「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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曹操閣下の食卓
☆文学的解釈の終焉
私が中国で前漢時代の銀雀山竹簡版『孫子兵法』の研究を始めた時、一つ気になっているものがあった。
それは西本願寺真言宗の大谷光瑞伯爵が大正時代に《大谷探検隊》を中国の内陸部、現在の甘粛省や新疆ウイグル自治区などに派遣した時に、敦煌で取得した《大谷探検隊招来品》の一つ、敦煌文書の晋代《孫子兵法》の断片である。
これはわずか二枚の破断紙の断片しかないものだが、墨書の書式によって西晋・東晋王朝の時代の写本だと公認された最古の紙本《敦煌残欠本・孫子兵法》である。
西晋王朝は、三国志ファンの人には説明するまでもなく、曹操の子孫の魏王朝から政権を奪った司馬仲達の孫、司馬炎が樹立した王朝である。
したがって、晋時代の筆法で書かれた写本は、曹操が注釈を自ら著したという《魏武帝註孫子兵法》のオリジナル・テキストに関連があるに違いない。
今日、われわれが目にする《孫子兵法》というものは、ほとんどが南宋時代に出版された古印版であり、世界最古の南宋版は東京世田谷の静嘉堂文庫が所蔵している。
他は完全なオリジナル・テキストが少なく、明時代当時に現存した多くの南宋版をもとにして復刻された復印版が清時代にも再版され、江戸時代の日本にも普及した。
それから唐時代以降の文献に《孫子》の断片的引用が多く見られるので、中国と日本の古典研究家はその異同の確認と語句の取捨選択に沈潜してしまい、《兵法》が文献学になってしまい、実践性は希薄になってしまっていた。
つまり孫子や曹操は実践の現場の中から叩き上げてきた実力主義者であるにもかかわらず、それに注釈や解釈をする側の人間は、小さな経営組織も動かしたことさえサラサラないという頭デッカチの徒輩であった。
例えば、《孫子兵法》は明らかに戦国時代以降に現存した古代文献であるのだから、その解読の前提となるのは、「先秦」つまり秦の始皇帝が度量衡を統一する以前の言語発音であり、金石文という先秦時代の発掘品に記銘された文章の古文法であるべきである。
しかし文献学者は、唐以降の古注のために、《孫子》を「唐音」で解釈することに慣れてしまっていて、文法も盛唐以降の例に依拠していた。
そうなると、先秦の《孫子》は、優雅な盛唐様式では音韻の洒落が通じない、どうしようもない「悪文」に見えてしまうのである。
岩波文庫の《孫子》では、実際に唐時代の発音の音韻で詩文のように本文の語句を添削し、勝手に解釈を変更した恐るべき非科学的な伝統的手法が散見される。
この事実をもってしても、この地上から「岩波文庫・孫子」は抹消されなければならない。
専門家が一覧して、「昔はこんなバカな主張した学者バカがいたるところにいた」と参考にする「学術論文のようなもの」があればいい。
イギリス中世の古写本を、百年もズレた時代の音韻解釈で論じたら、国際学会から叩き出されてしまうであろう。
理屈に合わない話ではないか。
先秦時代と唐時代は九百年近くも離れているのである。
そのような解釈は、方法論の入り方からして、明らかな出鱈目である。
そして《敦煌残欠本・孫子兵法》は、昭和初期から公開されているにもかかわらず、ほとんど無視されていた。
この《敦煌残欠本・孫子兵法》は本当に短い断片だが、私にはオリジナル・テキストの痛烈な戦闘思想が読み取れた。
その一つが次の一句である。
唐宋本・・・《不知三軍之事、而同三軍之政者、軍士惑・・・・》
敦煌本・・・《不知軍中之事、而同軍中之政者、軍士惑・・・・》
この「三軍之事」というのは、いってみれば「兵法」そのものであると解釈されていた。
言わば主知主義である。
歴戦の実力や現場の知恵より、兵法全般の知識がモノをいうではないかと、書斎の学者に都合がいい語句に置き換えられてしまった。
「一軍の将には三軍の事はわからないから、統帥部幕僚の立案した命令は絶対である」という統制主義にもつながる。
ところが、敦煌残欠本の断片は、これと全く正反対のことを主張する。
「現場(軍中)のことも知らない人物が、やたらと現場に干渉したら、実際に矢面で働く立場の人間が困惑するじゃないか」というのである。
この内容は、この一句の前段や後段にあたる文脈とも符合するので、文意としても正しい。
この敦煌残欠本の異同部分を解釈上重視しなかったのは、これまでの経緯からして組織経営の経験どころか、社会的な「現場」の経験さえほとんどない人々に、《孫子兵法》の解釈がゆだねられてきたからである。
この現場感覚とか、戦闘意識のない人々が《孫子兵法》のような実践書の解釈に、つい最近まで大きな権威を及ぼしたこと自体、私には実に愚かな「白河夜船」としか思えない。
敦煌残欠本の内容は、こうした点においてもまことに痛烈である。
唐宋本・・・《不知三軍之権、而同三軍之任》
敦煌本・・・《不知三軍之任、而同三軍之権》
