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(二)米欧旅行から帰国後の鈴木藤三郎(編者)1 台湾製糖株式会社設立 明治二八年台湾が日本に帰属。井上馨、児玉総督、後藤新平による台湾振興政策として台湾製糖株式会社が設立される。明治三三年創設発起人会が開催され、それに先立って藤三郎、山本悌二郎による実地調査が行われた。藤三郎が台湾製糖の初代社長に選任される。工場地は藤三郎の踏査の結果、台湾南部の高雄「橋頭」が最適地として選ばれる。藤三郎は社有地農場の買収を提案し、報徳の教えに則り、両得農業法を案出し、会社と農場の農民双方が得をする農業法を目指す。藤三郎自ら工業建設に従事する。また修理工場の建設=自助の精神による会社運営を行う。台湾製糖は台湾最初の近代的製糖会社である。1 「台湾製糖株式会社史」に次のようにある。「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治三十三年(一九〇〇)十月一日、新橋駅を出発し、三日神戸出帆、七日台北に到着した。十三日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、十月十四日基隆出帆、安平に上陸し十六日台南到着、三日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先づ高雄に出た。次いで鳳山に至り、それより万丹、東港を経て、糖業地の南端の枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見との間には蕃界に接して原野があり、石光見より阿緱街(現屏東市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越え関帝廟に出で、台南に帰着したが、この行程に費した日時は二週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾文渓を経て・・・それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間十一日を要し、前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治三十三年(1900)十二月二日であった。」工場は最初、総督府の調査に基づき麻豆付近が考えられていたが、鈴木、山本踏査の結果、曾文渓、橋子頭の二か所が候補地となり、運搬及び水に便利がよいことから橋子頭に決定した。明治三四年二月一五日建設工事に着手する。工場の設計設備に最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは鈴木藤三郎であった。藤三郎は、さとうきびを搾って分蜜糖を製出した経験はなく、また工場建設に参考となるものもなかったので、ロンドンで出版された「シュガー」の一小図版を参考として設計図を作成した。当時、最先端の技術は欧米諸国の技術者の助言援助等に頼っていたが、そうした方策は採らず、北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏らを用い実際の仕事を進めた。「鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」と「台湾製糖株式会社史」に記す。 明治三四年(一九〇一)二月に鈴木藤三郎は台湾製糖の事務所と工場建設にとりかかる。六月に事務所と社宅の上棟式を挙行し、工場は一〇月峻工し、機械据付は一一月に終った。藤三郎は台湾製糖株式会社に広大な農地を購入し、会社自らサトウキビを品種改良し、原料を自給した。1 「前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。」「建設工事 創立の二箇月後、即ち明治三十四年二月十五日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ且つその実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏であった。氏は我が国に於ける新式糖業のなお渾沌たる時代に斯界に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界に於ける最高の権威者と称せられるに至った人である。即ち、明治十年頃氷糖製造に志し、次いで精製糖製造の研究に進み、自ら精製糖工場を創設し、漸次発展して明治二十八年、日本精製糖株式会社となるにあたり、その専務取締役兼最高技術者として重きをなしていた。氏の砂糖精製に関する知識と経験とは、当社の事業たる甘蔗分蜜製糖にも役立つ訳ではあるが、何分甘蔗を搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、且つ又工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦一八八八年(明治二十一年)、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中にある一小図版を参考として設計図を作成し、しかも当時一般の習はしであった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るが如き策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場に於て製糖技術を修得してゐた齋藤定雋氏、その他を用ひて、実際の仕事を進めたのであるが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。 さて製糖機械は、既述の通り、八重山糖業株式会社が北海道紋鼈製糖株式会社から譲り受けていた仏国フイフリル会社製の三重効用缶、結晶缶その他を更に当社が引受けたのであるが、それは何れも西暦一八七九年(明治十二年)の製作にかかり、斯の種の機械中我が国に輸入させられた最初のものであった。当社はこの外、大阪汽車製造株式会社製及び石川島造船所製の火管式ボイラー、英国マコニー ハーヴェー会社製の圧搾機及びエンヂン、三重効用缶、結晶缶及びそれに付属する真空ポンプ、英国ワットソン レイドロー会社製の分蜜機及びその附属品を購入し、なお鈴木藤三郎氏経営に係る、鈴木鉄工部製作のデフヱケーター、フィルター ブレッス、タンクその他をも購入し、愈々其の組立据付に着手したのであるが、齋藤技師が主として之に当り、鈴木鉄工部から派遣された技師、職工及び紋鼈で甜菜糖製造に従事したことのある人々並に僅少の内地人現業員と、是等の工事に対しては全く無智な本島人を使用した、従って工事の進行には、想像以上の苦心困難が伴ったのは勿論である。」(台湾製糖株式会社史)2 鈴木藤三郎は両得農業法を案出し、会社も農民も共に利益となることを会社の方針とした。「甘蔗栽培については、農民を誘導して品種の改良、肥培耕作方法の改善を講じようとして、並々ならぬ苦心を払ったが、旧来の習慣を墨守する頑迷固陋な彼等は容易に之を実行せず、従って土地を所有しても、その効果は直ちに顕れ難かった。ここにおいて鈴木社長は、農民にも利益を与え、同時に当社も利益を挙げつつ甘蔗農業を進歩せしめようとするいわゆる「両得農業法」を案出した。明治三十四年十二月付の「両得農業法草案」は次のような語を以て結んでいる。「この方法を実行すれば、会社及び農民の両者間においてニ万六千円の実利を生ずる。もしそれこの方法を会社は今後買収した土地にあまねく施すときは、その利益はますます大きくなるであろう。二宮先師訓に曰く、『天地が和して万物が生ずる、男女が和して子孫が生ずる、貧富が和して財宝が生ずる』と、まことにこの言葉の通りである。元来会社はこの趣旨にのっとって、人民と共に天地の間に充満する、いまだに所有者がない財宝の開発に勉めて、会社のため、国家のために鋭意専心実行していくことを希望する。」このように、台湾製糖株式会社は創業の初めから農民との共存共栄を図りつつ、土地所有を社是として進んで来たが、現在では約五万甲に垂んとする広大なものとなり、愈々その真価を発揮せんとしている。創立当初に樹立せられた大方針を顧みれば、今更ながら当路者の先見卓識に敬服せざるを得ない。」(台湾製糖株式会社史)「当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地に於ても大会社の部に属していた。いわんや台湾においては、かかる資本を擁するものは未だ類例を見なかったであるから、当社経営の成否は、ただに新企業たる新式糖業の将来、延いては国家経済の上に大なる影響を及ぼすのみならず、新領土経営上の試金石ともなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つものとして重要視されていた。従って児玉総督初め官辺においても、その経営に対しては少なからず後援斡旋された訳で、当社の負える使命はまことに重且つ大であった。かかる使命と期待とは幸いにして着々その実を挙げ、台湾新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することが出来た。」と台湾製糖株式会社史にある。当時三井物産合名会社台北支店長として、創立下準備のため現地調査に携った藤原銀次郎氏は「その頃台湾へ来ていた内地人はほとんど皆な御用商人で、三井物産のごときも、阿片を総督府へ納めるのが主なる商売であった。そういうふうで、内地人はまだ仕事らしい仕事をやっていなかった。それではいけない。資本家が資本を持って来て本当の仕事をしなければ台湾は開発されないが、その本当の仕事の先駆をしたものは台湾製糖会社である。その後多くの製糖会社が設立され、あるいはまた他の種々の事業が起って台湾は今日の繁栄を見るに至った」と述懐する。台湾製糖の成功は台湾産業のリーディング・ケースとなったもので、藤三郎の台湾における実業人としての功績も高く評価されるべきと考える。2 鈴木鉄工部の併設、人材を育成。藤三郎は明治二四年(一八九一)から、小名木川の宅地の一隅に小鉄工所を設け、最初は五人の職工を使って、自分が技師となって、機械の製作を始めた。鈴木鉄工部を経済的に維持するために、金庫や精穀機を製作して売り出したりもした。鉄工部ができてから新たにくふうした機械の製作も自由にやれるようになり、藤三郎の研究は一段と飛躍的な進歩をし、砂糖精製機械を完成することができた。鈴木鉄工部は明治二四年に、三千円の資本で創立された当時、三間に長屋風の建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と二馬力のエンジンを備えたばかりだった。藤三郎は約二十年、配当を取らず、利益があればこれを事業に投じたので、年々発展して、敷地三千五百坪、従業員四百人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になった。藤三郎はこの鉄工部に鈴木発明部を設けた。鈴木鉄工所には二つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にする。この二つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んだ。 3 実業家として、発明家として明治三五年裾野桃園に鈴木農場を開く。現在の不二聖心女子学院の不二農園である。明治三六年日本精製糖株式会社社長。衆議院議員。福島県小名浜に鈴木製塩所。明治三九年周智農林学校を設立する。 1 国府犀東の「駿河みやげ」に、鈴木農場の概要と入手の経緯についての記載がある。「鈴木氏が語る所によれば、この地はもともと幕臣黒田久綱氏ほか四名が共同して、明治六年頃より開墾し始めたものだったが、黒田氏はその後東宮武官となったが、他の人々はいずれも零落したため、黒田氏の補助によってこの地の開墾を営んでいたが、次第に困窮して事業は振るわず、そうかといってこの地を分割して売却するにも忍びないと、困っていたところから、明治三二年駿東郡長の交渉もあって、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたという」とある。藤三郎は明治三六年(一九〇一)三月の第八回衆議院総選挙に、井上馨から伊藤博文に紹介され、郷里の静岡県から選出されて衆議院議員となる。その議会で井上純太郎と知合い、井上から「日本の塩は輸入塩にけ落とされかかっている。三割くらい製塩費を軽減できなければ、わが国の製塩業は全滅する。いい方法を考えてください」と依頼される。井上の依頼を受け、製塩方法を研究し、明治三七年風力を利用して海水を濃厚にする製塩装置を発明する。翌年、海水を蒸発させるため、気圧を低くすると低温でも蒸発する理論を応用した低圧蒸発缶、管内の自動掃除装置など製塩に関する発明だけでも三三件の特許をとる。明治三八年福島県いわき市小名浜に鈴木製塩所を新設する。この試験工場は独力で資本金四〇万円を投じて建設し、改良に加え完成したのは、明治四二年だった。「なぜ大胆に一事業のため四〇万円の試験費を投じたか」の質問に対し「私が事業を創始するには、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の歌に、『世の中に人の捨てざるなきものを拾ひ集めて民に与えん』というのがある。私はこれにならって、『世の中の人の捨てざるなき業を開きはじめて国に報いん』と詠んだことがある。世人の捨てない事業を開拓し改良して、少しで国家に益したい」と答えている。発明によってまだ世に現れていない新事業を開き、社会を豊かにしようとの志である。また藤三郎は、福川泉吾と協力し、明治三九年に森町に私立周智農林学校を創立した。1 「特殊なる私立周智農林学校」で、山崎徳吉校長が創設の経緯について述べている。「本校は福川泉吾、鈴木藤三郎両氏が創設したもので、福川鈴木両氏は誠実熱心な報徳実行の人で、至誠、勤労、分度、推譲の四教を守って共に今日にいたったものである。福川氏はかつて思われた。二宮先生の教えに、『人は言う。我が道は積財を勤めると、積財を勤めるのではない、世を救い世を開くためであると。私は多年分度を守って勤労に努め、いくらか財産を積む事ができた。今は世に推譲して社会に有益の事に散じなければならない』と。そしてこれを鈴木藤三郎氏に相談して、まずその最初の事業としてここに本校の創設を見るに至った。本校開校式における鈴木氏の言葉に言う。『本校の設立は主として福川老人の力による。福川老人は私のためには無二の恩人である。私が昔、起業の際に福川氏が力を貸し、導きを受けたことは大変多かった。福川氏は先見の明識がある人で、維新の始め生糸・製茶の貿易に従い、後に山林経営の必要を観破し、今やまた我が周智郡の発展のために農林学校の設立の必要を感じられ、私に相談を賜わって、ついに本校の開設を見るに至ったのである』。「農業者の現在は、祖先伝来の耕作の方法を踏襲して進化の大法を知らない。ただ無意識にスキとクワをふるって、科学がどういうものかを理解していない者がほとんどである。農業を根本的に改良発展させようとするならば、かならず農家の子弟に農業教育を受けさせ、学理を研究させると共に、これを実地に応用させ、農業の本当の面白さを理解させなければならない。これが私たちが本校の設立を計画した理由である。世に私立学校の数は少なくないが、農林業に関するものはその数は極めて稀である。特に本校のような目的の下に創設されたものは、全国唯一本校があるだけである。」4 発明王の最後 明治三九年 日本精製糖株式会社を去る。 明治四〇年日本醤油醸造会社社長。明治四二年サッカリン事件で藤三郎失脚。明治四四年 乾燥富国論と四一件の発明。北海道に鈴木水産工場創設。大正二年九月一三日 五十八歳で死去。日本精製糖会社では、支配人磯村音介らが、藤三郎が台湾製糖会社の経営や醤油醸造さらに製塩法の発明に没頭しているあいだに、大阪の伊藤茂七などと気脈を通じ、東京大阪両製糖会社などを合同し、独占的地位を獲得しようと画策した。製糖会社の一大合同を計画し五か条の条件を掲げ、社長の藤三郎に迫った。藤三郎がこの条件を迫られた時、磯村らの株数が藤三郎らの勢力を凌いでいた。藤三郎は明治三九年七月臨時総会を招集し、右の条件の実行は時機が早すぎると後事を有志団体に託し辞任し、同列の重役とともに退場し、その後精製糖の事業に再び戻ることはなかった。藤三郎は日本精製糖会社を辞任すると同時に自分の持株を全部処分した。報徳文庫の寄贈や中央報徳社設立・雑誌「斯民」発行の資金援助、周智農林学校創立寄付金などの大推譲は、日本精製糖会社の持株処分にって可能となった。 日露戦争が始まる前明治三六年(一九〇三)陸軍糧秣廠は藤三郎に醤油をエキス化する工夫を依頼した。藤三郎は醤油の性質を研究し、真空中に低温度で水分を蒸発させる方法で醤油エキス製造機を発明した。そして明治三七年(一九〇四)ら製造を開始し、戦争中十分醤油を供給できました。更に明治三七年春に小名木川の邸内に、一年に千二百石の醤油を醸造できる試験工場を建設した。そして三年間研究を重ねて新しい醸造方法でなら二か月で醤油ができることを確認した。試験工場で改良を加え、ハワイへ輸出するまでになりました。新しい醤油は、機械式攪拌のためにカビるという欠点がなかったのです。最初は個人的に一か年六万石位を醸造する工場で事業を開始するつもりだったが、国益になる仕事は大規模に国民全般に利益をもたらすべきだと説く人が現れた。藤三郎は留岡幸助に「小名木川では三百万円の資本で好評を博したが、岩下清周氏が来て、君一個の事業として小資本でやるより、他の資本を集め一千万円の資本としてやったらよかろうと勧誘したのに、つい乗ったのが、失敗の原因であった。三百万円にするのには、多くの年月を要して少しずつ基礎を固めつつ進んで来たのであったが、一躍して七百万円を増資してにわかの成長をしたのが自分の失敗だった」と語る。1 尼崎工場の建設について、畠山一清氏の回想がある。「私たち鈴木発明部員は、本格的に設計に取りかかった。テスト用の機械は完成していたので、『企業用』の設計に着手した。設計が終わると鈴木工作部がその設計をもとに、機械製造を開始。作業は急ピッチにはかどっていく。鈴木社長は、機械の完成を待って、資本金一千万円で、日本醤油醸造株式会社を創立、尼崎にその工場を建てた。工場へ機械を設置した総監督は、ほかならぬこの私だった。」「早造りで作った醤油は、ヨーロッパへ輸出されていった。だが、思いがけない事故が飛び込んできた。積荷をして、船がインド洋を通ると、突然醤油樽がバーン、バーンとみんな爆発してしまう。よく調べると、三か月では、完全発酵しないことがわかった。つまり、部分醗酵のまま船に積み込むため、インド洋の熱気を受けると、急に完全発酵の状態に成って、爆発してしまうのである。たいへんな誤算だ。インド洋上での醗酵はとめなくてはならない。そこで考えついたのが、サッカリンを入れて醗酵を抑えることだった。醗酵の抑制に成功。ヤレ、ひと安心と思った途端、サッカリンの使用をめぐって、とんでもない事件が持ち上がった。サッカリンは毒ではない。だが、これを毒にしたのが、鈴木社長その人なのだ。鈴木社長が製糖会社時代に、砂糖業界擁護のために、毒だということにして、サッカリン禁止法という法律をでっちあげた。それが今、自ら作った法律に縛られる事になった。この事件があって、半年たたないうち尼崎の醤油工場は失火で全焼し、これが致命的な打撃となって会社はつぶれ、再起の望みも断たれてしまった。」5 藤三郎の近代的醤油醸造法と『乾燥富国論』「醤油醸造技術の系統化調査」(小栗朋之著)で「彼の革新的な醤油産業への挑戦は、醤油業を営む人達には、大きな反省の機会とショックとを与えた。この事件に刺激されたように野田の地に明治四三年近代工場のさきがけとしての工場が誕生し、大正元年(一九一二)には本邦初の鉄筋コンクリート製醸造工場の建物ができ、その中には製麹室と圧搾場が設けられ最新式の設備が据え付けられ、一名かね蔵とも称され業界で一躍有名になった」と述べている。藤三郎の日本醤油醸造会社は、日本の醤油業界に産業革命をひき起こした。事業に失敗し、なお発明により新しい産業を生み出し、社会や国に貢献しようとする藤三郎の真骨頂は最後の著作「乾燥富国論」にある。「ああ予は何の面目ありて、社会に立つことを得ん。空しく生を貪らんより、一死もって知己に報いるにしかざるを想い、実は心ひそかに決する所あり。しかるにひるがって考えれば、人窮地に陥って、死を決するは易く生きて前過を償うの功を建つるは難し。難きを避け易きにつくは、古来志士の最も恥ずる所。予もまた平生一介の志士を以て自任す。死は決して知己に酬いる道にあらざるを悟り、その非を改め、むしろ進んで功を建て前過を償うの道を採らんことを誓えり。ここにおいて、眼を転じて産業界の現状を洞察するに、農林水産等各種の産業は政府・民間有志の奨励により、その発展大いに見るべきものありといえども、生産業に必要欠くべからざる物品乾燥の方法は、今なお幼稚の域にある。よって予は更に深く日本における乾燥操作の現状を調査し、この欠陥を救済する道は、完全なる人工乾燥装置の出現より外に良策無し。予は深く乾燥の目的及び原理を研究し、工夫を重ね研究を積みたる結果、斬新なる乾燥装置数件を発明し、直ちにその装置を制作し、実験を重ねて、その成績を確めたり。今この発明を日本の産業界に提供し、本邦における乾燥操作の現状及び将来に関していささか卑見を開陳し、題するに『乾燥富国論』の名をもってせり。」鈴木藤三郎の「その過ちを改め、むしろ進んで功を建て、前過を償う道を採らん」「人工乾燥装置の発明により日本の産業界に報いよう」という不屈の精神は偉大である。6 藤三郎 報徳文庫を奉納する。 明治三八年二宮尊徳歿後五十周年祭の時、尊徳の遺著一万巻が相馬に残されていることを知り、原本に万一の事があった場合に備えて明治三九年から三年間、筆生二十人を雇い、石像の土蔵、鳥居とともに寄贈。また中央報徳会と「斯民」の発行を支える。江原素六氏は森町での藤三郎の葬式に一文を寄せた。「自分は最も鈴木君を尊敬する者の一人であった。」「どの点に最も感心したかと、どの点もない、一の欠点もない。全身悉く敬服すべき人物であった。自分は徹頭徹尾賞賛していたので、君が衆議院に出るとき、自分は極力運動をしたが、このくらい心持のよいことはなかった。君が発明の才に富んでいたことは勿論であるが、然しそれは君の人物に対しては一の余技に過ぎなかった」。元東北大学教授○○氏に『報徳産業革命の人 鈴木藤三郎』を差し上げた礼状に次のようにあった。「報徳精神が企業家にも受容されていたことは一般的には知られていませんが、今日の弱肉強食の企業世界を見るにつけ、企業家にとっても報徳精神は顧みる価値を増していると感じています。その意味でも鈴木藤三郎の足跡の掘り起こしは大きな意義をもちます。」
2016年09月28日
「報徳記を読む」全4集所蔵館 2016年9月24日現在全12館国立国会図書館 1図書館県立図書館 1館山形県市立図書館 9館富良野市 美幌町 五泉市 南魚沼市 掛川市 下田市 森町 善通寺市 いの町大学図書館 1館横浜桐蔭大学現在、12月17日(土)袋井市メローホールでの講演会「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」のテキスト(資料集)作成を行っている。120頁ほどの小冊子だが、師 安居院庄七、福山瀧助父 遠州七人衆(日光に遠州地方の報徳の代表者7人が二宮尊徳を訪ね、面会して、正式に遠州の報徳運動が公認された)のうち、岡田佐平治、新村里助(尊徳の報徳役所日記では利助)と山中家報徳三兄弟に焦点を絞っている。これは実は「鈴木藤三郎顕彰シリーズ」の幻の第2集のテーマ鈴木藤三郎を生み出した遠州報徳運動を資料集として世に出そうという試みである。その表紙として、山中家所蔵の 山中家報徳三兄弟が寄せ書きした切り紙色紙を掛け軸にしたものがあり、それを表紙にしたいと思った。「報徳記第2集」には、青木村に伝わる青木堰の絵図を許可を得て用いた。表紙そのものを 貴重な史料 として世にそして後世に伝えようとする試みである。そこで森の元気屋さんに現在、12月の袋井講演会のテキスト「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」を作成中でブログにもその都度掲載していますが、表紙に 山中家所蔵の山中家報徳三兄弟の「色紙の掛け軸」(「山中家盛衰記口絵」)を使用して差し支えないか(出典「山中家盛衰記」と付記しようと思います)、お願いしようかと思うのです。資料集「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」を全国の大学図書館、公立図書館に蔵書としていただけるならば、安居院庄七、福山瀧助、遠州報徳七人衆、森町報徳三兄弟など遠州から三河にかけての報徳運動の素晴らしさを日本中に顕わすことができるでしょう。とメールしたところ、すぐに動いて使用の許可をいただいた。一見、表紙としては地味ではあるが、幾世代かを経るうちにまた森町の山中家報徳三兄弟が世に顕れるにつれて輝きを放ち始めるであろう。先日、報徳二宮神社の秋祭に参列した際に、直会(なおらい)の席で同席の人に「報徳記を読む第4集」をそれぞれ差上げ、第4集の副題である鈴木藤三郎の「報徳の教えが天下(世界)に広まり真正の文明の実を見ることを」について第4集表紙の裏の「願文」全ルビについて熱っぽく説明していたら女性の方から「伝道者みたいですね」と言われた。まことに留岡幸助が醤油事件で謹慎していた鈴木藤三郎を家に訪ね、カーライルの「クロムウェル伝」(ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集 内村鑑三神と共なる闘いに一部収録)について熱っぽく話し、「カーライルがその雄勁なる筆をふるって、クロムウエルは千古の大忠臣で、真に国家社会のためにその身の毀誉を顧みなかったのであるといって、冤(えん)をそそいだ」と励ました。実にこの「預言」を実現し、カーライルのクロムウェル伝とはいかなくても、滅びることのない確固たる資料集として鈴木藤三郎の事業を顕彰しようというものでもある。「斯民」(大正2年10月1日)の鈴木藤三郎氏追悼号留岡幸助「真に惜しむべき人」「 ◎慰問の夕 その後鈴木氏の大失敗の噂を耳にしたので、早速予はこれを訪問せんがため、黄昏時(たそがれどき)から自転車を飛ばして、小名木川の家を訪問したのである。時は一昨年も将に暮れんとする12月23日の晩の事でした。その時番頭が出て来て、「実は非常な場合でして、誰にも会われないのですが、あなたがいらっしゃったことを伝えますと、非常に喜ばれてお会いするとのことでした」といった。それから部屋に通ると、すぐに鈴木氏が出て来られ、老母(おばあさん)や、養子や、番頭まで出て来て、いろいろ精神上の話が出た。その時、鈴木氏がいうのに「昨日130万円の責任を引き受けて会社を出てしまった。(略)遺憾に思うのは、鈴木は始めから山師であるという世評である。もし自分が真に山師であるならば、自分が最大の株主になるような事はしないはずであるといって、世評に対する不満の意を漏らしたのである。 そこで自分はいうのに、それは君の平生にも似合わぬ繰言である。天下の人が皆、君を奸物であるといっても、それは皆利害の関係から君を評するのである。しかし自分のごとき、君とは何ら利害の関係がない人間が、君と共に公益のために尽くさんがために交わっておるのである。それ故自分は、自分の経営する家庭学校の事業のためには君を煩わすことをしないのである。これは公益をもって交わろうとの考えがあるからである。自分が聞くに、英国のクロムウエルは、多年奸雄と定(き)まっておった。ところがカーライルが出て、その雄勁なる筆を揮(ふる)って、クロムウエルは千古の大忠臣で、真に社稷のためにその身の毀誉を顧みなかったのであるといって、冤(えん)を雪(そそ)いだのである。君もこの際、泛々(へんへん)たる毀誉褒貶を眼中に置かず、前途の事を考えられた方がよかろうといって慰めたことであった。ちょうどその際クロムウエル伝の翻訳が出たから、翌日その書籍(ほん)を贈って置いたことである。」(第1集207ページ)
2016年09月25日
