに険しい華山へ来た人や、今の幸せを保ち続けたいと願う人達にとって、売られている南京錠は悩むことなく、購入し、願いを込めて鍵を掛ける。南京錠には、具体的な願い事が彫られ、目にした者の気を、そそるようである。道教の国、中国の人々にとっては、このような、具体的な物での願い事は、その気のない人たちを衝動的な気分にさせる。日本でも神社などで願い事が書かれた絵馬を、買い、ぶら下げるような心理にも似たり。南京錠には「昇進し金持ちになる」とか、「思いが成し遂げられるよう」また、「一家が平和で幸せでありますように」
2010.07.10
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「西岳華山の旅12」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。「旅客止歩」と書かれた注意書きだが、日本語に訳せば、登山者立ち入り禁止。私が20代に登山をしていた北アルプスでも、古い登山道や、よく事故が起きる登山道に、立ち入り禁止の注意書きがしてあった。だが、注意書きの立札の向う側が知りたくて、わざと人目を盗んで乗り越えたものだった。登山客が何十年も入っていない事もあり、岩には苔が生えている個所もあった。身の安全を確保する鎖は錆びつき、相当、長きにわたり人の往来がない事が、分かったが、そんな事が分かってしまうと、恐怖感が先に立ち、とても前進する気にならず、来た道を引き返し、皆が登る道を登った。写真は、南京錠や華山登山記念の布テープ。
2010.07.09
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「西岳華山の旅11」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山は中国五岳の中でも一番、険しい山として知られている。ロープーウェイの設置は切望されて来たが、工事は難航する事が想定され、設置計画は何度も変更された。1993年頃よりロープーウェイの計画。1994年より2年半の歳月をかけて、1996年にロープーウェイは稼働を始めた。ロープーウェイ設置は、中国独資では、その当時の技術では難しくシンガポールの、企業と中国華山管理局の合資で進行された。ロープーウェイの設備はオーストリア製。オーストリアのロープーウェイ設備は、定評があり、アジアからも売り込んだが、シンガポールの企業の最後の一押しで決定。日本のロープーウェイ技術も定評があるが、最終オーストリアの設備を導入した。写真は、登山道脇に打ち込まれた道案内の鎖。
2010.07.08
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「西岳華山の旅10」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。 西岳華山の北峰へ向かう途中に、変わった今まで見た事がない獅子像に、出会って何枚もシャッターを切った。下の雄獅子像は左前脚で抑えるマリは、一般の獅子像と変わりないが、獅子の、顔の作りが何とも面白い。上の雌獅子像では、子供の獅子が、母親獅子に戯れる姿が面白い。 今まで子供獅子が母獅子の胸に、しがみつく姿は見たことがあるが、口移しに甘える子供獅子の姿は、初めて見たので暫しの間足を止めた。下の写真は、山麓から登って来る、ロープーウェイと降りて行く姿を、望遠レンズで撮影した。今回携行したカメラは1台だったが、、レンズは3本持ってきた。カメラバッグに入れて持ち歩くも、ズシリと重たくなって来ていた。
2010.07.07
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「西岳華山の旅9」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。ロープーウェイを降りてしばらく石段を登り、南峰や西峰・東峰、また右側へ歩けば、北峰からの登山道が合流しており、観光客も多く休憩していた。ロープーウェイを使わず、登山道を、登って来る人たちもいたが、私には、そのような芸当は出来ない。華山の登山道は、唐代に作られ、北峰から、尾根を伝って南峰に到る登山道を、80年の歳月を使い、作って来た。勿論、現在のような石をセメントで、固定し、鎖で道案内を施したのは、ごく最近のことである。北峰へ向かう登山道に記念亭と、彫られたアーチが設置されていた。もうすぐ行くと北峰ホテルに着く。1800mほどの地点に造られたホテルだが、ヘリコプターで資材を運んだとはいえ、人力の程は、想像を超えるものがあった。
