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何処をみても誰をみても 皆自分のことで精一杯で まるで自分をみているよう 何処をみても彼処(かしこ)をみてもどう見ても 臭ってきそうな濁った空は青くはみえない 一体何処をみればいいのか 一体誰と語ればいいのか 自分の姿すらショーウィンドーに映った影のように 存在感のかけらもなく 自分の足元みては本当に地に足は着いているのかと確かめてみたくなる 人に語る自分の声すら他人のもののようで 人に語る自分の言葉さえ雑誌に書かれたもっともらしい最も酷い良い加減のようで それでも何かを確かめたくて振り仰いだ空に熱の球 太陽はそこにあるはずはないから それは熱希求なのか 歩け 語れ 探せ そこにあるはずのない熱の球がなぜ其処にあるのか 歩け 語れ 探せ ただそれを私に知らしめるために? 歩け 語れ 探せ 目指すべく場所を記した地図のように 熱の球は浮かんでる にほんブログ村
2017年11月21日
技巧を凝らした作り物だって最初からわかっていた...けど、ケモノミチを抜けた先に現れた星、満点の夜空のように朝露輝く蜘蛛の巣に、私は魂を惹き込まれてた。 指が触れれば指が、手のひらを置けば手のひらが、足をかければ足が、虹色の細い糸に絡み取られていくのを恐怖よりも、驚きと好奇心で眺め入った。そして私はとうとう身体の自由を失ってそこにじっとしていたのだった。 私が自分の好奇心を満たすことと引き換えに、身の自由を失って行くのを、じっと潜んで眺めていたのだろうか、何処からともなく蠢く黒い影が近づいて来た。それは近づくにつれ長く細い刺々しい手足を持った、背の中央に紅い点も鮮かに毒々しさを放つ蜘蛛の姿に変わっていった。 その姿を真近に目にした私の肌は、外界からのあらゆるものを拒絶するかの如く、毛穴という毛穴がきつく縮こまってしまった。近づいてくる脅威を、恐る恐るも目が離せずに見つめていると、ふと蜘蛛と私の目が合った。目が合った瞳は、強かそうな光を放っているものの、強かな光の裏に、動揺の波が寄せたり引いたりしているのも見えたような気がした。が、気のせいだったかもしれない。 蜘蛛の動きと目を見れば、彼がずいぶん長いこと空腹で獲物がかかるのをずっと待っていたのも見て取れた。私の身体は神経がうち震えるように萎縮していた。それなのにどういうわけか、身体とも思考とも、心とも裏腹な言葉を私の口は発していた。「私を食べてください」よく見れば彼の瞳はおどけたようにまん丸で、その丸い瞳をさらに大きく丸く見開きながら、長い手足を不自由そうに動かしながら、それらはとうとう私の身体の上に覆いかぶさってきた。そして蜘蛛はもっそりと大きな口を開け、私に牙をかけようとした瞬間、私は自ら意識を手放した。 しかし、私が再び五感を取り戻した時、唇のない大きな穴のような口から伸びる長い舌は、私の心をなだめるようにいつまでもいつまでも私の身体の隅々まで摩っていたのだった。にほんブログ村
2017年06月12日
”螺旋(二)意識のプリズム” に幾つか更新致しました。URL:https://crmg.me/c/8467更新項目・時空というマヤカシ・繰り返す誕生・継続の意味する事・鏡・”今” という ”門”・裏切りの裏・良くも悪くも裏切り続け・運命 さだめとんだページは既読なさった後〝次へ〟をクリックすると新しい記事へ移ります。すべて短い文章です。が、読みやすいかどうかは不明です。おすすめはこの二つです。・裏切りの裏・運命 さだめどうぞご覧下さいませ。にほんブログ村
2017年01月10日
”螺旋(二)意識のプリズム” に幾つか更新致しました。更新項目・無秩序の秩序・バケツ・雲の流れ行く先にどうぞご覧下さいませ。にほんブログ村
2016年09月06日
”螺旋(二)意識のプリズム” に幾つか更新致しました。https://crmg.me/w/8467/34847更新項目・御業・劣等感の行方・一方通行・想いの次元文章の下、左右にある、”前へ” または ”次へ” をクリックなさるとページが前後に移動します。どうぞご覧下さいませ。にほんブログ村
2016年06月01日
”螺旋(二)意識のプリズム” に幾つか更新致しました。 https://crmg.me/w/8467/ 更新項目 ・ある疑問 ・第三の瞳 ・可能性 ・可視化 ・はんせい ・天秤 どうぞご覧下さいませ。 二つの画像は昨日の空。 にほんブログ村
2016年05月01日
九州で大きな地震……ここ数日、日本の速報を気にし、目にし胸が痛みます。これ以上の死者、被害が生じないことを願います。二次災害は防ぐことができます。***********”螺旋(二)意識のプリズム” に幾つか更新致しました。https://crmg.me/w/8467/更新項目・誰にも何にも・満足とは・心得・混沌とした完璧さどうぞご覧下さいませ。にほんブログ村
2016年04月17日
螺旋 に幾つか更新致しました。こちら↓https://crmg.me/w/8267/34059こちらのページの下の方(モバイル版)パソコン版はサイドかしら?に目次があります。お好きなタイトルのものからお読みください。更新項目・時代も人も心も変われども…・すくひ・感動・天邪鬼は殊更にどうぞご覧下さいませ。にほんブログ村
2016年04月02日
螺旋 に幾つか更新致しました。https://crmg.me/w/8267/33801こちらのページの下の方(モバイル版)パソコン版はサイドかしら?に目次があります。お好きなタイトルのものからお読みください。更新項目・言葉の国・集中力とは・誕生は…・意志選択・彼我 かわどうぞご覧下さいませ。にほんブログ村
2016年03月11日
螺旋 に幾つか更新致しました。https://crmg.me/w/8267/33667こちらのページの下の方(モバイル版)パソコン版はサイドかしら?に目次があります。お好きなタイトルのものからお読みください。更新項目・七つの境 七つの界・万物は、人は、心は流転するが・先見・多次元なのは世界ではなく…どうぞご覧下さいませ。にほんブログ村
2016年02月29日
螺旋 に幾つか更新致しました。https://crmg.me/w/8267/33551こちらのページの下の方(モバイル版、パソコン版はサイド?)に目次があります。お好きなタイトルのものからお読みください。更新項目実は嘘と真の不可思議言葉はフィクションどうぞご覧下さいませ。
2016年02月17日
螺旋 に幾つか更新致しました。https://crmg.me/w/8267/33399こちらのページの下の方(モバイル版、パソコン版はサイド?)に目次があります。お好きなタイトルのものからお読みください。更新項目行わずして行うコツ世界の側面御破算どうぞご覧下さいませ。にほんブログ村
2016年01月31日
螺旋 に幾つか更新致しました。 https://crmg.me/w/8267/33306 こちらのページの下の方に目次があります。 お好きなタイトルのものからお読みください。 更新項目 信念 信じるを貫くに サダメだけ トロッコ どうぞご覧下さいませ。 にほんブログ村
2016年01月21日
螺旋 に幾つか更新致しました。 https://crmg.me/w/8267/32973 こちらのページの下の方に目次があります。 お好きなタイトルのものからお読みください。 更新項目 曇天の理由 閃光を伝う 安穏 姿見の存在 私を失った時にみえるわたし どうぞご覧下さいませ。 にほんブログ村
2016年01月09日
螺旋 に続きをアップしました。 以下のページの下の方に目次がありますので、 お好きなところからお読み頂けます。 https://crmg.me/w/8267/32896 追ページ項目 落とし穴 眺むれば 眺めているだけだって 流れ眺めているだけのようで サイコロの目 にほんブログ村
