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もうすっかり年末ですね。12月18日サントリーホールのデプリースト/都響のブルックナーの7番が、僕の今年の最後のコンサートでした。このコンサートが終わった途端、もう風邪をひいてもいいやと気がゆるんだのでしょうか、風邪をひき、ぜこぜこしながらなんとか12月の仕事を慌ただしく片づけていたら、もうあっという間に年末です。今年行ったコンサートを振り返ってまとめてみようと思います。まずは2009年のマーラーのコンサート。()内はブログ記事の日付です。---------------------------------------------------------------------1番 シャイー/ゲバントハウス 10月27日 サントリーホール2番 西本/東響 3月12日 所沢ミューズアークホール3番 三河/小田原フィル 11月 8日 小田原市民会館 (11/ 9) 井上道義/OEK&NJP 11月28日 石川県立音楽堂 (12/ 6) 同上 11月29日 富山オーバードホール (12/10)5番 大植/大フィル 2月17日 サントリーホール ( 2/22) ティルソン・トーマス/PMF 7月29日 サントリーホール ( 7/31) 高関/読響 8月26日 サントリーホール ( 8/30)6番 ハイティンク/シカゴ響 2月 1日 サントリーホール レック/東響 6月13日 サントリーホール ( 7/ 8) 井上喜惟/JMO 7月12日 ミューザ川崎 ( 7/13)9番 アルミンク/新日フィル 6月16日 サントリーホール 大植/ハノーファーNDR 6月21日 シンフォニーホール ( 6/21) 同上 6月26日 静岡グランシップ ( 6/27) 同上 6月28日 サントリーホール ( 6/28)リュッケルトの詩による5つの歌曲:藤村実穂子(メゾ) 3月 3日 紀尾井ホール---------------------------------------------------------------------丁度去年の年末頃には、「2009年は、来る2010-11年の連続マーラーアニヴァーサリーイヤーの前年だから、各オケはマーラーをある程度控えるのではないか、だとしたらあまり期待できない年になりそうだなぁ、まぁ2010年まで忍耐の年かなぁ」と思っていました。しかしうれしい大誤算でした。今年はなんといっても大植さんのふたつのマーラー、5番と9番を聴けたこと、これに尽きます。魂を揺さぶられた、究極のマーラー体験でした。生きていて良かった。2010-11年のマーラーイヤーにも、これほどのマーラーは聴けないだろう、と思います。おまけに、昨年に続き今年も聴けないだろうとあきらめていた3番が、秋にうれしくも3連続で聴けました。しかも三河/小田原フィルが、すばらしい名演でした。ハイティンク/シカゴの6番は、オケが大味で、それほどの感銘は受けませんでしたが、カウベルを吊って静かに叩かせたのは秀逸でした。(7/8の記事参照。)あとレック、井上喜惟の6番もそれぞれ味わいあって充実した演奏でした。それから、藤村実穂子さんのリサイタルをブログに書きそびれたのでちょっと触れておきます。「ドイツ・ロマン派の心をうたう」というテーマで、シューベルト、ワーグナー、R.シュトラウス、マーラーというプログラムで、マーラーのみならず全て、すばらしい歌を聴かせてくれました。藤村さんが自ら訳した歌詞をプログラムと一緒に配るという気合の入りようでした。ただ、「Ich bin der Welt ・・・」は、もう少しゆったりとしていたらさらに浸れた、と思いました。こうしてみると僕にとって、2009年のマーラーは大々豊作の年でした。来年はどんなマーラーが聴けるのでしょうか。
2009.12.28
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北陸3番ツアー、11月28日土曜日はそのまま金沢に一泊し、翌29日、金沢から特急に乗り、40分ほどで難なく富山駅に到着しました。きょうの会場は富山駅前のオーバードホールです。ここを訪れるのは初めてです。事前にネットでホール内部の写真を見てみたら、古い市民会館のホールのような雰囲気でした。しかし来てみると全然違っていて、新しくてきれいで、本格的な音楽ホールだったので驚きました。ホールの奥行きは短く、2,3,4階とも舞台からあまり遠くなく、残響もどちらかというと短めの方で、オペラなどに適したホールという印象を持ちました。ただし舞台は小さめでした。僕は1階平土間のセンター、やや前よりに座りました。開演前には、昨日と違って事務局の方々は登場せず、赤いジャケットを着た井上道義氏が出てきて、曲目解説その他のプレ・トークをしてくれました。その中で合唱団の配置についても説明がありました。本日は舞台が狭くて合唱団が乗るスペースがないので、客席を使います、ということでした。井上氏の声かけに従って左右の客席を見ると、なるほど、2階、3階、4階の左右のブロック全部に、お客さんをまったく入れていません。そしてそれら6つのブロックには、それぞれ最前列だけに、女声合唱の団員がずらりと並んで座っています。これはなかなか壮観です!井上氏は続けて児童合唱の配置についても披露してくれました。4階のセンターブロックに、児童合唱団員が、横にずらっと並ぶ予定だということです!まだ入場していないということでしたが、振り返って下から見上げてみると、4階のセンターブロックは高く、そして結構幅が広く、あそこにずらっと並ぶのはすごいだろうなぁ、とびっくりしました。いやぁこれは、すごく贅沢な配置です!お客さんは1階席全部と、2,3階のセンターブロックだけに入れて、残りの広大な部分(2,3階の左右の席すべてと、4階席すべて)を全部合唱団に割り振っているわけです。この配置で歌ったら、歌声で会場全体を包みこむような効果が期待できそうです。ただ残念なのは、きょうもチューブラー・ベルは舞台上でした。もしこれでベルを児童合唱と同じ高い位置におけば、合唱関連の配置に関する限りでは史上空前の最強の布陣と言って良いでしょう。また、合唱団は舞台に乗らないわけですから、きのうのように第三楽章の演奏中に合唱団が舞台にぞろぞろはいってくることはない、ということがわかって、とっても安心しました。井上氏はさらに、第一楽章と第二楽章の間で、オケの奏者の席がOEKとNJPのメンバーでオモテとウラが替わるということも、身振りを交えてわかりやすく話されていました。これなら聴衆も安心して聴けるというものです。井上氏が引っ込み、オケが出てきて、着替えた井上氏が登場し、ついに演奏が始まりました。きのうと同じで、オケはなかなか良く鳴っています。今日は僕の席はほぼセンターの前よりだったので、ヴァイオリンの両翼配置の効果をかなり実感できました。第一・第二のヴァイオリンが掛け合うフレーズがかなり多いので、やはり両翼配置でこそマーラーの意図が良く現せるなぁ、マーラーは両翼配置が絶対いいなぁと、あらためて思いました。第三楽章、きのうかなり不調だったポストホルンは、きょうはまずまずの演奏を聴かせてくれて、ほっとしました。そしてきのう悪夢のような合唱団入場があったホルンとトロンボーンの斉奏の箇所は、本日は独唱者だけが舞台下手から出てきて、舞台一番奥の中央に立つという方法がとられていました。昨日に比べればずっとましですが、それでもやっぱり、ここでの独唱者の入場はありえない選択だと、僕は思います。ここの音楽をもっと尊重してほしいです。(かつてこの箇所で独唱者を入場させる演奏に遭遇したことは2回あります。1994年のインバル/都響と、2005年のチョンミュンフン/東京フィルの文京シビックホールでの演奏でした、特にインバルのときは初めてだったので、僕は大きなショックを受けました。このときのインバルの演奏については、いずれまた別の機会に書こうと思います。)合唱団を起立させるタイミングは、第四楽章の演奏中で、楽章が終わる直前でした。井上氏はそこで客席側を振り向いて、合唱団を起立させる合図をしました。このタイミングは昨日と同じでした。第五楽章は、合唱団の立体的配置がやはり音響的に非常に優れた効果をあげていました。ちょうど僕の席がいい位置だったこともあり、正面の舞台の方を向いて聴いていると、左右~後ろの上方から、合唱に包み込まれるような、すばらしい体験でした。ただしきのうと同じ「Bi--mm、Ba--mm」の発音は大いに残念。。。ところで、きのうの金沢公演について書き落としたことが一つあります。声楽陣の座るタイミングです。多くの演奏では、第六楽章が始まって少しして、ある程度音量的に盛り上がったところで、声楽陣全員が座ります。シャイーとか先日の三河/小田原フィルとか、指揮者によってはすばらしい工夫をして、音楽の流れをさらに損なわない他のタイミングで着席させることがあります。さてきのうの金沢公演では、第五楽章で歌った声楽陣全員(独唱、女声合唱、児童合唱すべて)が、終楽章が始まってもそのまま立ちっぱなしで、曲の最後まで立ちっぱなしでした。これは異例のことです。井上氏が合図をし忘れたのか、それともそういう意図だったのか?まったくの想像ですが、前者のような気がします、だって入場や起立のタイミングから考えて、わざわざ最後まで意図的に立たせておくほど、井上氏が着席に関して神経を使っているようには思えないからです(失礼でしたらごめんなさい)。