心の赴くままに

心の赴くままに

PR

×

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Favorite Blog

『味覚、嗅覚、絶対… New! エーテル医学さん

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.12.06
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類


 橋本左内は、1834年に越前国福井藩藩医の橋本長綱の家に生まれました。
 1848年に15歳で、自分の生き方についての考えである『啓発録』を著わしています。
 ”橋本左内”(2023年2月 ミネルヴァ書房刊 角鹿 尚計著)を読みました。
 福井に生まれ適塾に留学し父の跡を継ぎ藩医となったのち、江戸に出て藩主の侍講兼内用掛となり開国貿易論を提唱しました。
 1849年に、大阪の適塾に留学して西洋の学問を学びました。
 蘭学と医学を学びましたが、単なる医師になるつもりはなかったようです。
 父親が病に倒れたため、1852年に福井に帰郷して藩医を継ぎました。
 1854年に江戸に戻り、遊学して藤田東湖、西郷隆盛らとも交友しました。
 藩主の松平春嶽は、聡明な左内に藩医としてではなく武士として活躍の場を与えました。
 1856年に、江戸の薩摩藩邸に西郷隆盛を訪ねました。
 この年、藩主側近の御書院番に任命されました。
 1857年に、藩校の明道館御用掛り、学監同様心得に任命されました。
 藩内の教育改革、洋書習学所の開設、実学重視による財政難の立て直しなどを行いました。
 また、横井小楠を招くなど福井藩の藩政改革の中心となりました。
 この年に、一橋派の中心として将軍継嗣問題で活躍しました。
 春嶽を支え慶喜を将軍にして、雄藩連合で幕藩体制を維持しようとしました。
 西洋技術の導入と対外貿易の実施で、海外の列強に対抗しようとしました。
 1858年に南紀派の井伊直弼による安政の大獄が始まり、1859年に26歳で斬首されました。
 はじめは遠島でしたが、やがて付け紙により死罪に決し執行されました。
 直弼は、紀州藩主の徳川慶福を次期将軍にしたかったため、一橋派を弾圧したのです。
 角鹿尚計さんは、1960年に大阪市天王寺で生まれました。
 1983年に皇學館大学文学部国史学科を卒業し、福井市立郷土歴史博物館学芸員となりました。
 2002年に角鹿国造家、旧万性院家を継承し、氣比神社の宮司に就任しました。
 2009年に博物館主任・学芸員、2013年に副館長、2015年に博物館長となりました。
 2020年に博士(文学:皇學館大学)となり、2021年に福井県立大学客員教授となりました。
 日本文藝家協会・現代歌人協会・日本ペンクラブ・日本歌人クラブの会員です。
 松平春嶽・橋本左内の顕彰・研究の会である、白鷺舎の顧問となっています。
 橋本左内は、号は景岳、黎園といい、諱は綱紀といいました。
 幼少の頃から神童といわれ頭脳明晰で、気睨心情は高潔なものでした。
 藩医橋本家の当主であり、継嗣として家を重んじよく護りました。
 父の武士の気概と精神を継承し、母に孝養を尽し同胞の面倒を見ました。
 道のため、己の信じる義のために、家族を顧みない他の志士たちとは違っていました。
 門弟たちにも優しかったのですが、学問修業では自発的な学習を指導し安易に解答を与えませんでした。
 合理主義・効率主義・功利主義でしたが、個性を重んじ適材適所の人材の活用を提唱しました。
 横井小楠とともに、優れた新時代の先覚者・提唱者であり指導者・予言者でもあったといいます。
 藩医としては医者としての本分を、明道館においては教育者としての責任を果たしました。
 福井藩政の改革と補強・発展に努め、廃藩や倒幕の意識はなくむしろ幕藩体制の強化を目指しました。
 洋学・科学技術の導入には積極的でしたが、国体と伝統、和魂は明道館教育の根底に据えました。
 その上で、洋学・科学技術の導入と振興に努めました。
 和魂洋才の方針こそが新時代の理想である、とみたのだといいます。
 しかし、左内は福井藩士という封建時代の官吏で、主君への忠誠は揺るぎませんでした。
 江戸時代末期に外圧によって覚醒し、日本は近代国家に移行し発展しました。
 越前・若狭の諸藩も、大きな動揺とともに改革を行いました。
 福井藩でも、軍備の強化と軍政の改革を行ったのです。
 1853年に、ペリー率いる米国艦隊が浦賀に来航し、開国・通商を求めました。
 朝廷・公卿は断固攘夷を主張し、徳川斉昭や福井藩主松平春嶽らも攘夷論を展開しました。
 しかし、時代の流れから開国通商に移行する必要を感じ、福井藩は開国通商の論を推進しました。
 西洋砲術を導入するなど、西洋式に切り替えた軍備を強化しました。
 教育を刷新し、左内に藩校明道館で教育改革を行わせました。
 洋書習学所などを新設し、欧米の先進的な学問を学ばせようとしました。
 左内は、近代国家移行期の内外共に大変革の時代に生涯を送ったのです。
 見識と度量を備えしかも熟達していて、いちずに主君のために尽くしました。
 松平春嶽の懐刀として、将軍継嗣問題と条約問題に関与したのです。
 学殖と判断には、天才的なひらめきと行動力がありました。
 幕藩体制という中古住宅のリフォームを唱え、その用材に西洋のものも用いてみようとしました。
 文事に関しては、学際的で広大でしかも正確で深く高度な知識と識見を持っていました。
 知識と識見はグローバルで、洋書に通じ当時として国際感覚が豊富でした。
 先進的で開明的な思想は、当時の志士たちと比べても抜きんでいます。
 幕末動乱期に、近代的な同盟国構想と能力主義の人材登用による政体論を説きました。
 今日の国際連合に相当する、国際的同盟機関の成立を予言したのです。
 そして、日本国中を一家と見て、世界の中の日本の近未来図を描きました。
 左内の政体論は、近代日本における議会政治の萌芽でした。
 識見と弁舌、政治思想と世界観については、藤田東湖に一目置かれていました。
 医者・蘭学者としては、緒方洪庵・坪井信良が激賞しました。
 西郷隆盛が、城山自刃の臨終まで景慕した青年でした。
 幕閣においても、岩瀬忠震・川路聖謨・水野忠徳の嘆賞を受けました。
 このように、左内が短い生涯に示した先覚的な識見と活動は、決して単純なものではありませんでした。
 新時代を描いた広大で斬新な理論は、実現するためには多くの理解者と実践者が必要でした。
 主君春嶽は理解者でしたが、南紀派の諸侯たちはそうではありませんでした。
 また国際的な展望も、左内の憶測・推測の範囲の外にあったと思われます。
 左内が描いた日本のあり方、議会政治・制産論・教育論等は、継承発展され実現していきました。
 本書は、新史料等による最新の研究成果を参考に、詳細な橋本左内伝の執筆を試みたといいます。
 著者は、左内の事績において称賛を目的とする偉人伝を書こうとするものではないということです。
 書簡・日記等の一次史料を基に、史実を明らかにしようと努めたとのことです。
はしがき/第1章 生誕と家系・家族/第2章 少年時代/第3章 蘭学と医学/第4章 教育と思想/第5章 国事奔走と安政の大獄/第6章 幽囚生活と最期/第7章 没後の栄光と評価/参考文献/あとがき/橋本左内略年譜

  [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.12.06 07:56:08
コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: