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「この世の春(上)」宮部みゆき 新潮社宮部みゆきの最新刊。図書館で手に入れるまで足掛け2年をかけたが、宮部みゆきならば直ぐに予約が何十人も重なるので、まだ早い方かもしれない。今回は上・下二巻なので、借りる方も二の足を踏んでいるのかもしれない。上巻は、どうやら導入部のようだ。ほとんどの「謎」は、解かれゆくのを待っている。新九郎(伊東成孝)の一族の村を根切りした理由、その首謀者。それに御霊繰はどう関わっているのか。重興の「症状」は、果たしてあの「病気」なのか、それとも他に理由があるのか。そして、おそらくこの後現れてくる「謎」もあると、私は「踏んで」いる。表紙の2人の主人公(重興と多紀)の背後に、下野北見二万石、この藩特有という落雷する山々が描かれている。また、雷の火で出火し「おんど様の大火」で孤児になった女中「お鈴」の活躍は、まだ上巻では見られない。しかし、編集者が作ったと思われる人物相関図では、主要登場人物6人の中に入っているのだ。新九郎も、成興も、脇坂勝隆も入らず、なぜお鈴がフィーチャーされているのか?「雷」がキーワードになると思われるが、まだその雰囲気はない。16年前に連続神隠しに遭った子供たちの「謎」もまだ明らかにされていないが、それと関係あるのか?池から見つかったしゃれこうべはどう関わるのか?総ては下巻である。ちょっと速く読みすぎた。「つづき」を手に取るのはもう少し後になる。初出「週刊新潮」2015.8.13・20日号ー2017.3.30日号。2019年1月読了
2019年01月30日
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「岡山の災害」蓬郷 巌 岡山文庫142表紙は、明治17年の高潮被害で多くの死者を出した、水島の千人塚である(倉敷市広江の鼻丘上にある)。本書は平成元年出版。実に30年前の本であるが、大災害に遭った昨年の岡山県を予想したかのような、教訓に満ちた本である。他県は知らず。岡山県民はことごとく去年までは「岡山は晴れの国であり、災害は極端に少ない県だ」と思っていたが、近代になって、つまりこの150年の間に(本書の記述から言えば、約100年の間に)大きな災害は何度も何度もやって来ていたことを知ることになる。つまり、私たちは「忘れていただけ」なのである。中世までの災害についても「吉備国降雪、大風にて五穀実らず(「古事記」天武10年、681年)」から始まり、約10年ー20年毎に、或いは50年毎に飢饉や干魃、洪水などが押し寄せて来た記録があるという。特に天保の大飢饉(1836)では、浅口郡では餓死者96人、路頭倒れ死人が35人も居たという記録がある。地震の記録も多くある(安政元年家屋全壊700軒)。私の住んでいるのは倉敷市なので、この地域(及びその周り)だけに焦点を当ててメモする。岡山市、備前市の方や倉敷市の方で詳しく知りたい方は、是非本書を紐解いて欲しい。・明治17年(1884)8月25日、水島・玉島に台風通過、高潮被害。死者・行方不明655人、家屋流壊2217戸、田畑荒廃2427町。一家全員死亡24戸。・明治25年大洪水では旭川、吉井川流域で大きな被害をだしたが、夏目漱石が罹災して記録しているのが有名。・明治26(1893)年、高梁川、旭川流域に大きな被害。この翌年に伝染病大流行。開闢以来の大悪年と言われた。県下被害総括、死者423人、家屋全流壊6240戸、罹災し飢餓に迫る者57634人。(去年被災した)真備町・川辺では384戸が僅か19戸を残すのみ。秋祭り当日で来客多く、死者は180人と言われる。船穂、長尾、阿賀崎、中洲、西阿知、中島の被害も大きかった。・明治32年。3回洪水。7月10日、20日は西部に大きな被害。死者7人、全流壊198戸。西ノ浦大崎で45センチの床上浸水、西阿知、中洲、北面新田、宮之浦、鶴新田、西ノ浦被災。・大正13年、大旱魃。・昭和9年の、岡山市街を水没させた大洪水では、高梁川下流域は大正末期に完成した改修堤防がよく耐えて安泰だった。ただし、高梁市は堤防が決壊、落合や成羽も被害甚大だった。・昭和14年大旱魃。大正13年を上回る。ついに、県や農業団体が真面目に、吉備津神社で雨乞い祈願。・昭和21(1946)年、12月21日、南海大地震。岡山県被害。死者51人、負傷者187人、全壊478戸、半壊1959戸。庄村の国民学校は、二階講堂の半分と宿直室、その他付属建物が倒壊。笠岡では、駅周辺二軒と富岡で倉庫一軒が崩壊、各所の狭い道路は破損した家屋の壁や瓦で埋まる。・昭和29年台風15号、33.2mの烈風、高潮被害。玉島・笠岡・児島で堤防決壊、玉島・乙島の坂田新開地では80戸が軒下まで浸水。3回来た台風の県下総括。死者13人、負傷者74人、全流壊476戸、半壊522戸、床上浸水4600余戸。・昭和47(1972)年大洪水。成羽ダム放出。下流大水害。川上郡三町で全壊88戸、半壊107戸、床上浸水291戸。高梁市全体被害、全壊43戸、半壊90戸、床上浸水237戸。小田川矢掛でも市街地浸水。井原・芳井で山崩れ、美星でも山崩れで一家四人死亡。・昭和49年三菱石油重油流出事故。・昭和51(1976)年豪雨。県下東南に被害甚大だった。それでも、笠岡市では小河川氾濫、山崩れ84カ所、7人死亡、全壊25戸、半壊57戸、床上浸水1100余戸。矢掛では床上浸水390戸。真備町でも堤防一部崩壊、一時住民の緊急避難命令。近代に入り、地震は南海大地震以外では大きな被害はなかった。大水害は、昭和初めまで繰り返しやって来た。しかし、倉敷市は昭和に入ってからは堤防がよく防いて大きな決壊がない。いったん起きたら、大きなのが来るのがわかる。水をどう治めるか?これが、弥生時代からの「吉備国」の課題だった。と改めて思う。
2019年01月29日
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「DAYSJAPAN2019年2月号」いつもは月をまたいで10日過ぎに、書評を書くことにしているのだが、今回は(もう間に合わない可能性は高いが)最終号に対して、異論があるので早く書く。表紙は、見たらわかるように何時もの写真はない。表紙上部のスペースが空いているのにも関わらず、何時もの雑誌のテーマ「1枚の写真が国家を動かすこともある」という言葉さえ、無い。最後の最後で、それさえも捨てたのか?と思わざるを得ないようなことが、その「謝罪と私たちの決意」には書かれていた。「ですから最終号は、これまでのフォトストーリーは掲載せず、全ページを「性暴力事件」やパワーハラスメントの真相解明とその報告、それに対するDAYSJAPANとしてのメッセージ、有識者の意見の掲載にあてることを編集部として決定しました」(9p)とある。私は前月号の書評で「この「社会的犯罪」を犯した、その根源の「構造」を明らかにする(原因を明らかにし、責任と処罰と改善策を明らかにし、全てを公表する)」ことを求めた。だから、それを紙面に載せることは、私の求める所でもある。しかし、だからと言って、これまで積み重ねてきた「フォトジャーナリズム」を全面的に否定するようなことは、私はさらさら求めていない。私は「もし休刊の原因に今回の事件が少しでも影響しているのならば、全てを清算した上でなんとか「新しいフォトジャーナリズム」再刊の芽を作って欲しいと思う」とも言ったのだ。最終号は、著作権などで写真を豊富に載せることはむつかしいかもしれない。しかし、15年以上作ってきたフォトジャーナリズムの成果は、きちんと「総括」した上で終わらすのが、編集者としての最低の責任だと私は思う。フォトストーリーを掲載しない?そんなのは見たくもない。定期購読しているので、「最終号だけは送らないで、その分カネを返せ」とまで言いたいぐらいだ。伊藤千尋氏も、Facebookで同じ趣旨のことを書いていた。最終号は、ある程度は15年間を回顧するものになるはずだ、と期待していた定期購読者は多いと思う。もう遅いかもしれないが、考え直して欲しい。沖縄の記事が載っていた。ブログなどで、良く知っていた気分になっていた大木晴子さんのお顔を、初めて見た。「沖縄の心を殺すな」等とブラカードを持って新宿駅で17年間スタンディングをしているそうだ。想像通りの「お顔」でした。こんなのは、なかなか新聞などでは見ることは出来ない。平井茂氏のフォトストーリーは、少し私は批判点もあると思う。土砂投入は国民や沖縄県民に「諦めさせる」というのが目的であり、それ以上の意味はほとんどない、という視点が抜けていた。でもこの時期では貴重な「写真ジャーナリズム」である。本当に次号、最終号に写真はほとんどないのか?2019年1月26日記入
2019年01月28日
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「マスカレード・イブ」東野圭吾 集英社文庫映画化が決まった段階で「マスカレード・ホテル」を読んで1年と3ヶ月、映画を観たこの段階が読む時期かなと思い紐解いた。1番知りたかったのは、「イブ」のあらすじではない。マスカレード(シリーズ?)は、刑事の新田とホテルフロントクラークの山岸の2人が「主人公」である。そう私は認識していた。ところが、「イブ」は「2人が出会う前のそれぞれの物語」と「あらすじ」に書いている。それでどうやって「マスカレード」の冠を被せることができるのか?その「からくり」が知りたいだけで、サスペンス部分は上手く創るんだろうな、というぐらいだった。なるほど、こういう「からくり」か!絶妙!と褒めるわけにはいかない。かなりあざとい編集者の思惑が透けて見えるからだ。雑誌「小説すばる」に「イブ」の物語が載り始めたのは2013年からである。一方、「ホテル」の単行本初出は2011年だ。「東野圭吾先生、ホテルが好評なんですよ。是非、シリーズ化しましょう」「そんな無茶言うなよ。山岸さんは、本来事件と関わりないホテルマンなんですよ。関わりない2人が、相棒になるからこそ、面白かったんじゃないですか」「でも、これで終わらすのはもったいないです。せめてあと2冊」「じゃあ、後日譚はあと一回無理やりこじつけるとして、前日譚というのは、どうです?」「えっ!?でも‥‥」「私にアイデアが無いわけじゃないです‥」と、まあこんなところだろう。こういう「売らんがための小説作り」つて、どうかなあ、と思う。なんやかんや、文句いいながら、買ってしまって、楽しんでしまった私もどうかなあ、と思う。「ナイト」の方も、文庫本が出たらつい買ってしまいそうだ。2019年1月読了