でも実際のところどうなのかは、わかりません。きょうの富山はどうしたかというと、合唱団については僕の視野の外なので、わかりません。(着席のタイミングを確認するために左右や後ろを見るつもりは全くありませんから。)従って僕のわかったのは舞台中央奥の独唱者のことだけです。これ、お世辞にもいい着席とは言えませんでした。普通は、さきほども書いたように、終楽章が始まってしばらくしてから座ります。第五楽章の最後の音が静かに消えていき、ごく短い静寂のあと、弦の主題が静かに歌われ始めるところ、とても大事なところですよね。ですので弦の主題がしばらく歌われて、ある程度経過したところで座る、というのがまぁ常識的な座り方です。しかし今回の独唱者は、終楽章が始まるやいなや、すぐに、本当にすぐに、着席したのです、しかもあろうことか、椅子を動かす音が、小さからぬ音で響いてしまいました。この無神経さにがっかりです。これもまったくの推測ですが、独唱者は、井上氏がきのう合図を忘れて最後まで座れなかったので、きょうはさっさと自分で座ってしまおうと思ったのでしょうか(^^;)?終楽章の演奏そのものは、きのうと同様、良かったです。盛大な拍手・歓声がひとしきりあったあと、井上氏が手をあげて会場を静め、話し始めました。「金沢・富山の未来を担うこどもたち!」(良く覚えてないので違った言葉だったかもしれません。)と言って、4階席センターの児童合唱団を讃えました。会場は盛大な拍手。井上さん、また拍手を鎮めて、「そして金沢・富山の・・・」ここでちょっと言い澱んだあと、ちょっと照れ笑いしながら「・・・おかあさんたち!」と言って、今度は2,3,4階のサイドの女声合唱団を讃えます。また盛大な拍手。同じようにオケを讃えたあと、またまた拍手を鎮めました。今度は自分自身の指揮のことをいうのかと思ったら、大きく片膝をついて客席に両手を差し出しながら、「そして何よりも、お客様!!」またまた盛大な拍手。井上道義、役者ですね。これでお開きとなりました。井上氏はきっと、このOEK&NJPの合同演奏会を、一大イベント、お祭り的な感じで実行したのだろうと思います。そしてそれはそれで意味が大きいことだと思います。ですのであんまり細かなことにぶつくさ不満を述べるのも野暮というものですね。いろいろありましたが、それなりにおもしろい北陸3番ツアーでした。ありがとう。おしまい。
2009.12.10
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11月28~29日の週末、北陸にマーラー3番を聴きにいってきました。岩城さんのあとオーケストラアンサンブル金沢(OEK)の音楽監督をやっている井上道義氏の仕掛けにより、OEKと新日フィル(NJP)の合同演奏会という形でマーラー3番が金沢と富山で演奏されるというのです。そこで3番馬鹿ぶりを発揮して、なんとかスケジュールをやりくりして、北陸3番ツアーに出掛けてしまいました。(それにしても先日の小田原フィルは約2年振りの3番演奏会だったのに、それからわずか3週間後に北陸での2公演です。続くときは続くものですね。うれしいけど、もうちっと分散してくれて、間があんまりあかない方が、なおうれしいです。)指揮:井上道義メゾ・ソプラノ:バーナデット・キューレン管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団(NJP)、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)女声合唱:金沢・富山マーラー特別合唱団児童合唱:OEKエンジェルコーラス、AUBADEジュニア・コーラス28日土曜日は金沢で15時開演です。東京を朝出発し、上越新幹線、特急はくたかと乗り継ぎ、はくたか車内で「ます寿司弁当」(写真)を美味しく食べて腹ごしらえも万全で、予定通り金沢駅に到着しました。駅の目の前にどっしり鎮座しているのが石川県立音楽堂です。ここに初めて来たのは忘れもしない2002年秋、シャイー&コンセルトヘボウのマーラー3番のときでした。大ホールとしてはやや小ぶりで、良く響くホールで、コンセルトヘボウは実に良い鳴りっぷりで、あたたかな極上の3番に酔ったひとときでした。恥ずかしながら、そのときひそかに自分が詠んだ一句です。秋ふかし オケが鳴るなり 音楽堂お粗末。ところで確かこのときは平日の夜の公演でした。午前中仕事をして、午後東京を発ち、夕方金沢入りしてコンサートを聴き、そのあと夜行寝台列車に乗り東京に朝到着し、そのまま仕事に行くという強行軍でした。コンサートのみならず、もう今は廃止されてしまった寝台列車の旅も懐かしく思い出します。・・・あれから7年ぶり、3番を聴くためにふたたび金沢の地に降り立った感慨に浸りながら、ホールに入りました。開演前にはOEKとNJPの事務局のかたが舞台に出てきて、合同演奏会の説明をし、事業仕分けでオーケストラ関連の予算が縮小されることに反対するメールを是非送ってください、という切実な依頼もありました。続いてオケが入場です。コンマスはOEKのマイケル・ダウスさんという方で、トップサイドにはNJPのソロコンサートマスターの崔文洙(チェ・ムンス)さんが座りました。ヴァイオリンは両翼配置で、期待が高まります。コントラバスは8本で、上手に配置されてました。演奏は、冒頭のホルンからパワーが充満していて、元気ある第一楽章でした。コンマスのソロは少しひかえめの感じでした。第一楽章が終わったところでちょっとしたサプライズがありました。コンマスとトップサイドが席を入れ替わったのです。そればかりか、大半の弦の各プルトも、左右の席、つまりオモテとウラが一斉に入れ替わりました!管楽器も、多くのパートでごそごそと席の入れ替わりがありました。あとでわかったことですが、これはOEKとNJPのメンバーが入れ替わったのでした。コンマスはじめ弦楽器奏者のオモテと、各種の管楽器の1番奏者を、第一楽章ではOEKが担当し、第二楽章以下ではNJPが担当したというわけです。合同演奏会なのでどちらも平等に、という趣旨なんですね。もっとも、入れ替わった時には聴衆の側としては何がどうなったのかわからないので、このあともしかして楽章毎に毎回入れ替わるのかなぁ、だとしたら落ち着かないなぁ、などいろいろ心配しながら聴くという、ちょっとドキドキの(^^;)聴体験でした。(あとでプログラムを良くみたら、ちゃんと「第1楽章はOEK、第2楽章以降はNJPが第一パートを演奏いたします」と断り書きが書かれていました。)第三楽章は、ポストホルンがかなり不調で、少々興がそがれました。しかし、それよりも巨大な驚きが、第三楽章最後近くに待っていたのでした。第三楽章の最後近く、ポストホルンが遠くに消え去っていったあと、にわかに盛り上がっていき、ホルンとトロンボーンの深々とした斉奏が現れる楽節(練習番号30,31)がありますね。この楽節の始まりのところで、急に舞台横のドアが開けられたのです。それを見た瞬間、僕の胸中に不吉な思いがざわめき起こりました。まさか、それだけはやめて、という思いもむなしく、その不吉な予感が的中してしまいました。ホルンとトロンボーンが斉奏しているまさにその場面で、合唱団が続々と入場しはじめてきたのです!女声合唱団は舞台上の一番後ろに、児童合唱団はステージの後方の高いところにあるパイプオルガンの前のスペースに、続々と入場して来ます。そして女声合唱団に混ざって独唱者も入場してきました。第三楽章の最後で音量が大きく盛り上っている頃には、独唱者は舞台の奥の中央に立ってスタンバイし、合唱団はそろって着席しました。この結果、第三楽章が終わったときには、声楽陣はすべてしかるべき位置に入場し終わり、そのまますぐに第四楽章が開始できる準備が整っていたというわけです。しかも独唱者が入場するときに拍手が湧き起こる事態を回避できる、というメリットもあるわけです。井上道義氏は、そういったメリットを生かそうとしてか、第三楽章と第四楽章の間でほとんど間合いを取らず、ほぼアタッカで第四楽章を開始しました。この曲の演奏において、合唱団や独唱者の入場のタイミングや、起立・着席のタイミングは、小田原フィルのところでも少し書いたように、指揮者のいろいろな工夫や考え方がみえて、興味深いところです。今回の井上氏のとった方法は、実に大胆不敵ともいうべき、なんと第三楽章の演奏中に全声楽陣を入場させてしまう、という方法でした。このような方法に遭遇したのは初めてです。(ごく稀に、似た方法は目撃しましたが、全声楽陣というのは初めてです。)そしてこの方法は、僕としては非常に不満です。これでは音楽が、台無しです。音楽から視覚的なイメージが喚起されることは僕は少ないんですけれど、この第三楽章最後近くのホルンとトロンボーンの斉奏については、なんとなくイメージが湧いてきます。夢見るように美しいポストホルンが遠くに去って消えていったあと、晴れた夏の午後のひとときに、山の動物たちが心地よくまどろみながら夢の続きに浸っていると、急に青い空に雲がわきおこり、一陣の風とともに、神といっていいのでしょうか、大いなる存在が突然に立ち現れ、その超越性、偉大性を示しつつ、動物たちが驚いて見あげている中、青い空の遥か彼方に飛び去っていく。。。そういったイメージです。