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2016年03月18日
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
「補注 鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』」の解説に代えて

日光市のいまいち一円会の木村浩先生が「いまいち一円会通信」第二一二号・第二一三号の二回にわたって「鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』を読んで」を掲載していただいた。『米欧旅行日記』の内容を理解する上で大変有益であると考えて、先生のご了解を得てその文章をここに紹介し、本書の解説に代える。
また、東北大学名誉教授大藤修先生に本書を差し上げたところ、「この度は鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』を御恵贈たまわり、有難うございます。藤三郎が欧米の文明や企業をどのように観察したのかがうかがえ、史料的価値の高い日記だと思います。明治二十九年十月三日条で英国では鉄工場で女工が働いていることに感嘆していますが、この体験から自身の会社の女性雇用に何らかの影響を受けていたのかどうか、関心が湧きました」という返信をいただいた。大藤先生は『米欧旅行日記』について「史料的な価値が高い日記」と評価していただいた。本日記を世に送り出したものとして有難いお言葉である。今後、鈴木藤三郎氏の日記の研究が進むことを願う。
お二人の先生の御厚意に心から感謝する。

(略)

「鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』を読んで」2
                 木村 浩
 明治二十九年七月十四日に横浜港を出発して太平洋をわたり米国に大西洋をわたりイギリス・フランス・ドイツと七ヶ月の視察旅行を終った。
2、行程(アジアへ)

 三月十四日 シンガポールに着く。此のとき三井物産会社の社員迎えに来る。(どこの国でも三井物産会社の支店があった)
 三月十八日 ジャワ国バタビア港に着船する。バタビアは、インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称、ここは熱帯の地、旅館といえどもみな水風呂。水風呂は藤三郎の好む所、飛び込み自ら携わるところの石鹸で全身を洗う。喧々囂々(けんけんごうごう)一大椿事(ちんじ)の起れるがごとし。ジャワでは、水風呂は水をくみ出して全身を洗うに止まり、中に入るは大禁物であった。
(パリのスープの失敗とここでの失敗は、言葉と風俗の違いから読んでいて面白かった。)
 三月三十日 ジャワ島スラバヤ港を出船。ジャワ島では、サトウキビ畑を見物。ジャワ島は精製糖工業に関しての欠点とするものは良水の皆無。人民は濁り水に洗濯沐浴するを一般の常識なり。
 四月三日 シンガポールに着す。乙宗(おつむね)商店支配人に面会す。乙宗商店はゴムの輸入を日本で初めて行った商社である。
 四月四日 支那人経営の氷糖製造所視察。この日は日曜日につき休業。
 四月六日 午後五時シンガポール港を出船。同十三日 香港港着。同十八日 日曜につきマゼラン製糖所を外観、太古製糖所を山頂より工場の様子を望見す。(インドネシアやシンガポールは当時オランダやイギリスの植民地で、イギリス同様に日曜日は工場等は休業であったようだ。)
 四月八日 サイゴン(現ホーチミン市)に着く。夜中と雖も暑気甚だしくおおいに苦しむ。
 四月十三日 香港港着。香港では、イギリス資本により二大製糖所が中国国内で砂糖販売で、中国国内産砂糖を上回りつつあった。
 四月二十日 汽船(海門)号にて出帆。同二十二日 厦門(アモイ)着。
 四月二十四日 午前九時に旅舎を出て、蒸気船に乗り台北府に向ひ出発。同十一時台北府川岸に着す。

 五月一日 台湾を出船。台湾は日清戦争後(明治二十八年)日本の領土となっていた。
 五月四日 午前八時無事長崎港に着船。
 五月七日 神戸港に着船、東京本社及び遠州森町福川泉吾・岡田良一郎諸氏へ無事着の電報を発す。
 五月八日 午後二時横浜港へ着す。三時三十分当地を発車し、四時二十五分無事東京新橋に着す。これより腕車(人力車)で日本橋倶楽部に行き出迎人へ挨拶し、自宅に着す。
3、まとめ

 藤三郎の米欧旅行は十一ヶ月近くの地球を完全に一周した大旅行だった。藤三郎はこの洋行で名実ともに当時の我が国の製糖界の第一人者となった。多年の経験と欧米各国の粋を集めた最新式の機械が備わり、日本精製糖会社の発展は目覚ましいものであった。四十三歳の鈴木藤三郎の名前は、日本の新進実業家として内外に知られるようになった。
「余は欧米の製糖事業はどういうふうに発展しているかというごく単純な目的を以て洋行した。ただ幼少より尊徳翁の末流を汲み、機に臨み、折に触れて、観察して見たいと思っていたことは、欧米の偉大な人物と、吾が尊徳翁とはドンナ差があるであろうかということだった。ともかく余の管見する所に由ると、欧米において貧困より身を起し、終に偉大なる人物となった人のやり方が、あたかも二宮翁と同一の思想を呼吸したものではなかろうとかと感想を抱くことしばしばである。」(『二宮先生と余が欧米観』)
「余はかつて欧米を漫遊し、かの国実業界における幾多の成功者を訪問し、親しくその事業を観察したとき、彼らが成功の要はことごとく推譲にあることを発見した。」(『報徳実業論』)と結論づけた。

 藤三郎が氷砂糖の研究を始めてから七年目の明治十六年(一八八三)二十七歳の時にその製造法を発明した。氷砂糖工場を建設しようとしたが、資金を融通してくれる人はなかった。これを救ったのが同郷の静岡県森町の実業家福川泉吾(ふくかわ・せんご)氏だった。福川の支援を受けて氷砂糖製造工場を建設できた。
 福川氏は「二宮先生の教えに、積財を勤めるのは、世を救い、世を開くためであると。私は多年分度を守って勤労に努め、いくらか財産を積む事ができた。今は世に推譲して社会に有益の事に散じなければならない」とも藤三郎に話したという。
 藤三郎が明治二十八年「日本精製糖株式会社」を起こし、帰国後は更に「台湾製糖株式会社」を創立したのは、海外視察による成果であった。
 明治三十八年に二宮尊徳の五十年祭が今市の報徳二宮神社で開催され、藤三郎も参列した。その時、尊徳先生の遺著が相馬の二宮家に蔵されていると聞き、その復本を作り報徳研究者に公開すべきと考えた。そこで明治三十九年一月から遺著一万巻の謄写を筆生二十名を雇って開始、明治四十一年十月二千五百冊にまとめて「報徳全書」を完成した。この「報徳全書」の費用は、藤三郎が一人で出し二宮神社に奉納した。報徳全書を奉納した時の願文の最後にこう記している。
「人類が必ず至るべき大切な道である報徳の教えの内容が広く世界に普及し、真実で正しい文明が実現することができますように」、大推譲であった。
『米欧旅行日記』から実業家として、すべてに超人的な精魂を傾けた生涯を感じることができた。





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最終更新日  2016年03月18日 04時06分48秒


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