2019年01月27日
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「通販生活2019年春号」表紙は「9条球場」という動画になっているらしいが、この春号の表紙を飾った。一目見てよくわかる。安倍首相があくまでも執念を燃やす「9条改憲」。「純粋な国民投票だからやったらいいじゃん。なんで反対するの?」という若者や、ネトウヨや、恣意的な報道にコロリと騙されている大人の、なんと多いことか。でも私は知っています。今こそ、私は全国の有権者に声を大にして言いたい。国民投票は、不公平投票です。この表紙でわかることは、カネをたくさん持っている方(改憲派)が、圧倒的に有利である。ということだ。実は有料CMの問題だけじゃない。「どういう投票文章にするか、今だに決まっていない。それは、国会の力関係で、容易に改憲側に有利に変えられる」ということだ。つまり、「9条改憲」と明確に出さなくても、それと同等の効果のある文章を作ったり、或いは環境問題と抱き合わせにして一括改憲させるのも可能、ということだ。それに、「全有権者の半数の賛成で改憲」ではないことは、既に(強行採決された)国民投票法決まっている。「投票数の半数で改憲」なのだ。だとすると、投票率が、最近の選挙のように4割で終わったならば、有権者の2割以上の賛成だけで改憲されることになる。国民へのいろんな印象操作は、既に改憲派は様々に実験すみである。それで私たちは、国民投票の実施自体に反対している。お金にもならないのに(ていうか、駅前宣伝には毎回申請費がかかる)、2015年の安保法制反対の時から、もう69回も反対集会&パレードを行っている。1月19日も反対集会&署名行動をした。倉敷の片田舎だけど、3年間以上、ずっと続けている所は、もう全国で珍しいけど。でも、いろんな形で、全国でこのような地道な「反対行動」をしているから、安倍さんも去年はあんなに言っていたのに、遂に「改憲案」を国会に提出することができなかった(これは実際大きな「成果」なんです)。一人ひとりは「微力」だけど、「無力」じゃない。私たちの行動が、何処まで「沸点」に近づいているのか?それは誰にもわからない。けれども頑張るしかない。という気持ちで、この三年間以上、私は19日(9月19日が安保法制が強行採決された日)に近い土曜日に、集会場所まで駐車場節約のために30分歩いて通ってきた。これからも通うだろう。
2019年01月26日
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「万葉集から古代を読みとく」上野誠 ちくま新書万葉言葉から、(私の関心領域である)弥生時代まで遡る「古代」を読み解くことができないか?と思って紐解いたのではあるが、飛鳥・奈良の辺りまでしか描かれていないのは、少しがっかりした。とはいえ、小説も書いているという著者の語り口はたいへんわかりやすく、かつ興味深いものだった。以下、面白かった処をメモする。・アニメ「君の名は。」を大きく評価。この素の発想は、万葉集の「誰そ彼と 我をな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つ我を」を受けてのものだった。男と女、友と友、土地と人、親と子、神と人、田舎と都会、現代と古代、それら関係が、結びによって生まれるものと思い、それこそ生きる力の根源であり、日本人の信仰心の根源なのだ、と説いた折口信夫に繋がる。という。新鮮な見方だった。・右兵衛という役名の男は、宴会に呼ばれて即興で「物の名を歌い込んだ歌」をつくる芸を持っていた。芸名で呼ばれていたために、姓名が伝わっていない。蓋し、芸名の始まりであり、芸人の始祖(これは私見)であろう。・作り手、歌い手、伝え手、聞き手、等々と歌を巡る流通チェーンがあって初めて「歌集」は出来上がる。その背景に古代の文化、文明があり、想いがある。・日本語や韓国語は膠着語と呼ばれる。四千年の歴史のある漢字文化圏の辺境である。よって、著しい後進性があり、だからこそ、古いものも残る。また、遅れているから、先進性を取り入れる構造も持っている。・山上憶良は「日本型知識人」の最初期の代表である。無位無官の身でありながら、その学殖によって遣唐使に任命され、帰国後学問によって、最下位ながら貴族に列した。漢字文化や仏教思想を熟知しながら、漢字と大和言葉を駆使して、「組み合わせ」「ずらし」て独自の「大和魂」を語り残した。この型に、近代では森鴎外、夏目漱石、九鬼周造、和辻哲郎などがいるだろう。また、加藤周一もその中に入る(私見)。・万葉集に「竹取の翁」の話があるが、竹取はしなくて、かぐや姫は現れず、九人の仙女と歌の力で結婚する話になっている。当時は仙女邂逅譚がブームだった。「竹取物語」の「異伝」というのが著者の見解。万葉集は物語文学の萌芽である。・「文章こそ人が生きた証なのだ」という「文選」を手本にしたのが「万葉集」である。よって、天皇から庶民まで登場し、文は個人の思いを述べるものであり、詩歌は個人の情を伝えるものであって、そこに身分の上下など関係ないはずだ、という思想がある。もちろんどちらも貴族文学だから、それが徹底されていたわけではない。でも、積極的に「オールジャパンの歌集」を演出している。・著者は、奈良大学のゼミナールがこの本の元だと謝意を表している。しかし、「睡魔と闘いながら粘りつよく話を聞いてくれた」「十哲には、あらためてお礼を申し上げたい」とかなり「あとがき」とは思えない皮肉を書いている。蓋し、こういう人なのだ。2019年1月読了
2019年01月25日
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「ビッグイシュー351号」ゲット!表紙は、「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒット中のフレディ・マーキュリーじゃなかったラミ・マレック。販売者さんは、「今日来てくれて良かった。昨日は、途中で完売したんですよ」と言う。常連以外が案外買っているらしい。「都会でもそうらしい。今回は表紙に起用したタイミングが良かった。いつもスターを載せる時は、映画公開前に宣伝を兼ねて登場させるのですが、今回はヒット中に載せることができた」と販売者さん。おそらく、既にインタビュー記事は作られて公開されていたけど、年末は様々な企画が立て込んで見送られたのだろう。初週のヒットを受けて急遽掲載を決めたら、予想以上のヒットになって、その余波を受けたというところではないか。どうであるにせよ、赤字が続いているビッグイシュー日本版にとって、それを応援している私たちにとって、喜ばしいことではある。近いうちに元版も完売する号になるのではないか?とは販売者さんの予想である。げに、表紙の力は大きい。ラミ・マレックにとっても、思いがけず代表作になった。マレック(エジプト系)もフレディ(インド系)も移民の血筋で、その葛藤の中で成長する。映画は、移民やLGBTやHIVの中で苦しむフレディが、メアリーから「あなたは何にだってなれるのよ」と言われ、フレディ自身も「自分が何者かは、自分で決める」と悟るところで終わる。単なる音楽映画ではない。のである。世界的な難民問題を正面から扱った、現代美術家ウェイウェイ監督作品「ヒューマン・フロー大地漂流」へのインタビュー記事もあった。現代世界の難民は6850万人。おそらく、百数十年前の日本の人口だろう。ウェイウェイは「最も弱い人々、傷つきやすい人々、教育を受けられず、住む場所を奪われ、力を持たない人々が犠牲になり、人間の価値に対する戦争が起こっている」と語る。ウェイウェイは08年北京オリンピックで、鳥の巣競技場を作った芸術家の1人だ。しかし、10年に迫害を受けて、ドイツに居を移した。「芸術は人間の感情や行動、そして理性的な判断に大きな影響を与える。芸術がなければ、理性はやせ細り、人間の感情が反映されなくなる」と警告を鳴らす。難民問題は、その人間の権利を奪う所業だ。深く同意する。同じく人間の権利を奪う外国人労働者問題(入管法問題)に対する考えを述べた若い研究者高谷幸さん(39歳)の解説も参考になった。2019年1月読了
2019年01月23日
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「新解さんの謎」赤瀬川原平 文春文庫無印良品でフリーペーパーをゲットした時に、(お店の戦略に負けて)何か買わないとまずいかな、という気になってこの本を手に取った。大きな無印良品には、最新の本ではなくて、テーマ別のこだわりを持った品揃えの本棚があって、これは「言葉」をテーマにした本棚にあった。「新明解国語辞典」が、その斬新な言葉の定義で話題になったのは、もう10数年も前のことだけど、その「始まり」の批評にして、ちょっと前まで話題を作っていた「辞書ブーム」の始まりは、おそらく正にこの本だと思う。ということを、この本を読んで、やっと納得いった。(読んでないけど)「路上観察」や「超芸術トマソン」で有名になったように、赤瀬川さんは、少年のようにあらゆることに「感動する能力」を持っている。併録の「紙がみの消息」の中にも、JRのカード自動改札(スイカではない。プリペイドカードのことと思われる)に感動する赤瀬川さんがいるのだけど、東京のことだからよくわからないけど、それは私の感覚では昭和の話をしていると読んでいた。後で奥付けを見ると、雑誌初出は1992年なのである。ほんの20数年前に、自動改札はそんな「激動期」を迎えていたことを改めて私は思った。「ボケーと生きている」と、駅が普通に自動改札になったのも、昭和の話かと思ってしまうような「発見」のない日を、私たちは生きているわけである。で、「新解さん」である。例を挙げると切りが無いので読んでもらうか、実際の新明解国語辞典(しかも第四版まで)を紐解いてもらうしかないのではあるが、要は、この新解さんは「攻めてい」て、辞書編集者の「個性が全面に出て」いるのである。例えば【馬鹿】の説明の中に()を入れて攻めて説明している。即ち(人をののしる時に普通に使うが、公の席で使うと刺激が強すぎることが有る。また、身近の存在ち対して親しみを込めて使うことが有る)と。一事が万事。女性編集者の指摘から始まったこの言葉探索は、次第と辞書編集者が古い女性観を持っていることを突き止める。【ヒステリー】は「欲求不満の女性に多い」と言い、【なまじ】「ー〔=無理に〕女の子が柔道など習ってもしようがない」と例文を出す。しかしこれには赤瀬川さんも「これを書いたとき、まさか、柔ちゃんが出てくるとは思わなかったろうね」と批判する。【読書】の項は、そうだなあ、とは思いながらも、そこまで書かなくても、とも思った。現在は七版まで出ているらしい。ここに書いていることが、どの様に変化しているのか、暇有るときに確認してみようと思う。2019年1月読了(因みに、単行本発行は1996年、文庫本は99年、2014年第14刷を手に取った。赤瀬川さんが亡くなった年だ)
