シアトルからこんにちは

シアトルからこんにちは

2002年10月前半の日記


人間関係って難しい
今日昔のお友達から、厳しいイーメイルをいただいた。

私が彼女を見下しているとか、悪口を言ったとか、いろいろ書いて、最後に、「神様と対話を持って欲しい。」と書いてきた。

いろいろ振り返ってみて、決して悪口を言ったこともなければ、見下したこともない。かえっていつも尊敬していたのにと思う。彼女は離婚して子供さん2人を立派に育てた人だ。

うまれてはじめてこのような手紙をもらって、正直言って戸惑っている。

言い訳したい気持ちがあるけど、先日遠山じゅごんさんのエッセイに「私は言い訳しない。」をよんで共鳴したばかりだ。
これ以上話したら泥まみれになりそうなので、無視することにした。

つくづく人間関係って難しいと思う。
私が無神経すぎるのかもしれない。

彼女が数ヶ月前に私がしたことで彼女はすごく傷ついた。

私はただ役員としての責任を果たしたつもりだったけど、個人的な攻撃と受け止められたらしい。

こんなときイエス様はどうするのだろう?

「わたしたちの友情が両通行だと思っていたのに一方通行だった。」とまで書かれている。

私は鈍いから人の気持ちが読み取れないのかもしれない。

コミュニケーションのクラスでも取ろうかな?

今日はなんだかがっくりした日でした。

こんな私のためにも主は十字架にかかってくれたと思うと感謝です。


ここまで書いた後、http://www.febcjp.com/index.html の、70歳の女性からのレターを読んで慰められた。

「私は、良い人間になろう、少なくともそう努力しようと思っていました。そしてそれは結局、他人から良い人だと思われたいという浅ましいまでの欲望でした。しかし人間は自分の努力によって変わるのではなく、主イエスの恵みによって、そしてそれを感謝することによって、私自身を主が変えてくださるのだということを受け入れることができました。これからはありのままの自分をイエス様に見ていただこうと思います。きっとイエス様が導いてくださると信じます。

「キリストにはかえられません いかに美しいものも このお方で心の 満たされている今は」(讃美歌21 522番)
娘の通う施設の今月の歌です。 今の私の心境です。」


たしかにお友達に嫌われたのは悲しいけど、今夜は主に満たされ、全てを委ねよう。



10月 14日 月曜日
映画「ヨナ ベジテール」---セカンドチャンスを与えてくださる神
いやーきのうの映画はよかった。子供向けの映画だが、神学的に深い真理が、明確に伝わってきた。

ヨナ書を映画化されたもので物語をご存知の方も多いだろうが、ヨナは預言者だ。或る日主は「ヨナ、ニネバの町にいって伝道しなさい」とおっしゃった。

ヨナは、「ニネバの人々は残酷で極悪な人ばかりなので、行きたくない。」と拒んだ。主から逃げようと逆方向に行く船にのったが、その船は大雨に遭う。船員達は「私達のうちに主にそむいた人がいる。主は怒っておられる。」と気付く。ヨナだとわかると船員たちはヨナを海にほうむる。

海に投げられたヨナは大きな魚に飲み込まれ3日3晩魚のおなかで過ごす。大魚の中でヨナは改心する。魚はヨナを噴出し、ヨナはニネバに行く。

ニネバの人たちはヨナのメッセージを喜んで受け入れ、罪を告白し、悪の生き方から、正しい生き方に変える。

皆が喜んでいるのとはうらはらにヨナは、悲しむ。
ヨナは、神様がニネバの人たちを滅ぼすことを願っていたからだ。

ヨナの計画と神の計画は異なっていた。

なぜなら神は全ての人を愛しておられるからだった。
神様はヨナにセカンドチャンスをあたえたようにニネバにもセカンドチャンスを与えることを望まれた。

なんて素晴らしい主だろう!