恵庭市立図書館10件1 報徳記を読む 第3集(図書形式)二宮尊徳の会 2016.32 二宮金次郎の対話と手紙 第1中学生からお年寄りまでよくわかる 袋井市浅羽北公民館「先人のより良い生き方に学」講演会記録 小田原編(少年・青年期) (図書形式)二宮尊徳の会 2015.2 3 補注 鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』明治29年(1896)7月24日〜同30年(1897)5月8日米欧旅行日記 日本精製糖株式会社 専任取締役 鈴木藤三郎 (図書形式)二宮尊徳の会 2015.12 4 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第5集内村鑑三 神と共なる闘い (図書形式)二宮尊徳の会 2014.85 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第4集札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士 (図書形式)二宮尊徳の会 2014.76 報徳記を読む 第1集『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集) (図書形式)二宮尊徳の会 2014.3 7 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第3集新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 (図書形式)二宮尊徳の会 2014.28 報徳記を読む 第2集(図書形式)二宮尊徳の会 2014.11 9 ボーイズ・ビー・アンビシャス《クラーク精神》&札幌農学校の三人組(宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造)と広井勇 (図書形式)二宮尊徳の会 2013.3二宮尊徳の会‖編 10 ボーイズ・ビー・アンビシャス 米欧留学篇米国留学中の内村鑑三の日記と手紙 内村鑑三から新島襄、広井勇あて書簡 宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡抜粋 (図書形式)二宮尊徳の会 2013.10平成28年8月22日補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記全80図書館国立国会図書館都道府県立図書館 7図書館 東京都立図書館 岩手県立図書館 富山県立図書館 静岡県立図書館 徳島県立図書館 鹿児島県立図書館 鹿児島県立奄美図書館市区町村立図書館 42図書館帯広市 江別市 北見市 富良野市 恵庭市 京極町 別海町 八雲町 佐呂間町 青森市 五戸町 八戸市 花巻市 大槌町 金ヶ崎町 南会津町 日光市 筑西市 郡山市 足利市 館林市 相模原市 厚木市 秦野市 静岡市 下田市 三島市 御殿場市 袋井市 掛川市 浜松市 磐田市 森町 岡崎市 羽咋市 大阪市 防府市 土佐市 いの町 新居浜市 西条市 日南市 都城市大学図書館 30図書館東京大学総合図書館 東京大学経済図書館 京都大学 東北大学 九州大学 弘前大学 岩手大学 宇都宮大学 福井大学 愛媛大学 高知大学 北海道教育大学付属図書館 敬和学園大学 横浜桐蔭大学 西南学院大学 日本大学生物資源科学部 小樽商科大学 東京農業大学オホーツク校 高知工科大学 大阪教育大学 静岡理工科大学鹿児島純心短期大学 東洋大学 駒澤大学 拓殖大学 鹿児島県立短期大学 東北学院大学 立命館アジア太平洋大学 水産大学校 酪農大学校恵庭市が「歩くまち」へ事業展開 21施設「まちなか休憩所」に (2016年 7/30)恵庭市の「歩くことを通したまちづくり」事業が8月1日にいよいよ始まる。2015年に若手職員が中心になって検討した内容が実現し、事業費200万円で各事業を展開する。イメージキャラクター「あるくん」をデザインし、8~10月にスタンプラリーを行う他、公共施設を中心に「まちなか休憩所」を開設。タレントなどを招いてのウオークラリーなど、歩くことが楽しくなる事業が目白押しだ。 健康づくりで新たなまちづくりを進める新規事業。15年2月に市7部13課の若手職員13人が庁内研究会を立ち上げ、北海道文教大学大学院健康栄養科学研究科の侘美靖教授と大学院生3人の助言と参加を得て検討した。同12月に(1)歩くことが楽しくなる仕掛けづくり(2)歩くことを支援する仕組みづくり(3)健康づくりと融合したまちづくり―を3本柱に、歩くことが楽しくなるような施策を原田裕市長に提言し、市は16年度予算で事業費200万円を計上した。 同事業の推進に向けて健康スポーツ課の職員が、イメージキャラクター「あるくん」をデザイン。恵庭の「恵」の字をモチーフに、歩く楽しさを表現したキャラクターで、考案した保健師の小松茉莉さん(27)は「市民に親しみを持ってもらえるようにと考えた」とアピール。「あるくん」をあしらったA2判のポスター100枚、事業案内とスタンプラリー台紙付きのリーフレット1万部をそれぞれ作り、「市民皆さまの目に触れると思うとわくわくする。一人でも多くの人に歩いてもらえれば」と期待する。 まち中を気軽に歩いてもらうため、休憩やトイレなどで気軽に利用できる「まちなか休憩所」を8月1日付で”開設”。市民会館や体育館、憩の家、えにわ市民プラザ・アイルなど、公共施設を中心に21施設を指定し、横60センチ、縦180センチの黄色いのぼりを立てた。中には給水できる施設もあり、同課は「恵庭、恵み野、島松各地区でちょっと足を延ばせば、お薦めのウオーキングコースがある」とアピールする。 合わせて8~10月にスタンプラリーも展開。同休憩所でリーフレットを配り、周辺のウオーキングコースを歩けば、同休憩所でスタンプが押せる。また、市民団体「えにわフットパス愛好会」「恵庭歩く人達の会」のウオーキングイベント、「はじめてのノルディックウオーキング教室」など市主催の事業でもスタンプがもらえる。スタンプを三つ集めて応募すれば、「あるくん」の反射板付き缶バッジをプレゼント(1250個用意)する。 9月25日のえにわ健康・スポーツフェスティバルでは、「えにわウオークラリー」を初開催も決定。北海道テレビ放送(HTB)と連携し、人気情報番組「イチオシ!」のリポーター、カイミさん、アリョーナさんのトークショーや歩くイベントを行う他、マスコットキャラクター「onちゃん」も来恵する。この他にも8月2~16日に恵み野西5の市立図書館本館で、同事業や歩くことに関する本を紹介するパネル展を開くなど、新規イベントも盛りだくさんとなっている。恵庭と富良野、海外から投資受け入れモデル地域に 道が初選定 2016/8/4北海道は3日、恵庭市と富良野市の道内2カ所を海外投資のモデル地域に選定したと発表した。アジアなど海外からの企業誘致や受け入れ体制の整備を強化し、海外資本を生かした地域経済の活性化を目指す。モデル地域は公募をもとに今回初めて指定した。道は2016年度を通じて各市の取り組みを支援し、成果を全道に波及させる。 恵庭市は海外からの玄関口となる新千歳空港や道都・札幌市に近い立地条件を生かし、海外企業を積極的に誘致する。道が16年度中に台湾やシンガポールなど海外で予定する投資セミナーに参加し、ホテルや食品、流通分野を中心にアジアの投資家にPRする。 富良野市はラベンダー畑やスキー場などの観光資源を武器に、受け入れ態勢を強化する。海外企業が進出を検討する際の不動産仲介や外国語対応などの仕組みをつくる。海外投資家との商談会も開催する。 道は1月にシンガポールに経済交流拠点を開設し、食や観光分野を中心にアジアの投資マネーの呼び込みを狙っている。一方で受け皿となる道内市町村の環境整備も課題となっていた。初の民間交流 台湾桃園市の空手選手団が合宿で来恵 (2016年 8/10)台湾桃園市の空手選手団(27人、林志●【王へんに民】=リン・ツーミン=団長)が8~10日、恵庭市内で合宿を行っている。3月に恵庭日台親善協会(土谷秀樹会長)が設立されてから、民間レベルの交流が初めて実現した。恵庭と台湾が友好を促進するきっかけになりそうで、土谷会長は「交流をますます深めたい」と意欲を見せている。 昨年12月に市をはじめ市内の経済、観光、農業の各団体関係者が台湾で開かれた「海外投資誘致セミナー」(道主催)に参加したことがきっかけになり、3月に台湾の企業誘致や投資の促進、観光誘客などにつなげようと同協会を設立した。市は国の地方創生加速化交付金を活用し、11月にも台湾で「投資セミナー」を開催する方針で、7月には道が海外投資に関するモデル地域として恵庭を選定するなど、交流促進などの機運が着々と高まっていた。 今回は北海道空手道連盟(斉藤栄吉会長)が初めて、台湾の空手選手団を道内に迎え、その合宿の場所に恵庭を選んだ。空手普及に熱心な伊藤雅暢市議会議長ら人と人とのつながりもあったのに加え、同協会が3月に発足したばかりの背景も踏まえたという。林団長は斉藤会長の教え子で元台湾チャンピオン。中学生、高校生の選手19人、コーチら指導者と選手団を組んで来恵した。 8日に恵庭南高校で、9、10日に島松体育館でそれぞれ合宿し、台湾の選手たちが恵庭南高や道連盟の強化選手らと一緒に汗を流した。斉藤会長は「恵庭は素晴らしい施設があり、選手たちのレベルも高い」と強調する。台湾選手団には東アジア選手権を制した選手もいるが、林団長は「日本の選手は精神的に集中力がある。恵庭は練習環境も素晴らしく、お互いが技術的に高め合えれば」と話していた。 9日には原田裕市長や土谷会長らが合宿を視察した他、サッポロビール北海道工場のレストラン「ヴァルハラ」で交流会も開かれた。土谷会長も「3月に協会ができたばかりだが、民間レベルの最初の交流ができた」などと歓迎し、市長も「(昨年12月に)桃園市長にも会って『交流を深めよう』と話をした。恵庭のいいところを知ってもらい、今後の交流のきっかけになれば」と呼び掛けていた。
2016年08月22日
鈴木鉄工部の併設、人材を育成。藤三郎は明治二四年(一八九一)から、小名木川の宅地の一隅に小鉄工所を設け、最初は五人の職工を使って、自分が技師となって、機械の製作を始めた。鈴木鉄工部を経済的に維持するために、金庫や精穀機を製作して売り出したりもした。鉄工部ができてから新たにくふうした機械の製作も自由にやれるようになり、藤三郎の研究は一段と飛躍的な進歩をし、砂糖精製機械を完成することができた。鈴木鉄工部は明治二四年に、三千円の資本で創立された当時、三間に長屋風の建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と二馬力のエンジンを備えたばかりだった。藤三郎は約二十年、配当を取らず、利益があればこれを事業に投じたので、年々発展して、敷地三千五百坪、従業員四百人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になった。藤三郎はこの鉄工部に鈴木発明部を設けた。鈴木鉄工所には二つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にする。この二つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んだ。 実業家として、発明家として明治三五年裾野桃園に鈴木農場を開く。現在の不二聖心女子学院の不二農園である。明治三六年日本精製糖株式会社社長。衆議院議員。福島県小名浜に鈴木製塩所。明治三九年周智農林学校を設立する。 1 国府犀東の「駿河みやげ」に、鈴木農場の概要と入手の経緯についての記載がある。「鈴木氏が語る所によれば、この地はもともと幕臣黒田久綱氏ほか四名が共同して、明治六年頃より開墾し始めたものだったが、黒田氏はその後東宮武官となったが、他の人々はいずれも零落したため、黒田氏の補助によってこの地の開墾を営んでいたが、次第に困窮して事業は振るわず、そうかといってこの地を分割して売却するにも忍びないと、困っていたところから、明治三二年駿東郡長の交渉もあって、ついにこの地を買い入れ、開墾に従事することとしたという」とある。藤三郎は明治三六年(一九〇一)三月の第八回衆議院総選挙に、井上馨から伊藤博文に紹介され、郷里の静岡県から選出されて衆議院議員となる。その議会で井上純太郎と知合い、井上から「日本の塩は輸入塩にけ落とされかかっている。三割くらい製塩費を軽減できなければ、わが国の製塩業は全滅する。いい方法を考えてください」と依頼される。井上の依頼を受け、製塩方法を研究し、明治三七年風力を利用して海水を濃厚にする製塩装置を発明する。翌年、海水を蒸発させるため、気圧を低くすると低温でも蒸発する理論を応用した低圧蒸発缶、管内の自動掃除装置など製塩に関する発明だけでも三三件の特許をとる。明治三八年福島県いわき市小名浜に鈴木製塩所を新設する。この試験工場は独力で資本金四〇万円を投じて建設し、改良に加え完成したのは、明治四二年だった。「なぜ大胆に一事業のため四〇万円の試験費を投じたか」の質問に対し「私が事業を創始するには、すべて二宮翁の報徳主義を遵奉している。翁の歌に、世の中に人の捨てざるなきものを拾ひ集めて民に与へんというのがある。私はこれにならって、世の中の人の捨てざるなき業を開きはじめて国に報いんと詠んだことがある。世人の捨てない事業を開拓し改良して、少しで国家に益したい」と答えている。発明によってまだ世に現れていない新事業を開き、社会を豊かにしようとの志である。また藤三郎は、福川泉吾と協力し、明治三九年に森町に私立周智農林学校を創立した。1 「特殊なる私立周智農林学校」で、山崎徳吉校長が創設の経緯について述べている。「本校は福川泉吾、鈴木藤三郎両氏が創設したもので、福川鈴木両氏は誠実熱心な報徳実行の人で、至誠、勤労、分度、推譲の四教を守って共に今日にいたったものである。福川氏はかつて思われた。二宮先生の教えに、『人は言う。我が道は積財を勤めると、積財を勤めるのではない、世を救い世を開くためであると。私は多年分度を守って勤労に努め、いくらか財産を積む事ができた。今は世に推譲して社会に有益の事に散じなければならない』と。そしてこれを鈴木藤三郎氏に相談して、まずその最初の事業としてここに本校の創設を見るに至った。本校開校式における鈴木氏の言葉に言う。『本校の設立は主として福川老人の力による。福川老人は私のためには無二の恩人である。私が昔、起業の際に福川氏が力を貸し、導きを受けたことは大変多かった。福川氏は先見の明識がある人で、維新の始め生糸・製茶の貿易に従い、後に山林経営の必要を観破し、今やまた我が周智郡の発展のために農林学校の設立の必要を感じられ、私に相談を賜わって、ついに本校の開設を見るに至ったのである』。「農業者の現在は、祖先伝来の耕作の方法を踏襲して進化の大法を知らない。ただ無意識にスキとクワをふるって、科学がどういうものかを理解していない者がほとんどである。農業を根本的に改良発展させようとするならば、かならず農家の子弟に農業教育を受けさせ、学理を研究させると共に、これを実地に応用させ、農業の本当の面白さを理解させなければならない。これが私たちが本校の設立を計画した理由である。世に私立学校の数は少なくないが、農林業に関するものはその数は極めて稀である。特に本校のような目的の下に創設されたものは、全国唯一本校があるだけである。」
2016年08月12日
余が菓子商として五年間に売上高を十倍にしたる営業法(大日本醤油醸造会社長鈴木藤三郎「実業日本」一一(二〇))その1その2その3 余が料理屋遊びの拒絶法 五ヶ年の計画が予定通りに済んだので、私は砂糖事業に従事した。しかしこの五ヶ年の間、この主義を実行して行くには多少の障害となるものがあった。私の郷里では青年が料理屋に上るという悪風(あくふう)があって、私も以前には時々その交際をしたこともある。それでいよいよ斯道を聞き、新生涯を開こうとしたとき、どうしてもこの悪風は除かねばならぬと決心した。その中に旧友は例の如く私を誘(いざの)うて料理屋に行こうと言う。一言で断(は)ねつけてしまえばそれまでであるが、罵詈(ばり)を受けるであろう。同郷として商売の邪魔にもなろう。さりとてこれに応ずれば当初の決心にそむく、どうしたものであろうかと種々苦心の末、一策を案出した。誘引されるごとに容易に承諾をして行く。そして種々な酒肴を持って来らせ、費用が驚くほどかからせるようにした。鈴木が一緒だと費用が掛かって困るということになり、数回で朋友も私を誘いに来なくなった。 またこうして荒蕪の主義を実行するについては、帳簿の記入は綿密にしなくてはならぬ。記録の整頓と、計算の正確とは最も注意して一銭一厘たりと雖も必ずこれを記帳することにした。ところが父は非常に酒がすきなので、私は毎晩晩酌を捧げてはいたが、父は私が一々それを記録するので心持がよくない。こんなことをして飲む酒は甘くない。汝の仕法のようなことをしなくとも渡世は充分に出来ると言って承知してくれぬ。親の言うことも背くにも背かれず、といって一歩でも道に反したなら大害を醸(かも)すであろう。一時親の意を損したとしても永久の計には換えられぬ。また父もたちまちに私の意を呑み込んでくれるであろうと決心して幾回となく報徳の道と仕法とを説明したので、後には父も私の真意を悟ってくれ、喜んで晩酌の杯を取るようになった。
2016年08月11日
米欧旅行から帰国後の鈴木藤三郎台湾製糖株式会社設立 明治二八年台湾が日本に帰属。井上馨、児玉総督、後藤新平による台湾振興政策として台湾製糖株式会社が設立される。明治三三年に創設発起人会が開催され、それに先立って藤三郎、山本悌二郎による実地調査が行われた。藤三郎が台湾製糖の初代社長に選任される。工場地は藤三郎の踏査の結果、台湾南部の高雄「橋頭」が最適地として選ばれる。藤三郎は社有地農場の買収を提案し、報徳の教えに則り、両得農業法を案出し、会社と農場の農民双方が得をする(WINWIN)農業法を目指す。藤三郎自ら工業建設に従事する。また修理工場の建設=自助の精神による会社運営を行う。台湾製糖は台湾最初の製糖会社。この方法が台湾産業近代化の礎となった。1 「台湾製糖株式会社史」に次のようにある。「鈴木藤三郎氏は、工場建設地選定その他の要件取調のため、山本悌二郎氏を同伴、明治三十三年(一九〇〇)十月一日、新橋駅を出発し、三日神戸出帆、七日台北に到着した。十三日まで同地に滞在の上、総督初め諸官に面会し打合せを行い、十月十四日基隆出帆、安平に上陸し十六日台南到着、三日間同地に滞在後、実地踏査にとりかかった。初めは工場を麻豆付近に置く予定であったが、先づ高雄に出た。次いで鳳山に至り、それより万丹、東港を経て、糖業地の南端の枋寮に到着した。当社は当時既に土地を所有し、自ら耕作する目論見を立てていたから、枋寮以北の大原野について、特に注意して踏査検分した。枋寮と石光見との間には蕃界に接して原野があり、石光見より阿緱街(現屏東市)付近にかけても大原野が横たわっている。この大原野を通過し阿里港に出で、下淡水渓を渡って手巾寮に至り、蕃薯寮を過ぎ、山を越え関帝廟に出で、台南に帰着したが、この行程に費した日時は二週間に及んだ。更に北上し、大目降、曾文渓を経て・・・それより塩水港に出で新営商に至り、軽便鉄道で台南に帰着した。この間十一日を要し、前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。以上の如き実地大調査を終えて、鈴木藤三郎が帰京したのは明治三十三年(1900)十二月二日であった。」工場は最初、総督府の調査に基づいて、麻豆付近が考えられていたが、鈴木、山本踏査の結果、曾文渓、橋子頭の二か所が候補地となり、運搬及び水に便利がよいことから橋子頭に決定した。明治三四年二月一五日建設工事に着手する。工場の設計設備に最も力を注ぎ、その実行を指揮したのは鈴木藤三郎であった。藤三郎は、さとうきびを搾って分蜜糖を製出した経験はなく、また工場建設に参考となるものもなかったので、ロンドンで出版された「シュガー」の一小図版を参考として設計図を作成した。当時、最先端の技術は欧米諸国の技術者の助言援助等に頼っていたが、そうした方策は採らず、北海道紋鼈の甜菜糖工場で製糖技術を修得した齋藤定雋氏らを用い実際の仕事を進めた。「鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。」と「台湾製糖株式会社史」に記す。 明治三四年(一九〇一)二月に鈴木藤三郎は台湾製糖の事務所と工場建設にとりかかる。六月に事務所と社宅の上棟式を挙行し、工場は一〇月峻工し、機械据付は一一月に終った。藤三郎は台湾製糖株式会社に広大な農地を購入し、会社自らサトウキビを品種改良し、原料を自給した。1 「前後を通じて二十四五日間にわたる踏査に、一行の苦心は実に容易ならざるものであった。その踏査区域は、現在殆んど全部が当社の採取区域となっている台湾南部の糖業中心地帯である。その上、当時の石光見、阿緱付近の大原野、即ち現在当社の阿緱及び東港両製糖所区域たる万隆及び大晌営その他の大農場付近を特に注意して検分している先見の明に対しては、吾々に驚きの眼をみはらせるものがある。」「建設工事 創立の二箇月後、即ち明治三十四年二月十五日、早くも建設工事に着手したが、工場の設計設備に、最も力を注ぎ且つその実行を指揮したのは、当時の社長鈴木藤三郎氏であった。氏は我が国に於ける新式糖業のなお渾沌たる時代に斯界に身を投じて刻苦勉励、遂に我が国製糖界に於ける最高の権威者と称せられるに至った人である。即ち、明治十年頃氷糖製造に志し、次いで精製糖製造の研究に進み、自ら精製糖工場を創設し、漸次発展して明治二十八年、日本精製糖株式会社となるにあたり、その専務取締役兼最高技術者として重きをなしていた。氏の砂糖精製に関する知識と経験とは、当社の事業たる甘蔗分蜜製糖にも役立つ訳ではあるが、何分甘蔗を搾って分蜜糖を製出した経験は全然なく、且つ又工場建設に参考となるべきものは何もなかったので、西暦一八八八年(明治二十一年)、ロンドンにおいて出版されたロック、ニューランド共著「砂糖論(シュガー)」一冊を得て、その中にある一小図版を参考として設計図を作成し、しかも当時一般の習はしであった欧米諸国技術者の助言援助等に頼るが如き策を採らず、ただ北海道紋鼈の甜菜糖工場に於て製糖技術を修得してゐた齋藤定雋氏、その他を用ひて、実際の仕事を進めたのであるが、鈴木社長の英断にはまことに感慨深いものがある。 さて製糖機械は、既述の通り、八重山糖業株式会社が北海道紋鼈製糖株式会社から譲り受けていた仏国フイフリル会社製の三重効用缶、結晶缶その他を更に当社が引受けたのであるが、それは何れも西暦一八七九年(明治十二年)の製作にかかり、斯の種の機械中我が国に輸入させられた最初のものであった。当社はこの外、大阪汽車製造株式会社製及び石川島造船所製の火管式ボイラー、英国マコニー ハーヴェー会社製の圧搾機及びエンヂン、三重効用缶、結晶缶及びそれに付属する真空ポンプ、英国ワットソン レイドロー会社製の分蜜機及びその附属品を購入し、なお鈴木藤三郎氏経営に係る、鈴木鉄工部製作のデフヱケーター、フィルター ブレッス、タンクその他をも購入し、愈々其の組立据付に着手したのであるが、齋藤技師が主として之に当り、鈴木鉄工部から派遣された技師、職工及び紋鼈で甜菜糖製造に従事したことのある人々並に僅少の内地人現業員と、是等の工事に対しては全く無智な本島人を使用した、従って工事の進行には、想像以上の苦心困難が伴ったのは勿論である。」(台湾製糖株式会社史)2 鈴木藤三郎は両得農業法を案出し、会社も農民も共に利益となることを会社の方針とした。「甘蔗栽培については、農民を誘導して品種の改良、肥培耕作方法の改善を講じようとして、並々ならぬ苦心を払ったが、旧来の習慣を墨守する頑迷固陋な彼等は容易に之を実行せず、従って土地を所有しても、その効果は直ちに顕れ難かった。ここに於て鈴木社長は、農民にも利益を与へ、同時に当社も利益を挙げつつ甘蔗農業を進歩せしめようとする所謂「両得農業法」なるものを案出した。即ち明治三十四年十二月付の「両得農業法草案」にはこれを叙して後、次の如き語を以て結んでいる。「此方法ヲ実行スレバ会社及農民ノ両者間ニ於テ弐万六千円ノ実利ヲ生ス若シ夫レ此方法ヲ以テ会社ハ他日買収ノ土地ニ遍ク施ストキハ其利益ハ益々大ナランニ二宮先師訓ニ曰ク天地相和シテ万物生ズ男女相和シテ子孫生ス貧富相和シテ財宝生ストト宜ナル哉言原来会社ハ此主旨ニ法リ人民ト共ニ天地間ニ充満セル未ダ所有者ナキ財宝ノ開発ヲ勉メ会社ノ為メ国家ノ為メ鋭意専心実行アランコトヲ希望スト爾云」(この方法を実行すれば、会社及び農民の両者間においてニ万六千円の実利を生ずる。もしそれこの方法を会社は今後買収した土地にあまねく施すときは、その利益はますます大きくなるであろう。二宮先師訓に曰く、『天地が和して万物が生ずる、男女が和して子孫が生ずる、貧富が和して財宝が生ずる』と、まことにこの言葉の通りである。元来会社はこの趣旨にのっとって、人民と共に天地の間に充満する、いまだに所有者がない財宝の開発に勉めて、会社のため、国家のために鋭意専心実行していくことを希望する。) かくの如く、当社は創業の初めから農民との共存共栄を図りつつ、土地所有を社是として進んで来たが、現在では約五万甲に垂んとする広大なものとなり、愈々その真価を発揮せんとしている。創立当初に樹立せられた大方針を顧みれば、今更ながら当路者の先見卓識に敬服せざるを得ない。」(台湾製糖株式会社史) 台湾製糖は台湾産業のパイオニア「当時、資本金百万円を超える事業会社は、内地に於ても大会社の部に属していた。いわんや台湾においては、かかる資本を擁するものは未だ類例を見なかったであるから、当社経営の成否は、ただに新企業たる新式糖業の将来、延いては国家経済の上に大なる影響を及ぼすのみならず、新領土経営上の試金石ともなり、台湾統治の上にも密接な関係を持つものとして重要視されていた。従って児玉総督初め官辺においても、その経営に対しては少なからず後援斡旋された訳で、当社の負える使命はまことに重且つ大であった。かかる使命と期待とは幸いにして着々その実を挙げ、台湾新式糖業の先駆会社としての目的を十分達することが出来た。」と台湾製糖株式会社史にある。また、当時三井物産合名会社台北支店長として、当社創立下準備のため現地調査に携った藤原銀次郎氏は「その頃台湾へ来ていた内地人はほとんど皆な御用商人で、三井物産のごときも、阿片を総督府へ納めるのが主なる商売であった。そういうふうで、内地人はまだ仕事らしい仕事をやっていなかった。それではいけない。資本家が資本を持って来て本当の仕事をしなければ台湾は開発されないが、その本当の仕事の先駆をしたものは台湾製糖会社である。その後多くの製糖会社が設立され、あるいはまた他の種々の事業が起って台湾は今日の繁栄を見るに至った」と述懐している。これは台湾産業発展史上における台湾製糖の地位を表わしたもので、台湾製糖の成功は台湾産業のリーディング・ケースとなったもので、藤三郎の台湾における実業人としての功績もまた高く評価されるべきと考える。
2016年08月11日
余が菓子商として五年間に売上高を十倍にしたる営業法(大日本醤油醸造会社長鈴木藤三郎「実業日本」一一(二〇))その1その2 調査の結果経費の二割を節約した 私の家の経済は養父も別に心得がなかったので、一切不明であった。そこで自分で調査して見ると、家の経費が二百六十円で一ヶ年の売上金額が千三百五十円である。これで計算すると現在の純益歩合が二割五分ということになる。しかし菓子商で二割五分の利益とは少し困難である。確実な計算とすれば二割であろうと思った。そうすれば一ヶ年の得るところ二百余円で五十円ばかりの不足となる。しかし明治十年からは自分という一人の労働が新たに加わる。のみならず入費も不整頓であるから、これを聖噸すればいくらかの節約が出来るに相違ないと思ったので、先生の仕法に基づいた家政経費調という書類を借りてきて、これを先例として自分の家政を分析してみた。その結果、食物衣類等経費の項目がおよそ三百余種あったが、その中には是非とも欠くべからざるものと欠いても左まで苦にならぬものとがあった。それを一々より分けて節約の出来る経費がちょうど五十円位あることが解った。 次に残した金で商品の価を安くした 明治十年からは新しい人間になった積りである。一方には身を節し用を省いて専心経済を治め、他方には「勤労を主とす」る主義に則って未明から夜半まで働いた。さてその年の暮れになって計算して見ると一ヶ年の売上金額が千九百円まり、二千円足らずで、経費は予算の通りであったから、節約した五十円の外に計算外の利益五十円を得て、合せて百円の金が残った。そこで翌年はこの金を二百五十円とするには既に内、百円が手元にあるから、差引百五十円を二千円の売上金から残せばよいのである。二千円に対する百五十円といえば、ざっと七分に当る。先ず一割の利益を得ればよいというソロバンが立つ。そのソロバンに合うだけに品物の値を安くすることが出来る。値が他店に比べて安いのであるから売上高がズット増加して第二年の終りには三千五百円となった。従来の商いの口銭(こうせん)は単に外々の同業者の振合い見て競争に堪えられる限り一杯の値に売っていたのであるが、私は荒地主義で分外を利用して安く売ったのであるから、得意はたちまちにふえ、売上高が増加したのである。 五年間に売上高が十倍になった この筆法で五ヶ年間、商業を続けたところが、第五年目には売上金が一万円、利益は僅かに五分取っても沢山になって来た。資本金も始めは二百六十何円しかなかったのが、五年の終りには千三百何円となった。これで私は荒蕪の力を以て荒地を拓くという主義は何の事業にも応用される、天下これに由りて起らぬ事業なしという先生の説に一点の疑いもなくなった。 その後、私はこの五ヶ年間の帳簿とその着手当時の計算書とを持参して岡田良一郎氏―氏の父は二宮先生の高弟で、氏もまた先生の道を修め、始終先生の教えを諸方に伝えることに尽瘁され、斯道(しどう)の泰斗(たいと)として師事された人であるーの所へ行き、始終の話をした時、岡田氏も至極賛成されて、自分も多年この道を講じ、自分も行い、人にも勧めたけれども君の如くに荒蕪の主義を商業に応用したもののあるを聞かぬ、実に斯道の模範であると激賞された。
2016年08月11日
余が菓子商として五年間に売上高を十倍にしたる営業法(大日本醤油醸造会社長鈴木藤三郎「実業日本」一一(二〇)) 十年の元旦から生れ返って大奮発 私はふとした機会で報徳教を耳にすることになった。そうすると私が今まで是(ぜ)であると信じていた考えは甚だ人道にそむいているということが解ったので、爾来四、五年間は必死になって報徳を研究した。元来私は物に熱しやすい性質であったから、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、どこでもうるさく尋ね、時には議論さえしたことも少なくない。報徳主義の人には謙譲の美徳を尊敬して、人と議論するなどということは少しもない。それを私が目上の人であろうが、さしつかえあることがあるにも係らずにやるので、自然私のことを『論客』とあだ名されるようになった。 当時私は製茶の販売をやっていたので、相当に稼いではいたが、出盛りの時は外は用もないので朝寝をすることがある。養父は報徳主義を聴いた人ではないが職業には熱心勤勉な方で、朝早く一仕事してからも未だ私が寝ているのを見、私の枕元へ来て『何だ、朝寝の報徳というがあるか』と責める。私も理論を研究している時である。なかなか口は達者なもので、即座に「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがあります。大工が板を削る前には必ず鉋(かんな)を磨いてからかかる、理髪主(とこや)が顔を剃るにも必ずその前にかみそりを磨きます。それが物の順序というのです。諺にも寝勘弁というではありませんか。一通り将来の新計画を立てて段々に実行に着手する。私は大工鉋を磨き、理髪主がかみそりを磨いてるのと同じく、今は実行に着手する準備です。今は年の半ばですから、明年の一月一日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは容赦しておいて下さい。その代り来年からは余り働き過ぎるななどとご心配をなさらないようにして下さい」と言った。 先ず買って来たのは目覚し時計 報徳の教えを聞いてから職業の大切なこと、人間に尊卑の区別あるは誠心のいかんによるので、その執る職業には少しも関係せぬことを悟ったので、今まで独立してやっていた製茶事業をやめて再び家業の菓子製造業に従事することにした。 そして第一に朝は五時に起きることに決めた。しかし困ったことには今までは朝寝の癖がついたので、なかなか目がさめない。人に起こして貰うのは嫌だし、何か機械的に自分で慣習を改める法はあるまいかと考えていた。その頃目覚し時計というものがあるとは聞いていたが、まだ見た人も少ない。然るに浜松の宮代屋という小間物屋が名古屋から買って来て持っていると聞いたので、無理に七円五十銭かで譲って貰い、いよいよ明治十年一月一日からこの目覚し時計で五時には必ず起きて仕事に着手した。今まで朝寝さえしたこののある私が五時にはキチンと起き、しかも元日から仕事をするので家の人はビックリしている。