2019年01月22日
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「あなたの人生、片づけます」垣谷美雨 双葉文庫私は滅多に新しい作家の小説本を読まない。根が不器用なので、お気に入り作家が出来ると、読む本が増えて困るのである。上手く付き合えない、片づけられないのである。現実でも、いろんなことが片づけられない。よって、この本を手に取った。特殊目的限定だから、こういう本は時々読むことにしている。小説だけど、情報採取目的の新書を読むようなものだ。煽り文句は「この本を読んだなら、きっとあなたも断捨離したくなる!」というものだった。結果は、うーむビミョーである。小説としては、決して出来が良いわけではない。たまたま片づけ屋・大庭十萬里の言葉は、「心に問題がある」片づけられない人たちのツボを押さえて行くのだけど、月二回3ヶ月の訪問で、そんなに心の動きが変わるのならば、私でもやって欲しいくらいだ。たいてい、その気になっても、リバウンドしてしまう。あ、私は簡単にその気になるのだから、そもそもここに出てくる人のように「重症」ではないのか。どうなんだろ。「重症」の診断の仕方が、イマイチわからない。ここに出てくる人たちは、一部分きちんと片づけ出来ても、心に問題あるから「重症」と言われてしまっている。小説には不満だ。でも、心に問題ありと認めたくないから、ちょっと片づけようとは思った。でも、続くかどうかはたいへん疑問だ。2019年1月読了
2019年01月21日
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岡山ロッツ4階の無印良品に置いてあるフリーペーパー棚には、数ヶ月に1度は見渡して、何冊かは頂くようにしている。今回は地域情報誌や業界紙と共に7冊ほど手に取った。紹介したいのは、個人発行と思われるフリーペーパーである。一冊目は、去年3冊も関連書籍を出して大活躍だった望月昭秀氏発行、楽しみにしていた「縄文ZINE 第9号」である。「No.1ー4合本」と、「縄文人に相談だ」は既に当ブログで紹介している。一段落ついたのか、去年は2回発行出来ていたようだ。広告も増えている。持ち出しお金は、果たしてなくなったのか否や。情報を詰めに詰め込んで、なおかつ若者写真を多く使って「楽しい」雰囲気を出す「見せる雑誌つくり」は健在。編集後記で、「2018年はさまざまなメディアで縄文ブームという言葉が踊った」「縄文にとってこの年がどんな年だったのか、わかるのはこれからなのです」と戸惑いながらも冷静に見ている。分野は違えど、長い間古代ファンだった私にも共感できる、醒めた眼なのです。1年ぶりの発行という「ふかよみ新聞第7号」。コンセプト並びに発行人が、これを読んだだけではわからない。家族の近況とか、友人と思われる人のインタビューや連載エッセイなどが、極めて家族新聞のように綴られていて、おそらく和歌山市内の10店と全国5カ所のフリーペーパー設置場所に置いているだけのA5版、カラー全8pの300部発行フリーペーパーなのだと思う。よく見れば、1番文を書いているのは、石に丸で囲んでいる人で、7pには「ふかよみ文庫」店主石川梨枝子さんの「取材記事」が載っている。これは「ふかよみ文庫」の宣伝ペーパーなのか?まあ、楽しいんだから、いいんだけどね。
2019年01月20日
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今月の映画評です。「タクシー運転手 約束は海を越えて」去年私が観た劇場作品数は、十数年ぶりに100作を切って97作でした。原因は明らかです。邦画が不作だったからです。マンガ原作の青春ものや、色モノ企画が多くて、私の好きな本格ドラマが少なかったからです。去年のベスト1から順番に10を発表します。「沖縄スパイ戦史」「タクシー運転手 約束は海を越えて」「ボヘミアン・ラプソディ」「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」「1987、ある闘いの真実」「万引き家族」「ダンガル、きっと強くなる」「スリー・ビルボード」「ウィンド・リバー」「女と男の観覧車」です。その中から、6年ぶりに韓国に渡りロケ地巡りまでした「タクシー運転手」を紹介します。行ったのは全羅南道光州でした。1980年に、時の全斗煥政権が市民運動を軍隊を使って潰し、自国民を数百人殺し五千人以上負傷させた抗争を描いた作品です。行って見て分かったのですが、今だにこれを日本では「光州事件」と言っていますが、間違いです。「光州民主化運動」なのです。タクシー運転手役の名優ソン・ガンホの存在感が光っていました。ドイツ人記者ピーター役をトーマス・クレッチマンが演じ、東京で「事件」報道に接した彼が、ソウルに渡ってタクシー運転手を雇い、情報が遮断されていた光州に潜入取材した事実を描いています。当時、クーデターで政権を奪取した全斗煥に対し、ソウルでも市民デモが頻発していました。情報統制のためにデモを嫌悪する普通の市民として運転手は登場します。その彼の見方が変化していく。現在フランスの反マクロン政権デモで起きているような市街の暴動は、光州では一切起きませんでした。それどころか、凡ゆる階層の市民が参加し助け合い、炊き出しを行い、報道記者のために身体を張って援助する、世界に例を見ない統制された抵抗運動の姿が描かれます。私たちは、世界記録遺産にもなっているこの市民運動の本当の姿を全然知っていなかった。私は、ロケ地巡りをして、一昨年に平和裡に朴政権が崩壊した起因が、正に1980年のこの「民主化運動」にあったことを知りました。もちろん、韓国映画らしく、いろんなところに笑いとアクションも挿入しています。また、何故か主人公なのに運転手が名前で呼ばれなかったのですが、それがラストの場面の伏線にもなっていました。こんな見事なドラマ、邦画でも作って欲しい。(チャン・フン監督作品、レンタル可能)
2019年01月19日
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「こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」渡辺一史 文春文庫映画を観たあと、この本を手に取った。順番としては、それが正しい読み方であると、読んだ後に思った。そして、既観映画の人は是非、本書を読んで欲しいと思う。ノンフィクションであるから、当然映画脚本の通りではないのは明らかだ。そうではなくて、(1)映画は様々な登場人物の名前からして違うし(鹿野以外)、第一「バナナ事件」は、当事者の性別も場所も経過も全て映画と違う。(2)映画に描かれていない多くの「事実」があるのは当然としても、映画では描き切れていない重要なテーマもある。(3)しかし、そうであっても、鹿野は正に大泉洋が演じたままのように思えるし、高畑充希のような女性は、結局ここに出てくるたくさんのボランティアの一面を代表していたと思う。だから、映画を観て本書を読むと、とてもイメージが湧いて面白い。いい映画だったと思う。でも、原作はもっといいのである。原作は、福祉も医療も門外漢だったフリーライターの著者が、筋ジストロフィー患者を取材したノンフィクションである。患者が自立生活する「シカノ邸」に入った約2年間で見聞きしたことをまとめた。多くのボランティアたちが鹿野のワガママにも付き合い、体位交換をし、間違えれば命の危険もある痰吸引もし、買物代行もする。その中で彼らをは、何を考えてボランティアをするのか。それは映画でも答えにならない答えを描いていたが、原作は豊かにそれをほぼ550ページかけて描き尽くす。現在の私は福祉ボランティアこそしていないが、「金にならない労働」は週のうち多時間を割いているので、このような「様々なボランティアたち」を見て自分を見つめるきっかけになった。読者はきっと、1人は自分に似たボランティアを見つけることが出来るだろう。鹿野は、思ったことをほとんど表に出す稀有な患者だった。それでも、死ぬ直前、最期に見せた鹿野のあまりにも優しく冷静な判断(著者の推測)は、この本を読んだぐらいで「筋ジス患者のホントの気持ち」なんて安易にわかったと思っちゃいけない。という気にさせる。だからこそ、文庫化に当たって大幅に改稿追記された注釈や、中段部分の70ー90年代の鹿野の人生は、きちんと踏まえておくべきものだろう。筋ジス患者が自立生活するまでに、いかに多くの闘いがあったかを知るべきだ。実際、映画では原作内容を半分ぐらいしか使っていない。もっと面白いエピソードはたくさんある。この私でさえ、もう一本ぐらい脚本がかけそうだ。その時の題名はもう決まっている。「こんな夜更けにバナナかよ 青春篇」。2019年1月11日読了
2019年01月18日