この曲は、この斉奏をきっかけとして、それまでの岩山や夏の行進や野の花や動物たちといった自然そのものが中心の世界から、夜や天使や愛といったより抽象的概念的思索的な世界に、主たる座が移ります。聴き手の魂もまた、この斉奏に導かれ、一段と深いというか高いというか、新たな領域に運ばれて、いよいよこのあとの音楽世界に浸っていくことになります。この斉奏は、そのような高みの世界への転回点というか、架け橋というか、とても重要な役割を担っていると思うんです。そして僕はそのような意味を顕し示してくれる演奏に立ち会えたときに、感動します。このとても大事な斉奏の意味を感じ取っている指揮者なら、この斉奏が鳴り響いているときに、ここで人をぞろぞろと入場させるようなことは決してしないだろう、と僕は思います。しかも、井上氏がそこまでしてこだわった第三楽章と第四楽章のアタッカは、そもそもスコアには指定されていません。スコアの指定は第四、第五、第六楽章をアタッカで、となっているだけです。一番肝心な音楽の意味を犠牲にしてまで、スコアに指定されてないアタッカにこだわる必要性は、全くないと思うんです。もちろん、第三楽章と第四楽章をアタッカでやること自体は、ちっとも悪いことではないです。しかしそうしたいのであれば、第三楽章が始まるよりも前に、あらかじめ合唱団をいれておくべきです。実際シャイー&コンセルトヘボウはそうしていました。そこまではやりたくないというのであれば、普通に第三楽章が終わってから、合唱団を入場させればすむことです。何度も言いますが音楽が鳴っているときに、しかもとても重要な意味を持つ音楽が響いているときに、ぞろぞろと入場させるというのは、無神経すぎると思います。。。とても残念です。ついむきになって書いてしまいました。先に進みましょう。ともかくもそのようにして第四楽章が始まりました。やおらメゾ・ソプラノの歌唱が始まりました。しかしやっぱり、ここはメゾ・ソプラノでは声質が高すぎます。アルトの声質の方が曲想にあっていると思います。これもちと残念。第五楽章。舞台後方、パイプオルガンのある高いところに陣取った児童合唱が、歌い始めます。高いところというのはとっても良いことです。けれど惜しむらくは、チューブラー・ベルが舞台上だったことです。児童合唱団を折角高いところに配置しているのに、どうしてベルを児童合唱のそばに配置しないのでしょうか。。。スコアで第五楽章の最初のページを見ると、ベルの段(一段)のすぐ下に児童合唱の段(二段)があり、その合計三段を縦につなぐようにはっきりと、「高いところで」と書いてあるのです。見落としようもないくらいはっきり書かれています。しかもベルの音の多くは児童合唱と同音なのですから、ベルと児童合唱を離れたところに置くのはあまり賢い選択とは思えません。どうせ児童合唱団を高く配置するのなら、ベルも一緒に高くして、児童合唱のそばに配置してほしいです。やろうと思えば困難なことではないと思うのですが。。。それからもうひとつ、児童合唱で残念だったことがあります。普通は「Bimm--、Bamm--」と「mm」の部分を長く伸ばして歌われます。しかし今回は、「Bi--mm、Ba--mm」と、母音の部分を長く伸ばして歌っていて、間延びした感じで、聴いていてかなり違和感がありました。これでは鐘の音らしく響きません。。。なんと、あとでスコアを見たら、このこともちゃんと、第五楽章の最初のページに、書かれてありました!今回はじめて発見したのですが、児童合唱の段のはじめのところに、「M」を長く響かせよ、と書いてあるんです。(僕のドイツ語はかなり怪しいので、はっきりしたニュアンスまではわからないですけど、そんなようなことが書いてあると思われます。ドイツ語の堪能なかた、正確な意味を教えていただければ嬉しいです。)これを見て、そうかそうか、だから今回の児童合唱には違和感を覚えたんだと、とても納得しました。というわけで、声楽陣に関連することでは、正直いってかなり不満を感じた演奏でした。それにつけても改めて思うのは、先日の三河氏/小田原フィルの3番の素晴らしさです。声楽陣に関してみても、ここに書いたことをすべて完全にクリアし、しかも輝きがありました。今回小田原の3番の直後だったために、それとの落差の大きさが目立ってしまいました。ちょっと僕が欲張りすぎかもしれないです。。。第六楽章は、良かったです。崔文洙さんの濃いソロも素敵です。あ~やっぱりこの曲は素晴らしいなぁと思いながら聴きました。(それでもやっぱり、小田原フィルの感動にはかないませんでしたが。。。)演奏が終わって、拍手にこたえていろいろな奏者を立たせるときに、井上氏が「新日フィル!」と言うと、ざざっと弦のオモテの人たちが立ち、続いて井上氏の「オーケストラアンサンブル金沢!」の声に、今度はざざっと弦のウラの人たちが立って、なるほどそういうことだったのね、と先程の座席交代の意味がはじめてわかった次第です。なにはともあれ、3番を聴けた喜びは、いいものです。明日の日曜日は富山に移動して、もう一度3番を聴きます。また項を改めて書きます。
2009.12.06
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小田原フィルハーモニー交響楽団によるマーラーの交響曲第3番を聴きました。11月8日、小田原市民会館大ホール。 指揮 三河正典 アルト独唱 菅 有実子 児童合唱 南足柄ジュニア・コーラス 女声合唱 小田原フィルハーモニー交響楽団第100回定期演奏会記念合唱団 (協力:東京音楽大学 VOCE・SONARE) 管弦楽 小田原フィルハーモニー交響楽団聴きにきて良かったです。指揮三河氏の棒のもと、皆が一体となって歌い上げたすばらしい音楽に浸り、心打たれました。僕はマーラー作品なら全て好きですが、なかんずく偏愛しているのがこの3番です。3番の演奏会にはできるだけ聴きに行くようにしています。近年3番の演奏頻度が増えてきて、来日する海外オケ、国内のプロオケ、アマオケで、随分取り上げられるようになってきました。しかしこのところちょっと3番演奏会が途絶えていました。今回、友人から小田原フィルというオケが3番をやる、という貴重な情報を得て、矢も盾もたまらず、小田原フィルがどんなオケかは知らずとも、ともかく小田原に駆けつけることにしたのです。僕にとって約2年振りとなる、久々の3番演奏会です。この日はいいお天気で、東京から約2時間、電車にごとごと揺られ、心地よくまどろみながら、小田原駅に到着しました。駅から市民会館までの道を地図を頼りに歩いて行くと、秋空にそびえ立つ小田原城天守閣がだんだん近づいてきて、やがて紅葉の始まった桜並木が並ぶお堀ばたに来ました。風情ある景観に、この街の歴史と伝統がにじみ出ています。目指す小田原市民会館は、お堀からすぐでした。当日券を買って入場しました。会場は1階と2階の席からなる収容千数百人のホールです。1階席に座ってプログラムを見ると、「第100回記念定期演奏会」とあります!50年の歴史あるアマオケが、年2回の定期演奏会を積み重ねてきて、今回はその100回の記念演奏会、その節目にマーラー3番ということのようです。これは相当気合がはいった演奏になるだろう、と期待が高まりました。プログラムの曲目解説(トロンボーンパートの4人の共著)がとても楽しく読めます。またプログラムにはさみこまれた4ページにわたる「はみだし解説」が、調性の分析などマニアックで説得力があり、かつウィットにも富んでいて、とてもためになる解説でした。これを書いた方(チェロ奏者?)、相当なマーレリアンに違いありません。プログラムには親切にステージの楽器配置図もあって、とてもわかりやすいです。それによると、女声合唱とアルト独唱はステージ上の下手側です。あとユニークなのは、児童合唱は2階席のエプロンボックスを使用する、と記載されているではありませんか!振り返って2階席を見上げると、なるほど舞台に向かって左前方の客席に児童合唱団用とおぼしきスペースがあり、そのそばにチューブラーベルも設置されています。これはいい配置です。一段と期待が高まります。この曲のスコアには、鐘と児童合唱とアルト独唱と女声合唱は高いところで、と指定されていますが、それが守られないことが多いです。たとえばサントリーホールでのP席など、ステージの後方に客席があるホールでは、そこに合唱団を配置することで高い位置にすることは良くありますが、そのような座席がないホールでは、ほとんどステージの上を使うことになります。今回、ステージが狭くて全員が乗り切れないという事情があるにせよ、女声合唱はステージ上にして、あえて児童合唱とベルだけを2階席という高いところに配置するというのは、天上からきこえる天使の歌というイメージにあった、すばらしい方法です。指揮者のこだわりなのでしょう。このような児童合唱の配置はかつて一度だけ、1999年12月のすみだトリフォニーホールでの井上道義/新日フィルの演奏会で遭遇したことがあります。このとき井上道義氏は、ホール客席の左側のすごく高いところにある通路のようなところに児童合唱団を配置して、児童合唱が上から降り注ぐようにして、すばらしい効果をあげていました。今回も、それと同様な配置なのですから、相当期待ができそうです。さて開演時間が近づくにつれ、会場はほぼ満席に近くなるという盛況ぶりです。そして開演を告げるアナウンス。このアナウンスも良かったです。携帯電話ほかの通常の注意点をアナウンスしたあと、「楽章間の拍手はご遠慮ください」とはっきり放送していたのです。