加賀美山法善寺


中世、甲斐源氏の一族である加賀美氏が起こった地であり、その祖加賀美遠光の屋敷跡でもる。

法善寺

この法善寺には不動明王がある。

不動明王

法善寺の倉には大変貴重なものがたくさん納められてある。
法善寺の住職さんにはいろいろなお話も聞かせていただいた。
倉の中も見せていただいた。
写真は武田信玄の直筆の書である。

武田信玄直筆曼荼羅


加賀美遠光は、鎌倉時代初期の名将で、今の加賀美地区を根拠地として源平時代に源頼朝に仕え平家討伐に戦功をたてた。
高倉天皇が病に苦しんでいた時に”鳴弦の術”で悪魔を払いのけ、天皇から褒美に不動明王を賜った。

今では、毎年8月16日には遠光公祭りも行われている。

加賀美遠光には四人の息子と一人娘があった。

長男は秋山の地を治め秋山光朝と名乗り秋山氏の祖となった。
平清盛の長男重盛の娘と結婚する。
そのため頼朝から信頼されず、家はつぶされてしまうが、幸い息子二人は生き延び子孫に武田信玄配下の名将、秋山信友へと続いていく。

次男は小笠原の地を治め小笠原長清と名乗り小笠原の祖となる。
弓道や作法で有名なあの小笠原流の祖だ。

長女は志乃といい源頼朝の長男頼家の幼少期の世話役を務めた。
後に大弐局と呼ばれたのであった。
余談であるが、頼家の乳母は比企氏だった。
比企の姫は後に頼家に嫁いでいる。

三男は南部氏である。
馬を育てるので有名な南部氏だ。
頼朝は加賀美一族が近くに集まると力を持つと思い、南部氏は東北を治めるように命を下した。

四男は加賀美を継いだ。
当時は、一番末の息子が親の姓を継いだのである。

頼朝は流人の身から北条氏の力を得て武家の棟梁としてとして武士の世を作るために力を尽くした。
しかし、その裏にはその棟梁の地位を脅かす恐れのあるものを必要以上に殺したのだ。

”必要以上”というのは少しでも力を持って来た者を見逃しはしなかった。
たとえ、頼朝を裏切るとは思えないような者でも力を持ってくれば容赦はしなかった。
たとえば、甲斐源氏で言えば秋山光朝、武田氏、安田氏。
その裏には梶原景時が甲斐源氏を追い詰め殺した一端を担っていた。

しかし、そんな梶原景時でさえ、その最後は壮絶なものだった。
頼朝の死後、景時が鎌倉を追放になり上洛の途中、駿河で土地の武将に怪しまれ合戦となり、憐れな最後を閉じたのだ。

つまり、この当時は戦国の世。
何があってもおかしくないほど、乱れていたのだ。

しかし、そんな世の中でも加賀美遠光は誰からも妬まれたり、恨まれたりすることもなかった。
頼朝にも信頼され、頼朝の死後もまわりから尊敬される人であった。

頼朝の死後、政子から栄西道士をお迎えする時にありがたいお話を一緒に聞いて欲しいと頼まれる。

後に、遠光は栄西の弟子になり、国司の身分を捨て信仰の道に入る。
栄西は鎌倉時代に興起した新仏教の先駆けともいえる禅宗を掲げていた。
後の、道元や日蓮、親鸞と違って、一般庶民の布教をすることなく、禅そのものと矛盾する行動をとっていたのは残念であった。

そうした中で、遠光は都へ旅立つ栄西に、仏門と世俗の中に座することを勧められ、自分の屋敷へ戻った。
その屋敷がこの加賀美山法善寺である。

法善寺庭

遠光は甲斐の盆地の中央に感応山と号する寺(後の遠光寺)を建立した。
感応寺で座禅にふける遠光の元には、頼家の後将軍となった実朝や多くの甲斐の武士達が座禅をしに訪れた。

実朝が頼家の子、公暁に殺され、公暁も処刑されたことによって鎌倉の源氏の地が断たれ、北条氏が執権として権力を持つようになったことを告げられても、遠光はただうなずくだけで、直ぐに座禅を始めたのだという。

法善寺を歩いていると、戦乱の世のに生きた加賀美遠光や多くの武将、その妻や子供など多くの人々がしのばれる。

法善寺は武田家滅亡の後やその後の火災などで、その多くを失い一時は荒廃したが、現在は不動明王を建立し新たな歴史を築いている。







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