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瀬戸内海の潮待ちの港として栄えた下津井の背後の山の上の立派な破城だった。(下津井城跡の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 宇喜多秀家が昔からの砦を城にし、城代を浮田家久にしたらしい。浮田家久は、三村家親を火縄銃で狙撃して暗殺した遠藤秀清らしい。毛利がその宇喜多と和睦したため、三村は毛利から離反し、備中兵乱となったが、備中兵乱の最期の戦いは、常山城の陥落だった。 下津井城の城主が変遷して池田氏の代の時に、常山城は廃され、下津井城を整備したらしい。部材を転用したとの言い伝えもあるらしい。 一国一城の時代に入ると下津井城も廃城となったらしい。 築城から廃城まで半世紀足らずらしい。城主の変遷は、児島の戦国史をよく表している。 下津井城跡からの眺めは見事で、連なる瀬戸大橋、讃岐富士、塩飽諸島、行き交う船、見飽きることはなかった。水軍の寄せる様子を城からみていたのだろうか。下津井の廻船問屋跡、漁港が眼下に三の丸下の石垣大手門跡別窓表示。西の丸から24吋別窓表示。二の丸からにほんブログ村
Jan 22, 2021
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能島村上水軍の勢力下に永くあった海城(本太城跡の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)らしい。能島水軍は、塩飽水軍などとも組み、瀬戸内海を支配していたそうだが、元々は、能島水軍は、毛利に従っていたらしい。その後、三好勢、浦上勢と組み、毛利と戦い、小早川隆景にこの城をおとされてしまったそうだ。備中兵乱時には、毛利との関係は修復されていたそうだが、この城が、毛利勢の児島進出の拠点になったらしい。 水島コンビナートの威容の塊の中に運河があり、そこに突きでるようにかろうじて残っている岬に城跡はある。岬の陰には古くからの港も健在だった。 岬の陸側にある神社から遊歩道が整備されている。昔は、唯一陸とつながっていた細い馬の背をわたると、城跡が草木に潜ってあった。枯れ草と茨に覆われ、幾重もあるはずの曲輪には入らなかった。 コンビナートの操業音が鈍く響き渡っていて、公園として城跡を整備できれば、戦国時代の海城と近代産業の牙城とも言えるコンビナート群の対比は、強烈な印象を与えるだろうにと思う。 以前、人気をはくした「村上海賊の娘」のモデルは、能島水軍を率いた村上武吉の娘で、架空の小説とはいえ、織田の水軍との海戦の活劇は面白かった。この城がその海賊の城と思うと、海賊史の痕跡としても全体をみてみたい。24吋別窓表示にほんブログ村
Jan 20, 2021
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日差山と石井山は、備中高松城の水攻めの時の両軍の本陣跡で、眺望からすると、日差山(日差山城跡の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)が合戦を俯瞰する位置で、石井山(石井山陣跡の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、高松城をみとどけるような位置にあった。秀吉は、水攻めに際して龍王山から石井山に移ったらしい。 日差山からは、備中高松城は正面に遠望でき、手前の築堤の進捗は、霧でもかからない限り、手にとるようにわかったはず。どれほど沈痛な気持ちで水に浮いた高松城をみていたのだろう。 石井山から備中高松城は、眼下にあり、清水宗治の自刃の地は眼前にある。ここで舞い、自刃する姿は、秀吉に「武士の鑑」と言わしめるはずだ。小早川隆景も山上から遠くみとどけていたのだろうか。24吋別窓表示 (鷹巣城の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)24吋別窓表示にほんブログ村
Jan 17, 2021
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経山城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、毛利方の中嶋元行が小早川隆景の城代とあった。備中兵乱時、伊與部山城に入った小早川隆景からは、北に見える位置だ。 経山城跡からは、三村方の荒平山城跡が山の間から見えたが、その背後の正木山から先にある鬼身城跡は高度が下がり、見えない。秋葉山からの稜線の先にある井山城のあった位置も見下ろせた。高梁川に平安時代から続く湛井堰は、稜線の陰になり、見えなかった。 南には、正面に福山があり、その中腹の三村方の幸山城は、よく見えたはずだ。落城の様子ははっきりととらえられたと思う。遠くには、三村方の最後に落城した常山が霞んでみえた。 東南には、秀吉が水攻めした備中高松城跡が緑の点で見えた。経山城の中嶋元行は、高松城城主の清水宗治の娘を妻にしており、高松城に籠城していたそうだが、清水宗治の自刃により永らえたらしい。毛利に仕えた後、帰農し、経山の麓に暮らしたらしい。屋敷跡には記念碑がのこっているらしい。戦国を生き延びた武将の穏やかな晩年の地だったのだろう。訪ねてみたい。 この屋敷は、もともと、経山城での生活の場であったらしい。山中鹿之助が備中松山城の毛利輝元のもとに連行されるとき、ここに立ち寄り、中嶋元行から饗応されたらしい。鹿之助は、この後、備中松山城目前の阿井の渡しで謀殺されることを考えると、すくわれる思いが湧いてくる。24吋別窓表示鬼ノ城西門から見た経山。西をおさえるには、鬼ノ城よりも経山の方が張り出しており、適地であることがわかる。 備中兵乱の時、毛利勢は、山陽道から玉島往来に入り、鬼身城の西の峠を越えて美袋に入り、備中松山へ進軍したのだろうか。経山からは、進軍の様子が見えただろう。にほんブログ村
Jan 11, 2021
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鬼身城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、備中兵乱の合戦のあった山城だそうだ。備中松山城主三村元親の弟、上野実親が城主で、主郭跡からは兄姉の鶴姫が戦った常山城も遙かに霞んで見えた。眼下には、木村山、伊與部山が見える。木村山には鬼邑山城、伊與部山には夕部山城があったと。 毛利勢の小早川隆景は、夕部山城に入ったらしい。夕部山城は、北に鬼身城、荒平山城、経山城、東に幸山城、西に鬼邑山城、南に南山城と、四方の城がすべて確認でき、陣所の役割を発揮できたらしい。 上野勢は、眼下に見える大兵力にひるまず奮戦したらしいが、味方の離反も発生し、配下の助命と引き換えに城主実親は二十歳で自刃したそうだ。滝口康彦が「鬼哭の城」で描いているらしい。小林正樹監督の映画「切腹」と「上意討ちー拝領妻始末ー」は、滝口康彦原作で悲劇の名作だった。鬼身城の陥落も悲しみに満ちたものに違いない。 次は、夕部山城跡から鬼身城跡を見あげてみたい。 24吋別窓表示虎口、石組みの痕跡幾面も続く曲輪からみた主郭にほんブログ村
Jan 9, 2021
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今年もよい年でありますように。 平安時代から牛馬のご加護を願う人々が大山を詣でていたらしい。日本の牛は役牛として人々の生活を支え、人々に大切にされたきた証だ。出雲大社にも、目の大きな立派な神馬神牛が鎮座してた。今年は、暖かくなったら大山牛馬市、博労座をたどってみよう。 昨年、近所の牧場では、ブラウンスイス、ホルスタイン、蒜山では、ジャージー牛と、西洋の牛がのんびりと草を食んでいる様子を眺めて安らいだ。作り出されるチーズのおいしさは、格別で、工房巡りは楽しかった。今年も楽しみ。 牛は、今も昔も大事な働き手。
Jan 1, 2021
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