「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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前門の虎、後門の狼 <年子を抱えて>
閉塞感という名のマグマ
夫が昇進した。とても嬉しい反面、嫉妬心を含んだ寂しさに襲われる自分がたまらなく嫌になった。子どもは一日単位で成長しているし、夫は社会的なポジションを確立しているのに、私だけが何も変わらないどころか、ただ漠然と年をとるだけのような気がして仕方がない。年をとることに抵抗はないが、家族の中でこのまま私だけ退化していくのかと思うとやりきれない。そんなに自分を卑下しなくてもいいじゃないかと言われるかもしれないが、主婦というのは本当に孤独な毎日だと思う。
私は育児に専念するために退職した。しかし、子どもを育てながら仕事もバリバリという女性が増えている今、自分がなんだか時代遅れのような気がしてしまう。退職すると決めたのは自分の意志によるものである以上、文句を言うのはお門違いだろうし、他人と比較すること自体ナンセンスかもしれないが、○○さんの奥さん、○○ちゃんのお母さんなんて、まるで付録みたいな呼ばれ方に慣れていくうちに、なんだか自分に自信がもてなくなってしまった(平安の昔から、藤原道綱母だの何だの、女ってそんなもの?今さら覆るほど根は浅くないかしら)。
仕事を辞めて専業主婦になった途端、社会的な立場があっさりゼロになってしまった。曲がりなりにも社会の一端を担っているという自負があったのに、今は社会の一端どころか、社会とかかわっているという実感すらもてないのだ。父親になるということで社会的な厚みを増していく夫が羨ましい。毎朝、ネクタイを締めて出勤していく夫を送り出してドアを閉めると、あたかも母と子のカプセル空間に入ったような閉塞感に襲われる。家事、育児、延々と続く同じ作業の反復である。メリハリもなく出勤も退社もない、もちろん土曜日も日曜日もない。マイナス点を数えると、果てしなく落ち込んでいく。
母親が育児に専念することが大切だと頭ではわかっている。経済的に自立できずとも、それに匹敵する、もしくはそれ以上に価値のあることを自分がしているとも思っている。夫だって、そういう母親の役割が大切だと思っている。しかし、夫は仕事、私は家事育児というように、毎日の生活の場が完全に分かれるにつれ、自分がどんどん置き去りにされていくような気持ちになるのだ。こういう事態を予測していなかったわけではないが、想像することと、いざ実際にその立場におかれてみてからとでは実感が違う。
なぜ、夫が輝いて見えるのだろうか。なぜ、自分に惨めさを覚えるのだろうか。それは単に外で働くことのほうが家で家事育児をするのに比べてすばらしいからではない。そういう見方をする人もいるが、それは一方的な見方にすぎない。代価を得て働くことは決して生やさしいことではなく、努力も我慢も必要である。ときには不要な我慢もしなければならないし、理不尽でも謝らなければならなかったり、煩わしいことと無縁ではいられないだろう。外でバリバリ働くのが格好いいというのはただの幻想である。
しかし、職場には経済効率というものさしがある。目標設定も明確にできる。自分の努力に対して常に評価が加えられるので、緊張感とともに、成果に対する満足感を得ることができる。それに比べて、家で家事育児に従事する生活は変化に乏しく、評価も得にくい。しかも、母親が上手に子どもの世話をするのは当たり前だと思われている。何かトラブルがあれば非難されるのに、順調なときは注目してもらえないという、なんとも不公平な現実がある。その上、十分に意思を通わすことのできない乳幼児と一日中向き合う生活は、母親が自分自身を振り返る心の余裕をもつことさえないままに、駆け足で過ぎていく。
寝る前にふと気づくと、社会復帰は何歳までにできるか、何年先かを指折り数えている。かといって具体的な予定や根拠があるわけでもなく、本当にできるのだろうかと不安ばかりが募る。私の人生、一体いつまで働けるかと思うと、この先をつくづく考えてしまう。そのうち、いくら考えても埒があかないと思い直し、翌日の天気を心配したりする。同じことをくり返し考えて、何の変化もない。