2016年08月09日
氷砂糖の研究を始めてから七年目明治一六年(一八八三)藤三郎二十七歳の時に氷砂糖の製造法を発明する。藤三郎は氷砂糖製造に入り、結晶法による純度の高い氷砂糖は好評だった。そこで資金を借りて大々的に氷砂糖工場を建設しようとする。誰か資金を貸してくれる人はいないかと森町報徳社の新村理三郎に相談すると、「岡田良一郎先生に相談すれば、私も口添えしましょう」という。そこで氷砂糖創業予算表と工場建築図面を岡田良一郎のもとに持って行き説明し、資金を融通してくれるよう頼んだ。しかし、岡田は書類に眼を通して「予算上一割しか利益が上がらない事業では、利益などはとても得られないと思う。」と融資を断わる。藤三郎は落胆した。これを救ったのが森町の実業家福川泉吾氏だった。その時の感動が「特殊なる私立周智農林学校」に、「この時は実に地獄で仏に遇ったと云う嬉しいことでありました」と描かれている。「鈴木氏は、胸中ふと福川大人の人物経歴を想起し、さなりさなり、わが助力を請うものこの人より外あるべからずと。帰来しきいをまたぐの隙なく、直に大人を訪いて、年来の苦辛を語り事業の成績及び予算表を出してこれが助力を請う。大人具さに聞き終わり、かつ子細に予算表を点検し、やがて口を開きて云うよう、子が事業可なり。子が精神殊に可なり。薄利の予算に基づき勤労を怠らざれば天下何事か成らざらん。子の事業われこれを助けん」福川泉吾は「私は、あなたの事業は見込みがあると思う。ことにあなたの事業に対する精神がよい。薄利の予算に基づいて一生懸命努力したら、世の中で成功しない仕事はありません。世の中の人は、初めから大層儲かるような予算を立てて着手するから儲かりもしないうちから費用ばかりかけ、結局費用倒れして大抵の事業は成功しないのです。事業の初めに利益を最低に見て予算を立てるのはでき難いことです。あなたの予算の立て方は気に入りました。事業をすぐ始めなさい。資本は私が用立てましょう。」と言った。福川は藤三郎の精神を褒め、地元の青年の実業を援助した。建設資金は福川が出資し、事業の運営資金については森町報徳社が繰返し融資した。藤三郎の氷砂糖製造は、故郷の遠州森町の人々が育てたのである。また、藤三郎は吉川長三郎という得がたい経営の右腕を得た。藤三郎と吉川は十年契約を結び、誓約書を交わし、吉川は生涯遵守した。「一、共同出資の責任を藤三郎七分、吉川三分とすること。二、互に毎期の利益は、全て拡張費に投じ、決して事業外に取り去らないこと。三、この約束は十か年を一期とすること。」二の「互に毎期の利益は、すべて拡張費に投じて、決して事業外に取り去らない」が「荒地を開くに荒地の力を以てする」である。荒地開拓法で鈴木藤三郎は精製糖事業と鈴木鉄工部を「小を積んで大とな」していった。
2016年08月09日
「二宮先生五十年祭講演 第六席」(「二宮先生五拾年祭紀念号」p27-37)明治38年4月2日衆議院議員 鈴木藤三郎君 諸君、今日は二宮先生の五十年祭を御執行になる、実に御盛大のご祭典で私もここにおいて末席を汚すことを得ましたのは誠にありがたい仕合せでございます。それで今晩は岡田先生が折角遠方から来たから何か話をしろというおすすめを受けましてございます。然るに私はご承知のとおり当時遠方におりますし、又諸君のごとくこの会堂に毎回出席して、あらゆる先生のご講話を聴聞する事は出来ませんが、然し私は以前は時折この報徳社にまいりましてこの道を聞いたこともあります。今日別に諸君にお話を申し上げるような種は元よりないのでございます。しかしながら誠にこの有難いところの祭典に列した光栄として何でもよいから是非話すがよいというおすすめを受けましたから、私も元よりこの報徳の教えを熱心に信ずる一人でございますから、自分の不才を顧りみず、今晩一言お話いたしたいと存じます。どうか暫くおききを願いまする。 それで私は今晩ちょっとお話を申し上げたいのは、もう昼間のうちに報徳の大体の上より、かわるがわる諸先生方が種々お説がございまして、私は先刻申す通り不才なものでお話を致す力はございません。ただ二宮先師の教えにつきまして、もっともこの報徳と申しましたなれば実に大きなこと、どうもどのくらい大きいか分りません。これを天下に行いまする時は天下を経営する事が出来る、天下の治乱にも関係する、戦国にも応用ができる、又これを教育の一般にも応用しましたなれば、天下の教育という事になりまする。人類一般の事が則ち報徳ということになりましょうと存じます。このごとくなれば実に大なるものでございますから、その全体の事は到底かれこれ云う事は固より申し上げ得ません。ただ自分が実業に身を投じておりますから、大いなる報徳の教えより云えば、一節、報徳の一節という法が、これが実業と申しても宜しいことでございますから、先ず直接実業に従事する所の実業の経営の上に、この報徳を以て参って、ただこの方面の所感をお話致します。で、この二宮先師の教えの内に、荒地を開くに荒地の力を以てするとこういうことがございます。諸君はご承知の事でございまするが、さてこの意味を私は広く実業のいずれの方面にも、これをよく咀嚼しまして何事にも応用したなれば、最も今日の日本に適するものではないかとこう思います。それはどういうことかというに、もう先生が荒地ということをいわれましたが、これは一つの例でございます。未墾の地を開く、荒蕪を拓く、荒蕪の力を以てする、こうある、誠に意味のある所と考える。然ればどういう訳かというに、その事について一言申しますれば、荒蕪の力で荒蕪を開く。一番最初に荒蕪を開く資金を得にゃならん。それは手間取りをしても一反歩くらいの資本は、これは容易に得られるもので、勤労すればきっと行われる。初めにかかる資本を以て、一反歩の土地を開きまして、しかしてその一反歩の土地を開いて余った所の収入をまず善い塩梅に豊年と云うて空しくしてしまったなれば、荒蕪の力で荒蕪を開くことは出来ない。そこでどういう風に荒蕪の力で荒蕪を開くかというに、その開くことは一つの手段でございますと思う。それにその道がなくてはならん。それはどうかと云うに、報徳の道を一つ応用して見ますると、誠心を以て本とする、勤労を以て主とする、分度を守り、推譲を要とする。これが報徳の道でござります。何事もその道が土台になっておらにゃならん。その道を土台にしておきまして、しかしてそのなす仕事に現れて荒蕪を開く。荒蕪を開くに仮に一反歩を開いて五斗の米が獲れるとすれば、その半ばを衣食に取る。又その半ばを以て明年の開墾の資本とする。それには分度を立てる。もし分度を立てませんと、5斗獲るその獲ったものを食うてしまう。5斗のものは2斗5升剰して明年の資本として、また一反歩の荒蕪を開く。又今度は一石獲れる、一石獲ればその五斗を以て資本とする。そうなれば二反三反と開けて往く。こういう仕組みにして段々やりますれば、何千町歩でも開けるという事に聞き及んでおります。これは一つの例でございます。然ればこれは荒地を開くことばかりであれば、荒地のない所はいかんともすることは出来ない。この方法は荒地を開くのみの小さな方法ではない。この道とこの手段をすべての方面、何事に用いても農工商三業でも、あるいは何事業に応用してもその効績はある事と思います。それで私が今晩申し上げますることはお断りして置きますが、教えがこうであるという事を申すじゃございません。そもそも私が報徳の道を耳に致したのは、明治8、9年頃でございます。段々この教えを聞いて研究しているうちに、いわゆる今の荒地を開くの力を以てするということが、私の脳にしみまして・・・・・・非常に感じました。その感じ方がただいまの様なものになった。どうかこれを外の仕事に用いてやったならば、やはり功績があろうと考えた。その当時私は菓子商をしておりました。それにこれを応用して見ました。その仕方は細かな事を申す必要はございません。とにかく応用しまして5か年を期して明治10年より明治14年までこの事を実行しました。この事は外の方面にも応用が出来るか出来ないか試そうと思うて5か年やってみました。やってみましたところが、誠に歴然としてその効が顕れました。というものは、その1年の初年は明治10年の1月1日を以て初年と決しました。それ以前は捨てまして、全くその道を開きまして、これにのっとりてやろうと決心しましたが、明治10年の1月1日、満5年やりました。ところがその最初の時の資本は261円でございました。それが14年になってみました時に1万円を越しました。その当時はこの節と違いまして、とにかく駄菓子を1万円売るという事は大変でございます。信州辺りにてお得意が出来まして、その5年前までは300円ほどしか売れないものが1万円余にもなった。もっともそう売れるようになったのは廉(やす)く売ったから売れたに違いない。かように自分の営業に実験をしまして、それで誠にこの荒地を開くに荒地の力を以てすることが、独り荒地のみならず何れの道にも用いる事が出来るという観念が堅くなりました。けれどもそれで許す訳にはまいりません。その5年目に私はその証拠書類を提げまして倉真(くらみ)村にまわって、岡田先生にお目にかけました。こういう事をえましたと云うてお目にかけました。岡田先生それを見て、なるほどよくやった。こういうように応用することは面白い、結構であると。師匠と云うべき岡田先生にとにかく許しを受けました。そこで私もますます自分の決心が堅くなりまして、どうも私はそこで金力であると思うのは、分度と云うものを確乎と立って、それで例えば自分の財産が幾らあって幾ら資本がある。その半ばを取って分度を立って明年の営業の方に回して荒地を開く。それは荒地の力を以てする。これが土台になる。こう私は信念を固めました。少しは報徳の道を味わいかけた。これを味わいかけたので、その当時駄菓子を1万円売った。これもなかなか容易な事ではない。いやしくも国民としてこれを我が国家に一つ応用してみたい。出来るだけその方面に向かってやってみたい。こう心を起こしました。それからその菓子業は雇人に任せまして、専ら砂糖業を起こす事にかかりました。その初年は氷砂糖でございます。それをやはり同じ筆法でよろしいものとこう自分は決心しました。それからして東京に行きましてこれも段々拡張してやりました。それゆえに事業は多少大きになる。大きになれば力も大きくなる。そこで東京に移りました。東京に移りまして、ますます節約勤倹をして、その余裕を皆事業の拡張費に充てました。それでございますから、その間には種々な事もございますが、しかし今日に至るまでやっておりまする。それでまずそういうふうにして参ったおかげで、とにかく今日では東京に参ってもどうかこうか一つの仕事がまとまりました。それから明治33年に台湾にまいって砂糖業を起こしました。これは随分困難でございましたが、ようやく昨年より確かになりまして、まず安心する事業となりました。一の営業となったのであります。これもいわゆる言い換ゆれば、経済は経済の力を以て開く、砂糖業は砂糖業の力によって発達する。何でもそのものから出たものは、そのものにかける、儲けで何事も出来る。お百姓なれば今年の儲けを明年の肥料に充てる。何事業もその通り制限を立て、分度を立てて翌年の業に充てる、一つの営業をなすのにも、その営業者が金さえこしらえればよろしいのじゃない。どうかその事業を発達して拡張する、それが一つの土台でございます。これを名付けて誠心という。細かく云えば限りはございませんが、この誠心と勤労、分度、推譲、この四つは前にもお話がございましたから私は略します。何事もこの四つが備わらにゃ営業の発達はできないでございますから、ただ何事をする場合にもそれだけのものが並び行われんければ、それだけのものであります。この四つのものが備われば、およそ天下の事業としてならざるものはないと信じております。この道、この法を以て行ったなれば、いかなる事業といえども必ず成功するものでありますと、こう自分は考えております。ただ儲からんでは困る。あの業はあわん。この業は得だという、決して営業はこれは得な業、これが損なことという業はない。何でも差支えない。例えば酒屋をして身上を興す、又身上をへらす。必ず興すとも果たすとも罪はその業にない。その人にある。事業そのものに成敗はない。事業は人によって興りもし衰えもする。その興す人はどういう人であるか。この報徳の道を守り実行するとせん人であり、これによって成敗が分かれる。これが大体原則であると考える。それで今日は不景気で仕方がない。こうどこでも云う。どうも私はそういう事はないと思う。天則から云うと、日本の人は今5千万人、統計家の話で聞けばある。それに年々1万について、138人の割に人が殖(ふ)える。1か年60万人の人が殖える。そういうふうにこれだけの面積に5千万人ある。そうして年々60万人殖えるという有様でございます。そこでこれまであり来った事業では、とても仕方がない。しかし、何にも仕事がなくなった道理ではない。人が殖えるだけ、仕事が殖えにゃならん、それを「あう」の「あわぬ」の食える食えぬと云う事は私はないと思う。全体すべての事は発達をせにゃならん。もし発達をせないなれば、日本の前途いかにという事になります。いわんや今日はご承知のごとく世界に最大強国というロシアを打ち懲らして、実に連戦連勝の有様であって、この上もない幸福であるが、これより先、終局を見ることは長いかも知れん。勝つ事はたしかに見とめがついた。その戦争は勝って世界列国も日本人は驚くべき所の人種ということは今日では各国ともに称賛しているという事を聞いております。今、称賛される以上は誇ってもよろしい。しかしながらこれより戦後の事はいかがでございます。どうしても日本の富、この日本の富は農工商の実業を発達させにゃならん。これが全く発達をせんければ富は思いもよらん。然るに実業界はどういう有様かと云うに、一体の上より云うと外国とは非常の違いがある。戦争では世界人の耳目を驚かしたる所の日本人が実業上の事になると云うと所詮遠く及ばない。誠にこれは遺憾な事であります。私も実業者の一人でございます。甚だ面目はない。遺憾に感じておりまする。実業上の方面より見れば、日本人は外国人に遠く及ばん。戦争とすれば世界の人を驚かすような働きがある。これは余程不思議でございます。然れば日本人の能は戦争の事より外にないかと云うに、そもそも戦争において命をすてる目ざましき戦争をして国を取る、日本人が外国人より勝れた働きをするなれば、やはり産業上においても自然発達を早くかけにゃならぬ。日本人がこの方よりはいけないことは、何が故にいけないかと云うに余程講究せにゃならん問題だと思う。それは要するに今日の昼の間に諸先生の講話中にもありましたが、戦争をする決心が産業上にない。あれ程の真心がない。この真心を名付けて大和魂という。報徳ではこれを誠心と云う。その誠心が実業上に現れさえすれば戦争に勝つごとく実業上にも勝たにゃならん。実業上の大和魂が不安であるから何と云うても、ものにならんように思う。それはどうかと云うに諸君が熱心に日々研究をなさる処の報徳の道、報徳の教えをこの実業上に直ちに応用して行ったなれば、この戦争と同じようにかつてヨーロッパ人にない所の功績を実業の上に果して発揮することが出来ようと思う。でございますからして諸君は年来報徳の道をご研究になっておりまして何事にも行うておりましょう。しかしなおその上にも大小の区別を論ぜず、報徳の道を信じて実業に従事して荒地を開くに荒地の力を以てすると云うこの意味を応用して、そうして誠心誠意勤勉せられましたなれば、いかなる事業も遂げられんことはどうしてもないと自分は確信致します。それから自分の事を申しましては甚だおかしいようでございますが、近頃は私はある自分の嗜(す)きと云うより、少しこの器械につきましていささか工夫を致しました。それは2、3年この方発明が出来ました、その内もっともまだこれは確かに例証を挙げまして申すことは出来ません。今年中くらい掛かりますが、どうか有益であろうと思う。常にハンゼシメンショードそれは石炭と申すことであります。当時電気が非常に盛んでございます。その電気の基は石炭でございます。それ故にこの石炭を作らにゃならん。電気はいずれも石炭が必要でございます。もっとも水の原動力もある。しかし土地によりましてはことごとく水を引いて応用することは出来ない。石炭については新聞にもだいぶん出てきますが、我が国の石炭は九州北海道等の石炭が沢山あって堆積しておって大いに売るにも困るということは4、5年前の事であります。然るに各方面より近頃工業が盛んになりまして、石炭の消費が非常に殖えて来まして船舶の費消する高も大変な事になりまして、近来全く九州あるいは北海道の石炭の堆積もなくなりまして、今日掘って明日積み出すような訳になりました。需要一方になりましてその処で石炭は何れの方面に向かっても近頃不足をつける傾向になりまして、だいぶんその不足を唱えるようになりました。大洋中より石炭を採らにゃならんと云うておる。こういう事になりました。こういう事になれば前途誠に考慮を要する事になります。石炭は人為で出来るものでない。どうしても地層によって掘る、それを掘らにゃ作ることは出来ない。それはどのくらいの年限を経て出来るか、なかなか容易なことで出来るものではない。それほど貴いものでございます。これが又妙なことがあります。どういうことかと云うにこの石炭を分析すれば百の中に八十くらい燃えるものがある。然るにそのどれだけ燃やしているかと云うにまず普通燃えるに五分即ち半分でございます。全国中の工場でその統計で見れば非常に沢山つかわれているその部分でカスがある。燃えない石炭がつかわれている。燃すべきものは三分の一であります。世界中外国もその通りでございます。そういう事になっておりまする。その事をちょっと以前にある学者から聞きまして、それから明治29年30年にかけて外国を調べてみました所が外国でも同じであります。それから自分もどうかしてこれを誰か工夫するものがあろうと思うて人に実は求めておりました。所がそれが出て来ません。それから本来私も専門家ではございません。工夫をしよう考えようと思うことはない、世間に求めておりました。ある時、このランプを点(つ)けておりまして、やったではないが、炎(エン)がたつと火が赤くなる。どうすればエンが立つ芯の出しようによって油は一つ油でも赤くなってエンが立つ。又ホヤの掛け様でエンが立つ。そんなことを妙だと感じまして、彼の小さい手ランプあるいは豆ランプのごときホヤのないものは火が赤くなる。ホヤを着せれば火が白くなる。私はこれを始めに感じました。それから段々この事について考えて見ました。これはその温度と空気の量と油と心とを加減して適当に行けばよろしいという事がわかりました。その処で竈(かまど)もかくのごとしと思うて、これは一番工夫して見ようと云うことがその処に起こりました。それで4、,5年前でございます。段々工夫に工夫を加えまして、昨年7月ようやく形が出来ました。その効用と云うものは今までの石炭の三分の一を用いて足りまする。この事柄を細かに申し上げれば大変でございます。要するにちょうどこのランプのようなもので、またこの竈のようなもので火が燃えて煙りになる。その燃えても煙りにならぬと云う事が自分の理想でございます。それを大学その他の工学博士に鑑定して見て貰いました。確かによろしい理論的にも適(あ)っているが、今それの実験中でございますから本年中には確かに計算が出来、方法が出来ましょうと思う、これを工夫した原因は何んかと云うに、やはり報徳の道であって倹約という事が頭にございます。世の中に石炭というものが出来ている。その出来ているものは空しく失わんことが倹約でございます。織物にしてももしこれが手置が悪く粗末にすればある一部が切れる。もう着物にならん。又着物にしても注意して大切に悪くなれば洗い張りをして手置きをよくすれば5年も10年も一つものを着る。もしその手置きを怠れば1年か2年で、もう着物にはならなくなる。倹約はその処でございます。人工を加えて出来るものを捨ててその用をなさで終ることは極く不経済なことであります。それでございますから、この石炭の事も倹約と云う道に教わって、倹約と云うことの頭より見れば煙突より出る。濛々として雲の上に立つ様なものが出る事も甚だ勿体ないものとこう感じます。別に工夫して銭を儲けようという事じゃない。それを工夫して空しく煙りにせずば大いに利益のあること、わざわざ煙りにするのは実に勿体ないことであると思う。大きな考えを以て来て人生の上に及ぼしたなれば大変なことである。石炭に限らず何事も三分の一とか、あるいは半分を倹約することになれば、十年のものは二十年もつかえる。人生の進歩の上にも関係する処の問題と思うて、つまり倹約思想から段々研究しましたのが・・・・・また公然社会に公然発表して見ません故に確かなことは申されません。しかしこれまでやって来たのは、原因は勤勉という事の頭より出て来ましたので、そこで工夫してやったのが勤勉でございます。とにかく教えを聞いた所の勤倹というに基きましてかかる、結果に至ったのでございます。これも先輩の諸先生方に薫陶されましたものが、頭の底に残っておりまして、かような事になったものかと思います。しかしながら私のこれまでなし来ったことは変則でありまして、こういうふうに諸君にやってよろしかろうということは申されません。ただ私がこれまで実行して来たもとの考えの起こりがこの道を信じて。それに基いて来たということを申し上げたのであります。どっと変則と思いますから諸君もそういうふうにおやりなさいとは云われません。ただ何事にも使う精神は同一でございます。何職業も違った事はない。例えば駄菓子屋をやるにしても、よくこの考えを緻密に致してそうして一生懸命に勉強して、一生懸命に勉強するものが少ない。年が年中何事も一生懸命になりませんと全力を注いで仕事をすることができない。この精神さえ、あってしたなれば、いかなる大事業も出来る事と私は信じておりまする。思うに二宮先生のごときその人であろうと思う。たとえ学問があっても智恵があっても一生懸命に全力を注いで事をなさんものは充分な効果を得ることは出来ない。故に私は諸君と共にこの精神を以て報徳の教えを実行致したいと思うて、長い事を申し上げて甚だ恐れ入りました。これでご免を蒙ります。(拍手喝采)
2016年08月07日
テレビを農家のぶっちゃけシリーズを見るともなしに見ていた。枝豆や桃の次に 森町の鈴木農園の甘々娘が紹介されていた。糖度20度とマンゴーよりも甘いのだという。 ジョブチューン★農家&漁師SP★【静岡 森町】とうもろこし農家登場!日本が誇る一流の農家&漁師(秘)ぶっちゃけ大連発▼大人気!!【静岡 森町】とうもろこし農家登場!▼プロ直伝!美味しい食べ方&見分け方を公開遠州森鈴木農園静岡県森町、トウモロコシ栽培の盛んな町で農家を営むのが遠州森鈴木農園の代表取締役、鈴木弥(すずきわたる)さん。彼が栽培するトウモロコシは、森町の中でも特においしいと評判を呼び、毎日、およそ100人近い人々が鈴木農園のトウモロコシを求めて行列を作り出す。多い日には一日でなんと2万本も売り上げるほどの人気ぶりだ。いったい、なぜ鈴木さんが育てるトウモロコシは、これほどの人気を呼んでいるのだろうか? 今回、TBSテレビ『ジョブチューン』取材班は7月30日(土)よる7時から放送する「日本が誇る一流農家&漁師SP」に出演する鈴木さんに、そのヒミツを聞いた。マンゴーを超える糖度の秘密その熱狂的な人気の秘密は、トウモロコシとは思えないほどの甘さにある。マンゴーの中でも甘くて有名な宮崎の「太陽のたまご」は糖度15度以上が条件だが鈴木農園のトウモロコシの糖度はそれを超える糖度なのだ。鈴木農園が特別な品種を栽培しているかといえば、そうではない。栽培されるトウモロコシの品種自体は、ほかの地域でも作られているものと変わりはないという。それにもかかわらず違いが生まれる秘密の1つには、静岡県森町の特別な気候にある。この地域は、日中の気温と夜の気温の差がとても大きい地域だ。「この気温差がトウモロコシの甘さを生み出す」と鈴木さんは話す。トウモロコシという植物は、日中に太陽の光を浴びることによって、光合成を行いデンプンなどの養分を作る。陽が沈んで夜になると、光合成で蓄えた養分を糖、つまり甘さに変えてトウモロコシの実に蓄える。昼と夜の気温差が大きければ大きいほどトウモロコシはより甘くなっていく。一方、気温差が大きいだけであれば静岡県森町のほかの農家でも甘いトウモロコシは栽培できるはずだ。なぜ、鈴木農園だけがマンゴーを超えるほど甘いトウモロコシを栽培できるのだろうか? その秘密を探るためにジョブチューン取材班は、鈴木農園の栽培・収穫に密着した。早朝4時30分、辺りもまだ暗い鈴木農園の1日は、まだ陽も上らない辺りが暗い早朝4時30分に始まる。この時間の早さにこそ、鈴木農園の飛ぶように売れるトウモロコシの秘密があるのだという。明け方はトウモロコシが糖分を最も蓄えるタイミング。鈴木農園ではそのタイミングを逃さないように毎朝早朝から収穫を始めるという。また、時刻のほかにも重要だというのが「収穫の時期」。収穫の時期が早すぎても甘みが乗らず、逆に遅すぎても甘みは落ちていってしまうという。植えてから最も糖度があがった時期、その収穫時期を1日たりとも逃すことなく見極めて収穫しているそうだ。それを可能にしているのが、森町内最大の東京ドーム3つ分の鈴木農園の広大な畑だ。実は鈴木農園ではこの広大な畑を利用し、毎年1月から7月まで毎日新しい種を蒔いている。こうすることによって収穫時期には、「食べごろはまさに今日が一番!」というおいしいトウモロコシが毎日毎日出来上がるそうだ。収穫は、1本1本丁寧に手作業で収穫していく。1日約2万本をたった10人で収穫するため、作業は丁寧ながらも急ピッチで進む。「最高の商品のために妥協を許さない」姿勢そして、ある程度トウモロコシが収穫されると、次から次へと車へと乗せられて販売所へと運ばれていく。すべて収穫してから、一気に運べば労力も輸送費も抑えられるはずなのに、どうして一見効率が悪いと思える輸送方法をとっているのだろうか? 実は、ここにも顧客に「最高の状態のトウモロコシを届けたい」という鈴木さんの想いがある。実はトウモロコシは鮮度が命。収穫した瞬間から糖度はどんどん落ちていく。そのため収穫したら、すぐ食べるのがいちばんのオススメだ。そのため、販売所は早朝6時からオープンし、獲れたてのトウモロコシを販売している。トウモロコシ販売所には、すでに前日の夜23時ごろにはすでに1番乗りの人が並んで待つほど熱狂的なファンもいるというのだ。トウモロコシという1つの作物をとってみても、生産者によってそのこだわりはさまざま。「最高の商品のために妥協を許さない」姿勢が、ほかの商品とは一線を画すものになる。あらゆるビジネスやモノづくりにも通じる普遍的でシンプルなことだが、徹底して実践していくのは難しいことだけに高い価値がある。
2016年07月30日
五 第二期の二 明治三十四年より三十五年に至る ○洋行中の鈴木君 君渡航せんとするとき、ある人その任務の重大であるから信任する通訳者の同行をすすめる者があった。君はこれに答えて、この事業に関しては予の眼識はよくその巧拙を識別し、予の頭脳はよくその良否を判断することができるから、任務についての通訳の有無のごときは論ずべき事ではない。器械の購入に至っては彼れを制する唯一の利器である財を携えるから少しも心配することを要しないと言われた。このようにして君は横浜を出航してハワイに寄港し、同地の製糖所を視察し、それよりアメリカのサンフランシスコに上陸し、シカゴ、ワシントンを経てフィラデルフィアに行き、到る所有名な精製糖所を視察し、あるいはこの業界の第一人者を歴訪した。一日ブロクリンにおいて世界第一の精製糖所を視察するとき、会社の重役及び技師等は三十余種の見本を出し、その産地及び糖分の検定を求められた、君は熟視することしばらくして、一々指摘し終り、彼らがあらかじめ器械をもって検定した表を出して対照したところ、ほとんど符節を合わせるようであったので、彼らは大いに驚嘆してその眼識の高さに敬服したという事であった。このようにして君はアメリカの視察を終り、イギリスにわたりロンドンに到着し、各地の精製糖所を視察し、また器械製作所をも巡覧し、同国内地の旅行を終り、それから欧州大陸にわたり、ドイツ・フランス二国を巡回し、同年十二月二五日ロンドンに帰着した。君はアメリカ大陸上陸以来十五旬の間、汽車汽船に在るときの外は、日として製糖所及び器械工場の巡視をしないことなく、その足跡の到らない所なく、かつ知名の実際家学者を歴訪して研究したことから、各国の長所短所得失は胸中にはっきりとした。そこで君は各国の萃をぬき華をあつめて最新式の機械を選択して完全な精糖所の設計を立案し、これに要する諸器械の購入を為すこととした。この時にあたって各地の器械業者は皆な君の旅宿に集まり、その引請をなさんとし、君にくらわすに利をもってし、希望をとげようとするに至った。君はその卑劣をしかり一物の徴といえどもこれを受けなかったので、彼らもその手段を施すこともできず、遂に君を疑って会社の代表者ではないというに至った。このようにして君は一種の器械ごとに数工場に命じて競争入札をなさしめる事と定め、彼らが最上とするものに対し、詳細な説明書を作らせ、次に代価を入札させ、これを比較しその最優等のものを選んでこれを劣等品の代償にて買う注文をなした。彼はその注文を受けるやその品質を降さんことを請うもこれを許さず。その代償を増さんと乞うもまたこれを諾せず、彼をして最低の製造費をもって契約するの止むを得ざるに至らしめ、稀有の廉価で精良の器械を購入し、翌年二月十日イギリスのサウザンズトンを出航し、シンガポールに到着し、南洋ジャワに航海し内地の調査をし、それよりサイゴンを経て香港に来たり、南シナの産糖地を調査し、更に台湾に入り、同地における糖業の実況を調査し、五月帰京する事となった。
