「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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★遣独潜水艦作戦 Sub operations in Germany
遣独潜水艦作戦とは、
第二次世界大戦中、日本とドイツで潜水艦を使って行われた戦略物資の輸送や技術交流、要人等の輸送作戦。
作戦には航続力の長い日本の潜水艦が主に使われた。
第一次遣独艦
伊号第三十潜水艦(艦長遠藤忍海軍中佐)
1942年(昭和17年)8月6日、フランス・ロリアン入港 。
周囲をドイツ海軍の艦艇が護衛している。
復路の10月13日、シンガポール港にて機雷に触れ沈没。
艦橋前部の水上飛行機格納庫が消されている。
日本側の要望によるドイツ側の検閲だろうか。
下のカラー写真は格納庫はそのままになっている。
伊30
船体の塗装が剥がれ、汚れが長い航海を物語っている。
伊30
ロリアンに入港した伊30
左端のドイツ軍人はデーニッツ潜水艦隊司令官と思われる。
伊30
伊30
伊30
伊30
ロリアンに入港した伊号第三十潜水艦
伊30は魚雷3本、零式水上偵察機1機、航空魚雷の設計図等をドイツ側に引き渡した。
ドイツ側からは、電子兵器(ウルツブルクレーダーなど)、
エニグマ暗号機50台、魚雷発射誘導装置1、魚雷用爆薬50kg、輸送品67箱を積み出航したが、
シンガポールに陸揚げしたエニグマ暗号機10台以外は、伊30の沈没で全てが失われた。
日本の潜水艦は主に太平洋で行動するため船体が黒で塗装されていたが、
大西洋の海には黒では目立つというドイツ海軍の指摘で伊30の船体は、
ロリアンでの補修工事のときグレーに塗装された。
第一次遣独艦
伊号第三十潜水艦艦長遠藤 忍海軍中佐
第一次遣独艦伊号第三十潜水艦砲術長
竹内少尉。
1942年8月パリ見学に訪れ凱旋門の上での記念撮影。
■Youtube
ドイツ週間ニュース 遣独潜水艦作戦 (伊号第30潜水艦)
■NHKアーカイブス
日本ニュース 第161号 吾が潜水艦 盟邦独逸訪問 01:47
第二次遣独艦
伊号第八潜水艦(艦長内野信二海軍中佐、航海中に大佐に昇進)
1943年(昭和18年)8月31日、フランス・ブレスト入港。復路も帰国に成功。
無償譲渡されたUボートを回航する要員60名も同乗していた。
ドイツ海軍の艦艇に護衛されブレスト港に入港しつつある伊号第八潜水艦。
伊8はドイツの護衛艦艇に合流する前8月20日に
大西洋アゾレス諸島西方でドイツ潜水艦U 161と会合し、
翌日レーダー逆探知装置を受領装備している。
連合軍の対潜警戒が厳重な大西洋では、逆探などの電波兵装は不可欠だった。
大西洋上で伊8と会合するためロリアンを出航したU161(IXC型)
フランス・ブレスト港のブンカーに入港する伊号第八潜水艦。
ブンカーに入港しようとする伊号第八潜水艦
ブンカーに入港。
敵の海域をかいくぐり27000キロに及ぶ大航海を達成し
万歳三唱する日本の士官、水兵たち。
伊号第八潜水艦艦上で
ドイツ西部海軍司令長官クランケ海軍大将と歓迎の握手を交わす内野信二艦長。
ドイツ海軍の歓迎を受ける内野信二艦長と乗員たち。
伊号第八潜水艦は常備排水量2500トン全長109メートルの大型潜水艦のため
ブンカー内に船体が納まりきらず、艦尾がはみ出す状態になったというエピソードがある。
はみ出した艦尾は、空襲時に発見され真っ先に攻撃されてしまうのではないかと
ドイツ側は終始気にしていたという。
伊号第八潜水艦にはドイツから譲渡されたUボートの回航要員60名の他、
酸素魚雷、潜水艦自動牽吊装置(図面)、錫、天然ゴム、雲母、キニーネ等がドイツ側に提供された。
内野信二艦長(右)