2010.07.06
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「西岳華山の旅8」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。北峰へ向かう登山道の両側のガードに、沢山の南京錠でカギを掛けられている。日本でも見る光景なのかは分らないが、中国の観光地では、鎖に鍵を掛けて、赤いリボンに、願い事を書き、吊るした光景を見掛ける。行楽地の欄干にカギを掛けておくのは、記念のためだけではないようだ。日本の神社などでは願掛けのため、おみくじや願い事を書いた紙を、木の枝などにくくり付けるが、そのような気持ちにも似ている。若い二人がお互い愛し合う気持ちが、いつまでも変わらないようにとの思いと、離れないように鍵でつなぎとめる意味もある。南京錠のカギは二人が、それぞれ持ち、財布の中に入れておき、何かある度に、鍵を掛けた時の気持ちを思い出すとか・・。
2010.07.05
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「西岳華山の旅7」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。ロープーウェイ乗降場より100mほど登ると、華山北峰山小屋に向かう登山道へ出る。昔、北アルプスなどでは山小屋の世話になり、山に入ると3か所の山小屋で泊まった。だが、若いから出来たという事も言えるが、今なら北アルプス穂高や槍ヶ岳への縦走すら、足が着いていかないだろう。華山の北峰の山小屋で宿泊できることを、知っていたとしても、泊まる勇気が湧かない。写真は、その北峰山小屋へ行く門の前に、置かれた獅子像で、雄と雌が作られ置いてある。銀行などの門の前に置かれている獅子像に、比べれば、作り方も大きさも違うが、雄獅子像の右前脚には手まりを押さえつけ、雌獅子像の左前脚には子獅子がいた。ロープーウェイの降り口が近く、ワイヤーロープがギヤーと摩擦する音が、ガタガタ、ゴトゴトと音が聞こえてきた。
2010.07.04
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「西岳華山の旅6」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。北峰のロープーウェイ降り場にて、これから登る西峰方向の岩肌を撮影した。ゴンドラには、朝早くから登山した人達が、既に登山を終え降りて行く所もみられた。朝7時から登って来れば、ゆっくり登っても、4時間で登ってこれるが、私は山麓ホテルに、宿をとっていたが、既に下山する人と、すれ違い、何とも複雑な思いがした。だが、彼らはツアー団体の人たちで、これから西安まで行き、西安観光をするため、急いで行程を消化していると勝手に納得した。私は、今回西岳華山登山のためだけに、上海から飛行機に乗ってきたなどと、自分の立場を正当化するために言い訳をした。現に、私の後からでも、どんどん登山客が、ゴンドラから降りて来ており安心した。
2010.07.03
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「西岳華山の旅5」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山には、北峰、南峰、西峰、東峰がある。ロープウェーは北峰が終点である。北峰へも自分の足で登らなければならない。久しぶりの山であったが、何となく、ハイキング気分で出発したので、誤算が生じたが、一番の誤算は足であった。中国人ガイドらしき女性が、説明しているのを、少しの間、聞いていたが、どんな事があっても、一人で山に登らないようにと説明していた。また西岳華山は中国五岳の中で一番険しい山で、急な所は鎖につかまり登らないと危ない。手袋をロープーウェイ乗り場でも売っていたが、ここでも買えるので買っておけば役に立つと、私も、その言葉につられて軍手を買った。鎖が錆びついて、その錆が手に刺さることや、手が汚れることを避けるためだと話していた。
2010.07.02
