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2016年08月09日
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遠州七人衆、日光で尊徳先生に面会する
二宮尊徳の嘉永六癸丑年日記帳は四冊ある。江戸逗留中一冊、日光出役中一冊、東郷陣屋二冊で二宮尊徳全集第五巻にある。嘉永六年(一八五三)九月四日に、遠州報徳七人衆の記事が初めて出る。全集編集者佐々井信太郎が九月四日の項に注を入れている。「この一行の往訪こそ静岡県下に報徳の栄える大なる原動力を培ったものである。本文順序に氏名を羅列すれば、内村啓助、岡田佐平治、武田兵左衛門、松井藤太夫、中村常蔵、山中利助、神谷久太郎である。」
日光での遠州報徳七人組の面会を見ると、
九月四日曇
一 遠州影森村慶助、倉見村佐平治、氣賀町兵左衛門、同藤太夫、森町常吉、同利助、下石田村久太郎、外に安居院庄七罷出候に付、片岡村仕法帳拝見為致候事
九月五日雨
一 遠州之面々今日も御仕法帳拝見終日罷出中候事
九月六日曇昨夜中禅寺山へ雪降り申候事
一 遠州之面々今日も罷出候に付、日光御神領雛形帳御拝見為致申候処、終日拝見之事

一 遠州之面々今日も御仕法帳拝借罷出候事
九月八日朝晴夕方曇
一 遠州之面々一同罷出終日御仕法帳拝見之事
九月九日晴
一 遠州之面々御仕法帳拝見終日罷出候事
九月十日曇
一 遠州之面々今日も御仕法帳拝見罷出候事
九月十一日晴
一 遠州之面々今日も御仕法帳拝見之事
九月十二日晴
一 遠州之面々御仕法帳拝見、終日罷在事

一 遠州之面々明日出立に付一寸面会及理解候事
九月十四日晴
一 遠州之面々帰国御暇乞罷出る。下新田縄索帳貸渡し申し候
九月十五日朝雨昼晴
一 遠州之面々今朝一同出立之事

