浜松中納言物語 0
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「一芸も習得する事はできない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百五十段の一芸能を習得しようとする人は、上手くできないうちは、できるだけ人に、知られないようにして、こっそり練習して上手くできるようになってから、人前に出る事が恥ずかしくないといつも言うものだが、このように言う人は、一芸といえども習得する事はできない。まだ一向に技芸も知らないうちから、上手な先達の中に交じって、怒られようが、笑われても恥じる事なく、平気で過ごして修練に励める者だけが芸を習得する。天性の才能・素質がないが、芸能は停滞せず、自分勝手なやり方をしないで、修練の年月を過ごせば、器用で天性の才能に恵まれる人よりも、遂に技芸が、上手な域に達して、人徳も高まり人から認められるようになり、並びなき、名声を得ることにもなる。天下の芸能の名人でも、最初は無能と言われたり、酷く恥ずかしい思いも、しているものだ。しかし、名人はその道の教えを守って、これを尊重し、無茶をしなかったので、その道の名人となり万人の師匠にもなれたのである。これは、どの道においても変わらない事である。
2023.08.22
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「神域・神事の穢れとなる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十七段の一お灸による治療の痕は、数が多くなってくると、神域・神事での、穢れとなるという事。これは、最近になって人々が言い出した迷信である。そんな事は、古代の法律・規則(内規)にも書かれていない。百四十八段の一四十過ぎの人は、身体に灸を据えて三里のツボを焼かないと、上気の病に罹ることがある。必ずお灸をすべきなのだ。百四十九段の一鹿の角に鼻を当てて匂いを嗅いではいけない。小さい虫がいて、鼻の穴から入って、脳を食べてしまうと言われている。
2023.08.21
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「気が荒くて飛び上がる癖」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十五段の二落馬の相とはどんな相ですかとある人が秦重躬に質問すると、桃のように、とても丸くて座りの悪い桃尻を持っていて、気が荒くて飛び上がる癖のある馬を好んでいたので、この相を持っていると感じた。今までこの相で見誤ったことはないと答えた。百四十六段の一比叡山延暦寺の明雲座主が、人相見(易者)に会われてお尋ねになり、もしや、私には戦死するような相はないだろうかと。人相見は、確かに、その相が、あると答えた。明雲座主は更に、どのような相だと尋ねたが、戦場での、怪我など心配される身分でもないのに、仮にも、そんな事を心配して尋ねている。これはその事自体が、既に危険の前兆なのですと人相見は申し上げた。果たして、明雲座主は、1183年の法住寺合戦で木曾義仲方の流れ矢に当たって亡くなってしまった。
2023.08.20
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「前世で功徳を積んで生まれた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十四段の一栂尾の上人(明恵上人/華厳宗の僧)が、道を歩いている時に、川で馬を洗う男を、見かけたが、男は『足、足』と言いながら、馬の足を上げさせようとしている。明恵上人は立ち止まり、なんと尊いことだ。あなたは前世で功徳を積んだ方の生まれ変わりであろうか。馬を洗う時にまで阿字阿字とマントラを唱えている。阿字阿字とマントラ(真言宗の瞑想法)深い呼吸で、自分を見つめる。その馬はどなたの馬なのでしょうか。その馬もとても尊い馬のように思えると、尋ねて、馬を洗っていた男は、府生殿(検非違使の下級役人)の馬でと答えた。これは素晴らしい事である。「阿字不生」ですか。「阿字」は全ての根源で、悟りにつながる仏法の奥義です。僧侶としてはこの上なく嬉しいご縁を、結ぶことができたと言って、明恵上人は感涙を拭われたという。百四十五段の一後宇多上皇の随身(警護役)である秦重躬は、北面の武士であった下野入道信願の、乗馬を見て、あの方には落馬の相があり、よくよく気をつけなさいと注意したが、信願はこれを本当だとは思わずに乗馬したら、落馬して死んでしまった。ある道に精通した者の一言は、神の如しと誰もが感嘆した。
2023.08.19
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「趣き深く感じるのに」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十三段の一終の時の素晴らしかった様子などを人から聞くと、ただ静かに安らかに、亡くなったとでも言ってくれれば趣き深く感じるのに、愚かな人は、不思議な、様子を加えて異なるように大袈裟に語ってしまう。故人の語った言葉も振舞いも、自分が好きな方向に作為を加えて褒めちぎるが、その故人の普段の様子からすると、事実とは異なる大袈裟な作為は本意ではない。人間の死という重大事は、神仏の権化であっても定めることなどできない。博学の有識者であっても、人の寿命は予測できないものだ。死にゆく人が、自分の普段の本意と異なる事がなく亡くなっていくのであれば、他人の見聞によってその故人の評価をすべきではないのだ。
2023.08.18
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「恥を忘れて盗みでさえ働く」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十二段の二その人の気持ちになって考えてみれば、本当に愛して思いやっている親や、妻子のためならば、恥を忘れて盗みでさえも働くだろう。であれば、盗人を、縛り上げて間違いだけを厳しく罰するよりは、為政者は世の中の人が、飢えないように、寒くないようにする政治を心がけてほしいものである。人間は安定した生活(収入・収穫)がないと、安定した正しい気持ちを、持つ事ができない。人は困って追い詰められれば盗みを働いてしまうのだ。世の中が治まらずに、飢えや寒さの苦しみが蔓延しているならば、家族のために罪を犯す者は絶えないだろう。人を苦しめて、法律を犯さざるを得ない状況にして、犯罪者を罰するのは、可哀想な仕打ちであるが、どのように人を幸せにすれば良いかということだが、貴族階層が贅沢や浪費をやめ、人民に思いやりを持ち農業に目を向けさせる事が大切であり、そうすれば、下の民衆の生活に利益があることは疑いがない。衣食住が足りていながらも、敢えて盗みをする者が本当の盗人なのである。
2023.08.17
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「荒武者が子供がいますかと問う」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十二段の一心がないかのように見える者でも、良い事を言うものだ。ある恐ろしげな、東国の荒武者が、傍らの人に向かって、あなたには子どもがいますかと問うた。いや、子どもは一人もいませんと答えると、荒武者は、それでは物の哀れさを、お知りにならないでしょうな。情愛のないお心を持っているというのは、とても恐ろしいことです。子どもがいるからこそ、万物の哀れさ(同情心)を知る事ができるのですからと言った。当然のことではある。妻子に対する恩義や愛情の道があればこそ、このような荒くれ者にも、慈悲の心が芽生えたのである。親孝行の心を持たない者も、子どもを持つことで、親の気持ち(恩愛)について知るものである。世捨て人が、家族のいない独り身であるのは当たり前だが、一般に、係累(親族)の絆が多い人は、家族のためにあらゆる事にへつらい、欲望が、深くなるものだが、これを見てむやみに見下すのは間違ったことである。
