大和川


大和川の丁度、奈良と大阪の境目のところは少し浅くなっています。
地形的に見ても低くなっているようです。
その辺りを亀の瀬といいます。

この亀の瀬の辺りは古代では物部氏の領域でした。
この浅くなっているところでは、船が行きかうことが出来ないのでここの上流と下流では船を乗り換えなければいけないのです。
その仕事を担っていたのが物部氏でした。
その仕事で物部氏は莫大な収入を得ると同時に、交通を支配し力を蓄えて言ったのでした。

ところで、実は大和川は当時は、奈良と難波を結んでいたのですが、今は奈良と堺を結んでいます。

当時は奈良からここ柏原で大きく難波の方へ北西に曲がっていたのですが、そのせいで、何度も氾濫を繰り返し多くの人の命を奪ったのだそうです。
それで、今から350年位前から大和川をまっすぐ南西に伸ばそうという運動が始まったのです。

しかし、川を作るために先祖伝来の田畑を失うことになる農民達や今までの大和川の水の恩恵を受けていた住民達の反対を受け、約50年間の長い議論の末、ついに大工事が始まったのです。
元禄16年10月28日でした。
幕府と和泉、摂津、播磨、大和丹波などの藩が競うように工事の区分を分担した結果、始めは3年がかりと思われていた工事もわずか8ヶ月足らずというスピード工事に終わったそうです。

その時、幕府側の担当者で大目付役立ったのが大久保甚兵衛さんです。
大和川の側に銅像が建てられています。

中甚兵衛

この中甚兵衛さんがいるのが、柏原の安堂の交差点の近くなのですが、その交差点のすぐ横に大和川から二つの小さい川に枝分かれしているところがあります。

大和川が難波の方に流れていたのを、堺の方へ流れるように変えたのですが、まったく難波側への水をなくしてしまってはそちらの地域の生活用水が無くなってはいけないので一部流れるようにしたのです。

大和川の調整

昔の人の力で今のこの地域の安全が守られているのだと思うと感慨深いものがありました。

さてこの後、知識寺跡を目指します。
知識寺というのは、河内六寺のうちの一つです。

知識時には当時、東大寺の大仏の手本とされた大きな仏像 がありました。
奈良時代、聖武天皇や孝謙天皇は、平城宮と難波宮の往来の途中に 柏原の地を訪れたそうです。

さて、その知識寺は今どのようになっているのでしょうか。
うわ~、ショックです。
な、な、なんと。
その場所にはマンションが建てられていました。

知識寺跡

そうなのです。
歴史的に見てこんなに素晴らしいところなのに、今の時代にはそんなことよりも実際に役に立つということの方が大切なのでしょうか。

竹原井頓宮は資材置き場に。
知識寺はマンションになってしまっています。
この辺りは大阪でも天王寺から20分くらいで大変便利なところです。
そのため、古墳群や遺跡をそのまま残すことよりも、資材置き場やマンションにしてしまう方が利用価値があるというのでしょうか。
ちょっと、悲しい気がしてしまいました。

このあと、石神社へ行きました。
大きな楠がありました。

楠の大木

大きな木には何か、聖霊が宿っているような気がします。
明るい神社でしたが、荘厳な雰囲気をもかもし出しています。

今日は訳10キロくらい歩きました。
実際に、自分の足で歩いていろいろなところを訪ねていくと、古代の人々の息遣いが感じられるかのような気がします。
勿論、今とは景色は全く違っているとは思います。
しかし、目の前に広がる山々は大きな川は当時も今も同じように人々と関わっていたのではないでしょうか。

そして、実際に足で歩いて山や川、遺跡などの距離感を体感するのはとても楽しいひと時です。
軽い疲れを楽しみながら帰途に着きました。
今日も一日充実していたな。
なんて考えながら家に帰って行きました。







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