次女の歩み


次女の歩み 

* 1990年生まれる。生まれてすぐに、無眼球症と判明。当事の国立小児病院への通院が始まる。検査の結果、光を感じる力すら無い事が解ったので、生後2週間目から目のスペースを広げる為にシリコンで出来たコンフォーマーを入れ始める。障害者手帳一級を取得。様々な福祉の手当てを受けられるようになり、福祉事務所の方々にお世話になる生活が始まる。ミッシェルの病院通いが一週間に何度も続くなど手がかかったので、当時2歳半だった上の娘は福祉事務所の配慮で区立の保育所に快く受け入れてもらう。

* 生後1ヶ月検診で心室中隔欠損症と判明。心臓の働きを促進する為の薬を毎日飲みはじめる。生後3ヶ月ぐらいまでは、飲んだミルクをすぐに噴水のように吐き出し、心配したが、3ヶ月になるとピタッと止まる。 さらに、生後半年ぐらいから昼夜完全に逆の生活が何ヶ月か続き、母はふらふら、、、。

* 生後6ヶ月の時に、日本義眼研究所を紹介され、初めて目らしき義眼が入る。目のスペースがあまり無かった為、2歳を迎えるまでは義眼は非常に外れ易く、当時担当してくださった水島二三郎先生(現在・義眼工房みずしま)はミッシェルの目にあう義眼ができるまで、熱心かつ快く、根気のいる仕事を続けてくださった。

* 頭を床につけたままの、後ずさりハイハイの時代を経て、14ヶ月の時に初めての一歩。それからは、部屋の中でバランスをくずしてはころがって頭をぶつけながらも、音の出る方向へとつかまり歩きの冒険の日々が始まる。

* 2歳になり、やっと義眼が外れなくなり、家族もホットする。義眼を落として無くす心配もなくなり、外出にも心が踊る。

* 生後6ヶ月の頃から、東京の福祉施設のOTの指導を受け始め、その後は東京の盲学校、横浜ライトハウス、川崎の福祉施設などの指導を受け始める。3歳で横浜市立盲学校の幼児相談に通い始め、4歳の時に幼稚部入園。平行して当時住んでいた川崎市の自宅の近所のうさぎ幼児園に入園。うさぎ幼児園は多摩丘陵の自然の中にあり、モンテッソリ教育を導入た、少人数クラスのとても家庭的な幼稚園。福祉施設の紹介で素晴らしいボランティアの先生も見つかり、ミッシェルの指導についてくださるというありがたき機会を得て彼女の3年間のメインストリームが始まる。楽しいことも沢山したメインストリームだったが、発達の面で健常児達との差がはっきりするころから、毎朝泣いて、行くのを嫌がるようになった。このまま、メインストリームを続けさせるか、盲学校の幼稚部だけにするか、悩んだ日々。

* 発達の面ではあらゆる面において他の子供より2歳ぐらいは遅れていると感じた。もちろん、運動神経、バランスの良さ等、娘が他の子供よりすぐれている点も多くあった。視力のない生活がどんなのもか、目隠しをして試してみると気持ちが解るが、この世には視覚から取り入れる情報の多いこと!世界を見たことが無い人間にとって、様々な概念を理解することがどんなに大変なことかを考えると、2歳位の遅れはあっても不思議はない。(無い子供もいるようで、これも個人差です。)トイレがちゃんとできるようになったのも、幼稚園に入って生活のペースが整ってか、3歳を過ぎたころからのおしゃべりも、最初はすべて真似。”ねむい?”と聞けば”ネムイ” ”ねむくない?” と聞けば”ネムクナイ”と言った具合。大半の盲児は物まねから言葉を覚えるようである。そのうち、”水のみたい”など、やっと自分の欲求を言葉にだすようになる。しめしめ、、、。

* 幼稚園時代は、モンテッソリーの教材や身近にあるあらゆる物を使って、手先を使う遊びを沢山した。

* 6歳の春、横浜市立盲学校一年入学。2ヶ月間、日本の小学校を体験して、1996年夏にアメリカ合衆国、フロリダへ移る。横浜市立盲学校へは、自宅から駅まで30分徒歩、通勤電車の中で小さなランドセルもつぶされそうになりながらも2つ乗り換え約30分、目的地の駅でスクールバスに乗せると言う親子通学。それに引き換え、セント・オーガスチン市は典型的なアメリカの地方の町でバスや電車などの公共の交通機関が無い車社会。犯罪社会への考慮もあってか、家の前までスクールバスが送り迎えしをてくれると言うサービス。このままでは、将来白杖を使っての一人歩行が不自由なくできるようになるのかと、内心ちょっと心配な母。学校で歩行指導は受けているが、日本で体験したあの1時間半の通学が彼女にとっていかに大切な宝物になっているかは、説明の余地もない。

* フロリダ州立盲学校一年生時代は、新しい環境・言葉・人間関係など、娘のストレスはかなりのものだったようで、毎日の様に学校で泣いては先生のひざにだっこをしてもらっていたようだ。それ以来、「学校は嫌いだ!」「学校をもう止める!」「夏休みはどうして10年続かないの?」「学校は2週間だけだったらいい」と言い続けて5年。中学が目前となった今年、5年生になりやる気がでると同時に彼女の中でも何かが動き出し、上記の言葉を口にすることが大分減った。母は嬉しい!

* 1997年。7歳の夏、心室中隔欠損を治す手術を受ける。日本ではカテーテルの検査をしなかったが、アメリカの病院で受けるように勧められる。カテーテル検査の結果の数値から、現在は問題が無いが体の成長と共に将来的に心臓の障害を起こす可能性が非常に高いと宣言され、すぐに手術をすることを勧められる。手術の結果、超音波の検査で小さな穴だと思われていたところが、実際は予想以上に大きな裂け目だと判明。手術後の発育の良さを見ても、本当に手術を受けて良かったと思っている。

* 2000年。10歳の夏、目のスペースにプラスチックの小さなボールを埋め込む手術をダラス市の目の形成の専門医から受ける。この手術は目の周りの骨の発育をより促進させ、また内側に入りこんでいるまつげが外に伸びるようにとの目的で行われた。ボールを埋め込むことにより、以前より薄い義眼をつけることができるようになり、そのお陰で目やにもほとんどでなくなる。娘の場合、下のまぶたが内側に巻き込まれており、上のまつげも下向きで殆ど義眼に張り付いている状態だった。今後、このボールに押し出されるようなかたちで、下のまぶたが外側に出て、上のまつげも外にでくることに期待をしている。

* 何はともあれ、娘の心の叫びに耳を傾け、ありのままの娘を全て受け入れ、そして親の私たちが娘の未来を強く信じて、これからも頑張りたい。 「心の目で見る」-大切なことを、私たちは娘から教わった。


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