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タイトル変更して中身も全部編集し直しました。写真もたくさんのせました。過去ログも参考にしてくださる方が多いので、気になっていた所の写真入れ替えを勧めていますが、日付が過去のままなので新を頭につけましたが、タイトルも完全に変わっています。「デンマーク王室の王冠」→「エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠 」キンキラの王冠の写真が見づらく気になっていて、結局全て変えてしまいました。写真をさがす為にローゼンボー城(Rosenborg Slot) 宝物庫の写真を見ていて見つけたエレファント勲章 (Elefantordenen)は起源は15世紀にさかのぼる騎士の称号から由来。現在もデンマークで最も位の高い勲章で、各国王族にも贈られている称号です。貴重な写真なので公開にしました。エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠エレファント勲章 (Elefantordenen)フレデリクスボー城(Frederiksborg Slot)クリスチャン4世の宝冠クリスチャン5世と妃の宝冠ローゼンボー城(Rosenborg Slot)デンマーク、コペンハーゲンの中心部にあるお城ローゼンボー城の宝物館からデンマーク王室の王冠と共に紹介します。エレファント勲章 (Elefantordenen)以前オーストリアの金羊毛勲章(Toison d'or)について書いた事がありますが、こちらエレファント勲章 (Elefantordenen)も起源は15世紀にさかのぼるデンマー最古の騎士団から始まった勲章です。クリスチャン1世により1450年頃クリスチャンの結社を創設。それはデンマーク語で「Guds Moders Selskab」聖母友愛兄弟団 と呼ばれる。因みに金羊毛騎士団(きんようもうきしだん)の創始は1430年1月10日。もともと金羊毛騎士団もイングランドのガーター騎士団とガーター勲章 (Order of the Garter)が意識されていると思われる。こちらも同じだと思う。当初は鎖に聖母子が下げられていたらしいが、後に貞操を意味する象(ぞう)が記として用いられるようになったと言う。※ これは金羊毛騎士団の金羊毛勲章(Toison d'or)の羊が意識された? 金庫の中なので薄暗くボケぎみ。ローゼンボーで購入したパンフレットから写真持ってきました。下カラーは象とタレットが交互になってデザインされている。1693年、フレデリクスボー城内の教会堂に勲位授与の聖堂が置かれた。この時、象(ぞう)の勲章に付随した鎖が導入される。しかし、通常は絹のブルーのリボンが使用される。ブローチ型の勲章 ダンネブロ勲章(Dannebrogordenen)と思われる。ダンネブロ勲章(Dannebrogordenen)勲章名の「ダンネブロ」はデンマークの国旗王室が、デンマークに対し文化・芸術・スポーツなどで特に功績のあった人物に与える勲章らしい。※ 等級が存在するらしい。こちらは王室のものですから最上位でしょう。ダンネブロ勲章は1671年にクリスチャン5世 (Christian 5)(1646年~1699年)によって創設。元々騎士団のメンバーに与えられる勲章だっらしいが、1808年以降改変。現在は外国人も叙勲対象となっているらしい。星章エレファント勲章勲騎士( Knights of the Order of the Elephant )デンマーク王国憲法によりデンマーク王族および国家元首に授ける勲章となっている。日本における授与者(リストはウィキペディアから)皇太子明仁親王(1953年8月8日 )三笠宮崇仁親王(1957年3月5日)常陸宮正仁親王(1965年9月28日)上皇后美智子様(1998年6月2日)皇太子徳仁親王(2004年11月16日)こちらも原則一代でエレファント勲章の受章者が亡くなった時は返納される事になっているらしい。勲章自体はローゼンボー城の宝物館にありますが、エレファント勲章勲騎士( Knights of the Order of the Elephant )の本拠(勲位授与の聖堂)はフレデリクスボー城内の教会堂に置かれているようです。冬の写真ですがフレデリクスボー城正面です。フレデリクスボー城(Frederiksborg Slot)こんな雪の降る中観光に来る人はいないので、ほぼ自分達だけ。城は寒かったです。教会堂内部ステンドグラスにエレファント勲章 (Elefantordenen)が見られました。ブレデリクスボー城については過去に載せています。リンク フレデリクスボー城 1 (雪の中の城)リンク フレデリクスボー城 2 (教会堂)リンク フレデリクスボー城 3 (ノルマン人とヴァイキング)リンク フレデリクスボー城 4 (クリスチャン4世と海軍)リンク フレデリクスボー城 5 (アンディ・ウォーホルのリト)クリスチャン4世の宝冠幼稚園で、金色の色紙で王冠作ってかぶったりしませんでしたか? 上が何となくギザギザしている・・王様がかぶる王冠です。その本物です。案外見たことがある人は少ないかも知れません・・でも見るとなるほどギザギザだな・・と思うと思います。