2023.08.16
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「心優しくて情のある人が多い」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十一段の二誠実さがない人に対して尭蓮(ぎょうれん)上人は、それはそうだと思いますが、京の都に久しく住み慣れてくると、京の人が東の人より劣ってるとは思えない。京の人は、心優しくて情のある人が多く、人の頼みを簡単に断る事ができず、言いたい事も言えず、押しに負けて頼みを引き受けてしまったりもする。騙そうと言う意図はなく、ただ貧しくて、約束を守りたい本意があっても、その本意を貫けない事が多く、東の人は、自分の故郷の人ですが、実際には、心の優しさがなくて、人情味にも疎く、愛想もないので、初めから嫌だと、言って断っています。東の人は、家も栄えていて豊かなので、無理な頼みを、断ったとしても、まだ他の人に頼る事ができると世の道理を語られた。このように尭蓮上人の事を発音に関東なまりがあって、荒々しい素振りで、仏の精細な教えもわきまえてない人物と見ていた知人は、この一言によって、逆に心を惹かれたのであり、多くいる僧侶の中で、尭蓮上人が寺を任せられて住職としての地位に就いているのも、柔和な性格の魅力があるからで、そのことによるご利益もあるからなのだろうと思った。
2023.08.15
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「財産が多いのは残念な事」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四十段の一自分が死んだ後に財産を残すような事は、頭の良い智者はしない。どうでもいい物を蓄えておくのは格好悪い事であり、価値ある良いものであれば、その物に心が、留まってしまって余計に儚くなる。財産が多すぎるのは、残念な事なのである。私がその財産を頂くという遺族も現れてきて、死後に争いが起こる事も見苦しい。死後に誰かに上げたい財物があれば、生きている間に譲っておいた方が良い。毎日の生活に必要なもの以外には、何も所有しないでいるのが望ましい。百四十一段の一孤児や老人を療育する寺院である悲田院の尭蓮(ぎょうれん)上人は、俗姓は、三浦の何とかいい、並ぶ者のない強い武者だったようで、ある日、尭蓮上人の所へ、故郷の相模国から知人が来て語り合った。東の人は言う事が信頼でき、京の都の人は、受け答えの印象は良いが、誠実さがないと故郷の知人はいう。
2023.08.14
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「京極様の南面に二本の梅がある」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十九段の二一重の梅が咲いて、早々と散るのは、春を思う心がはやり経つようで面白いと、京極入道中納言様は、一重の梅を自邸の軒近くに植え、京極様の屋敷の南面には、今でも二本の梅がある。柳も趣きがある。春の若楓(わかかえで)というのは、すべての花や紅葉にも勝るもので非常に深い趣きがある。橘や桂は、どちらも古びた大木のほうが良い。草は、山吹・藤・杜若・撫子が良い。池には蓮が良く、秋の草なら、荻・薄、桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑・吾木香・刈萱・りんどう・菊がある。黄色の菊も良い。夏なら蔦・葛・朝顔である。いずれも、高いものではなく、ささやかな草木で垣根に無駄に繁らないのが良いと思う。これ以外の、世にも珍しいもの、舶来の中国(唐)の草花のようなものなどは、花も見慣れておらず懐かしさを覚えない。大体、珍しいものや中々ないものは、教養や品性のない良からぬ人が一時的に持てはやすもので、そのようなものは、無くたっていい。
2023.08.13
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「菖蒲は菊の季節まで咲く」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十八段の二寝室の簾に掛かった五月の節句の飾りに使われる菖蒲も、九月九日までに、菊に取り換えられ、菖蒲は菊の季節まで咲いて、枇杷皇太后宮が亡き後に、その寝室に節句の飾りの菖蒲が枯れたままに飾られているのを見て、乳母が、『季節外れの飾りをまだ掛けている』と言い、その言葉に対して、『あやめの草はまだ盛りですから』と江侍従が返歌を詠んだと伝わる。百三十九段の一庭にあったら良い木は、松と桜である。松は五葉もよく、桜は一重がよい。八重桜は、奈良の都にだけ咲いていたのだが、最近はどこでも良く見かける。京の吉野や左近の桜は、みんな一重桜である。八重桜は異様なもので、ごちゃごちゃとした印象がある。庭には植えなくても良い。遅咲きの桜は興ざめであり、虫がつきやすいというのも厄介である。梅は白や薄紅である。一重の梅は早く咲くが、紅梅の匂いも風情があり、みんな素晴らしい。遅咲きの梅は、桜と咲き合ってしまうので、人の記憶に、残りにくく、桜に圧倒されて、枝に縮んで咲いており、心配になってしまう。
2023.08.12
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「簾に飾っていた葵の飾り」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十八段の一祭が終わったら、後の葵の飾りは不用になってしまうと言って、ある人が、簾に飾っていた葵の飾りを全て捨てさせたが、風情のないやり方だなと感じた。だが、身分の高い教養のある人がする事で、そうするべきものとも思っていた。周防内侍の歌に、隠しても仕方がないもの、心と共に簾の葵は皆枯れてしまった。母屋の簾に飾りっ放しだった葵が枯葉になってしまった事を詠んだ歌の解説が、周防内侍の家集(個人の和歌を集めた)に書かれている。ある古い和歌の説明に、『枯れた葵の枝に、詠んだ歌を差して相手に渡した』というものがある。枕草子にも『来るのが悲しいのは、枯れた葵』と書いてあり、とても懐かしい気分にさせられる。鴨長明の四季物語には『祭りの葵が、まだそのままだ』と書いている。自然に枯れてしまい風情がなくなるのも名残惜しいのに、どうしてそのまま捨て去ってしまうことができるのだろうか。
2023.08.11
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「継子立てというサイコロ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の六今日まで死を逃れて生きてきたのは、ありえないほどに不思議なことだ。そうすると、この世の中がのどかだなんてとても思えない。双六の石で、継子立てというサイコロを作り、出た目の数字のコマに置いている石を取る遊びがあるが、石を並べた時には、どの石が取られるのかはわからない。サイコロを振ってその数のコマにある石を取っていくと、その他の石は、今は取られる事を逃れたように見えるが、実際にはサイコロを振り続けて、あれこれ出た目を取っていくうちに、どの石も最期には必ず取られる運命であることが分かってくる。これは人の死に似ている。出陣した兵は、死が近い事を知って、家を忘れ、我が身の事も忘れる。世に背いて出家した世捨て人の草庵では、静かに水石をもて遊び、死を、何処かに忘れようとするが、それは儚い事で、静かな山奥にも、死という無常の敵は競って現れ、どこに居ても、死に臨む事は戦場にいるのと同じだ。