五回に渡りドイツに派遣された日本海軍の潜水艦の中で往復に成功したのは、
伊8一隻だけだった。
その成功は内野艦長の力量によるところが大きい。
定期的な無線交信をあえて無視して無線封鎖を続けたり、
インド洋からシンガポールへの航路はマラッカ海峡ではなくスンダ海峡
を選ぶ等慎重な行動を続け、日本の呉に到着した。
総航程は63000キロに達し、半年間に及ぶ任務を完遂した。
ドイツ占領下のフランス・ブレストのUボートブンカー
ドイツ海軍による伊8乗員への歓迎会
ドイツ海軍による伊8乗員への歓迎会
トレバレス城での日独海軍親交会
ブルターニュ地方フィニステール県内陸部に位置するトレバレス城は、
ドイツ海軍Uボート乗員の保養所として使われていた。
伊号第八潜水艦の後甲板に増設された20ミリ4連装対空機関砲(2 cm Flakvierling 38)
ドイツから譲渡されたこの機関砲は
伊8が撃沈されるまで装備されていた。
伊8は1945年3月に沖縄に接近した米艦船攻撃のため大分県の佐伯港より出撃し
沖縄近海で米駆逐艦ストックトンとモリソンにより撃沈された。
最後爆雷攻撃で潜行不能となった伊8は浮上し、米駆逐艦と水上戦闘となり、
ドイツから譲渡された後甲板の20ミリ4連装対空機関砲が米駆逐艦に向けて発砲し、
最後まで敵艦に対して火を噴き続けたという。
伊号第八潜水艦に同乗して帰国する駐独大使館付武官だった横井忠雄海軍少将。
握手しているのはデーニッツ潜水艦隊司令官。
帰路の積み荷はダイムラー・ベンツ高速艇発動機MB501と取扱い装置や設計図面、
メトックス受信機、エリコン20ミリ機銃120挺、エニグマ暗号機169台などであった。
第三次遣独艦
伊号第三十四潜水艦(艦長入江達海軍中佐)
1943年11月13日、往路マラッカ海峡にてイギリス海軍の潜水艦に撃沈される。
写真は同型艦(巡潜乙型)の伊号第二十六潜水艦。
第四次遣独艦
伊号第二十九潜水艦(艦長木梨鷹一海軍中佐)
写真はボルドー沖でドイツ海軍の護衛艦艇と合流した伊号第二十九潜水艦。
1943年(昭和18年)11月5日、伊29は第4次訪独潜水艦として呉を出港。
14日にシンガポールに到着し、ドイツに輸送する物資生ゴム80トン、タングステン30トン、
錫50トン、亜鉛2トン、キニーネと薬用アヘン、コーヒー計3トンが積み込まれ、
96式連装機銃4基が搭載された。
また、14cm砲が取り外され、対空兵装強化のため、
後部甲板に96式2連装機銃2基が装備された。
12月5日、伊8から電波探知機メトックスを譲り受け装備。
12月17日にシンガポール出航。
1944年(昭和19年)1月16日、喜望峰沖を通過して大西洋に進出。
2月14日、アゾレス諸島南西60浬地点付近でUボートU518と会合し、
電波探知機ナクソス、電波探知機ワンゼを受領し、
ドイツ人技術者3名を乗せた。
1944年(昭和19年)3月11日、フランス・ロリアン入港。
復路は、要人18名を便乗させ、4月16日にロリアンを出航。
7月14日にはシンガポールに入港するも、
7月26日にバシー海峡にてアメリカ軍の潜水艦に撃沈される。
第四次遣独艦
伊号第二十九潜水艦艦長木梨鷹一(きなし たかかず)海軍中佐
1944年(昭和19年)ロリアンで出航準備中の伊号第二十九潜水艦
1944年(昭和19年)4月16日にロリアンを出航する伊号第二十九潜水艦
ドイツからの受領物資は、Me163、Me262の設計図とエンジン、
魚雷艇用エンジン、V1飛行爆弾の胴体、音響探知式機雷、
ボーキサイト、水銀、ラジウムアマルガム、
ロケット式射出機、対空射撃管制用ウルツブルクレーダー、エニグマ暗号機20台を積み、
ドイツ人4人を含む乗客18名が便乗した。
伊29はバシー海峡で撃沈されてしまったため、
