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2016年07月16日
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カテゴリ: 鈴木藤三郎

二 第一期の二 明治十年より二十一年に至る

氷糖発明の苦心  君は暇があれば常に二宮翁の伝記を読んではその成功の跡を慕い、報徳四要の文を誦してはその精神のあるところを考え、至誠勤労の二句は成功の秘訣であることを悟り、炎々たる胸中の熱火は些々たる菓子製造業に満足することを許さない。この業界に雄飛しようとの大希望を起し、これより後の君は報徳活用のために奮闘的態度をもって家業に従事された。この時、君の境遇を察すれば、めざす境地は千里のかなた、思えばはるかな行く手の空や、見渡すかぎりは幾重の霞、とでもいうべき感があったであろう。しかし君は成功を確信し、第一着手として氷砂糖製造をなそうと思い立ちました。その事業たるや、新規の事業に属し、相談すべき人もなく、また自身とても少しの経験もなく、全く自己の胸中より製法を案出しなければならないので、その困難はとても筆紙の尽すべきところではなかった。しかし君は一たび決心した後は、ほとんど睡眠や食事を廃し、その考案に従事された。このようにして方法を案出し、実験に付すれば、事は予期に反し、試験も成功せず苦心は水泡に帰してしまうような場合で、更に考案をめぐらし再実験すれば、またまた失敗に帰し、このようなことが幾十回。意志の薄弱な者であれば、失望落胆遂にその事を廃するに至るべきであるが、君の剛健な一敗は、一敗より勇気を増し、この秘密を見出すのでなければ倒れてもやめないと、かの欧米の陶工バリッシーが陶器製造の方法を発明した時のように、百折不撓の熱誠をもって考案に重ねるに考案をもってされた。しかし容易に成功するに至らないで数年を経過した。

 ある年君は野州今市二宮神社に参詣せんと旅装を整え旅程はるかに宇都宮に着し、旅亭某に投宿された、孤灯影暗いところに旅日記をしたため終り、例の氷糖製造方法を熟考しつつあった、たまたま隣室投宿の書生数人学術上の談話をなし、化学の事に及んだ。君はこれを耳にし、大いに興味を感じ、これを聞いていたが、ふと感ずるところあり、手をうって喜び疑問氷解の時至れりと、帰国し、旅中得た考案により製造を試み、翌朝これを見るに果然一種の結晶糖を得たれば、夢かとばかり喜び、再三その実験をなすに一回は一回より次第に好成績を得たれば、その方法を基礎とし、改良に改良を加えて遂に完全なる氷糖製造法を発明する事になった。これ実に明治十年より同二十一年頃までのことで、十余年の間、苦心経営の結果ようやくその目的を達する事を得られた。君はこの発明をもって二宮神霊の加護によるものと信じられているということであるが、いかにも感心な事と申さなければなりません。これより君は製品の販路を東西各地に求める事に尽力しましたが、製造高の少なさと土地の僻在なると、その他多くの不便を感じられたが、殊に身深く糖業界に入って見ると更に大計画を立てるの急を認められ、奮って第一期の三時代の事業を企てる事となった。

1 「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎(続き)

朝寝坊と目覚し時計

まず第一に朝は五時に起きることに決めましたが、困った事には朝寝の癖があってなかなか目が覚めまい、人に起してもらうようではならぬ、何か機械的に自ら慣習を改める法は無いものかと考えておりましたが、その頃、「目覚し時計」などというものは、有るということは聞いたばかりで、見た人も少ない。然るに幸いなるかな、浜松の宮代屋という小間物商が、名古屋から買って来て、持っていると聞き伝えまして、新村氏と同道して浜松へ行き、売物で無いというのを、無理に七円五〇銭で購って帰りました。さて明治一〇年の一月元日には、始めてこの目覚し時計によって起されまして、元日から仕事をするのかと家の者をびっくりさせながらいよいよ真正の意味において働き始めたのであります。

自家の分度法を立てる

これより明治一四年まで五ヶ年の間を第一期として、私が計画したのであります。その時の計画を申しますと、全体私の家の経済は、養父もその辺の心得は有りませんために一切不明でありましたのを、自分で調査して見ますと、家の経費が二六〇円で、一年の売上金高が一三五〇円でありました、これで算用すれば現在の純益歩合が判るのであります。これをこれまでの分度とすればどこまでも同じ事でだめですが、既に自分という一人の労働が新たに加わったのみならず、しかも入用は不整頓でありましてこれを整頓しますれば若干の節約ができます。これには二宮先生の仕法に基づいた家政経済調と申す書類を、外から借りて参りまして、これを先例として、自分の家政を分析して見ますと、食物衣類等経費の種目がおよそ一三〇有余種ありました。その中で是非とも欠くべからざるものと、欠いてもさまで苦にならぬものとを一々よりわけて、節約し得る種類の経費が、ざっと五〇円ほど有ることを知りました。この五〇円に自分の真面目なる勤労の結果を加えたものが、すなわち第一年度の余得であるのです。

