奇跡のコース&癒しの世界へようこそ♪

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2011.12.09
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 「いえ、私はそんなことを今まで一度たりとも考えたこともありません!」と、心の底からそのように感じ、生きておられる方は、すでに、きっと大きな成功と幸せに包まれて人生を送られていることでしょう。

 しかしながら、そのような素晴らしい人生を送られている方でも、自然災害などの人知を超えた出来事や不幸な出来事に対して、ちっぽけで無力な自分を感じられることもあるのではないかと思います。

 私たちの世界と、私たちひとりひとりの人間は、一つのユニットとして機能していると思います。

 ですから、各個人の内界(身体で感じている知覚)と外界(身体の外側の対象)との接触があり、私たちが自分自身を身体だと信じているかぎりにおいて、やはり、だれのなかにも「不十分だ」という気持ちがどこかにあるのではないかと思います。

 また、身体として生きている私たちは、自分が住んでいる環境や条件によって、幸せや不幸せな気持ちを感じたりします。 つまり、身体は衣食住が満たされていないだけでも、不安な気持ちにならざるをえない構造のなかにあるということです。

 意識レベルでは、今それほど困っていなければ、それほど切羽詰まった気持ちにはならないと思いますが、身体と共にある人生のなかでは、自分自身がどれほど頑張ったとしてもどうしようもないと感じる体験もあることでしょう。

 このような根源的な不安や恐怖に対して、私たちはどのように対処したらよいのでしょうか?

 また、人生に必ずつきまとう「生老病死」という四つの苦しみに対して、何か解決策はないのでしょうか?



 それは、かの悟りを開かれた偉大なお釈迦さまでさえも、病に苦しむこともあり、そして身体としての死を迎えられた事実を考えると、どのような聖者であったとしても、肉体としての私たちは、いずれ朽ち果てる存在の状態にある、と言えると思います。

 では、そのような問題に対して、私たちはただ指をくわえてその瞬間を見ないようにしたり、どうせ死ぬだけなら、生きている間は楽しめばいい、と考えればよいのでしょうか?

 もちろん、そのような人生を選択されたとしても、何も悪いことはないでしょう。

 でも、人生の暗い側面を見ないようにしたとしても、それで本当に自分自身を納得させることができるのでしょうか? 自らの頭上に、いつ落ちるかわからない剣がぶらさがっているとしたら、やはり誰もその恐怖からは決して逃れることができないように思います。

 そのような理由から、私は問題を見ないようにする生き方は、人生の半分しか見ようとしていないのではないかと感じています。 

 私たちは身体として生きているかぎり、身体が知覚する3種類の感覚体験-「苦(不満足感)、楽、不苦不楽」-を避けて通ることはできません。

 そこで、そのような知覚に対して、どのようなあり方ができるのか?というと、真正面から向き合うことこそ、本当の意味での解決策を見いだせる、と個人的に考えています。

 それでは、そのような人生で味わう3種の体験を克服し、心の平安を得るために、私たちにいったい何ができるというのでしょうか?

 そこで、この人生の問題を克服するために、重要な問いが、その前にあると私は感じています。

 「身体を感じている私は、本当の自分なのだろうか?」という問いです。



 『現象世界→身体→それを認識する何かがある。』

 また、その知覚を感じているのは、いったい何、あるいは誰なのでしょうか?

 さらに、それが何であるかを人間の言葉で知る前に、私たちは何かを認識するシステム-心-あるいは科学が定義している言葉ではエネルギーと考えることもできると思います。

 なぜなら、死体は、身体や脳が物質的にすべてがそろっているにもかかわらず、心あるいはエネルギーがそのなかを流れなくなり、そこから離れているために動かなくなっていると観察できるからです。

 現代医学でも、私たちの死を「脳波・心電図、呼吸の停止」などによって、肉体の死を判定します。 つまり、身体とは別のシステムが私たちの存在の本態に近い何かなのかもしれないということです。



 それでは、その心あるいは生命エネルギーはいったいどこへ行ってしまうのでしょうか?

 私は、それは時空の世界から離れた存在の状態に戻っているだけだと考えています。

 なぜなら、この死とよく似た現象は、私たちが夢を見ていない深い眠りの状態にも同じような状態があるからです。 私たちが深い眠りの状態にあるとき、自分自身の身体も人生さえも忘れた忘却状態にあります。 私はこの存在の状態を「無意識」と考えています。

 この深い眠りの状態は、身体から解放され、ある意味でとても幸せな状態でもあると思います。

 どんなに人生が楽しかったとしても、知覚による興奮はやがておさまらないと休息ができないからです。 その静けさに溶けこむことにより、身体による制限から毎晩一時的にでも解放されることは、私たちの心にとって重要な時間なのかもしれません。

 しかしながら、これは自分が誰であるのかを忘れている状態であり、自分が存在しているのか存在していないかもわからないような状態のなかにあります。 仏教における「無明」「無痴」の本体が、私はここにあると考えています。

 また、この無意識、無明、無痴のなかに、私たちの人生だと信じている現象のプログラムが隠されているとも考えています。

 このような仮定から、私は、私たちの通常の意識が「意識→潜在意識(身体と心が結びついた瞬間から知覚された全ての体験を記録している心)→身体(無意識の媒体)」という流れがあり、逆に、それを原因から遡るなら、「無意識→心の分裂→投影された様々な次元→物質宇宙→身体(分裂した一つの心の役割とはたらき)→潜在意識→意識」になります。

 この構造を理解し、心が知覚しているすべての体験を癒すとき、私たちは人生における四苦さえも超える生き方と心のサイクルから抜け出せると考えています。

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 今日のチャートは、『52の美徳教育プログラム*リンダ・カヴェリン・ポポフ著・太陽出版』のなかで紹介されているヴァーチューズ(美徳)のカードを入力したものです。

 この本はずいぶん前に購入していたにも関わらず、性格的に「美徳・・・なんかきれいごとのように感じる」という思いが心のどこかにあったため、おざなりにしていた本でした。

 でも最近、ヒーリングコードとACIMのワークを実践していて、この現実のなかにおける行動ステップと純粋な心-本質-聖霊へと自分自身の思いを近づけていくうえで、具体的に必要な態度である、と再認識するようになりました。

 私たちは、肉体をもっている間はこの世の法則のなかにいますし、またそのなかで正しい心のありようというのは必ず存在していると思います。 

 ですから、純粋な心へと意識・潜在意識・無意識を連れていくための段階として、何が自分のためにならず、何が自分のためになるのかについての具体的な行動指標を持つことも大切だと思うようになりました。

 私たちの破壊・破滅的な信念体系の大本は無意識にあると私は考えています。

 その破壊・破滅的な信念を癒すためには、心を通して、身体をどのように活用していくかを知ることも大切です。 また、それに気づいたら、意識レベルから潜在意識、無意識へと心をその根源へと移動させていき、その分離意識・闇意識に光をあてていく必要があります。

 ヴァーチューズ・カードのエッセンスは、破壊的信念体系を癒したあと、私たちの心を本質的な信念を取り戻す必要があります。 これら美徳の言葉は、その時々で取り戻す必要のある波動的なヒントとして活用できそうです♪





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最終更新日  2011.12.09 07:21:22
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