シンガポールで下船した巌谷 英一技術中佐が携帯していた一部の資料のみ日本に持ち帰ることができたが、
ドイツの最新技術を再現するには不十分な内容だった。
橘花(きっか)は、海軍が開発した双発ジェット戦闘攻撃機
日本初の純国産ジェット機。
日本では、独自のジェット機開発が行われていたが、伊29で運ばれた
メッサーシュミット Me262の資料が橘花の開発に生かされた。
シンガポールで伊29を下船し、空路帰国した巌谷技術中佐が持ち出した
僅かな資料が参考にされた。
Me262の設計図やエンジン本体は伊29が撃沈されて失われ、結果として
多くが日本独自開発となった。
飛行試験中の橘花
終戦時に完成していたのは試作の2機のみ
試製 橘花
秋水(しゅうすい)
日本陸軍と日本海軍が共同で開発を進めたロケット局地戦闘機
シンガポールで伊29を下船し、空路帰国した巌谷技術中佐が持ち出した
ドイツ空軍のロケット戦闘機メッサーシュミット Me163の
僅かな資料が参考にされた。
ロケットエンジン本体と機体の設計図は伊29が撃沈され失われた。
飛行試験中の秋水
巌谷 英一(いわや えいいち)海軍技術中佐
第五次遣独艦
伊号第五十二潜水艦(艦長宇野亀雄海軍中佐)
伊52潜はドイツベルリンにある日本大使館の運営費とするための金塊2トンを輸送する任務を受けていた。
3月21日にシンガポールに到着すると、
ドイツが求めていた戦略物資の錫、モリブデン、タングステン、ゴム、キニーネ、カフェイン、アヘン、
さらに146本の金の延べ棒(約2トン)を積み込んだ。
1944年(昭和19年)4月23日、シンガポール出港、
1944年6月23日、大西洋洋上でU530と会合、
1944年6月24日、往路大西洋にて米護衛空母ボーグの艦載機の攻撃により沈没。
1995年にアメリカのトレジャーハンターのポール・ティドウェルにより沈没位置が特定され、船体も発見された。
再調査で遺品や積荷のごく一部が引き上げられたが金塊は発見されず、
水深5,200mもの深海であることから資金がかかり過ぎるので、
それ以上の調査と金塊の引き上げは断念された。
この時回収された遺品は日本の遺族に送られた。
第五次遣独艦
伊号第五十二潜水艦艦長宇野亀雄海軍中佐
■Youtube
I-52 "A Video Montage"ポール・ティドウェルが撮影した海底の伊号五十二潜水艦の映像
■Youtube
伊52潜水艦 ドイツ派遣潜水艦の最終艦
■Youtube
伊52潜水艦 海の中に眠っている
大西洋洋上で伊52と会合したU530
1944年6月23日大西洋洋上カーボベルデ諸島の数百km沖で会合。
伊52に逆探(レーダー逆探知機)を供与した。
このときドイツ潜水艦から連絡将校、通信士、水先案内人の3人が逆探を携えて伊52に乗り込んだ。
アメリカ軍は暗号解読により伊52とドイツ潜水艦が会合したことも把握しており、
当該海域に護衛空母ボーグと駆逐艦5隻を向かわせた。
ペナンの日本海軍基地
ペナン・シンガポール・ジャカルタはドイツに向かう潜水艦の出撃拠点となっていた。
日本~マラッカ海峡~インド洋~マダガスカル沖~喜望峰沖~東部大西洋~
ドイツ占領下のフランス大西洋岸にあるUボート基地との往復は54000キロに及ぶ大航海であった。
1943年(昭和18年)4月26日
ドイツ潜水艦U180とインド洋上で会同した伊号第二十九潜水艦
U180と伊29は洋上で荷物と乗客の移動が行われた。
日本側の伊29からは、ドイツに渡る江見哲四郎海軍中佐、友永英夫技術中佐、
89式空気式魚雷1本、魚雷艇用の2式魚雷2本、
ベルリンの日本大使館向けの金の延べ棒2トン、
赤城型空母と特殊潜航艇の設計図の合計11トンの貨物。
ドイツ側のU180からは、反英インド独立運動家のスバス・チャンドラ・ボースと秘書ハッサン、
