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今日はロンドンのバンドサークルについて書いてみようと思う。ロンドンのバンドはUNDER GROUNDの中でも、ジャンルによってサークルがあり、へヴィーメタル、カントリー、ブルース、プログレ等があり、それぞれがバンドのジョイントコンサートを行なったり、メンバーを交換したり、違ったバンドのメンバーが集まってアルバムを制作したりしている。これは、成功したバンドの世界でも同じ傾向で、例えばハードロックの世界でもディープパープルというバンドが解散した時に、殆んどのメンバーがホワイトスネークというバンドに一時的に移り、その時サークルにいたバーニィ・マーズデンというギタリストとミッキー・ムーディという2人のギタリストが参加した。バーニィは、時折イアン・ギラン(初期のディープパープルのボーカル)からスヌーカー(ビリヤードみたいなもの)のテーブルを買った話や、ジェフ・ベックが遊びに来た時の話、今は亡きコージー・パウエルは決してバンドのメンバーにはならずに一回のセッションでいくらという稼ぎ方をしていた、彼の結婚式にはエリック・クラプトンが来て演奏をした話など、ここでもハードロックやブルース系の交流が伺われる。私のいたUNDER GROUNDに話を戻すと、ここでも小規模ながら交流が行なわれていた。昔はプログレといわれた世界は70年後半からポンプロックと云われたらしく、バンドのサークルにはTWELVES NIGHTS、CITIZEN CANE、 MAZE、PENDRAGON、SOLISTICE、PALACE、IQというバンドがいたのだが、このサークルから成功したのはMARILLIONというバンドだけだった。これらのバンドがマーキーに出る時は、我々もクラブに行き他のメンバーと話をしたりジョイントコンサートの予定をたてたりしていた。これは残念ながら、私がバンドに入る前の話だが、80年の初期にはEMIがこのサークルからMARILLIONに続くバンドを企画して、サークルからひとバンド一曲録音してアルバムを出したらしい。この時はPALACEというバンドが有力候補だったらしいが、残念ながらこのブームも終わってしまったらしい。今も元のバンドメンバーは、別のバンドに入ってアルバムを何枚か出したり、PENDRAGONのメンバーとアルバムを作成したり、YESのリック・ウエイクマンの息子のアルバムを手伝ったり、元ジェネシスのギタリストのスティーブ・ハケットのコンサートでドラムを叩いたりしてがんばっているが、相変わらず金にはならないと嘆いていた。がんばって欲しい。
2003年10月17日
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今日は、ロンドンのバンドの登竜門だったMARQUEE(マーキー)というVENUE(コンサート会場)について書いてみよう。もう閉まってから、随分月日が経ってしまった気がする。去年カムデンタウンのほうに一時的に開いたらしいが、また閉まったらしい。マーキーは収容人数は400人ほどだが、ロンドンの中心にある最も有名なクラブだった。このクラブで演奏した有名人は数限りなく、ビートルズ以外はみんなここで演奏した事があるというほどで、イギリスのバンドの登竜門だった。なぜビートルズがここで演奏しなかったかというと、みな知っての通り、彼らはロンドンより北に列車で3時間のところにあるリバプールの出身で、彼らがロンドンに来た頃にはすでに有名になっており、マーキーで演奏する必要がなかった。もともとこのクラブはOXFORD STREETにあったものが、1964年の初期にWARDOUR STRRETというとおりに移ったのだが、ここで演奏したバンドの名前が凄い。DAVID BOWIE、THE WHO、LED ZEPPELIN、JIMI HENDRIX、PINK FLOYD等、私がロンドンに来た1979年頃は、セックスピストルズやアイアンメイデンなどが演奏していたらしい。マーキーは1980年の後半に、CHARING CROSS ROADにあった劇場に移ってしまったが、この劇場は収容人数が1000-1200人で前の雰囲気からは程遠くなってしまった。その上にその知名度が大きくなり過ぎて観光客が多くなり、演奏しているバンドの質は下がる一方だった。1990年の中頃になると客足も少なくなり、必然的に閉めることになってしまったらしい。今でも、昔のマーキーの怪しい、そしてエキサイティングだった頃がとても懐かしい。狭い入り口を入って左側にある、BOX OFFICEでチケットを買い、長い通路を歩き、通路を突き当たったところの左側のドアを入ると、カウンターのあるバー。そこには片手にビールのパイントグラスを持った人たちとタバコの煙で充満していた。人を掻き分け、バーを通り抜け、次のドアを開けると、正面には胸ほどの高さのステージがあり、その両側には黒ペンキで塗られたスピーカーが吊ってあった。何もかも真っ黒のペンキで塗られた会場不思議な雰囲気を持ったクラブだった。私が所属したバンドは、70年後半から80年代前半にかけて前のあのマーキーに出演していたらしいが、私が入ったときは残念ながら、新しいマーキーに移ってしまった後だった。今となっては見果てぬ夢になってしまったが、私には、あの不思議な雰囲気を持ったステージで演奏できなかったことが今でも悔やまれる。
2003年10月16日
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音楽がテーマなので今回はロンドンの音楽状況、特にバンド状況に触れてみる事にしよう。イギリスのバンドは、基本的にUNDERGROUNDという呼び名で呼ばれている世界、つまり、まだ陽の目を見ていないバンドが沢山存在している。これらのバンドは、みな系統の違う音楽を演奏しており、現在何がはやっているからという観念はあまりない。(最近はレコード会社が強くなり、ちょっと傾向が変わってきてはいるが)。それぞれのバンドが自分たちの個性を大事にしているので、他の成功しているバンドのコピーなどはめったにやらない。他のバンドの曲を演奏するとすれば、自分たちの独自のスタイルを使って演奏するので、全く別のものに聞こえてしまうほどに変ってしまうといった具合になる。ここでは、全て新しい音、新しい音楽と言うのが話題の中心になり、それが成功へつながる。だからイギリスの聴衆はオリジナル性の無い音楽には、どんなにウマく演奏しても物まねとしてしか受け取らない。イギリスではこのUNDERGROUND の世界のバンドとは別に、PUB BANDと言うものがある。これは過去にヒットをした曲をパブで演奏するプロジェクトで、ブルース、ジャズ、またはアイリッシュのフォークからブルースブラザース、そしてビートルズ等と多彩である。これらのバンドはパブに来るお客のために、有名な曲をレパートリーに持ち、一晩4万円~5万円の演奏料をもらい、そのステージの終わった直後にメンバーでそのお金を分ける。