ハレルヤ



ヨハネ3:15
神は実にその一人こをお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。神が御子を世に使わされたのは世を裁くためではなく御子によって世が救われるためである。




10月 13日 日曜日 のち
人間関係が変わるとき
娘達が巣立って、この家は私と主人2人が住むには大きくて不合理なので売ることに決めた。

先日から少しずつ箱に詰めてしている。
今度は2世帯の家を買って、一階を貸すようにしようと思う。できればもっと大きな土地が欲しい。

きのう娘が孫と一緒に来て手伝ってくれた。

本棚から私のアルバムが何冊か出てきた。父はとても几帳面で子煩悩な人なので、幼い頃から私と姉の写真をきれいに、日付と説明をつけて貼ってくれた。私の幼い頃の写真を見ながら、娘はけらけら笑って、「わー。これ私に似てる!」とか「お母さんって男の子みたいだったのね..」とうれしそう。

中でも彼女のお気に入りは私が三歳のとき、道路の真中でパンツ一まいで、王冠のようなものを頭にかぶっている写真だ。
弁当箱を右手に持って、自信満々の顔でニコニコ笑っている。
(私は全然覚えていない。)(

「ママ。この写真是非頂戴ね。フレームに入れて飾りたいから...」という。

冗談じゃない。こんな写真誰にも見せたくない。と心の中でおもいながら、「ちょっと考えさせてね。」と答えておく。

写真の日付が少しづくかわって、主人と出会った頃の写真を見始めた。「わー。パパってハンサムだったんだ!」と驚いて言う。
私の主人はわかしころ、ウイーン少年合唱団の男の子のようだった。幼い頃は金髪で私が知り合った頃は茶色の髪だった。

写真を孫に見せて「こればgrandapaよ」というと、孫は戸惑った顔して、「どこ?」ときく。無理もないよね。主人の髪はナチュラルカールで茶色(いまは短いストレートの髪で真っ白。)

体重も今の3分の2くらい。どう見ても同人物にはみえない。

娘はパパがモーターバイクをのりまわしたり、サイケデリックな服を着て肩まで髪を伸ばして、ギターを弾いているのを見てけらけら笑っている。

そういえば私は娘が生まれる前の話をしたことがない。
話すほどのことでもないと思ってほとんど何にも教えなかったけど、そろそろ、興味をもってくれる年になった。

私は娘と自分の生い立ちには共通点が全然なくて私のことはわかってもらえないだろうと思い込んで何の話もしなかった。日本のカトリック系の女子校に行ってぶさいくな制服着て前髪何センチ、スカートはひざがかくれなきゃいけないなどと、校則だらけの学校だった。

このときふっとイエスとメリーの関係がかわった出来事を思い出した。

いま学んでいるヨハネの福音書2章だ。

カペナウムの結婚式でワインがなくなったとき、メリーはイエスに「ぶどう酒がありません。」と言った。

このときメリーはイエスを自分の息子として話している。

イエスは「」貴方は私と何の関係があるのでしょう.女の方.私のときはまだ来ていません。j

メリーははっと、自分の息子は神の子であることを思い出して、イエスを主として話しはじめる。

母は手伝いのひとたちに言った。「あの方が言われることを何でもしてあげてください。」と。

この瞬間イエスとマリーの関係は変わった。

母と子の関係から主と仕える者の関係に変わった。

人間関係で、ある瞬間、関係の質が変わることがある。

今日私と娘の間の関係は変わった。

今まで私の子として話してきたけど、ふっと、これからは一人の大人として、又一人のクリスチャンとして、話してみようと思った。

私の葛藤、失敗などいろいろな話を少しずつしてみよう。

いかに主が私を守ってくださったか。いかに私がもう少しのところで主を捨て、主人を捨てそうになったか...

一人の友達が増えた。

ハレルヤ




10月 12日 土曜日 のち
Christian Community Hospice
私のBSFの討論グループのリーダーは退職した看護婦(RN)で、マルタさんだ。
クリスチャン・コミュニテイ・ホスピスという組織でボランテイアをしている。家庭訪問して、感情的霊的なサポートを無料で与える組織だ。普通のホスピスではそれぞれ個人によるということでイエス様の話をしたり、祈ったり出来ないそうだ。それでクリスチャンホスピスを始めた。この組織はいろんな教会からサポートされ、医者や看護婦が重要な決断や指示してくれる。

http://www.christianhospice.org

彼女が分かち合ってくれた話。

先日、「父が癌で死にそうですので来てください。」と電話がかかった。その日は土砂降りの雨で住所が遠かったし、電話の様子ではいつ死んでもおかしくない状態だったりして、正直言って、彼女は「私がいってももうできることはないかもしれない。」と思い、気が進まなかった。主が、「行きなさい。」とおっしゃるので、重い腰を挙げて出かけた。

