元明・元正天皇陵




今回は、元明天皇陵と元正天皇陵です。



近鉄奈良駅からバスに乗って、「奈保山御陵」で降りて15分ほどのところに、
「元明天皇陵」があります。
(ちなみに、左に「元正天皇陵」があり、母娘は仲良く並んで眠っています。)




元明天皇陵




【第43代元明(げんめい)天皇】

異名: 阿閉(あへ)皇女、日本根子天津御代豊国成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと)生没年: 斉明天皇7年(661) ~ 養老(ようろう)5年(721)(61歳)




在位: 慶雲4年(707) ~ 霊亀元年(715)
父:  天智天皇 第4皇女
母:  姪娘(めいのいらつめ:蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の娘)
夫:  草壁皇太子(天武・持統天皇の子)
皇子女: 軽皇子(文武天皇)、氷高皇女(元正天皇)、吉備内親王  
皇宮: 平城京(へいじょうきょう:奈良市)
御陵: 奈保山東陵(なほやまひがしのみささぎ:奈良市奈良坂町)





天智天皇の子で、母は蘇我倉山田石川麻呂の女、姪娘(めいのいらつめ)。
天武・持統天皇の実子で、持統天皇が大津皇子(おおつのみこ)を殺してでも皇位につけたかった皇子の草壁皇太子に嫁いだ。
草壁皇子との間に軽皇子(文武天皇)と氷高皇女(元正天皇)、吉備皇女をもうけている。
実子の、第42代文武天皇が慶雲4年(707)25才で崩御したため、女帝として即位。慶雲3年(706)文武天皇は病床から母に即位を求めたが、天皇はこれを固辞した。
しかし翌年文武天皇の崩御に伴い、やむなく即位したとされる。
文武の一子は、当時7才の首皇子(聖武天皇)で、成長するまでの中継ぎとして即位したようだ。当時天武天皇の遺児も存
在し、また高市皇子の子であった長屋王なども皇位継承の有力候補として存在したが、元明天皇は、父天智天皇の定めた不改常典に従って皇位を継承する事を強く訴え、嫡系相承の正統性を主張した。




その隣の古墳は元正天皇陵です。





【第44代元正(げんしょう)天皇】



元正天皇陵






異名: 氷高(ひたか)皇女、日本根子高端浄足姫天皇(やまとねこたかみずきよたらしひめのすめらみこと)



生没年: 天武天皇9年(680) ~ 天平20(748)(68歳)
在位: 霊亀元年(715) ~ 神亀元年(724)
父:  草壁皇子(天武・持統天皇の子)
母:  阿閉皇女(元明天皇)
夫:  なし
皇子女: なし
皇宮: 平城京(へいじょうきょう:奈良市)
御陵: 奈保山西陵(なほやまにしのみささぎ:奈良市奈良坂




元明女帝の子で、第42代文武天皇の姉。生涯独身だったと伝えられる。
弟文武の遺児首皇子(聖武天皇)の成長まで中継ぎとして皇位についた。
この天皇の治世は、平城京の造営整備も進み、律令制中央政権国家の基盤も次第に固まりつつあった時期で、藤原不比等主導の元、律令制の整備が図らた。





元正天皇については、永井路子さんの『美貌の女帝』を読むと良く分かります。
題名の通り元正天皇は大変な美貌だったそうです。
それなのに、生涯独身を余儀なくされて可哀想な一生だったのかも知れませんね。




美貌の女帝



こういった作品を読んで、古墳をめぐると感動もひとしおです。
まさに、「フィールドワーク」です。








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