2015年12月20日
こちら https://crmg.me/u/4372 に、Homa という名で ”螺旋” という文章を記しはじめました。 ”螺旋” 概念から意識へ.... 奇妙奇天烈世界の扉、その先は螺旋.... ふと、言葉が浮かんだ時に書くので、不定期更新となります。 Homa はイランの女性の名で極楽鳥のこと。 子供が娘だったらつけようと思っていた名でした(笑) 私の本名の頭文字Hと、Maryam のM の組み合わさった名前なのでハンドルネームに使用しました。 にほんブログ村
2015年12月16日
”完全性への奇遇な道程”きみと目に見えない意識の元で幾重にも融合してるから僕はきみから自立 離反してみたくなるのかなそして離反してしまうと今度は微妙に遠くて近いあってないようなきみと僕との間を埋めようと僕はきみを追い求めずにはいられなくなるんだそうやって僕たちは重なっては離れてまた重なって・・・北風と南風が戯(たわむ)れ大海を吹き渡るように魂が向かう完全性への奇遇な道程を歩かされてるのさにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年06月06日
奇譚 飲食と一対の貘雄の貘は友にいいつけウエディングケーキを持ってこさせた雄貘の大切な イベントステージ へそれは大きなウエディングケーキの上の方だけだったケーキの上には結婚指輪そして花・・・花と指輪は手作りだった雄貘は精魂込めて作ったのだったそれを観衆に披露した後その指輪と花だけを手で掬った雄貘は己の口へと運んで喰らった黒い色した液体を大きなペットボトルから静かに口に雌の貘の口に雄の貘が注ぐ雄は雌に飲ませたくどうしてもどうしても・・・雌は理由も味もわからぬままにそれを口にし飲み込んだ大勢が見届けるなか雌貘はそれを飲み干した******************飲み喰(は)むは生きる証にあるならば吾 夢喰らふ貘であらむ飲み食いすることは生きている証であるならばわたしは妄想も夢も絶望も希望も・・・食べ尽くす貘であろうにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年05月03日
グラグラ煮立つドラムの音は機関銃抱え放たれつつ鈍く光る自嘲の雨は辛苦の花びら散らしつつそれは西の地平線にむけられた銃口で東の地平線にむけられた真紅の薔薇で怒りと哀しみ寂しく刻む怯え震えるドラムの音は西と東の月と陽へ誰もしらぬドラムもしらぬ吹き抜け音伝う風だけがドラムの音色が怒りと哀しみ恐怖知る前の 己への郷愁に似た 慕情であると知っているのを 駱駝の骨に彫られた象さんにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年04月24日
この文章は、永久再生・傍観と善悪 共存としての在り方の続編にございます。ねえ君僕がこれから語る言葉も奇妙な世界のキテレツ噺さ・・・ねえ君僕は小学生の頃から部屋やトイレの中に入るとそこには誰もいないはずなのに何かの気配を感じることがあったんだ誰かにみられているような気がして誰かが陰に隠れているような気がして僕は座っていてもお尻がむずむずしていてもたってもいられなくてとんでもなく落ち着かない気分になったものさそしてしばらくキョトキョトと四方八方 首を振っていると僕の瞳は 一匹の小さな蜘蛛 の姿を捉えるのさそうだったんだ この小さな一匹の蜘蛛の警戒本能やら恐怖心がどうにもこうにも落ち着かない気分に僕をさせていたという訳なのさねえ君 わかってくれるかい?目の前に広がる 今ここ というこの空間に共存しているのは人だけではないのさ目に見えるものはもちろん小さすぎて目に見えないものから大きすぎて認識できないものまで光 宇宙 空 風 山 木々 草花 虫 細菌やウイルスかつてはこの世と言われる世界に在ったけれど肉体をうしなったエネルギーというものまで異なる意識レベルの万物と共存しているのさ君 僕の語る言葉をイメージしてくれたまえ今 ここ という目の前の限られた空間には幾重もの異なる次元の世界が十二単が如く幾重の透けてみえない幕のように存在している っとねえ君目の前にある なんの変哲もない日常風景その風景のなかに溶けて透けてごらんなさいな!すると だんだん見えてくるのさ蟻や蜘蛛のような存在の意識世界から宇宙の先の先の先にある意識世界までがさ・・・そうさ君が目にしているこの限られた空間とは際限のないミクロの世界と際限のないマクロの世界とを含有してるんだそして君も 僕も 誰もが その首にぶら下げている超高性能映写機の存在に気が付きさえすれば限られたちっぽけな世界と君がすっかり思い込んでしまっている眼の前の世界を際限なくズームインでき際限なくズームアウトできるのさそう 君の意識はひとつではない君の意識はひとつであって幾重なのさ君の意識を空間のなかに溶かし透かしてしまえば君の意識はひとつであって幾重になっていくんだよそして 幾重になった君の意識は限りないミクロの世界も限りないマクロの世界もズームアップとズームアウトのフォーカスで一瞬にして自由自在に行き来することができてしまうんだそうだよ・・・空間とは 己のしっぽを喰らう蛇の姿をしているってことに気が付きさえすればそして君の意識がその姿をちょっと離れたところから眺め眺めているうちにそれを映す光となってしまえばその蛇という存在を超高性能の顕微鏡で観察するのも超高性能の望遠鏡で観察するのもまったく自由自在となるわけさにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年04月23日
割れてしまいそうな空っと君がいうその空の下に僕はいない僕はあの空をそんなふうに眺めた君の本意が知りたくてその空は 割れるのかい?それとも 割れないのかい?っと尋ねたんだその空があまりにも澄んで美しかったら割りたくなる人もいるかもね…美しいものを破壊したらそこに満足感はあるのだろうか割れてもステンドグラスのように綺麗なら破片に価値があるのだろうかそして もし君がこの空を割りたくなるのならその理由はどこにあるのだろうか僕は矢継ぎ早に君に尋ねたのさ今にも割れそうなものを割りたくなるのはどうしてなのかもし割ったならばその後は捨てるだけなのか割れたものを裡にしまっておいたら怪我させられてしまうのかそしてまたその割れてしまいそうな空をいろんなものに置き換えて僕の裡で考えてみたりしたわけさ割れてしまえと君は言うその君の破壊衝動は空が割れるものならという前提が君の裡にあるからだろうか或いは空は割れないものだからという前提があるからだろうかもちろん割れた後のことはわからないし割れてしまえと思うことと実際に割ることとは全く別のことなのさ空を眺めるだけにしても割れそうなものと関わっている或いは割れそうなものを裡に含有してることはある何かしらの感情を人に抱かせずにはいられないのだろうかねえ君衝動は駆られるものだけど衝動というのは自分の一部のようでその実 自分 個人 個性とは最もかけ離れた本能のようなものかもしれないよなにはともあれ破壊衝動をつねに抱きながらも割れそうな空ではなく割れてしまいそうな空と君が言い表したことに僕は 心惹かれたわけなのさ....にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年04月20日