2016年07月19日
二 第二期の一 明治二十七年より三十三年に至る △日本精製糖株式会社の設立 他人の資本を借りて事業を起そうとする過誤を悟られた君は、暫く雌伏して専ら財力を養い、東京に出る資本を作られ、かつて観察しておいた小名木川の地に移転し、工場を設け、精糖氷糖の業を営まれ、将に大いに雄飛しようとされた。由来人生の行路は険しさ、平らかは常でなく、順逆の境は予期することはできない。順風で波穏やかに事業を進めてきた君は、一朝火災にかかり、器械工場の有形の財産はすべてすっかりなくなる不幸に遭遇し、ほとんど立つことができない打撃をこうむり非常の逆境におちいった。しかし君の頭脳は災厄にあうごとに鍛錬いよいよ堅く、勇気ますます加わり、禍を転じて福と為す方策を講じ、初一念の貫徹に尽したので、よく経済界の変調をもしのぐことができ、事業は追々栄え行くこととなった。 明治二八年日清戦争は平和の終局を見ると共に、一時沈静した我が事業界は俄然活気を呈し各種の事業勃興し、糖業界の前途を想えば、その需要ほとんど無限というべく、砂糖の原料産地で有名な台湾島は我が版図に帰し、事業拡張上得難い好時期に際会いたといわなければならない。独力薄資この事業の拡張をはかれば数年後でなければ、十分の拡張をはかることができないと感じられた君は、むしろ一身の利益は減ずるも衆と共に利をわかち、この得難い時期に投じ規模を大にし、国家の利益を興すこそ愛国経世の士として取るべき方針であるとされ、断然その計画を立てられた。多少の障害に遭遇したものの例の頭脳はよくその障害に打ち勝ち、吉川・長尾両氏の賛成を得たので、ここに発起人会を開くことになって、長尾氏の別邸に集会して席上会社設立の要項を協定し株式の募集に着手することになった。そこでこれを発表すると大いに世人の歓迎を受け、旬日を出でずして予定株数に超過するの好況で、我が国唯一の精製糖株式会社は創立され、長尾氏は社長に、吉川氏は取締役に、君はその専任取締役に就任し、事業を担任する事となった。ここにおいて君は従来独力経営してきた精糖氷糖の両工場を挙げて会社に譲り、多少経験してきた手腕をふるって専ら拡張に従事された。従来資本のために制せられ、十分に能力を発揮することができなかったから、事業の発展はそれらを顧慮するところもなく、自由に手腕を振う事になったから、事業の発展は君の予期にたがわず、会社は太陽が東の空に昇る勢いをもって隆運に赴いた。君が生命をかけた事業はここに全く成功したので、その得意想うべく、会社創立より五年ばかりの間は天馬にむちうって広原をかける勢いであった。 欧米糖業上の視察 君の計画は見事に的中し、社運の隆盛と共に、一たび欧米に渡航してかの地の糖業を視察し、精巧な新機械をも購入し、かつ南洋における原料産地の実況を調査し、一大拡張をはからんとされた。 社長はじめ重役一同君の計画を歓迎し、議はたちまち決して、君は万里の波濤を航して世界一周の壮途に上る事となった。これ明治二九年七月一四日で君が歳まさに四二歳の時であった。
2016年07月18日
二 第一期の二 明治十年より二十一年に至る △氷糖発明の苦心 君は暇があれば常に二宮翁の伝記を読んではその成功の跡を慕い、報徳四要の文を誦してはその精神のあるところを考え、至誠勤労の二句は成功の秘訣であることを悟り、炎々たる胸中の熱火は些々たる菓子製造業に満足することを許さない。この業界に雄飛しようとの大希望を起し、これより後の君は報徳活用のために奮闘的態度をもって家業に従事された。この時、君の境遇を察すれば、めざす境地は千里のかなた、思えばはるかな行く手の空や、見渡すかぎりは幾重の霞、とでもいうべき感があったであろう。しかし君は成功を確信し、第一着手として氷砂糖製造をなそうと思い立ちました。その事業たるや、新規の事業に属し、相談すべき人もなく、また自身とても少しの経験もなく、全く自己の胸中より製法を案出しなければならないので、その困難はとても筆紙の尽すべきところではなかった。しかし君は一たび決心した後は、ほとんど睡眠や食事を廃し、その考案に従事された。このようにして方法を案出し、実験に付すれば、事は予期に反し、試験も成功せず苦心は水泡に帰してしまうような場合で、更に考案をめぐらし再実験すれば、またまた失敗に帰し、このようなことが幾十回。意志の薄弱な者であれば、失望落胆遂にその事を廃するに至るべきであるが、君の剛健な一敗は、一敗より勇気を増し、この秘密を見出すのでなければ倒れてもやめないと、かの欧米の陶工バリッシーが陶器製造の方法を発明した時のように、百折不撓の熱誠をもって考案に重ねるに考案をもってされた。しかし容易に成功するに至らないで数年を経過した。 ある年君は野州今市二宮神社に参詣せんと旅装を整え旅程はるかに宇都宮に着し、旅亭某に投宿された、孤灯影暗いところに旅日記をしたため終り、例の氷糖製造方法を熟考しつつあった、たまたま隣室投宿の書生数人学術上の談話をなし、化学の事に及んだ。君はこれを耳にし、大いに興味を感じ、これを聞いていたが、ふと感ずるところあり、手をうって喜び疑問氷解の時至れりと、帰国し、旅中得た考案により製造を試み、翌朝これを見るに果然一種の結晶糖を得たれば、夢かとばかり喜び、再三その実験をなすに一回は一回より次第に好成績を得たれば、その方法を基礎とし、改良に改良を加えて遂に完全なる氷糖製造法を発明する事になった。これ実に明治十年より同二十一年頃までのことで、十余年の間、苦心経営の結果ようやくその目的を達する事を得られた。君はこの発明をもって二宮神霊の加護によるものと信じられているということであるが、いかにも感心な事と申さなければなりません。これより君は製品の販路を東西各地に求める事に尽力しましたが、製造高の少なさと土地の僻在なると、その他多くの不便を感じられたが、殊に身深く糖業界に入って見ると更に大計画を立てるの急を認められ、奮って第一期の三時代の事業を企てる事となった。 1 「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎(続き) 朝寝坊と目覚し時計 まず第一に朝は五時に起きることに決めましたが、困った事には朝寝の癖があってなかなか目が覚めまい、人に起してもらうようではならぬ、何か機械的に自ら慣習を改める法は無いものかと考えておりましたが、その頃、「目覚し時計」などというものは、有るということは聞いたばかりで、見た人も少ない。然るに幸いなるかな、浜松の宮代屋という小間物商が、名古屋から買って来て、持っていると聞き伝えまして、新村氏と同道して浜松へ行き、売物で無いというのを、無理に七円五〇銭で購って帰りました。さて明治一〇年の一月元日には、始めてこの目覚し時計によって起されまして、元日から仕事をするのかと家の者をびっくりさせながらいよいよ真正の意味において働き始めたのであります。 自家の分度法を立てる これより明治一四年まで五ヶ年の間を第一期として、私が計画したのであります。その時の計画を申しますと、全体私の家の経済は、養父もその辺の心得は有りませんために一切不明でありましたのを、自分で調査して見ますと、家の経費が二六〇円で、一年の売上金高が一三五〇円でありました、これで算用すれば現在の純益歩合が判るのであります。これをこれまでの分度とすればどこまでも同じ事でだめですが、既に自分という一人の労働が新たに加わったのみならず、しかも入用は不整頓でありましてこれを整頓しますれば若干の節約ができます。これには二宮先生の仕法に基づいた家政経済調と申す書類を、外から借りて参りまして、これを先例として、自分の家政を分析して見ますと、食物衣類等経費の種目がおよそ一三〇有余種ありました。その中で是非とも欠くべからざるものと、欠いてもさまで苦にならぬものとを一々よりわけて、節約し得る種類の経費が、ざっと五〇円ほど有ることを知りました。この五〇円に自分の真面目なる勤労の結果を加えたものが、すなわち第一年度の余得であるのです。 さて、その年の暮に計算をして見ますと、一ヶ年の売上金高は一九〇〇円あまり、二〇〇〇円足らずで、ありまして、経費は予算の通りでありましたから節約をした五〇円の外になお五〇円、併せて一〇〇円の金が残りました。そこで翌年はこの金を二五〇円にするには、うち一〇〇円は既に手にありますから、差引一五〇円の金を二〇〇〇円の売上の中から残せばよいのです。二〇〇〇円に対する一五〇円、ざっと七分になりますが、まず一割の余得をとればよいというソロバンを立てて、そのソロバンに合うだけに品物の値を安くしましたら、そのために売上高がずっと増加して、第二年目には三五〇〇円となりました。これというのが以前は商いの口銭は、単に外々の同業者の振合を見まして、競争に堪える限り、一杯の値で売っていたのを、私が荒地主義により分外を利用しました故に、安くしただけ得意が殖えたのであります。 荒地主義の実行 この筆法で、五ヶ年間商業を続けたところが、第五年目には売上高が一万円、利益は僅かに五分取って沢山になって来ました。資本金も始めは二六〇何円であったのが、五年の終りには一三〇〇何円となったのであります。ここにおいて、私は荒地の力を以て荒地を開くという主義は、何の事業にも応用することが出来る。天下これに因りて起らぬ事業無しという先生の御説は、一点の疑いも無いと信じました。 さて、私はこの五ヶ年間の帳簿と、その着手当時の計算書とを持参して、岡田良一郎氏の所に行き、始終の話をいたしましたところ、岡田さんも至極これを賛成せられまして、荒地主義をかくのごとく応用したのはお前が始めであろうと申されました。 菜の葉の虫が煙草の葉に移る 私も予定通り五ヶ年の計画を終りましたから、今後は菓子屋をやる必要も無かろうと思いまして、いよいよ砂糖屋を始めたのであります。砂糖屋と考え付きました次第は、今までの商売と関係があるために、多少これに関する経験が有ります上に、以前茶葉で横浜へ往来します頃、たしか貿易新聞かにその頃の日本の精製糖輸入高が一ヶ年四〇〇万円余とあるのを見て、我々が大骨折で外国へ出す茶も、やっと四五〇万円である。砂糖と引換えに過ぎない。今後文明が進めば無論砂糖の消費高も増すわけである。これを内国で製造する事となれば、国家社会に対しても、何分の貢献であると思いまして、そこでこれを終生の事業としようと決心したのであります。 砂糖の研究にかかる しかしいよいよ事業に着手するとしても、まず資本を調達せねばならぬが、それよりも第一いかにして製造をするかまだ一向方角も分りませぬ。そこで東京へ出てまいりまして、これも遠州の人で猪原吉次郎という化学者が、その頃まだ工部大学校(現在の東京大学工学部の前身)の学生で、下宮比町に下宿しておりましたのを訪ねて行きまして、砂糖精製の事を聞きました。猪原氏は色々西洋の本を読んで聞かせてくれまして、それから更に大学校の分析所に連れて行き、実地について一通りの説明をしてくれました。私も国で白下砂糖の製し方だけは知っておりましたが、まだ精製の方法などは丸きり不案内でありますから、何か西洋書の翻訳書は無いかと思って、頻りに探しているうち、ふと穴山有鄰堂で吉田五十穂という人の訳した、「甜菜糖製法」という日本綴八冊の図入の書物を見付けまして、大悦びで国へ買って帰り、それからほとんど一年間というものは、この本が毀れてしまうくらい、何度と無く繰り返して読んだものであります。この本は固より甜菜から砂糖を作る方法を書いたものでありましたが、その末のほうには砂糖精製に関する記事も多少有りますので、これによって幾分か製糖の知識を得たのであります。 これから毎年数回上京して工部大学校へ行き、猪原氏に逢って色々不審を聞いておりましたが、固よりまだ精糖の技術を手に入れたというわけでは無く、従って資本も出来ず、なかなかすぐに着手するという事が出来ません。そこで再びかの菜の葉の虫を思い出し、これも砂糖に縁のある氷砂糖の製造を思い付いたのであります。 氷砂糖の製造と不思議なる旅籠(はたご)屋にての霊言 さて一体どうして氷砂糖の製造を思いたったかと申せば、その頃は氷砂糖が中国の福州から輸入せられ、皆薬種店で売っていたものでその価も白糖の二倍であります。しかもその品を見ますに、色も赤く笹のごみなどが交じっていまして、我々の知識で判断しても、疑いもなくかの地従来のミヤゲであって、機械的工業的の生産物ではない。それで価がこの通り高値であるとすれば改良の余地は十分に有ると思いまして、一つこれを階段として進もうという考えで、その製法を研究し始めたのです。しかしその実験の結果を見るのはなかなか容易の事ではなく、いろいろと工夫をしましたが、そのために久しい間、非常に心身を労したのであります。 熱心凝結して砂糖塊まる ところが誠に不思議な機会から目的を達する端緒を得たのであります。それは明治一五年の一〇月、二宮先生の二七回忌に、日光今市へ友人二、三名とともに出かけた時の事であります。不便な時節ですから、往復におよそ一ヶ月を費やしました。今市では始めて二宮尊親氏にお目にかかり、その他奥州の人たちにも逢いました。その帰り道です。宇都宮に一泊しまして、その頃一新講の定宿をしていた稲屋という旅館にとまりました。ところがその夜、一寝入してから便所へ参りますと、遙か離れた座敷で二、三人の客人が何か声高に議論をしている、書生さんというふうです。その話の中にただ一言「砂糖の結晶」という語が耳にとまり、ハット思って縁側に立ったままで、耳を立てておりますと、要するに、砂糖は純になれば、自然に結晶するものだというのであります。これを聞いて、はたと心に覚ったことがある。今までは砂糖は人の力で固めるものと思い、何か外部からくっ付ける算段ばかりしていましたが、天然に結晶体の定則があって、純になれば自ら固まるべきものであったのを、今までは自然の理法を妨げておったのであったと心付きましてからは、一日も早く家に帰りたくなりまして、東京に道連れを残し一人で遠州へ帰りまして、早速この原則に基づき、今まで付けよう付けようとしていたのを、反対に取ろうという考えで実験にかかりましたところ、果して程無くごく小さな結晶を見ることができるようになりました。その時の嬉しさはなかなかお話することができません。 研究いよいよ佳境に入る 私はこの以前から倉の葺きおろしの味噌部屋を片付けまして、これを試験室にあてておりましたが、この中で例の試験をして見ましても、まだ何か物足らぬ所が有ると見えて、うまくできることもあれば、またできぬこともある。発明したのは誠にうれしいけれども、いよいよ営業者として立ち行くのには、ぜひとも百発百中で無ければならぬ。百発百中で無いのは遺憾である。これでは人から資本を借りることもできぬ。まだまだ術を極めたというには最後の微細な点まで推究せねばなりませぬ。学者に聞きましても分らないのは道理で、学者は自ら営業に手を下した人ではありませぬ。これは何でも自分で実験して、詳らかに氷砂糖結晶の状況と変化とを知るに限ると思いました。ところが最も困難なるは温度及び空気の関係であります。例えば春はよくできても、夏はいかぬことがあります。それにはいろいろと手をかえてその状況を細かに目撃したいと思いまして、明治一六年の夏であります。例の味噌部屋の実験室の中に、たくさんの器へ砂糖の液を入れまして、自分も握り飯持参で、二週間昼夜ともこの中に立てこもったのであります。温度は火鉢を入れて一二〇度から一四五度の間をいろいろとかえて見ました。無論丸はだかであります。折々苦しくなると実験室の小窓を明けて息をします。じっと見つめておりますと、砂糖が始めて結晶する時は、電気の作用であるか、ぱっと美しく光り、それから段々結晶するのであります。器の上の方から固まって来るのもあれば、下から結晶し始めるのもある。器の大小、形、液の深さによってちがいます。温度の高低にもよります。どうするのが最も良いかということが、すっかり分りました。これを見ていると眠いということが更に無い。はだかで握り飯を焼き、梅干を添えて二週間の間、食っていたのであります。 汝の熱心汝を食う さて実験の結果、ほぼ氷砂糖の出来方が明瞭になりまして、味噌部屋を出た晩は家に入って、ぐっすりと寝たのであります。ところが翌朝枕をつけた頭の半分がむづむづするので、よく見ればすっかりはれあがって膿(うみ)を持っております。化学者の猪原氏の兄さん、猪原医師に見てもらいますと、どうも何病であるか分りません。翌晩は他の一方がまた膿みました。医者も手をつけることができない。ジョウロで水を頭からかけますと、白い膿が流れる。かくのごときていたらくで、一一月の下旬になってやっとよくなりましたから、頭に髪の毛が一本も無くなりました。世間では色々に噂して、花柳病だろうなどといった者もあったそうでございます。あとで考えて見ましたら、全く汗疹(あせも)が一面にできたのを打ちゃっておいたためでありました。この病気が全治しましてから、私はまた更に前の実験に取りかかりました。さすがに養父なども驚きまして、あれでも懲りずにまだやるのかと申したことであります。さて実験も段々成績を挙げましたため、福川氏と申す人から三〇〇〇円の資本を借りましていよいよ本当の事業に着手いたし、それから今日まで、砂糖製造業者として世の中を渡ってきたのであります。(了)
2016年07月16日
鈴木藤三郎君立志画談 山田露洲生(大日本報徳学友会報第三一、三三、三四、三八、四〇回(一九〇四年十二月~〇五年九月)収録)一 第一期の一 生年より明治九年に至るまで▲諸言 鈴木君は日本の実業家、殊に糖業界の偉人とし衆議院議員として最も有名な方で、報徳界のためには始終尽力され、昨年遠江国報徳社で特別精業善行者の賞与式を行ったときには特別賞を贈られた方である。この画談に用いる材料は君が自筆の歴史画で自ら半生の経歴を描かれたもので、他に得べからざるの好材料である。殊に君は深く二宮先生を尊信し、報徳の訓言を服膺して成功され、常に「余の今日ある、報徳の教えを守り、実業に応用したことによる」と公言され、また将来の日本はおおいに実業的大和魂を養成しなければならない、実業的大和魂とは、報徳心をもって実業に応用するにほかならないのであると言われている。その言や服膺するべく、その行いや模範とするに適する、しかもその材料はただ一つの経歴画である。▲日本一の砂糖製造場 東京の小名木川に雲をつくばかりの煙突そびえ黒煙渦をなして天につきあたるを見る。これぞ本邦唯一の砂糖製造場で輸入糖と対抗しつつある、日本精製糖会社の煙突である。この大製造場こそ、鈴木君が苦心惨憺たる丹精によって生み出されたので、君は現に会社の専務取締役としてすべての責任を帯びて経営されつつある。▲鈴木君はいずれの人か 君はこの会社を経営されるために東京小名木川治兵衛新田に家をかまえておられるが、元は東海道鉄道袋井停車場より三里ばかり北へ入りこみたる、森町といえる小さな町の、とある菓子屋の養子であるが、実は同町太田平助といえるものの二男である。太田氏には二人の子どもがあったが、鈴木氏には一人の子どももなかったから、極めて幼年のときに貰われ、鈴木氏の家で生長したのである。実家も豊かな家ではないが、養家もまた細い資本で営業する菓子屋のことであるから、君は少年の折より菓子製造に販売にできる限りの働きをなして養父母を助けられ、父の没後にはその業をついで営業されたのである。君は養父母によく孝養を尽されたと聞いているが、これは君の天性にも出たるものであるが、また生母の賢たる感化にもよるだろうと信ずる。これは君の成功談には直接関係はないようであるが、母の感化が少年子弟には偉大の関係がある故に、ちょっと話しておこうと思う。君が鈴木氏に養われてのち、実家は不幸が打続き、父も病没し、兄もまた早世され、老いた母はひとりわびしく暮らすこととなった、人々その不幸を憐れみ、殊に旦那(だんな)寺の和尚(おしょう)来たり、君を貰い返してはいかんとすすめるも母は義を守りて許さないだけでなく、ある日、君を膝下に招き、事の始終を語り、かつ父在世の日、汝をば鈴木家の養子として遣わし、汝は養父母の丹精によりかく生長したものなれば、その恩義は生みの父母に異ならない、ひたすら心を尽くし養父母に孝養せよと深く諭されました。君はその教えを聞き、母の意中を察し、これより一層孝養を尽されたと聞いております。実に母の高義は感ずるに余りある次第で、この母にしてこの子ありと言わなければならない。 遠州の国には嘉永の初年、相模(さがみ)の人、安居院(あぐい)義道先生が始めて報徳の教えを伝えられ、それ以来各地に行われ、この森の地も早くより信ずるものの多い所で、報徳の参会なども古くより行われておったから、君もいつとはなしにその教えの感化を受け、報徳の談話をも聞き、報徳書をも読まれるようになった。君一日報徳四要の文といって、故富田高慶翁のものとされる、以誠心為本。以勤労為主。以立分度為体。以推譲為用。(誠心をもって本と為す、勤労をもって主となす、分度を立てるをもって体となす、推譲をもって用となす)のいう語を見て、非常に深く感じられ、昼は家業に従事し、夜は孤灯の下に報徳書をひもとき、もって精神の修養につとめられた。これ実に明治初年の頃の事で、君が今日あるその原因は全くこの時代の精神修養にあったので、恐らくは君は成功の秘訣はこの以誠心為本。以勤労為主。の二句にありと、感じ、この語を実際に活用し、現実になしたならば天下何事か成らざらんと大決心をされたのであろう。 報徳の四要を誦する人は多いけれども、君のごとく実際に活用する人の少なきは歎ずべきの至りであると言わなければならない。君の言われるとおり将来の日本は実業的大和魂の振起を要する場合であるから、諸子もまた君のごとく、現実にこの語を活用されることを二宮先生在天の霊はご希望をされているであろうと思う。1 「荒地開発主義の実行」鈴木藤三郎(「斯民」第一編第九号(明治三九年一二月二三日)二五頁) 子供の時から報徳という語は聞いていましたが、私はただ身代を殖やした人たちが、破れわらじを履き、けちな事をして金をためるのを報徳というのだとばかり思っていました。 報徳に入るの発端 私は養子でありますが、一九歳の年になるまでは、いわゆる生活の問題については何という考えもなく、無事に働いて日を暮らせば、それで善いくらいに思っておりましたが、ふとこれではならぬという気になって、何でも一つ金を儲けることだと思って、親の家は以前から菓子製造業であったけれども、自分はその頃流行の製茶の商売に手を出しまして、その年から二三になる頃(明治八年)まで働いておりました。然るに二三歳の正月でありますが、実家へ年頭に行ったところ、座敷に「二宮先生何々」という本がありました。これを観て「にぐう」とは何の事かと義兄に聞きますと、「にぐう」ではない、二宮先生といって、報徳の先生の本であるという話に、そこで始めて報徳にも本が有るのかと不思議に思って、いろいろ質問をしたことでありました。 天命十箇条 この時、実家から借りて帰った本はかの「天命十箇条」でありました。これを読んで見るとすこぶる心を動かすことが多い。それからようやく報徳社に出入りして話を聴くようになったのであります。このごろ郷里森町の報徳社の社長は、安居院翁の門人で新村豊助という人でありました。私は最初は正社員ではなく、客分ということで出席しておりましたが、段々と様子がわかって見れば、報徳なるものは、かつて想像しておったものとはまるで違ったものである。これは何でもとくと腹に入るまで研究してみたいものだと思いまして、それからは諸方に行って師を求め説を聴いてあるきました。 岡田佐平治翁と報徳の伝播 その頃、倉真村の岡田さんは、今の良一郎君の父君、岡田佐平治翁の盛んに道を説いておられる頃でありましたが、そのお話が聴きたいにも、何分私などにはよいツテがないために、お目にかかることができなかったのですが、明治一〇年かと思います。浜松の玄忠寺に報徳の会が毎月一度ずつ開かれまして、これへ岡田翁が出られますので、幸いのことと存じ、森町から浜松までは七里ありますが、会日には必ずこれへ出席しておりました。 徹夜の研究 しかし月に僅か一回くらいの事では修行が進まぬと思っておりましたところ、その後見付町の金剛寺で、今の岡田良一郎さんが、青年を集めて報徳研究会というのを催されたので、喜んでこれへも出席しました。ごく熱心になる者ばかり一〇名ほどの会でありましたが、毎に徹夜をして議論をしたものであります。見付へは森町から3里ありますが、毎月二〇日の会日には、特に朝起をしまして、およそ午後の四時頃までに一日の用を果し、それからテクテクと出かけるのです。夜どおし難問の研究をしまして夜が明けると、金剛寺の和尚が看経を読むその声を聞いてからいつも家路につくのであります。それから引佐郡井平村の松島授三郎氏、この人も有名なる報徳の先生でありますが、ここへも何遍か行っては話を承りました。 論客とあだ名せらるる所以 元来私は物に熱しやすき性質でありますから、報徳の道を学びましても、自然人よりも多く疑問を抱き、またこの疑問が腑に落ちるまでは、何度でもうるさく尋ねます。時には議論をふっかけます。目上の人であろうが、座上に障りがあろうが、一向頓着なく食ってかかるという風でありますから、人によるといやがります。熱心なのは良いがああ無作法でも困るという人もあれば、彼のは理屈ばかりである。議論や穿鑿(せんさく)に過ぎると、悪く言う人も有りました。当時私は論客というあだ名をもらっておったのであります。 腑に落ちざる投機につきての説諭 かつて相州から渡邊央という人が、福住正兄翁の託を受けて遠江へ往来していたことがありました。この人は小田原辺りの神官で、国学者で、福住翁の友人でありました。この人が来れば新村豊助氏の宅に泊まっていて報徳の会を開くのであります。ある時二日ばかりの大会をした後、なお4,5日新村氏に逗留しておられる間の事であります。森町の報徳社員のうち某々の二名が、報徳では厳禁なる投機に手を出して、正に破産しかかっておるので、この者の処分を決するということで、両人を渡邊氏の面前に招きました。渡邊氏の訓戒は極めて親切なものでありましたが、そのお話のなかに、投機などに手を出して身代を起こし得る訳が無い。いったんはよくても、つまりは産を破るのは当然であるといって、たくさんの事例を挙げられました。両人の者はもちろん一言もなく引き下がりました。他の列席者も追々に帰りましたが、私は一人跡へ残りまして新村父子と共に席におりますと、新村氏はなぜ帰らぬかといわれます。「いや私は少し伺いたい事があるのです。今の渡邊先生のご訓戒で、本人の二人は心服したようでありますが、私はありていにいえばあれだけのご教訓では、まだ投機をやる気を心から改めることができません。だから猶一応お説が承りたいのであります。」 渡邊先生曰く、「それは一体どういう不審であるか」私が申すには、「先生のご教訓は永いけれども、要するに投機は儲かるもので無いからやめろでありましょう、然らばあるいはこれに反抗する者があって、一つ儲けて反対の証拠を見せようとする者があったらどうしますか、私が本人なら、決して彼らのようには承服しません」と言いますと、「それではお前の考えが有るだろう、言ってみよ」とのことであります。 投機業は商道にあらず 私は「儲かると否とは問うところにあらず。元来投機などというものは人間のなすべき事でない。天下の人がことごとくこれに従事したならば、世の中の財貨はたちまち無くなってしまいます。いやしくも道を聴いた者の為すべき事でないのは明らかであります、もし私が言えばかくのごとく申します」と答えましたら、「これはなるほど、もっともだ」と賞賛されました。 困った求道者 渡邊先生の説は今考えて見れば、固より相手を見ての方便説であったのでしょう。私は報徳の先生に逢うごとに、二宮先生を古人に比すれば、何人に適当するだろうかと問いを発して、先生を信奉する程度をはかっていました。渡邊先生は鄭の子産をもってせられた。しかし私はそれ以上と信じていました。かくのごとくしなしばこんな議論を先輩に対して致しましたために、水谷英穂という教授などは、どうも鈴木の無遠慮にはこまる、人がいても何でも構わずに反抗すると申されますし、水谷東運という僧も檀家の者がたくさんいる前でヤカマシイ議論を吹っかけるので、体裁が悪くていかぬなどと言われました。かくのごとく一時は研究の余り、少々狂熱に馳せた姿でありました。 難解の疑問 その頃、私にはなお一つ深き疑いを抱いておる問題がありました。それは二宮先生の置書の文の上に、「知足」と大きく書きまして、その下へ「菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草(たばこ)の虫は煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己の分度とす」とあります。この幅は私も一つ持っておりますが、この文章の意味が不明なため、私はほとんど3か年の間この問題を諸方へかつぎあるきました。先輩の説も多くは承服することができず、二宮先生の教えの中にも、これを解くたよりを見出すことが出来なかったのであります。然るにある時、前に申した井平村の松島氏の宅に、遠譲社の大会がありました。福山翁のまだ生存中のことであります。私もかねてこの目的がありますので、新村氏の供をしてそれへ参りました。この道の羅漢たちが集まられて4,5日の間続けて報徳の道を講説研究するのであります。私は折を見てこの問題を出しますと、各先生それぞれお説がありましたが、どうも服し難い、多数の説はこれは身代の分度を指したものである、他を顧みるな、人を羨むなという意味だというような説であります。それでは人間というものは実につまらぬものだといわなければなりませぬ。この時の座長は、平岩佐兵衛氏でありましたが、最後にこの人に尋ねますと、平岩氏曰く「これはそんな形のものでは無い、つまり人の才智に各々分が有ることを意味するのである」この説は初耳でありましたけれども、私はそれでもやはり心服することが出来なかったのであります。 積極分度 平岩氏は私がこの問題を解くがために既に三年かかっていると聞いて、「そんならお前の説があるだろう、それをここで言って見てはどうか」と申しますと、外の人もともにこれを勧めます。自分も説が無いではないが同じくは先輩の説と一致していることを知りたかったのであります。「全体菜の葉の虫は菜の葉を食い尽くせば願わずして大きな煙草の葉、芭蕉の葉に行かれるのである、まだ自分の境涯を経尽くさずして新たなる境涯を求めるのは良くない、二宮先生の遺訓は決して虫が新たなる葉に移るのを禁じたのでは無く、ただ小さき分際におりながら、一足飛びに大きな葉を得んとするのを戒められたのではありますまいか」と申しますと、その座におる人たち皆手を打って「負うた子に浅瀬を教えられた」とはこの事であると、たちまち私の説を允可(いんか)せられたのであります。このとおり私は理論は盛んに求めておりましたが、いまだ実行には着手してはおりませぬ。もっとも製茶の職業だけは怠らずかせいでおりましたが。元来この商売は報徳とは縁の遠い楽な仕事でありまして一季出盛りの時の外は随分朝寝も致します。養父は報徳の教えは聴いた人ではないが、菓子製造の職業には、なかなか熱心勤勉な方で朝早く一仕事してからまだ私が寝ておりますと、枕元へ参られまして「何だ朝寝の報徳というがあるか」と怒鳴ります。私も理論に馳せるくらいですから、なかなか口は達者なもので、即座にこう答えるのです。「朝寝の報徳もあります。物事には順序というものがある、諺にも寝勘弁というではありませんか。まず一通り将来の計画を立てて、段々に実行に着手するのです。今は年の半ばですから、明年の1年1日を紀元として新しい人間になって働くつもりです。それまでは、容赦しておいて下さい。その代りに来年からは、あまり働き過ぎるなどと、ご心配をなさらぬようにして下さい」と申しました。こう申しましたのが明治九年の八月頃であります。一夜明けた初春からは今までの茶業もやめよう、あくまでかの菜の葉主義をもって学び得た理論を実施に施すには、やはり家の世業によるに限ると思いまして、明治一〇年の一月から向う五ヶ年を一期とし、かの「荒地の力を以て荒地を開く」という理を自分の考え通りに解釈して、これを自分の事業に用いんものと、いよいよ躬行の計画を立てたのであります。
