ふるさと紀行~まちなか散策。
{2006.8.13}ふるさとを離れて早20余年、帰省するとすっかり観光客化していまいます。
2006年8月13日女房殿とふたりで、ふるさとの街を散策してみました。女房殿のリクエストで行き先は七日町界隈と言うことに。
会津若松の町を挙げて、「会津楽市」と銘打って、市内各所に残る史跡と、昔ながらの商店街を結びつけ、城下町の雰囲気味わいながら散策してもらえるようにと頑張っています。
なぜ、「会津楽市」なのかと言えば、秀吉の小田原攻めの後に会津に入封した、蒲生氏郷公にちなんでのことのようです。
蒲生氏郷公は、若い頃、織田信長に非凡さを認められ、将来は信長の後継者とさえ目されてた名将で、信長の三女冬姫を妻としています。そのため、秀吉から恐れられ、92万石の広大な領地を与えられた代わりに、都から遠い会津の地に国替えになったとも言われています。
その氏郷公が、理想的な自由経済都市建設の夢を実現しようとまちづくりを進めたのが、会津若松の町です。いいことなのか、悪いことなのかわかりませんが、現在の中心市街地は当時と余り変わっていないそうです。
また、氏郷公は会津の伝統産業としてよく知られる、酒や漆器の基礎を築きました。城下には信長の「楽市楽座」をさらに発展させた「十楽」という制度を敷き商業の振興を図ったそうです。その中心が七日町界隈ということになるそうです。
今回は、観光客用の無料駐車場に車をとめて、歩いてまちなか散策をしました。非常に暑かったです。天候が悪いときには、レトロ調ボンネットバス「ハイカラさん」号で街を回るのも一考かと思います。
さて、一番最初におとずれたのは、味噌田楽の美味しい「満田屋」さん。
おみやげを物色して、最後にもう一度よることに、
今回、どうしても見ておきたかった場所が、ここです。
阿弥陀寺、上の写真は御三階と言う建物、もともとは鶴ケ城の閣内にあった建物です。会津藩の首脳陣が秘密の評定をする時に使われたとか。戦後(戊辰戦争後)この場所に、移築されて今に至っています。鶴ケ城内には、今も御三階の石垣が残っています。
かつては、大仏もあったそうですが、こちらは第二次大戦中に供出され台座だけが残っています。
また、ここには東軍の墓所もあり、「新撰組!」でオダギリジョーが演じた新撰組一の剣客「斉藤一」の墓もあります。
阿弥陀寺から道路の挟んで、JR七日町駅があります。
JR只見線、会津鉄道の駅です。構内におしゃれなCafeがあります。当日は若いカップルで一杯、気後れした中年カップルはトイレだけを借りて先を急ぎます。
駅Cafeの斜め向かいに位置するのが、このお店。
郷土料理とお宿「渋川問屋」さん、食べたことはないですが、「祭り御膳」がお勧めとか。
この3つの建物があるあたりが七日町の西端、ここから東に向かっててくてくと歩いて戻り道。
途中にも、茶屋、会津木綿のお店、蕎麦屋さん、豆腐屋、造り酒屋、地ビールのお店、などなど、見所満載、半日ではとてもまわりきれませんでした。
最後に「満田屋」さんによって、今回の散策は終了。
次回は、自転車で回ってみようと思っています。
私の拙いレポートでは、つまらないと言う方は、リンクを晴らせて頂いている、「 会津さ、こらんしょさん 」のブログをどうぞ!!
最後に問題です。上の写真は何でしょう?