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「西岳華山の旅4」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。西岳華山の6人乗りロープーウェイから、中国人を押しのけ、外の景色を撮影した。私が日本人と知っていたので、日本人に、対してあまり良い印象は持たなかったかも、知れないなどと思ったりもした。「智取華山路」と岩肌に掘られた文字。中華民国時代から華山は軍の計略で、攻め取った華山路と戦いに取っては、譲れない華山の路だったようだ。中国では各地の岩肌に文字が彫られている。しかし、現在では勝手に文字を彫れば、重い罪に罰せられ、法律で禁じられている。「五岳華山険居首」と掘られた文字。華山は五岳の中で険しい山第一である。ロープーウェイの中から撮影し、150mほどの、距離があるので、実際の文字の大きさは、分らないが、かなり大きく彫られている。
2010.07.02
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「西岳華山の旅3」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。陝西省華山山麓のホテルに泊まり、ロープーウェイで北岳の降り場へ来た。ロープーウェイの長さは1500mだが、8分ほどで北岳に着いた。右へ登れば北岳頂上へ向かい、左へ向かえば西岳への険しい山道。写真は、北岳のロープーウェイ駅付近。お茶飲み場で休憩してからとも思ったが、時間も昼過ぎになっていたので、華山の険しい山肌を撮影し、先を急いだ。中国五岳の中では、一番険しい山として、知られているが、この時点では、その険しさのほどを知らなかった。
2010.07.01
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「西岳華山の旅2」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。前日に旅行社が用意してくれていた、 入山チケットとロープウェイの往復チケットを、カメラバッグに入れ、ロープーウェイ乗り場まで、歩いて行ったが、間もなくオートバイが、警笛を鳴らしながら追いかけてきた。ロープーウェイ乗り場まで500mもないが、ホテルのサービスなのだろうと思ったが、オートバイの後に乗ることは気が引け断った。何度も、乗って下さいと懇願されたが、手を横に振り断った。オートバイの人も、仕方なくオートバイを押して私に付き添った。ゴンドラ乗り場へ着くと握手をして若い運転手は、大きなエンジン音を轟かせながら急ぎ去った。ゴンドラ乗り場では150人ほどの人が待っていた。20分ほどしてゴンドラに乗ることができた。私は一人だったので、2人と3人のグループに、紛れ、15人ほど追い越し乗ることができた。
2010.06.30
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「西岳華山の旅1」 「中国写真ライフ」では、陝西省西山華山の写真を公開しています。中国陝西省華陰市にある険しい山の、華山へ行って来たが、華山は、道教の、修道院があり、中国五岳の一つである。中国の五岳とは、山東省の泰山東岳、陝西省の華山西岳、湖南省の衡山南岳。山西省の恒山北岳、河南省の嵩山中岳。今回は、陝西省の華山西岳への旅。 上海から西安飛行場に行き、西安旅行社に、行くため、西安駅前までバスに乗って行った。西安駅前に着く頃に携帯から連絡したところ、華山まではバスで行って頂きますとのことで、旅行社事務所でお茶を飲ませてもらった。午後3時のバスに乗り、5時半ごろに着いた。山麓バス停から、旅行社が手配したホテルへ。市内のホテルより粗末な造りのホテルだが、宿泊料金は市内のホテル並みだった。翌朝、ゆっくりと起き出し、遅い朝食後に、身を軽くするため、フロントに荷物を預け 華山のロープーウェイ乗り場まで行った。一人旅とはいえ、のんびりし過ぎた感がした。
2010.06.29
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「僧侶の武術禁止時代」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。1644年から268年間中国を支配した統一王朝清の時代、皇族により北少林寺は守られ、南少林寺は全滅させられた。1978年香港映画「南少林寺VS北少林寺」でも如実に表現され、南少林寺の僧侶の歴史も清の朝廷一旦終息してしまった。中国での仏教も220年前に終息を迎え、現在では仏教を、信奉する人たちも多く、拳法でも信教の自由を有している。清の時代は、嵩山少林寺を表面では褒めていたものの、その反面、一方では圧力をかけていた。