子どもが成長していく過程にかかわることは他の何物にも代えられないほどすばらしいではないか、そんなこともわからずに愚痴をこぼすのは、なんと浅はかなことよと呆れられるだろうか。確かに、育児中の自分を日ごとにおばさんになっていくだけだと卑下したり、外で働く人にいたずらに嫉妬の目を向けるのは、褒められたことではない。子どもとともに過ごす時間には、大きな喜びと輝きがあるはずだ。
しかし、それは一方で、一社会人としての存在が自他ともに認められてこそ、喜びや醍醐味を心底味わうことができるのではないだろうか。各種の世論調査に示されているように、女性の高学歴化が進み、社会参加の気運が高まっている昨今の動向をみれば、家事・育児だけに生きがいや充実感を見いだすのは難しい時代を迎えていると思う。男性と同じように学び、働き、そして遊ぶことを体で覚えて育った世代が、子どもが生まれた途端に籠の鳥にさせられるようなものである。それでなお喜びを見いだせというのは酷だろう。母親になったからといって、育児だけで満足しなければならない理由はない。
ところが世の中は、育児のために社会から疎外された母親が示す焦りにはなかなか理解を示そうとしない。むしろ、そう訴える母親を、母性喪失者と断罪するような蔑みの目すら投げかけているように思う。どうして今の女性は育児に満足できないのか、そのうち嫌というほど一人の時間をもてるときがくるではないか、そもそも、子どもが小さいときの、限られた我慢が何故できないのかという人は、育児に明け暮れる生活がどのようなものか想像する力が欠如しているといっても過言ではないだろう。まるで、育児から逃れたいがために仕事をしたいのかと問い詰めているようなものだ。
専業主婦というのは高度経済成長がもたらした産物である。今、時代は大きく動いているのに、育児にまつわる部分に関しては、社会はほとんど変わっていない。子どもは母親が育てるものと決めつけ、母親なら自分を犠牲にしてでも子どもを愛し守るのが当然などと「母親」という存在を意識的に美化することで、育児にまつわるすべてを母親に負わせようとする傾向がある。育児は母親にしかできない崇高な仕事であると強調することは、男性が家庭を顧みることなく仕事に専念できるという点で、産業社会の発展にはきわめて好都合であった。ここから、小さいときは母親の手で育てなければ子どもがまっすぐに育たないといった3歳児神話が生まれ、いわゆる母性神話が確立した。母親は、個人であることを否定され、無償の愛を求められる。耐えてこそ美徳というのが日本人の国民性だろうか。では、育児が一段落したとき、社会復帰への展望はひらかれているのだろうか。
何の目的もない、約束もない、誰とも会わない一日が始まると思うと遣る瀬ない、というのが本音だが、それを子どもに伝えたくないというのも本音である。私の気持ちが晴れ晴れしていなかったら、この子は自分がここにいる必然性を疑うであろう、この子は絶対にここにいて欲しい、ここにいるべき大事な子なのだから、そんな疑問を抱かせたくない、しかし、だからといって私の遣る瀬なさが自然消滅するわけでもない…。それでも、せめてこの子からは、私の遣る瀬なさを隠しておきたい(誤解のないように言っておくと、この子がいなければ仕事ができるのにとか、別の可能性があったろうになどと恨みがましく考えたことは一度もない。かわいい宝ですから!)。
育児に没頭する毎日は、そこだけ別の時間が流れているような、一般社会とは異次元の世界に迷い込んだ気がしてならない。退職したくて退職したのに、社会からどんどん遠ざかっていくようで心細い、とジレンマに苛まれる。母親である前に、一人の人間としてこれからどう生きていくのか。子どもが小さいからという大義名分(?)が使えなくなったとき、どうするつもりなのだろうか。子どもを育てながら、お母さんもまたともに育ちましょうというのは世の中の合言葉であるが、では、私はどう育ち、今の自分をどう変化させれば成長し、よい母親になれるのだろうか。
私はこれまで、どうも専業主婦という立場をどこか悲壮感のつきまとう気持ちで受け止めていた。現代社会における、女性の自立、女性も仕事をして経済力をもつべきだという考え方は、母親である私の気持ちを家庭の外に向けようとする要因の一つである。社会全体がこういう考え方をもつようになると、特にキャリアウーマンを目指しているわけではない私でも知らないうちに影響を受けるようだ。海の向こうに大陸があると知らなければ、行こうという考えさえもたないのに、知れば行ってみたくなることもある。行けることはわかっていても行かないのと、行けることすら知らないという場合では、まるで条件が異なるというものである。