クリスチャン4世の冠は頭頂部が開いた王冠です。クリスチャン4世(Christian IV)(1577年~1648年)デンマーク=ノルウェー王(在位:1588年~1648年)中は暗いし、細工は細かいし、キンキラなので照明が当たると光りすぎて撮影が難しいのです。1595~1596年にディリッヒ・フューリングにより、金、七宝、ダイヤ、真珠を用いて制作。王冠の下部帯の中心にいる人型は良き統治者の徳をあらわし、他にもキリストの死の象徴ペリカンが王の義務を示すなど象徴づけらけれたモチーフが並ぶ。冠の上部が開いているのは、スカンジナビア統一王朝が開いた王冠を使用していた為、クリスチャン4世も同じスタイルを選ぶ事によって自分が統一スカンジナビア王国の後継者である事を顕著に示した為なのだそうです。(ここがギザギザの由来だったのね。)この王冠が最後に使用されたのは、1648年フレデリック3世即位の時で、リメイクされて上部にアーチを付けて王冠を閉じて使用。クリスチャン4世(Christian IV)は父王の死の為にわずか11歳で戴冠しているそうです。1596年22隻から1610年60隻と、海軍に力を入れ、1616年デンマーク東インド会社を設立。東インド会社と言うとイギリスオランダが浮かびますが、結構いろんな国がアジアに乗り込んできていたと言う事実に驚きます。クリスチャン5世と妃の宝冠クリスチャン5世の冠は頭頂部が閉じた王冠です。クリスチャン5世(Christian 5)(1646年~1699年)デンマーク=ノルウェーの王(在位:1670年~71699年)クリスチャン5世は、フレデリック3世の補足部を再び外して、金とダイヤを再利用しているらしい。次いで、専制王の閉じた冠を1670年にフランスのモデルに似せて作らせた。宝石もサファイア2個やメノウ2個が付けられ、十字架にはコランダム(ルビーの縞模様のあるサファイア)がはめ込まれている。どうも宝石は、古い時代の装飾品から外されてはリメイクされて使い回されているようです。冠前部の大きなサファイアは、フレデリック1世の時代にまでさかのぼり、その父、クリスチャン1世が、1474年にミラノ伯爵から贈られたものらしいです。大きなサファイアとメノウがはめられています。(ルビーでなくメノウのようです)クリスチャン5世妃の冠 こちらはローゼンボーで購入したパンフレットから写真持ってきました王妃の冠はソフィーエ・マウダレーネの為に王室宝石商フレデリック・ファブリシウスによった1731年に制作。伝統にしたがって、宝石はソフィーエ・アマリエ王妃の1648年の冠から外されてリメイクされているようです。専制王の冠が最後に使われたのは1840年が最後。1849年に憲法改定により、立件君主制が導入されて以来君主が冠を戴く事も塗油する事も無くなった。ただし、君主の死にあたっては専制王の冠が鎮魂礼拝の間、棺の上に据えられる。もはや王冠は、忌中紋章(きちゅうもんしょう)としてのみ利用されている?ローゼンボー城(Rosenborg Slot)ローゼンボー城(Rosenborg Slot)は、デンマークの首都コペンハーゲンの中心部にある城。クリスチャン4世(Christian IV)(1577年~1648年)の時代に造営されたデンマーク・ルネサンス様式の城。写真は裏の庭園側からの撮影ですが、反対は街中だったような・・。実は私の行った時は冬、一面雪の中で雪も降っていたから記憶が雪と寒さしか無いのです。城の裏手はクリスチャン4世時代に造られたデンマーク最古の庭園であり、現在は「ローゼンボー城庭園」となっている。またこの城の隣には近衛兵の兵営があり、訓練所にもなっているらしい。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)
2009年08月31日
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絨緞思った以上に長くなりましたが最終章です。空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 4 デザインと品質絨毯のデザイン絨緞の品質ペルシャ絨緞とトルコ絨緞キリム絨毯のデザイン絨毯のデザインは大きく3つに分類されます。メダリオン・タイプ・・・中央に大きなメインのモチーフがあるもの。「空飛ぶ絨緞 ? 1」で紹介したデザイン。ミヒラブ・タイプ・・・祈祷用の絨毯のよなモスク型のデザインや、生命の樹のように上下が定まったもの。ヘラティ・タイプ・・小花模様のような、一つのモチーフが繰り返され、中央フィールドをまんぺんなく埋め尽くすタイプ。選びの基本は、やはり好みでしょう。柄は地方色があるので、キリムのような図象化したデザインしかない所もあります。アバウトながら、「どこどこ産のデザインが好き。」というのもおのずと出てくると思います。下は、祈祷用のプレイヤー・カーペット(Prayer Carpet)ミヒラブ・タイプです。メッカの方向(キプラ)になるように敷いて礼拝すれば、礼拝堂代わりになる優れものです。サイズは一人用なので小さめです。畳一畳で約1年くらいと聞きましたがノット数で異なるので一概には言えません。これだって1枚織るのに1年近くかかるのでは? と思われます。本当に貴重品なのです。下は、ヘラティ・タイプかな?おじさん達は売ろうとして必死です。