今朝の黙想3



「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」(ヨハネ1:42)
「ペテロ」は「岩」の意味です。兄弟アンデレに連れて来られたシモンは漁師でした。イエス様はそんな彼に岩のように土台になる可能性を見られたのです。自分の能力や限界に落胆していませんか。何も持っていないと思っている私達に、神様は豊かな可能性を見出して下さいます。


アーメン!
私の尊敬する牧師に教えられた、「キリスト教とは、聖霊の可能性による宗教である」という定義に、私は心の底から、アーメンと思う。
ある説教を聞いた時、印象に残る言葉があった。
説教の冒頭で、その牧師が聴衆に語りかけていた。
「あなたは、愛されていますか?」
「愛することは、あたりまえなので、あえて問いません。あなたは、家庭や職場や学校や、あなたを取り巻く環境の中で、あなたは、愛されていますか?」と、その牧師は問いかける。
「イエス様が私たちにしてくださったこと、ナザレのイエスの十字架は、あなたが、尊敬され愛される人になるために、可能性を与えられるために、あったのですよ」という語りかけに、私は、アーメンと思った。
そして、「愛することはあたりまえ」という、このところにドキッっとした。あたりまえの中だけに留まっていてはいけないなぁと思った。
今週も、このイエスの十字架によって与えられた、「聖霊による可能性」のなかで、生きることができることを感謝しつつ、主の愛に応答するものとなりたいと願います。



12月7日(火)

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(2コリ3:18)
人間が後世に遺すことのできる、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは勇ましい高尚なる生涯であると思います(内村鑑三)。人生は成功のためだけにあるのではありません。生き方を示すことこそ、真の人間の功績ではないでしょうか。


(¨)(..)(¨)(..)ウンウン
傲慢と、正しい自己像をもっていることとは違う。
謙遜と、卑屈になることも違う。
逃げることと、休息をとることも違う。
神様が人間に与えてくださった自由意志を、どう行使していくかが、生き方なんだろうなぁ・・・って思う。
私は欲張りなので、神様に愛され、神様を愛し、自分を愛し、人を愛し、人からも愛される、そういう生き方がしたい(笑)
そして、その可能性の中に、イエス様の十字架によって、招き入れられたことに、ただただ感謝します。


12月8日(水)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩119:17)
様々なスパイスが料理を美味しくするように、悲しみや苦しみは人生を味わい深いものにします。深みのある人とは、悲しみや苦しみを人生のスパイスとして受け入れている人です。あなたはあなたの人生の料理人です。今日織りなす様々なスパイスを使って最高の一品を作りましょう。


hallelujah!
この御言葉には、私のこれまでの歩みが集約されている。
そして、これからも、苦難を通るたびに、その後に待っているこの実感を味わって生きていくのだと思う。
マイナスと思うことが、実は全てプラスにつながっている。
自分を中心にして、神様を動かす者ではなく、神様を中心として、神様に従う者になりたいと思う。


12月9日(木)

『ここに、私がおります。私を遣わしてください』(イザヤ6:8)
イザヤは神殿に満ちる主の栄光を見、自分の罪が赦される体験をしました。そして主がご自分のために働く者を求められることを知ると、「私を遣わしてください」と主の求めに応えました。あなたも自分の汚れや弱さに目を留めるのではなく、赦してくれた主に感謝し、自ら主に仕える働き人として捧げてみてください。主はあなたを通して働かれます。


アーメン!
そう言えば、13年前、卵巣癌から奇跡的に生還したとき、私は神様に祈ったなぁ・・・。
抗がん剤治療が辛くて、髪の毛も抜けて、死んでしまったらどうしようと恐怖に怯えて、家で待っている子供たちはどうなるんだろうと、なんでー、神様、なんでーー!と心の中で叫びながら、毎日ノートに祈りの言葉を書き連ねた。
そして、今朝のイザヤ書のこの箇所を黙想しながら、思い出した。
病院のベッドの上で、私は悔い改めの祈りをしたのだった。
「主よ、赦してください。私は今まで、ちょっと辛いことがあっただけで、死んじゃったほうがましだ・・・と思ったことがありました。今、こんなに生きたいのに、そのことがどんなにバカげていたか、よく判りました。忙しくてしんどい時に、入院してすき放題眠ってみたいと思ったことがありました。今、こんなに家に帰って、子供たちの世話や家事や仕事をしたいと思うのに、そのことがどんなに愚かな思いだったか、よく判りました。主よ、赦してください。そして、どうか命を助けてください。病気に打ち勝って家に帰ることができるようにしてください。そしたら、どんなに忙しくても辛くても、頑張りますから、どうか助けてください。」
私のこの祈りは聞かれた。
そして、この祈りのとおり、我が家の土台に、主が据えられるために、病気が癒され、家に戻ってからは、大嵐の連続であった。
そして、家族全員が救われた。
まず夫、そして子供たち、その後、実家の母、妹、妹の夫、マイケルの兄、妹の子供たちは、実家の父と一緒に洗礼式であった。そして、この人だけは無理かもしれない・・と思っていたマイケル(夫)の父は、病床で信仰告白をしたのであった。
聖書に書いてあるとおりであった。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:31
アーメン、hallelujah!!


12月10日(金)

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24)
埋め立て地は、土台がハッキリせず、じわじわと水が浮き出てくる。これを液状化現象と呼びます。あらゆる分野で液状化現象が進む時代、「しっかりした土台」「しっかりした骨組み」「しっかりした使命感」を養うことが急務です。変化の激しい時代こそ、変わることのない神の言葉を人生の土台としましょう。


今日は、朝、パソコンに向かう時間がなく、K先生の密葬式に行ってきた。
朝の黙想ではなく、午後の黙想になってしまったが(笑)
K先生の密葬式に参列したからこそ、今朝のこの御言葉が心に染み入る。
密葬式の際、最後にご長男が挨拶をされていたが、印象に残った言葉がある。
「父は寡黙な人で、自分たちに対しても、ああしたらいいこうしたらいいとは何も言わなかった。しかし、父が自分に一つだけ言った言葉がある。医師として、また、人として、自分のために生きるのではなく、人のために生きろ。そう父に教えられました。」とおっしゃっていた。
まさに、K先生ご自身が、その生き様をもって、そのことを教えてくださった。私の霊の父であった先生の生き方を通して、私もそのことを学んだ。
変わることのない神の言葉を土台として生きる生き方をその身をもって見せてくださった。
主が、密葬式の奏楽のお役を与えてくださったことに、心から感謝します。
18日に本葬の式が行われる。その時にも奏楽をさせていただく光栄に与った。本葬式には、我が家の家族も、今の教会のみんなも参列させていただく。お客様が大勢になることが予測されるので、本葬式はセレモニーホールで行われるそうだ。
表現力の乏しい私は、今のこの感動というか、神様から頂いた恵みというか、言葉でなかなか表現できない(笑)
ただ、神の言葉を土台として生きることができる者にされた、そこに招きいれられた、この身の幸いを、益々深く味わっている。
主よ感謝します。


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