メンバーが多いと分け前も少なくなるため、バンドの人数は4-5人の場合が多い。このようなバンドはセッションミュージシャンのアルバイトにもなっており、なかなかすごい演奏が聴ける場合もある。私がロンドンに来た当時はこのようなパブが街のあちこちにあり、そこから聞こえてくる音楽でお客を呼び込んでいた所が多かった。80年代は入り口で2-3ポンドを払い、手の甲にスタンプを押してもらうと、その夜はその会場に出たり入ったりが自由に出来る仕組みになっていた。ある日の午後、KENSINGTON地区にある地下鉄のGLOCESTER駅を出ると、道路の反対側にあるパブの2階から生演奏が聞こえてきた。音をたどって二階に上がると、入り口に人が立っており入場料を取っていた。確か2-3ポンドだったと思うが、入場料を払って中に入ると、学校の教室の半分ぐらいの部屋の床にびっしりと人が座っていた。入り口の反対側の壁には、DRUM,BASS,KEYBORD,GUITARの4人が立って演奏していた。音楽はJAZZ FUSION系のINSTRUMENTALで歌はないのだが、全然飽きさせない。それぞれの楽器がまさに受け答えをしていて、音の厚みがとても4人で演奏しているとは思えないほどだ。まさに音楽は1+1は2ではなく3にも4にもなりうる、ということを証明したような演奏である。しばらく呆然と立ちすくんで聴いていた私は、立って聴いているのが私だけと気づき、他の人たちに混じって床に座った。演奏は1時間ぐらいだったと思うがあっという間に過ぎてしまい、とても有意義な時間を過ごした午後だった。その後何回か足を運んだのだが、そこでは二度と演奏を聴くことはできなかった。GLOCESTERの駅前には今でもパブはあるのだが,あの日以来そこの二階から生演奏が聞こえてくる事はなかった。
2003年10月09日
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ちょっと遅い話になってしまうのだが、10月5日にマイケル・マクドナルドのコンサートに行ってきた。このコンサートはラッキーにも家から歩いて5-6分の所にある会場で行われた。なぜ彼がロンドンではなく、少々離れた場所の会場を選んだのかは定かではないが、私にとっては大ラッキーである事には間違いない。開場は7時半だったのであるが、少々遅れて8時ちょっと過ぎに、会場前座が始まった。この前座はディナーショーを思わせるような軽いジャズで、聴衆にはかなり受けていたようだが、私はあまり面白いとは思わなかった。前座が終わり、しばし前座の機材をかたづけた後、いきなりマイケルの登場である。そして彼に続いてバンドのメンバーも登場した。マイケルは舞台のど真ん中にあるキーボードの前に座ると、いきなりあのシルキーな高い声で歌い出した。すごい迫力である、初めて彼のコンサートを見たのであるが、彼の声の迫力はCDで聴くよりも数倍よかった。最初からノックアウトであった。その後の曲の順番は、もう忘れるほど堪能した。一応思い出せるだけ書いてみる事にしよう。IT KEEPS YOU RUNNING/ YOU BELONG TO ME/ WHAT A FOOL BELIEVES/ I KEEP FORGETTING/ YAH MO B THERE/ NO LOOKING BACK/TELL IT LIKE IT/ I GOTTA TRY/ ON MY OWN (WITH JACKI GRAHAM)/BY HEART/ SWEET FRREDAM/ MINUITE BY MINUITE 等にアンコールとしてWHAT’S GOING ON/ AINT NO MOUNTAIN HIGH/ YOU ARE EVERY THING といった曲目である。詳しい人が書いていれば、もう少し細部にわたって伝えられるだろうが、とりあえずコレで勘弁してもらいたい。今回のコンサートで特筆すべき事は、黒人女性のドラマーである。なかなか愛嬌もある彼女は、あの変化に富んだマイケルの曲を難なく演奏するばかりでなく、バックコーラスの要でもあり、時折ソロでも歌うほどの実力者だ。バンド全体としては、やはりマイケルの存在感が大きすぎて、他のメンバーが霞んでしまうほどである。彼をメンバーの一員として活動していたDOOBIE BROTHERS は凄いバンドだったのだと改めて痛感させられた想いだった。また、彼だったからこそ、あのTOM JOHNSTON の後釜として立派にDOOBIE を盛り立てられたのだと感じたコンサートだった。
2003年10月08日
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結婚してから初めて日本に帰省した時のことである。嫁さんの弟・・・つまり私にとっては義弟、のところに遊びに行った。彼は結婚して松山に住んでいて、2人の女の子・・・便宜上、リンリン(4歳)とランラン(3歳)としておく・・・がいることを嫁さんから聞いていた。関西から電車に揺られること、5時間。ようやく松山の駅に着くと、すでに義弟が年下のランランを連れて迎えに来てくれていた。私たちは軽く挨拶を交わした後、義弟の車に乗って家に向かう。久しぶりの再会ということもあり、早くも車の中では嫁さんと義弟の間で話が弾んでいる。家に着いて義弟の嫁さんに挨拶をし、まず4歳のリンリンに挨拶をしてみた。リンリンは4歳とは到底思えないほど賢く、何をきいてもハキハキと答える。反対に1歳しか違わないランランは何をきいてもうわのそら。自分の言いたいことを言い、自分のやりたいことをやっている、全くの「強引マイウエイ」だ。私は、自慢ではないが子供には好かれるたちだ。時々、好かれすぎて困ることもあるくらいだ。私は2人とすぐに仲良くなり、リンリンは私をとっちおじちゃん、ランランは私を、ただおじちゃんと呼ぶようになった。しばらく義弟やその嫁さんと世間話をしながらお茶を飲んでいると、家に着いた安心感もあってか、私は急にトイレに行きたくなった。場所を教えてもらって個室に入ると、便器が日本式だ。自分にとっては久々で、しばし感慨にふける。そして、鍵をかけようとして内鍵を探したが、ない!(後で聞いたことだが、小さい子のいる家は万が一のためにトイレの鍵はつけないらしい。)・・・私は迷った。トイレの外では、リンリンとランランの元気なはしゃぎ声が聞こえる。あの元気さで、いきなりトイレのドアを開けられたらたまらない。しかし、自然は力強く私を呼んでいる。私は意を決してズボンを下ろし、とにかく彼女たちの関心がこちらに向かないうちに、早く済ませてしまおうと慌てた。しかし、こういう精神状態のときはなかなか思うように行かない。呼んでいた自然が途中で無言と化してしまう。焦って時間ばかり経つうちに、ドアのすぐ外で「おーじーちゃん?」とランランが呼びかける声が聞こえ始める。やっ、やばい!トイレの後ろについているドアに、無理を承知で必死に手を延ばす。状況を察した義弟の嫁さんがランランをドアの前から連れ去ってくれた。ほっとした私に平和と自然が戻る。