最初から価値を知っている人でないと、こんな高額な絨緞をいきなり言われても買う人はいません。値切るのが常識といいますが、どこが買値かさっぱり見当も付きませんし・・。下は、イランのカーペット博物館の展示品ですが、なんとなく、世相が見えるので気に入った一品です。これは、タペストリーとして壁飾り用ですね。絵だけでも価値がありますが、絨毯であるということが、希少価値を何十倍にもしていますね。コレクターなら一つは加えたい一品ですが、何千万とかしそう・・。そう、これら絨緞は投資に買い込まれています。毎年工賃があがるので、値段も2~3割上がるからです。絨緞は畳と違って古いほど価値があるので、家で観賞して価値を高めれば一石二丁ですものね。(日本じゃ売れないけど・・。)泥棒も狙う高額商品です。絨緞の品質材料が良い事も、織りのノット数が多い事も紹介しましたが、もう一つつけ加えるなら、絨緞は毛足の長いものより、短いものが良いのです。細やかな絵柄がくっきり浮かび上がるベルベットのような毛先の短い方が、高く評価されます。はさみで切りそろえられたとは思えない表面の絨緞は指で押しても糸の密度が濃い為にへこむ事はありません。シルクの光沢は、光線の角度で色合いを変え、美しいですが、実は写真には撮りにくいのです。実際の色は肉眼で見ないといけません。買うなら尚更です。本物を買うつもりなら、たくさんの品を見る事が大事だと思います。私は、小さい物ですが寝室に2枚飾ってあり、(一応本物)毎日見て、触って、いざ購入のチャンスがある時に備えています。(チャンスはあってもお金がないか・・。まあ、心意気はそのくらいないとね・・。)絨緞だけではないですが、本物に触れる事が本物を知る近道です。日常生活の中で、使い捨ての物より、なるべく本物のできれば良い物に触れ、良い物を大事に使って行く事で物を見る目は自然と養われていくものだと思います。できれば子供のうちからそうして育ててあげられればね・・。ペルシャ絨緞とトルコ絨緞俗に言われるペルシャ絨緞は、宮廷やモスクに飾られるようなハイクラスの絨緞のようです。隣国ペルシャ・サファヴィー朝から貢ぎものとして、入ってきたペルシャ絨緞をトルコのスルタンは珍重していたようですが、やがてウールをベースにペルシャ式シングル・ノットで絹糸を結んで織り込まれたオスマン・トルコ式宮廷絨緞を作らせたそうです。それが、トルコのシルクの絨緞の始まりかもしれませんね。そもそもトルコ絨緞は、西アジア遊牧民の日常生活に根ざしていたキリム同様に生活必需品でした。それは日本人の畳に近いくらいの身近な物なのだそうです。(でも畳は新しい物が好まれるけど・・)キリム西アジアを遊牧する民から生まれた実用的な平織りの織物です。敷物としてだけでなく、布団や衣類の収納箱、織物などの食品の収納袋、赤ちゃんのゆりかご等、様々な用途に使用されて来たようです。部族や地域独特のデザインが存在し、母から子に受け継がれて行ったものなのだそうです。絨緞も必需品ですが、それ以上に生活の必需品です。空飛ぶ絨緞は、小さい頃から遊ぶ事も許されず、絨緞を織らされ続けた子供達の逃避(とうひ)の夢と希望のような気もします。(だからよけい飛んでくれたら良いのに・・と思うのです。)遠い異国で見る夢は、私達が思うメルヘンではない夢なのかも・・・。Back numberリンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 1 (ブルサ・シルク)リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 2 絨緞の歴史リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 3 織りと織子空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 4 デザインと品質似て非なるものですが、フランドルのタペストリーを紹介。これはゴブラン織りの元祖です。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)
2009年07月19日
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昔からイスラム諸国では絨緞にお金をかける伝統があり、訪問客のマナーとして、相手方の玄関やリビングの絨緞をほめないといけないのだそうです。空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 3 織りと織子トルコ絨緞最高級ヘレケ(Hereke)の絨毯最高級ヘレケ(Hereke)の絨毯トルコ絨毯の本によれば、世界で最も名高く、素晴らしい本絹の絨緞はヘレケ(Hereke)産の品だそうです。※ ヘレケはイスタンブールの東60kmの小さな村。素材も、シルクは、プルサ産の上質のマユからとれる絹糸のみを使って、1ヘイホウメートルに最低100万ノットが結ばれているそうです。※ 1日に数センチしか織れない。羊毛も、標高1000m~1500m以上の健康な「高地羊毛」からとれるやわらかく、長毛で光沢のある羊の毛を選んでいると言う事です。(素材の品質も最高なのだそうです。)19世紀からヘレケは絨緞産業の重要地となり、宮殿や皇族、政府高官の絨緞を織らせる為にスルタンにより織機が設置され、熟練者に織らせたという。