また少林寺の修繕をしたり書を贈ったりしてもいたが、僧侶の武術の訓練などは禁止しており、若い僧侶たちは、武術の訓練や経験もなく、外部から容易く責められた。南の少林寺は、福建省に建てられていたが、清の軍隊、3万人に囲まれ、寺に火をつけられ、多くの僧侶たちを、死なせてしまい、伝説では5人助かっただけだと伝わる。南の少林寺の建物は無くなり、農地のみになってしまった。だが、皇帝の軍隊は、嵩山少林寺にも火を放ち非常に、大きな損害となり、嵩山でも僧侶の武術は禁止されており、訓練していない若い僧侶は死んでしまった。この焼打ち事件のあと清の朝廷は次の皇帝の時代に、3年間かけて河南省の税金で少林寺を修復した。日本の歴史の中でも、寺院の焼打ち事件も多くあったが、その時代の頭首の思想によって悲惨な事件を巻き起こした。今回の嵩山少林寺への旅はこれで終わりです。次の旅は、浙江省杭州西湖の写真を紹介する予定。
2010.05.05
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「塔林は破壊されず残った」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺の僧侶は、侵略者や盗賊から身を守るために、厳格な訓練を受けた僧侶の武術は世界的にも有名になった。1966年に始まった文化大革命では、古い文化を破壊し、貴重な寺院、仏像や経典類を破壊し続けた。僧侶も、紅衛兵達には逆らう事が出来なかった。寺院は物色され、塔林の一部も破壊された。だが、少林拳は禁止されずに、1976年文化大革命が、終結するまでの間も修行は続けられ、1980年代に入り、古代の武術への関心が深まり、映画が作成されると、少林拳は多くの人が知るところとなり若者にも希望を与えた。少林拳はカンフーとして多くの映画の中でも使われ、多くの若者は、カンフー映画スターになることを熱望し、一時は2万5千人の少林拳を習う若者で、あふれたという。1930年ごろ少林寺寺院が火災に遭い、再構築したが、その後、文化大革命で破壊された建物は、新しく建てられた。写真の塔林の多くは破壊されずに、現在まで形を留める。当番制で僧侶が、その塔林を守るために立っていた。そして、塔林を触る者やよじ登ろうとする者に注意を与えていた。撮影している人にも注意を与えていたが、良く聞いてみると、撮影する側ではなく、撮影される側の人が墓に足を掛けたり、墓に登っている事に対して注意をしていたと分かり、私は僧侶の後方から頭を通して、情景を撮影した。
2010.05.04
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「形状は六角、八角や円形など」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺から西側に歩いて行くと歴代の高僧の墓地が、見えてくる。レンガと石で作られた墓塔で、中国に現存する最大の墓塔群で231個の塔がある。墓地の中を歩くと、一つ一つの塔が林のように、感じるが、歴史も古くから一つずつ建てられてきた。塔の正面の石には、詩が彫られ、塔の形・段階や、塔の高さ・大きさは、その時代を象徴している。塔のも多種多様ではあるが、高さは15mほどで、塔の形状は正方形、長方形、六角形、八角形や円形など。塔は優美なデザインと浮き彫りが刻んであり、塔の正面には塔主の名前や号が書かれている。塔の前には石碑が立てあり、塔主の生涯の足跡や、また塔を立てた人や年代が詳細に書いてある。少林寺塔林は、書道、彫刻を研究する芸術宝庫であり、仏教歴史、少林寺歴史の研究資料でもある。 写真は、少林寺の塔林を見守る僧侶たちだが、疲れたのか、ひと時の間、眠っているところを撮った。シャッター音が聞こえたのか、目が覚めこちらを見た。
2010.05.03