2023.08.10
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「夏の泉には必ず手足を浸す」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の五田舎者は、夏の泉には必ず手足を浸すものだし、雪見では雪に降り立って、足跡をつけてしまい、全ての物をそっと静かに見守るという事ができない。祭りが通る桟敷を行き交う人々には見知った顔も多くあるので、無常を知ることになる。世の中には大勢の人たちがいるが、この人たちが皆死んだ後に自分が、死ぬ番だと決まったとしても、死ぬまでにはそれ程長く待つ事もないだろう。大きな器に水を入れて底にキリで穴を開けると、少しずつ水が滴り落ちていくといっても、止まる事なく水が漏れるのであればすぐに尽きてしまうだろう。都に人は多いが、人の死なない日はなく、一日に死ぬ人は一人や二人ではない。烏部野(平安時代以来の墓所)の野山に送る死者の多い日はあっても、誰も、送らない日はなく、棺を作っても作ってもゆっくり置いておく暇すらない。死は若い人であっても、強い人であっても、思いがけない時に訪れる。
2023.08.09
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「目の前は寂しげな様子」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の四日が暮れる頃には、並んでいた車や所狭しと集まっていた人たちも何処かへと去ってしまい、間もなく車も人もまばらになってくる。車たちの騒がしい、行き来がなくなると、簾や畳も取り払われて、目の前は寂しげな様子になる。そんな時には世の無常の喩えも思い出されて、あわれな感慨が起こってくる。祭りは最後まで見てこそ、祭りを見たという事になるのではないだろうか。月や花はすべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができ、それはそれでとても楽しくて味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすら、面白がるような様子でもなく、何だか等閑に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下に、にじり寄って、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って、最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。
2023.08.08
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「桟敷には人を残しておく」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の三桟敷には人を残しておき、行列が来たと聞けば、各々心臓が止まるような、勢いで桟敷まで争い走っていく。あわや落ちるんじゃないかという所まで、手すりに張り付き、押し合いつつ、一つも祭りを見逃すまいと見守って、あれとか、それとかと何かが前を通るたびに言い合っている。祭りの行列が渡り過ぎると、また来るからと言って桟敷を下りて行くが、物だけを見ようとしているようだ。反対に、都の人は、眠っているかのようで、祭を見ていないかのようである。その主人に仕える若い人たちは、常に立ち働き主人の後ろに控えて、行儀の悪い態度をとって無理に祭りを見たりはしない。賀茂祭では葵の葉を掛けて、優雅な感じがするのだが、夜も明けきらない内に、車が忍んで寄せてくるのである。その車の持ち主は誰だろうと思って近づくと、牛飼や下部などの中には見知った者もいる。祭りは面白くて、きらきらしていて、さまざまな人たちが行き交っていて、見ているだけで退屈することもない。
2023.08.07
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「男女の情趣というのも」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の二あらゆる事は、始めと終わりこそが興味深いものだ。男女の情趣というのも、一途に逢って抱き合う事だけを言っているのだろうか。逢えない事を憂いて、儚い約束を嘆いて、長い夜を独りで明かして、遠い雲の下に相手を思い、荒野の宿に昔の恋を偲んでいる。この様な事も、色恋の情趣と言えるだろう。千里の果てまで満月の明かりが照らしているのを眺めているよりも、夜明け近くになって、ようやく待っていた月が雲の隙間から見えた時のほうが、その月の青さがとても心に深く染み渡ってくるものだ。青い月の下に、見える深い山の杉の木の影、雨雲の隠れる具合など、この上なく感慨深い。椎柴・白樫の木などの濡れたような葉の上に月の光が煌めくのが身に沁みて、情趣を解する友と一緒に見れたならと思い、都のことが恋しくなる。月や花は、すべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができる。
2023.08.06
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「風情や趣きを感じ取れる人」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十七段の三満開の桜なら家を出なくても布団の上から見れ、それはそれでとても楽しくて、味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすら面白がるような、様子でもなく、何だかいい加減に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下ににじり寄り、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。田舎者は、夏の泉には必ず、手足を浸すもので、雪見では雪に降り立って足跡をつけてしまい、全ての物を、そっと静かに見守るということができない。そのような人たちの祭見物の様子も、とても珍しいものであり、祭の行列が中々、来ないなと、それまでは桟敷にいてもどうしようもないなどと言って、奥の部屋で、酒を飲み、物を食べて、囲碁・双六で遊んでいる。
2023.08.05
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「土偏ですと答えた」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十六段の二その時に内大臣の源有房が参られて、有房も、ついでに篤成殿に物を、教えて貰いましょうかと言って質問をした。まず、「しお」という文字は、どんな偏でしょうかと聞くと、土偏ですと答えたが、有房は、おぬしの、才知の程は既に明らかになった。今はその程度で良いだろう。知りたい事は、もうないと言うと、周囲の人々も笑い出して、篤成は堪らずその場を退出した。「しお」には塩だけでなく「鹽」という異字がある。百三十七段の一桜は満開、月は満月だけが見る価値があるべきものなのか。雨の日に月を、恋しく思い、簾(すだれ)を垂れて部屋に籠り、春の行方を知らないでいるのも、情趣が深い。花が咲く頃の梢であるとか、散って萎れた花びらが、舞う庭だとかにも見所がある。歌の詞に、花見に参ったのに、早くも散り過ぎていてとか、支障があって花を、見る事ができずなどと書くのは、花を見てと言うのに劣っているのだろうか。花が散り、月が傾くのを恋しく慕うのは習いであるが、特にあわれの感情を、知らない人は、この枝もあの枝も散っていて、既に見所がないと言ってしまう。