そうだよ 君の意識はひとつじゃないんだ 次元の異なるいくつものレイヤーのような 複数の君という意識が存在することを 君はいづれ知ることになるだろうよ・・・ そして 複数の次元の異なる君の意識も 複数の次元の異なる僕の意識も あり続けるし 何処かで共存しつづけるんだよ そうさ 僕は君でありたいのさ 君は僕であって欲しいのさ だから 僕はね 僕はね 僕はね 水や風のように在りたいんだよ 僕が在る 僕の意識が在る ことで どうしたって影響を与え 影響を受けざるを得ないのなら 僕自身も含め 万物を 透かし 流し続けたいのさ 良いも悪いも 風に流し 水に流し 鏡が一瞬一瞬の動向を映し続けるように 一瞬たりとも留まっていたくはないんだよ そしてそれが 僕が希求する 共存としての在り方 なのさ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月15日
その 死 と呼ばれる瞬間から 現実 といわれるこの世界は 今 君が 記憶とか 幻想とか と言っているものと 同じものとなるんだよ 今君が抱く 善悪だけじゃない 合理性も 生理的も 個人的も 平等も 今まで 現実 と想っていたものの全ては 幻 となるのさ 眠っているときを考えてごらんよ 眠っていたって 意識 はあるんだ 眠っているとき この世界 を察知できず 夢の世界を認識できるだろ? あるいは目覚めたときに 夢をみずぐっすり眠れたと認識できるだろう? 眠っている夢の世界は個人的なものじゃない 夢の世界でも 僕たちは 何かしらと 誰かしらと 関わりをもって存在せざるを得ないのさ 君はきっと 僕をキチガイだと思っているね その通りさ 僕はキチガイさ そう思われることなんかもう慣れっこだし どうでもいいことなのさ 夢みているときは 僕たちにとって夢の世界こそが現実だよ 目覚めてしまうと人は 夢の世界を夢と認識するか はたまた忘れてしまうだけなのさ 死も然り ずっと覚めない夢の中にいることになれば 君の意識は 夢の世界を現実と認識するようになるだろうよ 僕にとっては 肉体が消滅したって終わりじゃあないのさ 肉体が消滅したあと ある意識は異なる世界を認識していくんだ 僕たちの意識は確かに”ある世界”を認識しつづけるんだよ しかも 君の意識は”ひとつじゃない”のさ 次元の異なるいくつものレイヤーのような 複数の君という意識が存在することを 君はそこで知ることになるだろう にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月14日
ねえ 在る という事実を 君はどのように認識してるのかい? ねえ 事実とか 現実とか いうものは ”作っているもの”に過ぎないということに 君は気づいているかい? 今 ここに ある という現実性 は 飽くまでも 現実性 であって 現実 ではないのさ そう 自分といわれるものも 世界といわれるものも 作っているのは君自身なのさ 考えてごらんよ 生まれたての赤ちゃんは自意識がないから 赤ちゃんはこの世にいながら 自由も 平等も 個人も 善悪も この世も 自分自身も その存在を認識することも 知覚し察知することもできないじゃないか? これと同じように 君のある意識の次元が変わってしまって この世の次元と異なってしまって 今まで認識していたこの世というものを 意識が察知できなくなったら この世界は君の中から消滅するのさ それを僕たちは 死 と呼んでいるに過ぎないのさ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月14日
そう いつの頃からか 僕の中から 善悪が透けてしまったのさ 足場は流れてしまったのさ 前後左右上下を決める 基点が崩れてしまったのさ もしも 僕に善悪という拠り所があるのだとしたら 足場でもなく 基点でもなく 摩擦 抵抗のできるだけ少ない”方向”と言えるだろうか? 僕はね 重力さえも感じたくないんだよ 本当は・・・ ねえ君 知ってたかい? 眠っていても共存してるんだ 眠りは決して個人的なものではないんだよ 眠っていたって 意識 があるだろう? 意識 がある以上 空間は存在してるんだ そしてその空間で共存してるんだ 決してひとりなんかじゃないんだ 君はきっと信じてくれないだろうけれど 死んだって同じことなのさ 僕たちの ある意識 はずっと ず~~~~~っと 存在し続け 空間の何処かで 誰かと何かと 共存しているのさ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月14日
僕はね パワーストーンとか 宝石とか ダイヤモンド 金銀細工の腕時計 アクセサリなんかには ちいとも目がいかないけど ここ数年 鏡 というものにひどく心惹かれるんだ 鏡はね 映し出すものであるけれど 映すだけじゃないのさ ただそこに在って ただ映すだけなのに 受身だけじゃ決してない 光を集め その光を増幅させて 反射させることができるのさ これは或るひとつの力 と僕は感じてるのさ ねえ 君 君が言うように 鏡は水鏡を模して人が作ったんだろうね 僕はね 水や風のように在りたいんだよ 僕が在る 僕の意識が在る ことで どうしたって影響を与え 影響を受けざるを得ないのなら 僕自身も含め 万物を 透かし 流し続けたいのさ 良いも悪いも 風に流し 水に流し 鏡が一瞬一瞬の動向を映し続けるように 一瞬たりともとどまっていたくはないんだよ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月13日
ねえ君 僕は思うんだ在るということは何も働きかけなくてもただそこに在るだけで影響を与え また別の存在の影響を受けていることだって・・・悠久の時の流れの中ただそこにポンっとあるなんの変哲もないひとつの石その石はみずから動いたり 姿をかえることはなくとも風受け 雨受け 波を受け 姿を変えある時 つま先にひっかかって僕を地面に転ばせて大怪我させたりするんだよ在る というのは そう言う事だと 君石 は 意思 なんだよ僕たちのもっている 意志や意思は無形ではあるけれど 石 なんだ意識 も同じ意識は 意思が 気 になって弱まって無意識や潜在意識強まって意識的・顕在意識となるんだろうだから僕がただボケっとここでバカみたいな顔して つっ立っているだけで実は僕は周囲に影響を及ぼしているんだそしてまた僕は周囲の影響をも受けているのさそしてその相互の影響関係というものを言葉にしたら共存 ということなのだろうっと僕は想っているんだにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年04月12日
まずは 蛇を眺めるんだよそう 眺めるだけさ…(カテゴリ 奇譚 ”永久再生 ” より。)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ねえ君僕がこんなことを書いてがっかりしているかい?傍観 は ずるい ことだと感じるかい?僕だって最初から 傍観 してたわけじゃないさ僕の最初の崩壊は君の国の正義が僕の国の悪僕の国の正義が君の国の悪であることから始まったんだ君が知ってるように僕は もともとは君の国の人間だったからねそして正義の根底がみるみるうちに崩れ始めたんだ善悪とは 立場 という 拠り所 によって変わるものでその拠り所は 絶対とは程遠いグラグラ揺れる天秤のようなものと知ったのさ空間は 己のしっぽを喰らう蛇の姿をしてる っとある日突然気付いたようにねでも… 気付いたからってどうってことはないさ君が言う様にいくら考えてみたって答えなど出てこないことも同時に知ったさ 思い知らされたさでも敢えて....敢えて 僕の裡に 善悪 というものが残っているとすれば…共存としての在り方 だろうか?そしてそれは在ってないような在り方 と言えるだろうか?にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年04月10日