※ 熟練者は年寄りではありません。むしろ逆に子供らが織子。そんな宮廷御用達の肩書きもあり、美術品クラスのすばらしい品が多いのは確かです。今ある絨毯は、オスマン・トルコの時代に確立したものだそうです。オスマン・トルコの芸術品は、中央アジア以来のトルコ民族の伝統に、イスラム、ビザンチンの両文化の影響を受けながら発展、成立していったもの。さらに隣国ペルシャ絨毯やヨーロッパ発祥のバロック美術の影響も受けながらバリエーションを広げて完成されたものです。例えば、幾何学模様とともに使われたモチーフには様式化された牡羊の角、牡牛の目、飾り玉、火打石、鏡の破片、樹木があります。これらモチーフは全てトルコ民族が変遷の間に接してきた宗教、シャーマニズム、マニ教、古代キリスト教、イスラム教や、他様々な民間信仰に基づいて考案された今日も残る図案です。(それらは、絨毯よりも平織りのキリムのデザインによく見られるようですが・・。)ノット結びと織り方絨緞を織るのは、西アジアや北アフリカの乾燥地帯に住む女達の仕事だったのだそうです。こうした織物は、山地により、部族により、昔からの伝統に従って、織り方や、デザインの基調が決まっているのだそうです。下はノット結びの図表です。左は、トルコ式ノットまたはギョレメ式ノット織りで、2本の縦糸に結ばれ、ペルシャ式より耐久性にすぐれて丈夫です。右は、ペルシャ式ノット織りで、1本の縦糸に結ばれ、繊細なフイニッシュに適しています。単位面積あたり、この結び目の数が多ければ多いほど、その絨緞は最高品です。当然気が遠くなるほどの細かい作業なので値段が高価になるのも仕方ないでしょう。織り子下は、トルコ、アナトリア地方の織り場です。やはり、若い娘が織るのは基本です。(ここは環境が良いです。)幅広の絨緞は、数人が横一列に並んで織るように椅子も長くできています。頑丈な木枠に張られた縦糸に、図案に従って色違いの横糸をからませ、結び目を作り、はさみで切り、さらに鉄製の重い櫛のようなもので上からトントン叩き、結び目を詰めて行くようです。特に細い糸で高級な絨緞を織るには少女のしなやかな指が最適とされ、近年までは8才12才ぐらいまでの少女が多数、朝から晩まで絨緞を織らされていたといいます。(トルコでは今はないようです。)トルコでは、嫁入り前に織って、財産として嫁ぎ先に持って行く風習があったらしい。それは絨毯のみならず、平織りのキリムも同様。どれだけ絨緞やキリムを持って行くか? で財産の目安になったそうです。(万が一の時は換金できますからね。)また、本人のみならず、女の子が生まれると、母が娘の為に織り貯めたとも言われています。所変わって、下は、エジプトの少女の作業風景です。トルコと比べて環境は良くないです。エジプトあたりは、今も少年少女が働き手となっています。ただ、学校に通わせてもらえる事が条件で・・・。写真にはないですが、小学1年くらいの男の子達もたくさんいます。日本なら労働基準法違反ですよ・・。こうして出来た絨緞を値切って買うのは、気が引ける・・と言う心理にもつけ込んで・・儲けるのは親方だけですが・・。長くなったので切ってしまいました・・絨毯次回最終です。リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 4 デザインと品質
2009年07月19日
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日常私達が知る絨緞(カーペット)とは別物の絨緞の話です。(確かに発祥は日常品なのですが・・。)空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 2 絨緞の歴史絨緞の歴史絨緞織りは、中央アジアの高原で遊牧を生業にしていた民族からBC5~BC6世紀頃に始まったのではないかとされています。(絨緞の発見により・・)(大地の上に寝泊まりする遊牧民に部厚く、暖かい敷物は必需品)その後中央アジアに起きた干ばつで民族は移動し、西に移動した民族はカスピ海を隔てて北と南とに分かれたようです。(西に進んだグループは10世紀頃にイスラム教徒となり、アラビア文字を使うようになり、イスラム化していったようです。)さらに南に進んだ民族はアナトリアの地に住み着き、国造りにいそしみ、コンヤを首都とするセルジュク朝トルコを建国。トルコ民族は、他の遊牧民と比べて柔軟で、順応性に富んでいるので、原住民族とも自然に交流し、混血していったようです。小アジアの草原では遊牧生活を送り、オアシスの緑地帯では農民となり、シルクロードをつなぐ街では商人となる。移動の道々、征服してもまた、その土地(異文化)の文化、芸術を取り入れ新たな文化を創り上げる事にたけていた民族のようです。民族移動期の5~11世紀にかけてカーペットの作り方に関しては、何ら進歩もなく、大きな製法の変革を見せるのは12世紀初めになってからなのだそうです。12~13世紀にイスラム文化は黄金期を迎え、天文化学や数学の基礎を築き、医学、地理学、歴史学に関してもヨーロッパの模範となる文化レベルだったと言います。その成熟した文化の中で絨緞も花開くようです。1271年にアナトリアを通過し、セルジュク朝トルコの街々を見て来たベネチア出身のマルコ・ポーロは、「コンヤ、カイセリ、シヴァスで織られた、緋色の絨緞が最も美しく優雅である。」