2023.08.04
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「呪文のような言葉」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十五段の二具氏(ともうじ)が、幼い頃より聞いていたのですが、その問いの心が分からない。「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう」との呪文のような問いは、どういった意味なのでしょうか。承りたく存じますと言った。大納言入道は、はたと答えに詰まって、それはつまらなさ過ぎる質問なので、答えるにも及ばないと言い出したが、具氏は、初めから深遠な学問の事などは、知らないので、取り留めのない事を尋ねても良いと約束しておいた筈ですよと、申し上げたが、結局、大納言入道は負けになってしまい、酒宴の準備の約束を、盛大に果たされたということです。百三十六段の一医師の和気篤成(わけのあつしげ)が、故・後宇多法皇(ごうだ・鎌倉第91代天皇)の御前に控えていて、そこへ食膳が運ばれてきた時に、この食事の数々について、名前でも効能でも何でも尋ねて下されば、そらでお答えします。後で医学書の本草書を参照して下さい。私の答えに何一つ間違いはありませんと申し上げた。
2023.08.03
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「それはどうでしょうか」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十五段の一資季大納言入道(藤原資季)と言われた年配の人が、具氏宰相中将に会って、お前が質問してくる程度の事だったら、何だって答えてやろうと言う。それを聞いた具氏は、それはどうでしょうかと答えた。資季大納言は、そう言うならば、私と言い争いをしてみよと返した。具氏は、取り立てて質問するような学問の事は全く知らなかったので、何ということのない取り止めの無いことの中から、はっきりとしない事を、質問しても良いですかと返答した。勿論な事で、そこらの簡単な事であれば、どんなことでも説明して上げようと大納言入道は答えた。二人の会話を聞いていた院の近習(きんじゅう/主君の傍に仕える)や女房が、興味を引かれる言い争いですね。同じ争うなら、ぜひ天皇の御前にて争われるべきです。そして負けた人が、酒宴の席を準備すれば良いと、言いルールを決めて、二人を天皇の御前に召しだしたのである。
2023.08.02
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「老いた事を知ったならば」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十四段の三容姿を整えて年齢を若く見せろと言うわけではない。自分の未熟さや欠点を、知ったならば、どうしてすぐに退かないのだ。老いた事を知ったならば、どうして静かに隠居して気持ちを安らかにしないのか。行いが愚かだと分かっているなら、どうしてこれだと思う正しい事をしないのか。全く、人に愛されていないというのに、人と交わろうとするのは恥である。容姿が醜いという事で気後れしながら仕事をして、無知であるのに偉大な、人達に交じり、未熟なのに得意そうな顔をして、年老いて白髪頭でいるのに、若い人の中に交じり、出来もしない事を望んで、叶わない事に悩んでいる。来る筈もない人を待ち、人を恐れて人に媚びている事に悩む。これは、他人が、与える恥ではなくて、自分の貪欲さに引き寄せられ、自分で自分を辱めている。貪欲の心が収まらないのは、命が終わる瞬間が、迫っている実感がないからだ。
2023.08.01
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「御堂の法華三昧の仕事」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十四段の二更に、人と交わる事もしないようになり、御堂の法華三昧の仕事にだけ精を出し、自分の部屋に引きこもっていると聞いたのだが、こういった事は有り得ない事ではないと思った。頭の良い人でも、他人の事はよく見えても、意外に、自分自身の事は知らない。自分の事を知ず、他人の事が分かる道理はない。それでは、自分の事を知っている人を、物事を良く知っている人と言うべきで、自分の容姿が醜くてもそれを知らず、心が愚かである事も知らず、自分の技芸の未熟さも知らず、自分の身分の低さも知らず、年老いている事も知らず、病気に罹っている事も知らず、死が迫っている事も知らず、仏道修行が不十分である事も知らない。自分についての非難も知らないので、他人に対する誹謗も勿論知らない。しかし、顔は鏡で見る事ができるし、年齢は数えれば分かるものだ。自分の事を全く知らないというわけではないが、欠点に対する対処法を知らなければ、非難しても知らないという事と同じようなものだ。
2023.07.31
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「孔子も東を向いて寝た」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十三段の一上皇がお休みになる夜の寝殿では、枕を東向きにするのが決まりである。大体、太陽が昇る方角の東を枕とすれば、好ましい陽気を受けると言われ、中国の孔子も東を向いて寝たという。寝殿での布団と枕の配置も、東枕あるいは南枕というのが普通である。白河上皇は、北枕で寝ておられ、北は忌むべき方角で、皇室を祭る伊勢神宮は南の方角にあります。大神宮の方に足を向けて寝るのはいかがなものかと、ある人が申し上げた。しかし、天皇が京都の御所から大神宮を拝む時には、東南を向いて拝まれる。南の方角ではないのだ。百三十四段の一高倉上皇の法華堂で仏道修行をしている僧侶で、何某の律僧と呼ばれる者がいた。ある日、その僧侶が鏡を手に取って自分の顔をつくづくと眺めてみると、自分の顔が醜くて見苦しい事に気づき悩むように、鏡さえ疎ましく感じるようになり、その後は鏡を恐れて手にすら取らなくなった。
2023.07.30
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「知恵を増やした方がいい」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百三十段の二他人より勝ろうと思うなら、ただ学問して、その知恵を増やしたほうがいい。道を学ぶというなら、自分の長所に驕り高ぶらず、仲間と争ってはならないと、知るべきが故である。立派な地位や名誉も辞退し、大きな利益をも捨てるのは、ただ学問の力である。百三十一段の一貧しい者は、財力を礼節だと思い、老いた者は、体力を礼節だと勘違いし易い。自分の能力の分を知って、できない時には速やかにあきらめるのが知恵である。そういった諦めを許さないのは、人が陥りやすい誤りである。自分の分を弁えず無理やりに頑張るのは、自分の誤りというべきことである。貧しくて分を知らなければ盗みを働き、力が衰えてるのに分を知らなければ病気になってしまう。百三十二段の一鳥羽の作道(とばのつくりみち)という新しい道路は、鳥羽の御殿が建てられた後の名ではなく、昔からの名である。元良親王が元日に、臣下に掛けられる祝賀の声がたいへん立派で素晴らしく、大極殿から鳥羽の作道の所まで聞こえたという。李部王(醍醐天皇第四皇子重明親王)の日記にそのことが書いてあるとかいう。
2023.07.29
