今朝の黙想18



「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」1コリ15:58
苦しみというものは、通っている時は凄く辛いけれども、いつか必ずトンネルみたいに突き抜ける時が来ます。入る前の明るさと違った明るさ、暗さを通った明るさがそこにあって、苦しみは自分の業績となり、歴史となって、人生の履歴書に書かれていきます。


あーめんっ!!
主よ、感謝しますっ!!
必ずいま通っているトンネルを抜け出させると信じます。
「暗さを通った明るさ」
そうそう、これですよねっ。
暗い道を通っている時、いかに自分の心に苦い根を残さないように通るかですねっ。
美味しい所取り、いいとこ取りをする利己的な人々に悩まされる日々を、いかに心豊かに明るく喜んで過ごすことが出来るか・・・。
これが私の課題です。
私でなければ縁の下の力持ちは出来ない。神様は見ていてくださる。
こう信じて、今日の日を精一杯生きようと思います。

置き去りにしてきた私の心は、主に預けてあるので、膨大な天国の利息がついて、私のところに還ってきますねっ(笑)
楽しみです。((((((〃 ̄З ̄)ノ ウヒヒヒヒ♪

さーてっ、仕事に======☆(((((((((^ー^*)ノイッテキマース♪


3月22日(火)

「キリストは仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ10:45
キング牧師曰く「人は何のために生きているかをいつも考えねばなりません。この問題が解決されるとき、その人は死についてあまり考えなくなります。人生の意義は、あなたが人生から逃れることではなく、何を与えるかなのです。これが分かれば人生は豊かになります。人は死んでも、その人の影響は死にません!」


(¨)(..)(¨)(..)ウンウン
今の私は、ある意味、長い物に巻かれていく作戦に、心を静かに従わせようと取り組んでいる最中なので(正直な私の心のままを表現すると現段階はこのような心)
「何を与えるか」なんて、じぇんじぇんわからない・・・。
心だけは自由なので、私の心は叫んでいる。
「冬に木を切るな」というように、コンディションの悪いときに大きな決断をしないことが得策だ。
そう思って、今は淡々と目の前にある自分の持ち場をまっとうしていこうと思いながら日々を過ごしている。

今週は受難週。
イースター前は、すんごい霊的な圧迫が来る。
必ず毎年そうだ(笑)
しかし、勝利は約束されている。
主は復活の主である。
hallelujah!!


3月23日(水)

「ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。」マタイ21:7
イエス様はロバの子供に乗ってエルサレムに入城しました。立派な馬ではありません。格好いい馬車でもありません。力のないロバの子です。イエス様は力のない者を軽んじられません。謙遜に自分を捧げるときにイエス様は用いてくださるのです。


謙遜か・・・
今朝は、「謙遜」について考えた。
「謙遜ぶる」ことと「謙遜」とでは大違いだ。
私は、今までの信仰生活のなかで、この「謙遜ぶった人」というのに、すごく悩まされてきたように思う(笑)

話は飛ぶが、クラシックのソプラノ歌手は傲慢だ(謎)
ψ( ̄▽ ̄)ψイヒイヒイヒイヒ
特に、高校の音楽教師とか中学の音楽教師の、声楽科出身の人間は、私は肌が合わない(笑)
一概には言えないが、傲慢な人が多い(爆)
そういえば、これまでの信仰生活のなかで、二人のソプラノさんの伴奏をしたが、その思い出話をしよう(笑)
一人は、高校の音楽教師。この人は、クリスチャンではなかったのだが、ヘンデルのメサイアを(あぁ、やっぱ説明やめた、世間は狭いからこの説明すると、誰だかばれちゃう)ψ( ̄▽ ̄)ψイヒイヒイヒイヒ
とにかく、この方が、教会で、メサイアの一曲を歌うことになり、その伴奏をすることになった。もう、もう、「あんた、何様?」ってくらい要求が多く、だったら、自分の好みの奏楽者連れて来いよって言いたくなったが、当時の私はまだ若く、可愛かったので、その先生の要求にこたえようと、一晩中、ピアノに布団を巻きつけて(防音のため)練習した思い出がある。(笑)
そこまで頑張ったけれど、その先生の歌からは何も感じなかった(笑)
音楽はテクニックでないね~。人間性だわw((((((〃 ̄З ̄)ノ ウヒヒヒヒ♪