2016年07月16日
平成28年7月11日補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記全62図書館国立国会図書館都道府県立図書館 6図書館 東京都立図書館 岩手県立図書館 富山県立図書館 静岡県立図書館 徳島県立図書館 鹿児島県立図書館市区町村立図書館 30図書館帯広市 江別市 北見市 富良野市 京極町 別海町 八雲町 佐呂間町 青森市 五戸町 八戸市 花巻市 大槌町 金ヶ崎町 郡山市 館林市 相模原市 厚木市 静岡市 下田市 三島市 御殿場市 袋井市 掛川市 浜松市 森町 羽咋市 土佐市 いの町 新居浜市 日南市大学図書館 25図書館東京大学総合図書館 東京大学経済図書館 京都大学 東北大学 九州大学 弘前大学 岩手大学 宇都宮大学 福井大学 愛媛大学 北海道教育大学付属図書館 敬和学園大学 横浜桐蔭大学 西南学院大学 日本大学生物資源科学部 小樽商科大学 東京農業大学オホーツク校 高知工科大学 大阪教育大学 鹿児島純心短期大学 東洋大学 駒澤大学 拓殖大学 鹿児島県立短期大学 東北学院大学「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」 は80数頁の小冊子であるが、東京大学、京都大学で蔵書となると、その史料的価値が学術的に認知されたようでうれしい。「米欧旅行日記」は産業革命期におけるアメリカ、イギリス、ドイツの製糖業なみならず、動力がボーラーの時代から電気の時代に移り行くその現場をよく伝えるもので、学術的にも貴重な文献であると考える。
2016年07月11日
朝5時15分前にウォーキングに出かける。海岸に出ると今朝はもやがふかく島は白くおおわれている。海に面する広い草原に立って、海に向かって、青山学院大学陸上部の体幹運動に続いて ゾンビ体操を3分間スマホのタイマーをセットして始める。ゾンビ体操をウォーキングに取り入れているが、かかとをあげてやるのかなど細かいところが分からないので昨日、「ゾンビ体操」の本を買って来た。新刊本を買うのは久しぶりである。本をみると、かかとはあげるとあった。目をつむって足踏み運動をすると、自分では同じ位置にいると思っても、位置や方向がずれてしまうものだ。現にきのう試みたら方向が90度ずれてしまっていた。そこで今日は正面に海があるように両方の耳で波の音に耳をすませる。そのせいで、位置はずれたものの方向は保つことができた。波の音に耳をすますのもいいものである。きのう、台湾のT先生からメールをいただいた。森町のJさんが台湾に行ったついでに『報徳記を読む第3集 報徳は国を興し民を安んずる大業である』を送ってくださった。「○○様の編集した本が届きました。ありがとうございました。仙台講演録を読みました 、「二宮尊徳の会」の名付けはすばらしいですね。たらいの水の原理とお椀の水の原理は確かにわかりやすく教えたものです。」お礼のメールを返信した。「T先生うれしいメールありがとうございます。「報徳記を読む第3集」の たらいの水のたとえとお椀の水のたとえ を読んでいただいて、とてもうれしいです。二宮尊徳はたとえがうまく、これは釈尊やイエス・キリストにも通じるところです。農民にわかりやすく道理を教えるために、自然の理(これは科学の合理性に通じます。)で誰でもわかるように伝える技術ですね。たらいの水のたとえは 推譲ー自分や子孫のための自譲はできても、他譲、他者や社会や後の世の人々に推譲し続けることは難しいのですー他譲を呼吸するように生活習慣とする ためには、至誠・勤労・分度・推譲という生活サイクルを自分の身につける必要があります。礼記に出て来る四分の一法によって、収入の四分の一を貯蓄し、それは生活には使わない。三年で一年分、六年で三年分、九年で六年分の貯えができる。それを自分のためではなく、人を助け世を救うために用いる。(略)たらいの水の教えは、かなり深く、たとえばその水はどこから来たのかということにもなります。それは決して自分ひとりで作り出せるものではない。天地や先人のお蔭でいまこうしていられるとうけとったのが鈴木藤三郎で、それならば「私たちもまた後の人のためによいものを遺さなければならない」と考えたのです。そして後に莫大な財産を築いてから、報徳全書を作ったり、周智農林学校を設立したり、中央報徳会の設立・運営資金を提供したりと、大推譲します。「お椀の水」のたとえも単に「継続は力なり」を教えるものではなく、継続すると加速の原理が発生するということ、ある時点でぐんと事業が進展することをも教えてくれます。(略)T先生最近、朝のウォーキングを始めました。また「ありがとう日記」をつけています。また「ゾンビ体操」の本を買ってきました。これは血管を正常に保つ脱力系の体操で、池松医師が開発したもの(ユーチューブでもその一部を見ることができます)で、朝ウォーキングや昼飯の後、公園で行っています。T先生のますますのご活躍を祈念します。「ありがとう、感謝します!」
2016年07月01日
鈴木藤三郎が今市の報徳二宮神社に報徳全書を奉納した時の『願文』 願(がん) 文(もん) 報(ほう)徳(とく)社(しゃ)徒(と)不(ふ)肖(しょう)藤(とう)三(さぶ)郎(ろう)誠(せい)恐(きょう)誠(せい)惶(こう)謹(つつしん)で二宮(にのみや)尊(そん)徳(とく)先生(せんせい)の神霊(しんれい)に白(はく)す。 恭(うやうやし)く惟(おもんみ)れば先(せん)生(せい)畢(ひっ)生(せい)唱(しょう)道(どう)し給(たま)へる報(ほう)徳(とく)の教(きょう)義(ぎ)は洋(よう)の東(とう)西(ざい)を論(ろん)ぜず人(じん)種(しゅ)宗(しゅう)教(きょう)の如(いか)何(ん)を問(と)はず古(こ)往(おう)今(こん)来(らい)幾(いく)千(せん)万(まん)歳(さい)を経(ふ)るも凡(およ)そ世(せ)界(かい)に生(せい)存(ぞん)する人類(じんるい)に於(おい)て貴(き)賎(せん)貧(ひん)富(ぷ)男(だん)女(じょ)老(ろう)幼(よう)の別(べつ)なく允(まこと)に克(よ)く遵(じゅん)守(しゅ)せざる可(べか)からざる要道(ようどう)にして若(も)し之(こ)れ無(な)くば人(じん)道(どう)廃(はい)頽(たい)して民(みん)衆(しゅう)安(あん)息(そく)すること能(あた)はざるなり。先(せん)生(せい)の世(よ)に在(いま)すや憂(ゆう)国(こく)の至(し)誠(せい)外(そと)に溢(あふ)れ熱(ねっ)血(けつ)の注(そそ)ぐところ感(かん)奮(ぷん)興(こう)起(き)せざる者(もの)なく済(さい)世(せい)恤(じゅつ)民(みん)の良(りょう)法(ほう)諸(しょ)州(しゅう)に亙(わた)って其(その)効(こう)実(じつ)に顕(けん)著(ちょ)なり。而(しか)して其(その)実(じっ)践(せん)躬(きゅう)行(こう)の跡(あと)は歴(れき)々(れき)として先(せん)生(せい)の遺(い)書(しょ)に存(そん)し其(その)書(ちょ)殆(ほとん)ど万(まん)巻(がん)を以(もっ)て算(さん)す。然(しか)りと雖(いえど)も之(これ)を知(し)る者(もの)多(おお)からず。知(し)らざれば行(おこな)うこと能(あた)はず。行(おこな)はざれば世(よ)を済(すく)ひ民(たみ)を理(り)すること能(あた)はず。是(これ)猶(なお)名(めい)玉(ぎょく)を懐(かい)中(ちゅう)に蔵(ぞう)するが如(ごと)し。豈(あに)痛惜(つうせき)せざるべけむや。是(これ)を以(もっ)て令(れい)孫(そん)尊(たか)親(ちか)先(せん)生(せい)の允(いん)許(きょ)を得(え)て之(これ)を謄(とう)写(しゃ)せしめ全(ぜん)部(ぶ)九(きゅう)千(せん)巻(かん)を得(え)たり。之(これ)を二(に)千(せん)五(ご)百(ひゃく)冊(さつ)と為(な)し文(ぶん)庫(こ)一(いち)宇(う)に収(おさ)め併(あわ)せて之(これ)を神(じん)社(じゃ)に奉(ほう)納(のう)し衆(しゅう)庶(しょ)の熱(ねつ)覧(らん)研(けん)究(きゅう)に備(そな)ふ。将(しょう)来(らい)幸(さいわい)に有(ゆう)志(し)の士(し)之(これ)を繙(ひもと)き明(めい)晰(せき)なる識(しき)見(けん)を以(もっ)て先(せん)生(せい)の教(きょう)旨(し)を解(かい)釈(しゃく)し熱(ねっ)誠(せい)以(もっ)て之(これ)を世(よ)に拡(かく)張(ちょう)し忍(にん)耐(たい)以(もっ)て実(じっ)践(せん)して息(や)まざらば民(みん)風(ぷう)頓(とみ)に興(おこ)り富(ふ)強(きょう)期(き)して埃(ま)つべし。仰(あお)ぎ冀(こいねがわ)くば先(せん)生(せい)が神(しん)霊(れい)の冥(みょう)護(ご)に依(よ)り人(じん)類(るい)必(ひっ)至(し)の要(よう)道(どう)たる報(ほう)徳(とく)教(きょう)義(ぎ)の広(ひろ)く天(てん)下(か)に普(ふ)及(きゅう)し真正(しんせい)なる文明(ぶんめい)の実(じつ)を見(み)るを得(え)んことを。不(ふ)肖(しょう)藤(とう)三(さぶ)郎(ろう)誠(せい)恐(きょう)頓(とん)首(しゅ)頓(とん)首(しゅ)敬(うやまっ)て白(もう)す 明治四十二年五月三十日 報徳社徒 鈴木藤三郎 九拝
2016年06月29日
平成28年5月29日補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記全39図書館国立国会図書館都道府県立図書館 4図書館 東京都立図書館 富山県立図書館 静岡県立図書館 徳島県立図書館 市区町村立図書館 18図書館帯広市 江別市 北見市 京極町 五戸町 八戸市 厚木市 静岡市 下田市 三島市 御殿場市 袋井市 掛川市 浜松市 森町 羽咋市 いの町 新居浜市大学図書館 17図書館東京大学総合図書館 東京大学経済図書館 東北大学 九州大学 宇都宮大学 福井大学 愛媛大学 北海道教育大学付属図書館 敬和学園大学 横浜桐蔭大学 西南学院大学 日本大学生物資源科学部 小樽商科大学 東京農業大学オホーツク校 高知工科大学 鹿児島純心短期大学 東洋大学北見市は、北海道オホーツク総合振興局にある市。オホーツク海沿岸から石北峠まで東西約110kmに広がっている。北海道で一番広い地方公共団体である。 北見好き、首都圏で広がれ 東京北見会がツアー05/24【北見】首都圏在住の北見出身者でつくる東京北見会(井戸理恵子会長)は、20日から1泊2日の日程で北見を訪れる「平成屯田兵ツアー」を行い、在京端野会や東京常呂会の会員ら33人がパークゴルフや牧場体験を楽しんだ。同会は昨年、北見の魅力を発信するために「北見ファンクラブ」を設立し、今回のツアーには同クラブメンバーで道外出身の11人も加わった。 東京北見会は毎年ツアーを開催しており、今年で11回目。 同会によると、これまでもツアーや東京で開く「ふるさと会」の催し物などに、北見とゆかりがない人たちも参加してきた。こうした「北見好き」の人たちの受け皿として「北見ファンクラブ」を立ち上げ、活動しやすくしたという。 一行は21日、市内美園のモイワスポーツワールドでパークゴルフを楽しんだ。参加した香川県出身の山内聡子さん(40)=東京在住=は「自然の中で体を動かしながら交流することは、なかなか東京ではできない。また北見に来たい」と満足そうに話していた。 これに先立ち東京北見会は20日、市ふるさと会カーリング支援推進委員会の構成団体として、地元選手の育成を支援する市カーリング支援推進委員会に25万円を寄付した。(富樫晴香) せっけんのやわらかな香りが立ち込める会場には、花びらなどの形を精巧に彫り込んだ色とりどりの作品約120点を展示。常本さんは「ナイフ1本で彫り進め、3時間かけて仕上げた作品もある。多くの人に見てもらいたい」と話している。28日まで。入場無料。
2016年05月29日
袋井の〇〇さんからメールがあった。表記の件、添付のようにまとめました。 ご提出いただいた内容を少し変えています。 表裏のコピーにして配布の予定です。 修正等あれば、小生までご連絡をお願いいたします。 よろしく。 *9月以降は 今後 日時を確定します。 ご連絡をいたします。12月( )日10時~12時■遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 ○二宮尊徳の会代表 ○遠州報徳運動を安居院庄七や福山滝助の 遠州に報徳をもたらした師と遠州報徳 3兄弟や荒木由蔵らの活動をエピソード で描き○鈴木藤三郎が報徳研究に打ち込んでいた 時代を対話で演じ ○報徳をそれぞれのより良い人生に役立てる二宮金次郎遠州報徳思想鈴木藤三郎等に興味のある方。なお、直近の講座は以下のとおりである。6月3回シリーズ13時30分■袋井市の自然災害史(3回シリーズ) ○ 浅羽史談会 小杉富雄氏 過去の災害を知れば、見えてくるものがある。○7月3日(日)13時30~16時 ・明治43年・44年の太田川、原谷川の 大洪水による被害状況 ・1680年延宝8年の台風、高潮被害の状況 ・1944年東南海地震の被害状況 ・袋井の地名の由来、江戸時代の地形○7月10日(日)13時30~16時 ・1974年(昭和49年)七夕豪雨の被害状況○7月17 日(日)13時30~16時 ・災害現地視察 中新田地区 田原地区 他 袋井市の自然災害史に興味のある方。先着30名
2016年05月15日
袋井の〇〇さんからメールをいただいた。提案事業は承認されました。標記の件、添付の内容で、メロープラザに公開講座の開催を提案しておりましたが、この程、承認されました。ついては、日時 内容をさらに詰めて、チラシを作成し、動員を図ることとします。個別に ご連絡をし、詰めていくこととしますので、よろしくお願いいたします。 取り急ぎ、要件のみにて、失礼いたします。12月( )日 10時~12時■遠州報徳の師父と鈴木藤三郎○遠州報徳運動を安居院庄七や福山滝助の遠州に 報徳をもたらした師と遠州報徳3兄弟や荒木由蔵 らの活動をエピソードで描き○鈴木藤三郎が報徳研究に打ち込んでいた時代を 対話で演じ ○報徳をそれぞれのより良い人生に役立てる先着 30名すぐに返信した。了解しました。現在、「報徳記を読む第4集」刊行に向けて、昨日も読書会を開いたところでした。資料は既にできていて、編集するだけですので、「第4集」刊行後に本格的に「遠州報徳の師父たちと鈴木藤三郎」の作成にかかりたいと思います。鈴木藤三郎氏顕彰シリーズは第1集と第3集はすでに刊行済ですが、ながらく第2集が欠号でした。「遠州報徳の師父たちと鈴木藤三郎」は、その第2集にあたるものになります。感謝します。
2016年05月08日
5月5日、朝方、川を海のほうへ下って行き、海岸沿いを久しぶりに歩いた。風が強く、波が高く、サーフィンしている人が多かった。一時間半ほど歩いたが、いつもより少なかったので、昼過ぎ電車で川の上流にある図書館に行き、夕方からまた川沿いにウォーキングしようと考えた。図書館に着くと、返却コーナーで一冊の本が目にとまった。「凛冽の宰相加藤高明」寺林峻著である。加藤高明といえば、鈴木藤三郎が米欧旅行のとき、イギリス公使であり、一度面会している。その後、日記には登場しないのだが、鈴木藤三郎はその後、衆議院議員となるので、その後も接点があったのであろう。後に加藤高明の秘書官をしていた鈴木富士弥を娘婿としている。鈴木富士弥は昭和15年12月24日~昭和19年12月23日. 昭和19年12月24日~昭和20年12月10日鎌倉市長を歴任した。鈴木藤三郎の米欧旅行日記には次のように記す。 九月七日 晴 午前九時ユウストンホテルを引上げ、ハムステット・パルラメントヒル十六番地チヤプマン女方(おんなかた)に投宿す。是より日本(にほん)公使館(こうしかん)に行(いき)、加藤(かとう)高明(たかあき)公使に面会す。是よりウヰンター・ガーデンに於(おい)て中飯す。而(しか)して午後二時フヱンチヨーチ・アベニー一番地の旧アーレンス商会に行(いき)、モスレ氏に面会して必要器械の大体を咄(はな)す。是よりテームス川岸ホテルサボイに行(いき)、山本(やまもと)君を問ふ。同氏一行皆不在に付(つき)、是より直(ただち)に帰宿す。此(この)夜今井(いまい)友(とも)次郎(じろう)氏に面会す。同氏は当所に先年中より下宿せり。亦(また)大河内(おおこうち)氏より添書(てんしょ)を渡す。 加藤高明は1860年尾張国(愛知県)の佐屋の代官屋敷で服部重文(しげふみ)の次男として生まれ、幼名を総吉(ふさきち)といった。父は代官手代で、明治5年以降は名古屋で劇場経営、区会議員などしたが、明治16年新田開発が天災で失敗し、明治22年に亡くなった。明治五年 総吉は、祖母加奈子の姉あい子の養孫として、加藤武兵衛の名跡を相続し、加藤姓を名乗った。 総吉は叔母久和子の夫で司法省官吏の安井譲がその才能を認め、明治6年暮に上京し、安井の勧めで明治7年「高明」と名を改めた。 4月に東京外国語学校に入学し、8年7月卒業した。その年の9月、東京開成学校に入学した。明治10年4月、開成学校は東京大学の一部となり、加藤は法学部一年に編入され、主として英語により法律を学んだ。明治14年東京大学を卒業すると郵便汽船三菱会社に就職した。東京大学の2年先輩の末次道成が三菱にいるのを頼ったところ、岩崎弥太郎の晩餐に招かれた。弥太郎は晩餐の席で、加藤の面構えをじっと見て「三菱はおぬしに乗っ取られてやろう」とうなるように言ったという。加藤は明治14年(1881)7月22歳で三菱に入社し、最初3月間、本社の調役を勤め、10月からは神戸、小樽、大阪各地で海運の実務を学んだ。明治16年1月から本社本務課詰めとして東京に帰った。加藤は英文の運営規則類をかたっぱしから訳していった。「これも頼む」と横浜支店の山本達雄が加藤の下宿まで翻訳の書類を抱えてきた。「この程度の英語なら自分でもできるでしょう」「だめだ、俺は数字を並べる方が向いている」と会話した。その山本とも鈴木藤三郎はロンドンで出会っている。当時、山本は日本銀行から金本位制にむけての調査のために調査に来ていたのである。明治の世は、実に人間関係がろいろと繋がっていることに驚くばかりである。優秀な人間はどんどん抜擢されて指導者となっていった時代であった。
2016年05月05日
福島県いわき市の漁業の町・小名浜で3日福島県いわき市の漁業の町・小名浜(おなはま)で3日、神社の例大祭があり、約170枚の大漁旗が飾られた。福島第1原発事故で沿岸漁業の自粛が続く町を盛り上げようと住民らが発案した。 60代の住民らで作る団体の会長、高原繁美さん(61)が「もう一度、にぎやかなみこし行列を取り戻そう」と呼び掛け、メンバーが小名浜だけでなく周辺の漁港の漁師に頼んで大漁旗を集めた。 千葉県からの里帰り中、会場を訪れた女性(39)は「祭りに色が付いたよう」と喜んだ。約1000人の観客が集まり、高原さんは「町の再生に向け5年、10年続けたい」と手応えを感じた様子。【乾達】小名浜は鈴木藤三郎が製塩工場を設立した場所である。そういう由来もあり、いわき市立図書館には本会の刊行物を寄贈し蔵書としていただいている。1 鈴木藤三郎 二宮尊徳の会 2010印刷2 二宮金次郎の対話と手紙第1 小田原編 (少年・青年期) 二宮尊徳の会 2015.23 二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎 二宮尊徳の会 20134 ボーイズ・ビー・アンビシャス 二宮尊徳の会 2013.35 ボーイズ・ビー・アンビシャス米欧留学篇 二宮尊徳の会 2013.106 ボーイズ・ビー・アンビシャス第3集 二宮尊徳の会 2014.27 ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集 二宮尊徳の会 2014.78 ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集 二宮尊徳の会 2014.89 報徳記を読む第1集 二宮尊徳の会 2014.310 報徳記を読む第2集 二宮尊徳の会 2014.11福島臨海鉄道は、鈴木藤三郎が工場に線路を引いた小名浜線に由来する。福島臨海鉄道株式会社(ふくしまりんかいてつどう)は福島県いわき市の常磐線泉駅と小名浜駅を結ぶ貨物専業鉄道を運営する臨海鉄道会社である。日本貨物鉄道(JR貨物)や福島県、日本化成などが出資する。福島臨海鉄道は、小名浜の東方にある江名からの水産物を運ぶための馬車鉄道として1915年(大正4年)に設立された磐城海岸軌道が前身である。同軌道の起点の小名浜では、鈴木藤三郎が個人名義で特許を受け1907年(明治40年)に常磐線泉駅と小名浜の間に敷設した小名浜馬車軌道に接続していた。1918年(大正7年)には、鈴木の軌道事業を継承した合資会社東商会を買収し、泉 - 小名浜 - 江名間の路線が形成された。まだ現地を訪れたことはない。一度現地を訪問し往時をしのびたいとは思っている。
2016年05月04日
市町立図書館8館のうち6館が静岡県内の公共図書館である。「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」は、昨年12月に袋井市で行った講演テキストであり、大学等の紀要の別冊の体裁をしており、一般の公共図書館では受け入れてもらえない場合が多い。豊田市立図書館からは丁寧に返却されてきた。しかし、その内容は一冊の学術書に相当する史料的価値があり、この価値を見抜けるかどうかはその大学図書館の司書のレベルを問われているといって過言ではない。大学等の蔵書が多いのはそういうこともあろうか。静岡県の公共図書館では、森町出身の鈴木藤三郎に関する郷土資料として認識して蔵書としていただけているのであろう。 平成28年4月29日補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記全25図書館国立国会図書館都道府県立図書館 3図書館 東京都立図書館 富山県立図書館 静岡県立図書館 市区町村立図書館 8図書館 八戸市 下田市 三島市 御殿場市 袋井市 掛川市 森町 羽咋市 大学図書館 14図書館 東京大学総合図書館 東京大学経済図書館 東北大学 宇都宮大学 福井大学 愛媛大学 北海道教育大学付属図書館 敬和学園大学 横浜桐蔭大学 西南学院大学 日本大学生物資源科学部 小樽商科大学 東京農業大学オホーツク校 高知工科大学
2016年04月29日
森町の〇〇さんから「町並みと蔵展」用に出品した本を送ってもらって、全国の公共図書館に寄贈している。宅配便の箱の詰め物に4月19日付の静岡新聞が入っていた。ほかの地域の新聞をたまに眺めるのも楽しい。天浜線と台湾の鉄道との連携の記事もあった。観光を柱に台湾鉄道と連携 天竜浜名湖鉄道◆植田社長に聞く「訪日外国人の誘客に力を入れていきたい」と語る植田社長=浜松市天竜区で写真 天竜浜名湖鉄道(天浜線、浜松市天竜区)は、台湾公営の台湾鉄道に「姉妹車庫」の友好協定を結ぼうと呼び掛けている。二十一日には台湾鉄道の関係者が、天浜線を視察する。植田基靖社長に協定締結の狙いや外国人誘客策を聞いた。 -何を目指しているのか。 「台湾の人はローカル線を観光名所と見ていて、誘客のチャンスが大きい。天浜線の活性化を応援する県議連盟と一月に『集集線』など現地のローカル線を視察したが、古い駅舎を背景に記念撮影する人を大勢見掛けた」 「台湾中部の台鉄彰化駅近くの施設と構造が似ている天竜二俣駅の転車台や扇形車庫など、天浜線には三十六件の国登録有形文化財がある。関心を持ってもらえるはずだ。協定を結ぶ時期は未定だが、相互に集客メリットがある交流にしたい。五月には台湾の旅行博に初出展してPRする」 -訪日外国人客の誘客策や利用状況は。 「中国語や英語、韓国語、タイ語のパンフレットを作った。これまで外国人の団体利用はゼロだったが、昨年十~十二月には台湾客ツアーが四回訪れ、計百人が参加した。四月も台湾客や中国客のツアーがある」 「将来は外国人客を収益の柱にしたいと考えているが、まだ数値目標を立てる段階にはない。案内標識に外国語を併記するなど、取り組むべき課題は多い。沿線の観光施設のにぎわいにもつなげていければ」 -天浜線全体の一五年度の利用はどうだったか。 「二月末時点で前年同期比3%増だった。特に観光利用が伸びた。『スローライフ』をテーマに新装した都田駅のカフェや沿線ウオークイベントが好評だった。一六年度も重点施策は観光だ。来年一月に気賀駅にオープン予定の『おんな城主 直虎』の大河ドラマ館を核に誘客に努めたい」(聞き手・瀬戸勝之)1月21日、鉄道総合技術研究所と台湾鉄道が技術協力協定を締結していたことが分かった。これまで日台間の鉄道関係の提携は、本会の調査では1986年1月25日に大井川鐵道と阿里山森林鉄道が姉妹鉄道を結んで以来、昨年(2015年)12月21日に山陽電鉄と台湾鉄路管理局の観光連携協定締結まで16件を数える。その中には、JR四国の松山駅と台湾鉄道の松山駅、山陽電鉄の亀山駅と宜蘭線の亀山駅、東京駅と新竹駅、大阪駅と台北駅の姉妹駅提携も含まれている。だが、今回は技術協力協定だ。超電導リニア(磁気浮上式鉄道)や自動列車制御装置、台湾にも輸出している振り子式車両などを研究開発してきた鉄道総合技術研究所と台湾鉄道による協定で、これまでの観光客の誘客を意識した鉄道提携とは異なる。また、3月下旬には、静岡県遠州地方の浜名湖北岸の掛川駅から新所原駅までの67.7キロメートルを走る「天竜浜名湖線」が、川勝平太知事が立ち会って台湾鉄道と友好協定を結ぶという。静岡県は台湾との交流に熱心で、川勝知事は2013年4月22日に都道府県で唯一、駐在員事務所「ふじのくに静岡県台湾事務所」を開設し、2014年2月にはこれもまた日本の自治体として初めて、台北市、新北市、台南市、桃園県、基隆市、嘉義県の6自治体と「防災に関する相互応援協定」を締結している。静岡県の袋井市はまた二峰圳という地下ダムを屏東に造った鳥居信平(とりい・のぶへい)の出身地。後藤新平や新渡戸稲造の胸像をつくている許文龍氏が自らこの鳥居の胸像もつくっている。
2016年04月28日
磯村音介氏 積極策が裏目に出る 市場経済研究所代表 鍋島高明(1/2ページ)2016/4/2相場師鈴久(鈴木久五郎)が大日本製糖(日糖、当時は日本精製糖)の株を買い進み、1万2,000株を手に入れるのは明治38年のことだ。すると日糖の常務、磯村音介が鈴久を訪ねてきた。磯村は持論を展開した。「内地の砂糖会社が競争に明け暮れていてはつぶれてしまう。同胞相食(は)むの愚をやめて大合同を企て、外国の会社と戦争しようと思う」 磯村と鈴久は意気投合した。磯村は事実上の創業者である鈴木藤三郎専務にこのことを話すと鈴木は「趣旨はわかるが、時期尚早だ」と大合同に反対だという。
2016年04月26日
