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このままの私でいいのか


 五木寛之の『大河の一滴』の映画化の宣伝に「人間は、『生きている』、ただそれだけで値打ちがあると思うのです」というのがあって、池田晶子はおかしいと指摘している。
 論理的には次の問題がある。「ただそれだけ」というのは、文字通り「ただそれだけ」なのだから「値打ちがある」「値打ちがない」の価値判断以前の、たんなる事実をいうはずである。
 ところが、「ただそれだけ」といっておきながら、同時に「それが価値である」といっているのだから、「ただそれだけであることが価値である」、すなわち「価値でないことが価値である」といっていることになる。これは論理的におかしい。
 次に、ここでかっこ付きでいわれる「生きている」は、文法的に後続する「ただそれだけに」と同格だから「生きている」の意味内容は、物理的存在として生きている、生存しているという意味である。
 そこで、「人間は、『生存している』、ただそれだけで値打ちがあると思うのです」という意味になる。はたしてそうなのか、と池田はいう。ソクラテスの「大切なのは、ただ生きることではなく、善く生きることだ」という言葉を引きながら、結論的にいうと池田はただ「生存している」ことには価値がない、善く生きている人だけが生きている価値がある、といいたいのである。
 しかし、池田のいおうとすることは理解できるが、実際問題としては、あるいは、臨床的には、なかなかむずかしい問題をはらんでいる。
 僕の母は脳梗塞で倒れ、意識を戻す兆候が一切見られなくなった。はたしてそのような母はただ生存しているだけなのだから、そのような母は生きている価値はなかったのか。
 本人だけはこの問いに答えることができる。私はそんな状態では生きる価値がないので延命のための措置をやめてほしい、と。しかし、その時当の本人は意思表明することはできない。
 そんなふうになる前に意思表明をしておけばいいという考えもあるだろう。しかし、実際自分がそのようになる前に予想していてもいざそうなった時に延命措置をやめてほしいなんていわなければよかったと思うかもしれないということはありうることである。
 池田は生存するという言葉を広い意味で使っていてこのような意識のない、さらには脳死状態の患者のことを念頭においてないのかもしれないが、考えなければならない問題だろう。
 本人はいえるかもしれないが、家族はいえない。ただ生きているだからもう死なせてやってくださいとは…きっとそういう判断をしたらずっと後悔するだろう、と母の病床で考え続けた。
 勇気づけについて講演する時に、ただ生きていることを零点としてイメージすればどんなことでも加算法で見ることができるという話をよくする。これは家族(まわりの人)の視点からいっていることである。まわりの人についてその人のありのままを認めるということは必要なことである。子どものことで悩んでいる親は悩むことで子どもが親の理想ではないことを非難している。今がどんな状態であれ親としては今のそのままの子どもを受け入れるしかない。
 しかし、「私」の視点からいえば今のこの自分のままでいいかといえばよくないかもしれないのである。生き方についてもよりよい生き方を求め、まわりの人に貢献できるよう努力することは必要であろう。ソクラテスのいう「大切なのは、ただ生きることではなく、善く生きることである」とは「私」の視点からいえることである。
 ただ、出発点としては今のこの私しかないのであって、現実の自分を見据えずにいきなり理想の自分をめざしても、理想に到達しない自分を感情的に責めることは意味がない。


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