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「DAYSJAPAN2019年1月号」表紙。アメリカを目指してメキシコ国内を徒歩で移動する「難民キャラバン」。その多くがホンジェラス人で、治安や貧困で逃げ出さざるを得なくなった人々だ。シウダード・イダルゴ、メキシコ。2018年10月21日。Photo by Pedro Pardo/AFP=時事。私はDAYSJAPANの書評では、必ず表紙写真のキャンプションを載せる。写真雑誌である以上、写真が主役でないといけないが、公表出来る写真は素人には表紙しかないからだ。「1枚の写真が国家を動かすこともある」と、この表紙の1番上に書いている。残念ながら、日本の民度では未だ沖縄の写真が国民意識を変え国家を動かす所までは来ていない。けれども、私がDAYSJAPANを定期購読を始めて以降のこの2年間だけでも、中東からヨーロッパへの難民の報道写真が、(良くも悪くも)いま正にヨーロッパを変えようとしている。フォトジャーナリズム(別の言葉でいえば事実の報道)には力がある。それを信じて、私は最賃生活をしているけどDAYSJAPANを買うことで支援してきた。複数の女性ボランティアスタッフも、そうだったのだろうと思う。しかし、彼女たちスタッフが、DAYSJAPANの創刊者兼社長の広河隆一氏からセクハラを受けていたことが報道された。その後の報道を読む限り、その多くは事実であると認めざるを得ない。12月31日付けのDAYSJAPANホームページ「みなさまへ」にもある通り、私は単に広河氏個人の通り一遍の謝罪で終わらせてはならないと思っている。「今回の報道を契機として、あまりにも遅すぎましたが、広河氏個人の責任とは別に、弊社としての責任を痛感しているところです。」と、広河氏をクビにしたDAYSJAPANは述べている。私もそう思う。なぜならば、奇しくも広河氏が書いたと思われる「DAYSJAPAN休刊のお知らせ」(11月20日)にある通り「しかし雑誌は個人のものではありません。雑誌メディアを簡単に廃刊にしてはならないということは、先代DAYS JAPANが講談社から出されていた時に実質的な廃刊処分となり、悔しい思いをした私にはよくわかります。しかもDAYS JAPANはジャーナリズムの雑誌です。社会的責任があるのです。メディアをつぶすことはあってはならない」からである。公的には、まともなことを話すのに、内部に向けては独裁者になるのは、左右に共通するある種の人間の本性らしい。つくづく、この「社会的犯罪」を犯した、その根源の「構造」を明らかにする(原因を明らかにし、責任と処罰と改善策を明らかにし、全てを公表する)と共に、もし休刊の原因に今回の事件が少しでも影響しているのならば、全てを清算した上でなんとか「新しいフォトジャーナリズム」再刊の芽を作って欲しいと思う。2月20日発行の3月号最終巻において、その「調査報道」を書くらしい。怒りと悲しみとともに期待する。2019年1月15日記入
2019年01月16日
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12月は5作しか見ていません。しかも、そのうちの二作(「バッド・ジーニアス」「アリー スター誕生」)しか合格作はなく残念な結果。一挙に紹介します。「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」題名が「誕生」になっている限り、物語がまだ序章段階は予想出来たが、やっぱりね、というのはやはりがっかりね。それから、ほらほらドキドキするでしょ、と作者が物語を我々に「押し付けている」。あそこまで伏線を出せば、この世界に興味ない私でも、展開予想は2~3通りしかない。面白くない。また、小ネタを小出しして、そらそらこんなこともあるのよ、と我々を驚かそうとしているけど、全く面白くない。ファンタジーは、世界の大問題を、或いは哲学的な究極の課題をその力を借りて描くことができる。だから面白いのである。「ロード・オブ・ザ・リング」は、最初から三部作と打ち上げ、見事にその中で大問題を立ち上げ着地した。たからこそ、名作なのである。これは、いつ終わるかわからない物語を、まだ大問題の大の字も描かずに、もう2回も消費した。これは酷い作品になりそうだ。(ストーリー)ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)は、学者として魔法動物を守るため、不思議な空間が広がるトランクを手に世界中を旅している。ある日、捕まっていた“黒い魔法使い”グリンデルバルド(ジョニー・デップ)が逃亡する。ニュートは、人間界を転覆させようと画策するグリンデルバルドを追い、魔法動物たちと一緒にパリの魔法界へ向かう。(キャスト)エディ・レッドメイン、ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、エズラ・ミラー、キャサリン・ウォーターストン、ダン・フォグラー、アリソン・スドル、ゾーイ・クラヴィッツ(スタッフ)監督:デヴィッド・イェーツ脚本:J・K・ローリングプロデューサー:デヴィッド・ハイマン2018年12月1日Movix倉敷★★「アンダー・ザ・シルバーレイク」世の中は全て陰謀や隠されたメッセージに満ちている。テレビゲームの中に、○の中に(なんか、多すぎて見終わった途端に全て忘れてしまった)。それを、若者は「私ならば見つけることが出来る」と簡単に信じるだろう。明日、ホームレスになる状況なのに、冒険はその中にこそ、あるだろう。ポップカルチャーは、セレブのピアノで総て作られたと嘯く老人、世の中価値はないと地下に潜るセレブたち。その総てを「あり得ることだ」と受け入れる若者。1人を殺し、1人は殺されたのに、平然と日常に戻ってゆく若者。今の、なんともぐにゃぐにゃした現代の構造を批判的に扱っている。現代の「時計じかけのオレンジ」だ。(ストーリー)恋に落ちた美女の突然の失踪。オタク青年サムは光溢れる街シルバーレイクの闇に近づいていく。新感覚ネオノワール・サスペンス。2018年12月3日シネマ・クレール★★★「バッド・ジーニアス -危険な天才たち-」音楽も構成も、すっかり「オーシャンズ11」というよりか、何処かのスパイ映画。でもやっているのは高校生、そしてカンニング、という設定がとっても新鮮。映画作法が、ほとんど数十年前の日本であり、なんか懐かしく感じる。もちろんラインを使ったカンニング手法は、とっても現代的。9頭身のリンが、人より隔絶した才能を感じさせる。タイの貧富の差は、正に現代アジアの問題だ。教師の娘と母子貧困家庭の息子と、裕福な彼らの級友たちの立ち位置は、このミッションを推進する力だ。ともかく外国留学が、貧困の連鎖を断ち切る方法であるのは、韓国台湾、中国、ベトナム、ほとんどのアジアの立ち位置である。ならば、日本はその意味でも幸か不幸か国際化からずれている。仏教国のタイは、高校生さえも手を合わせるのが当たり前のお国柄、仏の教えには、現世で利益を得ても来世で報いを受けるということがある。リンが立ち戻ったのは、そこなのに違いない。(Introduction)“高校生版「オーシャンズ11」”の呼び声高く、世界16の国と地域で、サプライズ大ヒット!スタイリッシュでスリリングな、第一級クライム・エンタテインメント!世界16の国と地域でサプライズ大ヒットを記録し、そのうち、中国・香港・台湾・ベトナム・マレーシア・ブルネイ・マカオ・フィリピンではタイ映画史上歴代興収第一位の座につきアジアを席捲した話題作がいよいよ日本に上陸します。タイ・アカデミー賞とよばれる第27回スパンナホン賞で監督賞、主演女優賞、主演男優賞をはじめとした史上最多12部門を受賞した本作は、米批評家サイトRotten Tomatoesでも堂々の92%FRESHを記録しています。一人の天才少女をリーダーに、高校生の犯罪チームが頭脳と度胸だけを武器に世界を股にかけたカンニング・プロジェクトを仕掛ける第一級のクライム・エンタテインメントです。物語の背景になっているのは、近年発展目覚ましいアジア各国で深刻な社会問題となっている熾烈な受験戦争。中国で実際に起きた集団不正入試事件をモチーフに、カンニングをスタイリッシュ、かつスリリングに描き、世界各国のメディアで絶賛。“まるで高校生版「オーシャンズ11」だ!”(-ヴァラエティ紙)などの声が上がりました。クライマックスは、28分間におよぶ手に汗握る、史上最大のカンニング・シーン!監督は、長編デビュー作『Countdown』が第86回米アカデミー賞外国語映画賞タイ代表に選ばれ、2作目となる本作がメガヒット、一躍時の人となった37歳の俊英ナタウット・プーンピリヤ。ヒロインの女子高生リンを演じるのは、モデル出身で今回が映画初出演となるチュティモン・ジョンジャルーンスックジン。不敵な笑みを浮かべた9頭身のルックスで、映画公開後人気が爆発し、インスタグラムのフォロワーは約40万人、更に2017年のアジアン・フィルム・アワードで最優秀新人賞を獲得し、今アジアで最も注目されている女優の一人となりました。リンを筆頭にした高校生たちが、あの手、この手のカンニング・テクニックを披露するのも見どころの一つ。クライマックスに用意された28分に及ぶ史上最大のカンニング・シーンに、観る者は手に汗握り、心臓の鼓動が早まるばかりです。(Story)小学生の頃からずっと成績はオールA、さらに中学時代は首席と天才的な頭脳を持つ女子高生リン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)。裕福とは言えない父子家庭で育った彼女は、その明晰な頭脳を見込まれ、晴れて進学校に特待奨学生として転入を果たす。新しい学校で最初に友人となったグレース(イッサヤー・ホースワン)を、リンはテストの最中に“ある方法”で救った。その噂を聞きつけたグレースの彼氏・パット(ティーラドン・スパパンピンヨー)は、リンに“ビジネス”をもちかけるのだった。それは、より高度な方法でカンニングを行い、答えと引き換えに代金をもらう――というもの。“リン先生”の元には、瞬く間に学生たちが殺到した。リンが編み出したのは、“ピアノ・レッスン”方式。指の動きを暗号化して多くの生徒を高得点に導いたリンは、クラスメートから賞賛され、報酬も貯まっていく。しかし、奨学金を得て大学進学を目指す生真面目な苦学生・バンク(チャーノン・サンティナトーンクン)はそれをよく思わず…。そして、ビジネスの集大成として、アメリカの大学に留学するため世界各国で行われる大学統一入試<STIC>を舞台に、最後の、最大のトリックを仕掛けようとするリンたちは、バンクを仲間に引き入れようとするが…。