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インドで死にかけた話 (1987)

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死ぬ前に記録に残しておきたい経験がひとつある。
それはインドでのある体験だ。
もう15年近い昔のことで、あいにくその記憶はいまでは風化しつつある。
実のところ、ひと月に及ぶその時のインド&ネパール旅行自体が人生のひとつの大きな体験だったのだが、その「ある経験」だけは極めつけだった。

大学3年のその夏、私がインドに行こう、と思い立ったきっかけはいくつかある。
ひとつは、その年、当時絶望感を共有していた心理学専攻だった無二の親友を自殺で失ったこと。もうひとつは、その年大学のサークルに入ってきた私と同じ年齢の後輩(後述K)が、その夏インドへ行く話をしていたことだ。
ひと言で言えば、当時の自分には自己破壊と再生の欲求があり、インドはその象徴とでも言うべき環境であったのであろう。

【幻覚をよぶ禁断の実、その名もバーング】
話はいきなりインドに入国してから2週間後に飛ぶ。

心理学専攻の2人の友人と美術サークルの後輩Tと私の計4人は、1987年の7月下旬だったか8月上旬に東部の都市カルカッタからインドに入国した。仏陀が悟りを開いたと言われるブッダガヤを経て北上し、ネパールの首都カトマンズに滞在した我々は、その後インドに戻り、別個のスケジュールとルートで入国していた美術サークルの後輩KとMの2人と、ガンジス川のほとりの聖地、バラナシで合流した。後輩Kはインド通の男を友人に持つ放浪野郎で、バラナシで訪れるべき所や体験すべきことをあらかじめ把握していた。
ちなみにその「体験すべきこと」のひとつは「バーング・ラッシー」であった。
ラッシーとはインドのヨーグルト・ドリンクであり、インドの街角のスタンドや食堂など、どこでも売っている。一方、バーングというのは、一種の幻覚作用のある植物の実で、そのトゲトゲした実のイラストはヒッピー系のインドのガイドブックにも掲載されていたが、特に麻薬として取締りの対象にはなっていないようであった。

後輩Kは、そのインド通の友人から『バラナシに滞在中に、どこそこのスタンドで、このバーング・ラッシ-を飲むこと。なお、これはバーングの含有量によって「マイルド」「ミディアム」「ストロング」の3種類の強さで売っているから、必ず「ストロング」を頼むこと。』という教授を出国前に受けていた。後輩Kからこのドリンクの「すごい効果」について話を聞いていたT、Mを含む我々美術サークル野郎は、出国のかなり前から「インドに行ったら絶対バーング」を合言葉にしていた。

【ダマされた?】
果たして、バラナシで落ち合った我々6人のうち、やや良識ある心理学専攻の2人の友人を除く美術サークルの我々4人は、死体の浮かび流れるガンジス川で沐浴を済ませたある日、インド通の友人からもらった手書きの地図を持つKの案内で、早速「バーング・ラッシ-の店」へ向かった。
日本の駄菓子屋よりもやや狭く、ちょっと薄暗いその店の奥には、白髪交じりのオヤジが座っていた。我々が「バーング・ラッシー」を頼むと、オヤジはやはり「マイルドか、ミディアムか、ストロングか」を尋ね、我々は迷わず「ストロング」を注文した。するとオヤジは何も言わずにラッシ-をジャーか何かに入れ、さらにそのジャーに緑色のバーングの実と思われるものを入れると、すりこ木のような棒でバーングをすり潰し始めた。白かったラッシ-は、見る間に緑色に染まっていった。
こうして出来上がったラッシ-を、我々4人は、たぶん少しドキドキかワクワクしながらその店の中で飲み干し、滞在先であった「オーム・ロッジ」という名のボロい安ホテル(当時の額で1泊150円くらい)に戻った。頃はすでに夕方に近かったかも知れない。

ホテルに戻った我々は、少しがっかりしていた。実のところ、「ダマされた」とさえ思っていた。なぜなら、Kの友人の話だと、これを飲んだある男はバーング・ラッシ-の店からホテルに帰る道すがら、突然『気持ちいいー』か何か言って道に大の字になり、法悦の表情を浮かべていた、とか聞いていたからだ。4階建てくらいのそのレンガ造りのホテルの屋上に集まった我々は、バーング・ラッシーを飲んでから小一時間も経ち、『さっぱり効かねぇー』とか『ダマされたー』とかたぶん口々に言っていた。

【強烈な効き目-天国の雲】
そんな時分、屋上から見る夕刻の空が夕焼けに染まり始めた。いや、厳密には夕焼けとは違う。たぶんその日の昼に降ったとおり雨のせいであろう、空全体が「虹」になっている、とでも言うべきか。地平線の一方はまだ青空なのに、反対側の地平の空は夕焼け、そしてその間の空が青から紫からオレンジに至る絶妙なグラデーションを成して、「いい感じ」の色に染まっているのだ。特に、その空に浮かぶ雲はまさに「天国の雲」はきっとこんな感じか、と思うような、ポワーンとして、光を放つ、まるでこの世のものとは思えない雲なのであった。それを見ていた我々は、一同空を見上げ『すげー』とか『きれいだー』とか絶賛しながら、顔を見合わせてはこの感動を分かち合っていた。私を含む何人かは、部屋にカメラを取りに駆け足で戻り、それを写真に収めたりした。