この曲、途中にアルト独唱が入場してくるときに、どうしても拍手が自然発生しそうになります。指揮者によってはあの手この手で避けようとするのですが、なるほどこういうアナウンスは正攻法ですね。ある程度の効果が期待できるかもしれません。やがてオケが入場。ステージ一杯に、ハープ2台、コントラバス8台を含む大オケがぎっしりと並びました。念入りなチューニングのあと、体格の大きな指揮者三河正典氏が登場し、演奏が始まりました。第1楽章は、やや速めのテンポで、輪郭のきっちりした引き締まった演奏です。第1楽章からすでにかなり楽器が鳴り、いい音がでています。アマオケとして相当すばらしい音です!特に打楽器がしっかりしていて、結構強い音でもうるさくなく響いていることがすごいです。第2楽章は、第1楽章の疲れが出たのか、ちょっと精彩を欠いた感じがしましたが、第3楽章はふたたびいい演奏でした。舞台裏のポストホルンもとても頑張っていて、高い音への跳躍の難所をことごとく決めていました。第3楽章が終わったところで、女声合唱とアルト独唱が入場し、舞台下手に並んだ椅子に着席しました。(児童合唱は見ていないけれど、ここで同時に2階席に入場したのでしょうか。)さきほどのアナウンスの効果で、アルト独唱の際に拍手は全く起こりませんでした。やはりここで拍手が起こらないのは音楽の流れから気持ちがそがれず、ここち良いものです。そしてここから演奏された第4、第5、第6楽章が、心を打たれるすばらしい名演でした。第4楽章、アルトの声質が深くで、曲想にあっていて、とても良かったです。第4楽章が静寂のなかに消えていき、引き続いて第5楽章の冒頭です。児童合唱と鐘の「ビン・バン」が、実に鮮やなこと!僕は1階席でしたので、児童合唱と鐘(この鐘が強めにしっかり叩かれ、それがまたとてもいい音色です)が高いところから降り注いでくる感じで、その響きの美しさに包まれて、しばしぼーっとしてしまいました。第5楽章の最後、女声合唱を座らせるタイミングにも、指揮者三河氏の工夫がうかがえました。第5楽章の終わる少し前、2小節ほどの休みがある間にさっとすばやく座らせ、そのあとの部分は座って歌わせたのです。これは2002年のシャイー/コンセルトヘボウの来日公演のときと同じで、最善のタイミングと思います。こうすれば、その後はずっと座ったままでいられるので、第5楽章から第6楽章へのアタッカの静寂の緊張を妨げないし、第6楽章の音楽の流れも妨げないですむからです。しかしこの方法は、これまで僕が接してきた3番演奏では、シャイーの他にはお目にかかったことがありません。その稀有な方法を、三河さんは実行したのです、すばらしいこだわりです。こういった細部のこだわり、それから何といってもここまでの演奏自体の素晴らしさ、それらの効果で、第5楽章の最後の音が消えてから第6楽章が始まるまでの間(三河氏はここで指揮棒を構えたまま3~4秒くらいはじっと動かず、割合に長めの間合いをとりました)、会場からは咳一つ出ず、しんとしずまりかえり、その緊張感は相当なものでした。聴衆には小さな子供も少なからずいたのに、その全員をひきこんで、緊張感の張り詰めた静寂を実現してしまう、それほどの力がこの演奏にあったということです。そして、第6楽章。驚異的な名演でした。弦の深い祈り、木管の情感、ときおりやってくるホルンとティンパニーの雷鳴の厳かな咆哮、これらすべてが有機的に結びつき、呼応しあい、音楽はどんどん高みに上っていきます。なんというか、優しさと、厳しさが、高次元で融合しているんです、すごいです。そしてとうとう最後近くの金管コラール。ここは安全を優先してテンポを速めにして通過してしまったり(大植さん/大フィルでさえそうでした)、あるいはプロでもトランペットの高い音をはずしたり抜け落ちたりすることが少なくない超難所です。三河氏は、妥協のないゆったりとしたテンポですすみ、それに一番トランペットを初めとする金管隊がみごとにこたえ、静かなコラールをきっちり歌ってくれました。そこから、いよいよ盛り上がっていって、最後に主題を高らかに合奏する箇所に来ました。ここでテンポを速めてしまう演奏が少なくありませんが、三河氏は、ここも充分にゆったりと、悠然と進んでいきます。その結果生ずる崇高なまでのスケール感。大感動です。そして、さきほどコラールをしっとりと歌ったトランペット隊が、ここで(練習番号30)パワーをついに全開にします。なんと輝かしく力溢れ、高貴なトランペット。素晴らしすぎます。そして最後のティンパニーの大いなる歩み。三河氏はここのティンパニをかなり力強く打たせましたが、しかしそれがちっともうるさくなく、充分な説得力をもって響いてきます。感動です。・・・・このオケ、ずば抜けてうまい奏者がいて、はっとするような美しいソロを聴かせてくれる、というオケではありません。でも皆が力を合わせた合奏では、実にすばらしい音がする。これ、アマオケの理想形ではないでしょうか。そして声楽陣の充実振り。とくに児童合唱は絶妙な空間効果とあいまって、とても美しかったです。このような演奏を実現してしまう三河正典氏という人、なんとすごい指揮者なのでしょう。三河氏と、演奏された皆々様。すばらしい音楽をありがとうございました。大きなエネルギーのお裾分けをいただいたような、とても幸せな気持ちになりました。この小田原のマーラー3番、忘れません。
2009.11.09
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8月ももう終わろうとしています。なぜかあまりクラシックのCDを聴かず、コンサートも夏枯れ状態で、クラシック音楽からかなり遠ざかった日々をすごした一月でした。数日前に、ヴィラ・ロボスのブラジル風バッハ全曲を一気に演奏するという、すごい演奏会があり、以前から楽しみにしていましたが、仕事の都合で行き損ないました(涙)。それで8月に行ったコンサートは一つだけになりました。8月26日サントリーホール、高関健指揮、読響によるマーラーの5番です。久しぶりに聴くオーケストラの響き、やっぱりいいなぁと、気持ちよく聴けました。プログラムの前半は、ヘンデル没後250周年記念にちなみ、「王宮の花火の音楽」でした。ホグウッド校訂による新版(2008)による演奏ということです。現代楽器のオケでやるとどのようになるのだろうかと思っていたら、見たことのない金管楽器が出てきました!特殊なチューバで、普通のチューバを左右からぐーっと圧迫して細長くして、スマートにした形でした。世の中にはいろいろな楽器があるものです。演奏は花火大会にふさわしく、華やかで気持ちよかったです。演奏が終わって、拍手とともに、心の中で「たまや~」と叫んだりしてみました。休憩のあと、マーラー5番です。早めのテンポできびきびとした演奏でした。第三楽章は楽しげな舞曲という感じがしました。特筆すべきは高関氏のハープへのこだわりでした。ハープをなんと2台用意し、第二楽章や終楽章で音量を大きく出したい箇所で2台で鳴らせていたのです。第四楽章アダージェットでは、ほとんど一人でしたが、途中音量がやや盛り上がるところではやはり2台でユニゾンで弾かせていました。2台による演奏は、実際に聞こえてくる音として効果があったのかどうかは、正直良くわかりませんでしたが、こういうこだわりには、好感を持ちます。しかも、この第四楽章アダージェットのハープが、ツボを押さえ、すばらしく美しい響きでした。第四楽章がはじまった途端、ハープの音の美しさに唖然とし、弦の音への注意がしばしそがれてしまったほどでした。高関氏はマーラーの楽譜の調査研究を相当やっているそうで、今夜の演奏も最新の研究結果を取り入れた楽譜を用いているということでした。聴いていて楽譜の細かな違いのことはわかりませんでしたが、ともかく演奏が良かったです。全体的にまっとうな路線をいく、すぐれたマーラーでした。充分に満足しました。
2009.08.30
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マイケル・ティルソン・トーマスの指揮、PMFオーケストラの東京公演、マーラーの第5交響曲を聴きました。7月29日サントリーホールです。マーラーの5番に先立って、ティルソン・トーマス作曲の、ブラスアンサンブルのための曲「ストリート・ソング」が演奏されました。ホルン4、トランペット4、トロンボーン3、チューバ1という編成で、ミュートも多用し、多彩な曲想が楽しい曲でしたし、ブラスの人たちのうまさも冴えていました。さてマーラーの5番。トランペット1番もホルン1番も女性で、さきほどのブラスアンサンブルには出なかった人たちでした。このトランペットの1番を吹いた人が、おそるべきうまさでした!冒頭のソロは、音量も大きく、音色も魅力的で、僕がこれまで聴いたなかで一番パワフルで立派で、光ってました。この女性奏者、もうどこかのオケで活躍してるのでしょうか、いずれ有名なオケの首席として見かけるのかなぁなどと思いながら聴いていました。ホルン1番も、腕っぷしに自信あり、という感じで、なかなかいい音を力強くだしてました。PMFオケ、以前僕が聴いたときは、木管の首席4人をウィーンフィルの名手たちが吹いていました。しかし今回はそのような助っ人なく、オール若者で、皆さんうまいことうまいこと。たいしたものです。ハープだけは、ちょっと音程があっていないようで違和感があり、第4楽章はちょっと興がそがれてしまいました。しかし他は管・弦・打とも鳴りっぷり充分で、若さとうまさとパワー充分な演奏でした。立派です。ただ、聴きながら大植/大フィルの5番をどうしても思い出してしまう自分がいました。これはこれ、あれはあれですから、比べても意味ないことはわかっているのですけど。当分の間、もしかしたら今後ずっと、5番をきくたびにこの感覚に被われてしまうことでしょう。。。それにしても今年PMFオケは、札幌でエッシェンバッハで復活をやり、そのすぐあとに大阪&東京でティルソン・トーマスで5番をやったわけで、それでこれだけの完成度を達成してしまうのですから、おどろくべき技術水準です。また次に聴ける機会が楽しみです。