「二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎」は、日光講演の記録であり、森町のいまはなき報徳報本社が製作した「砂糖王鈴木藤三郎」のラジオシナリオを収録した。日光講演会で森町の有志の協力を得てシナリオ全編を読んで好評であった。本年12月に予定している袋井講演においても、第5幕の浜松でおこなわれた芋こじの模様を仲間の協力を得て演じてみせたいと考えている。「砂糖王 鈴木藤三郎」は森町で行った講演記録である。この折は浜松で現在も製造されている鈴木藤三郎が発明した製造方法による氷砂糖製造過程を紹介するとともに、藤三郎が氷砂糖工場をつくるに際して報徳の先輩、岡田良一郎に資金援助を頼むも断られ、地元の資本家福川泉吾の協力で森町に氷砂糖工場を建設するまでを、新たにシナリオを作成して演じた。遠州弁にシナリオを直してもらって、地元森町の人々の協力で演じたのだが、遠州弁が新鮮に聞こえたという評を得た。この二つの講演記録が京都大学附属図書館に蔵書となる、有難いことである。東京大学附属図書館に「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」を2冊寄贈したところ、すぐに大学図書館では一番早く総合図書館と経済図書館にそれぞれ蔵書となったのも、その史料的価値をすぐに認める大学の実力に感嘆したものだったが、時を経てこうして京都大学もまた、二つの小冊子の講演記録の史料的価値を認めていただいてとても嬉しい。大学図書館 13冊 宇都宮大学(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M) 12冊 東京大学(A,B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,M) 、京都大学(A,B,D,E,F,G,H,I,J,K,L)、北海道教育大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L,M,N) 、東京農業大学学術情報センター〔オホーツク〕(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L,M) 、11冊 九州大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L) 、岩手大学(B.C,D,E,F,G,H,I,J,K,L) 、福井大学(B,C,D,E,G,H,I,J,K,L,M)、高知大学(B.C,D,E,F,G,H,I,J,K,L) 、長崎大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L)、鹿児島大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L)、東洋大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L)、大阪教育大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L) 、敬和学園大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L,M)10冊 東北大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L) 、徳山大学(B,C,D,E,G,H,I,J,K,L)、宮城教育大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K)、鹿児島純心女子短期大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K,L) 、関西国際大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L) 、金沢学院大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,L) 、玉川大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L)、鹿児島県立短期大学(C,D,E,F,G,H,I,J,K,L) 、北星学園大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L)、法政大学(B,C,D,E,F,G,H,I,J,K)、静岡産業大学(B,C,E,F,G,H,I,J,K,L) 、独協大学(B,C,D,E,F,G,I,J,K,L)、駒澤大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L) 9冊 北海道大学(B,C,D,F,D,G,H,I,J,K)、弘前大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K)、福島大学(B,C,D,G,H,I,J,K,L) 、青山学院大学(B,C,D,F,G,H,I,J,K) 、高崎経済大学(B,C,D,G,H,I,J,K,L) 、水産大学校(B,C,D,G,H,I,J,K,L)、聖隷クリストファー大学(B.D,F,G,H,I,J,K,L) 、東京農業大学(B,D,E,F,G,H,I,J,L)、高知工科大学(C,D,E,F,G,I,J,K,L)、立命館アジア太平洋大学(APU)(B,C,D,F,G,H,I,J,K,L) 、桐蔭横浜大学図書館(B,F,G,H,J,K,L,M,N) 8冊所蔵 金沢大学(B,C,D,E,F,G,I,J)、神戸大学(A,B,D,E,F,G,J,L)、高崎経済大学(B,C,G,H,I,J,K,L)、日本大学生物自然科学部(C,D,E,F,G,H,L,M)7冊所蔵 新潟大学(B,D,F,G,H,I,J) 、京都教育大学(D,F,G,I,J,K,L)、早稲田大学(A,B.D,G,H,I,J) 、関東学院大学(B,C,G,H,I,J,K) 、東北福祉大学(C,H,I,G,J,K,L)、沖縄国際大学(C,D,G,I,J,K,L)、酪農学園大学(B,C,H,I,J,K,L)、活水女子大学(C,G,H,I,J,K,L) 6冊所蔵 大分大学(C,G,H,I,J,K)、西南学院大学(G,H,I,J,L,M)、小樽商科大学(D,E,F,J,M)5冊所蔵 九大理系(G,H,I,J,K)、群馬大学(D,E,F,G,L)、愛媛大学(B,E,D,J,M)、日本女子大学(C,F,H,I,K)、札幌大谷大学(G,H, I,J, L)、静岡理工科大学(B,G,I,J,L) 4冊所蔵 上武大学(C,D,E,F)、同志社大学(B,F,K,J)、同志社女子大学(D,F,G,J)、兵庫大学(G,H,I,J)、武庫川女子大学(G,I,J,L)、國學院大學(F,G,I,J)、首都大学東京(G,I,J,L)、 3冊所蔵 埼玉大学(B,D,F)、高野山大学(B,C,D)、京都工芸繊維大学(I,J,K)、神戸学院大学(B,D,E)、鳥取短期大学(G,J,K)、南山大学(G,H,J) 2冊所蔵 静岡大学(A,B)、大阪市立大学(B,F)、北陸学院大学(F,G)、東北学院大学(J,L)、宮崎大学(G,J)、東海大学(B,F)、 1冊所蔵 北海道科学大学(I)、群馬県立女子大学(I)、東京都市大学(D)、慶応義塾大学(A)、甲子園大学(G)、佐賀大学(B)、上越教育大学(B)、鹿屋体育大学(D)、日本大学国際関係学部(F)、室蘭工業大学(I)、東京女子大学(G)、ICU(J)、神戸国際大学(G)、北海学園大学(J)、フェリス女学院大学(D)、昭和女子大学(J)、浜松学院大学(F)、滋賀大学(B)、神戸海星女子学院大学(G)A 日本近代製糖業の父台湾製糖株式会社初代社長鈴木藤三郎 B 報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎 C 二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎 D ボーイズ・ビー・アンビシャス―クラーク精神&札幌農学校の三人組と広井勇 E 砂糖王鈴木藤三郎―氷砂糖製造法の発明― F ボーイズ・ビー・アンビシャス―米欧留学篇 G ボーイズ・ビー・アンビシャス―新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 H 報徳記を読む第1集I ボーイズ・ビー・アンビシャス―札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士-「紳士」の工学の系譜J ボーイズ・ビー・アンビシャス 内村鑑三神と共なる闘い―不敬事件とカーライルのクロムウェル伝 K 報徳記を読む第2集 L 二宮金次郎の対話と手紙 第一小田原編(少年、青年編)M 補注鈴木藤三郎の米欧旅行日記 N 報徳記を読む第3集 「二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎」(2013年1月発行)蔵書図書館一覧全141図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 23図書館岩手県立図書館 福島県立図書館 栃木県立足利図書館 群馬県立図書館 茨城県立図書館 富山県立図書館 福井県立図書館東京都立図書館 埼玉県立熊谷図書館 静岡県立図書館 石川県立図書館 愛知県立図書館 岐阜県立図書館 京都府立図書館 和歌山県立図書館 広島県立図書館 岡山県立図書館 徳島県立図書館 香川県立図書館 佐賀県立図書館 熊本県立図書館 鹿児島県立図書館 鹿児島県立奄美図書館 沖縄県立図書館市区町村立図書館 67図書館帯広市立図書館 江別市立図書館 富良野市立図書館 小樽市立図書館 様似町立図書館 町立小清水図書館 厚真町立図書館 佐呂間町立図書館 八戸市立図書館 五戸町立図書館奥州市立水沢図書館 二戸市立図書館相馬市立図書館 いわき市立図書館 館林市立図書館 会津若松市立図書館 南会津町立図書館 加美町立図書館日光市立図書館 栃木市立図書館 真岡市立図書館 郡山市立図書館 那須烏山市立図書館 八千代町図書館横浜市立図書館 鎌倉市立図書館 大和市立図書館 平塚市図書館 秦野市立図書館 厚木市立図書館 藤沢市立図書館 大和市立図書館 相模原市立図書館二宮町立図書館 寒川町立図書館 湯河原町立図書館御殿場市立図書館 静岡市立図書館 藤枝市立図書館 御前崎市立図書館 掛川市立図書館 森町立図書館 袋井市立図書館 磐田市立図書館 浜松市立図書館 裾野市立図書館 菊川市立図書館 三島市立図書館 焼津市立図書館 吉田町立図書館富山市立図書館 滑川市立図書館 黒部市立図書館 羽咋市立図書館 加賀市立図書館 岡崎市立図書館南丹市立図書館 奈良市立図書館 熊本市立図書館 上天草市立図書館都城市立図書館 小林市立図書館 薩摩川内市立図書館 日置市立図書館 指宿市立図書館大学図書館 50図書館東京大学 京都大学 北海道大学 東北大学 九州大学 九州大学理系 弘前大学 岩手大学情報メディアセンター 福島大学 金沢大学 福井大学 宇都宮大学 高知大学総合情報センター中央館 徳山大学 長崎大学 大分大学 鹿児島大学 鹿児島純心短期大学 酪農学園大学 高橋経済大学 高野山大学 東京農業大学図書館(オホーツク) 金沢学院大学 青山学院大学 拓殖大学 上武大学 日本女子大学 日本大学生物自然科学部 関東学院大学 東洋大学 北海道教育大学 宮城教育大学 大阪教育大学 静岡産業大学 関西国際大学 法政大学 玉川大学 駒澤大学 水産大学校 鹿児島県立短期大学 敬和学園大学 北星学園大学 京都工芸繊維大学 東北福祉大学 沖縄国際大学 獨協大学 活水女子大学 立命館大学 大倉山精神文化研究所「砂糖王鈴木藤三郎―氷砂糖製造法の発明―」(2013年6月発行)蔵書図書館一覧全117図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 29図書館岩手県立図書館 秋田県立図書館 宮城県立図書館 山形県立図書館 茨城県立図書館 富山県立図書館 福井県立図書館 埼玉県立図書館 東京都立中央図書館 千葉県立図書館 神奈川県立図書館 静岡県立図書館 長野県立図書館 石川県立図書館 愛知県立図書館 三重県立図書館 岐阜県立図書館 京都府立図書館 大阪府立図書館 和歌山県立図書館 島根県立図書館 岡山県立図書館 広島県立図書館 香川県立図書館 徳島県立図書館 福岡県立図書館 長崎県立図書館 佐賀県立図書館 鹿児島県立図書館 鹿児島県立奄美図書館市区町村立図書館 50図書館札幌市立図書館 様似町立図書館 町立小清水図書館 厚岸町立図書館 厚真町立図書館八雲町立図書館盛岡市立図書館 花巻市立図書館会津図書館 相馬市立図書館 南会津町立図書館日光市立図書館 真岡市立図書館 郡山市立図書館 加美町立図書館狭山市立図書館 さいたま市立図書館 所沢市立図書館秦野市立図書館 大和市立図書館 厚木市立図書館 平塚市立図書館 相模原市立図書館 湯河原町立図書館 寒川町立図書館 二宮町立図書館御殿場市立図書館 静岡市立図書館 浜松市立図書館 磐田市立図書館 菊川市立図書館袋井市立図書館 藤枝市立図書館 御前崎市立図書館 三島市立図書館 裾野市立図書館 焼津市立図書館 菊川市立図書館 森町立図書館 奈良市立図書館 広島市立図書館 水俣市立図書館 都城市立図書館 えびの市立図書館 小林市立図書館 曽於市立図書館 薩摩川内市立図書館 霧島市立図書館 与論町立図書館 天城町立図書館大学図書館 38図書館東京大学、京都大学、九州大学 九州理系大学 金沢大学 岩手大学 宇都宮大学 群馬大学 金沢大学 福井大学 神戸大学 高知大学 愛媛大学 徳山大学 長崎大学 鹿児島大学 大阪市立大学図書館 宮城教育大学 大阪教育大学 東洋大学 拓殖大学 上武大学 法政大学、独協大学福井大学付属図書館 高知大学総合情報センター中央館 金沢学院大学 神戸学院大学鹿児島純心女子大学図書館 鹿児島純心女子短期大学図書館東京農業大学、日本大学生物自然科学部、法政大学、鹿児島県立短期大学 静岡産業大学小樽商科大学 高知工科大学 大倉山精神文化研究所
2016年04月25日
平成28年4月21日補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記全18図書館国立国会図書館都道府県立図書館 2図書館 東京都立図書館 静岡県立図書館市区町村立図書館 3図書館下田市 三島市 御殿場市大学図書館 13図書館東京大学総合図書館 東京大学経済図書館 東北大学 宇都宮大学 福井大学 愛媛大学 北海道教育大学付属図書館 敬和学園大学 横浜桐蔭大学 西南学院大学 日本大学生物資源科学部 小樽商科大学 東京農業大学オホーツク校
2016年04月21日
廃村110年 旧谷中村巡る 29日「春のフィールドワーク」足尾銅山(日光市)から渡良瀬川に流出した鉱毒を沈殿させる遊水池を造るため、一九〇六年に強制廃村になった旧谷中村(栃木市)の集落跡や合同慰霊碑などを巡る「春のフィールドワーク」が二十九日、渡良瀬遊水地などで開かれる。 足尾鉱毒事件と田中正造を研究し、毎年春のフィールドワークを続ける市民グループ「渡良瀬川研究会」などが谷中村廃村から百十年の節目に主催し、参加を呼び掛けている。 午前十時から栃木市藤岡町藤岡の市藤岡遊水池会館で学習会を行った後、遊水地北エントランス下駐車場に移動し、午後一時にフィールドワークに出発。谷中村にあった墓石や石仏などを集めて建立された合同慰霊碑や、谷中村の横堤(よこづつみ)集落跡を訪れる。 雨天決行。学習会には資料代として千円が必要。昼食は持参。終了予定は午後四時半。問い合わせは、協賛する田中正造大学の坂原辰男事務局長=電090(2636)8233=へ。田中正造史跡と渡良瀬遊水地 日本遺産認定をめざす会発足市民団体「田中正造関連史跡と渡良瀬遊水地の『日本遺産』認定をめざす会」の設立総会が二十八日、栃木市藤岡遊水池会館で開かれ、発足した。会長には「谷中村の遺跡を守る会」(栃木市)の高際(たかぎわ)澄雄会長が選出された。 足尾鉱毒事件の解決に奔走した田中正造に関連する史跡と、二〇一二年にラムサール条約湿地に登録された渡良瀬遊水地が日本遺産に認定されるよう、関係市町に申請を働き掛ける会の趣旨に賛同した三十三団体と個人十九人で発足した。高際会長は「全力で務める」と意欲を語った。 日本遺産は歴史的経緯や伝承、風習などを踏まえたストーリーを市町村が申請して認定される制度。会は四月二十四日に臨時総会を開いてストーリーの骨子を決めて関係市町に提示し、来年二月の応募受け付けに間に合うよう申請を働き掛ける。 設立総会には来賓として栃木市の鈴木俊美市長、小山市の大久保寿夫市長、野木町の真瀬宏子町長と、茨城県古河市、群馬県板倉町、埼玉県加須市の市町長の代理が出席したほか、佐野市の担当職員がオブザーバーとして参加した。 (稲垣太郎)ふーむ、鈴木藤三郎の関連する史蹟を日本遺産に認定されるよう働きかける動きがあってもよいのかも・・・
2016年04月19日
○○さまありがとうございます。同時性(○○様とI先生から同時期に「廣井勇と青山士」の照会があったこと)から、事態は発展して○日16時に、○○大学で、I先生と○○先生とわたくしの3人で会って懇談することになりました。台湾に三人衆でいったのも、森の元気屋さんに読売新聞からの問い合わせとJさんからの台湾行きの話が同時に電話があったという同時性がきっかけでした。お蔭で、鈴木藤三郎顕彰第3集を台湾で出版してくださった利英純さんに直接会ってお礼をいう事ができたのです。ですから同時性があるときは、これは意味のある偶然であろうかをチェックし、すぐにその流れに乗ることにしています。そういうわけで○○さまに半分負担をお願いして、「10冊のほかは自由にお使いください」に感激し、同時性を確信し、200冊をすぐ発注した次第です。10冊はI先生に送り、現在、静岡県の公共図書館を中心に第4集を寄贈中です。4月2日土曜日「町並みと蔵展」に、袋井駅からウォーキングついでに森駅に歩いて行く途中、床屋で散髪したのですが、そこのおかみさんが磐田の出身だというので、「磐田出身の青山士はご存知ですか?」と聞くと「聞いたことがない」というのです(驚)「森町の鈴木藤三郎はご存知ですか?」と聞くと「知りません」というのです。ですから、せめて磐田・袋井の分館も含んだ全公共図書館に「廣井勇と青山士」「米欧旅行日記」をおいてもらおうかと考えています。また、静岡と北海道の友人からそれぞれ1万円ずつ(「スマートレター」30枚分送ってくれと協力を頼んでいたのですが、依頼の2倍送ってくれたのにも感激しました)その推譲に報いるために、北海道の全公共図書館にも「廣井勇と青山士」と「米欧旅行日記」を寄贈しようと思っています。さて1 鈴木藤三郎顕彰第3集は 報徳博物館で1冊千円で販売してもらっていて、売上はすべて東日本大震災復興支援にあててもらっています。 私もたまに買いに行って(寄付したものを買い上げるので、博物館の方には気の毒がられますが、東日本大震災復興支援として購入しては大学図書館等に寄贈しています。) ですから報徳博物館に連絡すれば購入が可能です、それが東日本大震災復興支援につながるので有り難いことです。 必要なら私が購入して送っても結構です。その場合は、1冊千円でお振込みください。 小田原に行った際に購入し、お送りします。3 第3集は台湾で印刷発行したもので絶版です。 新版で発行する計画はありますが(鈴木藤三郎の砂糖に関する資料を収めたもので貴重な資料集です) 現在「報徳記を読む第4集 二宮先生語録」の作成中で、その後「ボーイズ・ビー・アンビシャス第6集 宮部金吾と札幌農学校を日本に広めた教師たち」の構想がありますので、 手がつかない状況です。4 鈴木藤三郎氏顕彰第2集はまだ発刊されていません。 そもそも森の元気屋さんが「第2集は私に作らせてください」というのでまかせたのですが、いまだに作成されていません。 そこで今年の袋井講演会の演題は「遠州報徳の師父たちと鈴木藤三郎」という演題にして、第2集の概要版をわたくしのほうで発刊する予定です。 楽しみにしていてください。 もっとも調べは報徳を読む第4集完成後になりますが・・・○○様が「廣井勇と青山士」の再版にお力添えいただいたことから、弾みがついたように思います。感謝します。
2016年04月09日
4月2日土曜日、青春21切符を使っていき帰り普通列車で、静岡県森町の「町並みと蔵展」に行ってきた。袋井市の〇〇さんと12月袋井講演の打ち合わせをしたり、4時間際に台湾からの大勢の旅行者が鈴木藤三郎生家を訪問し交流するなど、収穫の多い一日であった。その中で 藤三郎の伝記に出て来る 森町の薬局枡屋(ますや)の話と袋井の地蔵尊について先に紹介したところである。その折、身代わり地蔵の話はホームページから引用したが、森町の〇〇さんがお寺に貼られている延命地蔵尊の由来を写真にとってメールに添付して送ってくださった、感謝します。不鮮明な箇所があり、推測で補ったが、とても面白いお話なので、再録する。○○さんからのメール先日の街並と蔵展では色々とお話しを聞かせて頂きありがとう御座いました。 ブログも拝見させて頂きました。 鈴木藤三郎と岩間善次郎、桝屋と身代わり地蔵の繋がりが紐解かれて、 ますます森町と報徳の歴史にのめり込みそうです。 家に有りました資料が見つかりましたので送付させて頂きます。 また、お逢いしてお話しを聞かせて頂ける日を楽しみにしております。 山梨(現在静岡県袋井市)の上町の通りをまっすぐ北へ進むと、突き当りに正行院という寺があり、江戸時代の初期、ここに地蔵さんがまつられていた。この地蔵尊はこんな話が残されている。 むかし、むかし、太田川の西の牛岡村(森町)に おさわ と 熊吉 という夫婦が住んでいた。おさわは働き者で、親切で気のやさしい人であった。しかし、亭主の熊吉は働くことがきらいで酒ばかり飲み、かけごとが大好きで、家のことなど考えない困り者であった。 おさわは何とかして熊吉を真人間にしようと、この地蔵尊に三七(さんしち)二十一日の願をかけた。毎夜、熊吉が寝静まったのを見すかすかのように家を抜け出し、太田川を渡って地蔵尊の前に座り、一心に祈った。 ところが、しばらくしたある夜、おさわが夜な夜な外に出るのに熊さ『さてはどこかにいい人でもできたのか』と疑い始めた。ある夜熊吉が寝入ったふりをしていると、おさわは、すっと抜け出し外へ出ていった。そっと後をつけていくと、おさわは太田川を渡っていった。 熊吉が太田川の堤防のかげに隠れて帰りを待っていると、おさわが急ぎ足で帰ってきた。堤防のかげから飛び出した熊吉は脇差を抜き『この野郎!』とおさわの肩先深く切りつけた。おさわはばったり倒れた。 熊吉は人を斬ったのは初めてであり、脇差をさやに収めて知らぬていにて家に帰り、ふとんに入ろうとして横を見ると、おさわあ気持ちよさそうに眠っていた。体をみたが何の傷あともない。 熊吉はあまりの不思議さにわなわなと震えてきた。 もしかしたら、あれは地蔵尊の化身だったかも知れないと、二人は急いで地蔵尊のところに行ってみると、その地蔵尊は肩先を深々と斬られたまま、笑みを浮かべて立っていた。『ああ、申し訳ありません』二人は合掌し、❝今までのことを許してほしい”とお願いして家に帰ってきた。その夜、熊吉は心から罪を改め、まじめな堅い人間になってよく働く人になったという。 ありがたや 万(よろず)の罪を 身に代て 月見の里に照す み仏
2016年04月06日
鈴木藤三郎伝より抜粋その時、この森町から、東京の工部大学校へ遊学していた石川という学生が、少し健康をそこねて帰郷していると聞いて、藤三郎は、早速訪ねて行って、いろいろ疑問のところを尋ねた。そして、いよいよこうすれば結晶させることができるのだという見当がついて来たので、勇気百倍する思いがあった。 また、藤三郎が苦心していた氷砂糖は、当時、清国の福州あたりから輸入されていたような茶色のものではなく、純白透明なものであったが、どうしたら透明なものにできるか、ほとんど見当がつかなかった。それで、郷里の森町本町に薬剤師の岩間善次郎という人が、桝屋という薬屋を開いていたので、そこへ行って調べてもらったところ、植物性の色素を除くには、骨炭で濾(こ)すのがよいと書いてあると教えられた。 そこで、さっそく、それを試みることにして、骨炭といえば、骨を炭にしたものであろうかと、町から少し離れた忠右衛門新田という所に部落があったので、そこへ行っていろいろな骨を拾い集めた。そして、大洞院という寺の近くのウスン場という所に炭焼場があったので、そこで木炭を焼くようにして骨の炭を造って家へ持って帰って、砂糖水を濾過して見たが、さっぱり脱色も漂白もされたような様子はなかった。 藤三郎は一時は落胆したが、再び気を取り直して枡屋に行って、その訳を話して、もう一度本をよく調べてもらったら、その骨炭を造るには蒸し焼きにするのだということが分った。 そこで、家の炭の畑を掘って、黒焼きを造るように骨を蒸し焼きにして試験して見たら、十分その効果があったので、手をうって喜んだ。彼は、それに勢いを得て、繰り返し繰り返し骨炭を造っては、脱色漂白の実験に夢中になっていた。隣近所でも、初めはそのことを知らなかった。どうもこのごろ、変な匂いが時々する。多分、焼場の煙が、風の加減でこっちへ吹きつけられるせいだろう位に思っていた。ところが、その臭気が、毎日毎日匂ってきて、それが、だんだん猛烈になってきた。何しろ一千余の小さな町なので、たちまち町中の問題になって、「どうも才さ(藤三郎の幼名才助)の家があやしい」と睨まれ、骨炭蒸し焼きの事実が暴露して、警察から屋敷内で骨灰の製造することを差し止められてしまった。それからは、不便を忍びながら、町からずっと離れたところでやらなければならないようになった。しかし、次第に事業に光明が見え出した藤三郎にとっては、その位の困難はなんでもなかった。このようにして、その年は暮れたのであった。 森町の「町並みと蔵展」に4月2日出かけ、藤三郎生家で〇〇さんに会った。○○さんの先祖は、鈴木藤三郎伝に出て来る 薬局の枡屋をやっていたのだという。「身代わり地蔵」という昔話があります と教えていただいたのが面白かった。 中遠昔話より第46話(えんめいみがわりじぞうそん)延命身代わり地蔵尊(袋井市)昔、山梨の隣村にしっかり者でかしこい妻がいました。けれどもこの夫は、なまけ者で遊んでばかりいました。 妻は夫をなんとかまじめで、働き者の心のやさしい人になってもらいたいと思い、近くにあるお地蔵様に願を掛け、毎夜、夫の寝たあとにお参りをしていました。 そして、満願の夜のことです。妻が毎夜出掛けていくことを怪しんでいた夫は、太田川の土手に待ち伏せし、近づいた妻の左肩を刀で大きく切りつけ、あわてて家に帰りました。 けれども、家に帰ると妻は何事もなく眠っており、傷もありません。驚いた夫は妻を起こし、先程のことを話しました。 妻は、お地蔵様に願を掛け、毎夜お参りをしていたことを夫に話し、「それでは先程、肩の所に針をさした様な痛みを感じたのはそのためでしたか」と言ったので、夫はますます驚きました。 夫は、「申訳ない…」と自分の過ちを悔み、これまでの罪深い数々の行いを詫びて、妻といっしょにお地蔵様にお詣しました。見ると石のお地蔵様の左肩には深々と斬られたあとがありました。二人はびっくりし、思わず胸がいっぱいになりました。それからの夫は心を入れ替え、まじめな働き者になったということです。ところで隣村に薬屋があって、この店にある夜「こう薬」を買いに来た客があったそうです。お店の人が、「どちらのお人ですか」と尋ねると、客は「山梨」と言い、「お名前は」と聞くと一言「地蔵」と言って姿を消したということです。 このお地蔵様は、上山梨(上町)板築橋の東側にある「正行院」の境内におまつりしてあります。薬が効いたのか、左肩の傷はすっかり治っているとか…。(「袋井に伝わる昔話」より) この「隣村に薬屋」 とあるのは、本来、森町の枡屋だというのである。 なるほど、当時は薬局というのは、地域でまれな存在であったのであろう。 こういうお話を聞くと 森町の枡屋という薬局が急に身近なものに感じられる。
2016年04月02日
北海道の友人に「ご無沙汰しています。いかがお過ごしですか。」「報徳記を読む第3集と米欧旅行日記2刷りを刊行しました。送っていいですか」とメールしたところ返信がきた。友人は「ボーイズ・ビー・アンビシャス第1集」の後書きを書いてくれ、また第4集「廣井勇と青山士」の際には、クラーク先生が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と見送りの札幌農学校の生徒に言って馬で去って行った島松の駅逓や小樽港の広井勇が築造した百年防波堤などを案内してくれた。友人からのメールには「今はトマトとアスパラの作業をしています」「新しく本を出したとのこと、お送りいただければ有難いです」とあったので、送った。「桜が美しい季節です。4月2日遠州森町で 町並みと蔵展 があり、袋井駅から森までウォーキングで行ったのですが遠い遠い、途中で散髪して一時間ほどロスしたこともありますが、午前8時に袋井を出て、森町の会場に着いたのが12時前でした。途中、太田川沿いの土手を歩きましたが、桜が満開で菜の花も咲き、それは美しい光景で、また太田川沿いに歩きたいものだと思いました。 一つお願いですが別添のとおり全国の大学図書館や公共図書館に二冊を寄贈中ですが、郵送資金が足りません。恐縮ですが郵便局のスマートレターを30部ほど送っていただけますか、もちろんだめでも構いません。(友人だからこそ無茶ぶりができるというものである、感謝します) 町並みの蔵展は4時に終了するのですが、終了間際に鈴木藤三郎の生家の前に大勢の外国人の方が来られました。「台湾の方ですか?」と聞くとそうだということで、生家で展示してある台湾の高雄の台湾製糖工場の写真や、鈴木藤三郎が工場前に建立した百年黒銅観音の写真などを説明しました。名刺をいただいたら、国立高雄応用科技大学のT教授で、握手をかわし、「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」を買ってもらいました。「台湾で製糖工場を案内してもらっている時に、利純英先生に鈴木藤三郎が台湾に遺した一番大きな功績は何ですかと質問しましたら利先生は遠くを見るようなまなざしでしばらく考えて それは教育だと思います と答えられました」「鈴木藤三郎は台湾製糖時代 両得農業法 というものを書いて社是として遺しています。それは会社も現地のさとうきび農家も両方得となる方法を説いたもので報徳の 売って喜び買って喜ぶ 貸して喜び借りて喜ぶ という方法に由来しています」などと説明しました。森信三先生に「会うべき人とは必ず会える。それも一瞬も早くもなく一瞬の遅くもなく」という言葉がありますが、帰り間際にT先生一向と出会い、その言葉を思い出し、その一人かもしれないとも思いました。今後の展開が何やら楽しみです。
2016年04月02日
「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」の裏表紙には不二農園で使用されていた鈴木鉄工所製のボイラー(本書35ページ参照)を載せた。そこで○○さんに 3冊送付した。 桜の花も散りかかる季節、さぞ、学院の桜も美しく映えていると存じます。不二農園のボイラーの写真掲載の許可有難うございました。別添のとおり「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」の裏表紙に使用いたしましたので、謹んで三部同封します。一部はアーカイブに 一部は学院長様に 一部は〇〇様に差し上げます。今回は白黒で載せましたが、講演録を収録した「中学生からお年寄りまでよく分る」シリーズの一環として作り、日記も現代語訳にしたものを作成したいと考えています。その折には セピア色のものを載せたいと考えています。その時には再度送らせていただきます。