その家には癌末期の老人と、メキシコから駆けつけた息子の家族がいた。息子は、メキシコで宣教師をしているが、父はキリストを受け入れているかどうかわからないと泣いて語った。両親は何十年も前に離婚したそうだ。

マルタさんは、老人の部屋にはいり、「息子さんがまた貴方と天国で会えることを願っておられますよ。」と話し福音を分かち合った。

そして別部屋にもどって、息子さんに人間の最後にどのような兆候があり、どのように接したらよいかを説明し、目を果たした。

隣の部屋で老人は息をひきとった。

電話をかけてきた娘は結局こなかった。

親戚の人が少しずつこられたので、彼女は家路についた。

わたしの親友ががんで去年亡くなったときも、クリスチャンホスピスから派遣されてマルタさんが来てくれた。

私は親友を亡くして、人生観が変わった。もっと意味のある働きをしたいと祈ってきた。私は注射と血が苦手なので看護婦向きではないけど痛みをもったり苦しんで死期を迎えた方や家族の支えになれないかと考えてきた。

2月からこのホスピスのトレーニングはある。看護の経験は要らない。1つだけある条件は本人が悲しみから立ち直っていることだとおっしゃった。マルタさんは私がまだ悲しみから立ち直ってないと思っているのかもしれない。

この世の最後に、苦しんでいる人を痛みから解放し、楽にさせ、感情的、霊的なサポートを与える。なんと素晴らしいミニストリーなんだろう。

神様どうか道を示してください。



10月 11日 金曜日 のち
BSFのランチョンがありました。
今年始めてのBSFのランチョンがあった。11人の女性が集まって、タコスープを食べた。
リーダーの人が「それでは自己紹介をしてください。家族構成だとかどれくらい聖書を勉強したとかどんな仕事をしているかとか他の人に知ってもらいたいと思うこと何でもいいですから。」とおっしゃった。

一人ずつ順番に皆ユーモア含めて、ニコニコはなしておられた。

いつもなら、ちゃんと頭の中であれとこれを言おうと考えて決めるのに、今日に限って、他の人が自己紹介している間人の話を一生懸命聞いて、気が付くと自分の番になっていた。

主人と日本で知り合って...といいはじめて気付いたら、涙を流しながらいかに神様が主人を変えてくださったか話していた。
ぽろぽろ泣くわたしの自己紹介がおわると、リーダーの人が、「That’s wonderful. じゃあ、次の人。」とおっしゃった。

顔が真っ赤になるくらい恥ずかしかった。何故あんなに自己紹介で、感情的に泣いたりしたのだろう?ホルモンのバランスが崩れているのかしら?更年期障害の前兆???バカだな...と穴にあったら入りたくなった。

「でもいいや。」と開き直った。イエス様は人の前で私について証する人を私も父の前でも証します。と仰る。

かっこつけるのはもうやめよう。

人が自分をどう思うかをきにしないで、イエス様の素晴らしさを分かち合おう。

人生短いのだから...

それにご主人とうまくいってない人も居たかもしれない。

なんだかほっとした。今日はいい日だった。

主に栄光あれ。



10月 10日 木曜日 のち
「ぶどう酒がありません。」
ヨハネによる福音書 / 2章 3節

ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。
「あの方が言われることを何でもしてあげてください。




明日までに終えなければならないBSFの宿題をしこしこやっている。

質問は、マリアの態度が3節から5節でどのように変わったのか?という質問だ。よくわからないのできよきよさんの「聖書の学び」を読む。

http://home.att.ne.jp/gamma/logos/j_frame.html

それによるとマリアはイエスが神の子であることを心に秘めていたはずなのに3節では、自分の子として話し掛けている。
5節ではイエスが神の子だと気付いて、この人の言うとおりにしなさいと態度が変わっている。