吸着地雷1発、キニーネ2トン、砲身、弾薬、
ドイツ大使館向けの郵便文書、
ボールト(ソナー欺瞞用デコイ)432個入りの木箱3個が積み替えられた。
伊号第二十九潜水艦艦上で記念撮影されたスバス・チャンドラ・ボース、
前列左から2番目、左は秘書ハッサン。
前列中央は艦長の伊豆寿一(いず じゅいち) 海軍中佐。
1943年(昭和18年)4月26日、インド人の独立運動家スバス・チャンドラ・ボースは、
ドイツ潜水艦U180からマダガスカル島南南東400浬のインド洋上で会同した
伊号第二十九潜水艦に移乗して日本に向かった。
UBoot U180 (タイプIXシリーズD1)
■Youtube
U-180 U-boat transport expedition
■
Subhas Chandra Bose’s extraordinary WW II
journey in a German submarine Ft. Raghu Karnad | Nutshell
U180艦長ヴェルナー・ムゼンベルグとチャンドラ・ボース(右)
U180艦上のチャンドラ・ボース
インド独立のためヒトラーと面会するスバス・チャンドラ・ボース
ドイツ、イタリアを動かすことは出来ず、ボースは日本を動かすことを考えるようになる。
潜水艦でインドネシア、ウェー島(Pulau Weh)に上陸し
航空機で日本に渡ったボースは東條英機首相と面会する。
大東亜会議に参加したスバス・チャンドラ・ボース(右端)
東京で開かれた大東亜結集国民大会で演説を行うボース
東京に到着したボースは、インド独立連盟総裁とインド国民軍最高司令官に就任した。
東條はボースの影響でインドの独立に対する考え方を新たにした。
ビルマのラングーンでボースはビルマ方面軍司令官河辺正三中将と面会し、
河辺軍司令官はボースのインド独立にかける意志と、
その態度を見てボースに惚れ込みインパール作戦が実行されるきっかけの一つとなってしまう。
ボースの遺骨を保管している杉並区の連光寺
(写真はmahoroba1234の撮影 2024.9.14)
日本の敗戦でイギリスからのインド独立が不可能になり、
ボースは中国共産党が支配する延安に自由インド仮政府を置くことを計画した。
日本敗戦3日後の1945年8月18日に飛行機で台湾からソ連占領下の満州に向かおうとした。
中国への亡命は日本敗戦前に日本の了解を取り付けており、
日本陸軍は九七式重爆撃機を用意し、ボースは台湾を飛び立とうとしたが離陸に失敗し、
操縦士の滝沢少佐、同乗していた四手井綱正中将と士官一名は即死。
ボースは大やけどの重症を負い8月18日の深夜に亡くなった。
最後の食事はカレーを数口食べて息を引取ったという。
そのとき、カレーを作り食べさせてくれた当番兵に「グッド」と答えたという。
8月20日に台湾で荼毘に付され、遺骨は日本に運ばれた。
連光寺のボースの碑
(写真はmahoroba1234の撮影 2024.9.14)
連光寺のボースの碑
(写真はmahoroba1234の撮影 2024.9.14)
連光寺のボースの石碑
(写真はmahoroba1234の撮影 2024.9.14)
ラージェーンドラ・プラサード大統領、
ジャワハルラール・ネルー首相、
インディラー・ガンジー首相などといった
インドの歴代首脳が蓮光寺を訪問しており、
その時の言葉も碑文として残されている。
■NHKアーカイブス
日本ニュース 第159号 印度の志士ボース氏来朝 01:15
■NHKアーカイブス
日本ニュース 第191号 自由インド仮政府首班ボース氏ビルマに到着 01:36
■NHKアーカイブス
日本ニュース 第179号 共栄の理想顕現 大東亜会議 03:34
ドイツの封鎖突破船リオ・グランデ号 (Rio Grande)