2009.07.31
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井上喜惟(ひさよし)指揮、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ(JMO)の第7回定期演奏会で、マーラーの交響曲第6番を聴きました。7月12日、ミューザ川崎。このオケは、井上喜惟氏のもとにマーラーの全交響曲を演奏すべく、2001年に結成されたアマチュアオーケストラです。井上氏はベルティーニの弟子だそうで、マーラーには格別な思い入れがあるようです。その井上氏に賛同して結集したオケですから、まさにマーレリアンオケですね。1~2年に1回のペースで、6番に始まり、10番からアダージョ、5番、3番、1番、2番、そして今回再び6番が取り上げられました。僕は5番以降の演奏会を聴いてきました。これまで聴いてきた井上氏のマーラーは、5番、3番は、極度に遅いテンポで、奇をてらわず、音楽が淡々と流れていくような印象がありました。テンポが遅いマーラーというと、普通は、細部へのこだわりというか、濃密な感情表現というか、どこかをことさら強調したり粘ったりなどのデフォルメ(変な表現かもしれません、すみません)が多いというイメージが、あると思います。バーンスタインや、エッシェンバッハなどがその成功例で、僕はこういった方向のマーラーは大好きです。しかし井上喜惟氏は、テンポは遅いのですけれど、これらとはまったく違う路線です。ただひたすら遅いだけで、デフォルメをしません。もちろんテンポの微妙な変化や揺れ、フレーズの終わりのタメなどはありますが、それはとても自然な、節度をこころえたものです。ともかくゆったりと、淡々と、音楽が流れていくのが井上氏のマーラーの特徴と思います。大見得を切る歌舞伎的な演奏のマーラーではなく、能のようなマーラーという感じ。特に3番の第三楽章や第六楽章はその美質が充分に発揮された名演でした。その後に演奏された1番や2番では、テンポはそれほど極端な遅さではなくなってきました。妥当なテンポの中で、ふと、ときおり歩みを遅め、目立たない部分を丁寧にやさしく美しく歌ってくれて、「温かい血の通ったマーラー」という感じがしました。たとえば1番の第2、第3楽章それぞれの中間部など、とても美しい瞬間が多々ありました。もう井上氏は極度に遅いテンポはとらなくなったのだろうか、さて今回の6番はどうなるんだろうかと、楽しみにして臨みました。きょうの演奏会は、はじめに歌曲集「さすらう若人の歌」が、蔵野蘭子さんの独唱で歌われました。蔵野さんは井上喜惟氏の信頼あついようで、昨年の復活、それからプロオケであるジャパンシンフォニアともマーラーの4番、ショーソンの「愛と海の詩」などで共演されています。演奏は、極めて遅いテンポで、蔵野さんの歌は静かに味わい深く、とても素晴らしかったです。休憩のあとの6番、これもまた、極度に遅いテンポでした。井上氏らしく、激しいテンポ変化などはとらず、丁寧で、内的に充実した演奏でした。第二楽章アンダンテの充実振りは特筆すべきで、テンポ設定も素晴らしかったです。前回のレック/東響のマーラー6番の項目で書いたアンダンテ楽章の後半のテンポは、早くならず、遅すぎもせず、ぼくにとってほぼ理想的なテンポで、美しく歌われました。最終楽章も終始おそいテンポで、良かったです。序奏部、第一主題部だけでなく、勇壮な跳躍主題が活躍する第二主題部(練習番号113~116)も遅い。ここは僕としてはバルビローリ盤のような遅さが好きです。そのような演奏に接することは殆どないのですが、今回はバルビローリ盤に匹敵するような、じっくりとした遅い足取りで、とても満足しました。ふたたび超スローテンポとなった井上氏のマーラー。しかもその足取りに確固たる確信というか貫禄がついてきて、さらに深化した、という実感を得ました。オケも全体的にかなり頑張っていて、技術的にも昨年までよりかなりの進歩をみせていたように思いました。とても充実した演奏会でした。こまかなことを幾つか書いておきます。ハンマー、トロンボーン隊、カウベル、鐘についてなど、です。まずハンマーの打撃は2回。ハンマー本体は、普通の感じの大きな木槌でした。ハンマーが叩く台が、ユニークでした。なんと木の切り株がそのままおいてあって、それをハンマーで上から叩くんです。切り株の直径はそれほど大きくないので、重いハンマーを正確にうち下ろすのは難しかったと思いますが、体格の良い男性奏者がきれいなフォームで見事にうち下ろしていました。(音は、僕の席からは良く聞き取れませんでしたが。。。)そして、1回目のハンマーの打撃にすぐ引き続くトロンボーンの咆哮が、破壊的なパワーが絶大でした!スコアではここは、トロンボーンが吹く長い音符としては全曲中で唯一、fffの指示があるところです。(ハンマー2回目の打撃のところではffの指示。あと短い音符には終楽章のほかの箇所にfffの指示が少しありますが、長い音符にはここだけです。)したがって、ここでトロンボーンはパワーを全開し、全曲中最大にするところなのですが、そのパワーの凄かったこと!音量といい、重くひしゃげたような音色というか音圧というか、すべてを破壊し尽くすような凄みに、圧倒されました!トロンボーン隊、あっぱれです。(このオケのトロンボーン隊の底力にはいつも感心していますが、ここをはじめとして今回も素晴らしかったです。)そうそうカウベルのことを書かないと。今回のカウベルは、第一・第四楽章の舞台裏での鳴らせ方に、井上氏の独創的な工夫がありました。普通は、舞台の下手、(あるいは上手)の1箇所のドアをあけて、その裏でカウベルが鳴らされますね。今回は、舞台の下手と上手、両方のドアを開けて、左右それぞれの舞台裏からカウベルが鳴らされたのです!このような「舞台裏の両翼配置」に接したのは初めてでした。やや強めに鳴らされたカウベル音が、舞台裏からステレオ的に、ホール全体に響きわたりました。その響きはとても美しく、豊かでした!しかし第一楽章ですでにこれほど美しく豊かに鳴らされてしまうと、アンダンテ楽章の舞台上のカウベルがどうなるのか、逆に心配になりました。開演前にあらかじめ確認したところでは、舞台上には、左右の2箇所に2個ずつのカウベルが置いてありましたので、一応複数箇所配置ではありましたが、吊り下げ方式ではなかったし、この4個だけで、あの豊かな響きに匹敵する、あるいはそれ以上の響きを出せるのだろうか、といささか心配な気持ちになったんです。そして迎えたアンダンテ楽章。舞台上のカウベルは、かなり控えめに鳴らされ、特にどうということもない響きで終わってしまい、肩透かしをくらった感じでした。これは一体・・・・。井上氏は敢えて、カウベルをアンダンテ楽章ではなく、両端楽章で美しく響かせることに専心したのでしょうか。だとすれば、その狙いは大成功です。これはこれでユニークでおもしろい試みかもしれません。舞台裏、すなわち遠い世界のカウベルが夢のように美しく、舞台上、すなわち今ここがその場所であるはずの平安なユートピア世界のカウベルが、味気ない音。そうすることで、ユートピア世界が現実にはありえない世界だという意味を、逆説的に強く浮かび上がらせようとした?(考え過ぎか?)しかし僕としては素朴に、やはりアンダンテ楽章のカウベルは、両端楽章よりも前向きな意味を持った、存在感を主張する響きとして、しっかり響かせて欲しいと、思います。カウベルについては、今回はこのくらいにしておきます。ともかく両端楽章に限って言えば、これほど美しく印象的なカウベルは聴いたことがなく、貴重な体験でした。なお終楽章での舞台裏の鐘も、いい音色でした。どういう鐘を使ったのかは見てはないので想像ですが、音色からは、板状のものを打っていたのかなと思いました。しかも井上氏はここでも、一工夫みせてくれました。通常は、舞台裏のカウベルと鐘は同じような場所で鳴らされ、それらの音は同じドアのところを通ってホールに抜けてくることになります。しかし井上氏は、カウベルと鐘をわざわざ違うところに配置するという細心さでした。すなわちカウベルは舞台の左右のドアの裏で鳴らしたのに対して、鐘は2階左側の客席のドアを開けて、その外で鳴らさせていました。つまり鐘の音がカウベルよりも高い位置から響いてくるように工夫していたわけで、その効果はかなりありました。昨年の復活のときも、詳しくは省きますが、井上氏は、舞台の外の空間の使い方に関して、細心な注意を払って、ミューザ川崎の構造・空間特性を生かした、かなり効果的な音響を実現していました。井上氏は、空間の中での音の響かせ方に関して、繊細な感性と新鮮な発想があって、すばらしいと思います。氏の今後のマーラー演奏、引き続き注目していきたいと思います。
2009.07.13