監督:ナタウット・プーンピリヤ出演:チュティモン・ジョンジャルーンスックジン チャーノン・サンティナトーンクン イッサヤー・ホースワンティーラドン・スパパンピンヨー タネート・ワラークンヌクロ2017/タイ/130分/シネマスコープ/Dolby digital/原題:Chalard Games Goeng「アリー/スター誕生」音楽オンチで、洋楽オンチの私はレディ・ガガって言えば奇抜なファッションや社会的発言以外には知らないのだけど、これは彼女の半生と幾分か被るストーリーなのかもしれない。いや、スターに共通して被るストーリーなのかもしれない。「君に言っておきたいことがある。自分の魂の底まで見せるんだ。飾ったり、ごまかしたりしたら、いっときはいいかもしれないが、いつか客は離れてゆく」彼の言葉は、一生アリーについて回るだろうし、あらゆる表現者について回るだろう。だから、都合のいいサクセスストーリーで、心の内を全て歌で作っていった歌映画だったが、レディ・ガガの歌が本物である以上は、やはり本物の作品だったと思う。(ストーリー)昼はウエイトレスとして働き、夜はバーで歌っているアリー(レディー・ガガ)は、歌手になる夢を抱きながらも自分に自信が持てなかった。ある日、ひょんなことから出会った世界的シンガーのジャクソン(ブラッドリー・クーパー)から歌を高く評価される。アリーは彼に導かれてスター歌手への階段を上り始め、やがて二人は愛し合うようになるが、ピークを過ぎたジャクソンは、徐々に歌う力を失っていく。(キャスト)ブラッドリー・クーパー、レディー・ガガ、アンドリュー・ダイス・クレイ、デイヴ・シャペル、サム・エリオット、アンソニー・ラモス、ラフィ・ガヴロン、ルーカス・ネルソン&プロミス・オブ・ザ・リアル(スタッフ)監督・脚本・製作:ブラッドリー・クーパー脚本:エリック・ロス、ウィル・フェッターズ2018年12月24日Movix倉敷★★★★「来る」万が一と思って、夕方の公開時間に観たい作品はこれだけだったので観た。やはり、中島哲也はもうダメだ。たくさんの大仕掛けをして、実力派俳優を使って、「驚かすだけ」の作品を作った。「恐怖の正体を、言葉ではなく映像で見せた」と言い訳するかもしれない。しかし、それは監督の独りよがりだと、私は言いたい。加えて、今回はあらゆる伏線は中途半端に終わっていて、物語は破綻している。ただ、妻夫木聡の「人がいいのは確か」だけど「嘘つき」で「人当たりだけは良くて、自分の気持ちを最優先して妻や周りの気持ちがわからない」男だけは、とてもよく描かれていた。また、それを利用する友人の民俗学者(青木崇高)の闇も。でもコレは中盤でフェイドアウトする。他の人物たちの心の闇は全て中途半端。中島哲也に振り回される周りのスタッフが見えるようだ(まるで妻夫木聡演じる秀樹そのものだ)。監督自身が最大の恐怖だったのかもしれない。STORY幸せな新婚生活を送る田原秀樹(妻夫木聡)は、勤務先に自分を訪ねて来客があったと聞かされる。取り次いだ後輩によると「チサさんの件で」と話していたというが、それはこれから生まれてくる娘の名前で、自分と妻の香奈(黒木華)しか知らないはずだった。そして訪問者と応対した後輩が亡くなってしまう。2年後、秀樹の周囲でミステリアスな出来事が起こり始め……。キャスト岡田准一、黒木華、小松菜奈、青木崇高、柴田理恵、太賀、志田愛珠、蜷川みほ、伊集院光、石田えり、松たか子、妻夫木聡スタッフ監督・脚本:中島哲也原作:澤村伊智脚本:岩井秀人、門間宣裕製作:市川南エグゼクティブプロデューサー:山内章弘企画・プロデュース:川村元気プロデューサー:西野智也、兼平真樹制作プロデューサー:佐藤満ラインプロデューサー:内山亮撮影:岡村良憲照明:高倉進、上野敦年録音:矢野正人美術:桑島十和子装飾:西尾共未スタイリスト:申谷弘美チーフヘアメイク:山崎聡音楽プロデューサー:冨永恵介、成川沙世子キャスティングディレクター:元川益暢VFXスーパーバイザー:柳川瀬雅英、桑原雅志編集:小池義幸記録:長坂由起子助監督:高土浩二制作担当:大塚健二2018年12月27日Movix倉敷★★
2019年01月15日
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「アニマル・ファーム」原作・ジョージ・オーウェル 石ノ森章太郎 ちくま文庫裏扉を見ると、関連ちくま文庫として「動物農場(開高健訳)」「COM傑作選(中条省平編)」「ビブリオ漫画文庫(中条省平編)」や「劇画ヒットラー(水木しげる)」や「あしたは戦争(日本SF作家クラブ企画協力)」などが並んでいる。現代の状況に危機意識を持っている1人の編集者の仕事なんだろうな、と思う。いい仕事している。久しく絶版になっていた「石森章太郎の原作付き漫画」である。戦後漫画を牽引してきた手塚と石森の仕事の違いが一つあるとすれば、手塚は原作付きはほとんど描かなかったか、描いたとしても換骨奪胎して全て自分の作品としていた。石森(私は石ノ森という変名に未だに違和感を持っている)は、この本を読んだらわかるように、忠実に原作を再現している。しかし、それで石森色が薄まるというわけではなく、一コマ見れば紛うことなき石森なのだ。中条省平が解説で感情的に絶賛するのを読むまでもなく、石森の「映像表現」は群を抜いていて、あらゆる場面は正に映画を見るがごとくである。もちろん、1番評価すべきは、そのプロデュース能力だろう。革マル派が学生運動を主導し、腐敗が進んで「革命」が叫ばられていた1970年にあって、「ちょっと待て!武力で小さな革命空間をもし作ったとして、権力の在り方を間違えたら、ソ連のようになってしまうんだよ」と、当時まだ大学生くらいまでしか読んでいなかった若者向け漫画に、そんな「むつかしいことをわかりやすく」提示しようとしたのである。当時まだ石森自体も30歳そこそこだったはずだ。学びながら考え、考えながら学んでいた若い漫画家の姿が浮かび上がる。この姿勢は、やがて「日本の歴史」や「日本経済学入門」を作り、「萬画」を表明する後期に繋がっていくだろう。また、小松左京原作の「くだんのはは」も、戦争から25年経ったあの当時の状況に「言うべきこと」があって描かれたのは明らかである。小説の地の文を活かしながら、それでも訴えるものがあるのは、石森の絵がきちんと恐怖を描いているからに他ならない。そして、阪神大震災、東日本大震災を経た現在、再び「くだん」が現れていないか?と我々が思うからである。2019年1月読了
2019年01月14日
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「献灯使」多和田葉子 講談社文庫「このところ、ずっと地球の裏側の日本国の未来の夢を見る。試しに、毎日30分微睡むと決めてその間に見たものや会話を起きて2時間かけてメモしていったら、こんな小説になってしまった。」という、作者のエッセイを「想像」してしまった。ドイツ在住の作者が書いた、日本の不思議な近未来小説。例えば、こんな一節を読んだからだ。「オレンジは沖縄でとれるんでしょ」と一口飲んでから無名が訊く。「そうだよ。」「沖縄より南でもとれる?」義郎は唾を呑んだ。「さあ、どうだろうね。知らない。」「どうして知らないの?」「鎖国しているからだ。」「どうして?」「どの国も大変な問題を抱えているんで、一つの問題が世界中に広がらないように、それぞれの国がそれぞれの問題を自分の内部で解決することに決まったんだ。前に昭和平成資料館に連れて行ってやったことがあっただろう。部屋が一つづつ鉄の扉で仕切られていて、たとえある部屋が燃えても、隣の部屋は燃えないようになっていただろう。」「その方がいいの?」「いいかどうかはわからない。でも鎖国していれば、少なくとも、日本の企業が他の国の貧しさを利用して儲ける危険は減るだろう。それから外国の企業が日本の危機を利用して儲ける危険も減ると思う。」無名は分かったような、分からなかったような顔をしていた。義郎は自分が鎖国政策に賛成していないことを曾孫にははっきり言わないようにしていた。(53p)私は何時か義郎になっていて、いるはずのない曾孫に、何時かこのように微妙に嘘をつくようになっていた「夢」を見たことがあったのでは無いか?という気がして来る。ここに出て来る、様々な時々鮮明に浮かび上がる「日本」は、よく考えれば矛盾もたくさんある。こんな鎖国政策、現実に可能とは思えない。でも‥こんなお正月番組を見た。2018年の現代の若者が1970年代の小学生の名札に保護者の住所や電話番号まで書いていたの見てを「ウソ!あり得ない!」と驚くのである。個人情報丸わかりで大いに危険だというのだ。えっ?貴方もそう感じるのか?迷子になったら近所の人が送ってくれたり連絡してくれることを期待して、名札には出来るだけ詳しいことを書くのが当たり前じゃないか。そうではないかね。いやはや。あれから30年以上も経ったんだねえ。と私などは思ってしまう。同じようなことが、これからの30年後に起こらないとは、誰も言えない。義郎という、我々の世代を代表するような名前のヲトコは、今や百八歳になった時に、無名がいない時に、やっと独り政府に悪態をついたらしい。そんなことも、私は知っている。もしかしたら、予知夢だったのかもしれない。2019年1月読了追記。この短編集は、全米翻訳文学部門で図書賞を貰ったらしい。読んだ人は同感してくれると確信するけど、この日本語の言葉遊びのような文学が、どのように英語に翻訳出来るのか?これだけは、夢でも想像(創造)できそうにない。
2019年01月13日