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「少林寺と呼ばれる由縁」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国の五岳(五名山)は道教の聖地であり、陰陽五行説に基づいて「木行=東」「火行=南」「土行=中」「金行=西」「水行=北」の五つに、分けられており、聖山とされている。1)東岳泰山(山東省) 2)南岳衡山(湖南省)3)中岳嵩山(河南省) 4)西岳華山(陝西省)5)北岳恒山(山西省)の五つの山を五岳と呼ぶ。神話から来ているが、中国で有名な安徽省の黄山は、この五岳には含まれてはいない。少林寺は五岳の三番目の中岳嵩山にある寺院である。インドから中国に渡来した達磨により禅が伝えられた。達磨は初め、インドから南方へ渡来し、宋の皇帝と、問答をしたが、達磨の心と皇帝の考えが違い、当時、北にある国である北魏の皇帝と打ち解け、嵩山に禅を、広めていったので、嵩山は中国禅の名刹である。また少林武術の中心地としても世界的に有名。日本で知られる少林寺拳法は、現在の嵩山少林寺の、拳法とは違い、少林寺拳法と少林拳とは別物である。少林寺と呼ばれる由縁は、少室山の北麓の森林の中に、建てられている為、少林寺と呼ばれている。中国仏教の禅宗の発源地であり、少林寺拳法でも有名。写真の塔林は、少林寺の西側にある歴代高僧の墓地。
2010.05.02
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「第一日目は裕福な人達だったが」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。上海万博が昨夜開幕したが一日の入場者目標40万人弱、だが今日の入場者は20万人強だった。それも、大声で入場予約券を奪い合う姿に、驚いた日本の人もいたのではないだろうかと思う。だが、中国では日常茶飯事の出来事である。今でこそ、経済大国になり礼儀正しい人も増えてきた。20年ほど前は、病院の受付や薬局、駅のチケット売り場、我先にと前に向かい、受付などの窓口では何人かの手が、入り組んで入り込み、遅れる一方であった。まだ5年ほど前まで、我先にと割り込みはひどかった。最近になり、落ち着きを見せてきたが、道徳観念が低い。私は看護センターへ行き、責任者に何度もお願いした。婦長さんに、ここは中国だからね。皆に並びなさいと、言ってみたって、理解できないでしょうねとの返事。それでも、仕方ないなと渋々スキー場のリフト乗り場の、混雑ぶりに似たような所へ行き、大きな声で、ほらっ!日本人から、順番に並びなさい!って言われているわよ!そんな事を言っても、受付でつかみ合いの喧嘩をしている人には、全く効果はない。そればかりか、聞こえた人が振り向き、私を見て、日本人は中国を侵略に来て何を言っている!偉そうな事を言うな!と罵声を浴びた事もあり、今日の、第一日目は裕福な人達だが、混乱は当然の出来事と思った。
2010.05.01
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「家庭での道徳教育がおろそかに」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国では上海万博が開幕し庶民の盛り上がりや、期待も凄いものがあり、インタビューに、答えているほとんどの人が称賛をし、今や、中国は世界のトップになりそうな勢いを感じる。沿岸部の庶民の生活も以前とは大きく変わり、日本の東京オリンピック後、大阪万博時代よりも、スピードは早く、多くの人々が、今や、日本など怖くないと口にする。だが、それは中国沿岸部の裕福な人々であって、内陸部の暮らしは、日本の戦後10年ほど経った、時代のような生活で、電気もガスも水道もない。そんな貧しい生活を送る人々も多いが、不幸感はなく、みんな、明るく生きている。中国内を旅行している人たちは、裕福な部類に入る。だが、その裕福な人たちが、高僧の墓によじ登り、記念撮影をしようとしている姿に驚いた。中国は文化大革命時代、仏像や建物を、破壊した時代があり、その時代に生きた青年の、子供たちの時代が、現在の若者にあたる。文化大革命時代後、それまでの孔子の礼儀も、どこかへ消えてなくなり、子供たちへの、家庭での道徳教育がおろそかになってしまった・・。全てが、そうではないが、多くの中国の人々は、過去を悔み、将来を憂いている人も多い。だが、これから中国の若者の多くは高等教育を受け、世界の中国の名に恥じない行動を取ってくれるだろう。
2010.05.01
