オリンピックの卓球でメダルを取った早田選手が
知覧の特攻平和会館に行きたいと言っていたが
鹿児島まで行くなら知覧以外にも鹿屋市にも鹿屋航空基地資料館や
南さつま市の万世特攻平和祈念館があるので行ってほしい。
知覧と万世は陸軍の航空基地で鹿屋は海軍の航空基地だった。
それ以外にも小さな記念館があったが時が過ぎゆくと
後を継いでいく人がいなくなって次々と閉館して行っている。
大日本帝国の軍隊には空軍はなかった。
飛行機は陸軍航空隊と海軍航空隊に分かれていて
陸軍の有名な戦闘機は隼で
海軍の有名な戦闘機はゼロ式艦上攻撃機で一般的にゼロ戦と言われている。
最近若い者と話したときになぜだと聞かれたが
ジジイも戦後生まれでその辺の詳しい事は解らないが
陸軍と海軍は仲が悪かったらしい。
国会にも陸軍省と海軍省がありそれぞれ
陸軍大臣と海軍大臣がいて共同で作戦を立てる事はほぼなかった
と聞いている。
日本が戦争に負けたのは物資不足もあるが
陸軍と海軍の作戦がばらばらだったからと
戦争で生き残ったおっちゅん達が言っていたが詳しい事はわからない。
特攻平和会館や特攻祈念館などに行くと遺書が展示されている。
読んでいくと勇ましい事が書かれていたりして泣けてくるが
ジジイはこれは本心で書かれたのではないと思う。
当時は検閲が厳しく少しでも弱音や都合の悪い事を書くとすべて検閲に引っ掛かり手紙を出す事は出来なかった。
ジジイがまだ若かりし頃に訪れた平和会館や祈念館には本物の遺書が展示されていた。
その遺書には検閲済の判が押してあった。
最近は紙の劣化の問題もあり本物と同様に作られたレプリカが展示されているらしいが検閲済みの判が無くなったものが多い。
ジジイは検閲を逃れて近くの食堂や慰問の女学生に託された遺書を読んだことがあるが学徒動員の学生の中には日本は戦争に負けると信じている者が多かったし国の為に犬死はしたくないなんて事を書いていた遺書も見た。
「戦争は戦争を体験したものがいなくなった時にまたおきる。」
戦争体験者も少なくなっていっているこの時代はなんとなく嫌な雰囲気もする。
いま自分が生きているのがどんなに幸せなのかを考えてみるために知覧の特攻平和会館や鹿屋の資料館に行ってみるのはすごく良い事だと思う。
言論の自由がない時代 戦争はだめだなんて言ったら特高警察や憲兵に拷問され牢獄に入れられるので戦争に反対する声も上げる事ができず
消耗品として敵の空母に体当たりして死ぬしかない。
当時の若者は皆が勇ましく散ったのではない。
天皇陛下万歳とか大日本帝国万歳なんて言わなかったと思う。
特攻の最後の言葉は「おかあさん~~」じゃなかったかと思う。