と「東方見聞録」の中に記しているそうです。(彼の見た絨緞はウールなのか? シルクなのか?)下は染色された絹糸です。12~13世紀、絹(シルク)は、まだシルクロードを通って中国より隊商に運ばれて来たもののようです。(絨緞にシルクが使われるのは自国生産の頃? でしょうか?)前回も触れていますが、中国で門外不出のはずのカイコをアナトリアに伝えた者がいたようです。1400年頃自国生産が始まっています。下は、絨緞作りに欠かせない道具ですが、イランのカーペット博物館のアンティックです。下は、トルコの織り場ですが、ここは環境が非常に良いです。エジプトは悲しいくらい酷いです。下は、絨緞の下絵の図面です。ベテランは頭の中の型紙で織り上げるのだそうです。実は、下はペルシャ絨緞の古い図面です。絨緞の柄は地方色をあらわしており、上のような意匠デザインは、非常にペルシャ的です。イスファハンあたりかもしれません。下はトルコ絨緞です。典型的なトルコ色の赤と青が使われています。赤は、トルコ絨緞に欠かせない色です。豊かさを喜び、幸せを意味します。青は、魔除けのメドゥーサの目(以前「メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰」でとりあげましたね。)ナザール・ボンジュウの色でもある神聖さの色、大空の神ウルゲンの象徴色でもあるそうです。黄色は、邪悪なものを取り除いたり、遠ざける色として嫁入りの娘達の織る絨緞に好んで入りられる色なのだそうです。つづく・・。リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 3 織りと織子
2009年07月18日
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空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 1 (ブルサ・シルク)アラビアン・ナイトの空飛ぶ絨緞ブルサ・シルク残念ながら本当の千夜一夜物語にその頁はないようです。邦題「千夜一夜物語(The Book of One Thousand and One Nights, Arabian Nights Entertainments)」古いイスラム世界のアラビア語の説話集は、もともと9世紀頃のバグダッドの街の語り物、口誦(こうしょう)文学だったとされているようで、原本と言うものじたいが存在しないそうです。さらにそれに加えて成立後も様々な作家によって新たに挿話が付け加えられアラビアンナイトの物語は作られたようです。当初はヨーロッパ人の東方への憧れ、アラブ世界の事を知るための案内書の役割を果たしていた物語なのだと言われています。私達が通常知る絨緞とペルシャの絨緞は、柄も、きめの細かさも。手触りも、重ささえも全く異なり、職人芸による伝統美込められた芸術品です。そんな異国(アラビア)の香りする絨緞なら「本当に空飛を飛べるのではないか? 」、「不思議の絨緞は実は密かに売られているのではないか? 」と、アラブのバザールを見ているとふと思ってしまいます。不思議の国の絨緞は、無いとわかっていても夢を見させてくれるのです。下は、イランのカーペット博物館のペルシャ絨緞です。ところで、アラビアン・ナイトなので、ペルシャ絨緞としましたが、今日はトルコ絨緞作りを紹介します。(両者には同じであって同じでないへだたりがあります。)最古の絨緞は、南シベリアのアルタイ山脈から発見されたスキタイ王の墳墓から凍りづけで発見された2m×2mの絨緞で、BC5~BC3とされてます。1cmあたり、6×6で織られていた驚きの技術だそうで、デザインはペルシャ的であり、技術はトルコ式だとされ、ペルシャ絨緞が先か? トルコ絨緞が先か? と言う論争があるようです。そもそも絨緞は、遊牧民の生活の中から生まれたと考えられています。羊やラクダの牧草を求めて移動を続ける民に、暖かく、携帯にも便利な絨緞は必需品だったからです。そう言う意味では、絨緞は羊毛で出来きたウール100%が基本だったのかも知れません。(ウールに関して言えば山地に育った羊の背中の毛、それも春毛が優良なのだそうです。)今日紹介するのは、シルク織りの絨緞です。ブルサ・シルク絹糸の元の養蚕(ようさん)は、中国で始まり、1400年頃にアナトリアに伝えられたようです。トルコ国内の絹の需要をまかなっているのがブルサで、ブルサは桑の葉の環境に適しているようです。※ 当初シルクの織物を中国から運んでいたソグド人。いつしか、彼らは門外不出の蚕(かいこ)その物を持ち出してソグディアナ経由で伝わったと考えられる。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)マユは、湯がかれるとほどけてくるようです。合わさった糸をほぐして機械にかけて、巻き取っていきます。絹糸になったらそれらを染色していきます。トルコの染料も今やほとんど化学染料によるもののようです。手間のかかる草木染めは少数になっているようです。高級品は、当然草木染めです。天然染料で染めた糸を使った絨緞は、年数がたち、洗えば洗うほど、渋く、何とも言えない良い色調が出るそうです。一方化学染料で染めた物は年月がたつごとに退色するのだそうで、後世残すべき芸術品に化学染料を使うわけはありませんね。親方の認めた技術の有する物が再利用の素材を使って織るのでしょう・・。赤の染料は、赤タマネギの皮やヘンナの粉、黒イチゴの実、貝殻虫の一種コチニール(えんじ色)、茜の根が知られているそうです。青の染料は、たで科の一年草藍の葉と茎から採取。黄色の染料は、山藍、いらくさの茎と花、金木犀やカミツレ、ザクロ、サルビアの花、うるしの枝、オリーブ、はっか、マルメロ。緑の染料は、イチジク、西洋カリン、アーモンド、ぶどうの葉、ハシバミの実(ピスタチオ)の殻など。たいがいは黄色と青色の染料を合わせるようです。つづく・・。リンク 空飛ぶ絨緞 ? (トルコ絨緞) 2 絨緞の歴史