そういえば藤井圭子先生が若かった頃、仏教に魅せられた理由は、「自分自身がBuddhaになれる。」という教えのほうが、キリスト教のように、「神のしもべになれる」というより、いいと思ったとおっしゃっていた。カルトや新興宗教の共通点は自分が立派な人になれると教えることだ。(例えばモルモン教では自分が神になれると教える。)

ところがクリスチャンの教えでは、自分が弱いと神が強くなる。
自分が空になってはじめて主が満たしてくださる

だから傲慢な人にはアピールしない。

人間は罪人であるという教えに基づいた謙虚な信仰だ。
自分で自分を救えないと自覚してはじめてキリスト教信者になれる。

マリアも自分の子供だと思ってイエスに命令口調で話したらしい。
実は彼女がイエスに従うべきだったのに...

「主よどうか一刻も早く彼女を救ってください。」とここ数日祈ってきたが、ふっと神様は状況ではなく私を変えたいのかもしれないと思う。「主に~をしてください。」と祈るのではなく、「私は一体どのようにしてあなたに従ったらよいのでしょう?」と祈るべきだと教えてくださった。

夕べの夢の中で「私にできることは、やさしく愛を表現すことだけだ。」と示された。

だから自分の出来る事をして後は主に委ねよう。

苦しいときしか神様の言うことを聞かない私の注意を主に向けて私を変えようとなさっていたのだ。




10月 9日 水曜日 のち
「私のところへ来なさい。」
亡くなった親友のご主人からイーメイルが届いた。お父様が心筋梗塞で入院されたとのこと。

親友のご主人Jerryさんは会社の社長で裕福でハンサムなスポーツマンだ。よく誰をも必要としないself-suffiecientなひとだと思われる。

ところがじつは実際は親友をずいぶん頼りにしていた。
親友が亡くなってかなり体重が減って、戸惑っている様子だ。
イーメイルを読みながら「こんな緊急のとき親友のJoさんは強かったな。」と思う。

犯罪者の父親と警察官の母親の間に生まれたJoさんの人生は結婚して家を出るまでは暴力と酒と麻薬と犯罪ですさんだ生活だった。

立派なご両親のもとで育ったボンボンのご主人とは全く違っていた。

「私を救ってくださったのはイエスです。」と口癖のように言ってた親友は、会う人皆感激するほど、やさしく上品な人だった。
癌で自分が痛んでいるときも来る人一人一人を励ましてくれた。



私は全てを主に委ねきってないんだと思う。
だからいちいち事あるごとに信仰が膨れたりしょげたりする。

考えるのがいやになって、いっそ皆元気で皆仲良しで居られる魔法のwandでもないのかとやけくそになる。



ヨハネ5:39
あなた方は聖書の中に永遠の命があると思うので、聖書を調べています。その聖書が私について証言していうのです。それなのにあなた方は命を得るために私のもとに来ようとはしません。



「答えはイエスにある。」

イエスは「私のところに来なさい。」と仰っている。

主よ。今日私はあなたの暖かい胸元にすがります。
涙を拭いてください。

私には誰の心を変えることも出来ないし、誰を幸せにすることも出来ません。
できることなら、全ての痛みをとってあげたいのに...

「母親の涙を神様は大切に一粒一粒取っておいてくださる。」と誰かがいってました。

あなたの平安で心が満たされますように。

主は素晴らしい。

私の心の願いをご存知です。
どうか私の心に来てください。



10月 8日 火曜日 のち
38年病気だった人
人間は慣れる。どんなに悪い状況でも新しい環境に入ることはエネルギーがいってしんどい。だから、ままこの程度でいいやとあきらめ半分になる。

私もそうだ。「主の御旨にかないますよう。」にと祈る反面、今の状況維持するほうが楽に思える。

ヨハネ5章には38年病気だった人の話が書いてある。


ベトザタの池で病人をいやす
ヨハネによる福音書 / 5章 1節 ~9節
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。


主は38年病気だった人に、「よくなりたいか?」と訊ねられた。

病人はその答えには答えず、「なぜ、自分が今でも病気であるかと言い訳を話した。」あまりにも病気が長いと、一体自分が何を望んでいるのかもわからない。神経が麻痺している状態だ。
おそらく彼自身の中に自責の念があったのだろう。