ねえ君 蛇の腹の中にいたんじゃ 時空を舞台にしたスペクタクル映画の 永久再生機能からは いつまでたっても抜け出せないんだよ 君が蛇になっちゃったって もちろん ダメさ え? それじゃ どうすりゃいいか? 簡単さ まずは 蛇を眺めるんだよ そう 眺めるだけ そして 摩擦にも 抵抗にも 重力にも 透けて 滑稽な.... 滑稽だけど懸命で 実に愛おしいその蛇の姿を ちょいと離れたとこから映す 光となるのさ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月09日
ねえ君 死ぬのは怖いかい? 僕だって死は恐ろしいさ でも僕は 死がすべての終わりだから恐れてるんじゃないよ 死は誕生へと続いてるからさ 死の続きには生があって 生のその先には また死があるんだよ やっと終わったすごろくがまた振り出しに戻って 一から出直し それが永久につづくって考えたことあるかい? こんな恐ろしいことないって 君は思わないかい? ねえ君 この蛇はたんなる蛇じゃないのさ この蛇は尾っぽと一緒に 時間も空間も全部ひっくるめて 噛み付いてけっして離しゃしないんだから・・・ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月08日
永久再生(一) ねえ君 知ってたかい? 世界の果ては 世界の始めに 続いてるんだよ だって地球はまあるいだろ? ううん 地球だけじゃない 宇宙も ブラックホールも 異次元の世界だって そうなんだ 空間はまさに 己のしっぽを喰らう蛇の姿をしてるんだ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
2015年04月07日
晴れた夜毎(ごと)に海神のこゝろの面(おもて)に映し照らされる御影(みかげ)海の神は月に恋をした彼は月の女神を深く恋し募る想いに震えるこゝろを女神の姿をより艶やかに漣(さざなみ)で刻み女神に向けて映し放った一度でもよい月に 貴女に触れてみたいという想いを添えて・・・海の神は月の女神にむかって長い 長い 長い としつきその想いを放ち続けたすると あるとき女神のこゝろが揺れ動き揺れた彼女のこゝろは海の神のこゝろに応じた月の女神と海の神が呼応して形を成してそれは海月(くらげ)となったのだったにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年02月10日
魂にこれまでの悠久の時に刻まれた心の動きの記録があると霊なのかな?っと最近想いました。また、奇人変人狂人癖が始まった・・・と言われてしまいそうですが、魂はエネルギー・光、またはそれらを映す鏡のようなもの。霊にしたって、魂にしたってどっちもわたしなんですが、三我一体 という文章でもしるしましたが・・・現(うつつ)でも、そして特に夢の中では顕著に、己と思われる、わたしが自覚している意識が何層にもなって現れてきます。おそらく私はそれを1・2・3・4のわたしとして感じているのだろうとおもいます。夢の中では、スーパーサイア人(息子のアニメの影響でこんな表現しますが)のように、高いレベルの意識の存在が現れたからといって、低いレベルの意識が消えるわけではなくて、幾層のわたしの意識が同時に多角的にある場面の中に存在しています。ある場面にスーパーサイア人の1から5(?)までが勢ぞろいして、それぞれの可能と限界という名の役割のままに、そこに存在しているんです。 それを一度でも感じてしまうと、こんなことを思ってしまうのですが、肉体をもった、心がすっぽりと意識を深く、きつく包みこんでしまっている、この世での自意識しか認識できない世界のことを、私達は この世 と言っているに過ぎません。そして、この世が全てとか一般的にいわれている”この世”というものは、以上のような理由から、実はほんのごく一部の世界に過ぎないと私は感じております。この記事に掲載している二つの画像は、原画とわたしが気ままに加工した画像ですが、わたしの脳みそは、そのどちらも、また片方から片方へ以降する過程も、夢の中では、レイヤーの中でみて感じているし、どちらもその場に存在しているようなそんなイメージなんです。もちろん双方の画像の間には、相交えない越えられない壁のようなものがありますが、それがある一つの高次元の意識で、自由に往来可能になるかどうか?今のところわかっておりません。ただ、行き来する扉の鍵は、なんとなくわかっています。それは先入観とかこだわり という 自我 を象っているものを打ち砕くことです。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2015年01月05日
怒りと悲しみが激(たぎ)っていた怒りと悲しみが激(たぎ)っていたもうひとりのわたしを粉々に投げて打ち砕きたい衝動に吹き荒れていたわたしは握った両手を強く壁にうちつけた硬い硬い真っ白い壁になんどもなんどもなんども渾身の力をこめてうちすえた両手など折れて なくなってしまえ!それをみていた天使は同情と懺悔をこめてわたしと同じように彼女の腕を壁にうちつけてみせたあなたには関係ないあなたなどには関係ないなぜわたしの真似をするのか?一体あなたにわたしの何がわかるというのか?激しい悲しみが私の裡で怒り狂う確かに彼女は天使だがわたしのこゝろを怒涛と化す魔女でもあったいけない・・・これはいけない・・・魔女など関係ない魔女などどうでも良いのだこいつはしおらしい姿をして悪いのは天使である わたくしめ にございますっと示しながらその実わたしの怒りと悲しみを使い悪いのはおまえ(もうひとりのわたし)だおまえ(もうひとりのわたし)だおまえ(もうひとりのわたし)だおまえ(もうひとりのわたし)が悪いおまえ(もうひとりのわたし)が悪いおまえ(もうひとりのわたし)が悪いわたしにもうひとりのわたし を投げつけさせたくて投げつけ粉々にさせたくてどうしょうもないのだからわたしの裡へ憎悪 を産みつけたいだけなのだからそうしないために両手などなくなってしまえばいい失う痛みなどとるにたらぬ・・・ わたしが自分の両手を折ってその場を去っていったのは失ってはならないものが別のものに変わってしまうことを”私自身が”最も恐れた からにほかならなかった
2014年12月30日
陽の光と星の光 12月17日の晩、再び不思議な光を見た。やっぱり眠りより覚醒に近い状態の時に・・・そして、おそらく異次元や時空の扉は眠りと覚醒の狭間だけれど、覚醒の側により近いところにあるのだろうとわたしはほぼ確信した。この夜の光は、誰かの両眼のような2つの光だった。白熱灯のような色をしていたけれど、白熱灯よりも、はるかに強く明るい輝きをしていた。大きさは、100mも離れたところからの車のライト程だったけれど、その距離から放たれる車の光よりも、もっとず~~~~~~~っと強い光だった。これも、ほんの数秒の出来事だった。一体この光はなんだったんだろうか?っと思っていたけれど、今、ネットサーフィンをしていたら、ある方の文章を目にした。その方は16日にその文章をアップなさっていたのだが、その記事のタイトルは、、、、”二つの光” というものだった。そしてこれはぬくもりのための陽の光 と 道しるべのための星の光 だった・・・偶然の出来事だったがなんとまぁわたしのこゝろを暖かくしてくれる出来事だっただろうか。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2014年12月19日