2009年07月17日
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お待たせしました。夕べはパソコンの前でいつのまにか寝ていました・・。リビングのロングソファーでやっているので、ちょっと寄りかかるだけで非常に良い眠りの体制になってしまいます・・。昨日は思考もまとまらなそうなので、あきらめて寝たら、なんと・・13時間も寝てしまいました・・。前回のミケランジェロ広場では、ダビデ像とミケランジェロまで紹介するつもりでしたが、(景色だけて終わった・・。)中身が濃いので(資料も多い)慌てず、分割することにしました。サン・ニコロ地区のミケランジェロ広場の建設工事(1873年~1875)は当初、建築家ジュゼッペ・ポッジの構想では、広場全体がミケランジェロを記念するモニュメントとなり、開廊はこの偉大な美術家ミケランジェロの、フィレンツェ市にある全作品を一同に集めた美術館にしたかったようです。(実際は見晴らしの良いデート・スポットだ・・。)唯一この丘の広場に置かれたミケランジェロ作のダビデ像により、「ミケランジェロ広場」の名は面目躍如と言った所となっています。ダビデ像(David)ミケランジェロ広場に置かれているミケランジェロ作のダビデ像から紹介ですが、当然ここのダビデ君はブロンズのレプリカです・・。シニョーリア広場のヴェッキオ宮殿の前にもレプリカがあります。本家はもともとシニョーリア広場にありました。1873年ダヴィデ像は、外にあると損傷を受けやすい(酸性雨とか・・年月の摩耗)ので、保存の為にフィレンツェに美術学校の美術館であるアカデミア美術館(Galleria dell Accademia)に移設されたました。ですから、写真はレブリカのダビデ君です。ミケランジェロ広場(Piazzale Michelangelo)のダビデ像やはり、作品はや夏の陽光に一番映えるようです。後ろ姿もりりしいですね。現物は大理石なのでこんなに綺麗には写真に写りません。彼は、広場の高所から街を見下ろしています。なかなか人が多くて掃けないので、撮影しにくい場所です。ピエタと並ぶミケランジェロ(Michelangelo)(1475年~1564年)の代表作であるこの作品は、力強さと若さと人間の美しさの象徴とされています。本物は、制作期間は1501年~1504年大理石で身の丈5.17mもある彫刻作品です。(次回紹介)ダビデ(David)と旧約聖書の「サムエル記」ミケランジェロの制作したダビデ(David)は、旧約聖書の「サムエル記、上の17章」に書かれているペリシテ人の戦士ゴリアテとの戦いに勝利した時の姿です。ペリシテ人の侵略と戦っていた当時のイスラエル王サウルの命でダビデは巨身の男ゴリアテと一騎打ちをします。まだ少年だった羊飼いの少年ダビデは、止めるサウルに対してこのような事を言っています。「これまでも主の加護を得て、野山で羊を襲う獅子や熊を退治してきた私です。今度も、主は私と共にいてくれるでしょう。」ダビデは丸腰のまま武器も持たずに川原の石を5個とそれを投げて射る為の紐(ヒモ)1本だけでゴリアテに挑み、石で瞬殺したようです。倒れたゴリアテに近づき、彼の持っていた剣でとどめを刺し、彼の首を落として、掲げ、ペリシテ軍を撃退したそうです。(ゴリアテの首を持つダビデの絵もよく描かれる図です。)因みに、ダビデは、ミレー作の「落ち穂拾い」の女性、ルツとボアズとのひ孫にあたります。ユダヤ教では、王となるのに、何が何でも、正統な血筋の系譜かどうかが、重要視されています。勝利の後にダビデはユダの王となり、サウルの家来の軍勢と戦って勝ち、やがて古代イスラエルの2代目の王(在位BC1000年~bc961年頃)となりエルサレムに王国を築いています。彼の子がソロモン王です。旧約聖書の「サムエル記」は、古代ユダヤの歴史書のようになっています。正教会では「列王記第1」「列王記第2」と呼称され、「列王記第1」に含まれるようです。「ユダヤの予言者サムエル」の登場から彼により初代イスラエル王としてサウルが選ばれ、サウルが堕落し、ダビデが2代目の王として君臨し、彼が没するまでを「サムエル記」としています。彼の子ソロモン王から」「列王記1」となり、神殿建設の話が出て来ます。因みに、映画インディージョーンズの「レイダース/失われたアーク」で取り上げられたモーセの十戒の書かれた石板の契約の箱「聖櫃」は、ソロモン王の時代には、まだエルサレム神殿の至聖所に安置されていました。ダビデ像つづく
2009年07月10日
