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自分は自分でこの自分の苦しみを作り出してそして苦しんでいると、気づける自分の苦しみを観ていると、そうなっているなんでこんなバッカな事ばかりやっているのだろうかと、ばかばかしくなるけど身体が反応しているから、困った物だと観ている。やれやれと
2014.07.27
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気づいているときは、思考ができないというか出られない状態になっています。思考というのは、感情とでもいうか、考えていると言う事だから、気づいているとき、思考が落ちているとわかれば、それが気づいていると言う事だと思います。つまり気づいているとき、それを続けるとき、あれ!!!思考が出てこれなくなっていると言う事に気づく事だろうと思います。当然その状態を破るように思考は出てきます。必ず破られるはずです。それでも良いので、また気づきに戻ることを続けるこれが一番重要なことなのでは無いかと思えるのです。
2014.07.26
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昨日もムカッとすること(怒りです。)があったのですがその瞬間息を気づいてみると、息が止まっています。一瞬ですが、その状態を観ると、そのこわばりというか緊張が解けていきますそうなると、このムカッとくる怒りは、どこにも無くなっていました。あれ!?どこに行ったんだよ?って感じです。このスピードはものすごく速いので、その瞬間をとらえる必要がありますが怒りが続くというのは、自分でその怒りを掴んで、掴み続けるから怒りが止まらないのでは無いかと、自分では理解しています。まあすべてうまくいくわけではありませんが、自分の基本的な認識としてはそうなっています。いつも実験してやろうと、怒りとか不安を手ぐすね引いて待っているようになりましたがそうなってくると、案外起こらないものですね(苦笑い)
2014.07.22
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いつも人に会うと行っているのですが、特に自信の無い人にあなたは本当は、もっとすばらしい人なんですよってなぜに自分の作り出した幻影に、これだけ痛めつけられているかと幻影は消えることが知り、自分はどこにも居ないと言う事が、わたしはいないと言う事がほんの少しでも知る事ができると言うことは、とても楽に生きることができることがわかるのです。自分を長い間探しもとめていたものは、何かそれこそ、ありのままの自分であるからです。そうでしょう、痛めつけていたものが、無くなっていくのですから悲しさも、むなしさも、恐れも、不安も、後悔も、etcそれは息の中で、足の下で、消えていく事がわかるように、それを掴んで外に投げ出すようにできる全て完全にとは行かないにしても、一回でもそれができると、それがわかるようになるはずなのですけど
2014.07.16
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大乗は経律論、経は教え。律は戒律、論は注釈(たとえばアビダルマなど)の経と言うより論に近いものでは無いかと思えるのです。ある意味虎の巻、こたえと言っても
2014.07.15
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あなたの心はどこにありますか?と言う問いにたいして無意識的に心臓を指し示すことが多いと思います。これはなぜかと言うことに対しての答えは前に述べていますようにこころは身体が作り出す幻影であることに、気がついているのでは無いかと思えるのです。緊張すると言う事は、動くことなのです。緊張しないと動けません。生きていると言う事は、常に心臓は動いています。動くと言うことは一種の緊張になります。ですから、心根は猿吼のごとく留まる所なしとあるのは、この事からどうしようも無いことなのだと思えるのです。生命力、生きると言う事が生み出したものがこころであると思えるのです。
2014.07.15
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自分は、どうも思考というのは、動作が作り出したものじゃないかと思っています。だから、体を観ることで、思考が落ちやすくなる用に思います。どうも自由意思というものは、無いようで意識が生起するまえに、身体が動き出しているという脳研究も出てきています。それに対して身体の感覚から心が生じるように見えているのは、「触→受→想」の部分を見ているからだろうね。それに対して想が無いことが悟りだという話もあるのでそれで良いのではないかと思っています。これがみえると、思いが出てくる瞬間があらかじめわかるのでそれに気づきをぶつけると、思いが出てこれなくなる様です。想いと気づきは共存できませんから、そうなっていませんか?