1941年~1944年にかけてドイツから連合国の海上封鎖を突破して輸送船による物資輸送が行われた。
ドイツからは工作機械等の軍需物資を輸送し、
日本からは生ゴム、スズ、タングステン、モリブデン等の南方資源を輸送した。
リオ・グランデは1941年9月21日にボルドーより出航、
ホーン岬をまわり、ハワイとフェニックス諸島の間を通過して
12月6日に日本の大阪に着いた。
942年1月31日、神戸より出航し4月にフランスボルドーに到着。
物資を積み再度日本を訪れる。
1943年10月4日に横浜より出航するが、
1944年1月4日にブラジル沖で
アメリカの軽巡洋艦オマハと駆逐艦に発見され自沈する。
17隻の封鎖突破船が日本に派遣されたが、
日本敗戦時までにドイツに帰還できたのは2隻のみだった。
■NHKアーカイブス
日本ニュース 第169号 独補助巡洋艦来航<共栄枢軸の契り固し> 00:55
ドイツの封鎖突破船オソルノ(Osorno)
写真は姉妹船ワスカラン
日本とボルドー間の封鎖突破を二回成功させた船。
船長のポール・ヘルマンは騎士鉄十字章を受章した唯一の商船隊員となった。
ドイツの封鎖突破船オーデンヴァルト
連合軍に降伏したU234(XB型)
1945年(昭和20年)3月24日、UボートU234が日本に向けキールを出航した。
Me163型ロケット戦闘機・分解された2機のMe262型ジェット戦闘機、
ウラニウム鉱石560キロ他を積載、
東京に赴任するウルリッヒ・ケスラー空軍大将、海軍法務官カイ・ニーシュリング海軍大佐、
対空射撃管制装置の専門家ハインツ・シュリッケ海軍少佐、
対空射撃の専門家フリッツ・フォン・ザントラート空軍大佐、
帰国する友永英夫技術中佐(潜水艦建造技術)、
庄司元三技術中佐(航空機エンジン)らが便乗した。
1945年4月30日のアドルフ・ヒトラーの死と、
5月8日に後任のカール・デーニッツによるドイツ無条件降伏受諾により、
5月15日に同艦はアメリカ海軍護衛駆逐艦「サットン」に降伏した。
なお同艦の降伏直前に、日本海軍の友永・庄司両技術中佐は
連合軍の捕虜となることを潔しとせず自決している。
560kgの二酸化ウランの日本への輸送は、ドイツの敗戦とU234の降伏で消滅し、
原子爆弾1個に必要な臨界量以上のウラン235の確保は難しい状況となった。
U234艦長ヨハン・ハインリヒ・フェーラー
(Johann-Heinrich Fehler)
友永 英夫(ともなが ひでお)技術中佐
最終階級海軍技術大佐、海軍は自決を戦死とみなし大佐に昇進させた。
庄司元三(しょうじ げんぞう)技術中佐
最終階級海軍技術大佐、海軍は自決を戦死とみなし大佐に昇進させた。
捕虜としてニューハンプシャー州ポーツマスに到着したドイツ空軍のウルリッヒ・ケスラー将軍
降伏したU234の乗員
降伏したU234
降伏したU234
押収したU234の積荷リストをアメリカ軍が翻訳した英訳文
右ページの中ほどにURANIUM JAP ARMYの記述がある。
ウラニウム配送先日本陸軍の意味。
U234から押収されたドイツ語原文の積荷リストの一部
日本の原爆開発
仁科芳雄(にしな よしお)博士による日本初のサイクロトロン
1937年アメリカについで世界で二番目に開発したとされる。
仁科研究室には、戦後にノーベル物理学賞を受賞した
朝永 振一郎(ともなが しんいちろう)が在籍していた。
仁科芳雄(にしな よしお)物理学博士
1943年理化学研究所が開発したサイクロトロン二号器
日本の原爆開発は陸軍の二号研究と海軍のF研究の二つがあった。
福島県石川郡石川町や北朝鮮、満州、モンゴルでウランの探索や採掘が
行われていたがはかばかしい成果がなかったため、
ドイツからの輸入が計画された。