2016年04月02日
青春18きっぷを使って普通列車で行きかえり、やっと おうち に帰りついた。以前、掛川から3時間以上かけて歩いていったことがある。そこで今回は袋井駅からウォーキングで行くことにした。休みごとにウォーキングに励んでいるから、2時間余りで行けるかなと踏んでいたのだが、とんでもはっぷんやっぱり3時間近くかかった。途中で床屋で散髪してもらったこともあるが、8時過ぎに袋井駅を出発して、森町の鈴木藤三郎生家に着いたのが12時前だった。Oさんと袋井のTさんが手をふって迎えてくれた。午後、Tさんを鈴木藤三郎も墓所、庵山の観音様、随松寺の裏手にひっそりとたたずむ「延寿観世音」(現在は「福寿観音」と称されているが、もともとは藤三郎の母の80歳の時、母の延寿を願って建立したもので、「福寿界無量の功徳有りがたや 母の為とて建てし観音」という歌碑が横に建っている)そして旧周智高校の跡地にたつ鈴木藤三郎と福川泉吾の胸像のところを案内した。
2016年04月02日
平成28年4月1日補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記全14図書館国立国会図書館都道府県立図書館 2図書館 東京都立図書館 静岡県立図書館市区町村立図書館 2図書館下田市立図書館 三島市立図書館大学図書館 9図書館東京大学総合図書館 東京大学経済図書館 東北大学 宇都宮大学 敬和学園大学 横浜桐蔭大学西南学院大学 日本大学生物資源科学部 小樽商科大学「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」の2刷りが、○○センターに100冊届いた。森町の〇〇さんに送ったものも、「米欧旅行日記届きました。地道な仕事に頭が下がります。町蔵(遠州森町発 町並みと蔵展)でPRしましょう」とメールがあった。10月2日(土曜日)は、わたくしも出向いて、磐田出身の「青山士」のDVDを再生し、遠州の方々に鈴木藤三郎先生の功績とともに、技師青山士の功績を知ってもらいたいと思う。残念ながら「廣井勇と青山士 紳士(ジェントルマン)の工学の系譜」の再版は間に合わなかったが、次回は販売し(収益は全て藤三郎生家の保全にあてる)、町や市を超えて 遠州全体で 鈴木藤三郎と報徳の師父や青山士などの遠州出身の技術者たちの 先人の功績を共有し、先人の営みに感謝するようになってほしいものだと願う。そして遠州発の日本や世界に そして 未来に よりよきものを発信してもらいたいものだ。
2016年03月31日
○○先生からメールをいただいた、感謝!GAIAさん第3集、有り難うございました。この5年間で非常に立派な業績を上げられています。簡単にやろうと思って出来ることではありません。時期が来れば自然に種子から芽が出て花へと成長していくように、なにか内的なものがあったのでしょうか。これからも健康に気をつけ頑張ってこのお仕事を続けて下さい。今野さんという方の生きる哲学も、みずみずしくて読んで楽しいものでした。 とても嬉しく有難いことである。ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集「廣井勇と青山士」で同時性が起こっている。○○さんに「同時性があるようです。印刷費用の半分(4分の1でも結構です)をご負担いただけますか。 これは報徳仕法の増倍法によるものです。報徳金10両が推譲されたら報徳役所で同額の10両を足して、20両分の開発事業を行うというものです。 ○○さまが応じていただけるなら、印刷費用を○○印刷に聞いてみます。」と提案すると、「ご提案の件ですが、協力惜しみません。」という返信がかえってきた。時々、これといった人に 大きな負荷 をかけた提案をする。イエスでもノーのどちらの答えでも構わない。その人の意識のレベルをはかり、その後の新しい事業への協力の度合をはかる。そちらの方面への流れがあるのか、確認するために行う。少しでも遅滞や逡巡があればいったん中止する。相手に単なる疑問(むしろ疑問を抱いてもらい、その人の立ち位置を考えてもらうことにも意味がある)ではなく、中止に対する不満や鬱積があれば、完全にその事業を中止する。中止してそれに不満や鬱積があるとすれば、それはその人の意識のレベルにおいて、それだけの事業に応じるだけの意識のレベルに達していないということであり、事業の重大性への認識が乏しいということにほかならない。そのまま進むと、事業そのものを害いかねない。事業自体も、場合によっては相手の人も危険である。救うべきは「精神」であり、「自発的な推譲」である。昨年、暮の「町並みと蔵展」へ「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」を出すつもりであったが、どうもうまく繋がらないのでいったん中止した。○○さんから「どうして?」という疑問があったので「うまく繋がらない場合はいったん中止する」という方針を説明したら、納得していただいた。そこで4月2日、3日の「町並みと蔵展」にあわせて「報徳記を読む第3集」のほかにと「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」2刷り(これは町並みと蔵展にあわせるべく「目次」と「解説に代えて」を付け足した特別バージョンである)を出品する。本会の本は、公共図書館・大学図書館に寄贈するために作っており、一般の方には販売していない。「町並みと蔵展」への出品は、鈴木藤三郎の生家保全のために行うものであり、収益全額を生家保全へ推譲する。さらに青山士のDVD放映をかけたいと、新たなバイアス(負荷)をさらに課したのだが、うまく繋がっているようである。「町並みと蔵展」が楽しみである。
2016年03月24日
二〇一六年三月二一日○○センター午前九時十分~十一時五〇分 参加者 2名「語録」に新たに補注を施し、【一七】から【五〇】までを二人で輪読し、原稿の校正を行う。GAIA「森町の○○さんが『補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記』を読んで、「補注を読んでいるだけで楽しい」と感想を寄せていただいた。語録の全ふりは読んでいて難しいから、補注を読むだけでも有益なものにしようと、『報徳秘稿』(報徳博物館資料集3)を現代語表記で施した。読んでみてどう?」○○ 「うん、いいと思う。」 十一時まで輪読し、その後、I先生が送っていただいたDVD「日本の近代土木を築いた人びと」の廣井勇と、「民衆のために生きた土木技術者たち」の青山士を視聴する。GAIA ○○アカデミアの所長がボーイズ・ビー・アンビシャス第四集『廣井勇と青山士』をI先生に紹介した。I田先生は元横浜国大教授で、港湾土木が専門で、廣井勇を尊敬している。そこでDVDを私に送って下さり「ボーイズ・ビー・アンビシャスのシリーズの本を有難うございました。大成建設が製作した二枚のDVD映像を同封します。すでに五十回以上コピーして、アジア・アフリカの国々にも配って、廣井博士と青山技師のことを知ってもらっています」と添書きを下さった。○○ なんで大成建設がDVDを作っているの?GAIA 大成建設は創業百四十年で、創業者は大倉喜八郎だ。大倉喜八郎は、近代産業の礎となる企業を次々と立ち上げ、日本の発展に寄与した。東急東横線「大倉山駅」の大倉山記念館にも本会の本を寄贈し、全て蔵書としていただいている。大成建設はその創業者大倉喜八郎のDNAを受け継いでいて、社会貢献のためにDVDを作っているんのだろうね。 四月二日、三日と森町で「町並みと蔵展」があり、藤三郎生家でDVDの青山士を視聴してもらおうと思っている。
2016年03月22日
三島市立図書館7件 1砂糖王鈴木藤三郎 氷砂糖製造法の発明 静岡県周智郡森町「町並みと蔵展」講演会 二宮尊徳の会, 鈴木藤三郎翁顕彰会 2013 13106592 2147993 2二宮金次郎の対話と手紙 中学生からお年寄りまでよくわかる二宮尊徳の会 2015 第1 小田原編(少年・青年期) 2331152 3二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎 二宮尊徳の会 2013 2168881 4ボーイズ・ビー・アンビシャス二宮尊徳の会 2014 第3集 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 14020222 9784990606947 2186895 5ボーイズ・ビー・アンビシャス二宮尊徳の会 2014 第5集 内村鑑三 神と共なる闘い 14053015 9784990606961 2239942 6ボーイズ・ビー・アンビシャス二宮尊徳の会 2013 米欧留学篇 米国留学中の内村鑑三の日記と手紙 内村鑑三から新島襄、広井勇あて書簡 宮部金吾・新渡戸稲造往復書簡抜粋 13061970 9784990606930 2148928 7補注 鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』 二宮尊徳の会(報徳記を読む会) 2015 明治29年(1896)~同30年(1897)5月8日三島市は、静岡県東部の、伊豆半島の中北端に位置する市。 人気店味わって被災地支援…函南2016年03月12日東日本大震災の復興支援イベント「被災していない僕たちが頑張る!」が13日、函南町丹那の観光牧場「酪農王国オラッチェ」で開かれる。県内の約45の飲食店と団体などが参加し、売り上げの40%以上が義援金として被災地に送られる。5年連続の開催で、関係者は「被災地に静岡の優しさを届けたい」と話す。 「被災地には多くの苦労と不幸がある。無事だった静岡県民が頑張ろう」と、同牧場と三島市の仏料理店が仲間に呼びかけ、2012年3月に初回を開いた。以来、毎年3月に開催され、これまでに、約400万円の義援金を被災地に送った。 参加35店のうち、22店は飲食店で、和洋中、イタリアン、カレー店など、県東部の人気店が集まる。各店は看板料理を改良した1品を提供する。菓子、米などの販売も行われるほか、県立田方農高の生徒は手作りパンを販売する。 参加店は売り上げの40%以上を寄付するルール。寄付の割合は店ごとに掲示され、大半は40~50%だが、昨年は100%の店もあった。来場者は寄付の割合を参考に食事や買い物をすれば、被災地支援につながる仕掛けだ。 企画・運営メンバーの川口恭平さんは「震災を忘れてはいけない。その思いを届けるために、来年以降もイベントを続けたい」と語る。午前10時~午後4時。雨天決行。問い合わせはオラッチェ(055・974・4192)へ。
2016年03月18日
平成28年3月18日補注鈴木藤三郎の米欧旅行日記全12図書館国立国会図書館都道府県立図書館 2図書館 東京都立図書館 静岡県立図書館市区町村立図書館 1図書館下田市立図書館大学図書館 8図書館東京大学総合図書館 東京大学経済図書館 宇都宮大学 敬和学園大学 横浜桐蔭大学西南学院大学 日本大学生物資源科学部 小樽商科大学新東名延伸1カ月 静岡県西部の物流、観光追い風(2016/3/17)新東名高速道の浜松いなさ―豊田東両ジャンクション(JCT)間が開通し、1カ月が経過した。愛知県東部に点在した東名の慢性的な渋滞箇所が解消され、静岡県西部の物流や観光に好影響が出ている。 磐田市に支店がある運送会社「ケー」によると、磐田から名古屋市に向かうトラックは新開通区間を使い始めて1リットル当たりの燃費が0・5キロ分改善したという。渋滞がなく、東名と比べて坂やカーブも少ないためとみられる。 ハマキョウレックス(浜松市南区)では、愛知県小牧市に向かうトラックが本社を出発する時間を約1時間遅くした。内山宏取締役執行役員は「荷主への到着時間が正確に読める。運転手の負担や拘束時間も減った」と実感を口にする。遠州トラック(袋井市)の川口大介輸送部次長も「従来は渋滞する時間帯を避けて運行計画を立てたが、今後は選択肢が広がる」とメリットを語る。中部国際空港行き直行バスを運行する遠州鉄道では、東名を経由しているバスの到着遅れが大幅に減少したという。 中日本高速道路によると、開通から1週間で東名、新東名を合わせたこの区間の交通量は約1割(1日平均1万1500台)増加。中京圏から県西部の観光施設に来訪者を誘引する効果も出ているとみられる。 竜ケ岩洞(浜松市北区)では、2月の来場者数は開通前の1~13日は前年比1割減だったが、開通後の14~29日は同1割増に転じた。愛知県ナンバーの車が8割を占める日もあるといい、小野寺秀和支配人は「完全に延伸の効果」と話す。はままつフルーツパーク(同区)も中京圏から車で訪れる客が急増し、先週から延伸記念のスタンプラリーを始めるなど好機に乗じた誘客を強化している。 奥浜名湖観光協会(同区)によると、各施設の来場者数やランチの利用は増えたが、宿泊や物販の伸びは鈍い。アクセス向上で日帰り客の比率が増えたとみられ、担当者は「滞在してもらう工夫が必要」と課題を語る。
2016年03月18日
「補注 鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』」の解説に代えて日光市のいまいち一円会の木村浩先生が「いまいち一円会通信」第二一二号・第二一三号の二回にわたって「鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』を読んで」を掲載していただいた。『米欧旅行日記』の内容を理解する上で大変有益であると考えて、先生のご了解を得てその文章をここに紹介し、本書の解説に代える。また、東北大学名誉教授大藤修先生に本書を差し上げたところ、「この度は鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』を御恵贈たまわり、有難うございます。藤三郎が欧米の文明や企業をどのように観察したのかがうかがえ、史料的価値の高い日記だと思います。明治二十九年十月三日条で英国では鉄工場で女工が働いていることに感嘆していますが、この体験から自身の会社の女性雇用に何らかの影響を受けていたのかどうか、関心が湧きました」という返信をいただいた。大藤先生は『米欧旅行日記』について「史料的な価値が高い日記」と評価していただいた。本日記を世に送り出したものとして有難いお言葉である。今後、鈴木藤三郎氏の日記の研究が進むことを願う。お二人の先生の御厚意に心から感謝する。(略)「鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』を読んで」2 木村 浩 明治二十九年七月十四日に横浜港を出発して太平洋をわたり米国に大西洋をわたりイギリス・フランス・ドイツと七ヶ月の視察旅行を終った。2、行程(アジアへ) 明治三十年二月十日、イギリスを出帆。同十四日ジブラルタル(スペインとアフリカ大陸の間)を通過。同二十二日エジプトポートサイド港に着く。午後四時出帆しスエズ運河を通る。 三月十四日 シンガポールに着く。此のとき三井物産会社の社員迎えに来る。(どこの国でも三井物産会社の支店があった) 三月十八日 ジャワ国バタビア港に着船する。バタビアは、インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称、ここは熱帯の地、旅館といえどもみな水風呂。水風呂は藤三郎の好む所、飛び込み自ら携わるところの石鹸で全身を洗う。喧々囂々(けんけんごうごう)一大椿事(ちんじ)の起れるがごとし。ジャワでは、水風呂は水をくみ出して全身を洗うに止まり、中に入るは大禁物であった。(パリのスープの失敗とここでの失敗は、言葉と風俗の違いから読んでいて面白かった。) 三月三十日 ジャワ島スラバヤ港を出船。ジャワ島では、サトウキビ畑を見物。ジャワ島は精製糖工業に関しての欠点とするものは良水の皆無。人民は濁り水に洗濯沐浴するを一般の常識なり。 四月三日 シンガポールに着す。乙宗(おつむね)商店支配人に面会す。乙宗商店はゴムの輸入を日本で初めて行った商社である。 四月四日 支那人経営の氷糖製造所視察。この日は日曜日につき休業。 四月六日 午後五時シンガポール港を出船。同十三日 香港港着。同十八日 日曜につきマゼラン製糖所を外観、太古製糖所を山頂より工場の様子を望見す。(インドネシアやシンガポールは当時オランダやイギリスの植民地で、イギリス同様に日曜日は工場等は休業であったようだ。) 四月八日 サイゴン(現ホーチミン市)に着く。夜中と雖も暑気甚だしくおおいに苦しむ。 四月十三日 香港港着。香港では、イギリス資本により二大製糖所が中国国内で砂糖販売で、中国国内産砂糖を上回りつつあった。 四月二十日 汽船(海門)号にて出帆。同二十二日 厦門(アモイ)着。 四月二十四日 午前九時に旅舎を出て、蒸気船に乗り台北府に向ひ出発。同十一時台北府川岸に着す。 台湾は気候といい、地味といい砂糖産地の本家本元たるハワイ、及びジャワその他南洋各地方とほとんど同一である。その収穫も同等でなければならない。しかし実際は全く相反する。ハワイは一反歩二千斤、南洋ジャワは一反歩千五百斤、台湾は一反歩わずか五百斤内外に産出に過ぎない。その原因は、第一に製糖の方法は旧来の方法で極めて不完全である。第二に砂糖の原料たるサトウキビの種子の改良がなされていない。ハワイ・ジャワ等においては、糖分の沢山ある種子を精選して播種している。 五月一日 台湾を出船。台湾は日清戦争後(明治二十八年)日本の領土となっていた。 五月四日 午前八時無事長崎港に着船。 五月七日 神戸港に着船、東京本社及び遠州森町福川泉吾・岡田良一郎諸氏へ無事着の電報を発す。 五月八日 午後二時横浜港へ着す。三時三十分当地を発車し、四時二十五分無事東京新橋に着す。これより腕車(人力車)で日本橋倶楽部に行き出迎人へ挨拶し、自宅に着す。3、まとめ 「補注 鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』」の「まとめ」の部分から抜粋する。 藤三郎の米欧旅行は十一ヶ月近くの地球を完全に一周した大旅行だった。藤三郎はこの洋行で名実ともに当時の我が国の製糖界の第一人者となった。多年の経験と欧米各国の粋を集めた最新式の機械が備わり、日本精製糖会社の発展は目覚ましいものであった。四十三歳の鈴木藤三郎の名前は、日本の新進実業家として内外に知られるようになった。「余は欧米の製糖事業はどういうふうに発展しているかというごく単純な目的を以て洋行した。ただ幼少より尊徳翁の末流を汲み、機に臨み、折に触れて、観察して見たいと思っていたことは、欧米の偉大な人物と、吾が尊徳翁とはドンナ差があるであろうかということだった。ともかく余の管見する所に由ると、欧米において貧困より身を起し、終に偉大なる人物となった人のやり方が、あたかも二宮翁と同一の思想を呼吸したものではなかろうとかと感想を抱くことしばしばである。」(『二宮先生と余が欧米観』)「余はかつて欧米を漫遊し、かの国実業界における幾多の成功者を訪問し、親しくその事業を観察したとき、彼らが成功の要はことごとく推譲にあることを発見した。」(『報徳実業論』)と結論づけた。 藤三郎が氷砂糖の研究を始めてから七年目の明治十六年(一八八三)二十七歳の時にその製造法を発明した。氷砂糖工場を建設しようとしたが、資金を融通してくれる人はなかった。これを救ったのが同郷の静岡県森町の実業家福川泉吾(ふくかわ・せんご)氏だった。福川の支援を受けて氷砂糖製造工場を建設できた。 福川氏は「二宮先生の教えに、積財を勤めるのは、世を救い、世を開くためであると。私は多年分度を守って勤労に努め、いくらか財産を積む事ができた。今は世に推譲して社会に有益の事に散じなければならない」とも藤三郎に話したという。 藤三郎が明治二十八年「日本精製糖株式会社」を起こし、帰国後は更に「台湾製糖株式会社」を創立したのは、海外視察による成果であった。 明治三十八年に二宮尊徳の五十年祭が今市の報徳二宮神社で開催され、藤三郎も参列した。その時、尊徳先生の遺著が相馬の二宮家に蔵されていると聞き、その復本を作り報徳研究者に公開すべきと考えた。そこで明治三十九年一月から遺著一万巻の謄写を筆生二十名を雇って開始、明治四十一年十月二千五百冊にまとめて「報徳全書」を完成した。この「報徳全書」の費用は、藤三郎が一人で出し二宮神社に奉納した。報徳全書を奉納した時の願文の最後にこう記している。「人類が必ず至るべき大切な道である報徳の教えの内容が広く世界に普及し、真実で正しい文明が実現することができますように」、大推譲であった。『米欧旅行日記』から実業家として、すべてに超人的な精魂を傾けた生涯を感じることができた。
2016年03月18日
シャーロック・ホームズの映画が新たに作られて上映されている。「SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁」 舞台は19世紀末のロンドン 原作へのオマージュもたっぷり 英俳優のベネディクト・カンバーバッチさんとマーティン・フリーマンさんが出演するBBC製作の人気ドラマシリーズの特別編「SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁」が19日、劇場公開された。物語の舞台を現代から、本来の設定である19世紀末のロンドンに移し、カンバーバッチさん扮(ふん)するシャーロック・ホームズとフリーマンさんが演じるジョン・ワトソンの名コンビが、ある不可思議な事件に挑む。「SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁」 舞台は19世紀末のロンドン 原作へのオマージュもたっぷり2016年02月19日 英俳優のベネディクト・カンバーバッチさんとマーティン・フリーマンさんが出演するBBC製作の人気ドラマシリーズの特別編「SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁」が19日、劇場公開された。物語の舞台を現代から、本来の設定である19世紀末のロンドンに移し、カンバーバッチさん扮(ふん)するシャーロック・ホームズとフリーマンさんが演じるジョン・ワトソンの名コンビが、ある不可思議な事件に挑む。 「SHERLOCK/シャーロック」は、アーサー・コナン・ドイルによる「シャーロック・ホームズ」シリーズが原作。ドラマは、世界中にファンを持つ名探偵ホームズを“現代によみがえらせたら?”がテーマで、21世紀を舞台に自称「コンサルタント探偵」のホームズ(カンバーバッチさん)と、ホームズの同居人のワトソン(フリーマンさん)が、スマートフォンやパソコン、インターネットなど駆使して難事件を解決していく姿を描いた。これまで原作ストーリーを下地にした九つのエピソードが作られ、英アカデミー賞を受賞するなど高い評価を得ている。 「忌まわしき花嫁」は、ホームズが過去に関わったものの、原作では書かれていない「語られざる事件」の一つ“内反足のリコレッティと忌まわしい妻”がモチーフとなっている。1895年の冬のロンドン、古い花嫁衣装姿のある女性がバルコニーから銃を乱射する事件を起こす。女性はその場で自らの命を絶つも数時間後、花嫁衣装のまま夫の前に姿を現すと、夫を射殺して逃走。ホームズとワトソンはスコットランド・ヤードのレストレード警部(ルパート・グレイブスさん)から捜査の協力を依頼を受け、遺体安置所に向かうも謎を解明することはできなかった。数日後、今度は夫が殺害予告を受けているという貴婦人がホームズとワトソンの元を訪ね、朝もやの中、自宅の庭で花嫁衣装の“幽霊”を見たと告白。ホームズとワトソンはこの“忌まわしき花嫁”の正体を突き止めようとするが……というストーリー。 脚本は、スティーブン・モファットさんとマーク・ゲイティスさんが共同で執筆。ホームズとワトソンが繰り広げる会話劇は相変わらず機知に富み、かつ原作へのオマージュがたっぷりで、ワトソンがホームズに指示して鹿撃ち帽をわざわざかぶらせる皮肉めいたシーンもある。ロジカルな謎解きよりも、時代背景にスポットを当てるなど、設定の変更が作品に与えた影響は決して小さくないが、この会話劇がテンポよく物語の深層へと導いてくれ、最後までダレることなく楽しむことができた。惜しむらくは、薬物依存が引き起こしたバッドトリップで現代と19世紀末のロンドンをリンクさせてしまった点。ホームズの宿敵モリアーティ(アンドリュー・スコットさん)の生死を含めて、それが一つの裏テーマだったとしても、この部分は少々蛇足だったような気がする。それでも髪をオールバックになでつけた傲慢で神経質、かつドSなホームズと、ホームズに振り回されているようで十分に皮肉屋な七三分けのワトソンのキャラクターは魅力的で、馬車が闊歩(かっぽ)し、夜になればガス灯がともるゴシックなロンドンの街並みにもなじんでいたし、無理と分かりつつも、ビクトリア時代版での続編を見たくなってしまった。 同特別編にはドラマシリーズ同様メアリー・ワトソン役でアマンダ・アビントンさん、モリー・フーパー役でルイーズ・ブリーリーさん、ハドソン夫人役でユナ・スタッブスさんも出演し、脚本のゲイティスさん演じる“巨漢”のマイクロフト・ホームズも登場する。19日からTOHOシネマズ新宿(東京都新宿区)ほか全国で公開。(山岸睦郎/MANTAN) 「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」の補注でも、シャーロック・ホームズの物語とロンドンについて注を施したところであった。 九月十七日 曇 午前九時ハムステツトヒース・ステンションにて渡辺(わたなべ)専(せん)次郎(じろう)氏に面会し、是よりグロードストリート・ステンションにて分(わか)れ、是より今井氏とスタンホードヒルのダンスムワアロードの四十三番地グラハムウヰルモツト氏(クリヰン及(および)ソン会社代理)に面会して、ヱテマヰザーの説明及び設計直(ね)段(だん)を相談す。是よりカンノンストリート、ハミルトン氏に面会す。サボイホテルに行(いき)、山本君を訪(おとな)ふ、 同氏不在。是よりサボイシエター〔一八八一年、完全な電気照明の初劇場としてオープン〕に行いき、明日観劇の切符を買ふ。此このとき、懐中かいちゅう所蔵の胴どう巻まきより正金しょうきん銀行の手形てがたを取出せしに、豈あに計はからん、兼かねて五磅ポンド手形てがた十八枚を秘蔵の処ところ、此この時九枚有ある已而のみ。然しかれ共ども此この胴巻どうまきは過日かじつ本月〔九月〕八日、正金しょうきん銀行にて受取うけとりたる儘まま秘蔵して今日きょう迄まで昼夜膚はだを去ることなし。然しかるに此この券九枚則すなわち四十五ポンドを紛失すること不可思議ふかしぎ千万せんばん、依よって是より直ただちに正金しょうきん銀行へ行いき、中井支配人に面会して右事情を語り、夫それより明日バンク・オフ・イングランドに支払停止の手続を打合せ、是より直ただちに帰宿す。此この夜九時三十分ハムスデッド警察分署へ行いき、紛失を届ける。 一月二日 濃霧 早朝より午後一時迄(まで)前日よりの書状を認(したた)める。是より今井氏は右日本書状を市の郵便局へ行(いく)(此(この)日、日本メール午后二時〆(しめ)切(きり)なり)、当日の霧の甚だしきこと是迄(まで)の比類なし。実に咫尺(しせき)を不弁(べんぜざる)〔視界がきかずごく近い距離でも見分けがつかない〕こと終日なり。為(た)めに市中の鉄道の衝突、馬車の転覆(てんぷく)等数ケ所にて人民の怪我(けが)等甚(はなはだ)し。 1 シャーロック・ホームズは、アーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズシリーズ』の主人公で一八八七年から一九二七年にかけ発表された四つの長編と五六の短編に登場する。一八九六年一月は、「アベイ農場」事件が発生した時である。(「生還」)一八九五年十一月発生の「ブルースパーティントン設計図」事件冒頭でロンドンの霧の描写から始まる。「一八九五年十一月の第三週、ロンドンは濃い黄色の霧にとざされていた。月曜日から木曜日にかけては、ベーカー街の私たちの家の窓から、向う側の家々の姿がぼんやりとでも見えたかどうかを、私はうたがう。」(『最後のあいさつ』) ロンドンはイギリス産業の中心地として、一九世紀初頭に八五万人ほどの人口が一八九九年には七〇〇万人にまで増え、市街地も八倍に拡大した。石炭などの燃焼に伴う煙や微粒子によって恒常的にスモッグが発生して、ロンドンは「霧の都」という異名を与えられ、シャーロックホームズ作品の中にも霧が窓の外を覆う陰気な場面がしばしば記述されている。
2016年03月08日
「今日世間に現存している人間はいかなるものでも、天地の恵みと祖先の遺徳とによって現代の開明に浴しているのです。すなわち学問でも、教育でも、政治でも、宗教でも、また農工商その他人間社会における一切の事物はことごとく我らの祖先が数千年前の有巣時代穴居時代より今日までに、経験工夫のかずかずを積みて遺されたる賜物であることは、だれも熟知のことです。然らば天地の恵みは申すまでもなく、祖先の遺徳の大なることは、到底言葉で言いあらわすことのできることではない。故に人たるものはこの大恩徳を報いる心がけが必要であることを了知すると同時に、その実を挙げなければならない。これがすなわち報徳の行いである。然らばいかなることを為してこの大恩徳に報いることができるかと申せば、現代の我々は倍々勤労を積みて、人の幸福となるべきことを拓(ひら)き、祖先の遺徳に加えてこれを後代に譲り、子々孫々、またかくのごとくにして、数百千代の後には、この世界をして、ついに円満無欠の楽土となすようにつとめること、これがすなわち右申す大恩徳に報いるゆえんでありまして、また、実に人間仲間に、一貫したる人生の大目的でなければならない。」(「職務本位」鈴木藤三郎)
2016年03月03日