唐宋本では、「三軍の権力を把握する者だけが、三軍の進退を決定できる」という単純な統制主義の主張になるが、簡単にいえばキャリア重視ということである。
つまり、「どこかの会社の社長を任せるには、別の会社で社長をやった人がよろしかろう」というわけである。
それは確かに一面の真理だが、多くの場合は地位におごり、社長になる努力もしないわけだから、自覚せずに経営指導に手抜きをする人間も多いようだ。
キャリア官僚や銀行重役から企業経営者にヘッド・ハンティングされたところなど、やはり不正なカネの流れの噂が絶えない。
これが敦煌残欠本にしたがって「任」と「権」を入れかえると、大変な意味の逆転になる。
「責任の大きさがわからない人間に大きな権力を与えてもいいのか。それが失敗のもとじゃないか」
指導者の責任感の欠如に厳格かつ深刻な警告を発しているのである。
これをさらに逆手に読んでみれば、
「どんな若手でも、身分の低いものでも、あるいは敵側の投降者でも、能力と責任感があれば、抜擢人事で大きな地位と責任を与えてもよい」と積極的解釈をすることもできる。
曹操の芸術的な抜擢人事は、こういう組織経営の心理的なカンどころをつかんでいるわけだ。
ここの部分を、閣下が日経ラジオで、「人材を抜擢するコツ」として紹介したら、アナウンサーもディレクターも非常に感動していたな。
そこに『孫子兵法』の時代を超越した哲学原理、いいかえれば、不変の人間の本質にふれる部分があるのだ。
私の『曹操注解・孫子の兵法』初版の出版後のことであるが、台湾・台北の故宮博物院が初めて公開した宝物の中に《子範鐘》という春秋時代の青銅の扁鐘(音階ごとに五個以上の大小の鐘を並べて演奏する大型楽器)があった。
この《子範》という名の扁鐘の持ち主は、《春秋左氏伝》や《史記・晋世家》にも記述された歴史的人物、咎子犯であることが確定された。
この咎子犯は、晋の文公(公子重耳)の諸国遍歴にも同行し、後には南方の強敵、《楚》の軍勢を対戦で撃破した最大の功臣である。
扁鐘の銘文にも晋軍が遠征して楚軍を撃ち破り、後に本国に凱旋して、周王室にその戦果を報告し、晋公と咎子犯がともに周王から恩賞を与えられたという輝かしい事績が簡潔に綴られている。
ここで私は《子範=子犯》であるという古代の音韻の共通性を確認できると思う。
周と晋は近縁の地域であり、この《子範鐘》は、私にとって、孔子が「雅言」として自分の日常語を区別した古代の周晋語の古い発音と古い文法の宝庫になった。
特に《孫子兵法》で一例をあげると、《犯三軍・三軍ヲ犯ス》という一句があって、「犯ス」という強烈な語意が解釈において「三軍を干犯して」という統制主義の主張に置き換えられていた。
しかしながら、これは上記のように《範三軍・三軍ヲ範シ》と解釈すれば、統制主義と無縁になるのである。
実は《春秋左氏伝》には、晋の「氾氏」の姓名の由来として、聖人君主の時代に黄河のワニ(黄龍)を調教(範)した先祖の偉業を述べたところがあり、私は《子範鐘》の公開以前に、《氾=犯=範》という古い同音韻の仮説をもって、《孫子兵法》の新しい解釈を発表していた。
したがって、《子範鐘》の公開によって、私の解釈は全く変更する必要がなく、むしろ金文と古代文献を照合する方法が有効であることを証明することができた。
以上のことで、私は「現場を知らない者が現場を語るべきではない」というオリジナル・テキストの孫子兵法の現地現場主義の精神を旗幟鮮明に提示したい。
「先秦時代の文献は、先秦時代の金文にあらわれた古音韻と古文法に準拠して解釈すべきである」という私の立場も、現地現場主義の応用である。
古代の春秋戦国時代の音韻や文法をタイムカプセルのように保存しているのが、これらの金文であり、唐宋代の音韻や文法で《孫子兵法》を添削する人物は、《孫子兵法》の原理そのものさえ理解していないのである。
私が指摘したマクナマラ戦略法の失敗などというのも、つまるところフォードの副社長時代から、現地現場から物事を発想することの重要性をマクナマラが軽視していたという姿勢に由来するものだと考えている。
戦略法を展開するにあたって、現地現場と無縁であることがいかに大変なことであるか、理解をしてもらえたであろうか。
私は医師が誤診の過失責任で、人間一人の生命に危害を与える以上に、誤った戦略法の取り扱いというものが、どれほど信頼と期待を裏切り、人々の進路を誤らせ、どれだけの損失と被害をもたらすものかを身にしみて考えておくことをくりかえし強調しておきたい。
最近、プレジャー・ボートが流行しているために、多くの水難事故が起きているが、犠牲者の多くは女性と子供である。
しかも水難事故にあった人々は、ほとんど決まって救命胴衣をつけていないこともわかっている。
そのことが話題になったとき、私の知り合いの漁師さんは、こともなげに、こう言ったものだ。
「漁師はね、船に女子供は乗せないよ。それに漁師は胴衣はつけていないけれども、波が荒い時は命綱を忘れないからね。海に落ちて死ぬのは、海の怖さを知らない素人だからさ」と。
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