今朝の黙想31



「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」使徒23:11
誰もが様々な試練に遭います。目の前の問題や自分の力の足りなさばかりに目を留めてしまうことはありませんか。でも、あなたに対する神様の計画があります。その計画は希望と意味のある計画です。神様の計画を信じ、勇気を出して一歩前進する一日でありますように。


アーメン!!
神様は何を私に促しておられるのだろう・・・。
今朝、祈っている時に示された御言葉は、「小さな群れよ。恐れることはありません」ルカ12:32
だった。
そして、御言葉メールは「勇気をだしなさい・・・」だ。
私は何を恐れているのだろうかと、自分の心を探ってみた。
人からの裏切りとか攻撃とか、そういうことは慣れているので(笑)
それほど自分にとって恐れることではないかな・・・。
なんだろ・・・。
おそらく、例想にもあるように、「自分の力のたりなさ」もっと言えば「経済力のなさ」というところに恐れがある。
ここに目をむけるなと神様がおっしゃっている。
神様が「私」にもっている計画があるとおっしゃる。
それは希望と意味のある計画であるとおっしゃる。
ここに目をむけろと・・・。

権力によらず能力によらず主の霊によって。
ここにかけて祈り続けよう。
おそらく、私が経済力や社会的な力や、自分の力を何も持っていないから、神様に召されたのだ。人間の側が、誰も誇る事のないよう、弱い者が召し出される。
これが聖書の法則だ。
そして、この世とは全く違う原則。
「神様に従う」こと。
神様に従うことというのは、律法を守ることとは違う。
人間の努力で、きよくなんてなれっこないのだ。
だからイエス様が私の罪を、私の身代わりになって贖ってくださったのだ。
そのイエス様が、きのうも今日もいつまでも同じで、今日も私の個人の名を呼んでとりなして祈っていてくださる。
そして主ご自身の霊、聖霊が、イエス様の十字架は自分のためであったのだと気が付き、信じ、受け入れた者の内側に住んでくださるという、想像を絶する奇跡のゆえに、私達には感謝しかないのだ。

私の家に玄関に、イエス様が戸の外に立ってノックしている絵が飾られている。先日、牧師先生から教えていただいたのだが、その絵の戸には外側に取っ手がない。内側から扉を開けないと、イエス様は入れない。それが表現されているのだと聞いて、なるほどーと思った。
神様は全能なので、その気になれば次元や空間も超えて、その戸の内側に入ることなど簡単なことなのだが、神様は人間に自由意志を与えて創造された。人間の側がその自由意思によって、心の扉を開けることを神様は待っていてくださる。なんという愛だろう。
そして、イエス様は人類全員にノックをしておられる。
私は自分の心の扉を主に開く事が出来て、本当によかった。
本気でそう思っている自分が出来ることは、人々のために「祈る」ことなんだとつくづくわかった。
主よ、どうかよろしくお願いします。
主に明け渡します。
存分に、お好きなように、私を使ってください(笑)
我らの主 イエスキリストのお名前によって祈ります。
アーメン。


6月22日(水)

「…「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、…すべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」(使徒12:11)
時に人生をふさぐ硬く分厚い鉄の門や壁にぶつかり、落胆してしまうこともあります。でも、ペテロが厳重に監視された牢屋から、御使いによって連れ出されたように、私達も必ずどんな問題からも助けられます。落胆することをやめて、祈りましょう。苦難の門はきっと開かれます。


わかりました、主よ。
信じて待ち望みます。
意思を発動させて祈り続けます。
私に出来る事はそれしかありません。
主がなさってくださいますから・・・

あ・・・そっか・・・
ずっと示されていた御言葉
「あなたがたは霊で始まったことを肉で仕上げるというのですか」
これは、教会に対してだけではないんだ・・・。
そっか・・・。
会社のことも含まれているんだ。
そかそかー。
私は、会社(夫の勤めている会社)に対して、希望を失い落胆していた。
あまりにも、落胆するような出来事が続いた。
そして、夫はストレスで身体が動かないほどに落ち込んだ。
そして、その出来事をとおして、会社を辞める腹をくくって、別の職場を祈り求めた。しかし、神様が祈りのなかで語りかけてくることは、「迫害する者のために祈れ」「目に見えるところに惑わされるな」「愛、赦し」
ここらへんを示してくる。
これは神様が私に語ることであり、夫に神様が何を示し語りかけておられるのかはわからない。
あくまで、私と神様との間でのことなのだ。
そして、神様が私に召していること。
「破れ口に立って祈れ」これだ。
私はずっと、「破れ口」とは、教会の中の不一致だと思っていた。
そしてこの不一致は、会社と密接に絡み合っているところなのだ。
ということは、おそらく、夫と社長、経営者サイドと従業員サイド、ここの破れ口に立って祈ることをも、神様は私に促しているのかもしれない。
私の感情、私の肉は、とてもじゃないけど、出来ない。
しかし、感情や肉は、関係ないのだ。
神様が私に与えた自由意志。これを発動させて祈れと言っているのだ。