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大植/ハノーファーの偉大なマーラー9番の影に隠れてしまいましたが、6月にもうひとつ、すばらしいマーラーの演奏会を聴きました。大植さんのマーラー9番の興奮がやっと少しおさまってきた今、忘れないうちに書いておこうと思います。6月13日サントリーホール、東京交響楽団第568回定期演奏会、マーラーの交響曲第6番。指揮はシュテファン・アントン・レックさんという人。この人のことは、この演奏会までまったく知りませんでしたが、風貌がどことなくテンシュッテットに似ているのからして好印象(^^)です。開演前にステージを見ると、カウベルの配置が実に気合が入っています。ステージ中央奥に、吊り下げられたカウベル8個が並んでいるのがまず目をひきますが、それだけでないのです。ステージ右奥の木琴のところと、左奥の打楽器群の中に、それぞれふたつずつのカウベルが、さりげなくおかれてあるのです。つまりステージの右から左まで、カウベルが実に3ヵ所に配置してあるわけです!(舞台上のカウベルは1ヵ所に置かれるのが普通です。)カウベルについてマーラーは、スコアに「放牧牛の鈴の音をリアルに模倣して。だが、この技術上の指示は描写的な解釈を許すものではない」と指示していますね。実際、このガランガランという音をきいても、アルプスに住んだことのない僕などには、アルプスののどかな放牧の光景は思い浮かびませんし、それほど牧歌的な感じはしません。しかしともかくカウベルの音が、現実世界ではありえない、平安、調和に満ちた世界を象徴したものだということは思います。あるいは世界そのものというより、そういう世界を志向し希求する存在を象徴するものだ、といったら的はずれでしょうか。このカウベルが出てくるのが、第一・第四楽章の途中の、平安で静かな安らぎの雰囲気の場面です。これら両端楽章ではカウベルが、このようなユートピア的世界が、はるか彼方の世界であって、現実にはありえないということを意味するかのように、遠くから(舞台裏から)響きます。そしてもうひとつ、カウベルが出てくるのがアンダンテ楽章です。アドルノのマーラー論をわかりやすく紹介している村井翔氏によると、この楽章は、”第一楽章展開部の挿入部や終楽章の第二主題部と雰囲気的に同質の非現実的な安らぎに満ちた音楽で、この楽章全体をまるごと「一時止揚」としてもよい。”(音楽の友社、「人と作曲家シリーズ マーラー」234ページ)とあります。この楽章の本質をついた表現だと思います。この楽章全体が束の間の平安、束の間の魂の安らぎ、ユートピア的世界をあらわす。だからこそ、この楽章でのみカウベルが、舞台裏からでなく舞台上で、オケの中で鳴らされるのです。したがって、このアンダンテ楽章でカウベルを舞台上の複数箇所から鳴らすという方法は、通常のように一箇所から点音源としてカウベルの音が出てくるよりも、ステレオ的効果で舞台の広範囲から音が出てくることにより、この舞台全体が、そしてこの会場全体が、今この瞬間において現実と離れた異次元的平安世界である、ということをより明確に表現できる、すぐれた方法と思います。この方法、とっても賛同します。そもそもこのカウベル複数箇所配置方式に僕が気づいたのは、2006年サントリーホールでのアバド/ルツェルン祝祭管のコンサートのときでした。このときアバドは、大小さまざまのカウベル数個を1セットとして、舞台上の右と左にそれぞれ1セットずつ配置したのでした。いわば「カウベルの両翼配置」に、さすがアバドと感心し、いささか興奮したことを覚えています。この複数箇所配置方式は、それ以後の演奏会で遭遇したことがなかったので、思わず期待が高まりました。僕がもうひとつカウベルでこだわりたいのが、鳴らし方です。普通は手で持って揺らして鳴らしますよね。ユニークで素晴らしかったのが、今年2月のサントリーでのハイティンク/シカゴ響の演奏でした。このときハイティンクは、舞台上のカウベルを吊り下げておいて、それをマレットでそっとたたいて鳴らさせたのでした。これ、すばらしく繊細できれいな、もはや放牧牛云々を超越し、より抽象的普遍的な、夢のように美しい音でした。「放牧牛の鈴の音をリアルに」というマーラーの指示からは逸脱しているかもしれませんが、カウベルでこんな繊細な響きが出るなんて、驚きの聴体験でしたし、ハイティンクの意外に(失礼!)細やかな感性に、完全に敬服しました。このときはカウベルは1ヵ所配置の点音源方式でした。さてさて、話を今回の演奏会に戻しますと、今回は3ヵ所配置の面音源方式、しかも中央の主力部隊は吊り下げ方式なのです!アバドとハイティンクの良いところを合わせた最強の(?)布陣!これはどんなカウベルの響きを聴かせてくれるのだろうかと、いやがうえにも期待が高まりました。ただし一方で、これだけカウベルの舞台上配置を充実させてしまうと、カウベルが出払ってしまっているのではないか、それで第一・第四楽章のカウベルを便宜的に舞台上で鳴らしてすませてしまうのではないか、という一抹の不安がよぎりました。しかしそれは杞憂でした。レックさん、そんな安易なことはしません。第一楽章ではきっちりと舞台裏からカウベルを鳴らしてくれました。そして曲はいよいよ、アンダンテ楽章のカウベルのところに来ました。3ヵ所のカウベルが同時に静かに鳴らされます。その効果はいかに?・・・うーん、面音源の効果は確かにありますが、吊り下げ方式のメリットがない。折角中央の吊り下げカウベルから繊細な音が発信されている(はず)なのに、両脇のカウベルが通常の手持ち揺さぶり方式なので、普通のガランガランという響きになり、中央のカウベルの音色の繊細さが消されてしまったのは残念でした。。。これを聴いた僕としては、すべて吊り下げ方式のカウベルを複数箇所に配置するのがベストかと思います。どなたかそこまでこだわって演奏してくれないでしょうか。大植さんかエッシェンバッハさんあたりに期待したいところです。カウベルのことばかり書いてしまいましたが、それを別にしても、このレックさんの指揮による悲劇的は、それはそれはすばらしい演奏でした。第一楽章冒頭はやや速めのテンポで開始され、それが楽章全体の基本テンポなのですが、そこかしこに、微妙な「ため」や「揺らし」があって、マーラーのつぼをばっちりおさえ、単調に流れることがありません。第二主題も、躍動性と落ち着きの両面がどちらもしっかりと表現されています。これはなかなかすごいことです。第二楽章スケルツォも、同じようなスタイルで安心してきけました。そして第三楽章アンダンテ。レックさんはこの楽章では終始指揮棒を指揮台に置き、手だけで、ゆっくりとしたテンポでじっくり歌っていきます。レックさんがいかにアンダンテ楽章をいつくしんで大切に思っているか、それが充分に音として伝わってきました。アンダンテ楽章の演奏で、僕のこだわるもうひとつは、テンポ設定です。多くの演奏では、楽章前半部に比べて、楽章の後半の盛り上がるところ(練習番号59以降)でテンポをやや速めてしまいます。たとえば大植/大阪フィル。この楽章の前半はすばらしかったのですが、楽章後半で著しい加速をして、一気呵成に急いで駆け抜けてしまい、個人的には大きな不満を持ちました。これまで聴いた大植さんのマーラー(6,3,5,9番)で、唯一不満を覚えた点です。多くの演奏ではこれほど極端な加速をしませんけれど、テンポを早めることがかなり多いかと思います。なぜなのか。スコアを見ると、この楽章の音楽の頂点である練習番号60や61のところにNicht schleppen(引きずらずに)と書いてあります。それで、引きずるまいとして、かえってテンポを早くしてしまう結果になるのだろうか、などと思っています。しかしレックさんは違いました。ここで歩みをまったく早めません。むしろ、もともとゆっくりの歩みをさらにテンポを落とし、じっくりと頂点の歌を歌ってくれました。結果的にはやや緊張が弛緩する感じもしましたが、こういう方向の演奏は大好きで、うれしかったです。そして第四楽章。ふたたび基本テンポはやや速めに戻り、マーラーのつぼをおさえた引き締まった演奏が繰り広げられます。この楽章でも、ところどころにある「一時止揚」的な憧憬の部分を、レックさんはとても大切に扱っていて、非常に好感が持てました。東京交響楽団も、実に良い音を出していました。先日、西村智美さんの指揮で復活をやったときとは別次元のオケの音。やはりオケの音は指揮者次第なのだなぁとあらためて思いました。なお、この日の楽章順は、いまどき貴重な第二楽章スケルツオ、第三楽章アンダンテでした。長くなりましたので、楽章順については、また別の機会に書こうと思います。レックさんのマーラー、大注目です。
2009.07.08