いまいち一円会の木村先生の「鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』を読んで」続き八月二十九日 米国第一の都市紐育(ニューヨーク)を後に汽船ルカニア号で大西洋に出づ。海路七日間で英国に着船する。九月四日 気車(汽車)でロンドン着。同二十三日まで、ロンドンの工場視察や各製造所のカタログ及び説明書を取り調べたり、在住の日本人と会う。その中には日本公使館の加藤高明公使(後の外務大臣)・山本達雄(後の日本銀行総裁)など明治後期に活躍する多くの人物がいた。九月二十四日 イギリス内地旅行に出発する。各地の精製糖器械製造所を視察する。ロンドン→ダービー→バーミンガム→マンチェスター→リバプール→グラスゴー→グラスゴー→エジンバラ→ニューカスル→十月二十日ロンドンに帰る。GAIA氏の解説(「二宮先生と余が欧米観」)によると▲英国観 米国においてほとんど絶望的に蹴落とされたが、英国において救い上げられた。英国は二宮先生のいわゆる「小から大に及んだもの」である。英国における多くの事業は初め一人が小さな規模で起こし、それが次ぎの大には、父子合名会社となり、漸次大きくなって合資会社となり、終には株式会社となったもので、たいてい三十年四十年と歳月を経たものである。建築もまたその通りで歴史が残っている。その歴史が英国人の誇りで、祖先の苦心経営を以て自家の光栄とするものであった。四十数日英国滞在の感想である。(内地旅行間の日記で興味ある記述もあった。)十月十八日 日曜 雨降 この日は例の休業にして気車(汽車)も休業せり。午後七時に至りようやく気車の発するあり。(日曜は、工場、商店、交通機関まで休業と徹底していた。当時のアメリカ・イギリスでは、キリスト教の安息日が厳守されていた。)十月十九日 アームストロング会社視察。日本海軍技師に面会し工場の案内及び説明を聞きて見物せり。アームストロング氏が始めて大砲を発明したる工場なり。(戊辰戦争で会津城攻防戦で威力を発揮したアームストロング砲の製造会社である。)※長くなるから簡略する。十一月八日 欧(ヨーロッパ)大陸旅行出発。ロンドン府ビクトリアステンションを発車、ドウバーに着しこれより気船(汽船)に乗替、仏国(フランス)カレー港に着せり。十一月九日 巴里(パリ)。同二十八日 伯林(ベルリン)。十二月十七日蘭国(オランダ)より再び大陸旅行出発。ロンドンに帰る。 その間の失敗談として、パリのレストランで藤三郎は外国語に通じず、献立表の初めより順次五品を指名す。五品ことごとくスープであった。 一月二日 濃霧 視界がきかず、ごく近い距離でも見分けがつかないこと終日なり。市中の鉄道、馬車の転覆等数カ所にて人民の怪我(けが)等甚だし。「霧のロンドン」と云われるが、気候の関係ではなく、石炭などの燃焼に伴う煙や微粒子による恒常的なスモッグの発生であった。 一月二十日 蘇国(スコットランド)グリーノツク市、二十一日グラスゴー。二月二日リバブルに着く。この夜、国民新聞主筆・徳富蘇峰氏に面会する。 機械購入については、かけ引きがないイギリスの工場家を相手に平均で一割五分の値引きをさせた。ある製造家などは「開業以来の最低限で取引した」とこぼしたそうだ。 汽車汽船に乗っている時か日曜日の他はほとんど一日も休むことなく、先進国であった米・英・仏・独の四カ国を歩いて製糖工場だけでも二十三カ所を見学し、製糖機械製造所やその他の工場は数えることが出来ないくらいに視察をつくした。次回に続く
2016年02月26日
○○所長から先日に引き続きメールをいただいた。「廣井勇に関するGAIA(以下G)さんの著作2冊、「紳士の工学」と内村鑑三などとの書簡集を、○○さんに昨日お送りしておきました。喜ばれることでしょう。港湾土木の仕事を定年まで国土省で行い、退職してから〇〇大学教授となり、そこが終わって〇〇所長をしています。「病気をして退院するたびに以前より元気溌剌となっている」とよく言われるので、何らかのスピリットを持っている人間なのでしょう。まさに「働けなくなったら死になさい」ですね。私も来年卒業です。体力、精神力は下降線を描いています。皆さんを見習って自分を更新しなければと、つくづくと思います。」また、日光市の今市一円会の木村先生から、いまいち一円会通信第212号を数部いただいた。本号には木村先生が「鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』を読んで」を掲載していただいている。全2回にわたって掲載予定でその前半である。 鈴木藤三郎は、二宮尊徳先生の遺著一万巻を複写して今市二宮神社に寄贈した人物である。鈴木氏は、「報徳の教え」を学び、氷砂糖の研究を始めてから台湾に製糖会社を設立するなど日本の近代産業の先覚者であった。 今回、「二宮尊徳の会」のG氏から鈴木氏の『米欧旅行日記』(88ページ)を贈って頂いた。漢字にはルビや解説もG氏が加えて読みやすくなっていたので紹介する。 この『日記』は、、明治二十九年(一八九六)七月十四日から同三十年五月八日までの十カ月余、毎日欠かさず記帳している。航海中は天候、気温、経度・緯度まで記入されている。旅行の目的は、各国の精製糖事業視察と機械購入であるが、「二宮先生と余が欧米観」によると欧米の偉大な人物と尊徳翁の差を探求しようとしたのである。1、行程 七月十四日 ベルヅック号で横浜港を出発。海路十一日間で二十四日布哇(ハワイ)国ホノルル府に着く。ハワイ王国は、一八九八年(明治三十一年)アメリカ合衆国に併合されたので、王国消滅直前だった。ハワイでは、府勤務の日本人警部の案内で製糖工場を視察、職工は日本人と支那人であったと書かれている。 七月二十五日 ハワイを出発し、三十一日に桑港(サンフランシスコ)までの船上では和紙に船中で知り合った外国人の肖像を写生して見せて大評判になる。サンフランシスコでは、数人の日本人と会い、案内や便宜を図ってもらう。独乙人(ドイツ人)経営の器械製造工場など視察するが、アメリカの巨大産業は偉大なる財力を以て日に新しく計画し、三年前のものは惜しげもなく打ち壊す有様で、その進取の猛志に驚く。家屋も普通十階、高いのは二十階三十階として天空にそびえているのにも驚嘆した。 八月十二日 サンフランシスコ出発。アメリカ横断鉄道でワシントンに向かった。途中の町で下車して工場拝謁を乞うが、「日本人は工業上、後来最も恐るべきで生活及び人夫の安きこと米国の十分の一、その国にてドンドンやられてはコワイ」と視察を断られることもあった。数多の駅を通過して十八日夕方ワシントン府に着す。 八月二十日「ワシントンを午前十一時四十分出発し、午後四時三十分ニューヨーク西宮方へ投宿」とある。所要時間四時間半ほどでニューヨークに着いている。(続く)
2016年02月24日
なんと東京大学図書館に「補注 鈴木藤三郎の米欧旅行日記」を2冊寄贈したところ、東京大学総合図書館 と 経済図書館 とそれぞれで蔵書となった。鈴木藤三郎の「米欧旅行日記」の史料的価値が最高学府においてきちんと認知されたといってよいであろう。鈴木藤三郎氏の真の評価の始まりとなることを願う。東大総 289.1:Su96 0014279392東大経 80-C:3740 5513743301もっとも東京大学は世界とアジアでの大学評価のランキングを下げつつあるが、それでもなお、日本における東京大学、京都大学においてその史料的価値を認知されることは有意義であろう。最新版「大学ランキング」トップ300週刊東洋経済2014年03月13日全国に約750ある大学の中から、「通いたい」と思えるような大学をどう選ぶか。教育がしっかりしている、就職に強いなど、人によって選ぶ基準はさまざまだ。本誌はそうした教育力や就職力に加え、少子化で経営環境が厳しくなっても生き残りうる財務力も含めて総合的に判断し、「本当に強い大学」としてランキングした。対象は、全国約750の大学に対して8~9月に行ったアンケートで回答を得られ、かつ2012年度の財務諸表が入手できた大学。財務諸表は学校法人ベースなので、同一法人が複数の大学を運営している場合は、1大学のみをランキングの対象としている。総合ポイントを算出できた大学は434大学(国立79、公立35、私立320)に上り、そのうちの300位までを掲載した。なお別冊綴じ込み付録『大学四季報』には、全754大学の就職率や概要、財務データなどを掲載している。「本当に強い大学」ランキングで重視しているのは教育力、就職力、財務力の三つだ。それぞれについて3~4項目の指標を設定。計10指標を偏差値に換算し、その合計を10で割ったものを総合ポイントとして、ランキングしている。教育力は3項目で測定した。「教育研究充実度」は、各大学が教育や研究に対して、どれだけおカネを使っているかを見ている。国公立大学と私立大学では会計基準が異なるため、国公立は経常費用に対する比率、私立は帰属収入に対する比率で算出している。「科学研究費補助金」は、大学の研究者や研究グループに国から交付される補助金。文部科学省が研究課題を審査して額を決めており、最多の東京大学198億円から最少数十万円まで幅は大きい。科研費の多い大学は高い研究水準を持ち、教育の面でもプラスに働くと見て、指標に取り入れている。「教員1人当たり学生数」は、その数値が低いほど、教員が学生をきめ細かく指導できるだろうという考えから指標化した。就職力も三つの項目で測定している。「就職率」は、分子を就職者数、分母を卒業者数から大学院進学者数を引いたものとして算出している。各大学がホームページやパンフレットなどで開示している就職率は、分母を就職希望者数としていることが多く、本誌の数値と異なることがあるので注意が必要だ。「上場企業役員数」は、その大学の出身者(大学院修了者含む)が株式上場企業で何人役員となっているかを示している。就職後の昇進力が想像できる(なお、最新の就職人気ベスト300社はこちら、同調査は文化放送キャリアパートナーズ就職情報研究所による)。「主要企業404社への就職率」は、卒業生(大学院進学者を除く)のうち主要企業にどれだけの割合で就職しているかの数値。就職の質を見ている。表では、主要企業就職者数も参考までに掲載しているが、人数は総合ポイントに含めていない。財務力は四つの項目で測定した。収入に直結する志願者数を5年前と比較した「志願者数増減率」、経営の収益性を見る「経常利益率」、寄付金や受託研究収益など大学の自己努力によって得られた資金の多さがわかる「自己努力収入比率」、経営の安定性を見る「自己資本比率」だ。なお、教育研究充実度と同様、国公立と私立で会計基準が異なることから、経常利益率、自己努力収入比率、自己資本比率は、国公立と私立それぞれで偏差値を算出し、その結果を採用している。各指標の計算方法は表に詳述しているので参照していただきたい。これらの指標を総合し、1位となったのは東京大学。8年連続となる不動の1位だ。科研費と上場企業役員数が、ほかの大学に比べて圧倒的に多い。教員1人当たり学生数も少なく高得点を牽引している。なお、就職率と志願者数増減率は平均を下回っており、課題を残す。2位は京都大学。教員1人当たり学生数と就職率、志願者数増減率は東大より高得点だが、そのほかは東大をそれぞれやや下回る水準だ。3位に入ったのは慶応義塾大学で私大トップ。東大を上回る上場企業役員数と主要企業就職率が光っている。4位と5位は昨年と入れ替わる形に。大阪大学の教育研究充実度や就職率が上昇した。トヨタ自動車グループへの就職が多い豊田工業大学は経常利益率が悪化した。6位は早稲田大学だ。慶応大に比べ、上場企業役員数や主要企業就職率が低い。志願者数は慶応ほど減ってはいない。7位から12位までは国立大学が並ぶ。10位の九州大学は昨年の15位からジャンプアップ。教育研究充実度と科研費が増えた。志願者数増減率もプラスに転じた。16位の東海大学も順位を大きく上げている。就職率や主要企業就職率が上昇し、上場企業役員数も増えた。志願者数も大幅にアップした。医科系大学も上位に多い。13位の順天堂大学、16位の自治医科大学、24位の北里大学などだ。教育研究充実度に病院経費が含まれていることや、教員1人当たり学生数が少ないことが高順位につながっている。自治医大は教員1人に学生1人という比率だ。公立大学で順位が最も高かったのは18位の高知工科大学だ。教育力の3指標がいずれも改善した。就職率、主要企業就職率ともに大きく向上している。志願者数増減率は昨年より落ちたものの高水準。13年度は460人の募集に対し、5倍超となる2335人が志願している。技術科学系大学も健闘した。22位の長岡技術科学大学は昨年より16ランク上昇、26位の豊橋技術科学大学は21ランク上がった。主要企業向けを含めた就職率の上昇が効いている。それを受けてか、志願者数増減率も改善している。同様の理由で、25位の千葉工業大学、40位の名古屋工業大学などの工業系大学も順位が大きく上昇している。就職に有利な理系大学の活躍が目立つ。昨年105位から今年30位に大きく順位を上げたのは青森中央学院大学。1998年開学の新しい大学で、日本唯一の経営法学部を持つ単科私大だ。就職率が95%超と大きく改善したことで順位が上がった。「世界で戦える日本の大学」ランキング!http://diamond.jp/articles/-/809093位京大、2位東北大、1位は東大ではなく…" ある旧帝国大学の執行部幹部は感情をぶちまけた。「ランキングにね、われわれは強い怒りを感じている。国や政治家連中は、海外のランキングがどんな仕組みかもろくに知らないで、順位が落ちたから日本の研究力が落ちた、教育力が落ちたと騒いで、もっと努力しろと言い放つ。腹立たしいったら」。 この幹部の言うランキングとは、英教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション(THE)」が10月1日に発表した世界大学ランキングのこと。毎年秋に発表されるもので、今年は東京大学が昨年の23位から43位へ、京都大学が昨年の59位から88位へとそれぞれ順位を大きく落とした。 「順位が下がったのは、評価方法が変わったからなんです」。ランキング発表以降、学長に電話して小言を言うOBやら政治家やらへの釈明に追われる羽目に陥った。 ランキングは各大学の教育環境や研究者間の評価、論文の引用数などによって評価されるが、確かに今回順位を下げたのは、評価の算出方法が変わった影響が大きい。 1位は米カリフォルニア工科大学で5年連続。このほか英オックスフォード大学、米スタンフォード大学などが上位を占めており、そもそも英米の大学にいい順位が出やすいランキングという事情もある。 ただ、単年ではなく推移で見ると、アジアの中で日本が勢いを失ってきているのは分かる。今回、東大は5年ぶりに首位から転落。初めてアジア首位となったのは26位のシンガポール国立大学、2位は42位の北京大学だった。 評価の算出方法の変更以前に、英語で書かれた論文数の指標などは、日本の大学の評価が上がりにくい構造があり、大学関係者からの不満は多い。しかし、ひとたび海外の大学と提携交渉などをするとき、あるいは留学生が進学先を検討するとき、彼らがこれらのランキングを尺度として使うことは避けられない。 世界の代表的な大学ランキングには、THEのほか、クアクアレリ・シモンズ(QS)、上海交通大学が公表しているものがある。ただ、これらのランキングには問題がある。一部のトップ大学を除いて日本の個々の大学がどのような状況にあるかをつかみにくいのだ。 そこで、本特集では日本の大学を世界に通じる力で測る「最強大学」のランキングを作成。世界で活躍できる人材を育成する教育体制の実績、世界に通じる研究の実績、グローバル企業への就職実績から総合順位を算出した。教育力、研究力、就職力という三つの力を測る9指標を基に相対評価でランキングを作成した結果、対象124校のトップに輝いたのが理系国立のドン、東京工業大学だ。グローバル企業就職率(調整値)では22.2%を獲得、海外展開を進めるメーカーなどの専門性を生かした就職に強いことが証明された。 2位と3位の僅差となったのが東北大学と京大。いずれも世界に誇る研究力が得点に貢献しており、同様の点で他の旧帝大(北海道大学、東大、名古屋大学、大阪大学、九州大学)も全てベスト10入りした。東大は研究力で抜きんでているものの、他が振るわず7位。私大では9位に慶應、11位に早稲田がランクインした。 注目は「グローバル5」(G5)と称される国際系大学・学部の代表格とされる5大学(国際教養大学、早稲田、国際基督教大学、上智大学、立命館アジア太平洋大学)が全て20位以内に入っている点だ。研究力のない大学が沈む中、教育力で圧倒的な実力を誇る国際教養大は4位に食い込んだ。
2016年02月24日
5、藤三郎、ニューヨークにて藤三郎はニューヨークのアメリカ精製糖会社で一つのエピソードを残しています。藤三郎は出された砂糖をなめただけで、その産地と糖度を正確に言い当てたといいます。藤三郎は、藤山といっしょに会社の事務所の応接室に通されます。社長が技師長を伴ってやってきます。社長は、二、三の会話で、藤三郎が氷砂糖や砂糖の精製法を、独力で工夫してやって来たことを知って、非常に興味を持ちます。そこで、社長は聞きました。「では、原料糖の産地や含有糖分の検定は、どういう方法でやりますか?」「それは、眼で見て、なめてみれば分ります」「えッ眼で見てなめれば分る?本当ですか?」「ハイ、日本人は、うそはつきません。」「これは面白い。それでは、さっそく、それを一つやって見せてもらおう。技師長、すぐその用意をしてくれたまえ。」「社長、そんなことはむだですよ。」「なに君、日本の糖業発達の程度を知っておくのも、むだではなかろう。持って来たまえ」 技師長が、給仕に一つの箱を抱(かか)えさせて帰って来た。その箱の中には、三十種類ほどの砂糖の標本瓶(びん)が入れてある。技師長は、その瓶(びん)を、藤三郎の前のテーブルに一列に並べた。瓶(びん)には、番号を書いた紙が張ってある。技師長は並べ終ると、その標本の産地と糖分量を記入した検糖表を社長に渡した。社長は言った。「さァ、一つやって見てください」 藤三郎は、無造作にいちばん端のビンを取って、中の砂糖をホンの少し手のひらにあけて、ジッと見てからチョットなめ、どこ産で糖分何パーセントという。藤山が、その通りに通訳する。藤三郎は、すぐ次の瓶(びん)の産地と糖分をいう。社長は、黙って聞いている。技師長も、まじめな顔で聞き入っている。九(ここの)つ、十(とお)、・・・誰(だれ)も、何ともいわない。ただ、藤三郎の言葉と、それを通訳する藤山の声が、応接室に響(ひび)くばかりである。藤三郎の実験が、ちょうど中ごろの十五、六まで行ったとき、初めからひと言も出さずに検糖表を見つめていた社長が、「オーライ!」と、ひと声叫ぶなり立ち上がって、その表をテーブルの上において、大げさな感嘆の身振りをした。技師長も、「オオゥ!」と、感嘆した。「どうしたのです?もういいのですか?」「三十のうち十五まで当れば、もうよかろうじゃないか!実に不思議だ、これを見給え」社長が指さした検糖表の上のナンバー1からナンバー15まで産地はもとより含有糖分量も藤三郎の言ったとおりの数字が記入されていた。社長「あなたは、いったい、どうしてこんな不思議な技術を会得されたのですか?」技師長「われわれが精密な検糖機で、精密な検査をして初めて知ることのできるのと同じ結果が、なんの機械も使わずに即座に分るということは、理解ができない。」 藤三郎は、これには何も特別の秘法がある訳ではない。自分は菓子屋の子として育って、四十余年を砂糖のにおいの中で暮らしてきた。精製糖の事業をやるようになってはもとより、氷砂糖でも菓子製造でも、おもな原料は砂糖である。その原料糖に含まれている糖分量の多少を見分けることは、営業の死活に関するほどに大切なことだ。だから、自分は十一歳で、家業の菓子製造に従事し始めたときから、もっぱらこれに心をひそめてきた。しかし、検糖機というような便利な物が、手にはいる時代ではなかったので、どうしても自分の目で見、舌でなめてみて、これを知るよりほかに方法はなかった。長年こうした経験を積んでいるうちに、いつともなく自然に、これらのことが、それだけで正確に分るようになって来たまでだ。自分のこの技術は、秘法はなく、多年の努力と経験の集積の結果なのです。「検糖機で調べることは、もちろん、悪いことではないが、そればかりに頼っていると、機械が狂ったとき発見が遅れて、大変な失敗をする恐れがあります。機械には生命がありません。生命のない機械に、人間が使われるような結果を生じます。このことは、これからの文明国人が、十分に心しなければならないでしょう。」 藤三郎のプロフェッショナルな専門知識・技術を知ることができます。また、現在、日本の職人の伝統技術がクールと賞賛されますが、その先駆けのようなエピソードです。
2016年02月15日
鈴木藤三郎の米欧旅行日記の中で特徴的なのは、アメリカやイギリスでは、日曜日のたびに「例の休日」と記されていることです。できるだけ多く各地の製糖工場等の現場を視察したかった職務専念主義の藤三郎にはどうにもこの「例の休日」が理解ができなかったようです。私の知人が、「これは近代における労働条件向上のためでしょうか」と言われたことがあり、「おそらく安息日を厳格に守るピューリタンの風習がこの時代アメリカやイギリスにはあったのです」とお答えしました。先日(二〇一五年)十一月三日NHKのBS1スペシャルで「武士の娘鉞子とフローレンス」の再放送があり、興味深く見たのですが、長岡藩(ながおかはん)の家老の娘、鉞子(えつこ)がアメリカに結婚のために渡ったのが一八九八年(明治三十一年)で、藤三郎の米欧旅行の翌年です。鉞子はオハイオ州シンシナティに住んでいたのですが、キリスト教の安息日である日曜日の過し方について次のように語っています。「清教徒の流れをひくその村の日曜日は、どことなく私の幼い頃の日本の元日を想わせる安息の日でございました。家々ではこの日は煮炊きをいたしません。土曜日に十分焼いておいたパンと、用意した料理とをいただきます。そうして大概二食でした。服装をととのえて大人たちがこぞって教会へと家を出る頃、日曜学校を終えた子供たちが三々五々足どりも軽く帰って来るのに出会うのも、嬉しいものでございました。」(「『武士の娘』が見たアメリカ」『婦人の友』一九四〇年一月号) 札幌農学校第一期生、第二期生の「イエスを信ずる者の契約(Convent of Believers in Jesus)」に署名したメンバーもクラーク先生がもたらしたピューリタンの安息日を厳格に守ろうと努めました。「契約」には「安息日を覚えてこれを聖く守り、すべて不必要な労働を避け、これをできるかぎり聖書の研究と汝(なんじ)自身及び他人の聖なる生活の準備のために献(ささ)ぐべし。」とあります。藤三郎は、日曜日のたびごとにオペラを見たり、美術館に行ったり、公園を散策したりと時を過ごし当時の米欧の文化的な状況を知ることができるとともに、それが米欧旅行日記を単なる業務日誌を越えた魅力的なものにしています。
2016年02月15日
4、藤三郎、アメリカ大陸鉄道に乗る 藤三郎は八月一二日大陸横断鉄道に乗って、オークデン・ソートレーキシティー、シカゴを経てニューヨークに着いたのが八月二十日です。日記で藤三郎は珍しくその車窓からの景色を詳しくしるし、当時の大陸鉄道の旅を彷彿(ほうふつ)させます。少し原文を読んでみましょう。「ニユーカストル辺(あたり)より地勢漸(ようや)く高くなり、ブロメルゴツトの狭(きょう)路(ろ)より岡巒(こうらん)〔高い台地と山〕重畳(ちょうじょう)峻(けわ)しくて進行頗(すこぶ)る至難(しなん)なり。コルハツキスに達するとき、汽車は傾斜して仰(ぎょう)登(とう)す。谿坡(けいは)を渉(わた)り、橋を越へ、眺望(ちょうぼう)絶佳(ぜっけい)の城に着く。背後は厳嶂(げんしょう)〔きびしい峰〕壁をなし、樹木を負(おい)て嶄(ざん)然(ぜん)〔ひときわ目立つ〕たり。前は深谷(しんこく)洞(とう)然(ぜん)〔ぽっかり〕と窪(くぼ)く、且(かつ)つ其(その)谷底(たにぞこ)に一村落あり。遥(はるか)に豆人(まめひと)寸(すん)馬(ば)を見る。是よりコールドロン村を過ぐ、此(この)辺(あたり)には谷間より渓(けい)水(すい)を引き金(きん)砂(さ)を淘(とう)する桶(おけ)を処々(しょしょ)に観(み)る。ドツチユルラツト村を経(へ)てヲルタに至るも、各家皆、採金家にして亦(また)桶(おけ)の仕掛(しか)けあり。是(これ)即(すなわ)ち世界三大金鉱の一つなりと云(い)ふ。偖(さ)て列車は険(けん)を走せサデールンに登りしが、峻坂(しゅんぱん)〔険しい坂〕倍々(ますます)急なり、機関車を増して三となし、サデール・チウナリングの両高山前後を塞(ふさ)ぎて聳(そび)へ立ち、険峻(けんしゅん)最も極まれり。此(こ)辺(こ)よりは鉄道は雪覆(せつふく)の設(もうけ)あり。其(それ)よりウエストボーターの隧道(トンネル)を抜け、スシツト村に着したり。此(この)駅はシーラネヴアタ山脈の絶頂にして、海面を抜(ぬ)くこと七千〇十七尺〔約二千メートル〕なりと云(い)ふ。峰巒(ほうらん)波を成し、此(この)地に一宇(う) [一棟の家]を建設して列車を寄す。」 ゴールドラッシュのなごりもあり、当時の大陸横断鉄道の旅の貴重な記録です。横断旅行中の汽車の中のエピソードが「風聞百話」に載っています。アメリカで長旅の上等汽車に乗っているとき、藤三郎がカバンを車の中央に置いたところ、同乗のアメリカ人婦人がそのカバンの上に腰かけて同行の婦人とおしゃべりした。藤三郎は怒ってうしろからカバンを引くと、婦人は腰をとられ転んだ。婦人は真っ赤になって怒り、食ってかかり、藤三郎も日本語で言い返す。同乗の藤山治一は、この男はクレージーだからと仲裁し、事をおさめ、藤三郎に聞きました。「君はなぜ、あんなバカなことをしたのかね」「カバンの中には、母から貰った大事な守り札が入れてある。これを女の尻(しり)に敷(し)かれるは忍ばんと欲して忍ぶことができなかった」藤三郎の人生を通して感じるのは、養母ちえを大切にするところです。これは生母ちえの涙の教えにあったと思われます。藤三郎の実父の太田文四郎が亡くなった後、家を継いだ長男がなくなるという不幸が続きました。そのときに、菩提寺(ぼだいじ)の和尚(おしょう)が心配して実家にやってきて、生母にこう言いました。「おちえさん、ご主人に引続いてご長男がなくなって、家を継ぐ者がなくなって、さぞ心細いことでしょう。私が口を聞いて、次男の才助を実家に戻すようとり計らいましょうか」「和尚(おしょう)さん、何ということをおっしゃるのか。女が迷いごとでそんなことを言ったら、たしなめるのがお坊さんの仕事ではありませんか」「あなたの言うとおりだ」と、和尚さんは引き下がったそうです。生母ちえは藤三郎を呼んで、事の次第を話して、養母のやすに親孝行を尽すように涙ながらに訓戒したといいます。
2016年02月14日
3 藤三郎、サンフランシスコに上陸する 七月二十四日にサンフランシスコに到着し、同地の製糖王スクリプルス経営の精製糖工場を見学し、規模の壮大さに驚嘆しています。「この気(き)罐(かん)は一釜に白糖四十トンを製造し、また三時間で結晶するという。一昼夜に製造高六百トン。また石炭は一昼夜百七十トンを消費せりという。また工場は十階一棟、附属(ふぞく)倉庫数棟(すうとう)は三、四階建なり。スクリツプル工場はサンフランシスコ南隅(なんぐう)海岸にして船便(ふなびん)最もよし。しかのみならず工場側に市内に通ずる鉄道を設け、製糖をこれより各地に運搬す。その規模の盛大なること実に一驚(いっきょう)せり。」 ここにスクリプルスとは、クラウス・スプレツケルス(Claus Spreckels)という人物で、その経歴は興味深いものがあります。彼はドイツ人で、一八二六年ハノーバーに生まれました。彼は一八歳の時アメリカへ移住します。彼はある食料品店に雇われて、その後ニューヨークに出てチャンスを求めました。当時、 サンフランシスコは金鉱が発見されゴールドラッシュで沸いていました。彼はこの機運に乗じ、まず食料品店を開き、ついで醸造事業を起し、資産家となります。彼は東部の資本家が精糖事業によって莫大(ばくだい)な利益を得ていたことを知り、西部もまた砂糖の需用が必ず増加するであろうと見込みました。彼は視察と準備のため、再びニューヨークにおもむいて、事業を研究し、器械を購入して、サンフランシスコに「ベイ・シュガー・レフワイナリー(海湾精糖所)」を設立しました。十年ほどすると彼は西部における産業界の一勢力となりましたが、彼の大志(アンビシャス)はこのような小成をもって満足しません。彼は成功の途上にある海湾精糖所を売り払って、ドイツのマグデベルグの精糖所で一職工として働き、最新の製糖技術を修得します。一年後、彼はサンフランシスコに帰り、「カルフォルニア・シュガー・レフワイナリー」という一大精糖所を設立します。精良な機械、新しい製造方法で、他の精糖所が三週間を費やし製造するのを、わずか二十四時間で精製し、世人を『おそるべき人である』と驚かせました。「カルフォルニア精糖所」は西部の精糖所を席巻し、東部の精糖界と対抗するに至ります。東部は精糖トラストを組織し西部をも併せ呑もうとし、まずカルフォルニアにあるアメリカ精糖会社を買収し、スプレツケルスと競争させます。トラストは東部で得た利益を西部に回し、砂糖を非常な廉価で販売します。彼はこれに応戦し、トラストの中心地であるフィラデルフィアに世界第一の精糖所を設立し、その規模の広大、器械の精良、品質の佳良をもって決戦四年、ついにトラストは彼と講話を結びに至ります。さらに一八七六年、アメリカ・ハワイ互恵条約が締結されると、彼はマウイ島に世界第一のサトウキビ栽培地を整備します。このようにして、スプレツケルスは「製糖王」と称されるに至ったのです。 また鈴木藤三郎は、ワグネル機械製造所において、製粉機械などの購入の契約をしています。これは、日本精製糖株式会社の創設者の一人であり、また同年創立された日本製粉会社の重役である村上太三郎氏から、出発に際して同社の機械買入を依頼されていたことによるものです。
2016年02月14日
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