鏡作神社・ナガレ山古墳


唐古・鍵遺跡の近くにあります。

鏡作神社

4~5世紀にかけて、魂が宿るものとして最も崇敬した鏡類を製作鋳造していた鏡作部が、この地一体に住居していました。

祭神は、天照国照彦火明命・石凝姥命・天児屋根命の三神で、古来から鏡鋳造の神として信仰されていました。

現在でも鏡業界等から信仰、参拝があるそうです。

鏡作神社の例祭である「御田植祭」は、御田植舞・豊年舞・牛使いという慈雨、豊作を祈る儀礼が、毎年2月21日に近い日曜日に行われています。

唐古・鍵遺跡は吉野ヶ里遺跡に次ぐ大きな集落群です。
時代は古墳時代よりもずっと古いのだそうです。

遺跡から「楼閣」の絵が描かれた土器の破片が発見されています。
「邪馬台国」の楼閣に結びつくというのでマスコミが飛びつき、唐古・鍵遺跡の名前は一躍全国的になりました。
しかも屋根に描かれた渦巻き状の飾りは我が国初の装飾屋根であったため、ことさら「邪馬台国」の「楼閣」と結びつけて報道される事になりました。


また鏡作神社で鏡を作っていたことから、卑弥呼がここで鏡を作らせていたのではなどと考える人もいるそうです。

私が歩いてみて、田原本は地形的にみても山に囲まれた巨大集落で確かに、卑弥呼がいたとしても不思議ではないかもなどと思ったりもしました。

このあと、西田原本駅から箸尾まで電車に乗しました。
箸尾から歩いて馬見ヶ丘のナガレ山古墳えへ行ったお話は次回にさせていただきます。


ナガレ山古墳

ナガレ山古墳1

奈良盆地の西に東西3キロ、南北7キロの馬見丘陵が横たわっているのです。
丘陵周辺は、奈良市の佐紀盾列古墳群、天理市の大和古墳群とともに、有数の大型古墳が集中する地域で、馬見古墳群と呼んでいます。

大王家と外戚関係を結んで、その勢力をほしいままにした豪族葛城氏の奥津城と考えられているが、大王家の墓にふさわしい古墳もあり、被葬者を考える上でも欠かせない地域の一つだといわれています。


ナガレ山古墳2

古墳はとても大きく葺石で覆った墳丘の幾何学的な端正さと、無数に並べられた埴輪の数の多さに感心してしまいます。

ナガレ山古墳3

この古墳の築造時期は5世紀前半と推定されてます。
今から約1600年前に現在の姿とほぼ同じ墳墓がこの場所に築かれたことになるのです。
当時、これほどの土木建造物を造る能力をもった技術集団が存在したことにはおどろきですね。


ナガレ山古墳4

私たちは、このあとどうしても行きたかった百済寺を目指します。
ここからかなりの距離、そろそろ足も痛くなりかけていますが、がんばります。

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