「右総代の者、申上げ奉り候。私ども村々報徳善種の通り勤行仕り候訳は、相州大住郡大山麓、密正院にて出生庄七、勇次郎兄弟両人、河内国田口村、杉澤作兵衛と申す人発起これ有り万人講の儀につき、東海道筋たびたび通行これ有り。弘化三午年十一月帰国のみぎり、三州藤川宿菱屋喜兵衛方にて承知致し候には、遠州長上郡下石田村与平治と申す者、日本国中神社仏閣拝礼いたし極信者の由、聞き伝え、右両人与平治方へ立ち寄り、前書万人講の物語これ有り、その翌未年春三月又々伊勢大々御神楽執行に相登られ候節、与平治同道にて参宮御神楽執行仕りの序より旅中共始終御報の道、田畑作り方迄も教諭これ有り、誠に有難き大善道と感服仕り、庄七勇次郎両人を下石田村与平治方へ請待致し、連中組立て、報徳勤行仕り候儀、是れ実に遠州にて前書村々報徳の道尊敬仕り候発端にござ候。それより追々聞き伝え右両人に随身いたし、書面の人々当時報徳勤行連中にござ候。然るところ、なにとぞ大先生様の御姿一度拝覧仕りたく、連中一同の心願にござ候えども、おびただしきご用にて昼夜ご寸暇これ無き段、恐察仕り、段々延引仕りおり候ところ、当春、成瀧村佐平と申す者、江戸麻布御屋敷御台所まで罷り出、印内村龍法院も罷り出、なおまた気賀町藤太夫罷り出候ところ、天運に相叶い、大先生様に拝顔を得奉り候みぎり、庄七同道にて私共七人惣代として罷り出、村々議定書並びに家政調等ご覧に入れ奉り候あいだ、恐れながらご教諭下し置きなされ候わば、莫大のご仁恵と有難き仕合せ存じ奉り候以上。」
遠州報徳七人衆、日光訪問の経緯
嘉永五年(一八五二)の暮、佐野郡成滝村の平岩佐兵衛は、旧主の病気見舞いのために江戸に向かったが、その際二宮尊徳が相馬藩の中屋敷に滞在していることを聞きつけた。佐兵衛はさっそく訪問したが会うことができず、やっと明けて正月七日、三度目で尊徳に面会できた。その時尊徳は遠州の報徳の重立った世話人たちを当方に呼ぶよう佐兵衛に指示した。喜び勇んで遠州に帰郷した佐兵衛は、それを遠州の報徳人に知らせた。
 一八五三年春の報徳大参会は山名郡高部村(現袋井市)の高山藤左衛門方で開かれた。遠州報徳連中四一九人の総代として日光にいる尊徳のところに誰が行くかが議せられ、七人が選ばれた。佐野郡影森村内田啓助、倉真村岡田佐平治、気賀郡竹田兵左衛門、同町松井藤太夫、森町村中村常蔵、同村山中里助、下石田村神谷久太郎の七人である。同年八月出発した。一行は二手に分かれ、佐平治、里助、常蔵、久太郎の四人は、途中十日市場にある安居院家を訪れたり、曽比村の剣持広吉のところで報徳の資料を写し、尊徳のいる桜秀坊を訪ねたのは九月に入ってからである。九月四日一行は揃って桜秀坊を訪ねたが、尊徳は多忙のため会えない。一行は仕法書を写しつつ逗留を続けた。待つこと一週間以上に及び十三日にやっと面会することができた。
『報徳安楽談』『三新田縄索雛形』を賜る
「森町史」の資料編4の「三才報徳現量鏡」には「『報徳安楽談』と『御教諭書』は富田高慶先生のお手元から下し置かれ」とある。
 「福山先生一代記」は遠州報徳七人衆について次のように述べる。「ここにおいて遠江の有志相はかりこの年八月十日供して野州に至りけるその人々は倉見村の岡田佐平治、影森村の内山啓助、下石田村の神谷久太郎、気賀町の竹田兵左衛門、松井藤太夫、森町の山中里助、中村常蔵以上七氏なりき。(この時安居院先生はまず往きて相模国蓑毛村なる生家にありしかば人々訪い参らせて同行せしとぞ)かくて一行は日光に着し、二宮先生の旅館たる桜秀坊に至り刺を通じけるに御用多なりと五日間待たしめらる。人々倦み疲れけるに第六日に至り、一行を引見し、遠江の事何くれとなく問いたまい深く将来を奨励し給いける。されど既往の成事については一言だも賞賛したまわず、これ既往の成事は承認を得て為したるものにあらざるが故なりとぞ。かくて数日の後、帰国の御暇申上げければ報徳安楽談一巻、三新田縄索雛形一巻を賜り、外に金十五両わらじ銭として賜りける。(この賜金は一行の人々は強いて辞し去りけるとぞ。)」
『報徳安楽談』を現代語訳してみると、
「昔、万物がまだ循環していない時、よい手づるによって村中にこれ以上ないという柿の種を求めて蒔いて育て次第に成木となり、花が咲き実がなって熟したのを秘蔵にしていた。囲の外からうかがう子供らはもちろん、大人まで珍しいとめでて、それぞれ自分の家に無いことを憂え、うらやみ好んで、ついに欲心を生じて奪おうと欲する時、厳しく制するならば王法を恐れ慎しむようであるけれども、子ども心のあさましさ、折に触れ、時に乗じ野心をおこして奪うならば、わずかであっても泥棒となり差し支えがある。その人情を察して、願わくは自分が丹精を積んで余分に植え付けて実って熟したならばその珍しい物を譲り施し、蒔き植えさせたい旨を言って諭すならば、子供らはもちろんその父母兄弟に至るまですぐに欲心が変じて善心を生ずる。願わくは何度も何度も恵み施す時には、幼い子どもや田舎の人間でもその恩恵に服してどうして徳に報わないことがあろうか。これがすなわち日月が照す所、風雨が循環する所で制しなくても境界が正しく道理が行われ、一村が一家のように内外睦まじく世々安楽国に疑いがない。経に曰く、願わくはこの功徳を以て平等に一切に施し、同じく菩提心を発して安楽国に往生せん事を。」
一行は尊徳との面会の二日後帰途についた。
帰途、遠州七人衆は、この「報徳安楽談」にちなんで、道歌を詠みあっている。「先年故岡田清忠翁始メ日光地ヘ推参し二宮大先生に拝謁せし時、報徳安楽談と云梯(てい)の御文章を給りたるとき、諸君が徒然(つれづれ)に読まれたり道歌を聞きたりけるが
安居院先生 渋柿も姿をかへて串柿を恵む甘みのとふとかりけれ
岡田氏 渋柿もあまみもよぶす樽の中
竹田氏 日のおんや日に日にぬける柿のしぶ
啓助氏 かなしさやいつ渋ぬけんこぞの柿
新村(山中)氏 渋柿の中の渋なり森の柿
鈴木藤三郎の故郷森町には特産の治郎柿があり、森町には縁のある歌に思える。






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最終更新日  2016年08月09日 02時30分46秒


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