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「幼い心には身に沁みる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十九段の二大人なら相手が本気ではないことが分かっているので何でもないという風に、思えるのだが、幼い心には身に沁みるし、恐ろしくて恥ずかしくて情けない思いをさせられるのは切実な問題である。幼い子供を悩ませて楽しむような人間には、慈悲の心が無い。大人の喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどの感情も、仏教的観点からは皆虚妄に、過ぎないのだが、大人でさえも現実にある本当の感情だと信じ込んでしまう。子どもであれば尚更、それらの感情を実在のものとして受け取ってしまう。身体を傷つけられるよりも、心を痛めつけられる事の方が、人間の傷の深さは深くなってしまうこともあるのだ。病気の多くは心の悩みが原因であり、外部からやってくる病気は少ない。汗をかいて熱を下げる薬を飲んでも、汗を出す効果が全くない事があるが、恥じたり恐れている時に必ず汗を掻くのは心の仕業だということを知っておく。高い場所で、凌雲の額(洛陽の楼閣)を書かされて、そこから下りてきた時には、白髪になってしまったという例も無いわけではない。
2023.07.28
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「傷つけ戦わせて遊び楽しむ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十八段の二大体、生き物を殺して、傷つけ、戦わせて、遊び楽しむような人は、畜生と、同じ類の低劣な存在である。全ての鳥獣をはじめ、小さな虫まで、心を傾けて、その様子を観てみれば、子を思い、親を懐かしみ、夫婦が連れ添い、妬み、怒り、欲多く、我が身を愛し、命を惜しむ事は、人より愚かさで明らかに勝っている。そんな彼らに苦しみを与えて命を奪うことは、何と痛ましい事だろうか。すべての心ある生命を見て、慈悲の心が起きないような人は、人としての道を踏み外している。(中学時代は魚釣りによく来た池を55年ぶりに散歩している)百二十九段の一孔子が期待して愛した弟子の顔回(がんかい)は人に苦労を掛けない事を志した。全ての人や動物を苦しめたり、虐げたりしてはいけないし、身分の低い卑賤の者でもその意志を侵害してはならない。また、まだ幼い子供を脅したり、すかしたりして、言い恥ずかしめて面白がる人もいる。
2023.07.27
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「浅ましい事を見た」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十七段改めて益が無い事は、改めない事を良しとするのである。百二十八段の一雅房大納言(土御門雅房)は、学識のある優れた人物で、次は大将にでもと、亀山法王は雅房を重用しようと思っていた。そんな頃、近習の人が法王に、ただ今、浅ましい事を見たと申し上げ、法王が何事かとお聞きになられた。雅房様が鷹の餌として食べさせようとして、生きた犬の足を斬り落としたのを、塀の穴より見てしまいましたと近習が申し上げると、法皇は雅房大納言の事を、疎ましく不快に感じられ、気分も悪くなってしまった。雅房の昇進の話もいつの間にか無くなってしまった。雅房様が鷹を、飼っていたのは知らなかったが、犬の足の話は根拠のない事だったが、虚言により昇進できなかった事は雅房様にとって不憫で可哀想な事で、こういった虚言を聞いて胸を痛められた法皇の御心はとても尊いものだ。
2023.07.26
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「自分をも傷つける恐れ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十五段の二諸刃の剣は両辺に刃がついているので、相手を切ろうとして振り上げると、自分をも傷つける恐れのあることから一方では非常に役に立つが、他方では、大きな害を与える危険もあり、人を斬ろうとして持ち上げた時には自分の顔を斬ってしまう恐れがあり、人は斬れない。同じで、先に自分の方が酔いつぶれてしまえば、人に酒を勧める事なんて、できないのですと申し上げた。この男は本当に剣を持って人を、斬ろうとした事があるのだろうか。何ともおかしな男であった。百二十六段の一博打の負けが込んでしまい、全てを賭けて博打を打とうとする者を、相手にすべきではない。立ち返って考えると、次はその相手が続けて勝つ時が、来るという事を知っておいた方がいい。そういう引き時を知ってるのが、優れた博徒というものであると、ある人が言っていた。
2023.07.25
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「浄土宗に恥じない人物」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十四段の一是法法師は、浄土宗に恥じない人物ではあるが、学識ある僧のように偉そうに振る舞わず、ただ明けても暮れても念仏唱え、やすらかに、世を過ごす様子は、たいそう理想的だ。百二十五段の一人に先立たれた家で四十九日の法事を行い、導師としてある聖(民間の僧侶)を招いたが、導師は法事に集まった人たちに説法をして、それを聞いた人は、感動して涙を流しあった。導師が帰った後、聴聞の人たちは、今日の説法は、いつも以上に尊いものでしたと感動しながら話し合っていた。だが、ある男が、そうでしょう、あれだけ中国の唐犬に似ているというのはと、言い出したので、それまでの感動も醒めてしまい、思わず笑い出してしまった。そんな導師を誉めようというものがあるのだろうか。また、この男は、人に酒を勧める時に、まず自分が飲んでから人に無理やり飲ませようとするのは、剣で人を斬ろうとするのに似ています。
2023.07.24
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「国の為主君の為とやむを得ず」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十三段の一無益な事をして時を過ごす人は、愚かな人とも、不正な事をする人とも、言うべきで、国の為主君の為とやむを得ずにしなければならない事は多い。それ以外の義務にとらわれない暇な時間というのは、ほとんどない。考えてみるといい、人間にとって絶対に必要とされるもの、第一に食べる物、第二に着る物、第三に住む場所である。人間にとって大事なのは、この3つに過ぎない。餓えなくて、寒くなくて、雨風がしのげる家があるならば、後は閑かに楽しく過ごせば良いのだ。だが、人には病気がある。病気にかかってしまうと、その辛さは堪え難いものだ。だから医療を忘れてはならない。衣食住に医療と薬を加えた四つの事を求めても得られない者を貧者とする。この四つが欠けてない者を、金持ちとする。それ以上の事を望むのは奢りであり、四つの事でつつましく満足するなら、誰が足りないものなどあるだろうか。
2023.07.23