もう一人、この方はクリスチャンだった。肌が合う合わないとしては、合ったほうだと思う(音楽的に)しかし、この方の「傲慢さ」が私を苦しめた(笑) この方の傲慢さは、「自分が謙遜な人間だ」と認識しているところにあった(笑)

今朝、このことを思い出すことが出来てよかった。
何故なら、また、私自身、いつの間にか背伸びをして、いい子ぶっていたかもしれないと、立ち止まることが出来たからだ。
真面目な私は(笑) 主の前でいい子ぶるクセがある。なのに、心の中が汚い。主はそんなことお見通しなのにw

主よ、私はどうしようもないバカ女ですが、主の愛のなかで、ありのままの姿で主の前に出て行くことが出来ることを感謝します。
一歩一歩、主の御手によって成長させられていくことを、本当にありがとうございます。
私の心の中は、「夫を歌わせること」に嫌気がさしています。
彼の自己認識を、昨日知って、「もう、や~めたっ」という気持ちになりました。
しかし、主よ、私はあなたを愛しているので、あなたが「しなさい」というなら、泣きながらですが、喚きながらですが、します。
ですから、主よ、助けてください。
私に希望を与えてください。
主を待ち望みます。
尊きイエス様の御名によって祈ります。あーめん。



3月24日(木)

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」詩篇119:71
ゲーテは「苦しみが残していったものを味わえ!苦難も過ぎてしまえば甘い」と言いました。私達は苦しみから逃れることばかりを考えますが、その苦しみの意味を考えてはいません。そのことを通してはじめて理解できることがあるのです。あなたがその苦しみの意味を理解できますように。


あーめんっ。
ついこの前までは、この御言葉を思い出して、「うんうん、そうそう、ほんと、そうだわー、うんうん」と思っていたのに、自分に嵐が襲ってきて、その渦中に入ると、とたんにその余裕はなくなり、「どうやったら逃れることができるか・・・」と、いつの間にかそういう思考になっている。
神様が私をレッスンするところは、最終的には「夫婦間」においてであるな~と、ここ数日、つくづく感じている。

プライドの塊の男性を手の上で転がしながら操作していく・・・。
私はまだまだだなぁ・・と思った(笑)
私の内側にある、「守られてみたい」とか「女性として扱われたい」とか、そういう願望が無くなるまでこのレッスンは続くのだろうか・・・(涙)

「新潟は男と杉が育たない」という言い伝えがある。
これは、歴史のなかで培われてきてしまった霊的連鎖を表現しているのだと思う。
貧しく、農業によって生計を立ててきた土壌において、女性の労働力がこれを支えてきたところにあるのだろう。
神様は、女性を男性のあばら骨からつくった。
アダムのあばら骨からエバがつくられた。
「アダムの助けてとして」「パートナー」としてつくられた。
だから、本来の女性は、アダムに守られながらその助け手となることが使命なのである。本能的にそうなのだ。
そこが歪んでいると、いろいろな歪の連鎖が起こる。
これは私の主観ではあるが、新潟県のこの霊的土壌というのは、女性の本来持っている本能が、夫に守られるどころか夫を守る側に立っているが為に、本能を向けるところが「息子」にいってしまう。そして、その息子はそういう母親に育てられる為、自立して妻をむかえて家庭を築くときに(聖書的な自立が出来ないまま)妻を家庭の頭にしてしまう。これが延々と続く霊的連鎖であると思っている。

私の生涯をかけての願いは、私の家庭において、この連鎖が断ち切られることにある。大樹と真が、霊的にも肉体的にも健康に成長し、神様の祝福を受けて、自立していってくれることが、私の命をかけた願いである。

さて、家庭においてのビジョンは、このように明確であるのだが、私達の命の源となる「教会」においてが、なんだか覆いがかかって見えてこない。
今、私が考えていることは、家庭においてのビジョンとも繋がるのだが、今まで牧師のいない教会で、信仰暦の長い私が、ある意味、先頭に立って、旗振り役をやってきたわけだが、そこから退こうと思っている。
そこが整理されるための今なのではないかと思っている。

また今朝も、長々書いてしまったわっ(笑)
すんませんね~、今は神様の声を聞きたくて、もがいてる時だから、あれこれ考えちゃうのよんっ(笑)

主が全てを最善へと導いてくださることを信じます。
主よ感謝しますっ!!hallelujah!!