福島県石川町大内ウラン鉱採掘場
ウラン鉱採掘に動員された石川中学校生徒と関係者
日本の原爆開発は基礎段階だったのに加えてウランの入手も困難となり、
陸軍は1945年6月、海軍は7月に原爆開発中止が決定されたが、
採掘現場には伝わらず、石川町の生徒たちは終戦の日まで採掘を続けたという。
■Youtube
降伏したドイツ海軍潜水艦 U-234(Type XB)
■Youtube
『ラストUボート』(1993年) 予告編
■Youtube
Uボートの遺書
■Vimeo
フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン
ドイツから譲渡されたU511(UボートIX型)
1943年7月16日ペナンに到着。
日独伊三国同盟の軍事委員としてベルリンに赴任していた野村 直邦海軍中将が、
U511に便乗して帰国している。
日本側に譲渡されてからは呂500と改名された。
このときドイツから輸送されたものは、Isoma(イゾマ)射出成形機と金型。
将来アフリカでの作戦用ワクチン開発のため黄熱病の病原菌。
魚雷艇用のエンジンが積み込まれた。
Isoma射出成形機はレーダーの部品製造に使われた。
Isoma射出成形機は、横型自動射出成形機の原形をなすもので、
この機械がモデルとなって戦後のプラスチック射出成形加工業の発展に繋がる。
現在、旭化成ケミカルズ株式会社に保存されているこのときのIsoma射出成形機は、
公益社団法人日本化学会より化学遺産として認定されている。
■
旭化成ケミカルズ株式会社HP(Isoma射出成形機化学遺産登録について)
U511艦長フリッツ・シュネーヴィント中尉、後大尉(Fritz Schneewind)
ロリアンからペナンに向かう航海中に連合軍の輸送船2隻を撃沈している。
U511に便乗して帰国した野村 直邦海軍中将
帰国して大将に昇進後、東條内閣の末期に6日間だけ海軍大臣を務めた。
1943年、ペナンでU511のドイツ人乗組員を歓迎する日本とドイツの将兵たち
呂500(U511)は、戦後アメリカ軍により冠島(京都府舞鶴市)付近に
海没処分された。
■Youtube
旧海軍「呂500」発見か 若狭湾で海底調査
U1224の日本海軍への引渡し式典で、
日本海軍の士官が軍艦旗を掲揚し呂号第五〇一潜水艦となった
キール軍港を出航するドイツから譲渡されたUボート(IXC40型U1224)呂号第五〇一潜水艦
(艦長乗田貞敏海軍中佐)
呂501はバルト海のドイツ海軍潜水艦学校で習熟訓練を修了した
回航員(伊号第八潜水艦でブレストに到着)の手によって、
1944年3月30日キールを出航した。
同艦には、根木雄一郎海軍技術中佐(潜水艦建造技術)
江見哲四郎海軍大佐(潜水艦戦術)
吉川春夫海軍技術中佐(Me262ジェット戦闘機)
山田精二海軍技術中佐が便乗した。
1944年5月13日、大西洋・カーボベルデの北西で
アメリカ海軍の護衛空母ボーグの艦載機と
護衛駆逐艦フランシス・M・ロビンソンの爆雷攻撃により沈没。
人材とともに、ロケット戦闘機・ジェット戦闘機のエンジン他の
資料は日本に届くことはなく海に消えた。
パリ見学に訪れた回航員
ドイツから譲渡されたUボート呂号第五〇一潜水艦の日本海軍回航員たち。
パリでの宿泊先は、1898年創業の高級ホテルのリッツ・パリ ( Ritz Paris )だったという。
1944年5月13日、アメリカの護衛空母と護衛駆逐艦の攻撃で全員が戦死してしまう。
■
Ritz Paris HP
ローマ東京間を往復したイタリアのサヴォイア・マルケッティ SM.75
イタリア空軍パイロットたちと日伊の関係者
1942年6月29日イタリア・ローマ県グイドーニアを離陸し、2,030 km 飛行して、