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「聖人の教えを知る事ができる」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十二段の一人の才能というものは、古典・文書を読み解く事ができ、聖人の教えを、知る事ができるというのを第一にする。次は書道で、専門としてないとしても、書道には習熟しておくべきだ。次に医術を習い、自分の身を養生し他人を助け、忠孝の勤めを果たす時には、医術を知らなければ成し遂げることができない。次に弓矢と乗馬で、中国古代の士官が習得すべき六芸にも挙げられている。あと、必ず身に付けておきたい事柄は、文武と医術の道、これらは、欠けてはならない能力であり、これを学ぼうとする人を、無益な事だと思ってはならない。次に食で、食は天の如く重要なもので、美味しい料理を作る人は、大きな徳を、持っていると言わなければならない。次に細工で、色々と必要が多い。これ以外の才能もあるが、多才は君子の恥とする事でもある。詩歌が巧みで楽器を奏でるのは幽玄の道であるが、君臣がこれらを重視しても、今の世の中は、幽玄さや優雅さで国を治める事は出来ない。黄金(風雅)は美しいが、鉄(実務的技能)の利益の多さに及ばないのと同じである。
2023.07.22
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「獣は檻に閉じ込められ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二十一段の二その他の鳥や獣は、全て人間にとっては無用なものもある。走る獣は檻に、閉じ込められ鎖につながれ、飛ぶ鳥は、羽根を切られ籠に入れられている。空を恋しく思って、野山を思う心は留まることがない。その鳥獣の憂いを我が身の事のように偲び難く感じるような心ある人が、動物の飼育を楽しめるだろうか。生き物を苦しめて、目を楽しませるのならば、人民を苦しめた古代中国の暴君である夏(か)の桀王と殷(いん)の紂王と同じだ。桀王(けつおう)と紂王(ちゅうおう)---古代中国の夏と殷の暴君中国の王徽子(おうきし)は鳥を愛したが、捕らえて苦しめたのではなく、林を飛んでいる鳥の姿を見て楽しみ、散策の友とした。珍しい鳥や変わった獣を、国が捕獲して育てるなと中国の古典『書経』にも書いてある。
2023.07.21
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「鎌倉で並ぶ物のない良いもの」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。(アジサイの花が枯れたら剪定し次の新しい花を待つ)百十九段の一鎌倉の海にいるカツオという魚は、鎌倉辺りで並ぶ物のない良いものとして、珍重されている。そのカツオは、鎌倉の老人が、この魚は、自分たちが、若かった時分には、身分の高い人が食べる物ではなく、カツオの頭などは、手下どもでも食べずに切って捨てていたが、世も末ならば、身分のある人の食卓にまで入り込んでくるようである。百二十段の一中国からの輸入品は、薬の他はなくても困らない物ばかりである。書物なども、もう充分にこの国に広まっており、もう書き写すだけで良い。中国の貿易船が、容易くはない遠い道のりを、無用の物ばかり所狭しと積み込んで来るのは、愚かしい事で、遠い国の物を宝にするなとも、手に入り難い宝物を貴ぶなと、中国の賢人の書物には書いてあるとか。百二十一段の一人が養って飼う動物には馬と牛がいる。つなぎ苦しめるのは心痛いけれども、牛と馬がいなくては人間の生活が成り立たないので、どうしようもない。犬も防犯の役目に関しては人よりも優れており、必ず飼っておきたい動物だ。各家毎に飼っていれば、わざわざ自分が求めて飼うことも無いだろう。
2023.07.20
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「鯉というのは尊い魚」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。(完全に枯れてしまっています)百十八段の一鯉料理(鯉の吸い物)を食べた日は、髪がばらけにくいと言う。ニカワの材料にもなるので、粘りがつくのだろうか。鯉というのは、天皇の御前でもさばかれる尊い魚でもある。鳥なら雉(キジ)で、他に並ぶべき物はない。雉や松茸などは、御湯殿へと続く棚の上に置かれていても見苦しくはない。その他の食材は、(天皇の目に触れさせるのは)悩ましいものばかりである。中宮の御所で、御湯殿の黒御棚に雁が見えていた。その雁を北山入道様が観られて、自邸に帰った後に手紙で、雁のような鳥をそのままの姿で棚においているのは、見慣れないことで、体裁が悪い事で、しっかりした人がお側に仕えていないからなどと申されていたという。
2023.07.19
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「見慣れぬ文字を使うのは」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百十六段の一寺の名前やその他の物でも、名を付ける事を昔の人は少しも趣向をこらさず、昔の人は少しもただありのままに、分かりやすく付けたのである。最近は、深く考え込み、自分の知識や才能を見せつけようとしているようで、知性をみせびらかそうとしているように思われるのは、煩わしく嫌な感じだ。人の名前も、見慣れぬ文字を使おうとするのは、読みにくいだけで、無益なことであり、何事でも、珍しい事を求めて、奇抜なものを好むのは、浅はかな才知を持つ人が必ずやる事だと言われている。何事も珍しい事を求め、奇抜な説を好むのは、教養の無い人が必ずやる事である。百十七段の一友とするのに悪い人が七つあり、一つ目は、身分が高くて高貴過ぎる人。二つ目は、若い人。三つ目は、病気知らずで身体が強い人。四つ目は、酒を好む人。五つ目は、気が荒くて勇敢な兵士。六つ目は、嘘つきな人。七つ目は、欲深い人である。良き友には、三つの人がある。一つ目は、物をくれる友。二つ目は、医師の友人。三つ目は、知恵のある友である。
2023.07.18
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「いろをしと言うぼろに」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百十五段の二いろをし房と言うぼろは、いらっしゃいませんか?との呼び掛けに、ぼろが集まる中から、いろをし房ならばここにいるぞ。そう言うが逆にあなたのほうは誰ですか?と尋ねられ、私はしら梵字と申す者と答えた。東国で私の師匠が、いろをしと言うぼろに殺されたと聞いて、その人に会い、お恨みを申し上げたいと思い参上いたした次第ですとそのぼろが答えた。(ももと散歩する小高い丘から撮影したが雲がどんより)いろをし房は、よくぞここまで参られたな。そのような事が確かにあった。ここで対面致すと道場を血で汚す事になるので、前の河原へ一緒に参ろう。ぼろの皆さん、どちらにも味方はしてくださるな。大勢の揉め事になると、仏道修行の妨げになってしまいますと言った。二人は河原に出ると、心ゆくまで刀で切り合って共に死んでしまった。ぼろぼろという者は、昔はいなかったと言われている。ぼろんじとか梵字、漢字などと名のりだした者たちが、その始めとされている。世を捨てたかのように見えて我執が深く、仏道を求めるように見え闘争を好むところがある。放逸な気ままさを持ち、恥知らずな有様だが、自分の死を恐れることも無く、少しも生きる事にこだわらない生き方に潔さを感じて、人の語るままに、ぼろぼろについて書きつけ申したのである。ぼろぼろとは、布がひどく破れている様子。さらに広く、物がひどくいたんでいる様子を言う。
2023.07.17
