「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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Lemonhart755
信長暗殺P03
その1 伊賀者の狙撃
伊賀攻めで伊賀は崩壊したにもかかわらず彼らは諸国に散った。
紀州の名取流、加賀越前流、津軽名取流などはその結果であると
研究家の名和弓雄氏は「忍者の系譜」で述べている。
天正9年10月9日 平定した伊賀を視察したとき事件は起きた。
伊賀の忍者 木戸弥左衛門(きどやざえもん)が鉄砲で暗殺を謀った。
彼を狙ったのは、木戸のほかに原田木工と印代判官の3人であった。
暗殺は失敗した。そして狙撃者をみうしなったと伊乱紀には記している。
その2 甲賀者の狙撃
天正元年(1573)9月甲賀忍者の杉谷善住坊は近江国守護佐々木承偵の命で暗殺を実行する。
2発撃ち信長の帷子の袖を貫いたが失敗し、後に捕まり拷問の上
肩まで土中に埋められ竹鋸で首を切られたという。
当時伊賀には、百地、藤林、服部という大忍と呼ばれる者がいた。
伊賀が滅んだのは天正9年10月。
本能寺の変が起こったのはそれからわずか8ヶ月後の天正10年6月2日である。
その8ヶ月間に伊賀の忍者達は破壊された伊賀を落ち延びて諸国に散り何を考えていたのだろうか・・・・
後期伊賀の乱で柏原城に立てこもり指揮したのは百地三太夫と言われている。
彼は最後まで抵抗したが落城と共に行方不明となっている。
彼は信長謀殺のため各方面を廻り暗躍していたのでは無いだろうか・・・
服部半蔵
百地三太夫と大忍として有名なのは服部半蔵正成である。
服部家のルーツは秦氏と言われているが、服部家はその宗家で
百地家も藤林家も服部家と極めて近い姻戚であった。
服部家は半蔵の父、保長の代に岡崎に来て家康の祖父清康に仕えている。
以来、服部家は徳川に仕えている
半蔵は保長の5男で天文11年(1542)の生まれだから本能寺の変の時は40歳だったということになる。
半蔵の初陣は永禄5年(1562)の鵜殿長照攻めの時であろう。
この時 半蔵は伊賀の忍びを70人を率いて城内に潜入し戦功を上げた。
天正10年 半蔵は家康に従い安土城にきていてその後本能寺の変の時には堺に同行していた。
本能寺の変を聞いた家康は宇冶田原から伊賀越えをして船で伊勢湾を渡り岡崎に戻っている。
いわゆる伊賀越えである。
徳川実記は、「御生涯御艱難の第一とす」 としている。
伊賀郷士が200人も集まり半蔵の指揮下に入った。
その後、彼らは伊賀同心として活躍するのだが、本能寺の変の時の
家康と半蔵の行動については、あとで検討することにしよう。・・・・
黒幕と共犯者
信長はなぜ上洛したのか・・・・?
信長を暗殺するためには、彼の正確な行動を把握することが重要である。
その上で暗殺の日時、場所を決定する必要があるからである。
信長が上洛したのは5月29日、21日には嫡男の信忠が入京し妙覚寺に宿泊している。
手勢は2000、信長の上洛に備えて警備態勢を整えるのが狙いであった。
光秀は5月17日に坂本城に戻り、26日まで動いていない。
この間信長の予定を知るために情報を集め暗殺の実行計画を思慮していたと推測される。
26日に亀山城に戻ったということは 29日に信長が安土を出て
京都にはいるという正確な情報を入手したからだろう・・・・
5月15日 信長は秀吉からの早馬で応援要請を受けた。
信長は中国出陣を決意すると光秀に軍勢を整え一足先に出発するよう命じた。
信長は29日に約100名の警護の兵を伴い京都に向かった。
彼は京都で何をしようとしたのか・・・・・?
約100名の警護の兵とは短期間で安土に戻る予定ではなかったのだろうか・・・
6月4日の中国出陣を控えて彼は京都滞在を1日~2日で切り上げる必要があった。
そうだとすると 彼の上洛の目的はどこにあったのだろうか・・・・?
無言の圧力
天正9年2月28日、信長は御所の東門外で正親町天皇や公家衆に馬揃いを実行している。
己の影響力を誇示する目的があったようである。
義昭を追放し足利幕府を滅亡した後、彼は正親町天皇に譲位をすすめたが、天皇はこれを拒否している。
しかし、信長が自らが天皇の上に立つ神仏であると叫ぶようになってから
朝廷や公家衆は信長に危機感をもった。
このままではいずれ義昭のようになると・・・・・。
信長が武田氏を滅ぼし凱旋すると朝廷は権中納言観修寺春豊を勅使にして凱旋を祝賀し気配りをしていた。
朝廷は、彼に太政大臣か関白または征夷大将軍のいずれかを準備し
最終的には将軍職を勧め織田幕府の開設を認めることにし
5月3日に勅使、勧修寺春豊を安土に派遣している。
しかし 信長ははっきりした回答はせず饗応して京都に追い返している。
それから26日後の5月29日、信長は上洛し本能寺の変に遭遇するのだが
目的は朝廷の提案に対する将軍就任と織田幕府開設の回答ではなかったのではないだろうか・・・・?
受け入れるにせよ、蹴るにせよ 2~3日あれば用は足りると考えていたと推測できる。
だから 警護の兵は100名程度であったのだろう・・・?
何も無理に答える必要も無いと考えていたとも推測できる。
毛利氏を滅亡させた後でもよいと考えていたのかも知れない。その方が効果が大きいから。
5月29日の上洛は朝廷から信長に要請したものであろう。
朝廷や公家衆は信長の政権構想が聞きたかったと推測できる。
だから6月1日には40名の公家衆が本能寺を訪れ、朝廷からも使者が使わされたのだろう。
しかし 彼は朝廷に対しては回答はしていない。
彼は毛利氏を滅ぼしたあとで十分と考えていたのかも知れない。
彼の関心は茶会にあった。その為に38種類の名物茶器を安土から搬送し披露している。
朝廷への回答はせず帰るというのも無言の圧力になる。
無言の回答 これが朝廷や公家衆に更なる危機感・恐怖感を高めた。
上洛要請は朝廷の罠か・・・・?
信長の回答は、その時、朝廷や公家衆にとってどうでもよかったのではないだろうか・・・・?
大切な事は、上洛し本能寺に宿泊すること。警護の人数も少ない。
朝廷や公家衆の一部の者にとって、それは信長暗殺の罠であろう。
これだけの条件が整えばインテリ肌の光秀でも暗殺は成功するだろう。
光秀の軍は13000人いたのだから 本能寺を十重二十重にしたであろう。
光秀は坂本城で、信長が上洛を承諾したことを入手し亀山城に向かった。
28日には愛宕山に参拝し連歌会を催した際に、信長の上洛が5月29日であることを確認したのであろう。
愛宕山での連歌会に出席した里村紹巴は公家衆と光秀との連絡係と推測できる。
少なくとも 紹巴のほかにも後2人は知っていたと思われる。
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