昨夜のこと、眠りよりもまだ覚醒に近い状態でいたとき、とつぜん強い明るい光に、眠ろうとしていたところを、わたしは起こされたのだった。明るい光は一瞬だったが、それでも1秒ではなく、2秒ぐらい煌めいていた。これまでにも、閃光の類は、1度や2度ではなく何度も、私が眠る前に瞬くことはあったが、昨夜みた光は、いつものそれよりはかなり大きな光で、真ん中はテニスボールよりも大きく、そのまわりが炎のようで、厳密に記すと閃光が煌くような感じではなく、うまく表現ができないが、人魂の大きく明るいもののような、初めて目にした光だった。その光はとても明るかったが、それまで私がみてきたフラッシュのような、ショックの強いものでもなかった。色もいつもは白く感じるだけで、それ以上のことはわからないのだが、昨夜のものは、黄を帯びていたように思う。なんだ?こいつぁ~すごい!目を開き、もそもそと上半身を起こした。やっぱり暗い寝室のベッドの上にわたしはいた。今、目?にした光をおもいだしてみた。その光は、わたしが(異空間の)誰かと繋いだ手から放たれていたようで、光の後ろには私の手とそして私の手を握っていた、誰かの手があったのをわたしははっきりと記憶していた。光は明るく、あまりにも心地よいものであったから、私はその後でも、ストンっと眠りに落ちていったのだった。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2014年12月08日
星思惟 ほしいお願いですもう二度と 私にかかわらないでくださいあなたがわたしにほんの少しでも触れるとわたしが目にしたくないものを見てしまうのです お願いですあなたがその美しい宝石を大切に大切になさってもわたしにだけは 見せないでくださいわたしにだけは 感じさせないでください わたしがいくらのぞんでもわたしの空からは 石が降り注ぐだけなのですから それでもわたしは降り注ぐ石に向かって大きな口を開き 喉に一杯詰まらせてむせび泣いているのですから そんなに素敵な宝石をたくさんもっているあなたが偶然を装い何度もそれをわたしにチラつかせるのはなぜですか?あなたはそんなに素敵な宝石を既にもう山程もっているのに・・・そんな宝石を手に入れることなどはなから遠い遠い夢のまた夢だと宝石は夜空の星月の煌きだけで充分だと言い聞かせて生きているわたしに宝石をたくさん身につけている笑顔のあなたがチラつかせるのはなぜですか? あなたがわたしにチラつかせるのはきっと幸せではないからでしょうなぜですかなぜですかそれも宿命なのですか・・・?にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2014年12月07日
三我一体一 瞳に映り来ては、去っていく現象の移ろいを眺めている わたし二 その現象の移ろいの片隅に佇んでいるわたしを、別の角度から眺めている わたし(その二の わたし は、その一に働きかけることが可能です。)三 それらを、映画館のスクリーンのようなもので、完全に間接的に眺めている わたし時折、二番目のわたし の傍らには、コメンテーターのような人影があったり、また人影はなくその現象の移ろいの解説だけが聴こえてくるときもある・・・(この解説者が一体誰なのかは未だ謎であるが、これは”第四のわたし”か?) 追記:これらの現象は わたし にとって特に不思議というものではござんせん。 にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2014年12月06日
客観に身を投じるならば・・・3(完結)T.S 様 (わたしの伝えんがすることが伝わりますようにと、こゝろを込めて・・・)これまた以前の記事言い訳にも”わたしは あなた を批判しているのではないのよ。人に人を裁けるわけがないじゃない?!自分自身でさえも、裁いてはいけないのだから。っと私は記していましたがこの時から、人には人は裁けないし、また裁いてはいけないと私は思っています。そして、人は自分でさえも、裁いてはいけないとわたしのこゝろは叫んでいるのです。客観に我、身を投じるならば、客観という正義の剣を振りかざし、我は我に切りかかるさにあらば、客観という正義を纏って暴れる我をも、撲滅しなければならないっと。我の撲滅・・・それは彼の撲滅であり、そこにあるのは 無 です。わたしもそこへ陥りました。それでは何処に?何に?”わたし”を見いだせばいいのでしょうか?わたしがひとつだけ断言できることは心は”わたし”とは別物であるということ。そして、わたしなりにあちこちにぶつかってヨロヨロたどり着いた場所を言葉にするとしたら、我という存在は ”一瞬の裡にしか見いだせない”ということでした。そして”一瞬”は、唯一瞬であり、それで充分である”っと思っています。わたしたちがここにこうして生まれてきて存在しているのは大いなる力の意図によってであり、その意図とは繋がりなさい 触れなさい ということなのだろうっとわたしは想っています。そのために 身体 を与えられてここにいるのではないか?っと。ただ、実際に繋がるか・触れられるか どうかは、宿命ではないか?っと。なぜならば、わたしの心がどう動こうとも、それは、一瞬、一瞬の連続としての現象に添うものであったり、まったく添えないものであったりもしますから。もう一度繰り返し記しますが、わたしたちがここにこうして生まれてきて存在しているのは大いなる力の意図によってであり、その意図とは繋がりなさい 触れなさい ということなのだろうっとわたしは想っています。そのために 身体 を与えられてここにいるのではないか?っと。そしてそのための 他、あなた、彼、彼女、人 ではないか?と。そして 人との繋がり、人との触れ合いでありながらそれがまた、わたしとの繋がりであり、わたしとの触れ合いであるならば人を裁くことも、わたしを裁くことの意味も 雲散霧消 します。なぜならば、あなたが加害者のとき、わたしは加害者でありあなたが被害者のとき、わたしは被害者であるからであります。そこでは、あなたが加害者のとき、わたしは被害者でありあなたが被害者のとき、わたしは加害者であるではないのです。これを具体的な例で記すと、例えばわたしがある日道を歩いていて、見知らぬ人にナイフで突然刺されて命を失ったとします。それは、受け入れがたい、かなしい出来事でありますが、それは、わたしの宿命であり、私をナイフで刺した人の宿命でしかなかった、ということです。あなたが加害者のとき、わたしは加害者でありあなたが被害者のとき、わたしは被害者である刺されて殺されたのがわたし ならば わたしをナイフでさした者もわたし なのです。これが 宿命(天命) の 内容 です。息子や愛する人がそういう事故に遭遇しても、それは変わらないのです。しかし、心も、そして社会も、国も、世界もそれを許しはしないでしょう。それを熟知していながらこのような 狂気の沙汰 を私は記しております。私が申し上げたいのはただ、真の我 は ただ その現象を 映しているだけ なのです。決して関わることはない っということなのです。もしも、 あなたが、”客観に身を投じるならば・・・”真の我 は ただ その現象を 映しているだけであり、決して関わることはないここまで徹底しないことには、片手落ちになるのです。そしてこれが、”形無きものへアクセスするための唯一の手段”であります。・・・・・・・・・・・・・・難しいことは蹴っ飛ばしてしまっても一瞬の中に身を置くことで、既に大いなる力の御意志に添っているとわたしはおもっています。どんな状況、状態であれ、一瞬、一瞬に踏みとどまっていることを大いなる力は、いつでも笑ってみていてくださるのだと。そこに、裁きがあってはならない。一瞬、一瞬こそが偶然であり、必然であり宿命であり、いってしまえば、 一瞬こそが裁きであり、原因であり結果であり、始まりであり、終わりであり・・・それは唯、それだけであり、それだけで充分であるっと私は想っているのです。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2014年12月02日