さて、その年の暮に計算をして見ますと、一ヶ年の売上金高は一九〇〇円あまり、二〇〇〇円足らずで、ありまして、経費は予算の通りでありましたから節約をした五〇円の外になお五〇円、併せて一〇〇円の金が残りました。そこで翌年はこの金を二五〇円にするには、うち一〇〇円は既に手にありますから、差引一五〇円の金を二〇〇〇円の売上の中から残せばよいのです。二〇〇〇円に対する一五〇円、ざっと七分になりますが、まず一割の余得をとればよいというソロバンを立てて、そのソロバンに合うだけに品物の値を安くしましたら、そのために売上高がずっと増加して、第二年目には三五〇〇円となりました。これというのが以前は商いの口銭は、単に外々の同業者の振合を見まして、競争に堪える限り、一杯の値で売っていたのを、私が荒地主義により分外を利用しました故に、安くしただけ得意が殖えたのであります。

荒地主義の実行

この筆法で、五ヶ年間商業を続けたところが、第五年目には売上高が一万円、利益は僅かに五分取って沢山になって来ました。資本金も始めは二六〇何円であったのが、五年の終りには一三〇〇何円となったのであります。ここにおいて、私は荒地の力を以て荒地を開くという主義は、何の事業にも応用することが出来る。天下これに因りて起らぬ事業無しという先生の御説は、一点の疑いも無いと信じました。

さて、私はこの五ヶ年間の帳簿と、その着手当時の計算書とを持参して、岡田良一郎氏の所に行き、始終の話をいたしましたところ、岡田さんも至極これを賛成せられまして、荒地主義をかくのごとく応用したのはお前が始めであろうと申されました。

菜の葉の虫が煙草の葉に移る

私も予定通り五ヶ年の計画を終りましたから、今後は菓子屋をやる必要も無かろうと思いまして、いよいよ砂糖屋を始めたのであります。砂糖屋と考え付きました次第は、今までの商売と関係があるために、多少これに関する経験が有ります上に、以前茶葉で横浜へ往来します頃、たしか貿易新聞かにその頃の日本の精製糖輸入高が一ヶ年四〇〇万円余とあるのを見て、我々が大骨折で外国へ出す茶も、やっと四五〇万円である。砂糖と引換えに過ぎない。今後文明が進めば無論砂糖の消費高も増すわけである。これを内国で製造する事となれば、国家社会に対しても、何分の貢献であると思いまして、そこでこれを終生の事業としようと決心したのであります。

砂糖の研究にかかる

 しかしいよいよ事業に着手するとしても、まず資本を調達せねばならぬが、それよりも第一いかにして製造をするかまだ一向方角も分りませぬ。そこで東京へ出てまいりまして、これも遠州の人で猪原吉次郎という化学者が、その頃まだ工部大学校(現在の東京大学工学部の前身)の学生で、下宮比町に下宿しておりましたのを訪ねて行きまして、砂糖精製の事を聞きました。猪原氏は色々西洋の本を読んで聞かせてくれまして、それから更に大学校の分析所に連れて行き、実地について一通りの説明をしてくれました。私も国で白下砂糖の製し方だけは知っておりましたが、まだ精製の方法などは丸きり不案内でありますから、何か西洋書の翻訳書は無いかと思って、頻りに探しているうち、ふと穴山有鄰堂で吉田五十穂という人の訳した、「甜菜糖製法」という日本綴八冊の図入の書物を見付けまして、大悦びで国へ買って帰り、それからほとんど一年間というものは、この本が毀れてしまうくらい、何度と無く繰り返して読んだものであります。この本は固より甜菜から砂糖を作る方法を書いたものでありましたが、その末のほうには砂糖精製に関する記事も多少有りますので、これによって幾分か製糖の知識を得たのであります。

 これから毎年数回上京して工部大学校へ行き、猪原氏に逢って色々不審を聞いておりましたが、固よりまだ精糖の技術を手に入れたというわけでは無く、従って資本も出来ず、なかなかすぐに着手するという事が出来ません。そこで再びかの菜の葉の虫を思い出し、これも砂糖に縁のある氷砂糖の製造を思い付いたのであります。

 氷砂糖の製造と不思議なる旅籠(はたご)屋にての霊言

 さて一体どうして氷砂糖の製造を思いたったかと申せば、その頃は氷砂糖が中国の福州から輸入せられ、皆薬種店で売っていたものでその価も白糖の二倍であります。しかもその品を見ますに、色も赤く笹のごみなどが交じっていまして、我々の知識で判断しても、疑いもなくかの地従来のミヤゲであって、機械的工業的の生産物ではない。それで価がこの通り高値であるとすれば改良の余地は十分に有ると思いまして、一つこれを階段として進もうという考えで、その製法を研究し始めたのです。しかしその実験の結果を見るのはなかなか容易の事ではなく、いろいろと工夫をしましたが、そのために久しい間、非常に心身を労したのであります。