私は何ごともなかったかのように話の輪にもどり、子供たちと遊び始めた。時計が2時を過ぎた頃だろうか、義弟の嫁さんが、「リンリンちゃん、ランランちゃん、そろそろお昼寝の時間ですよぉ!」といって次の間に布団を敷きだした。子供たちがいると、なかなか大人同士で話もできないということだ。嫁さんの目配せで状況を察した私は、2人に向かって「じゃあ、おじちゃんとおばちゃんも、リンリン・ランランと一緒に寝るかなぁ。」と言い、このまま遊んでいたがる2人を寝床に連れて行く。私の嫁さんはリンリンの隣、私はランランの隣に横になり、2人が寝込むまでこっちが寝たふりをすることになった。この時はまだ、ランランを私のマークにしたのが重大なあやまちだとは気がついていなかった。聞き分けの良いリンリンは、嫁さんが寝たふりしている様子をちらちら見ながら、寝る義務感にかられて、すぐに寝息を立てて寝入ってしまった。実におりこうさんだ。リンリンが眠ったのを見届けた嫁さんは、音を立てないようにこっそり隣の部屋に行ってしまった。置き去りにされた私は焦り始めた。薄目を開けて見ると、ランランは寝転がっているものの、プラスチックでできたこぶし大のキティちゃんをしっかり握って虚空に浮かべ、目はぱっちり開いている・・・ランランはなんとなくふんふんしながら、時折小さな声で「きてぃちゃ~ん・・・」とつぶやいている。とにかく私が寝たふりをしばらく続ければランランもつられて寝ると思い、目を閉じて眠ったふりを続ける私。それからおそらく20分ほどたった頃、折りしも時間は午後3時。部屋にかかっていた柱時計から突然「大きな古時計」のメロディーが流れ出したのだ。ランランは私の隣でガバッと半身を起こしたかと思うと♪いまはっ もぉ うごかない そのとーーけーーいーーー♪・・・・と歌い出した。その真剣さとあどけなさがあまりにおかしかった私は、笑いをかみ殺すのに必死になった。しかし、ここでランランに私の寝たふりがばれたら、今までの努力が水の泡である。必死で目を瞑って体が笑いで震えるのを止めていた。歌い終わったランランは興味の矛先を突然変更し、「おじちゃん?」と呼びかけてきた。寝たふりがばれた!!!と思ったが、どうせ相手は子供である。このまま嘘を通せば、そのうちにあきらめて寝てしまうだろうとたかをくくっていたのが間違いだった。気配で察するにランランはじぃっと寝たふり中の私を観察しているらしく、しばし沈黙が続く。突如、私の顔に硬いものがゴリゴリと押し付けられた。いっ、いたいぞ!薄目を開けてランランを見ると、彼女は手に持っていたプラスチックのキティちゃんを私の顔に押し付けてごりごりと上下に動かしているではないか!彼女は興に乗って「きてぃちゃあ~ん!きてぃちゃあ~ん!」と、顔のごりごりに合わせて2回うめいた。「大きな古時計」を突然耳元で歌われ、その上、痛くもおかしいキティちゃん攻撃が続き、自分の閉じた目の内側で涙をこぼしながら腹を引きつらせていた。私がそれでもさらに拷問に耐えていると、キティちゃん攻撃はやんだ。さらに5分ぐらい経過しただろうか。恐る恐る薄目を開けてみると、眼の前には小さな寝息を立てて寝入った、天使のようなランランの寝顔があった。私はランランをそこに寝かせたまま、嫁さんや義弟たちのいる居間にようやく戻ることができたが、引きつった腹がしばらく痛かったのは言うまでもない。この後、我が家ではこの時のことを「キティちゃん攻撃」と呼んでいるが、今、思ってもあんなに苦しかった窮地はなかった。
2003年10月06日
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ロンドンもこのところ随分涼しくなってきた。こういう気候になると、いつも思い出す事がある。1980年の後半の頃だったと思うが、現在の仕事につく前に、コマーシャルコーディネーターという仕事についていた。コマーシャルのプロダクションの下請けで、現地での一切のホテルや撮影機材、ミニバスの運転、撮影地の許可取り、モデルの調達、そして撮影時の監督の通訳など、いわゆる何でも屋である。ある時、某ウイスキー会社の撮影で、スコットランドのルイス島という島で地元の演劇グループを使い、荒野を背景にしてのスチール(ポスター)撮影があった。ルイス島に着くと、地元の演劇グループのオーディションをして、背格好の良い、いかにも地元の人といった風貌の人を14~15人選んだ後、私たちがあらかじめ決めておいた撮影候補地に行き、具体的な撮影場所を決めた。撮影当日、私は現地の羊飼いのおじいさんとその犬を助手席に乗せ、後ろに撮影隊を乗せてロケ地に出発した。見るからに優しそうなおじいさんと賢そうな犬は、午前中ずっと助手席に座り、私のよき話し相手となっていた。午前中の撮影は進み、昼食が終わる頃になると、それまでの緊張が解けてきたせいか、演劇のグループがウイスキーを飲むピッチが俄然あがってきた。大きな石の前でスチール撮影をしている時など、飲み過ぎで足を滑らせる人が続出。大変な事になってきた。突然、その中の比較的若い人が興に乗って歌を歌い始める。いい声だ。すると、ほどなく全員での合唱になり、かなりの迫力になった。カメラマンは必死でシャッターを押し続け、撮影が終わった。なかなか良い写真がとれたようだ。気分を良くしたアートディレクターは、演劇グループの中にいたさっきの羊飼いのおじいさんを連れて、次の撮影地に行くように私に指示を出す。演劇のグループに、撮影が終わった事と良い写真がとれた事を告げ、お礼を言ってミニバスに乗り込んだ。バスの運転席に座ると、私はすでに助手席に座っていた羊飼いのおじいさんに挨拶したのだが、なぜか彼は妙に静かなのだ。おかしいなと思ったのだが、後ろに乗っていたプロデューサーが「とっち!次の場所は、石の塀があったあの場所ね!」と話しかけてきたので、私は車を次の撮影場所に向けて出発させる。羊飼いのおじいさんは、相変わらず静かである。午前中はあんなに色々しゃべっていたのに・・・おかしく思った私は、おじいさんになるべく話しかけたのだが、私を見る表情も別人のようになってしまっている。彼が突然「この犬を殺さなくては!」と私の隣でポツリとつぶやいた。絶対ヘンだと確信した私は、撮影隊に気付かれないように、どうしたのか、何でそんな事を言うのかきいてみたのだが、おじいさんはそれには答えない。彼が突然、この近くにこの島の歴史が収めてある博物館があるから、そこに行こうと言い出した。私は「今は撮影の現場に向かっているので、撮影が終わったら行こうね」となだめたのだが、彼は全然聞きそうにもない。困った私は、後ろに座っていたディレクターにおじいさんがおかしいことを告げ、さらにおじいさんを説得し始める。すると、おじいさんは急に「おまえら日本人は、ドイツ人と同じだ!」と叫んだかと思うと、手に持っていた50cmぐらいある真ちゅう製の望遠鏡を、バスを運転していた私の顔めがけてフルスイングでぶつけてきたのだ。とっさに私は顔の前に出した手でそれを受け止めた。後ろからディレクターが「コレは危ないからこちらにおいておこうね。」といって私の手から望遠鏡をとり、後ろの座席に置いた。