ドイツ占領下のウクライナのザポリージャの飛行場に着陸し燃料補給を行った。
6月30日10,340 リットルの大量の燃料を積んで過荷重状態で離陸し、
ソビエト領内を6000キロ飛行して日本占領下の内モンゴル、包頭(ほうとう)に着陸した。
ここで日本の標識を施され、2700キロ飛行し東京の飛行場に着陸した。
日本はソビエトを刺激することを恐れ、この事実を公表しなかった。
遠路危険を冒して飛行してきたイタリア人パイロットたちは、
事実上日本で軟禁されたような状況に置かれた。
1942年7月16日にSM.75 GA RTは帰路につき、
包頭に到着すると日本の標識はイタリアのものに再度変更された。
1942年7月18日 21:45に包頭を離陸し、
往路を6,350 km を飛行してウクライナのオデッサに着陸した。
この後、グイドーニア・モンテチェーリオまで飛行、この任務を完遂した。
外交上の理由(日ソ中立条約への影響)による日本の不同意にもかかわらず、
イタリアは1942年8月2日にこの出来事を公表したため、2国間の関係は悪化した。
サヴォイア・マルケッティ SM.75のパイロット
アントニオ・モスカテッリ中佐(Antonio Moscatelli)
イタリア海軍潜水艦コマンダンテ・カッペリーニ (Comandante Cappellini)
1943年4月コマンダンテ カッペリーニは「アクイラ」計画に使用された。
ドイツの指導で日本との物資輸送に参加し
95トンの鋼鉄、アルミニウム、予備部品、弾薬を積んで、フランス・ボルドーを出港
日本占領下のインドネシアのサンバンに到着したがイタリアが降伏し
シンガポールでドイツ海軍に接収された。
ドイツ海軍に接収されたコマンダンテ・カッペリーニは、
ドイツ海軍潜水艦UIT24となった。
1945年5月ドイツ降伏後は日本海軍に接収され伊号第五百三潜水艦となった。
イタリア海軍潜水艦ルイージ・トレッリ(Luigi Torelli)
ドイツ・テレフンケン社(Telefunken)ウルツブルク・レーダー技術者ハインリヒ・フォーダス(Heinrich Foders)
と電波兵器専門家の佐竹金次陸軍中佐を乗せ、
1943年6月16日ボルドーを出航。
1943年8月30日に無事シンガポールに到着したものの、
1943年9月8日のイタリア降伏後、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収されUIT25と改名した。
シンガポール到着後にハインリヒ・フォーダスは空路日本に向かい、
以後日本無線にてウルツブルク・レーダー開発の技術指導を行い、
レーダー付の高射指揮装置が日本人によって開発生産された。
1945年(昭和20年)5月に2門のみ完成していた有効射高16,000m の15センチ高射砲(五式十五糎高射砲)
と連動したこの高射指揮装置つき防空陣地が久我山に完成し、
7月中旬から射撃をはじめ、8月1日にB-29を2機撃墜する戦果をあげたとも言われる。
ウルツブルク・レーダー技術者ハインリヒ・フォーダス(Heinrich Foders)
久我山高射砲陣地の五式十五糎高射砲
五式十五糎高射砲の砲弾
砲弾の長さは180センチ近くあったという。
砲弾内には2000発の散弾が装填されており、
炸裂すると200メートル四方の敵機を撃墜させる威力があったという。
写真は戦後米軍による撮影。
多摩川の河川敷で実験中の4型電波標定機
多摩川の河川敷で実験中の4型電波標定機
日本無線三鷹工場のウルツブルグ・レーダーの国産初号機のタチ24(4式電波標定機)
写真は戦後、米軍が撮影したものと思われる。
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