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子どもをほめてはいけない

ほめない
 ある講演会で丁寧に時間をかけて、大人と子どもとの対人関係の構えは縦であってはならないという話をし、その連関でほめないという話をしたが、小さい子どもを認めてあげるためにはある年齢まではほめることも必要ではないかという質問を受けた。僕はそうは考えない。小さい子どもだからといってほめていいわけでもなく、よそさまの子どもならほめてもいいということにもならない。もっとシンプルに初めから誰の子どもでも何歳の子どもでもいっさいほめないというふうに考えたほうがわかりやすい。
 なぜほめないか。ほめるというのは能力のある人が能力のない人にいわば上から下に向けてくだす評価の言葉であるからである。「えらいね、よくできたね…」カウンセリングに母親が小さな子どもを同伴してきたとする。一時間静かに待っている。いつもはこんなにじっとしていられないのに、と親は思う。帰る時親は声をかける。「えらいね、おりこうさんやね、よく待てたね」
 それでは、カウンセリングにきたのが夫で、妻が同席したとしたらどうか。一時間のカウンセリングの後、夫が妻にいう。「えらいね、よく待てたね」…私だったらそんなことをいわれたら嫌です、と講演の時一番前にすわっていた人がすかさず答えた。でもそんなふうに自分がいわれたら嫌なことを子どもにはいっているわけである。大人と子どもでは話が違う? そうは考えない。

大人と子どもは対等
 アルフレッド・アドラーは「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」といっている。既に一九二〇年代に、二世代後には女性は男性との間に真の平等性を獲得するだろう、と予言している。アドラーがすべての人間は平等であることに積極的に関与した一つの証拠は、ティラ・ボルドセンが作った女性の参政権獲得を記念する彫刻である。デンマークの彫刻家で初期の女性解放運動家であるボルドセンは、多くの女性と一人の男性で構成される彫刻を設計した。その彫刻の中の唯一の男性が、アドラーである。
 アドラーが主張したのは、男女の平等にとどまらない。大人と子どもは対等の横の関係でなければならない、と主張しているのである。男女関係については、近年意識は変化してきたように思う。もとよりこれだけ男女の平等について議論されてきたにもかかわらず意識はそれほど変わっているとは思えず、今でも生活の多くの面で本当の意味での男女の平等は実現されていない。
 それにもまして、大人と子どもの関係については、大人が上で子どもが下だと思っている人が多いように思う。たしかに大人の方が知識も経験も多少子どもよりもある。また取ることのできる責任の量も違うので、大人と子どもが同じであるといっているのではない。小学校一年生の子どもの門限が夜十時ということはありえない。そんな時間に帰る責任が取れないからである。しかしもしもある家庭に門限があるとしたら時間は違っても大人にも子どもにも門限があるのでなければならない。子どもには門限はあるが大人には門限はないというのは差別の論理である。大人と子どもは同じではないが、人間としては対等である。
 子どもの権利条約は一九八九年にできたが、先進諸国の中では日本が一番批准するのが遅かった。それほどまでに子どもの権利という概念は一般的ではなく、それに対する反発やとまどいは強かった。
 これからは子どもに対するいわれなき差別を問題にしていかないと考えて僕はこの十年機会があるたびに講演などで話をしてきたのだが、強い反発を受けることはよくある。
 辻邦生がエッセイの中で戦国末期に日本にやってきた宣教師のフロイスが、ローマに送る報告書の中で次のように報告していることを紹介している。
「(フロイスは)日本人が子どもを叱るのに、つねに言葉で理性的に諭し、決して暴力を使わない、と感心している」
 フランスなどでは子どもに分別をつけるために折檻用の鞭が売られていたことと対比されているので、フロイスの証言が正しければ、子どもの権利の概念が近年においてなじみのないものだったからといって、古来からずっと子どもたちが大人に力で支配されていたわけではないということになる。