私は突然、顔に望遠鏡をぶつけられそうになったショックから抜けきれないまま、彼を見るとおじいさんは、なぜか今度は静かにオシッコがしたいから車を止めてくれと言った。後ろから某広告代理店(当時20代後半)のOさんが「僕も!」といったので、バスを止めた。Oさんはバスが止まるや否や、後部ドアから勢い良く走り出ると、道路を外れてどんどん奥に荒野を走って行った。かなり緊急だったためか、彼は完全な誤算をしていた。彼はその日、目にも鮮やかな真っ赤なジャンパーを着ていたことと、彼が走っていった方向は、少しのぼり坂になっていたこととで、彼の所在は道路にいる私たちからは丸見えだった。そんなことなど頭になかった彼は、100m ぐらい走った後、急にズボンを脱ぐと向こうを向いたまましゃがみ、動かなくなった。我々が唖然とその一部始終を見ていると、後ろからコピーライターのN氏を乗せた車がやってきた。N氏は車から降りてきて、状況を一目で把握すると、大きな声で「HE IS DOING A BIG ONE!(大きいほうをヤッてるな!)」といった。荒野の赤いヤッケ!荒野の大きな落し物!あまりにも鮮明な記憶だ。私はついさっき、あんなに怖い目に遭ったというのに、グループのみんなはこの赤いヤッケで大笑いになってしまい、私にぶちかまされた惨劇(寸前)は忘れ去られてしまうことになった。ちなみにその時ルイス島で一緒に働いていたアリステアという男性に聞いたところ、この羊飼いのおじいさんは有名な酒乱で、本人は長い間酒を辞めていたらしい。それが今回この仕事でお昼に酒を勧められ、最初は断っていたのだが、つい一杯だけと手を出したらしい。さらに彼は、戦時中ドイツ軍の捕虜になったときに虐待に遭い、酒を飲むとその記憶が蘇ってくるらしい。こちらに来て、初めてBRITISHの酒乱に出会った経験だった。
2003年10月05日
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今日は久しぶりに会社が終わってから、OXFORD STEETのHMVに行ってみた。何でそんな気になったかというと。ロンドンは、このところあまり天気がよくなく、通勤の時に風邪気味の鼻をグスグスした人たちが多い。イギリス人は我々日本人よりも、気温が低い方を好むので、ちょっと暑い夜などは窓を開けたまま寝る人が多い。したがって明け方が寒いと寝冷えをし、風邪をひきやすいのだ。それと彼らのほとんどは、朝仕事に行く前にシャワーを浴びる。特に女性はヘアードライアーを嫌うためなのか、また自然に乾燥させた方が髪のスタイルが良くなるためなのかは定かではないが、10人中3人は髪がぬれたまま会社に出勤する。もう一つは、この都市が色々な人種が一緒に生活をしているため人の出入りが多い、したがって色々な種類の流感が入ってくるのではないかと思われる。とにかく、ここの冬の流感は凄まじい、通常は一回風邪をひくと免疫ができ、しばらくひかないと思っていた常識が、この国に来てから根本からくつがえされた。今治ったと思ったら次は別の流感をひき、ひどい人は3ヶ月ぐらいグスグスとひきっぱなし、といったありさまだ。説明がだいぶ長くなったが、このかぜの予防をどうやってしようかと思っていたら、友人の一人がBOND STREETの駅の中にハーブの薬屋さんがあって、そこにあるハーブの液体が風邪のひき始めにはよく聴くと効いたからである。お店の近くまで来てから携帯で嫁さんにその事を相談すると、もう家にあるので絶対に買わないようにとのこと。しょうがないのでというか、第二の目的とでも言おうか、眼の前のHMVに直行した。いまHMVはSALEのためかなりの人でごった返していた、人を掻き分けて中に入り目的のCDをゲット、周りに空いている試聴の機械を探したが、なっ!ない!どこにも無いではないか。このお店は、私の会社がまだこの近くにあるとき、試聴ができるので、お昼休みや会社の帰りによく来ていたのだ。店のいたるところにヘッドホンが置かれてあり、その機械に聴きたいCDのバーコードをスキャンするだけで試聴できる優れたシステムがはいっていたのだが、今はもう取り除かれていて、かわりに店のお勧めCDしか聴けないようになっていたのだ。私はCDを持ってウロウロし近くにいた店員に、ここはCDが試聴できるところがあったはずですよね?ときいてみたが、その見るからに客疲れした顔の店員から返ってきた言葉は、「もうやってないよ」だけだった。BOND STRRETのHMVは私の会社がまだ近くにあった頃、まだ道路の反対側にあった小ぢんまりした店だったが、かなり置いてあるCDの内容がよくて頻繁に利用していた。道路の反対側の大きな場所に移ってからも、先ほど書いた試聴できるシステムを置き、気に入ったCDをじっくり探すことができたのだが、いまはCDのマクドナルドのような売れるものだけをできるだけ大量に売る、FAST CDショップになってしまっていたのは、とても残念だった。今はインターネットでもCDの試聴ができ、家で好みのCDが選んで買える時代だ。もうあの店には足を運ぶ事はないだろう。今日はちょっと残念な気持ちになった。
2003年10月03日
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昨日の楽天のメインテナンスは私にとって辛かった。日本では夜中の12時から昼の12時までだったが、こちらでは16時から明け方の4時、これは朝の8時には会社に行くため家を出なくてはならない私にとって、今日は日記の更新をあきらめなさいと言われたようなものだった。特に今朝は、嫁さんとつまらない事でけんかをして、一日気分はLOW余り体調も優れず、面白くなかった。なんか気分がよくなかったのとタバコがなくなりそうなので、仕事が終わってから家の近所のSAFEWAYというスーパーに行って買い物をした。この国は自動販売機などを道に置いたら、同日には壊されるか機械語と盗まれてしまうので、タバコや飲料水はNEWS AGENT(タバコや新聞、雑誌そしてお菓子や飲み物を売っているコンビニのようなもの)かスーパーに行かなくてはならない。スーパーで野菜、ハム、コーラ、パンを買ってレジにいくと幸いにも客はならんでいなかった。レジの所には黒人のおばちゃんがヒマなのか、面白くなさそうにふてくされて座っていた。彼女が私の買ったものをピッピッとしている間、私の後ろがタバコのカウンターなのでコレも暇そうにしていたお姉さんにタバコを取ってもらい、レジのオバサンに渡すとなぜかニコニコ顔になっていた。通常ここでは、客がまずレジでタバコの銘柄と個数を伝えて、レジの人がタバコのカウンターの人に伝えると言う、しちめんどうくさい方法を取っている。当然カウンターの人は銘柄を知らずに、右往左往・・・違うもっと右・・・その上・・・違うその隣り、という具合であるので、多分その手間を省いてくれたということだったのかもしれない。レジが終わりサンキュウと言ってその場を離れる時、優しそうな笑顔でウエルカムと返してくれた。スーパーを出ると、なんか今までむしゃくしゃしていた気分が少し晴れた気がした。家に帰ると嫁さんから電話があった。仕事場からである。彼女は淡々と今朝のけんかの原因を説明した。また少し言い合いになって、お互い一旦電話を切ったが、そのすぐ後、私は言いすぎたと思い、彼女に電話をかけて謝った。嫁さんはもう怒っていなかった。
