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健康食品や医薬品など幅広く利用 寒天の歴史
元小田原短期大学教授 中村 弘行
始まりは江戸期の京都
人々の創意や苦難に満ちる
中国への輸出、薩摩藩の密造も
寒天は江戸時代、京都で発明された。伝承では、明暦年間( 1655 — 1657 )に伏見の美濃屋左衛門が発明したとなっている。しかし、実際はそれ以前に作られていた。その根拠は金閣寺住職の日記『隔冥記』である。寛永年間( 1624 — 1643 )の日記に「氷心太をいただいた」と記されている。最初の名称は氷心太。寒天という名称は、のちに隠元禅師によってつけられた。
約1世紀の後、摂津(大阪府北部など)に寒天が伝わり 18 の村で寒天製造が行われた。製品は中国輸出用の細寒天である(細寒天は燕の巣の代用品として珍重された)。その約 30 年後、薩摩藩でも寒天が作られた。
なぜ南国薩摩で寒天? それが薩摩藩のねらいだった。密造である。寒天製造には大量の水と氷点下の気温が必要だが、適地が薩摩にあった。水・寒さ・薪の三条件がそろった高城郷(宮崎県都城市)である。京都山科から指導者を招き寒天を作り、幕府の目を盗んで中国で密輸出した。
同じ頃、信州の行商人・小林粂左衛門が関西で寒天製造の習得し、郷里で仲間たちと寒天製造を始めた。
信州の気候は寒天製造に合っていた。海が近いため原料搬入が課題だったが、富士川の舟運を活用し、みるみる成長した。現在、長野県の寒天生産量は全国 1 位である。
天城山(静岡県)にある寒天橋。石川さゆりの「天城越え」にうたわれている。この橋の名はこの地で寒天が作られていたことの証である。橋の近くに作られた寒天工場は明治新政府の殖産興業の一環だった。地域密着型の地場産業として人気だったが、新政府の金融政策に乗じて銀行業へと鞍替えしたため、三転製造は中止となった。わずか 7 年のいのちだった。
大正時代、樺太でも寒天製造が行われた。樺太南部の遠淵 湖に伊谷草という観点原料が大量に繁茂していた。色が黒いという欠点を克服して製造特許を取得したのは東京深川の材木商・杉浦六弥だった。
杉浦は特許を盾に伊谷草採取と寒天製造を独占し、遠淵湖を漁場とする地元漁民と激しき対立した。この問題を解決したのは医師の香曽我部穎良であった。香曽我部は杉浦の特許の権利消滅を突き止め、漁民は寒天製造権・販売権を獲得した。
時代が大正から昭和に変わる頃、岐阜でも寒天製造が始まった。当時日本をおおっていた大不況という問題を解決する秘策として農家副業に寒天が選ばれた。官民一体となって背水の陣の取り組みは徐々に成果を上げ、昭和 6 年には県下に 25 の寒天工場を数えるまでになった。岐阜寒天は、細寒天に限って言えば、現在全国シェアの 8 割を誇る。
現在、食品としてだけではなく細菌培地、歯科印象材、化粧品、医薬品、介護食、食品サンプルなどとして日常的に使われている寒天であるが、その歴史は人々の創意と葛藤と苦難に満ちている。詳しくは拙著『寒天』(法政大学出版局)をお読みいただきたい。
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