2014.07.15
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甘いのもおいしく、酸っぱいものもおいしく、辛いものもおいしい
2014.07.13
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この物語雪の女王(エルザ)の全てを凍らせるものとは、自分の中にある氷のような心の表現と思えます。エルザはそれを人に見せないように、押さえつけるように暮らしてきたと言えるのですけどそれをコントロールするように、しようしようとしてうまくいかないそして、全てを凍りつかせてしまう。怒りが、不安、恐怖そうするとどんどん大きくなる事が、全てを凍りつかせ、周りを傷をつけていく事で表現されています。人はそれを最後には殺そうとして、兵を送り。捕らえ、処刑しようとする。剣が振り下ろされるそれを止める為に飛び込んだものが、剣を粉々に砕く刀尋段段壊 (つるぎついにバラバラに折れ壊れる)そのものとは、相手を思いやる心、その人の苦しみを除いてあげたい心の現れだれにもあるもの、それは前に述べたものの現れ雪の女王はその存在、それを知る事により、氷に閉じ込められた国は、一気に晴れていく事になります。では最後に雪の女王の、その氷つかせる力はどうなったのでしょうかやはりそれは無くならず、それと、隠すこと無く、押さえる事無く、一緒に共存して進んでいきます。ようやく理解し共存した姿をみせます。それはただの自分の思いに過ぎなかったのですから
2014.07.13
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手放す事を訓練している為だろうと思う。そうで無くても人は、なんでもかんでも掴んで自分の物にしようとするでもよく考えてみれば、永遠に掴んでいることはできないのに、それでも掴もうとするのは、なぜかは前に書いたように思うだからそれを少しでも離すように、これも苦から離れるための方法だと言うことがわかる。追記寄付でも何でもいいのだけど、手放してみる。そのときの自分の心を観てみる惜しいと思う気持ちがあるはず、べつにそれはそれでよいと思う。誰もそうだからそれがどうなっているか、観るということをしている。なんども寄付や布施をしてみて、自分の心を測定していみる。どう感じているか、これも一種の訓練では無いだろうかもちろん、どこかの話にあるように、家庭を傾けるほど布施する人もいるが、そうでは無くて小さくても、手放す訓練というか、そのときの心の測定をしてみるようになった。なにも引っかかり無くできれば、もう少し多くの手放しをできるようになりたい。もう十分に持っているのだから惜しいという心、それも必要、ではその心がどれだけ変化していくかそうでなくもため込みすぎる自分だからそう思える。
2014.07.12
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執着を手放すとなれば一番良いのだけどそれはまず無理、しない方が良いと思う。では?自分は物に執着しているんだなと 気づけば良いもし気づけば、笑ってあげよう 自分ってこうなんだって(だれもそうですから、自分を厭になったり、恥ずかしく思う必要は無いのですよ)失いそうになって、不安になったり、慌てたりしたらそれは執着している証その執着に気づくことが、大切、それで十分だから(誰もその物を永遠に所有することはできないのだから、遅かれ早かれ手放さざるを得ないから)物を貸すのならあげてしまおうお金を貸すならあげてしまおう心に負担の無いところから
2014.07.12
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安全の島息を吸いながら 内なる島に帰る美しい木々が茂る島涼やかなせせらぎが走り鳥と 陽光と さわやかな空気の満ちる島息を吐きながら 安らぎを感じるテックナットハン
2014.07.09
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日本の食事作法は13世紀に道元が著した「赴粥飯法」は禅宗寺院における食事作法を詳細に規定している。肘をつかない、音をさせてものを食べてはならないなど、現代の作法とされるものを既にほとんど網羅している。室町時代には、小笠原流・伊勢流といった礼法の流派が形成され、包丁や箸使いの所作があみだされた。室町時代末期に中世武家礼法を集大成した小笠原流は続く江戸時代に幕府の用いるところとなり、食事作法を記した「食物服用之巻」など無数に発行された同流の作法書により民間にも浸透した。庶民の間でも、食事作法は年中行事、身体作法、言葉遣いなどとともに生活作法の一環として、家庭内の躾を通じた教養の一つとされた。日本の食事作法についてのwikiから抜粋ではなぜこのような作法が禅に存在しているか、と言うのも今まで述べてきたように、気づき(サティ)がその根底にあり、あまりにも重要であるからこのような規定が出てきたのでは無いかと思えるのです。作法は何のためにあるのか、なぜこのような事をしなければならないのか、この気づきと比較することでものすごく大切で重要であることが浮かび上がるのです。気づきながら食事をすると言うことこそ、このような作法になることがよくわかるのです。そして、何度も書きますように気づきが心を整える、先に進む入り口何のためにこんな事はするのかは、この理由によるものです。常にはできないものですが、このような事は、実はその人の為になるものだと言うことがはっきりわかるのです。
2014.07.05
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どうしても身体に残ってしまう部分があります。これに対しては、それを観る事で離れる事ができますが、それでもダメな場合(相当強い場合)まずぎゅっと強い力で手でも握って、そしてお腹から呼吸を吐くようにして、それを緩めると言う方法があるように思えます。これはむかし習っていた拳法の中にあった方法なのですが、なぜこんなものがあるのか不思議できたがおそらくこれは、じつは心を整えるための方法では無かったかと思えるのです。少林拳の源流は、禅宗の創始者である達磨にあり、インド南部にはそのような武術が残っています。相手を蹴ったり殴ったりするものでは無く、じつは自分の心を調整する為のものでは無かったかと思えるのです。これは動中禅と呼ばれる方法なのでしょう。チャールーンサティなどもその流れだと思います。むかしそのような事をしていたのでこの方法を見たとき、武術との関連性を非常に感じました。強制的に、この身体のこわばりを外してしまうことができるのではないかと、いま試しているところです。前に書いた、指を握っても放り出すのも同じ事です。
2014.07.03
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