ほめる人がいなくても
「ホメラレモセズ クニモサレヌモノ」に
なりたいと賢治は言った
ボクは誉められるために人を蹴落として生きてた
たどり着いたのは銀河系の果て
誉めてくれる人なんてそこには誰一人いなかった
(宮沢和史「いつもと違う場所で」)
 宮沢和史の歌を好んで聴くのだが、この歌の中でほめることと競争を結びつけているのがおもしろいと思った。たしかにほめられるために「人を蹴落として」生きている人は多いように思う。小さい子どもが「ほめて、ほめて」と親や教師にせがんでみたり、大人でも人に賞賛されるために頑張る人はいる。ほめられるためには結果を出さなければならない。いい成績を取ったらほめられるだろう。しかし、そのような結果を出せないと思ったら結果を出すために不正行為を働こうとするかもしれない。試験の時にカンニングをすることはこの例である。他の人との競争に勝たなければならない。そのためには何をしてもやむなしと思うわけである。しかし、こんなふうにして他の人との競争に勝てたとしてもほめてくれる人が誰一人いない「銀河系の果て」にたどり着いた時どうなるだろう…ほめる人がいなくても満たされる人になってほしい。子どもをほめないという時、こんなわけがある。

競争から協力へ
 リディア・ジッハーはアドラーがアメリカへ去る時にウィーンの診療所を任せた医師であるが、人は人生において目標に向けて動くが、この動きは、「上」ではなく「前」に向かっての動きである、と考える。朝や夕方に雲間から薄日がさし、その光が海面で楕円の形で輝くことがある。この光のことを西洋の人は「ヤコブの階段」とか「ヤコブの梯子」と呼んでいるが、ジッハーは『創世記』に出てくるこのヤコブの階段の話(第二十八章)を引き合いに出して、天使が最上の段にいて、あわれなヤコブは下の方にいるというように考えることはない、という。この階段は狭いので、二人が同時に同じ段にいることはできない。上の段に登ろうとすれば、先にそこにいる人を押しのけなければならない。
 そうではないのだ、とジッハーはいう。人は水平面に生きていて、皆それぞれの出発点、目標を持って進んで行く。ここには何ら優劣はない。自分で望むように、あるいはできるだけ早く、あるいは、ゆっくり進んで行くのである。優劣はなく、ただ先に行く人と後を行く人がいるだけである。その皆が協力して全体として「進化」していく。進化を目指して人は「前」へ進むのであり、「上」へ進むわけではないのである。広い道を並んで歩いているので、別に誰が先に行こうと、後を行こうとかまわない。前を歩む人もいれば、後ろを歩む人もいるが、両者は優劣の関係にあるのではない。
 精神的な健康を損なう一番大きな要因は「上下関係」「縦の関係」と、そこから帰結する「競争」である。人は下ではなく上にいることを目指す。このような縦関係を容認しているように見え、下に自分を位置づけている人でさえ、そのことを善しとしているわけではなく、必ず上に行く機会をうかがっている。
 きょうだい関係であれ、他の対人関係一般であれ、このような競争に負けた人だけが精神の均衡を崩すといっていいほどである。ほめられず、叱られる子どもは競争に負けた、と思うだろう。
 社会全体として見ると、競争の場合、競争に勝つ人がいるということは、同時に必ず負ける人もいるということである。そうすると全体としてはプラスマイナスゼロになってしまうことになる。
 オスカー・クリステンセンの二番目の娘は、小学校に入ると毎日三番目の弟に字の読み方を教えたという。弟は五歳の時にはもうテーブルの反対側からでも父親の読んでいる新聞を父親の黙読よりも早く音読できるようになった。
 しかし、とクリステンセンはいう。これは息子が二番目の娘との競争に勝ったということにはならない。弟が上手に読めるようになったのは、姉が上手に教えたからである。弟は姉に感謝し、姉は自分と弟を誇りにしていた。後に姉が数学でつまづくと今度は弟が姉に数学を教えることになった。このようにきょうだいはいつも協力して互いを高めあった、とクリステンセンはいっている。


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