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「塔林は歴代高僧の墓」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国の五大名山の一つである嵩山の麓にある少林拳で、名を世に馳せた総本山少林寺で、創建は496年だが、1928年の出火で建物や魏代の仏像などすべて消失する。現在の少林寺の建物は、最近復元された建物である。映画「少林寺」でも、復元された建物が使われた。また建築物は新しいが、写真の塔林は、500年当時からの塔。少林寺の映画では、ジェット・リーやユュー・ハイなどが、格闘する場面があるが、写真の塔林での戦いのシーンである。少林寺の僧にとっては、重要で神聖な場所にもかかわらず、観光客に公開されているのが、一般の寺院と違う所だ。一般の寺院では、解放されているが重要文化財の墓などは、体の良い柵が作られ、中には入れないような所もある。その意味で、多くの観光客が訪れ、観光名所ともなっている。 だが、中国の人達は塔林にもたれて記念写真をを撮ったり、中には塔によじ登ろうとしている若者もいて驚いた。日本の寺に造られた墓であるならば、墓の上によじ登る人は、居ないだろうし、見かけた事もない。思想の問題なのか。
2010.04.30
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「歴代の僧侶の墓」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。嵩山少林寺の碑林は世に知られているが、中国碑林で、最も有名なのが、陝西省西安の、孔子廟にある石碑と山東省の曲阜碑林だろう。碑林とは古代からの歴代の師が書いた詩を、石に刻んで、建てたものであるが、写真は塔林に入っていく所である。塔林とは、少林寺歴代住持と僧侶の墓地である。僧侶が生前、志を塔に刻み、功徳を明示した。私も自分の墓だけはと思い、名前を刻んである。唐代から現在までの墓塔の数は231塔ある。いつ頃から塔林と呼ばれるようになったかは、分からないが、塔が増えるに従い林のように、見えてきたことから塔林と呼ぶようになった。全国でも重要な文化財と保護されているが、塔林の形は、一定ではないように見えた。だが、このような重要なものが観光客が自由に入り、手で触れる所に建てられており、歴代の僧侶の墓へ、いとも簡単に入れる事が不思議に感じた。
2010.04.29
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「少林薬局は実在した」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺をテーマにした映画やドラマは少なくない。1976年、少林寺でカンフーをマスターした、ハーフの男がアメリカ西部を渡り歩くドラマ。勿論、中国では放映されていないが日本では有名。1982年の香港映画「少林寺」は大ヒットし、ジェット・リーの名前は不動のものになった。嵩山少林寺にも、映画を見た多くの若者が、押しかけるようになり、一時は武術学校だけで、2万人ほどの若者を教えるようになっていった。写真の「少林薬局」は中国政府から登録を許可されないまま、控訴したが、秘薬を売る際になり、内容の分からない薬では、登録が許可できないとされる判決が2004年にあった。さらに、少林寺のブランドを世に広めようと、インスタントラーメンや弁当やお茶などの商標として、「少林薬局」の登録を中国政府に申請したが却下された。少林薬局は実在したが、健康食品に薬の登録は出来ないと、判決が2010年4月26日に下りたが、少林寺側は、商評委を相手にし提訴をしたようだったが・・・。
2010.04.29
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「想像上の動物が飾られている」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。河南省の嵩山少林寺で撮影を続けていたが、少林寺の建物の屋根の端には走獣が飾られている。中国に限らず東南アジアでも日本でも走獣が、重要な建物の屋根のコーナーに飾られている。走獣だけではなく、仙人や龍、獅子など、想像上の動物が一列に並んでいる場合もある。少林寺の千仏殿の屋根には、日本の城の天守閣などにも、飾られているようなシャチ鉾にも似た、龍の飾りがあった。全ての飾りものは魔除けとして置かれている。沖縄のシーサーと同じような感じである。シーサーは、今日では権威の象徴であり守り神、魔除けの神、また、除災招福を導くものとして、屋根の上や玄関に装飾用としてつくられた。故宮などに行くと、屋根の上には10個ほどの魔除けが、規則的に並んで置かれているのが分かる。
2010.04.28