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今日は近所の子供会がとんど祭をやっていたので、家のお飾りをもって、焼かせてもらった。近所には30年ほど前に一山を潰して(幾つかの古墳を壊して)ニュータウンが完成し、古臭い田舎の村だったのだが、子供だけは多くいるという地域になった。よって、現代的な「伝統継承行事」がいくつか残ることになった。夏の明らかな虫送り行事「なんめえだあよ」や、秋の曳神輿を回す「千歳楽」とかはずっと前から続いていたが、この冬の「とんど焼」も10年ほど前から大々的にやるようになった。これは全国的にある正月の歳神様を送る行事なのではあるが、下の説明の「日付」にあるように、祝日の変更から、ここでは第二土曜日の午前中に行うのがここ数年の習わしである。このように、少しづづ変更を加えて、「ムラの民俗行事」が続いていくのが「正しい民俗」なのだと私は思う。ウィキペディアでは宮中の行事がさも「起源」であるかのように、説明しているが、私はそうではないと思う。もっと素朴に、「一年の始めを祝った正月」を「締めるために」この行事が行われたのだ。でないと、全国的に名前を変えて存在している理由が見つからない。わがムラでは、ビンゴゲームで参加者が盛り上がっていた。また傍ではずっと餅をついていて、おそらくゲームの後に「ふるまわれる」と思われる。ビンゴゲームは人集めのためだとは思うが、餅つきは大切な歳神様との「直会(なおらい)儀式」である。また、本来生計形態が各々違う住民たちの「結束の場」として、「伝統行事」の原則を果たしている。私の親の世代や私たちの世代が役員として頑張って作ってきた成果だと思うが、ご苦労様と言いたい。ウィキペディアでは左義長として説明されていた。以下に関連部分を載せる。内容1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い。民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗があるが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられている。とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼きとも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。とんどを爆竹と当てて記述する文献もある。これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字であろう。子供の祭りとされ、注連飾りなどの回収や組み立てなどを子供が行う。またそれは、小学校などでの子供会(町内会に相当)の行事として、地区ごとに開催される。地方によって焼かれるものの違いがある。 だるまを焼くかどうか 1.縁起物を祭りで焼く事により、それを天にかえす2.目がつぶれるとされ、祭りでは一切焼かない3.だるまそのものが登場しない九州地方では鬼火焚き(おにびたき)、鬼火、おねび、ほっけんぎょう、ほうけんぎょう、ほんげんぎょうなどと呼ばれ、7日正月にあたる1月6日の夜または1月7日の朝に行う[1][2]。橙(みかん)は代々続くようにと子孫繁栄を願った物を、燃やし易くする為に踏み潰す事が縁起上良くないとされる。実施する地域の分布図や形態については、川崎市市民ミュージアムに展示がある。また、実施しない地域でも、ある特定の日にお札を焼く行事を執り行う地域がある(12月29日など)。近年では消防法やダイオキシン問題で取りやめているところもある。起源[編集]『弁内侍日記』建長3年1月16日(1251年2月8日)、『徒然草』に見られることから、鎌倉時代にはおこなわれていたらしい。起源は諸説あるが、有力なものは平安時代の宮中行事に求めるもの。当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」という杖で毬をホッケーのように打ち合うもの(「打毬」)があり、小正月(1月15日)に宮中で、清涼殿の東庭で青竹を束ねて立て毬杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたという行事があり[3]、その年の吉凶などを占ったとされる。すなわち、山科家などから進献された葉竹を束ねたものを清涼殿東庭にたて、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供された。『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子2人が大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれた。これが民間に伝わり、現在の形になったとされる。世界的には、中国で旧正月に次いで旧暦1月15日に祝う「元宵節」にも関係しているという人たちもいる。 [4] 元宵節は現在でも、夜に提灯や様々な灯を用いて盛んに祝われている。日付[編集]国民の祝日の成人の日が1月15日から1月の第2月曜日に変更されたことに伴い、地域によっては左義長を1月の第2日曜日または第2月曜日に実施するところもある。
2019年01月12日
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「ビッグイシュー350号」ゲット!2019年新春号にして、通算350号記念号である。歴代表紙を全て使って文字を作っている。よーく見てみたら、50、100、150、200、250号の全ての表紙は、この文字表紙になっているが、300号の表紙だけは文字表紙ではなく、販売者の似顔絵だった。でも、やはり元の鞘に収まったようだ。あの販売者の似顔絵カレンダー、あまり売れなかったのかな(^_^;)。私は250号の時は、まだ初心者で覚えていないか、買い損ねている様で、印象がない。でも、その少し前から、だいたい買える様になった。岡山で販売者が誕生したからである。今や中国以西では唯一の販売者である。去年から、販売者の居ない市町村では、年間郵送購読が可能になった。是非、このブログ読者も購入して欲しい。コメント欄で、感想の交流がしたい。毎年、新春号は「ビッグイシューかるた」がある。名言をかるた形式で紹介している。今回は趣向を変えて、過去ビッグイシュー内で語られたインタビューから持ってきている。よって、哲学者や作家の言葉は非常に少ない。その中から、面白かったのを幾つか。花を折ることはできても、春の訪れを止めることは誰にもできない(マラライ・ジョヤ/アフガニスタンの活動家/180号)なにげない日常ほど、敬意に値するんだ。淡々としていればいるほど、貴重なんだということ(市川準/映画監督/21号)NPOというのは、0を1にする仕事。1人の思いや願いの中に大事なニーズが隠れている。1できれば、あとは社会が10倍にも100倍にもしてくれる。(清田仁之/NPO法人月と風と/244号)俺は右でも左でもない。"下"や。(中川敬/ソウルフラワー・ユニオン/77号)相手が真に受けないようなことこそ、"本当のアイデア"なんだと気がつきました。(村上龍男/加茂水族館元館長/267号)最大のコンプレックスが、最大の強みになっているから不思議です。(山崎静代/南海キャンディーズ/93号)長文のエッセイ或いはインタビューが3本。ヨーロッパの旧石器時代の「洞窟壁画」を研究している五十嵐ジャンヌさん(日本人、仏好き両親の命名)の説明からは、単に絵だけの「写真」からはわからない、古代「人類」の様々な想いを想像することができる。刺激に満ちたものだった。まだ、本格的な本を書いていない。是非出版すべきだ。ジェーン・フォンダも現在81歳。単に反戦活動家ということだけでなく、この人の人生は、現代アメリカ史をなぞっている。ドキュメンタリー(Jane Fonda In Five Acts )ができているそうだが、観てみたい。2019年1月9日読了
2019年01月11日
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「ビッグイシュー349号」ゲット!表紙は「困ったときの猫のボブくん」。イギリスの元ビッグイシュー販売者の飼い猫ボブから学んだ5つの人生哲学が載っていたけど、今までさんざん映画や本を紹介してきたので、あまり目新しいことはない。でも、表紙買いする人はいるのかもしれない。今回最初に「おゝ」と思った文章は「池内了の市民科学メガネ」の中のこんな一節。人がどんな眺望を好むかを考えるヒントとして、文化が異なった多くの地域の人々に、自宅や仕事場として最も好ましい環境を選んでもらったアンケートがあります。すると共通して、前方が開けていて世界を見下ろせる高台に住みたいと望み、樹木や木立が散在する公園的な眺めを好み、湖や川や海など生きている魚が泳ぐ水際がよい、という回答が多数であったそうです。(略)このバイオフィリアは、ヒトの祖先が樹上生活をしていた森から出て、二本足で草原を生きることを開始した頃に遺伝子に書き込まれたという説があります。これは池内了さんの言う様な「生命の豊かさに目覚めた」から好きなのではない。と私は思う。これは、考古学をやっている人には1聴瞭然、最も人が住みやすい土地、つまり川のそばの微高地ということでしょう。ちょっとの洪水を避けることが出来、命を繋げる水がそばにあり、敵が来るのを遠くからでもわかる、周りに食料が豊富にある、食料をたくさん生産できる土地である。日本だけではなく、朝鮮の田舎を巡れば、必ず微高地に集落がある。でも、現代でもこれが好まれる結果が出たことには感動する。やはり、遺伝子に書き込まれたのかもしれない。札幌の「シアターキノ支配人」中島洋さんが去年の映画回顧をしていた。太字で強調していた作品は、13作品。そのうち9作品を私は鑑賞していて、なんと6作品をベスト10に選んでいる。これって、中島さんと私の好みが一緒ということであって、自分の選択眼に少し自身が持てたのでした。「世界一あたたかい人生レシピ」が本になったらしい。幾つかは切り取って活用していたけど、本欲しいです。販売者さんから買うと、830円が販売者さんの収入になるので、なんとかしてそのルートで買いたい。今回の「カキと豆腐と卵炒め」も、これなら作れそう(昨日実際に作りました。初めて牡蠣料理を作った。美味しかった)。2019年1月6日読了
2019年01月09日