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6月28日サントリーホール。大植英次/ハノーファー北ドイツ放送フィルの2009日本ツアー最終日、マーラー9番を聴きました。もう完全にやられちゃいました。舞い上がっちゃってます。当分地に足がつきません。変なこと書いてるかもしれませんがご容赦を。今回のツアー、マーラーばかりやってるとオケも息詰まってしまうでしょうから、あいだにベートーヴェンを配して、気分転換を図れるよううまく考えてあると思います。すなわち大阪でマーラー、広島でマーラー、これでやるべきことをやって一区切りをつけたあと、後半4日の連続公演を、名古屋でべートーヴェン、静岡でマーラー、東京でベートーヴェン、最後にマーラーと、交互に配されたというわけです。僕はもう、静岡のマーラーで、完璧な演奏と思い、充分に満足していました。この日ホールに向かいながら、「これだけ完成度が高い9番なら、今のうちに是非録音をしてほしいなぁ、それとももうドイツで録音をすませているのだろうか」などと考えていました。いよいよホールにはいってステージを見ると、なんと多数のマイクがあります。吊り下げられたのやら、舞台上に立ってるのやら、かなりの本数になります!「録音するんだ、録音の現場に立ち会える!」と、こちらの気持ちも引き締まりました。そして演奏といったら!静岡のそれを、さらにはるかに超えていく凄さでした。ホルン首席を筆頭に、金管軍団はますます絶好調で、音色の輝きも、パワーも、さらに一回りスケールアップした感じです。たとえばホルン首席のソロ。第一楽章後半の、フルートソロとかけあうパッセージの中で、柔らかい音から鋭く割る音まで、これほど音色変化が多彩で鮮やかな吹奏も稀有だと思います!たとえばトランペット。第三楽章中間部のソロの音色の美しさ、そして終楽章で神々しく突き抜けるロングトーン、しびれます。木管も、それぞれの個性がさらに一段と鮮やかに際立ち、冴えています。ティンパニの切り込みも、鋭さ充分、強烈さ充分。これらの結果として、とくに第二楽章や第三楽章は、個性ある音塊と音塊がぶつかりあうさまが立体的に彫り深く表現されます。ごつごつした隕石が、こすれあったりぶつかったりしながら目の前で交錯しているような醍醐味さえ感じます。これほどの体験は初めてです。これはすごすぎます。このオケ、どこまで行くのか。どこまで行けるのか。大植さんとの11年の共同作業で、このオケの潜在能力が相当に高まり、それが今この場で、完全に解放されているのでしょう。これが彼らの11年間の総決算。すばらしいです。そして、この響きで歌われる大植さんの歌の素晴らしさと言ったら。もう完全に、せつなさと喜びと、苦しみと幸せと、渾然一体となった世界に引き込まれるままです。だけど根底に、生命の素晴らしさの肯定がある。これが大植さんのマーラー世界!大植さんと大阪フィルの2月の5番で、マーラーを聴くということのひとつの究極を体験しました。今回の9番体験も、ひとつの究極です。しかもうれしいことに、5番とはまったく違う方向の究極です。実存をかけて音楽する大植さんのマーラーこそ、真のバーンスタインの後継者と思います。大植さん、これからもご健康でいらしてください。そして、そうしょっちゅうとは贅沢いいません、たまにでいいですから、マーラーを聴かせて下さい。バーンスタインの、その先のマーラー世界を。
2009.06.29
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大植英次/ハノーファー北ドイツ放送フィルの2009日本ツアー、ツアーなかばの6月26日、静岡でのマーラー9番を聴いてきました。会場は、静岡駅からJR東海道線で一駅、東静岡駅の駅前に、富士山を向いてそびえたつ、「グランシップ」という県立の複合文化施設。巨大な船のような外観がユニークです。ここは以前仕事の会議で来たことがありますが、本格的コンサート対応のホールがあるとは知りませんでした。コンサートが行われたのは「大地」という中ホールで、座席図によると、1階と2階をあわせて客席約1200席と、フルオケにはちょっと小さめのホールです。しかしステージの奥行きは充分に深く、フルオーケストラが余裕で並びます。客席にはさまざまな年代の方が見られ、そのなかで目立ったのが制服を着た高校生が大勢いたことです。あとで知ったことですが、大植さんは4月末に、静岡のとある高校のオケの指導に来て、最終新幹線ぎりぎりまで熱心に指導されたそうです。そのときの生徒さん達が多数聴きに来ていたのでしょう。オケ団員の入場とともに、会場一杯にすごい拍手が鳴り、コンマスの登場と共にその音量はものすごく上がり、まるで演奏が終わったときのようです。そして大植さんが登場し、さらにすごい拍手がわき起こりました。それが静まり、いよいよ演奏がはじまりました。第一楽章から、オケの調子は絶好調です。首席ホルンも完全に復調!そして木管セクションも、大阪のときも良かったですが、一段と良く鳴っていて、すばらしいです。これがこのオケの真の実力なのでしょう、これはすごい!通常はどうしても、なかなかオケのエンジンが全開しないうちに第一楽章が終わってしまうことが多いのに、これほどの鳴りっぷりの良さは、ほとんど遭遇したことがありません。演奏が始まる前は、「会議場兼用のホールだから響きがデッドかもしれない」という懸念がありましたが、まったく無用の心配でした。おそらく会議のときと反響板などを変えているのでしょう、必要な響きはしっかりあり、音の明晰性も充分で、とても良いホールです。小さいホールだけにオケとの親密性が強く感じられます。そしてなによりも大植さんの歌の素晴らしさ!大植さんは、大阪のときよりさらにのびやかに歌っていて、大阪のときに感じた多少の硬さのようなものが、すっかりとれている感じがします。続く第二楽章も、より楽しさが前面に出ているように感じましたし、第三楽章も、何もいうことありません。そして第四楽章。。。大阪のときの感想に、「この曲にこめる大植さんの思いが、音楽の響きに結実しきれなかった感じはありますが、」と書きました。今夜の演奏は、大植さんの思いが充分に、音の響きとして鳴っていた、と感じました。大植さんの生命肯定のメッセージが、あたたかく、高貴に輝き、そしてやがて、静かな祈りの静寂にかえっていきました。。。すべてを包み込む、大植さんの包容力の、なんという大きさ。。。ミューズの神は舞い降り、大植さんに祝福を与えたのでした。オケのコンディションの良さ、会場・観客との親密さ、それから、もしかして僕の耳が大阪で一度聴いたのでなじみやすかったこと、そういういろいろな要因が重なったためなのかどうか、良くはわかりません。何よりも、大植さんが広島で大きなけじめをつけられたこと(jupiterさんの貴重なレポートを拝見しました)が大きいのかもしれません。ともかく僕にとっては、奇跡的なコンサートでした。大植さん、あなたは素晴らしすぎる。
2009.06.27
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6月21日、ザ・シンフォニーホール。大植英次/ハノーファー北ドイツ放送フィルによるマーラーの交響曲第9番を聴きました。今回の日本ツアーの初日です。あの大阪フィルとの5番のあとに聴く大植さんのマーラーですし、しかも9番ですから、楽しみの半面、こわいような気持ちも持ちつつ、がんばって大阪遠征してきました。5番のときの凄絶な苦しみを突き抜けたところに達した、ある種の落ち着きを感じられる9番でした。大植さん本来の、生命肯定的な音楽が聴こえて来て、ほっとしたというのが一番の思いです。テンポは極端な遅さではありませんが、遅めで、そして重要なフレーズの頭をじっくりと歌わせるところに、大植さんの歌心が良く現れていました。とくに第四楽章は、ゆったりした足取りで味わい深いものでした。きょうはツアー初日で、おそらく金管セクションにとってはコンディションを整えるのがしんどかったと思います。そのわりには金管は全体にいい音を出していました。ホルン首席(アシストなし)は今一つエンジンがからない感じで不調でした。その代わり2,3,4番奏者は力が入った吹奏で、首席の不調をカバーすべく頑張っていました。このオケは、飛びぬけてすごい奏者がいて圧倒的なソロを聴かせるというわけではないけれど、みなが大植さんとの強い信頼の絆で結ばれ、ひとりひとりが自分の役割を誠実に果たし、全員の力がまとまって、合奏としていい音をだしてました。きょうの演奏は、この曲にこめる大植さんの思いが、音楽の響きに結実しきれなかった感じはありますが、大植さんの生命肯定的メッセージと歌心を、ふたたびマーラーで聴けた、うれしいひとときでした。体調も5番のときよりもお元気そうでエネルギッシュで、何よりでした。
2009.06.21