客観に身を投じるならば・・・2 T.S 様ここ(”自分自身が、自分自身の加害者であり、被害者になる”)まで思い至ったわたしは、以前以下の記事を記しているうちに、なんとなく自分が感じたことを思い出したのでした。A balance ~感性でとらえる~私はこの記事を記している裡に輪郭が見えてきて、そして段々とはっきりしてきて、ゾッと 身震いを感じたある地点を思いだしたのでした。その地点とは、ここまできて方向を誤ると大変な危険がある、そしてそこは、誤ったら最後、奈落へまっさかさまの崖っぷちだっと感じた地点です。わたしはその時、崖っぷちからはかなり距離を置いて、その先の深淵を感じただけだったのですが、崖っぷちの輪郭が段々はっきりしてきて、目の中に飛び込んできて、ただそれだけで、あまりのオソロシサに、そのあと近づくことができなかったのでした。Tさんの文章でわたしには、再び同じ景色がみえたのだと思います。だからわたしは、過敏に反応したのだろうと思います。再び同じような現象がわたしの裡で起こったそう、これは、わたしのなかの出来事でもあったし、あるのです。過去のわたしの記事の中ではこの崖っぷちについて、以下のようにわたしは表現していました。******************以下引用balance感覚 を行使して過去・現在、未来 をみる感性で物事を捉える言葉にしてみると、なんて簡単で素っ気ないのでしょうか!!・・・・・・・しかし、ここにも大きな落とし穴が潜んでいると私は感じているのです。客観に陥いることは、主観に陥るのと同じぐらい弊害がある と感じているのです。徹底的な客観に身を投じるならば、主観も徹底的に撲滅していかなければ、大変危険であると私は感じているのです。 以上引用*******************そして以下が今わたしにみえる景色です。客観に陥いることは、主観に陥るのと同じぐらい弊害がある と感じているのです。弊害どころではなく、、、こゝろをおろし金ですられていくような拷問。徹底的な客観に身を投じるならば、主観も徹底的に撲滅していかなければ、大変危険であると私は感じているのです。その危険とは、自分自身が、自分自身の加害者であり、被害者になるというとんでもない危険、これは眠っているときでさえ、夢の中でさえわたしを監視していて、わたしのことは全てしっていて、そして何かあるとわたしを問いただし、責めて、そして裁こうとしている監視役がついて回っているような拷問。間に立つものがないので、加害者に仕立て上げられたものが、壊れて被害者になりそうであっても責め立てられ続ける・・・こゝろとは、、、、、弁護士にもなれば、検察官になってしまう。そして己を裁こうとする。どんな判決を得るがために?無罪? 有罪?罪状は?執行猶予はあるの?はたまた死刑被告者は誰?加害者は一体誰?それはあなたなのですか?わたしなのですか?にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2014年11月30日
客観に身を投じるならば・・・1T.S 様お書きになられた文章は創作であり、フィクションであり、この後も続いていくのでこの後どのような展開になるのかしら?とは思いますが、それを理解していても、わたしが、あなたの文章から、垣間見たものを記し、お伝えすることを、お許しいただけますでしょうか・・・?あなたがお書きになったものを拝見し、私が学生(中学生・大学生)時代に、自己の支柱とも言えるものが大打撃を受けたときのこと、その大きな揺れとショックを、なんとしてでも和らげようと、己という意識のほとんどを突き放して、自分自身をなんとか守り、その場に踏みとどまろう、やり過ごそうと(無意識のうちに)必死になったときのことをわたしは、思いだしました。この時わたしは、目の前の受け入れがたい風景が示していることに、ブラインドを下ろし、耳から聞こえてきた言葉をそれ以上聞かないようにするために、耳が聞こえなくなり涙はこぼれているけれど、いったいどうして泣いているのか、理解することをこゝろが拒否している ”支離滅裂”の状態となっていました。幸い、私がそのような状況に陥ったのはたったの3回だけでした。(3回目は2010年末)けれども、わたしが少なからず不安に感じた、あなたの文章のある部分からは、拷問・・・人目、他人様、社会、、、等というものに、心を、おろし金ですこしずつすられるような、わたしの想像を絶するような ”精神的拷問” を感じたのでした。物心ついた頃から、わたしという人間には、アウトサイダー的な図々しさ、且つ、狡猾さがたっぷりと染みこんでいましたから、人目というものが私に攻撃して、大きな怪我を負わせることが、ほとんどありませんでした。わたしの裡には、”全くの独断”という、ある判断基準があって、それは、私のとんでもないような”我侭”が根拠となっているだけの基準であり、そうでありながら、その基準はどんなものにも、どんなことにも決して”揺るがない”ものであり、それによってわたしは、人目というもの、他というもの、社会というものを、度外視することがなんなくできたのでした。あなたがお許しくださるならば、もうすこし、突っ込んで感じたことを書きますと、”人目”というものが、あなた御自身の中に存在しているのではないか?っということまで、わたしには見えてきたのでした。こうなると、、、 自他の境がなくなる、それは、、、わたしがこれまで、自分の記事の中で、自他の境が薄くなる、相対関係の崩壊を示すっと書いてきましたが、それとは全く逆の片端・・・自分の裡にさえも、他人を感ずる っという意味での自他の境の消滅を感じたのでした。そしてそれは、”自分自身が、自分自身の加害者であり、被害者になる”というとんでもないことを意味していたのでした。これが、、、どれほどわたしを落ち着かない、居ても立ってもいられないような気分にさせたことか・・・そして、わたしはどうしょうもない気持ちになって、これを記さずにはいられなくなってしまったのでした。にほんブログ村にほんブログ村
2014年11月28日
”まったき闇の世界と、まったき光の世界” っという両極端の世界を、わたしは見てきたように思う。以下この二つの世界について記し、思うところを述べる。<まったき闇の世界>まったき(完全なる)闇の世界をみたとき、わたしは高校2年生で17歳と9ヶ月だった。まったき闇の世界をみるきっかけになったのは、ある手術だったが、その手術をうける半年程前から、わたしは病気を苦に、生きることに絶望していた。このあたりのことは過去の記事にしているので記さない。***手術は予想されていた時間を、大幅に引き伸ばし終了した。手術後わたしは、ベッドの上で両親と姉と笑いあっていた時間もあった。そして、陽が落ちて、母以外の家族のものが帰ってしばらくしたあと、ベッドの上に座っていたわたしは、突如息を吸えなくなった。窒息していく苦しみは、2分もなかったのではないか?と思う。意識を失いながら、わたしは自分が死へ向かっていることを”はっきりと意識”していた。***意識不明のち心肺停止といわれる状態の中で、わたしが意識?を取り戻したのは、ものすごい音量の雑音によってだった。それはラジオやアナログテレビのフェレカンスがあわないときの雑音を、最大ボリュームにして、すぐ近くで聞くような音のためだった。窒息の苦しみはなくなっていたし、身体を失ったわたしは、その恐ろしい大騒音を耳で知覚していなかった。私はその音に、耳ではなく、脳?をつんざかれながら、大騒音のトンネルを長いこと?くぐっていったようであった。そしてその大騒音のトンネルをくぐった先にあったのが、まったき闇の世界だった。***わたしは物心ついた頃から、真夜中の暗闇で、両目を閉じて、両手で覆ったとしても、閉じた目の裏側、あるいは脳裏に浮かぶ世界は、まったき闇ではなく、そこには、黒は黒、闇は闇でも濃淡のある空間が広がり、また万華鏡をみるよに、移り変わる文様やイメージの世界が広がっているのを知っていたのだが、(ご興味のあるかたは是非お試しあれ。)