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「ビッグイシュー348号」ゲット!1月2日に、早くも仕事始めをしている販売者さんから受け取りました。二ヶ月ぶりぐらいの再会です。この間、彼は年末バイトをしていたらしい。年末流通商品を扱うバイトなので、定職に就けたわけではないということが判明した。また再開である。病気でなかったということで良かった。相変わらず、ひっそりと佇んでいるだけ。前も、「商売の邪魔だ」と文句を言う人が怖いという事を言っていた。「今日も制服の人が通るたびに、注意されるのでは無いか?とビクビクしてる。今日は午前中は全然だったけど、午後からは正月は居るのではという方も来て元気が出た」と言っていた。こんな感じで商売するのは、岡山だけかもしれない。この「閉鎖性」は恥ずかしい。さて、表紙は「アリー/スター誕生」宣伝のためのブラッドリー・クーパー&レディー・ガガである(1か月前の分。あと二冊続けて投稿します)。もちろん既に映画は観た。はじめて知ったことが幾つかあり、面白かった。当初監督する予定だったのは、クリント・イーストウッドで、クーパーは主演男優だった。そのあと、主演女優と監督が降板して、クーパーが手を挙げる。その時、製作が条件を出したのは、主演女優の「完璧な歌声」だった。なんと、その晩に、パーティのトリでサブライズ登場したのが、ガガだった。しかも、映画と同じ、エディット・ピラフの「バラ色の人生」。脚本も、2人の人生をなぞるかの様に作られていた。「スター誕生」物語としては、完璧な作品だったと思う。
2019年01月08日
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「原始日本語のおもかげ」木村紀子 平凡社新書著者の最初の新書ということもあり、小ネタ集的な入門書になっている。以下、面白かった処をメモ。・ムラも共同体としての本来の言葉が、「年越し派遣村」という言葉として蘇った。昔のコエが今に生き続けることがある。・茸方言分布地図(『日本方言大辞典』小学館昭和30年代の調査)。キノコ(東日本)、コケ(越の国の範囲)、タケ(吉備国の範囲山陰含む)、ナバ(九州・四国・西中国)で分かれている。・この世のあらゆる現象の、その転々するままを表現する動詞が「ナル」である。(略)ナルは、日本語を話したり書いたりすれば、半ば無意識のうちに頻繁に使っている。日本語の根幹を為す動詞の一つである。それゆえにまた、「ナったことは仕方ない」とばかりに「ナリ行き」に任せて責任をぼかし、諦めの早い国民性のもとになっていると思われる。・「したたる塩、つもりて嶋と成る」といったナルなら、現代の語感と何ら違和はないが、「高天原に成る神」等の「神がナル」という言い方は、今は言わない。「風になる・母となる・顔が赤くなる」といったト・ニ等の助辞や形容詞による補語をとる言い方でないものは、現代語では「柿の実がなる」などの場合に限られ、神や人や鳥獣が(この世に)ナルとは言わない。・アリとナルの用法は交錯してもいる。現代語でも「こうナリたい」と「こうアリたい」とは、ほぼ同義語であるが、「ナリたい」が時間軸上でなりゆく先を希求するのに対して、「アリたい」は、あくまで今の状態に沿った希求を言う。アラゆるものは、またナッたもの、ナリ行くものである。・(松尾芭蕉の言では)「おのずとナル」句の方が、「みずからスル」句よりも上位であるとの説。(略)人の意図的な作為(スルこと)など、千変万化する(ナリゆく)造化の営みに比べれば何ほどのものでも無いと断言している。・ことほどさように、古来「ナル」に対する否定的な文言は、あまり見出すことが出来ない。もとより「ナル」とは、抗えず否定出来ないこの世の万象の現実である。←もとより、これらの文章は丸山真男の論文を踏まえているのは明らか。むしろ、何処かの部分で違いが無いかを探して見たくナル文章である。・「泣き笑い」「もらい泣き」とは言うが「泣き」単独て名詞に熟した言い方はしない。それだけ対象化がなされていないということだろう。・猫が恋鳴きする声は、人の赤子の泣き声に酷似するが、ネ子のネもまた鳴き声の擬音から出た名と思える。古代語のネコとは、現代語のニャンコである。猫の鳴き声を「ネウネウ」と書き取る例が「源氏物語(若菜下)」にある。「ネをあげる・ぐうのネも出ない」の「ネ」は、泣き声のネに通じる古来のものだろう。生の営みに行き詰まってどうしようもない時に出てしまう言葉以前の未分節の声である。・飲酒によって気分が解放され、我を忘れて歌われ舞われる。身も心も熱くなって、あたかも集団で神がかったような熱気に浮かれる。それが「アソブ」ということではなかったろうか。・現代でも大ホールや野外でのコンサート、また野球やサッカーでの、いわば神業を見せる演者と観客一体の熱狂こそが、太古の感覚を瑶曳した現代の「あそび」というべきかもしれない。・カシ(河岸)はもともとは、「舟繋ぎ場・舟着き場」で、堅く安全に建てた場所という意味だった。・タカラ(田の共同体)は、その共同から生み出される幸(秋の収穫)が次の収穫までのたくはえとなって、一族生存のチカラとなった。・呪術性を持ったタスキは選挙用具やスポーツ用具として、自己アピール用のものとして使われている。・すぐ最近まで男女ともに裸足が普通だった。しかしイザナギも投げ捨てたクツもあり、大昔から存在はしていた。・「月ヨミ」のヨムは声に出しながら数を確認すること。「歌をヨム」は歌うのではなく、一音一句声に出して唱えて歌を作ること。経をヨム。「表情をヨム」「先手をヨム」は往古の月をヨミ「潮時を知る」意味。現在「明日をヨム」が使われる。
2019年01月07日
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「ヤマトコトバの考古学」木村紀子 平凡社「古事記・日本書紀・万葉集等、日本最古の文献に出る、漢語およびごく一部の半島出自とみられる語以外の言葉は、総じて一般にヤマトコトバ(和語)といわれている。」(6p)と始まる、私にとって初めて読むヤマトコトバ研究書である。この最初の「規定」さえも知らなかった私は、弥生時代の小説を書きたいとずっと思っている。ものすごく大胆不敵と言わざるを得ないだろう。今更遅いが、勉強した。著者を知ったのは、NHK「チコちゃんに叱られる」で、「花と鼻は何故ハナというのか?」で出演した専門家だったからである。その考古学的な発想に、信用してもいいかな、と思ったからだ。以下、その一部をメモする。・男(ヲトコ)と女(ヲトメ)・ 老 壮 青 幼女 おみな おとな をみな をさな男 おきな をぐな→壮・幼で男女の区別がないのは、ヒトのありように対する認識だろう。・男(ヲ)女(メ)は、メ神、ヲ神。メ鹿、ヲ鹿。ますらヲ(丈夫)、さつヲ(猟夫)、うねめ(采女)、なきめ(哭女)、あやめ(漢女)、河内メ、山代メ、ヲたけび、等々雌雄を使い分ける機能を有する。・記紀万葉で万あたりまでの位取りは明確に認識していた。・万(よろず)や千(ち)は、すべて、もろもろという意味。・要するに「葛(かずら)」とは、縄ないし綱、それを編んだ網や籠といった日常生活に不可欠の多用途の素材であり、奈良時代も、民間では、その採取・製造に30人余もの集団で取り組む価値のあるものだった。蔓性の植物を葛(クズ)と言ったりフジと言ったり、藤葛、甘葛、忍冬(スヒカズラ)、絡石(ツタ)、細子草(クソカズラ)、通草(アケビカズラ)などという。頭に飾る「マサキの葛」等もある。・結縄によって、数やその記録を伝えた。かもしれない。縄に結び目をつけて、繰りながら、お繰り延べ、コヨミをしていたのかもしれない。・刻木も同様の役割を持っていたかもしれない(南方遺跡)。・蚕は書記に既に現れている(仁徳の頃は渡来人の特殊技術だった)。木綿織り機(神具)はユフという。ユフつくる、が枕言葉になっているので、木綿は科の木からも作った。・素材は木綿と同じでも、それが衣料に織られた場合は、タヘと呼ばれた。・万葉集の「麻」は、「蒔く、引く、刈る、干す、打つ、続(う)む、懸く、織る、晒す」と女の労働として、ある。・なる。響る、という神のお告げ的に言っている部分有り。・こと問ふ、は、ぼんやりとしたことをはっきりさせること。男女ならば、お互いの意中を確かめる。単に「もの言う」ではない。・ソラは天空というより、虚空の意が強く「虚言(ソラゴト)、ソラ耳、ソラんじる、ソラゾラしい」に本来の意味が伝えられて居る。・秋津島大和の枕言葉は、もともと豊かな飽食(アキ)のシマの意。飽食の季節が秋(アキ)。それに稲作の祝いの虫である「蜻蛉」の音を重ねたのだろう。・古事記や風土記が載せる古老の相伝した古来の語りとは、最期に現にある地名の由来として、いわばオチをつけられることによって、聞く人に真実の語り(いわば歴史的事実)としての実感が芽生えるものだった。・山には、もともとネ(嶺)、タケ(岳)、山(ヤマ)という呼称があったが、それにサン、センという漢語音も加わった。・原日本語(葦原中国語)として「アルジ、トジ、ムラジ、カジ、ウナジ、ニジ」・ナグは原日本語である。ナグさめる。和む。和やか。スガも清々しい、と原日本語。・黒や夜にかかる「ヌバ玉の」は、もともと「瓊刃」で、黒曜石のことではなかったか?と思われる。・瓊はもともとは加工され磨かれた翡翠、瑪瑙、碧玉等の宝石であった。・手を加えない玉は、真玉、白玉、あやこの玉と言われる真珠である。・ヌ姫は川の女神、タマ姫は海の女神。・イワノヒメ(磐の姫)は霊的存在。山の言葉がイハ、海の言葉がイソ。海の王者の名前にシビがある(魚の名)。・天皇推古の尊号になった「カシキヤ(炊屋)。厨はクリヤ。栗林はクルス。・その他ヤマトコトバ。吾妻(アヅマ)、アヤ、オシ、カウゾ(楮)、カゲ、カミナギ(巫)、サトシ、タクミ(大工)、ほをり(火ヲリ)。
2019年01月06日