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2009年2月17日サントリーホール、大植英次・大阪フィルによる東京定期、マーラー5番を聴きました。大植さんのマーラーを聴くのはこれが3回目です。最初は大植・大阪フィルによる東京定期の第一弾となった6番、その後シンフォニーホールで行われた3番、そして今回の5番です。6番は、激しい身振りでオケをぐいぐいひっぱっていく強いエネルギーが印象的でした。3番は、全身をくねらせ、旋律を粘ってうたいあげる演奏で、美しく、明るく、生命を肯定するよろこびに満ちていて感動的で、特に第一楽章は類い希な名演でした。ぼくは、この3番のときの明るさと歌心に満ちた演奏に非常に感銘を受け、その後このコンビによるブルックナー7番を聴いたときも、旋律を充分に歌わせるところに大植さんの特徴と魅力を感じていました。そのため今回の5番を迎えるにあたって、同じように歌心あふれる、生命肯定的な演奏をなんとなく期待している自分がありました。もともと5番は、マーラーの交響曲の中ではそれほど思い入れが強い曲ではありませんでした。第一楽章、第二楽章の暗さから、第三楽章、第四楽章をへて、第五楽章の明るさが、どう聴いても唐突な明るさにきこえて、共感しにくかったのです。もちろんマーラーの曲ですから、好きは好きだし、アダージェットをはじめとしてあちらこちらに魅力は感じていましたが、前半のふたつの楽章が曲の中でかなりの重さを持つ一方、第五楽章がいわば「軽く」、肩すかしのような感じで曲が終わってしまい、「結局なんだったのだろうか」、という中途半端な印象が、長いことこの曲をきいてきても本質的に変わることはありませんでした。第四楽章はアルマとの愛を歌ったものであるという説を知ったり(異説もありますが)、作曲の途中にアルマと出会って愛が生まれ結婚したという事実を知ってからは、なるほど、この曲の後半はアルマと相思相愛の恋愛にはまって、嬉しくてしかたないマーラーが有頂天になって書いたのかな、と思ってからは、ある程度納得して、違和感は減りましたが、それにしてもマーラーにしてはつまらない曲だ、という思いが消えることはありませんでした。そのような僕の、大植さんの持つ明るい肯定的な歌心というイメージ、および曲に対する中途半端なイメージが、両者とも、完膚無きまでにうちのめされる演奏でした。今回の演奏会、まず驚いたのは、大植さんのやせぶりです。僕がその前に大植さんを見たのは、2008年7月、朝比奈隆生誕100周年の記念演奏会でした。そのときには、それ以前と同様、やや太り気味の恰幅いい姿でした。ところが今回、7ヶ月ぶりに見た大植さんは、ものすごくやせていました。最初モーツァルトのピアノ協奏曲の指揮者として出てきたとき、あれ、きょうはプログラム前半は違う指揮者が振るのかな、と思ったほどでした。それほどに、全身ひょろひょろっとして別人のようで、頼りなげで、ほおはこけていました。その姿・顔つきの変わりぶりに驚き、これが本当に大植さんなのかと思いつつも、自分に「いや指揮者の外見なんて音楽とはなにも関係ないことだ、音楽を聴こう」と言い聞かせて、その姿に慣れるように心がけました。しかし協奏曲が終わって、演奏会後半、マーラーの5番がはじまったとき、それ以上の驚きが待っていました。想像を絶する遅いテンポです。このテンポ、単に遅いということなら、たとえば井上喜惟(ひさよし)指揮・Japan Gustav Mahler Orchestraの演奏があります。どちらも同じように遅い。しかし今日の演奏は、遅いだけではありません。足取りが、ひどく重く、文字通り、ひきずるようです。ところどころ、音楽は本当によろめいて、つまづいて、ふらついて、今にも倒れて息絶えてしまいそうな、そういう場面が続きます。そして、そのような音楽を聴きながら大植さんを見ていると、ときどき倒れそうになるのを、指揮台の後ろに置かれた手すりにつかまってかろうじて耐えながら、指揮しているように見えてしまいます。(曲の始まる前と後の実際の足取りはしっかりしていました。)第二楽章も、まったく同じで、超絶的に遅く、超絶的に重い足取りです。まさに葬送行進曲ですが、これは、逝ってしまった者を弔う葬送行進曲ではなく、今生死の境を越えていってしまいそうな、ぎりぎりのところでの切実な苦しみ、しかももはや勝ち目はないことがわかっている、そういう葬送行進曲です。きいていて胸が重苦しくなり、大植さんの顔色が生気を失い、くぼんだ眼窩からぎょろっと見開いた眼が、幽霊のように見えてしまいます。「いや指揮者の外見なんて音楽とはなにも関係ないことだ」とは思っても、音楽はそのように響き、大植さんがそのように見えて仕方ないのです。大阪フィルのトランペット首席の秋月さん(3番のポストホルンのときも超絶名奏を聴かせてくれた人です)が、あるときは力強く輝かしく、あるときは沈んでくすんだ音色で、世界の超一流レヴェルの完璧な演奏をしてくれています。秋月さんを筆頭に、大阪フィルは本当に素晴らしい音をだして、大植さんに答えます。大植さんはかつてのような激しい大きなくねらすような動きは少なく、大音量のところはむしろ小さな動作でたんたんと振りますが、オケから出てくる大きな音の迫力は充分で、また逆に小さな弱いところでは大植さんはさかんに体を使って鋭く大きいキューを出し、それにオケがきっちりと反応して、張りつめた緊張感がいささかもゆるみません。第二楽章のクライマックスも、普通の演奏だと、あれっ、今のがクライマックス?と言う感じであっさりすぎてしまいがちのところを、遅く、重く、聴いていて受け止めるのがしんどいほどの、どっしりとした重い内容がありました。やっと第一、第二楽章が終わりました。とんでもない5番です。バーンスタイン晩年のマーラーをもし生で聴いたら、このようなものであったに違いない、と想像したりしました。第三楽章以降はいったいどうなっていくのだろう、と見守るうちに、第三楽章が始まりました。これが、今までとまったく同じ。遅く、重く、引きずる、陰鬱な、苦しい音楽です。ワルツ風のところでは、大植さんは指揮台の上で多少踊るように身をこなしますが、響いてくる音楽はちっとも楽しくきこえない。でも聴いていて、音楽に、どんどん引き込まれていきます。こんな深いスケルツォ聴いたことありません。ところどころ音楽はもの悲しくむせびなきます。そして次も、きわめて遅いテンポによるアダージェット。アルマとの愛の喜びを歌ったとされるこの楽章も、今夜の大植さんが奏でるのは、そのような喜びをはるか越えてしまった世界からの音楽。美しく重く、胸にひびきます。フィナーレも、同じでした。ひたすら遅く、重い。明るくなく、シニカルでもない。そして最後の金管コラールが登場する少し前の、練習番号26あたりでの金管の咆哮が、今夜の演奏のクライマックスでした。この金管の咆哮はただならない重さで、大植さんの魂の奥から生ずる、言葉にならない叫びでした。地の底から轟くようなその叫びは、ものすごいテンションで、体中が圧迫され、息詰まりました。今にして思うと、10番の不協和音の叫びと共通したものが確かにあったように思います。そして最後の金管コラールも、歓喜の歌ではまったくなかった。そのようにして、途方もなく重い5番演奏は終わりました。今夜の5番は、ひたすら重苦しく、まったく展望の開けない5番です。最初から最後まで沈痛な葬送行進曲の5番。もっとシャープな5番、もっと絢爛豪華な5番、めくるめく色彩変化の華麗な5番、純粋な音楽美としての5番、暗から明への変貌が鮮やかな5番はたくさんあります。しかしそれらの演奏のどれに接しても得られなかった深い感動、胸をえぐられる深い感動を受けた5番でした。5番ってこういう曲だったのだろうか。。。。いったいこのような5番をマーラーは意図していただろうか。無意識にはともかくとして、少なくともマーラーはこのような意図はしてなかっただろう、と僕は思います。シニカルな要素があるにしても、基本的には「葬送の暗→なんらかの明へ」という流れが基本的にある曲として書かれていると思います。今夜の演奏は、もはや作曲家の意図を越えてしまった5番と言えるのではないでしょうか。このような5番は、たとえ大植さんの演奏にしても、今後聴くことはないのではないか、このような演奏を、いつまでもはできないのではないか。そういう気がしてなりません。頭でこのように解釈した、ということでは決してありえない演奏、今の大植さんの実存から出てくる演奏、こうなってしまうしかない、という必然の演奏。そして会場の大きな喝采です。ぼくも心からの拍手を送りました。しばらく拍手喝采が続き、大植さんが何度かでたりはいったりしたあとでした。第三の驚きがありました。大植さんが指揮台の上にたち、拍手を沈め、おもむろにアンコール演奏を始めたのです。マーラーで、しかもあのような死力を尽くした究極の演奏のあとでアンコールとは!曲は、チャイコフスキーの組曲「モーツァルティアーナ」から「祈り」という曲でした。この演奏も、(普通の演奏というのを知りませんけれどおそらく)ものすごくゆっくりとした演奏でした。アンコールの最後、音は静かに静かに消えていき、そのあとしばらくホール全体が静寂に包まれ、やがて大植さんがおもむろの指揮棒をおろしたあと、ゆっくりと拍手が始まり、大きく広がりました。何に対する祈りだったのでしょうか。。。僕の中で5番概念がくつがえされました。これまでに僕の聴いたもっとも沈痛な、もっとも胸苦しい、そしてもっとも深く心を打たれた5番です。これまでのようには、もう5番を聴けなくなってしまった。マーラーの音楽を聴くことのひとつの究極を体験してしまった。そういった、重苦しい感動だけれど、かけがえのない体験をできたことに感謝する思いでいっぱいです。大植さんと大阪フィルの皆さん、心から、ありがとうございました。
2009.02.22
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長年不実行だったブログを、ついに始めることにしました。きっかけは、先日聴いた大植英次指揮、大阪フィルのマーラー5番の演奏会です。あまりにもすごい、僕の今までの生涯できいたなかで、究極の5番でした。このような5番はもう二度と聴けることはないように思います。空前にしておそらく絶後の5番。演奏会を聴いてからここ数日、音楽を聴く気にまったくなりません。頭のなかは、会場で聞いた5番の断片が、きれぎれに聞こえてきては消えていきます。この感想は、自分のためにどうしても文章化しておきたい、そう思って書いたものです。それを他の方にも見ていただければと思い、ブログをはじめた次第です。
2009.02.22
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