いろを的陶器とちょっと気功な話

いろを的陶器とちょっと気功な話

2007.08.27
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 いずれも2年位務めていますが、やはり人間関係が原因です。ただ、嫌な関係だけでは無く、むしろ、とても良い関係が結べ、居心地が良くなってくると、別の理由をつけても辞めたくなってしまうんですね。私の求めているモノは、職種ではなく、また「良い」「悪い」でもないもっと単純で多くの「関わり」のようです。

 そして一度、母の気功を継ごうと決心したことがあります。

 母のやっていることを真似しているうちに、患者さんの病気の原因に直接関るイメージが浮かぶ様になっていました。ただ、患者さんに触れているうちに、なつかしい感覚が現れてきました。「寂しい」や「悔しい」とかいう感情ですかね?子供の頃に常に周りから受けて、辛かったその感覚です。

その感覚を受け入れてしまうと、母の感覚が打ち消されてしまうんです。 

 母の感覚とのズレを感じ、自分の感覚に合うものを探して気功学校に通ったりしました。やはり、真似しているうちは、その教えの感覚が現れるのですが、結局子供の頃のあの感覚に引き戻されるんですね。ただ、施術中に患者さんから伝わる「寂しい」や「悔しい」は子供の頃に感じた「辛い」ではないんです。むしろ「いとおしい」、心地良いのです。

 人から伝わってくる感覚は様々ですが、その根本は単純なもので、皆そんなに違いは無いように感じています。

 その時々で感じる自分以外からの感覚には、自分自身のその時の精神状態、「想い」が深く関わってくるように感じます。私の場合、普段、無意識的に外から伝わってくる(ヒトのせい)と想えるモノには、逆にその時の自分の投影的質を強く感じることが多いです。

 他人の想いを感じようとする時は、むしろ自分の中に意識的に問うようにしています。この活動前の私にとってのその形の1つが「手を当てる」ことであり、「気功」という世界観でしたかね。

 感じ方の「ルール」はその人それぞれの信頼を置く世界観によって様々と感じています。そして、私は出来る限り自分の中に「責任」(リスク)を置いていたいと感じます。より強い「満足感」を得るために・・・。そしてどうにもキツくなたらその度ごとに、想いっきり他の人に頼りきっちゃえばいいかな・・・(笑)(07.12.19著)

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 ある人は「寒いから」と言って風邪をひきます。
 ある人は「抵抗力が落ちたから」と言って風邪をひきます。
 ある人は「乾燥とウィルスの関係から」と言って風邪をひきます。
 ある人は「エネルギーが余ったから」と言って風邪をひきます。

 関心の深さによっても原因(言い訳)は様々ですが、皆自分の信頼を置く(物事を吸収し易い小さい頃から刷り込まれた)世界観のルールで風邪をひき、治る手段(きっかけ)を創り出すために、自分で原因を創っているようにも感じます。ただ、「風邪をひく」(病)の裏には似通った「プライド」の存在も感じることが多くあります。

 科学の基本である「全ての物質は更に小さい物質によって構成されている」的な世界観もそのルールを決めた時点で矛盾を背負いましたね。「個人差」や「例外」もその矛盾の具体的な形と感じます。いずれ新しいルールが創られ、また新しい矛盾が・・・といった「無限」のサイクルを感じます。科学の世界観の中でも常に常識は変わり続けていますね。

 宗教の創始者も、元はいかに自分が楽に生きられるかから始まり、自分でその世界観を築き、楽になったことから他の人にも勧める(布教する)ようになったようにも感じますかね。確かに世界観を統一できれば皆楽になるのかも知れませんね。多くの勝手な世界観を自分の世界観に取り込んでしまえれば、少なくともその創始者は楽になりますかね。

 また「スポーツ」や「芸術」にも、自分にしか理解できない世界観を創ることにより、その世界観の中においては、誰よりも上位で居られるといった「安心感」を得るようなモノも時には含まれるようにも感じます。他人より下な感覚に「不安」を感じる私に限っては、少なからず「悟り」や「覚醒」を求める気持にもそのような感覚が繋がっているように感じてます。

 ただ、「複数」になり、それぞれが個々(プライド)の存在の意味・価値を示すためには、色々な意味で他人の世界観のルールから外れようとするのが必然のようにも感じます。いずれ一つの世界観の中で色々な微妙にズレた「想い」が影響し合い、そして、似た世界観の中からは、逆に「裏切られた」などのより強い反発が生まれることもあると感じます。

 皮肉にも「強い信仰」には、少なからず「争い」がついて回っているようにも感じます。時には、似た世界観に生きると感じられる人ほど、距離を感じることがあります。一個人がどんなに「崇高」と感じられる世界観を創っても、そこに全てを当てはめることはできないように感じます。

 「真実」は、それを求める「想い」の数だけ存在すると感じます。複数の「想い」(真実)の中の、より強い「想い」(強い信念)がその「想い」を具現化し、またそれに対して「想い」が集まる(共感・同意する)とその時点での主世界観(常識)が出来上がるように感じます。

 「矛盾」は、その全ての「想い」(プライド)が存在するために欠かせないモノと感じます。(07.12.20著)

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 私は「型」に納まることを嫌い、意識的にも外れようとします。