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図録「岡山市立オリエント美術館」何度か訪れているけど、私の興味関心は日本の弥生時代なので、日本でも珍しいオリエントの「考古学博物館」たる所の図録があったことに、今回初めて気がついた。改めて考えると、考古学の研究方法や、世界史的視点を持つこと、そして最近マイブームの人類史的視点を持つという意味でも、とても面白い博物館であるので、オススメです。図録も750円でとても安価。そして充実しています。以下、私的に参考になった所をメモする。・当たり前だが、遺物の写真が綺麗だ。最初の図版はヤギ文の深鉢(テペ・ヒッサール出土)。紀元前3200年頃(新石器時代)。日本の縄文時代に、彩文土器は無かった気がする。鉄を含んだ土を焼いて赤くなった土を溶いて文様とした。どうやって塗ったのか?まるで筆で描いたような細かさだ。オリエントでは、文様に価値を求める。縄文時代は形に求めた。何故か?(←新たな疑問)土器は穀物の栽培の開始から少し遅れて紀元前6000年ごろから始まったらしい。オリエントでは、最初から農耕と共に牧畜も始まっている。・この土器は、安土桃山時代の日本から出土したと言われても、信じてしまうような技術と「美しさ」だ。既に手回しのロクロを使っているし、白い土を溶かした釉薬?(化粧土)で下地をつくっている。しかも、絵柄のヤギ!尾の先が波形にのびて、水の流れに変わっている。紀元前3500年ごろ。イランのテペ・シアルク出土。日本の縄文土器は世界最古だと言われる。しかし、こういう土器を見ていると、本当だろうか?と思わざるを得ない。焼きムラが全く無いこの土器はどのように焼いたのだろうか?他の石製容器の説明によると、焼成土器の前には、木製容器や蔓を編んだカゴ、骨製容器、日干しの土器などと共に比較的柔らかい石を削ってつくった石製容器が利用されていたらしい。紀元前6000年の石製容器を見ると、4本の脚まで付いていて、現代でも使える完成度と美しさだ。疑問符がどんどん出てくる。・BC3200メソポタミア南部のシュメール、BC3000エジプト、都市の成立。図録はその条件に大河の流域で大規模な土木工事が行われて、運河や用水路の発達、それが人口の集約を生みだしたという。一方、縄文時代も既に6000年近い歴史を重ねていたが、都市は出現しなかった。日本の平野では、都市が出現するほどの広さが無かった。それだけに尽きるのかもしれない。人の集約が神殿(宗教)や市場(市場経済)などを作り、それが文字の必要性を生みだした(紀元前3000年)のだとすれば、納得がいく。その逆はない。一定のスケールを伴わないと、文明は作られないのだ。だとすると、現代は過去からいえば、桁の違うスケールになっていると思われるが、新しい文明は出現しているのだろうか?・中期青銅器時代(BC2-BC1.5)に至り、シリアで多く作られた土偶には「顔」がある。輪のような丸い目と、房状の髪が特徴的。神殿に奉納されたものが多いが、詳しい用途は不明。「地母神像ではないかともいわれます」とのこと。この「顔」が、縄文時代や弥生時代にはない(ものが多い)。何故か?というのが、私の疑問だったが、この頃シリアでは、既に明確な「宗教」が成立していたのかもしれない。文明の成立は、文字によって明確な「物語」を用意する。という「仮説」を立ててみたくなった。つまり、文字はそういう役割もある。のである。まだ図録の1/4ぐらいだけど、私の興味関心はこの辺りまで。
2019年01月05日
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「進撃の巨人 (18-23)」諌山創 講談社コミックス前回は17巻までの感想を書いた。あの時は映画化の前に一応原作に当たっておこうと思ったからである。しかし、映画が「普通に」終わった後も物語は続き、今は起承転結の最後の時を迎えようとしている。私は漫画の多くは一巻づつ書評を書きたくないと思っている。そんなことをすれば書評数が膨大なものになるからである。ただ、この作品はこれから発行されるであろう最終巻に書評を書くと、ちょっと大論文になりそうなので、ここで「中間報告」をすることにした。映画版の前編の感想を書いた時に、私はこの作品世界の全体像をこのように予想した。これは「井の中の蛙」の話である。つまり、「大海=世界を意図的に知らないままに、一方的に、理不尽に攻撃を受ける人間がどのように行動するのか」ということのみを描いた物語である。巨大な壁の内側の「人類」は、近代程度の文明を維持していると思えるが、都合よく彼らには飛行機を開発する能力は失われている。映画を見る限りでは、壁の内側には数万人は生存していたように思えるが、その「引きこもり」心理状態は不思議としか思えない。100年の間に、壁の外の世界を知る方法はいくらでもあったと思う。もちろん映画の中では、「外に出た人間は帰ってこない」という台詞もある。また、唯一の脅威である巨人は生殖能力はなく、不死身で尚且つ死ぬと消滅するという「都合のいい存在」でしか扱われていない。いかにして「壁の外=世界」の認識が不可能になるのかに、一生懸命知恵を絞っているかのようだ。そして敷島隊長の「壁の内で安住するのを家畜という。嫌なら跳べ!」という台詞によって、唯一「引きこもり」から外に出る道が示される。「世界は残酷」。今の若者にとっては、物心ついた時から、超氷河期で、せっかく就職してもブラック企業に入ってうつ病になり、一生を壊される。生活保護を受ければパッシンクされる。どうしてそうなったか、わからないままに「世界は残酷」な「状況」のみが襲いかかる。だからこそ、若者に言いたい。やおら命を粗末にして「跳ぶ」前に、世界を知ろう。壁は実は無いんだ。しっかり人間を信頼して見つめれば、世界は目の前にあるんだよ。しかし、その声はおそらくこの作品世界には届かないだろう(以上映画前編感想)。半分は当たり、半分は当たらなかった。1番大きな誤算は、作者は行き当たりばったりではなく、最初から大きな世界を作った上で、この井の中を描いていたということだ。この23巻では、その大海の一部が現れる。実際、三重に築かれた壁の外側の世界は、とりあえずパラディ島という島であり、そのすぐ近くには大陸があり、マーレという国があって、パラディ島の中のテルディア人の中にある巨人能力を利用して軍事大国になっているということだ。しかし、陸戦では本当の世界では無敵でも、どうやら航空技術の発達で、それは過去のものになろうとしているのが、今回の世界の発達段階らしい。マーレ国内でも情報統制は行われており、パラディ島は悪魔の巣窟であり、同じエルディア人の力を借りて、「始祖の巨人奪回作戦」の途中らしい。等々の話が、(いつもながら)突然の展開で語られる。「世界は残酷」もはや、時代背景は超氷河期だけを写してはいなくて、愛国心で教育された軍国主義の時代背景も映す。だから、半分は当たっているのである。おそらく、ここから一挙に5巻以内で終わりそうだ。それは連載が始まり、10年(年に3冊ペース)ということになる。2013年に発行された読本で、著者は「結末は決まっている」と話す。九体の巨人は、どうなってゆくのか。世界は、ホントに争いしか手段がないのか?作者はここまでは世界を批判的に表現している。それは認めながらも、ホントに著者は世界を理解出来ているのか?私はまだまだ疑問なのである。次回は最終巻が終わった後に、コメントしたい。
2019年01月04日
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「ぬけまいる」朝井かまて 講談社文庫NHKドラマ化を見る前に読もうと、本書を手に取った。本来弱々しい役が多いともさかりえが、どこまで腕っ節の強い独身アラサー女を演れるのか、おとなしい役の多い田中麗奈がどこまでおきゃんな小売商の女将を演れるのか、おきゃんな役が多い佐藤江梨子がどこまで御家人の妻を演れるか、まあ見ものではある。「恋歌」に次いで、朝井かまて読了二作目。解説士の言うとおり、恋歌とはかなり調子が違う本書ではあるが、弱き者に寄り添う著者の視点は、同じだ。愉しませて頂いた。小説は1話毎に3人それぞれが「語り手」を交代するという手法を採るけど、ドラマは流石にそうは行かず、その分小説の方が3人の心持ちを詳しく描いていて、ドラマよりも楽しいという感じがした。しかも、3回に一回しかそれぞれの心理が明かされないので、ちょっとづつ謎解き小説部分もあり、エンタメである。流石直木賞作家だ。アラサー女性だけの伊勢参りを描くことで、幕末の女性事情を明らかにするという事も狙っているようだ。それはまあ果たしている。そもそも「抜け参り」と言いながらも、お錫を持って沿道のカンパを頼って旅をしたのは、最初期の数日だけで、後は3人の才覚で何故か金を儲けてお伊勢まで行っている。それはそれで楽しいのだけど、果たしてお錫だけで伊勢参りは出来るのか?という疑問が残った。彼女たちの出立したのは、1854年らしい。それと関連して、この小説に唯一の歴史上人物が登場する。まあ、中段から予想は付いていたけどね。正月休みで、やっと溜まっていた録画を見終わりました。NHKドラマは、それぞれの役者が今迄の殻を破ろうと力演した。でも、わざわざイメージと違う役を演らせる必要はあったのか?という疑問は残った。2018年1月読了
2019年01月02日
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明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。実に5年ぶりに紅白を「生で」観ました。この5年間ほどは韓国に行っていたり、台湾に行っていたり、出雲に行っていたり、東京に行っていて大晦日を迎えたので生で見ていないのです。久しぶりにきっちり観ると、東アジアで第二番目の国力を持つ、この国の文化の特徴がよく見えることがわかりました。「凄いステージ過ぎて固まりましたよね」と司会者がびっくりするような演出が続きます。3年前では、私は台湾の紅白も生で見ていた。台湾各地でダラダラと歌をやっていた。規模も質も日本とは全く違う。日本の紅白は、たった3分間の中に、滅多に無い映像をぶっこんでくる。それが日本の美意識らしい。未来や、過去や、全体を考えずに、「いま、ここ」を重視する。一曲のために有名外国歌手を呼ぶ。歌っている歌手を消す派手な手品を見せる。松任谷由実をサプライズ登場させる。特別コラボや特別舞踏は数知れず(桑田とユーミンが同じ舞台で歌うなんて!)。たった3分から5分のために。こういう細かい演出に拘り、出演者も「この時だけ」とそれに乗る。細部から全体へ。であり、絶対にその反対ではない。その「細部」には、尊敬すべき芸の真髄があり、驚くべきエンタメがある。これは日本の長所なのか?弱点なのか?あゝ私は未だに判断できない。これが日本だ!
2019年01月01日
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