イエスは彼にただ「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」といわれた。

彼は起き上がって床を担いで歩き出した。

主が私に「~をしなさい。」と仰ったことが何度かある。そのとき、
体全体で感じた。

理由はわからなかったけど、ただ従った。
振り返ってみて、「ああ、主はあの時私の心の奥の願いをご存知で、自分でも気付かなかった願いをかなえてくださったのだ。」と今になってわかる。

主は今も長年病の床に伏している人を健康にされる。
主に不可能なことはひとつもない。


10月 7日 月曜日 のち
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
ヨハネの福音書をBSFで学び始めて、神の御言葉が愛しいと思うようになった。以前は義務感で読んでいた聖書が、愛しいなるなんてまさに聖霊の働きとしか思えない。

サマリヤの女性に出会ったとき、イエスは「水を下さい」と女性に頼んだ。ユダヤ人は誇り高いので、サマリヤの、しかも女性とは口を利かないはずだ。それなのにイエスはサマリヤの女性に話し掛けた。まるでその女性が与える何かを持っている、すなわち女性に価値があるかのように。

人は誰でも存在感が欲しいと思っている。自分なんていてもいなくても誰も気付かないと思っている人ほど不幸な人はいないだろう。
この女性は多くの男性と暮らしてきたが夫はいなかった。つまり社会的には彼女の存在感はなかった。そんな社会の下層階級にあった女性にイエスは「あなたは私の目に高価である」と話し掛けた。

「自分のような者が??」とへりくだっている人に対してイエスはとてもやさしい。反対に自分のことを「なんてえらい人なんだろう」と高ぶっている人に対してイエスは厳しい。

なぜかというと器が空だと聖霊がはいっていけるけど、器がすでに一杯だと聖霊が入っていく余地がないからだ。



ヨハネによる福音書 / 4章 14節
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

ヨハネによる福音書4章34節
イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。

ヨハネによる福音書 / 4章 24節
神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」



主よ今日という日をあなたに捧げます。
あなたからの与えられる水を飲みます。
そしてそれが私の中で泉となりますように。

今日夕食に娘家族や次女とボーイフレンドがやってきます。
主の愛があふれますように。

私があなたの御心を行いますように。
そして、それが私の食べ物となり、力がついてますます働けますように。

主の御名によって

アーメン



10月 6日 日曜日 のち
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ヨハネによる福音書 / 3章 3節 ~18節

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。



私は18歳のときにクリスチャンになった。ノンクリの家庭に生まれ、まさに闇から光だった。今でも救われたときのことを考えると感激で震える。

ところが娘達のようにクリスチャンホームや教会でそだち、いつ新しく生まれ変わったのかはっきりわからないひとにはドラマチックな経験がないのかもしれない。

イエスには孫はいない。神の子のみだ。どんなに私が、願っても娘達がイエスを受け入れるかどうかは本人の決意次第だ。

ロバを川に連れて行くことは出来ても水を飲ませることは出来ない。

自分が体験した苦労をさせたくないと思って守りすぎたのだろうか?私の周りにも前はプレイボーイだった人や麻薬中毒だった人が今では神と共にまっすぐの道を歩んでいる。どん底まで落ちずに主に戻って欲しいと願ってきたが、苦しみなしに新生はありえないのかもしれない。

今日も娘たちのために祈っている。



10月 5日 土曜日 のち
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
ヨハネによる福音書 / 8章 3節 ~12節
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」


ナイジェリアの31歳のモスラム教女性アミナは離婚後妊娠したとして、死刑にかけられる寸前だ。

ナイジェリアの北では最近イスラム法が力をきたし、結婚外で性交した女性は石を投げつけて殺すというきびしい罰が与えられる。
方法は残酷で、首まで土に埋め死刑囚の頭に石を投げつける。最初は小さい石を投げ、だんだん大きな石をつかう。頭骨がこわれるまで続く死刑は3時間もかかることがある。