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「賽王丸が御牛を進めていた所」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百十四段の一今出川の大臣殿(西園寺公相)が、牛車で嵯峨へ出かけた時、有栖川の辺りで、水が流れている所で、賽王丸が御牛を進めていた所、牛が蹴った水が大殿の御前まで掛かったのだが、牛車の後ろに乗っていた従者の為則がそれを見て、なんて馬鹿な奴だ、こんな水たまりの場所で牛を激しく追うとはととがめた。その様子を見ていた大殿は、機嫌が悪くなり、車を動かす事に於いて、お前は、牛飼いに勝っているとでも言うのか。馬鹿はお前のほうだと為則の頭を車に打ち付けた。この高名な牛飼いの男は、太秦殿の賽王丸といい、賽王丸は、大殿に歴代仕えてきた牛飼いであった。百十五段の一宿河原という所に、ぼろぼろ(布がひどく破れている乞食・浮浪民)が多く、集まり、九品の念仏を唱えていたが、そこに他所から来たぼろぼろが尋ねた。この中に、いろをし房と言うぼろは、いらっしゃいませんか?と呼ぶ。ぼろとは、非僧非俗の無宿渡世人で徒党を組み山に放浪した乞食。
2023.07.16
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「得々と物事を語っている姿」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百十三段の二大体、聞き辛くて見苦しいのは、老人が若い人に交じり、面白いと思い、得々と物事を語っている姿である。大した身分でもないのに、世の中で、知られている名声のある人を、自分と隔てがない関係のように語る様子。貧しいのに酒宴を好んで、客人を手厚くもてなそうとして接待している様子。四十も過ぎた人が、艶めかしい色恋の方に、忍んで行くのは、仕方ないが、大きな声で言葉に出して、男女の事を他人に言い戯れてるのは、年相応でなく、見苦しいものだ。聞き辛く見苦しい事は、老人が若い人に交って、ウケると物を話す姿。取るに足らない分際で、世間の誉高い人を知り合いのように馴れ馴れしく、言う事。貧しい家で酒宴を好み、客にご馳走しようと派手に振る舞うさま。
2023.07.15
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「世間の慣習を黙って無視」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百十二段の二人間の儀式で、どれか止めがたいようなものがあるだろうか。世間の慣習を黙って無視してばかりもいられないということで、これに従っていると、願い事が多くなり、身体の調子も悪くなり、心も落ち着かなくなる。一生は、雑事の小片に邪魔され、空しく暮れてしまう。日は暮れて道は遠い。わが人生も、既に斜陽を迎えている。世俗の諸縁を放棄すべき時なのだ。 信義を守ることもなく、礼儀にもこだわらない。この心が分からない人は、狂ったと言ってもいいし、馬鹿だとでも、人間の情愛がないとでも思えばいい。謗(そし)られても苦しまないし、誉められても聞き入れない。百十三の一四十歳を越えようという人が色事(男女関係)の方面に関心を持ったとしても、心の中に秘めているのであれば仕方ないであろうか。男女関係の事柄や他人の恋愛を戯れながら語っているようだと、年齢にふさわしくなくて見苦しい。
2023.07.14
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「遠い国へ旅立つ人」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百十一段の二四重とは、殺人・姦淫・窃盗・詐欺の事で、五逆とは、父殺し・母殺し解脱者(悟った者)殺し・仏法を破ること・僧侶殺しのことである。囲碁・双六を好んで日を過ごす人は、四重・五逆の罪よりもひどい悪事を、行っていると思うと、ある聖が申した事が耳に留まって、印象深い。百十二段の一明日にも遠い国へ旅立つ人に心を静かにしていられないような事を頼んだり、言ったりする事があるだろうか。突然起こった大きな問題に取り組んむ人やひたすら苦しく嘆いている人は、他人の言葉など聞き入れないし、他人の憂いや喜びを気にすることもできない。他人の憂いや喜びを気に掛けないからといって、どうして気に掛けないと恨むような人もいないだろう。ならば、年齢を重ねた老人や病人、まして遁世者(とんせいそう/世捨て人)は、明日、遠い国に旅立とうとしている者と同じように生きるべきである。
2023.07.13
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「聖人の戒めに適った」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百九段の二身分の低い下賎なものだが、聖人の戒めに適った考え方である。蹴鞠(けまり)でも、難しいところを蹴りだした後に、安心していると必ずミスして落としてしまうものだ。何も申しません。失敗は、安全な所になって、必ず起こる事だと言い、聖人の戒めにかなっている。百十の一双六の名人と言われている人に、勝つ為の手段を聞くと、勝とうとして打つのはダメだ。負けないようにして打つのが良い。どの手が一番早く負けてしまうのかを心配して、その手を使わずに、少しでも遅く負ける手を選ぶべきだと答えた。物事の道理を弁えた教えだ。国を維持する道も、同じだ。百十一段の一囲碁・双六を好んで夜を明かして遊び暮らす人は、四重・五逆にも勝る悪事を犯していると思うと、ある民間の僧侶である聖が申していたことが耳に、とどまっており、よく覚えている。四重・五逆というのは仏教上の罪である。
2023.07.12
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「一瞬を何のために惜しむか」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百八段の三ほんの短い間でも、一瞬という短い時間を惜しむ心が無い時は、死人と同じである。一瞬を何のために惜しむかといえば、内には雑念を無くし、外には俗世間の事と交わりを断ち、悪を止めようとする人は止め、善を行おうとする人は行えというのである。百九段の一名高い木登りという男が、人に指導して、高い木に登らせて梢を切らせる時、大層危なく見えるうちは何も言わず、木を下りる時軒の高さ程になってより、過って落ちるなよ、注意して降りよと言葉を掛けた所、これ位の高さになれば、飛びおりても無事におりられるだろうと思う。どうしてそのように言うのかと聞いた所、あぁ~その事ですかと言い、目がくらくらするような高さほど、枝が折れそうで危ないうちは、自分が、落ちるのが怖くて周りの物が注意しなくても自分で用心するから良い。過って落ちるのは、安心できる高さになってから油断してからだと答えた。
2023.07.11
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「今のこの一瞬を惜しむべきだ」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百八段の二仏教の修行をする人は、遠い未来までの月日を惜しむべきでない。ただ今のこの一瞬を、空しく過ごすことを惜しむべきだ。もし人が来て、お前の命は明日は必ず失われるだろうと告げたなら、今日という一日が暮れるまでの間、何事を頼み、何事を営もう。我々が生きている今日という一日も、どうして、明日死ぬといわれてもその一日とどこが違うことがあるだろう。一日のうちに、飲食・便通、睡眠・会話・歩行など、やむを得ないことで多くの時を失う。その余りの時間はどれほども無い中で、無益な事をなし、無益な事を言い、無益な事を考えて時を過ごすのみならず、日を浪費し月を経過し一生を送る。まったく愚かである。中国南北朝時代の文人・謝霊雲は、法華経の筆録を行ったが、心に常に立身出世の野望を念じていたので、中国浄土教の創始者恵遠は、念仏結社・白蓮社の仲間に加わることを許さなかった。
2023.07.10
