今日も他人事

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219年 孫家の落日



成人を迎えた司馬望(司馬朗の養子)、ホウ会(ホウ徳の息子)を新たに幕下に加えた劉備軍。

また、諸葛亮の勧めで、捕虜となっていた兄の諸葛謹が孫権軍から劉備軍に転向してきます。

3月。昨年から続いていた江夏攻めは徐庶達が江夏守備軍を引き出し、水路から侵攻した法正達が手薄になった城郭を占拠したことで終わりを告げます。

続いて劉備軍は、揚州攻略の前段階として次の狙いを柴桑に定めます。

揚州と荊州南部の中間に位置する柴桑を占拠することで、孫権軍の分断を図ろうとの目論みでした。

はじめ、柴桑攻略は趙雲に任される予定でしたが、趙雲自身はトウガイに攻略軍を任せるように進言します。



トウガイがまだ若いことを心配する者もいましたが、劉備はその進言を聞き入れて、トウガイに副官としてホウ徳、馬雲リョクをつけ、三万の兵を率いさせて柴桑に向かわせます。

トウガイは廬江から水軍を率いて長江を渡ると、港を占拠して柴桑へと攻めあがります。



孫権軍の老将・黄蓋が阻止せんと迎撃に赴きますが、ホウ徳が一騎討ちで黄蓋を討ち取ると守備部隊は瓦解。

さしたる抵抗もなく柴桑の占拠を終えたトウガイは残留部隊をホウ徳らに任せ、自らは廬江に帰還します。

趙雲はトウガイの戦功を劉備に報告し、再編を完了した第三軍を揚州へと進軍させます。

揚州は孫権軍の根拠地であり、周囲は長江という巨大な壁に覆われているため、迂闊には手が出せません。

趙雲は徐庶、陳到、トウガイらと共にまず、揚州で西端にあたる建業へと矛先を向けます。

この時、趙雲は建業の最寄の港ではなく、それより南の港に攻め込み、これを占拠。

そして、建業と港の中間地点まで北上し、拠点の建設を始めると同時に張飛、董白、馬超の三万騎を建業と呉の中間地点に上陸させ、港を占拠させます。



この動きを阻止すべく、建業から呂蒙を先鋒に孫権自身が四万近い軍勢を率いて南下を開始。

拠点建設を完了した第三軍は三万の兵でこれに応戦し、激しい押し合いを繰り広げます。



しかし、戦いの中で徐庶と陳到が呂蒙を破って討ち取ると、孫権軍は勢いを失って建業へと撤退したため、趙雲は第三軍を率いて建業を包囲。



この包囲網を崩さんと孫権自身が兵を率いて出馬しますが、趙雲に敗れて捕らえられます。

11月。碧眼児と呼ばれた孫家の当主・孫権は三十七歳の若さでその命を落としました。



同じ頃、許都を訪れて再び劉備軍に加わろうとしていた孫尚香が、兄である孫権の死を知るのは、もうしばらく後の話でした……。

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