育児中は社会との接点がなく、疎外されているような不安に襲われる。これは私だけでなく、多くの母親が一度は体験する気持ちではないだろうか。では、その「社会」とは一体どんなものをさすのだろうか。辞書で調べると「社会」には多くの意味がある。まず最初に、「人間が集まって生活を営む集団。家族、村落、会社、政党、国家など」とあり、次いで「同類の仲間」「家庭や学校に対して、企業などの組織をさす」と書かれている。つまり、会社だけではなく、地域や育児サークル、家庭もまた「社会」である。
なんとなく、アンバランスだとは思っていた。「社会」というものがどんなものか、その厳しさや実態についても知っているはずなのに、家庭に入った途端、「社会」という言葉が憧れに変わってしまうのだろうか。私が接点を持ちたい、疎外されたくないと切望している「社会」というのは常に自分を評価してくれる場所であり(育児は評価されにくい)、今の自分には到底手の届かない、憧れの場所という意味の代名詞なのだろうか。働くことだけが「社会復帰」ではないはずなのに、とかく代価を得る職業に目が向いてしまうのである。ないものねだりか、隣の芝生が青いのか…。
しかし、この疎外感は、物事に対してエネルギッシュに取り組む原動力となりうるのではないだろうか。行動や時間に制約のある育児中の今だからこそ、自分が本当にやりたいことが明確にできる。自分が今、ぬるま湯の中にいることをきちんと見つめ、そこから抜け出したいと思う気持ちこそが、次のステップに進むための大きな力となる。どの一瞬も、私の人生にとっては大切な一瞬である。高く飛ぶためには、身を低く屈めなければならないし、今、私が迷い悩み、少しでも努力を積み重ねていこうとする日々は、将来の私の人生にきちんと還元されていくはずである。
育児のトンネルという表現もあるが、真っ暗ではない。必ず終わりがある。子どもは確実に成長していく。それに伴い、今感じている負担も軽減していくのだ。子どもに手がかからなくなった時、私は何をすればいいのかと途方に暮れることのないよう、今は将来の青写真をきちんと考える時期だと割り切るべきなのだろう。一旦育児に専念しようと決めたのは、ほかの誰でもないこの私である。育児休業制度を利用して、仕事を続ける選択肢もあった。それでも私は退職したのだ。社会参加、自己実現という物言いにひるんでいては、自分を追いつめてしまう。ずっと家にいるから退化していくなどと決めつける必要がどこにあるだろうか。
昨晩、本を読んでいて、とある詩が私の目を覚ました。浜文子著『育母書』の冒頭部分である。
赤ちゃん
あわて者でもいい
泣き虫でもいい
手先が不器用でも
音痴でも かまわない
もちろん
人が振り向くほどの
美人である必要もない
とりたてて特技がなくても
高尚な趣味も
噂に上るほどの博識も不要
おまけに
学歴
職歴
賞罰
一切不要
そのままのあなたがいい
そのままのあなたが好き
赤ちゃんは そう言いたくて
あなたに両手を伸ばしてくる
雷に打たれた気がした。どんな母親でも、子どもにとっては「母」という、それだけで十分にかけがえのない存在なのである。日々刻々、先へ先へと驚くほど成長していく子どもを見ながら、私は一向に変化も進歩もないなどと悲観していたが、そんなふうに自分を問い詰める必要はない。よく言われる「育児は育自」論に縛られすぎていたのかもしれない。母親としての日々は、子どもの成長に支えられながら、同時に自分の弱さや至らなさをまざまざと見せつけられることのくり返しである。それでいいのだ。成長とは、あくまでも結果論として存在する言葉であり、母親になって1年にも満たない私は、ほんのヒヨッ子で、序章も書き終わっていない(笑)。
人間万事塞翁が馬、気のもちようで苦しくもなるし楽しくもなるのだ。「誰かのために自分の時間を削っている」と思うと「自分には何も残らない」と虚しくなる。小さな家族とお互いの思い出づくりの日を送っているのだと考えれば、育児の毎日はとても楽しいものになるだろう。制限されること、我慢しなければならないことは確かに多いが、その分、人間としての幅はきっと広がるだろう。
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