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そうこうするうちに、繰り返し「きれーだー」とか言っていた後輩のひとりが感極まって、笑い始めた。それを見ていた私も可笑しくなって「すげー」とか続けながら笑い始めた。そのうち笑いはみんなに感染し、4人全員がゲラゲラ笑い始めた。

その時ようやく判った。バーングが効き始めていたのだ。
後輩Kが、『むむ、これはまさに!』と言うと、残りの3人はそのセリフの意図することを理解すると同時にそれが妙に可笑しく、笑いはますます拡大するのだった。そのうちその笑いは自らのコントロールの域を超え、誰が何を言おうがただただ可笑しく、腹筋が痛み、息が切れても笑いは止まらないのだった。
そう、その時我々は天国に居た。「自分がいま確かに生きている」という、目の覚めるようなすがすがしい感覚が、頭と身体に満ち溢れるような感覚。ハイの最高潮にあった私などは、「今この瞬間に死にたい。」とさえ思い、それを口にした。実際に、屋上から下を眺めながら、飛び降りたいような衝動にさえ駆られていた。

【「ベリー・シリアス」な状態】
いったいどれくらいの間笑い続けた頃だったろうか、後輩Mがいつの間にか笑うのを止め、屋上のコンクリートの上にベターッと横になっているのに気がついた。残りの我々も笑いの勢いが収まり始めたことを自覚するとともに、何となく感覚がオカシイことに気が付き始めた。そのうち、後輩Tもコンクリートの上にへたり込み、動かなくなった。
私は「これは自分もヤバイな…。」と感じ、「とにかく水を飲んで、吐くなり、吸収した成分を薄めなければ…。」との本能的な判断から、平衡感覚が狂って思うように動かなくなった身体を引きずるようにして一段一段階段を降り、階下のシャワールームへ向かった。そして、それまで決して消毒せずには飲まなかった、衛生的に問題のあることで知られるインドの水道水を、背に腹は替えられぬ一心でひたすらストレートで何リットルもがぶ飲みした。
その時すでに外は薄暗くなり、同時に私の時間の感覚もすっかり狂っていた。

我々がホテルに戻り屋上に集まってからどれくらい経ったであろうか。屋上からは心理学専攻の私の友人2名が、後輩たちの様子を見て騒いでいる様子がした。友人のひとりが心配して私を呼ぶ声がする。『郡山(仮名)、おい郡山はどこや。』私は、階下で水を飲んでいることを大声で叫んで伝え、無事を知らせた。シャワールームで頭が多少状況を把握できるまで回復したところで、私はそれでもどこをどう通ったかも分からない状態で、また屋上に戻った。いつの間にかもうあたりは真っ暗である。その暗闇の中に、屋上の小部屋の灯りに照らされて、完全にグロッギー状態の後輩TとMの様子が見える。やはり騒ぎを聞きつけたのか、あるいは私の友人が助けを求めたのか、オーム・ロッジのオーナーが私の友人2人の見守る中で、TとMを介護している。

Tは何とか口が利けるようだが、Mは白目をむいて口も利かない。ヨガのマスターでもあるこのオーナー氏は、この2人の様子を診断した上で我々の顔を見、『ベリー・シリアス。』と言った(何が起ころうが、いつも常套句の「ノー・プロブレム!」済ませてしまうインド人が、こんなセリフを口にしたのを聞いたのは、後にも先にもこれだけである)。オーナー氏は一旦階下に降りると、ライムのような果物とコップに入ったソーダ水を手に屋上に戻り、TとMの上体を起こし無理矢理口を開かせると、ライムを絞ったソーダ水を口に含ませた(Tは、死にかけてほとんど意識も朦朧としている上、英語も苦手なはずなのに、助けてくれているオーナーに対し毅然と『アイ・ドント・ライク・ソーダ。』とか主張していた)。Mは友人の声にもオーナーの声にも反応しない。もう死ぬのかも知れない。

【最悪の悪夢】
それを見ている私も、身体を起こし意識を保つのがやっとの状態だった。頭もガンガンする。自分の身体の境界も怪しくなっている。私はとにかく身体を横たえるために、屋上の一角に位置する灯りのともった小部屋まで歩いた。ベッドの上では後輩Kが横になっている。幸い特に苦しそうな様子はないが、じっとしてほとんど動かない。私はKの傍らに身体を横たえ目を閉じた。すると、頭の中には得体の知れない魑魅魍魎が渦巻き、未開民族の呪いの太鼓のような打楽器の重く低い音が、中途半端に速い不愉快なペースでまるで彼方から聞こえてくるのだった。
これ以上考えられない最悪の悪夢があったとしたら、この状態はまさにそんな感じであった。遠くから、日本の救急車かパトカーがやってくるようなサイレンの音も聞こえる。もしかしたら、この騒ぎを聞いた誰かが警察か救急車に通報した結果、我々は病院か警察に運ばれるのだろうか。こんな事態が表に出てしまうと、大使館や領事館の世話になる上、親に知られずにはおれないような問題沙汰になりかねない。…しかし、この狂気の心身の状態から開放されるなら、それでもその方がまだマシだ、などと朦朧とした意識で私は考えていた。