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BreakTime(一休み)今回は砲撃されて破壊されたパルテノン神殿にあった装飾品のアテナと思われる壁画(確定)と女神像を紹介します。下はアテナ(アテーナ)女神のレリーフで神殿の一部になっていたものです。アクロポリスのパルテノン神殿の美術館所蔵です。ヘシオドスの神統記によれば、「アテナ神はゼウス神の頭頂部より武装して鎧を纏った姿で出現した。」とされています。アテナ神は昨日も紹介しましたが、知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話(オリンポス12神)の女神です。もともとギリシアの地の土着の女神であったのを古代ギリシア人は、この神をギリシア人の征服と共に自分たちの神に組み込んだものとされています。(メドゥーサ信仰とやはり似ていますね。)都市の守護女神としての崇拝の歴史は、ミノア文明(BC2000年)まで遡るとされて、女神は多くのポリスで、都市守護者(ポリウーコス)の称号で呼ばれていたようです。(あくまで、都市の自治と平和を守るための女神です。)下もパルテノン神殿の美術館からの出土品です。説明もパンフもないですが、右手にオリーブの小枝でも持っていたのかな? と想像です。昨日説明したポセイドンとの伝説の勝負しかり、女神にとってオリーブは平和の象徴とされていますから・・。下も同じ美術館です。(上は風化が進んでいるので古くみえますが、下は地下に長らく埋まっていたのかな? 表情が綺麗ですね。)下はパルテノン神殿にあった女神のフクロウです。アテナイ神は「フクロウを自己の聖なる動物として持っている。」とされています。フクロウが知恵の象徴とされるのはここから来ているようですね。ローマ神話ではミネルヴァ(ラテン語:Minerva)がアテナ神に対応する女神として崇拝されています。ミネルウァの神殿も都市の中心の丘の上にあり都市守護者であり、ローマ神話における知恵と工芸を司る女神であるのも同じでようです。また、ミネルヴァの聖なる鳥は、やはりフクロウです。
2009年05月28日
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彫刻大好きの私ですが、お気に入りの素晴らしい作品の多くは、意外に墓石に多く存在します。今回はイタリアのフィレンツェにあるミケランジェロ作のメディチ家礼拝堂を紹介します。メディチ家(Medici)とは、ルネッサンス期のイタリアのフィレンツェにおいて、銀行家、薬種問屋、政治家として、フィレンツェに君臨した一族です。その巨大な財力でミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ等の後世に残る芸術家を支援し、育て、保護し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たした一族としても知られています。フィレンツェにあるこの墓は、メディチ家の歴代当主の墓で、新廟と旧廟からなっています。広大な八角堂である旧廟は財力と権力にものを言わせ、大理石や宝石によって床や壁が飾り立てられ、天井はフレスコ画で覆われています。新廟は1520年から1533年にかけてミケランジェロによって建てられました。新廟右手にロレンツォ豪華王の孫ウルビーノ公ロレンツォ2世(1492~1519)の墓があり、向かい側にロレンツォ豪華王の三男ネムール公ジュリアーノ(1478~1516)の墓があります。「曙と黄昏」(あけぼのとたそがれ)ミケランジェロは瞑想の姿勢をとるウルビーノ公ロレンツォ2世の像下に「曙光」を象徴する女性像と「黄昏」を象徴する男性像を配します。下の写真です。写真プリントを上からデジカメで撮影したので綺麗ではありません。あしからず、参考まで・・。「昼」と「夜」ジュリアーノの像には力と指導力を。彼の像下には「昼」の象徴として男性像、「夜」の眠りを象徴して女性像が置かれています。写真下私は数あるミケランジェロの作品の中でもこのテーマある作品がとても気に入っています。こんなお墓に入りたいものです。ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonzrroti Simoni)(1475~1564)イタリアルネッサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人であり、ルネッサンスの三大巨匠の一人です。(他の二人はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティ)画家としては、バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井フレスコ画の「天地創造図」と壁画の「最後の審判」が有名。建築家としては、バチカンの「サン・ピエトロ大聖堂」、「カンピドリオ広場」の設計が有名。彫刻家としては「ピエタ」、「ダビデ像」、「モーセ像」など多数あり、彫刻家としての面のほうが、クローズアップされているかもしれません。下はバチカン美術館にある「サン・ピエトロのピエタ」です。
2009年05月08日