夫はというと、ただひとことコランに手をあてて、「自分の子ではない。」といっただけだ。コランに手を当てたので真実を語っていると思われている。DNAのテストもなければなにもない。
普通姦淫罪は4人の証人が必要とされるがアミナの場合子供がいるので、それが証拠とされている。

アミナを救うためにイーメイルを送った。
もしこれを読んでおられる方の中で協力したいと思う方は次のウエブサイトに行って、抗議のイーメイルを送ってください。
コピーペイストして送ればいいだけです。

http://www.amnestyusa.org/
http://takeaction.amnestyusa.org/action/index.asp?step=2&item=1807&ms=H4

日本語サイトは
http://www.amnesty.or.jp/campaign/Nigeria_action.htmです。

哀れみのない社会とはなんと残酷なのだろう。人間が人間を裁くことの恐ろしさをあてつけに見せられた。
母親を失ったらアミナの子供はどうやって生きていくのだろう?


10月 4日 金曜日 のち
自分のできることと出来ないこと。
ヨハネの福音書を学んでいる。きよきよさんのHPをよんだり、BSF(Bible Study Fellowship)の注釈を読んだりしている。

ヨハネの人生の目的はイエスの「声」となることだった。イエスがロゴス(言葉)であるのに対しヨハネは荒地の中で叫ぶ「声」だ。

自分のことはほとんど語らず。主のことを叫ぶ。

イエスのミニストリーはヨハネから水の洗礼を受けるところから始まる。神なるイエスは、ヨハネから水の洗礼を受けた。ヨハネは謙虚で、イエスを証することのみに人生を使った。

ヨハネの偉大さは、彼は自分が誰であって誰でないかを見極めていたことだ。



19:ヨハネによる福音書 / 1章 19節 ~26節
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」



ヨハネは自分に焦点をおかず、キリストに焦点を置いて答えた。

「私はただ荒れ野で叫ぶ声です。」




今日BSFに行って説教を聴きながら子供のプログラムでボランテイアをする決心をした。
どうにかして孫にBSFの子供のプログラムに来て欲しいと祈っていたが、娘にその意思がないようだ。それなら、「私が、子供のプログラムで習ってきて孫に教えればいいのだ。」と聖霊は教えて下さった。

財産よりも何よりも信仰を子供達に残したい。孫にも残したい気持ちが強かったが、具体的に成人した娘達にどのようにして伝道していいのか暗中模索だったが、ヨハネの話を聞きながら、聖霊が「できることをすればいいのよ。」と励ましてくださった。

自分のできることと出来ないことを見極めて、出来る事を信仰をもってやってみよう。

ハレルヤ



10月 3日 木曜日 のち
主のなさることには思いがけないボーナスがついている。
カウンセリングを受けてからの主人の変わりようには目をみはっている。

主は新しいだんなを与えてくださった!

主がなさることは、私達を心の内から変えてくださる。更新どころではなく、全く新しくしてくださる。感激。

カウンセリング前の主人は私と教会のポットラックなどに行くことを嫌っていた。さっさと家に帰ることばかり考えていた。
いろんな人が悩みや問題の話をすると、数学の問題を解くかのように解答を出すことだけに集中していた。

ところが今では、共鳴し、ハートで聞いてくれる。

なんと言っても一番驚いたのはガレージの掃除を始めたことだ。
うちのガレージは3台車が入る大きさだ。ところが主人は何も捨てない主義の人でこの家に住むようになってから10年以上ありとあらゆるものをため、今では車をガレージに入れることが出来ない。彼の見ていないとき、私が少しずつ処理するが、なにせ人のものを整理するのはちょっと良心がとがめるし、家のトラックが大きすぎて私は運転できないので、とても追いつかない。

ところが、カウンセリングで生まれ変わった主人は誰も何にも言わないのに朝からせっせとガレージの整理整頓、(主にガラクタを捨てる)ことに励んでいる。

これは本当の奇跡だ。

感情的に彼は全てのものを、引き離せなかったらしい。今では感情が自由になって、いるものといらないものを分けて、さっさといらないものを捨てる決心をしたらしい。ハレルヤ。

それだけではない。ここだけの話だが、性生活まで良くなった。

セラがイサクで妊娠したとき、「神は「笑い」を与えてくださった。」と旧約聖書にあるが、

神様は最高のセックス・セラピストだ...