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「バックアップは必要な作業」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。前のページで、外付けHDDの方が故障率は高いと、言われており予備が必要であると書いたが、壊れたHDDからデータを取り出すには専門知識が必要。HDDは回転する磁気ディスクを読み取る形のもので、CD-R盤を思い浮かべれば、良く分かると思う。書き込み可能なCD-Rに書き込んだ後、ディスクを見れば、書き込んだ跡がハッキリと分かるようになっているが、HDDもこれと同じようなもので、書き込んだ後、削除や、フォーマットし、また新たに書き込み出来るようになっている。だが、レコード盤と同じような、傷が付きカチッカチッと、音がなり動作がない場合、HDDを交換しなければ復旧しない。原因は、パソコン駆動中に何かの衝撃が加わったなどの、不意の事故により、HDDはもろくも傷付いてしまう場合が多い。保証範囲内でメーカーに修理依頼をした場合は、新しいHDDに、交換されて送って来るが、困った事にHDDの中身は、何もない。勿論、Vistaや7のソフトは問題なく動くが、OfficeもWordも、徹夜して作ったレポートも写真の画像データの全てが無くなっている。藁をもつかむ思いで、メーカーサポートへシリアル番号等伝えて、事情を聞いてみると、HDD故障時のデータの復旧は行っていないと、告げられ、それでも冷静に質問していても、データのバックアップは、必ず行って頂く事は、お客様には必要な作業ですので、これからは、バックアップを心掛けて頂くようになさって下さいと事務的だった。
2010.04.27
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「外付けHDDの方が故障率が高い」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。自分のミスから壊れた外付けハードディスクだったが、そのHDDの中には、思い出の写真データが入っていた。一度でもブログで公開していれば諦めもつくが、一度も公開していない写真データもあり悔しかった。5時間飛行機で飛び、陸路を6時間走り、険しい道を、重たい撮影機材を掲げて行った雲南省の思い出などの、写真や、北京故宮と同じセットを作った浙江省に造られた、横店映画村で撮影した写真データなども入っていた。だが、まさかこんな事になろうとは、壊れる前に考えた事は、あったものの、まさか現実の事となるとは思ってもみなかった。予期出来る能力も持ち合わせていない自分には、今では、ノートPCのハードディスクと2つの外付けハードディスクに、保存しているが、こんな時には何も起こらないから拍子抜け。しかし、面倒くさいと止めてしまったら、また直ぐに、壊れてしまうのではと、止める事は出来ないから困ってしまう。外付けHDDが、昔のように高価なものだったら、出来ないし、他人にしてみれば、どうでもよい写真であるが、一つ一つに、思い出の写真であるから、バックアップ保存は、これからも、行って行くだろうが、外付けHDDの方が内蔵HDDより、故障率は高いと言われており予備が必要である。つづく
2010.04.26
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「保存データはゴミと化した」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。先日来より、既に壊れて7カ月以上経つ外付けHDDが、何とか立ち上がり、中のデータが取り出せないものか、長男に頼んであったが、電話にて自分のパソコンまでが、壊れそうになってしまって、一般の復元ソフトでは、手も足も出ないから中のデータは諦めた方が良いと言われ、私はその時、魔がさしたのかゴミ箱へ捨てておいてくれと、電話を切ったものの、翌夕、やはり捨てないで残しておいて、欲しいと電話連絡をすると驚いたような様子で電話を切った。なぜ驚いたのかを1時間ほど後から連絡が入り、親父から、HDDをゴミ箱へ捨てておいてくれと言われたので、そのまま、すぐにゴミ箱へ捨てたが、その翌日がゴミ回収日で夜の間に、妻が全てのゴミをまとめて、翌朝捨ててしまい、親父から、連絡が入った時に、ひょっとしたらゴミ収集車が来てなく、ゴミ収集場所に置いてないか確認しに行ったという内容。この10年ほどの主なる写真データを保存していたが本当に、ゴミと化してしまった。息子に罪があるわけでもなく、問題ないと、電話を切ったものの、何ともやるせない気分であった。つづく
2010.04.25
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