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論破文化を考える
関西大学教授 植原 亮
「相手言い負かし優位に」の欲求
「論破」という言葉は、議論の相手の決定的な間違いを指摘して完全に勝負がついたときなどに使われる。
この言葉そのものは昔からあるものの、近年はネットを中心としてメディアで非常によく目につくようになっている。論破を称賛し、自らも進んで実践しようとする風潮は、特に「論破文化」とも呼ばれるが、そこに向けられているのは総じて批判的な視線である。「はい論破!」というフレーズに象徴されるように、コミュニケーションをそこで一方的に打ち切ろうとする、いたずらに攻撃的な傾向が見てとれるからだ。しかし、それでも論破を好み、論破文化に染まる人は少なくない。
ひとつには、相手の主張を言い負かして自分が優位立ちたいとか、誰かがやり込められる様子を見てスッキリしたい、といった欲求のせいだろう。ここには幼児性がわかりやすく表れているが、いとわしいサディズムが潜んでいてもおかしくない。
もうひとつ、白黒はっきりさせてしまいたい、という欲求も見え隠れする。どちらの主張が正しいか不明なままの状態に耐え続けるのは難しいものだが、論破はそんな不快な状態から解放してくれそうだ。
なるほど、世の中には明らかな誤りも見受けられる。現代の先進国信じている人がいる地球平面接などは、そうした極端な例である。そうした百パーセント「黒」といってもよい主張に付き合う必要はないし、ましてわざわざ論破するまでもない。
ところが、たいていの意見は、それほど簡単には白と黒のどちらか割り切れるものではない。大枠では正しいが根拠があやふやな箇所でも散見されるとか、誤解だらけだけれどもじゅうような提言がわずかに含まれているといった具合に、ある程度はグレーなのがふつうである。それだけにきちんと検討するには慎重さが求められるが、そこで我慢できずに論破で一挙にスキップしたくなってしまっても不思議ではない。
議論を共同事業と捉え、思考を「遅く」
思考をあえて「遅く」するように心掛けなければならない。最初に下した判断は単純な白か黒かを求めていかなかったとか保留するように心がければ、慌てて極論に飛びつかなくなって住むだろう。ほかの人に意見をもらう機会を積極的に設ける様にすれば、さらに取り入れられる点が見つかるかもしれない。そうして結論を出すのはあえて遅くすれば、その分だけ修正や改善を試みることができるはずだ。
さらに、今述べた点からもう一歩進むと、議論は本来、時間と手間のかかる「共同事業」だ、という面が見えてくる。議論の参加者が互いの主張タンメンにチェックし、検討を積み重ねていくことで、やがて完璧ではなくても今よりもベターな結論にたどり着くと期待する。この共通の目標を引き受けることが、実りある議論が成り立つための条件なのである。
論破文化は、個人の自然といえなくもない欲求に根差しているだけに消滅することはないかもしれない。
しかし、思考を遅くする高揚と議論を共同事業と捉える視点とが正しく理解されていけば、さほど魅力あるものとは映らなくなるだろう。
(うえはら・りょう)
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