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大幅に改訂しました。ベネチアのサンマルコ寺院のモザイク壁画サンマルコ寺院は守護聖人サン・マルコに捧げられた教会です。そのモザイクは色ガラスの板を砕いて、なおかつ角度による反射を計算しながら下絵にはめ込まれて行く恐ろしく手間のかかる技法です。パーツとなるガラスにしても鉱物を溶かして色味が出され、さらににゴールドのガラスは、サンドイッチのようにガラスの間に金箔を挟んで成形されています。そもそもモザイク(mosaique) は、古来より小片(石、ガラス、陶磁器、貝殻等)を寄せあわせ台にに埋め込んで、絵柄や模様を作り上げる装飾美術の方法です。(よく建築物の床や壁面、あるいは工芸品の装飾に使われている技法)この教会でもカテドラルの内部空間や外壁、円蓋にたくさん使われ、表現されています。モザイクの歴史は古代シュメールのウル(BC2600年~BC2400年頃)から出土したものにさかのぼると言われます。マケドニア王国(BC4世紀)のヘレニズム様式の床にも使用されていたそうですし、皇帝ネロがモザイクで黄金宮を作らせたと言う話もあります。それだけ古代から絵画の表現方法の一つとして使われていた技法ですが、モザイクそのものに美術性が帯びてくるのはローマ時代に入ってからだと思われます。チュニジアのチュニスにあるバルドー美術館所蔵。4世紀キリスト教が公認されるとモザイク画は初期教会建築にはなくてはならない表現となり、教会の壁や床、円蓋の天井に飾り付けられる事になります。東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)にある聖ソフィア寺院(初期)内部は2階までの壁面は多色大理石と金地モザイクで施されていたといい、さらにモザイク技法の絵は、長く色あせず、教会の中で「聖書を表現する」為の絵画として教会を飾る事になります。(ビザンティン様式の教会)字の読めなかった人の多い時代にモザイク技法の壁画により、見て、聖書の世界を理解してもらうためにも教会は聖人や、聖書の逸話を多数モザイクで表現して飾りました。写真はイスラエルのエルサレムにある聖墳墓教会の内部にあります。時代はわかりませんが、色鮮やかなので、後世のものでしょう。余談ですが・・・「聖書の表現」として使われたモザイク技法ですが、西ローマ帝国のカトリック教会においては、モザイクより、ステンド・グラスと言う(新たなガラス・アート)技法が現れ、「聖書の表現」をするようになります。石を積み上げただけのゴシックのカトリック教会は、ステンド・グラスが用いられてからより美しくなって行きます。(当初は高窓だけ)後にガラスに直接彩色するエナメル技法が発明されるとステンド・グラスは教会にはなくてはならないものになっていきました。(神の家にふさわしい光り輝く絵画であるから・・)さて、サンマルコ寺院に使われているベネチアン・グラスですが、共和国の交易が盛んになると、貴重品であったガラス製品を自国で生産できれば、共和国は多大な利益を得ることが出来ると考えました。共和国はベネチアン・グラスの本格的製造に乗り出すことになります。 当時最も進んだ技術を持っていたシリアより、原料や燃料。そしてガラス職人をもヴェネツィアに移します。ですが、元々原材料や燃料を自国で調達できない為、その技術が他に漏れる事を恐れ、1291年に全てのグラス工房をムラーノ島に移し、グラス職人やその家族・販売者を島に住まわせ隔離しました。島外に逃げる者は厳しく罰せられたと言われます。このベネチアでは、モザイクとベネチアン・グラスには密接な関係があったわけです。
2009年05月02日
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私は彫刻が好きだ。そしてフィギュアも好きだ。「両親が伝統こけしのコレクターだった。」と言う事をプロフィールに書いたが、彫刻が好きだからフィギュアが好きなのか? フィギュアが好きだから彫刻が好きなのか? (秋葉おたくのようなコレクションは持っていないけど・・)サモトラケのニケ(勝利の女神像)BC3~BC2頃?のロードス人の海賊の勝利を記念するものと推定?(他説もある)ニケとはギリシャ神話の勝利の女神である。因みにニケはNIKE。スポーツショップ「NIKEナイキ」の名の由来となっている。ギリシャのエーゲ海に浮かぶサモトラケ島で出土。最初の発見は1863年に胴体部。続いて118の断片の翼を復元し、1884年から「ルーブル美術館のダリュの踊り場前」に展示されている。(昔のルーブル入り口)1950年には広げていた右手が発見され保管されているそうだ。私はこのニケ像が好きだ。やはり「素晴らしい。」の一言である。皆さんこれがミロのヴィーナスですよ。大好きと言うわけではありませんが、ルーブルの二大スターですから・・。1820年にエーゲ海ミロス島で発見。発見されたミロス島にちなんで、ミロスのアフロディーテ(美の女神)と呼ばれてます。(ミロはラテン名) 当時のフランス海軍提督がフランス大使に頼み込んでトルコ政府から買い上げて、ルイ18世に献上。その後ルーブルに寄贈されフランスの宝となったようです。サイズは意外と大きいです。毎度行く度に場所が移動している気がしますが、今回彼女は広い部屋の真ん中に一人で立っていました。だから撮影しやすかったです。
2009年04月16日
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