2003年10月02日
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今日お昼の時間に、仕事仲間のYさんとロバート・パーマーが亡くなったことで話が始まった。彼女はクラシックからポップまで非常に知識があり、彼女自身もピアノを弾いたり、コーラスのグループに所属していたりと多彩な人である。彼女曰くロバート・パーマーは、最初黒人のブルースやソウルに弾かれ音楽を始めたそうな。始めた頃は、その頃流行していたCLIFF RICHARDといつも比較されるのがイヤだったと、雑誌のどこかに書いてあったのを思い出していた。そのあとは大ヒットしたADDICTED TO LOVE、I DID’T MEAN TO TURN YOU ON、等数々のヒット曲の話をしている内に、お昼の時間がなくなってしまった。私はその後仕事をしながら、1980年の初期に彼を最初にテレビで見たときのことを思い出した。それはロバート・パーマーのドキュメンタリーで、彼がどこか南国の砂浜にある平屋に、当時アナログのシーケンサーのついたキーボードと、スタジオ機材を一式持ち込んで、曲作りをしているところを取ったものだった。私はその中で流れたJOHNNY AND MARYという曲に惹かれ、彼のアルバム(当時はカセットテープ)を買いに行ったのが最初の出会いだったと思う。私が彼を評価(こんな大物に対して評価と言うのは失礼だが)したのは、その作曲のオリジナリティにあると思う。80年の初め、イギリスではコンピュータ音楽を始めたミュージシャンが多く、DEPECHE MODE、EURYTHMICS、YAZOO,、HUMAN LEAGUE、PET SHOP BOYS、DEAD OR ALIVEなど等、コンピュータを駆使したバンドが続々出てきた。周知のようにこの中のいくつかは大物バンドとして、今も活躍している。その他、POWER STATIONのときのロバート・パーマーも良かった。GO TO ZERO、SOME LIKE IT HOTなどファンキーでオシャレでカッコよかった。正直言って私自身、パフォーマー及び作曲家としての彼は評価していたが、シンガーとしてはあまり評価してはいなかった。しかし、彼のマービン・ゲイのMERCY MERCY ME/ I WANT YOUをきいた時はマイリマシタ、だった。心静かに彼の冥福を祈りたい。
2003年09月30日
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今の仕事についてからは、しばらく利用する事がなくなったロンドンのTAXIについて書いてみることにした。私が1979年に最初にHEATHROW空港に着いたとき、飛行機がかなり遅れたため、迎えに来ていた友人はなんと家に帰っていた。友人に電話をすると、ロンドンのTAXIは優秀だから、ここの住所を見せれば家の前まで乗せてきてくれるので、TAXIに乗ってきなさいと勧められた。第三ターミナルを出ると、まず白タクの運転手がTAXI?と声をかけてくる。No Thank You!と言いながら彼らをかわし、黒塗りのTAXIのところまで行き運転手に、市内の住所を見せると快くドアを開けてくれた。乗り込んだ第一印象は、中がとても広く座席のすわり心地も良い、運転席の横は荷物が載せられるようにスペースを空けてある。運転席と客席はガラス窓で仕切ってあり、運転席の後ろは折りたたみの補助席が2つ付いていいて合計五人は座れるようになっている。座席の両側の上には、スポットライトが備えてあり、座席の両側には車が揺れた時のために掴まるところが備え付けられている。最近は新しいTAXIも多くなったが、私が来た頃は、全てがまだ古いままの車種であった。私が乗ったTAXIは、その住所まで来るとちょっと行き過ぎたのか、なにやら私に後ろの方を指差して言っているのだが、その時の私には、何を言っているのかまったく分からなかった。とにかく降りて料金をたずねると、Sixtyと言ったので60ポンド渡そうとすると、運転手はびっくりした表情でしばらく考えていたようだが、You Are Lucky!!!(あんたは運が良いよ)と言ってその中から20ポンド紙幣をつまみ取り。にこりと微笑んで去って行った。運転手は、Sixteenと言ったのを、私がSixtyと聞き違えたらしかった。60ポンド出した私に、運転手は一瞬躊躇したが、私があまりに不慣れな感じがしたからか、出したお札を全部取ってしまうようなことはしなかったのだ。(但し、4ポンドのチップっていうのはちょっと気前がいい額だったけど。)本当に運が良かった。彼らは運転が非常にうまい上に、道を良く知っている、その何年か後、ある運転手が目的の家の前に、あまりにも見事に車をつけたので、本当によく道を知っているね!と褒めたところ。Let me tell you(ちょっと言わせてもらうけど)と運転手は首にかかっていたペンダントを見せて、このペンダントを取るのにおれは5年もかかった・・・・といったことを、雨の中に私を立たせたまま、延々と話し始めた事があった。どうもこのペンダントは「優良ドライバー」の証のようだった。私は運転手をほめたつもりだったのだが、運転手にすると「こんなもん、知っててあたりまえじゃ。知らんのかと思ってほめてくるオマエ、バカにすんなよ(笑)」ということだったらしい。最後にこのTAXIの車体の最も特筆すべきなのは、普通の車に比べて前輪と後輪の距離が近いため、狭い道でも一回でUターンができるところである。これは見ていてなかなかおもしろいよ。
2003年09月29日
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イギリスのQUEENという、いわずと知れた大物バンドがある。これは彼らがキラークイーンやボヘミアンラプソディーなどを出す前の話だ。彼らが最初に音楽出版の契約をしたとき、すでにかなりの楽曲が出来上がっており、一枚目のアルバムを出した時は、すでに2枚目のアルバムも完成していた話は有名だ。QUEENはこの2枚目のアルバムまでは、イギリスの音楽界でLED ZEPPELINやDEEP PURPLEのコピーバンドなどと言うレッテルを貼られていたことを知っている人はどれくらいいるのだろうか?その後、QUEENは強烈な個性を作り出し、イギリスのメディアはもちろ、ん世界に認められる大物バンドになった。イギリスではこの頃、彼らの個性的な音楽を象徴してオペラロックなどという呼び方も出てきたようである。彼らのステージでのパフォーマンスの実力を、QUEENのファンだけでなくイギリス又は全世界に認めさせたのは、なんといってもあのバンドエイドでのステージだろう。QUEENはあのステージで、まさにスタジアムロックバンドと呼ばれるようになったことをウェンブリースタジアムにいた聴衆だけではなく、バンドエイドを見ていた全世界の人間に知らしめたと言っても過言では無いだろう。その後ロンドンではしばらく、バンドエイドでのQUEENの傑出したパフォーマンスの素晴らしさをたたえる話題が絶えなかった。