3月25日(金)

「イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」マタイ47:46
何故イエス様は惨めな断末魔の叫びをあげたのでしょうか。本当に神様から見捨てられたからです。実はこの叫びこそ、罪を犯し続けた私達が叫ぶべきものでした。イエス様が私達の身代わりとなって神様に見捨てられたのです。十字架の愛に感謝しかありません。


アーメン・・・
十字架は、私の罪のため。
本当は私があそこにかかって、神様に見捨てられて、地獄に行くはずだった。地上においても、十字架の恵みに出会うことがなかったら、昨日少し触れた、「家族的無意識の連鎖」という呪い、社会の最小単位は「親子」でなく「夫婦」だということにも気が付かないで、私は運命に翻弄されて生きていたことだろう。所謂、仏教でいうところの「因果応報」のなかで苦しんでいたことだろう。
そっか・・・
今日はキリスト教暦でいうと、「聖受難日」だ・・・。

おそらく、「十字架の恵み」の大きさ、凄さは、計り知れないものなのだ。
私が知っている「恵み」は、ほんのごく一部なんだと思う。
十字架の恵みは、「贖罪」だけにとどまらない。
全ての「罪」「呪い」「悪魔」に勝利した十字架だ。

我らは毎週礼拝において、「使徒信条」を告白する。

使徒信条
我は天地の造り主。全能の父なる神を信ず。
我はその一人子、我らの主、イエスキリストを信ず。
主は聖霊によりて宿り、乙女マリアより生まれ、ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉にくだり、三日目に死人のうちより甦り、天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて、生けるものと死ねるものとを裁きたまわん。
我は聖霊を信ず。聖なる公道の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの甦り、永久の命を信ず。アーメン。

今、フッとある男性の証を思い出した。
その方は、インテリで(笑) 教師だった。もちろん、理論や科学で解明できないものなど、信じるわけがなかった(笑)
奥さんが熱心なクリスチャンだった。その奥さんはご主人のために祈り続けた。
そのインテリ旦那は(笑) 奥さんに勧められて、聖地旅行に行くことになった。(イスラエル旅行)
その旦那は、自分の見識が広がる為とか、教養のために、せっかくの奥さんの勧めだし、旅行に行くことにした。
私は、奥さんと一緒に祈った(笑)
そして、旅行から帰ってきた、そのご主人は、「俺、来月、洗礼受けるよ」と言った。びっくりした。何が起こったのか・・・。
強情な、理論派のこの方に、主は、ちゃんとこの方がわかるように、ご自身を現してくださった。どこの教会だったっけかな・・・、とにかくイスラエルのどっかの教会で(笑) 彼は、主ご自身を、肉眼で見たらしい。
凄い凄い!!
彼は目をこすって、何度も確認したという。そして、その主ご自身を見た瞬間、自分でもどうしてかわからないが、とにかく泣けて泣けて仕方なかったと聞いた。そして、悔い改めに導かれ、そこで「主よ、今まで疑って、信じないできたことを赦してください」と祈ったそうだ。
聖書に、「見ずして信じる者は幸いである」とあるように、「信じること」でしか、十字架の意味はわからない。
しかし、主は、求めたなら、必ず、信じることが出来るようにしてくださる。
今朝、このことを思い出させてくださった主に感謝します。
「とりなしの祈り」
これしかありませんねっ。
その方が主ご自身とお会いできたのも、その方自身も求め、また、その方が求める心になったのは、奥さんのとりなしがあったからですね。
そして、その奥さんの祈りに心を合わせた聖徒たちの祈りがあるからですね。
主よ、私も祈ります。
私達の教会のために、どれだけ多くの聖徒の祈りが積み上げられていることでしょう。
主よ、感謝します。
イエス様ご自身が、とりなしていてくださいます。
主よ、感謝します。
主をほめたたえます。
みなさまのお祈りを感謝します。
hallelujah!!

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