そのときに見た世界は、どこをどのように目?を凝らしてみても、真っ暗な闇しか広がっていなかった。その闇とは、真昼間の陽光の照らす世界から、突然トンネルにはいったとき、まったくなにもみえなくなる瞬間、あの瞬間が、ずーーーーっと連なっているような世界だった。しかも、意識、感覚を澄まして、わたしの周囲に何かないか?っと、知覚しようとしても、そこには、まったくなんの気配も感じられなかったのだった。動いているものは私の意識だけで、私の意識だけがまったき闇の世界の中でポツンと宙に浮かんでいる(漂ってはいなかった)ようだった。***わたしはその時に、ああこのままでは本当に死んでしまう ということを悟った。死に近いところにいるのだろうということだけは、知っていたけれど、そのとき思考し、知覚している意識をもっていたわたしは、まだ自分の体が心肺停止していたことは、しらなかったから。わたしはこのままここに居ても、決してだれも、何も、わたしをこの本当の意味での、真っ暗闇の世界から救ってくれるものはないことを悟った。そうしそのままこの死の中に、とどまらなければならなくなることを察知した。その状況に及び私は、まだ死にたくない、まだ私は何もしていないじゃないか!っと神のような存在へ向けて叫び始めたのだった。死の世界へ向かって、自分は進んでいることを、私は窒息した時から理解していたけれど、それに対する、驚きや戸惑いはあったが、私はここへ至るまでの間、死への恐怖を抱いていなかったのだった。***その次に私が意識を取り戻した時、私は自分の肋骨が漬物石を振り上げ、振り下ろされ、強く押しつぶされているのではなかろうか?っと思われる、息苦しさと激痛を感じた。眩しい電灯の中に、たくさんの医師がわたしを取り巻くように、浮かび上がってきた、私は己の状況を判断する前に医師の数を数えていた。10人いた。(本当は13人だったが)そして私は自分が一糸まとわぬ姿でその中央にいて、掃除機の筒のようなものを、咽喉のかなり奥の方にまでつっこまれ(呼吸器官を確保するため)、ガムテープで止められ、尿道にも管を突っ込まれたのだった。<まったき光の世界>まったき光の世界を夢でみたのは、2011(12?)年だったとおもう。”禊 みそぎ”という詩でその夢のことは記載してある。光あるところに影があり、影あるところに光あり・・・光と影は、片一方だけでは存在しないような関係のものであるから、おそらく多くの方には信じてはもらえないことっと思っているが、影の存在しない、光だけの世界 というのがある。わたしはそこを ふるさと と呼び、我々はいつかそこへ還っていく場所なのだろうと漠然と、まったく根拠のない確信を抱いている。***エッチラオッチラ、フラフラしながらたどり着いた場所は、海岸で、時は干潮。私の目の前には広々とした干潟が広がっていた。わたしは、ペダルをこぐと後方に進んでしまう、なんとも私という人間にそっくりな!天邪鬼的自転車を、後ろ前に乗車してなんとか操り、ここまでようやく辿りついたのだった。そしてなおも、疲れきった体に渾身の力を込めてペダルを漕ぎ、干潟を走行していた。すると突然私の体は上空へとぐんぐん、ぐんぐん舞い上がっていったのだった、私が飛んでいるというのではなく、上空へ惹き寄せられていた。あっという間に私の体は、数百メートルの上空へ舞い上がっていて、眼下には私のふるさとの晴れた海のような大海原が広がっていた。あまりの美しさだったので、今でもその光景は私の脳に焼きついている。***私はさらに上空へと引き寄せられていた。下に広がる大海原は空を映す大きな、大きな鏡のように私は感じられた。空からは、青い色は感じられず、ただただ光を放っていた。その光は無尽蔵であり、また熱を感じず、そして、これほどまでの光の世界にいながら私は眩しいと感じなかった。まるで私がその光の中に溶け込んで同化してしまったようだった。どこまでも高く広く大きな空を、どこまでも深く広く大きな海が、その空の光を映し、なんの屈折もなく空へ照り返していた。その空と海の光が重なるところに私はいて、私は光と同化していた。私がいた空と海の間では、空?の無尽蔵の光は、海の大鏡によって倍どころか、4倍・8倍・16倍になる、っということが永久に続けられていくイメージが私にはある。***そこには 影 というものはまったく存在しなかった。無限の空間の中を、ただただ膨張していく 光 の世界が広がり、また広がりつつあった。夢の中で私は、誰かに逢うために、禊 みそぎ をしたかった。そしてこの海岸に行き着くまでの間、ずっとずっと”水”を求めさまよっていたのだった。そうしては、いろんな事情や理由から、水を手に入れることができなくて、禊ができなかったのだ。行き着いた海岸には、逢いたかった人の影はなかった。空と海の間で光に吸い込まれ同化したとき私は、ああ、身を清めるものは 水 だけではなかったのだ。光でも禊ができるのだ っということを知った。私の 禊がしたい という願いは、光によって満たされたっと感じたのだった。**** ***** ****ここまで記したわたしはふと思う・・・わたしはなぜこの二つの世界を記したのか?実は今、こうして記している私にもわからない。まるでどっかの誰かが記せ っと私を急かしているかのように、キーオードをタイプしているだけで、この後どんな言葉が飛び出てくるのか、この瞬間にまだ私は知らない。***この二つの世界のことを”天国とか地獄とか”人は、昔から呼んでいたのかもしれない。しかし私は思う、この二つの世界は、実はまったく同じ場所なのだろう っと。それではなぜ、片方はこれほどまでの闇が広がり、もう片方は光に満ち満ちているのだろうか?それは、これをお読みくださった方おひとり、おひとりが、御自身の胸の裡に問いかけて、答えを見出してくださるのが一番良いと私は思う。ひとつだけ記せるのは、この両極端な世界に於いて私は、まったく同じように 宙(そら) に在ったということ。ただし、 宙 にいるときのわたしの意識はまったくの両極端だったために両極端な世界を、みてきたのではなかろうか? っと。私なりの言葉でこの両極端の意識を表現すると、闇の世界で宙に在ったとき私は、”みずから孤立”していたのだろう。そして光の世界で宙に在ったとき私は、”おのずから同化”していたのだろう。っと思う。そしてそのキーワードとなる言葉は、”委ねる”ということではないか、と私は感じている。***完全なる服従(帰依)が、完全なる自由とイコールになる世界。そこは、相対関係というマヤカシの呪文は、完全に雲散霧消し、ただただ無尽蔵の光だけが、どこまでも無限の空間に広がる世界・・・にほんブログ村にほんブログ村
2014年11月18日
花と華(か)して花と離(枯 か)れず花求め 蝶はさまよふ蝶は花をみとめ 花にやどりぬされど花 雲散霧消し蝶は索漠たる想ひに羽敗れ羽失ひて飛ぶことあたはず蝶はその宿命(さだめ)受け入れその身を地(つち)に委ね 願ふ我地(つち)と化し天(あめ)と華し花の糧 とならむことを 花と華(か)して花と離(枯 か)れずにほんブログ村
2014年11月15日
死んでしまった このこゝろそして・・・ 暗い欲望も指先を埋め尽(つ)く血糊それは・・・ 愛しさの証(あかし)*** *** ***ネットである言葉を拝見した。そしたら、25年近くも前に、ライブハウスで聴いた歌詞を想い出した。想い出した歌詞に、そのときに拝見した ”指先” という言葉を添えて綴ってみた。***** この歌詞は難解だった。ようやくこれだけの年月を経て、ある方の文章をよんでいて、ああ、こういうことだったんだ、っとやっとその真意がわかったように、私は感じた。これは、、、(殺意?の)狂気。そして、暗い欲望=狂気 を 滅するには、己の心を殺して、”欲望(狂気)も一緒に滅する” しかない、っとその人は身をもって体験したのか・・・っと私はおもったのだ。”この空に 君の名負ひし故郷(くに)ありと ひがないちにち よもすがら恋ふ” にほんブログ村