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「道理を知らず迷いの方向に」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百七段の二我が強く強欲であること甚だしく、ものの道理を知らず、ただ、迷いの方向に、心移りし言葉巧みに、差支えない事でも質問すれば答えず、たしなみがあるかと見れば、又あきれ果てたような事まで、聞かれもしないのに喋りまくり、深く考えを巡らし表面を飾ることは、男の知恵にも勝るかと思えば、その事が、後からバレてしまう事を知らない。素直でなく、しかも拙いのが女である。女の心のままにふるまい、女から良く思われようとする事は、なんとも残念なことであろう。こういうわけだから、どうして女に気を遣う必要があるものか。もし賢い女が存在するなら、それも何となく親しめないし、興冷めするに違いない。ただ心の迷いに身を任せて女とつきあってみると、優しくも、魅力的にも、思えてくるはずである。百八段の一僅かな時間を惜しむ人はいない。これはよく物事を分かっているからなのか。単に愚かなのか。愚かで怠け者の為に言っておくと、一銭は軽いといっても、これを重ねれば、貧しい人を富める人にできる。なので、商人が一銭を惜しむ心は、切実なのだ。一瞬という短い時間は意識されないといっても、これをずっと思い過ごしていると、命を終える時がたちまちやって来る。
2023.07.09
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「男達が参上するたび軽薄な女房」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百七段の一女が喋りかけた時に、咄嗟にいい具合に返事をする男は、滅多にないと、亀山院が御在位の御時、軽薄な女房たちが、若い男達が参上する度に、今年はもうホトトギスの声をお聞きになりましたかと質問して、お試しになった所、某の大納言は、取るに足らない私の身なので、聞く事が出来ないと答えた。堀河内大臣殿は、岩倉で聞きましたよとおっしゃったのを、これは無難な答えと、取るに足らない私の身なんて、煩わしくて嫌味な言い方と互いに品定めをした。すべて男を、女に笑われないように育て上げるべきだという。浄土寺前関白殿は、幼い頃、後堀河天皇の皇后・安喜門院がよく教えなさったので、言葉づかいなどが立派なのだと、人がおっしゃったという。山階左大臣殿は、身分の低い下女に見られるのでも、いたそう気恥ずかしく、心遣いをしてしまうと話していた。女のいない世の中であれば、衣の着方も、冠のかぶり方も、どうであろうと、取り繕う人もいないだろう。このように人に気を遣わせる女は、一体どれ程立派なのかと思うと、女の本性はねじけたものだ。
2023.07.08
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「美しく風にふと香る」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百五段の二二人は何を話しているのだろうか、物語が尽きる事はない。女は顔のかたちが、美しく光り、風にふと香る女の着物の香の薫りも、何ともいえない心地よさである。途切れ途切れに聞こえてくる声も、趣きがあり、たまらなく良い香りを醸し出している。百六段の一高野の証空上人が、京へ上った時に、細道にて馬に乗っている女と行きあった所、馬の口取りの男が、悪い具合に引いて、上人の馬を、堀に落としてしまった。上人はたいそう腹を立て文句を言い、これは酷い乱暴だと。仏の四種の弟子を、出家した男の僧より出家した女の僧は劣り、出家した男の僧より在家の男の僧は劣り、在家の男の僧より在家の女の僧は劣るのだ。百六段の二このような在家の女の分際で、出家した僧を堀へ蹴り入れるとは、前代未聞の悪行だと言ったところ、口取りの男は、何をおっしゃっているのか、さっぱり分かりませんと言うので、上人はなおも息荒く怒って、何を言うか、修行もせず、学問も無い男の分際でと声を荒げて言った。尊いご叱責であったことだろう。
2023.07.07
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「夜深いうちに急ぐ必要もない」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四段の三鶏が鳴くので、もう夜が明けるのだろうかとお聞きになるが、夜深いうちに急いで帰らなければならないような場所柄でも無いので、少しゆっくりして戸の隙間が白くなってきたので、忘れがたい事など話して、立ち出でた。梢も庭も目の覚めるようにどこまでも青々とした四月頃の夜明けが、優美で趣深かった、昔の事を思い出して、今でも女の家の所を車で通り過ぎる時は女の庭の大きな桂の木が隠れるまで、今でも見送りするという事である。百五段の一北の家陰に消え残った雪が、たいそう凍っている時、さし寄せた車の轅にも霜がたいそうきらめいていて、有明の月が明るくかかっているが、その月もやがて日光で微かに消えていくだろう。人里離れた御堂の廊下に、並みの人物ではないようにな立派な男と女が並んで長押に腰掛けて何か話している。
2023.07.06
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「閉めるのも開けるのも不自由」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百四段の二心細い感じの様子、どんなふうにお過ごしだろうかと、たいそう心苦しい。みすぼらしい板敷にしばらく立っていたのを、落ち着いた感じで、若やいだ声で、こちらですと言う人があるので、閉めるのも開けるのも不自由そうな引き戸から入ったが、中の様子は、そう無風流というものでもなく奥ゆかしい。火は部屋の向うの方でほのかに灯っているが、そこらの調度品の美しい様が見えて、来客があるからとあわてて焚いたのでも無い香の匂いが、たいそうなつかしい感じで住み慣れている。門をよく閉じて下さい。雨が降ります。車は門の下に。お共の人々はどこへと言えば、今夜こそ安心して寝られると、小さな声だが、ひそひそ言って、狭い部屋なので、ほのかに聞こえてくる。近況を細やかに情をこめて話していると、一番鶏が鳴いた。過去の事や未来の事に渡り、細やかに語っていると、鶏が陽気な声でしきりに鳴く。
2023.07.05
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「ゴザの準備を忘れて」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「徒然草の101から150」の研鑽を公開してます。百二段の二近衛殿が所定の位置に着座した時、光忠卿は、下級役人が控えるべきゴザの準備を忘れて、下級役人を呼び寄せてしまった。庭で、たき火をしていた又五郎は光忠卿の側に寄り、まずはゴザをご用意なさいと静かにつぶやいた。百三段の一後宇多法皇の御所で、法皇側近の者達が、なぞなぞを作って解いていた処に、典薬頭忠守が通りかかった所、侍従大納言公明卿が、わが国のものとも見えない忠守だとなぞなぞにしたのを、唐瓶子(中国風の徳利)と解いて笑いあったので、典薬頭忠守は腹が立って退出してしまった。百四段の一人目のない田舎の荒れた宿で、女が世間をはばかる事情がある時期であるので、所在ないままに籠っていた所、ある人が、訪ねるということで、夕月が出て光もおぼろな夜に、忍んで尋ねていかれた所、犬がうるさく吠え立てるので下女が出て、何処から来られたのかと言うが直ぐに案内させてお入りになった。
2023.07.04
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