 「個人差」や「例外」(矛盾)も無意識なその形の1つと感じます。また、「解らない」以上に「解られてしまう」ことに不安を感じたりもします。せっかくワガママを隠すように「理性」のような能力を身につけたとも感じてますからね。言葉や文字にも少なからずそのような(言い訳的な)役割も感じます。時に「やっぱりね!そうだと想った!」って、腹が立ちますね。

 今回の活動において、何一つ答えは出ませんでした。ただ、答えが「解った」と感じてしまった時点で存在意味を失いそうです。「解らない」・・・そこに生きる意味を感じてしまいます。それでも私は、「解ろう」という行為をしなければまた生きる意味を失いそうです。そして、限りなく正確な気持ちの伝わる手段が見付かり広がって行くことも願っています。

 私のこの「世界観」(感覚)は、私にとっては紛れもない「真実」です。そして、自分のこの「世界観」(感覚)に対して、周りの共感も欲しいです。また、他人の世界観を攻撃(否定)することで自分の世界観を守るのは悲しいと感じます。ただ、全てを認めようとすると、そこに全てを否定してしまう質が同時に含まれてきてしまうことも感じています。

 確かに自己主張は気持ち良いですが、少なからず他人の世界観を侵す危険性を持っているのを自覚し、今まで表現することを迷っていました。結局、今回の日記による活動を自分で否定するような表現も多々ありましたが、やはり自分を表現できなくて、生きている意味が・・・と、ジレンマも感じます。

自分のワガママを通す言い訳的な質も感じてます。想いは巡り、どこまでもジレンマがついてまわります。一人の中にも「矛盾」の大切さと「無限」を感じます。

 また、私は他人を「癒す」側にまわらせて頂くことによって癒されている感覚があります。そして「楽しい」(楽)に「癒し」が結びつくと想えば、私などは時に「辛い」(苦)に自分が頑張っていることを感じ「癒し」を感じます。ある意味人は、普段の生活における立場とのギャップに「癒し」を感じるのかもしれませんね。

そして皆その時々で自分の色々な意味での「欲求」を満たすために、時には無意識に対外的に色々な形で「名分」を創っているに過ぎないようにも感じます。また人の基本に「欲求」(感じる)がある以上、「敏感」(理性)を基本に置くことでまた「鈍感」(本能・欲求)の置き場も生まれてくるようにも感じます。

 そしていずれにも偏りすぎ、それが長く継続されると色々な形をとって「歪」が生まれるように感じます。ただ、その「歪」の存在の是非は私には解りません。(笑)(07.12.21著)

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 小学生の頃から哲学書を好んで読んでいた少年が自殺したそうです。

 十数年前、私の今の能力(世界観)を強める方法を模索していました。私のように強い「理屈」の世界観に生きる人間には、自分の既存の世界観を緩めるにも「理屈」でなければならないと感じました。今日まで築き上げたモノ(プライド)を否定し(傷つけ)てしまうからだと感じます。よって、「この世の中の本質」から自分の感覚を基に、「理屈」で構築し始めました。

 世の中に起こる広い意味での「矛盾」に目を向け考え出し、長い時間をかけ、それが確立されてくると、なんともいいがたい「虚無感」が湧いてきました。もう世の中を「悟」ってしまった・・・もう先が見えた・・・この先どうする・・・生きることが空しい・・・死にたくなるんですね。そんな時支えてもらったのが、自分を理解しようとしてくれる他人の「想い」でしたね。

 ある意味それが「臨死体験」や「苦行」に匹敵して、今の自分の能力があると、今の自分の中に理屈付けしています。そんな経験・感覚から、「悟り」とは、究極の自己満足と自分には理屈付けし、その内容は、自分の中にしまって置きます。今でも正直その様な「虚無感」に襲われますが、その度に他人の「想い」に引き戻してもらっています。

 昔はあんなに苦しめられていたと勝手に感じていた他人の「想い」ですがね。(笑)今は、自分自身以外にも認めてくれる存在無しに、何をする(生む)価値も存在し得ないようにも感じていますかね?というよりも私に限っては、むしろ広い意味で自分だけのモノを表現する、他人の「想い」との競い(嫉妬)に生きていく上で大切なモノも感じています。

 ただ、確かに自分の「想い」は、その信念の強さによって具現化されると感じますが、その変化のきっかけには他人の「想い」の影響を強く感じます。また、自分の「想い」の具現化には、他人の「想い」の同意も大切な要因と感じます。そして、他人の「想い」は、自分の直接的な「想い」の力では、なんともしがたいモノも感じます。

 有名なスピリチュアルな人や、先日の予言者も言ってましたね。「運命(未来)は変わる」と・・・。

 私達よりも、「想い通りになった」経験をしている分、残りの「想い通りにならなかった」経験から、彼等の方がより強く「どうにもならないモノ」の実感を持っているように感じます。一時的に「想い通り」になっても、人の「想い」は周りの「想い」の影響を強く受け、ちょっとしたきっかけでも変化し、持続は難しいと感じます。

 それぞれの世界観の是非よりも、自分次第で他人の「想い」(主張)に触れることで気持ち良さを感じられる世界観も沢山あるということを強く感じています。そして「他世界観」との関りに、時に「不思議」に大切な力と役割を感じます。人生は修行の場などではなく、また生まれながらの運命・役割も持たず、本質は単にその存在を感じ合う場と願っています。(07.12.22著)



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Last updated  2009.03.19 16:55:34
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