2003年09月27日
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ようやく「ロンドンにやってきた」を書き終わり、気を失いそうになった。もともと文章なんか書いたことがなく、血迷って嫁さんの影響で始めた日記だが、書いているうちに色々なことを思い出し、気がついたらどんどん進んで止まれなくなってしまった。途中で嫁さんに「まだコレ続いてんの?こんな長い話、誰も読まへんで!」と言われて気がついたが、だからと言って途中ですぱっと終われない。書いても書いてもなかなか終わりに近づくどころか、どんどん枝葉を思い出し、どこで終わっても文章が中途半端になるため、楽天ボブスレー状態になってしまった。私がこの日記を書き始めた頃、全てが初めてということもあり、嫁さんは最初は優しくコンピューターのファンクションを教えてくれていたのだが、安心したのが間違いだった。実は彼女はキレやすい!メガネをとって女にした横山やすしと暮らしているのと変わらない。最初は「ここをこうやったら、ほらこうなるやんか。そうしたらここを押したらこれが出るやろ」と優しく教えてくれていたのだが、同じ間違いを私が繰り返すと、そこちゃう、なにやってんのや!!!さっき教えたやろが!(その時私はうろたえ、びびった拍子に全く違うボタンを押す)ちーがーうちゅうとるやないか!おんどれなめとんか!!!この段階で私は瞬間完全凍結。嫁さんの手が横から伸びてささっと作業を終わった上に首を絞められる余裕がある早業だ。それでもまだ、書き始めて3日目位までは良かった。5、6日位になると、自分の書き込みの時間がなくなるのでだんだん機嫌が悪くなる。嫁「まだぁ~?!」私「うん、もうちょっとだからね!」彼女を宥めるが、焦って早く書こうとするとまた間違える。後は、前述の繰り返しとなる・・・最後にこのページを読んでくださったみなさんへ。ありがとうございました。文章をもっと短く、読みやすいように研究していきますので、今後ともよろしくお願いします。あ、もしも日記がある日途切れたら、私の身に何かあったと思って頂いて結構です。
2003年09月26日
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さて、ラワルピンディを出た後は機内で眠りこけてしまい、次に気がついたとき飛行機はロンドン上空に差し掛かっていたのだと思う、といってもその時の窓の外は雲だらけで何も見えない。飛行機はさらに高度を下げ続け、雲の下に出た。その時の最初の印象は「緑一色!」である。どこを見ても芝生のような一面緑で、その間に舗装された道路が走っている。飛行機はまた雲の中に入る。機体はがたがたと揺れるが、こんなもんだろうと勝手に想像していたので、あまり気にはならなかった。しばらくして飛行機は、また雲の下に出た。今度こそ私の目の前には、堂々とした石作りの建物が密集している大きな町が見えた。その町の中心には大きな川がゆったりと蛇行している。私はテームズだ!ロンドンだ!と心の中で興奮した。やがて、飛行機はゆっくりとロンドンの上空を飛んだ後に、HEATHROW空港に着陸した。冒頭で「ようやくHEATHROWにたどり着いた。」と書いた「ようやく」を少し説明し始めただけなのに、あの時の旅に付随した出来事をいろいろと思い出してしまい、尾ひれがついてとんだ道草になってしまった。今でもあの時のことを思い返すと、あんな小さな飛行機でよく成田からパキスタンまで飛べたものだと感心する。当時の私は、飛行機での経験が初めてということや、見るもの全てがめずらしいこともあり、何よりもいろいろな出来事の不都合な部分を、若さのエネルギーで消化してしまったような気がする。その後、徐々に旅慣れた私は、絶対に南見回りの飛行機を使うことはなかった。頼まれてもお断りである。当時、まだ北回りでも成田-ロンドン間は16-17時間もかかったが、それでも南回りの36時間に比べればちょろいもんである。それ以外に、北回りのアエロフロートで成田からロンドンまでやはり36時間かかって到着した経験もあるが、それはまた別の機会に余裕ができたら書いてみたい。完
2003年09月25日
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30-40分も走っただろうか(長かった!)、バスはようやくこぢんまりとした小奇麗なホテルに到着、それぞれが2人ずつ部屋を割り当てられる。例の学校の先生と私が一緒の部屋を割り当てられ、部屋で休憩ついでにシャワーを浴びた。彼が仕入れた情報によると、我々はここで7時間休憩をした後、再びロンドンに向けて出発するのだそうだ。こんなこと全然聞いていなかった。某旅行代理店で切符を買ったときは、南回りだと聞かされていただけで他には何の情報もくれなかった。こんなにあっちこっちと連れまわされるなんて・・・・それも36時間も・・・・。とにかく食事の用意が出来たらしいので、我々はレストランと言うよりは会議室のような殺風景な部屋に案内された。部屋に入ると色々な種類のカレーと黄色いサフランのご飯、あとはナン(インドのパン)そしてガラスの容器に入った水が並べられていた。日本を出発する前に私が南回りで旅行すると聞いた友人が、くれぐれも生水だけは気をつけるようにと忠告してくれたことが頭をかすめたのだが、辛いカレーを食べた後に水は必需品である。他の人たちもごくごくとおいしそうに水を飲んでいたので、ひとまず友人の言葉はなかったことにする。・・・私のお腹は別になんともなかった。夕食後は部屋に帰って休むだけだったのだが、体の疲れと全く相反して頭が冴えてしまい、多分時差ぼけもあったと思うがとても眠れなかった。7時間後、またバスにしがみついて空港に戻った私たちを待っていたのは、テレビで見たエールフランスと同じジャンボ機だった。(何度もエールフランスを引き合いに出すが、私にとっては日曜午後の「アタック25」にいつも華々しく登場するエールフランス機のイメージが全てであったのだ。回し者ではない。)ただ、今までと違っていたのは、今回の乗客の圧倒的大多数は黒装束に身を包んだパキスタンの人たちだということだった。続く
2003年09月24日