ところで後日ほかの5人から聞いて思い出したのだが、どうやらその時私はベッドの上で『オレを、殺してくれー!』と叫んでいたらしい。私はたぶん半分本気で、あと半分は叫ぶことで正気を保つために、そんなセリフを叫んでいたのだと思う。とにかく私はこの状態から抜け出したかった。

ベッドの上で私はしばらくこの悪夢と格闘していたが、状態は軽減されるどころか悪化する一方であった。頭の中では、幻聴や幻覚をバックに、さまざまな想念が猛烈な高速で駆け巡っている。時間の感覚が狂っているからであろうか、一瞬のうちに様々な連想が閃く。つまりその状態というのは、「AはBであり、その結果Cとなり、CとはDであり、DはすなわちEなのだからFとなる。FであればGがあり得、それはHに至り、Iにつながり、つまりそれはJである。Jは…」といった果てしない思念の連鎖が、まさに「1秒の何分の1の一瞬」にして完結してしまうのである。しかもそのプロセスが限りなく延々と続くのだ。「もしかすると、このまま気が狂って死んでしまうのだろうか…。」などと思いながら、私はこれがいつまで続くのか怯えつつただ耐え忍ぶしかないのであった。

【異なる効果 -“あの世”と“前世”...?】
私のその日の記憶はそこで途切れている。
朝目を覚ますと、私は階下の自分の部屋のベッドに横になっていた。どれだけの時間寝ていたのか、一晩なのか数日間なのか、判らなかった。時計を見ると、昼近い。少なくとも十数時間の間、一度も目を覚まさずに寝ていたらしい。屋上からは友人らの声がする。一体ほかの3人はどうなったのかと思い、ベッドを出て階段を上り、屋上への階段の最上段から顔を出すと、私以外の5人全員が生存して揃っており、私の顔を見ると、青空をバックに意味ありげにニヤリと笑った。


バーング・ラッシーの「バッド・トリップ」は、それを飲んだ4人に全く異なる効果や幻覚を与えたようであった。
例えば、後輩Mはあの時笑ってはいたが「至福感など無かった」といい、屋上のコンクリートにへたばった後は次第に身体の感覚が失われていき、最後に残ったのは「脳髄とチンポ」だけだったと語った。
後輩Tは、私同様の悪夢に襲われていたらしく、私自身がその時体験している幻覚を「実況報告」していたらしいのだが、彼はそれを虚ろな意識で耳にしながら、「ほんまや。まったくそんな感じや。」と思っていたそうだ。ただし、彼の状態は私よりもずっと「死」に近かったようで、トリップの後の段階では「三途の川」らしき河原に自分が立っており、向こう側の川岸では「亡くなったおじいさん」が手招きしていたという。幸い、川に入りそうになるところで、オーム・ロッジのオーナーがライムのソーダ水を無理矢理口に注ぎ込むと、その瞬間正気に還る。しかしまたすぐ「三途の川」に戻って川向こうの「亡くなった親戚たち」から手招きされる。そちら側に引き寄せられそうになると、またオーナーのソーダ水で正気に還される、---といった状態を何度となく繰り返していたそうだ。
一方、Kだけは「バッド・トリップなんて全然なかった。ずっと気持ち良かった。」という。ベッドの上では、自分が「巨大な風船の上に自分が横になっており、その上を『ポワーン、ポワーン』と浮いたり沈んだりしているような感じ」だったと。彼の話で最も興味深いのは、時間の感覚が狂った結果「時間の後退」を経験したことだ。つまり、現在の自分から、中学時代の自分、10歳くらいの自分が親に叱られている様子だとか、5歳くらいの自分が家族と過ごしているところだとかを次々と経験し、さらに後退してゆく記憶はしまいに「0歳の壁」を通り越して「前世」まで行ってきた、というのだ。ちなみに彼の前世は「セミだった。」そうで、「セミの友だち」の「シゲグ君」と一緒に、『シゲグくーん!』とか呼びながら木の幹を飛び回っていたそうだ。

あれからもう15年近くが過ぎ、あの時の体験は記憶からかなり薄れつつある。それでも、私はその時屋上で撮った「天国の雲」の写真を見るたび、あの「至福感」がおぼろげながら蘇る。たぶん、私はあの時、天国と地獄の両方を、この世で経験してしまったのだ。あれ以降、たしかに私は「あれ以上」の快感も「あれ以下」の悪夢も経験していない。

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