2014年10月26日
世にもオソロシイ存在私はこんなにいい人で、人を傷つけたことがないのに、どうして私は人からこんなことされなければいけないの?って真顔で、胸を張って誰かから言われると 茫然と します。実はこの言葉、昨夜 義母 に言われた言葉なのだけど、、、、義母は自分の兄嫁にされたことに対して、言っていたのだけども・・・私は今まで何も悪いことをしてないのに!なぜ私にこんな仕打ちを!・・・・そりゃ、、、自分のことは自分じゃわかんないし、エゴのオソロシイところは、自分にとっては当然のこと時に善を施していると想っていることで、何とも思わないけど、無意識のうちに相手を傷つけていることで、そういうことがない人間の方が ありえないよ!!って私は想うのだけど。。。。義母は、この数年私が彼女に 距離 を置いていることに気がついているが、その理由も・・・ わかってなかった!私は 貴女(お義母さん)にエゴというナイフをつけつけられたことが、少なくとも2度ありますよ?!そのうちの一回はみごと、私に致命傷を与えたんですよ っと・・・でも決して言えないわよね。こういう総元締とか、大御所様 っていう存在が一番 オソロシイ のでござる。こういうサダメに縛られて、逃げたくても逃げられない存在もあります。それでも 逃げるが勝ち!!よにほんブログ村
2014年09月30日
刀と刃・心と忍Yaiba (366x640) posted by (C)maryam f dこの画像は、タイの寺院の小窓の雨戸のようなものの意匠でした。(画像は私の中のイメージに似せて加工してあります。)タイの、昔の風俗習慣なのでしょうか、ヒゲを生やしていて、顔の感じは老いて、私には見えるのですが、体つきは少年のように柔軟で靭やかで、その何とも言えない不自然さ、アンバランスさと、刀裁きの鋭さ、的確さ、プロを感じたのです。プロといっても・・・そのプロの腕をどう使うかは定かではありません。一刀で切り絶ってくれれば、楽に絶命するところを、その的確な刀裁き故に、致命傷を与えず、長期間に渡って痛めつけて、それをじっくりと楽しむようなプロもいますから。刀というものは、その刃で人を傷つけもすれば、守りもします。そしてその刃が・・・己に牙を剥くこともあります。忍 というのは こころの刃 と書きます。”私の心の剣(つるぎ)その 刃(やいば)は時に我 を 彼 を 守るために我 を 彼 を 傷つけた(省略)忍ぶ とは 我慢でするものではない忍ぶ とは ゆとりでするものなのだ(2011年記)”ある人、何かを守るために 己は耐え難きを耐え、忍びますが、人ですから 我慢・限界 はつきものです。その限界が訪れたときに、その刃(やいば)で、人を、また己をも傷つけることもあるだろうな・・・っと私は思っています。忍ぶとは、真剣勝負と同じように、我慢で(限界ギリギリ、ハアハア息を切らせて)するものではなく、ゆとりでするものなのだと私は思ってます。(真剣勝負はゆとりをもって戦う・・・とは相手を徹底的にやっつけ、むやみやたらに相手の身体に切り込んだり、感情の赴くままに、死に至らしめることのない、真剣勝負にするためにです。)人は誰でもエゴという刀を携えているのかもしれません。エゴとの向き合い方が、その人の刀の扱い方、刀の用途に現れるような気がしています。にほんブログ村
2014年09月29日
恋(こふ)人・恋(こは)せる人現代奇譚 という記事に関することですが・・・恋(こひ) というものが、 相手のこころを自分の方へ向かせたいっと 乞ひ焦がれることだと致しましたら、ある意味 結婚 というものとは、真逆の意味合いをもつのでございましょう。それ故に、結婚して(相手と恋愛をして、ということではなく)7・8年たっても、日常生活の共同者となった伴侶に”恋する”気持ちを抱いている夫婦はほとんどないということは、ある意味当然であり、自然なこととである、とも言えるのではないでしょうか。相手に自分を想わせ、恋させておくのならば(その目的は人それぞれ多種多様ではありますが)、常に相手を不安にさせ、不満にさせておく必要がある、っと言いかえることができましょうか。その点からみれば 恋 とは 愛 とも真逆の意味合いを兼ね備えている、とも言えます。確かにそこ・・・相手に自分を恋焦がれさせるために、不安にさせ、不満にさせること、”いじめのような可愛がり”とも言える行為・・・には、終わり はござんせん、否 終わりがあってはいけないのでございます。地獄の果てまで到達しても、それでも終わりがあってはならない、鬼(追わせる方)の道・餓鬼(追う方)の道 いくら相手を舐めて、飲んで、食べて、食べ尽くしたつもりであっても、まだまだ満たされない・・・っと相手にも自分にも、想わせなければなりません。これは視点を変えれば、ひとりの人を追いかけて、地獄の果て、天国の果てまでも、上下、左右に揺さぶられ、引っばられ、しがみつき、夢?!みさせてもらえるほど恋させてくれる人 と巡りあったのですから幸せ?! なのかもしれませんけれども・・・・(私はそこに 幸福 ではなく 修羅=止むことのない執念 をみて、ゾッと致します。)*** *** ***オソロシイことに、これは男女の仲だけに当てはまることではなく、日本だけでなく、イランでも、私の身近な親子関係とか、師弟関係なんかにも(勿論夫婦関係にも)同じような 修羅 を目にすることがあります。それが相手からの情だけでなく、物質的なものに関する執念 だったりしたら、まさに 現実世界の魔界 です。こういう どうにもこうにも執念 を抱いてしまうような存在(者・物)に偶然出会ってしまったら、可能な限り(それは必然=サダメでもありましょうから、限界はありますが) 離れる、距離を置く、逃げる ように努める・・・ っと私自身は思ってます。(時に、振り切った、逃げ切ったと思っても、相手が後をつけている場合もあります。)恋 というものはそんなに甘く、優しく、切ないものだけではありません。恋の道 は 修羅の場(戦場) でもあると私は思ってます。己がこころとの戦場 でもあります。相手がナイフを持っている場合は、どれほど護身術・武道ができても、逃げる。また相手がナイフを隠しもっている、と悟った時点でもやはり逃げる。相手が自分よりも、その道に長けている、、、、これも同じです。逃げるが勝ちです。この場合、自信を持っている人ほど、痛手は大きくなります。決して己の力量を過信してはならない・・・っというのが、私個人の鉄則です。にほんブログ村
2014年09月28日
殺生予め申し上げたるごとく素手 素顔にて覚悟の上 飛び込み拙者 切り捨てらるるその後に及び戯れにすぎぬと仰せられしも我が身 真っ二つ二度目など有り得ようも御座いませぬ・・・にほんブログ村
2014年02月10日
やけくそいくら経験しても学べないことは沢山あるそしておんなじ失敗の経験を繰り返す自分が 馬鹿に思えてくるまあ、、、馬鹿がわかっただけ学べたか?2011年9月 にほんブログ村
2014年01月31日
IMG_2742 posted by (C)maryam f d習性salamander が ヘビ の如く脱皮するとは知らなんだsalamander は かなり前から脱皮を繰り返していたらしいそしてsalamander のヌケガラ は犬の ”marking” が如く あな かようにも 醜く散らばっていたことよ見たくもなかったものを我 目にすこと偶然にして必然 なりきにほんブログ村
2014年01月14日
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