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空港の建物の外に出ると、舗装もされていないでこぼこの広場は土埃が舞い立ち、車のエンジンの音で騒がしかった。私は他の人たちについて、前方に見える一風変わったバス・・・なぜ一風変わっているかというと、形は昔日本でも走っていた丸っこいバスなのだが、そのボディはトラック野朗一番星に出られるほどゴテゴテに飾られているからである・・・に向かって歩いてゆく。どこからともなく、10歳前後の子供達が数人走り寄ってきて、シガレット!シガレット!と我々に話しかけてきた。前を歩いていた西洋人の男性などは、彼らにしつこく付きまとわれ、片手を大きく縦に振って追い払っていた。子供たちの名誉のために言うなら、私の目には彼らは決して強引ではなく、特に彼らに危機感を感じるようなことは何もなかった。バスに乗り込むと、私は前から2-3列目の窓際席に着いた。すると先ほどの子供達の一人が、私の座っているバスの窓の下まで近寄ってきて、シガレット!と言って多分パキスタン製らしきタバコを差し出した。訳が分からず戸惑っているとその子供は、今度はチェンジ!チェンジ!と言って交換するジェスチャーをして見せる。それを見ていた西洋人の男性は、私の後ろの窓から体を乗り出して子供にマルボロを一箱差し出し、その子は急いでタバコを交換すると走ってどこかにいってしまった。私はその時の子供の逞しさに驚きを隠せなかった。驚きと言えばもう一つ私がびっくりしたのは、パキスタンのバスの運転手であった。数分後、運転手がバスに乗り込み、出発したのは良いのだがその運転の荒いこと!バスの前に乗用車やリヤカーを引いた自転車等が近づくと急ブレーキ。やり過ごすと異常なダッシュ力でスピードを回復。警笛は走り始めてから止まるまでなりっぱなし。こんな状態で、我々は前の座席の背もたれに渾身の力でしがみついていた。
2003年09月23日
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30分ほど経っただろうか。皆、待合室のソファーに座ったまま誰も動こうともしない。私は、いつロンドン行きの飛行機の案内があるかわからないので、その場を動けないまま一時間ほど経過した。この待合室は、飛行場側が総ガラス張りになっており、外は夏の眩い光がさんさんと輝いているが、そのコントラストのせいか室内はやけに暗かったように覚えている。さらに30分ほど経ったであろうか、突然何の前触れもなく、待合室にいた人たちが全員立ち上がり、空港の滑走路に出る出口とは反対の方にゾロゾロと歩き出した。(みんなが一斉に立ち上がったのだから、前触れがないなどということもなかったのだろうが、案内があったという意識も私にはなかった)焦りまくった私は、先ほどの先生を捕まえて事情をきいたところ、これからバスでホテルまで行き、食事を兼ねた休憩をするらしい。おいおい、いったいオレはいつになったらロンドンに着けるってんだぁ?などと叫んでも誰も耳を貸してくれるわけでなし・・・長いものには巻かれろ主義の私は、みんなについて仕方なくゾロゾロと建物の出口に向かって歩き出すしかなかった。薄暗い通路を歩いていくと、前を行く人々の隙間から出口が見えてくる。縦長の出口の向こうはカァ~ッとした、いかにも灼熱の夏といった光が通路まで漏れてきている。その出口の周りには、20人はいるであろう人の頭がぽこぽこっととても興味深そうに、私たちが歩いて出てくる通路を覗き込んでいる。人々のむき出しの興味が異様に突き刺さってくる。続く
2003年09月22日
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焦りまくった私は、そのお姉さんに彼がPASSPORTを持って行ってしまったことを伝えるとあわてて後を追ってくれた。数分後、お姉さんはその係員を連れて戻ってきた。彼にPASSPORTのありかを聞くと、彼は私にも分かる身振りで、そんなモノ持っていないといったジェスチャーをした。私は必死になって、そのお姉さんに先ほど彼にPASSPORTを渡したことを伝えると、もう一度確かめてくれと言ってくれたようで、彼はポケットの中から何冊かのPASSPORTを出した。まるで、ほら無いだろうとでも言ったような動作だったのだが、私は丹念に調べてその中にはさんであった自分のPASSPORTを見つけた。私は彼にPASSPORTにある自分の写真を見せると、彼は別に謝るふうでもなく、さっさと歩いていってしまった。今、あの時のことを思い返すと、その時は余り気にも留めてなかったのだが、危なかったのかもしれない。お姉さんは他の係員にロンドン行きの人たちがいる待合室の場所を聞いてくれた。私は彼女に丁寧にお礼を言って、通路を言われた通りに歩いていくと、ここまで日本からの飛行機に乗り合わせていた、見覚えある人たちが座っている待合室にたどり着いた。続く
2003年09月21日
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飛行機はさらに飛び続け、周りの風景はまるでアラジンと魔法のランプ(他に例えは無いのか?!)に出てくるような、いわゆるラッキョウ形の屋根を持つ建物がたくさん見え始めた。なんだか夢の中に迷い込んだような不思議な気分だ・・・写真でしか見たことの無いものを初めて目の当たりに見ると、こんな気持ちになるのだろうか?飛行機はしばらくして、何の変哲も無い平屋の建物のある飛行場に着陸する。いくら海外経験のない私が見たとしても、ここがロンドンではないのは一目瞭然。さっそく近くにいた日本人(この人は学校の先生。夏休みを利用してヨーロッパを旅行しに来たといっていた人で、迷える子羊となってしまったこの時の私にとって、もっとも重要な道案内人と私が勝手にマークをした人である。彼にとってはハタ迷惑な話であるが。)聞いたところ、ここはパキスタンのRAWALPINDIという飛行場らしいということがわかった。ここでも我々は飛行機から荷物を持って放出された。しかし北京でおきたようにPASSPORTを奪われることはなく、移民局で担当者がちらっと一瞥をくれただけで返された。移民局を出たのはいいが、これからどうすればロンドンに行けるのか、全く判らない。ロビーでウロウロしていると、外国慣れしていそうな日本人らしきお姉さん(まだ私も若かったので)が通りかかったので、事情を説明したところ、近くにいた空港の係員らしき人にきいてくれた。前にも書いたが、この時点で私は語学は全くダメ、この旅行の前に某G英会話で3ヶ月の集中講座を受けただけで、どちらかというと語学よりもみんなで行ったDISCOのほうがよく覚えていると言った具合である。したがってこのお姉さんが係員に何語で何を聞いたのかも、全くわからない。その係員はお姉さんに何か言うと、彼女は私に「係員の人がPASSPORTを見せてくれと言っている」と通訳してくれた。言われる通りにPASSPORTを渡すと彼は、私のPASSPORTを持ったままスタスタと歩きき始めるではないか。ちょ、ちょっと待ったぁ!今ここで彼を見失ったら大変である。しかし彼はすでに人ごみの中にまぎれてしまい、見えなくなってしまった。ロンドンに向かう飛行機ももうすぐ出るかもしれない。続く
2003年09月20日
