コロッセオ


古くは、「ベン・ハー」から、「グラデイエーター」まで、楕円形競技場での、
あの戦車競争場面や、猛獣との生きるか死ぬかの死闘が2000年前に繰り広げられた
場所である。
 72年、帝により着工され、79年ベスビオ火山が噴火してポンペイ埋没。80年完成した。側にあったネロ帝の巨像{colosso}からか、俗にコロッセオと呼ばれるようになった。
大理石で造られており、52000人を収容する能力があったと、計算されている。 外周のアーチ列は、ドリス式、イオニア式、コリント式の円柱で装飾されていた。  雨天の場合には、競技場全体を覆う巨大なテントが張られた。その作業は、海軍の2分隊がおこなったが、この2分隊は、また、競技場で催される
模擬海戦にも出場した。
 コロッセオは、その栄光の絶頂期には、ローマの偉大さを示す一大スペクタクルであったにちがいない。数十世紀を経た現代でもなお、ローマの誇りであり続け、訪れる者に驚嘆を与えつづけている。
 しかし、そんな競技場も、見捨てられた不本意な時代が長期にわたってあったのだ。
 2度の地震や、その後しばらくして全面的に放棄され、墓地として、要塞として
殊に1349年の地震の後は、建材のための石切り場として使用される憂き目にあった。大理石は、ルネッサンスの建築ブーム花盛りの時代に ほとんど再利用されたのである。
 コロッセオの情けない運命を救ったのは、教皇ベネデイクトス14世{在位1740~1758}であった。競技場の残った部分を救うために、「十字架の道行き」のために奉納し、十字架を立てたのである。

コロッセオ復元図

コロッセオ 内部

 コロッセオの隣に、「コンスタンチヌスの凱旋門」がある。高さ25メートル。
ローマにある凱旋門のなかでも最大。
 コンスタンチヌス帝が、ローマ北端にあるムルビウス橋の戦いで、政敵マクセンチウス帝に勝利したのを記念し、315年に建てられた。

凱旋門

コロッセオにて 凱旋門を望む

 街の印象では、日本の夏の花の、夾竹桃のピンクの花が満開で、あちらこちらで
みかけたのと、コロッセオに通じる街道が、松を高く伸ばして、上だけに緑の葉があって、それが、すごく空間を高く感じさせて、日本の松のように小さくなくて
好きでした。
 サッカーの中田のローマチームの優勝が決まったあとだったので、家々の窓には、ローマのオレンジ、黒の旗がたくさんなびいていました。



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