そういえば・・・。
このレッスンはずっとずっと続いている。

夫との関係修復も、始まりは、この「感情でなく意思によって赦す」ここからだった。神様に従ってそのことを実行したら、感情は自然とついてきた。

次は、教会のことだった。
これも最初は、「感情でなく意思によって祈る」
ここからだった。そして神様に従って、早天の祈りを始めたら、自然と教会のなかに聖霊が働き始めた。
ビックリするようなメールが、昨日立て続けに3件きた。
その内容はいずれも、信徒の方々が、「聖霊によって恵まれた」(大雑把すぎるけど、細かくはここで書かない 笑)という内容だった。

私は、人々の証を聞いて、生きて働いておられる神様をまたまた実感した。

ってことはだ。
「ありえない」「それだけは嫌だ」「無理でしょう、無理にきまってる」
こう思って、失望していた会社に対しても、感情でなく意思を発動させて祈ったなら、神様が働かれるってことなのだ・・・。

そうか・・・。
このことは、いうなれば、今までレッスンを受けたことの総括的なことになるのだ。もっと言えば、私の心の傷の総まとめだ。
たまんない。

けれど、今までも、いつもいつも「たまんね~よ」と神様に文句を言いながらも、神様に従った時に、一つずつ山を越え谷を越えてきた。
泣きながらでも、やるしかない。
感情は伴わなくとも、祈ることからしか始まらない。

主よ、夫の会社を祝福してください。
主よ、社長夫妻を祝福してください。
主よ、夫の痛みを主が担ってくださり、助けてくださり、夫を支えてください。
主が始められた会社です。主が出会わせてくださった社長夫妻です。
どうぞ主が仕上げをなさってください。
私の肉や私の傷が、主の働きを妨げることがないように守ってください。
私に祈る力をください。
私を聖霊で満たしてください。

主よ、感謝します。
主を待ち望みます。
尊き我らの主イエスキリストのお名前によって祈ります。アーメン。


6月23日(木)

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(ピリピ3:13-14)
人生は「下りのエスカレーター」みたいなものかも知れません。何もしないで居れば下っていくばかりです。最低限の歩みでは現状維持がやっと。自分にできる最大限の歩みをしてこそ、今よりも上へ行くことができます。この歩みこそが「良い習慣」です。自己満足でなく可能性にチャレンジしてみませんか!


主よ・・・。
自分にできる最大限の歩みか・・・。
背伸びしすぎることと、精一杯のことをするということと、ここのバランスがまだよくとれないなぁ・・・。
可能性かー。
自己満足ってことはないわ。
神様、夫の会社のことを祈りはじめました。
感情はまったくついてきませんが、意思によって祈ってます。
そして、経済的な事への心配(家庭も教会も)が、私の最大の恐れであることに気がつきました。
この恐れを克服したいので、私に収入を得る道を開いてくださいと願うことは、的はずれですか?
さっぱりわかりません。
わかったことは一つ。
祈って、神様に従ったなら、結果は神様が出す。
これです。
この「従う」がポイントですね。これが行動ですから。
祈ることも行動。
主よ、私は今まで、自分で言うのもこっぱずかしいですが(笑) 
頭の回転も速く(笑)  物事を組み立てて繋ぎ合わせるのが得意で(笑) 人望もあり(笑) 行動力もあり(笑) 無いのはお金だけで(笑)
ダメだ・・・バカみたいだ・・・(笑)
やっぱキチガイだ、あたしww
なんで、こんなことを言うかというと、否定的な言葉を自分にかけないように気をつけてきたという意味で言っているのが一つと、自分の力で何かを成そうとしてきたところが大いにあったことに気がついたということでである。

そうなんです。自分の力でやってきた箇所に限界がきました。
いや、もともと無かったお金が益々なくなりマイナスが積み重なり、夫が会社から迫害を受け、相当まいったのです。
もちろん、神様がずっと助け続けてくださいました。
神様、今、教えられていることは、どうやら次のステップのような気がするのです。いや、初心にかえることなのかもしれません。
主が私に今教えていること。「おまえがするのでない。わたしがするのだ」
だから、「霊で始まったことを肉で仕上げるというのか」の御言葉と、「権力によらず、能力によらず、ただわたしの霊によって」の御言葉が示されているのですね。

うーーんっ。支離滅裂の黙想だ・・・。
さっぱりわからないので、主よどうかわからせてください。
今できることをします。
早天に祈り、静まって主の細い御声をききます。
教えてください。
主の御名によって祈ります。あーめん。


6月24日(金)

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)
イエス様は人生の医者として、私達のために来てくださいました。正しい人のためでなく、罪ある者、悩める者のために来てくださったのです。もしあなたが自分の罪や問題に悩んでいたら、すべてをイエス様にうちあけてください。イエス様は、あたなからの相談を待っています。


アーメン!!
hallelujah!!
全能の名医が私の人生を変えてくださった。
私はイエス様に出会わなければ、見えないものが沢山あった。
たま~に、想像してみるの、イエス様に出会ってなかったらどんな人生を送っていただろうかって(笑)
表面上はうまくやってる振りをしながら、内面は自己憐憫の塊になって、否定的に物事をとらえて生きていただろうな~と思う。
まぁ、その前に、イエス様が助けてくださらなかったら、命がなかったし。
家庭も崩壊してただろうし。

人生で一番必要なことに出会えて、本当によかった。

主よ、感謝します。
主をほめたたえます。

「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。(黙示録22:20~21)

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