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我々の乗った飛行機は、しばらく雲の上を飛んでいた。私はぼんやりと窓の外を眺めながら、昔見た白黒の映画に天国をあらわした場面で、こんな雲の上を人間が歩いている場面があったなあ等と考えていた。すると突然、遥かかなたに、青空の中に夕日。その夕日に染まった白い山の頂がぽこっと雲の上に出ているのが見え始める。何だろうと見ていると機内放送で、エベレストという言葉が聞こえた。私の見ている山が有名なエベレストと言うことが判り、また一つ得をした気分になる。ただ単にロンドンに行くだけのつもりが、空から万里の長城は見られるわ、ゴビ砂漠は見られるわ、また北京空港にも降りてちょっとはうろうろできたし、今度はエベレスト。まさに盛り沢山ではないか!続く
2003年09月19日
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この飛行機がロンドンまでの直行便ではなかったと知った途端、私には、ある種の開き直りが出てきた。最初の海外旅行でもあり、ロンドンまでどんな所にこの飛行機が止まるのかわからないが、急ぎの旅行ではない。色々な国を見学することができると、かえって得をした気分になっていた。今、思い返すとあの頃若かった私は、生まれて初めて海外に出て、何を見てもきいても面白かったのだと思う。私の横に座った人は、少しよれよれのグレーの背広によれよれの白いシャツを着た、愛想の良い中国人のおじさんで、私も英語の勉強と思って片言ながら話をしていたのだが、何を話したのか、話が通じていたのかも思い出せない。しかし、なぜその人を覚えているのかというと、実はそのおじさんは中国の大使で、彼と話している間にひょんなことから彼のPASSPORTを見せられ、そこにDIPLOMAT(大使)と書いてあって非常におどろいた記憶があるからである。DIPLOMATの肩書きと、彼がPIAのエコノミー席に座っていること、そして彼が着ていたよれよれの背広はどう考えても不釣合いだった。続く
2003年09月18日
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飛行機が止まると、前部のドアが開き、昔の将校が着ていたような軍服に身を包んだ、今思い返すと空港の移民局の人間が2-3人中に入ってきて、何か言うと(この時点、私は英語はまったくだめ、日本語以外は聴いたことが無い、という状況だった)前のほうからPASSPORTらしきものを回収し始めた。この時、状況が全然掴めていない私は、一応PASSPORTをカバンから出して、手に持ってはいるものの、彼らに渡してよいものかどうか迷っていたが、私のところに来るまでは、乗客全員が渡しているみたいなのと、彼らの軍服の威圧感もあり、あっさり手渡してしまった。さあ。こうなると情報を掴まなくてはならない。私は、幸い近くにいた日本人にどうなっているのかをきいてみたところ、ここは北京だということと、飛行機はこの北京に一時間止まるだけらしいと言うことが判明。PASSPORTは出発の時に返すということらしい。機内から、ぞろぞろ乗客が降り始めたので自分もその後についた。少し安心した私は空港の外を見てみたくなり、あまり人がいない飛行場の建物を出口まで歩いていった。空港の出口は駐車場もなく、ただ単に一本の真っ直ぐな並木道が、建物のすぐ前から伸びていて、靄が出ているせいもあり、道の途中から先は見えない。その道の外側は、野原で広そうに見えるがこれも靄で途中までしか見えない。なんか初めての中国という思いもあり、私の目には神秘的に映った記憶がある。一時間後、飛行機は北京空港を後にした。続く
2003年09月17日
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私は出発前夜の興奮と疲れもあり、離陸後すぐ睡魔に襲われ、寝てしまった。多分、飛行機のエンジンの音が大きくなったせいだと思うが、気がつくと飛行機は着陸の態勢に入ってすでにかなり低いところにいた。窓の外を見ると、なんか日本の終戦後の光景を思わせるような、全トタン製の小さな家がいくつも並んでいる光景が飛び込んできた。今思うと、それらの家の壁は少なくとも木作りだったのかもしれないが、私には、その時の一抹の懐かしさを伴った衝撃が、全トタン製となって思い出されるのかもしれない。その家々の小道には、中国の国民服を着た男性が、私が子供の頃によく見た、黒いがっしりとした自転車に乗って走っているのもはっきり見えた。飛行機は、その家々のすぐ横を滑るように着陸し、東大寺の大仏殿をさらに大きくしたような建物にゆっくりと近づいていった。記憶違いかも知れないと思うが、今、考えてみるとイメージとしては東大寺の大仏殿が近かったような気がする。柵もなにもない・・・。どこなんだ、ここは?続く
2003年09月16日
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ちょっと自分のことを書いてみようと思う。私が、最初にロンドンに着いたのは1979年8月4日。先月で丁度24年間イギリスに住んでいることになる。なんかいろいろな事が、あっという間に過ぎてしまった様な気がするので、ちょっと振り返って思い出してみようと思う。最初にようやくHEATHROWにたどり着いた時の私の印象は、なんか涼しくて、日本で言う秋口のような爽やかな感覚だったように思う。ようやくと書いたのは、この旅行がかなりのハードなものだったからだ。この旅は私にとって初めての海外旅行で、ましてや飛行機に乗るのさえ初めてなので、何も判らないうちに(ロンドンまで36時間もかかるなんて、知らなかった!)渋谷の某旅行代理店で、PIAパキスタン航空のチケットをいちばん安いと言うだけの理由で(当時15万円)買い、当日成田へ見送りに着てくれた家族や友人に別れを告げ、空港内の通路を歩いていくと、PIAと書かれた飛行機が見えてきた。なんかテレビで見るエールフランスの飛行機よりもずっと小さい、というのが私の最初の印象だった。元旅行代理店に勤めた経験のある、私の嫁さんに最近聞いたところによると、PIAはPERHAPS I ARRIVE(多分目的地に到着するでしょう)の略だとも言われているらしい。とにかく機内に入り、窓側にある自分の席に座り、飛行機は離陸した。私の予定ではこのまま飛び続けて、十何時間後にはロンドンに到着の予定だった。その時には、私はこの飛行機はこのまま直接ロンドンに着くと信じて疑わず、まさか見も知らないよその土地に着くなどとは夢にも想像しなかった。続く
2003年09月15日
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最近、私の嫁さんが作っているホームページを読む、ということが多くなり、昨日もソレを読んでいるうちに、突然羨ましくなった。これは、ひょっとして自分が何を言いたいかを表す訓練としては、非常に良いものではないか?と言うことを理由にして、今日嫁さんを説得。ホームページ作成成功に至った。さて何をかこうかなー!
2003年09月14日
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