主はイキなことをなさる。(ふふふ。)



10月 2日 水曜日 のち
もう10月ですね。
夕べおばあちゃんのグループに行って、わたしにとって、このグループは家族の延長みたいだなと思った。教会ではほとんどの人がいいかっこしてあまり、近しくならなかったけど、このグループでは腹をわって泣いたり笑ったりしてきた。私にとって最も苦しかった時期にサポートしてくれた仲間だ。

多くの苦難を受けてきた人は
多くの言語を知っている人に
たとえることができます。
彼らはあらゆる人を理解し、
あらゆる人から理解される方法を知っています。
(ニール・A・マックスウェル)

このおばあちゃんのグループに来ている人たちは、相当な苦しみを乗り越えた人ばかりだ。いろんな事情があって、孫を育てているひと、子供達をアルコールや麻薬に取り去られた人など、いろいろいる。それなのに憐れみ深く、忍耐強くいつもニコニコ笑っている。

今月中旬みんなでキャンプに行く。夜遅くまでチップス食べながらゲームをしたり、ホットタブであそぶ。テイーンエージャーにもどったかのようにパジャマパーテイしておそくまでおしゃべりする。

親戚のいない私にとって心の家族だ。

コミュニケーションは愛に基づいているのかもしれない。



今日の新聞にかいてあったが、「ワシントン大学心理学科内で現在続けているファミリーヘルスプロジェクトでは現在、研究に協力するアジア系米国人家族を募集している。」そうだ。このプロジェクトとはジョン・ゴットマン教授の率いる研究チームが家族内でのコミュニケーションがどのように子供の精神力、学力に影響するかを調査しているものだ。

アメリカの離婚率が高いのは良く知られているが、アジア系アメリカ人の離婚率は非常に少ない。それでこのようなプロジェクトが始まったのだろう。

ご本人のゴットマン教授はユダヤ系アメリカ人で家族を大切にする文化の持ち主だ。

コミュニケーションは、学校でおしえてもらわない。ほとんどみようみまねで覚える。
ですから自分の育った家庭が、コミュニケーションのあまりない家庭だったり、けんかの多い家庭だったりするとなかなか健康的に自分の意見を言ったり人の意見をちゃんと聞くという正常なコミュニケーションを取るのが難しい。

アメリカに住む日系人は、かなり苦労しているので、親に迷惑をかけたくない。親を楽にしてあげたいと思って子供達が優秀なケースが多い。「日系1世は百まで働いて、2世は収容所に入れられて。3世は医者や弁護士になった。」といわれる。結構日本でわすれられそうになっている古い価値観を大切に生きている日系人がアメリカにいるのかもしれない。

p.s
昨日から山ほどの庭の草抜きに励んでいる...

神様、喜びと力を与えてください。



10月 1日 火曜日 のち
Five languages of Love-- Gary Chapman
結婚後、キャンプのセミナーで愛の言語について習いました。
主人を理解する手助けになったので、ここでみなさんと分かち合いますね。


http://garychapmanphd.com/thefivelovelanguages/
ゲーリー・チャプマンによると、愛には言語が5つあるそうです。

まず、
1.言葉での肯定
(Verbal Affirmation)
例えば「素敵ね。」とか「ありがとう」などと言葉で表わす。」

2.質の時間をすごす
(Quality Time)
例えば毎日30分コミュニケーションに使う。
デートの時間を設ける。(これはおもに既婚の人のため)

3.贈り物
(Gifts)
例えば、チョコレート、花、カード」

4.何かしてあげる
(Acts of Service)
例えば、料理を作る。マッサージをする。

5.肉体的な接触
(Physical Touch)

例えばキス、抱擁、あるいているとき手をつなぐ、テレビを見るとき一緒に傍に座る


育った家庭環境がちがうと、異なるタイプの愛情言語を間違って「あの人は私のことを愛していないのでは?」と訳してしまうことがあります。
私は4で主人は2かな?

貴方の愛情言語はどれですか?
パートナーの愛情言語は?




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