熱心凝結して砂糖塊まる

ところが誠に不思議な機会から目的を達する端緒を得たのであります。それは明治一五年の一〇月、二宮先生の二七回忌に、日光今市へ友人二、三名とともに出かけた時の事であります。不便な時節ですから、往復におよそ一ヶ月を費やしました。今市では始めて二宮尊親氏にお目にかかり、その他奥州の人たちにも逢いました。その帰り道です。宇都宮に一泊しまして、その頃一新講の定宿をしていた稲屋という旅館にとまりました。ところがその夜、一寝入してから便所へ参りますと、遙か離れた座敷で二、三人の客人が何か声高に議論をしている、書生さんというふうです。その話の中にただ一言「砂糖の結晶」という語が耳にとまり、ハット思って縁側に立ったままで、耳を立てておりますと、要するに、砂糖は純になれば、自然に結晶するものだというのであります。これを聞いて、はたと心に覚ったことがある。今までは砂糖は人の力で固めるものと思い、何か外部からくっ付ける算段ばかりしていましたが、天然に結晶体の定則があって、純になれば自ら固まるべきものであったのを、今までは自然の理法を妨げておったのであったと心付きましてからは、一日も早く家に帰りたくなりまして、東京に道連れを残し一人で遠州へ帰りまして、早速この原則に基づき、今まで付けよう付けようとしていたのを、反対に取ろうという考えで実験にかかりましたところ、果して程無くごく小さな結晶を見ることができるようになりました。その時の嬉しさはなかなかお話することができません。

研究いよいよ佳境に入る

私はこの以前から倉の葺きおろしの味噌部屋を片付けまして、これを試験室にあてておりましたが、この中で例の試験をして見ましても、まだ何か物足らぬ所が有ると見えて、うまくできることもあれば、またできぬこともある。発明したのは誠にうれしいけれども、いよいよ営業者として立ち行くのには、ぜひとも百発百中で無ければならぬ。百発百中で無いのは遺憾である。これでは人から資本を借りることもできぬ。まだまだ術を極めたというには最後の微細な点まで推究せねばなりませぬ。学者に聞きましても分らないのは道理で、学者は自ら営業に手を下した人ではありませぬ。これは何でも自分で実験して、詳らかに氷砂糖結晶の状況と変化とを知るに限ると思いました。ところが最も困難なるは温度及び空気の関係であります。例えば春はよくできても、夏はいかぬことがあります。それにはいろいろと手をかえてその状況を細かに目撃したいと思いまして、明治一六年の夏であります。例の味噌部屋の実験室の中に、たくさんの器へ砂糖の液を入れまして、自分も握り飯持参で、二週間昼夜ともこの中に立てこもったのであります。温度は火鉢を入れて一二〇度から一四五度の間をいろいろとかえて見ました。無論丸はだかであります。折々苦しくなると実験室の小窓を明けて息をします。じっと見つめておりますと、砂糖が始めて結晶する時は、電気の作用であるか、ぱっと美しく光り、それから段々結晶するのであります。器の上の方から固まって来るのもあれば、下から結晶し始めるのもある。器の大小、形、液の深さによってちがいます。温度の高低にもよります。どうするのが最も良いかということが、すっかり分りました。これを見ていると眠いということが更に無い。はだかで握り飯を焼き、梅干を添えて二週間の間、食っていたのであります。

汝の熱心汝を食う

さて実験の結果、ほぼ氷砂糖の出来方が明瞭になりまして、味噌部屋を出た晩は家に入って、ぐっすりと寝たのであります。ところが翌朝枕をつけた頭の半分がむづむづするので、よく見ればすっかりはれあがって膿(うみ)を持っております。化学者の猪原氏の兄さん、猪原医師に見てもらいますと、どうも何病であるか分りません。翌晩は他の一方がまた膿みました。医者も手をつけることができない。ジョウロで水を頭からかけますと、白い膿が流れる。かくのごときていたらくで、一一月の下旬になってやっとよくなりましたから、頭に髪の毛が一本も無くなりました。世間では色々に噂して、花柳病だろうなどといった者もあったそうでございます。あとで考えて見ましたら、全く汗疹(あせも)が一面にできたのを打ちゃっておいたためでありました。この病気が全治しましてから、私はまた更に前の実験に取りかかりました。さすがに養父なども驚きまして、あれでも懲りずにまだやるのかと申したことであります。さて実験も段々成績を挙げましたため、福川氏と申す人から三〇〇〇円の資本を借りましていよいよ本当の事業に着手いたし、それから今日まで、砂糖製造業者として世の中を渡ってきたのであります。(了)







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最終更新日  2016年07月16日 05時46分08秒


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