凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

2016.01.14
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カテゴリ: 彫刻について
藤川塑像







アルス大美術講座(第五巻)
大正14年

彫塑科(塑像)藤川勇造 


第二章 人体

私の受持ってゐるのは「塑造」と言ふのであるから、人体製作に就ても一応は言及して置かなければならぬ必要がある。

然し人体製作に就ては、保田龍門氏が専門的に、くはしく書かれる筈だから、私はなるだけ保田氏のとは重複しないと信ぜられる点だけを概説して見たい。

人体全身製作に於て、
最も大切なものは、
全体のムーヴマン(movement)
である。

次にそのシルエット(Silhouette)と、
サンプリシテ(Simplicite)である。

シルエットとは、作品の輪郭に依ってかこまれた形のことで、影絵の時の物の形と思へばよい。

影像だとか半面黒像だとかの訳語がある。


サンプリシテとは単純と言ふことである。



即ち作品の主格が首にあったのだ。

特に頭像の肖像の場合などに於ては、顔は最も重要な部分として、それが全体の中心点であり、従って観者の視点を其処に集めなければならない所であった。


これが人体に於ては、ちがって来る。

人体に於ては全体が感じを流してゐる肉体でなくてはならない。

主格が顔にはない。
顔は全体の一部分である。

これを極端に言へば顔は、全体の感じと、全体の釣合の一部分でしかない。

それ故に、これを極言すれは顔の無い頭像は存在し得ないが、顔の無い人体作品は場合に依っては存在し得るわけである。

さて、或人は人体の美は、ギリシャを以て最高完全なるものと思ってゐる。

そしてギリシャ美の権衡を以て人体の実の極致として、それを以て人体美の標準として、如何なるモデルを見ても、それを基礎にして人体美を見る。

然し私に言はせれば、それは大なる誤解である。


例へば
(ポリクレートのカノンに於けるが如き七頭長半の権衡を以って美の標準としたる事あり、其後時代によって多少標準に相違あり)
かくの如きはギリシャ美の権衡であっただらう。

従つて、人体の美もギリシャの権衡に帰着したかも知れない。

然し人体の美は常にギリシャの権衡にばかり存在してゐはしない。



想像の美は、
往々にして、空想に流れ、
遂に不安な点に陥るものである。

それに反して、
リアリスティックな根拠に立つた美は、
深く研究すればする程、限りが無いものである。

日本人の人体には、日本人独特の美があり、魅力がある。

なるはど日本人の足ほ短かい。

しかし短かくとも美が無いとは言へない。

反対に、或釣合の美が有る。

足は短かくともよい。
背は低くともよい。
此処にはギリシャ権衡とはちがった美がある、独特の釣合がある。

タイチに一生を送つた、ゴーガンはタイチの美を見る事が出来た。

そして、あれだけの美しい作品が出来た。

と言っても、私は日本をタイチに比する様な愚は敢へてしないが、つまり、日本には日本の美があると言ひたいのだ。

一郷土として此の国が、たしかに具有してゐる特種のものがある。

日本と言ふ郷土から生まれた所の美が存在してゐる。

その郷土の生んだ美を捜し求めると言ふ事は、
その国に生まれ、その国の土に成長した人によつて初めてなし得可きものである。

まあ卑近な一例だが、私は英国にゐた時に、或る英国人の肖像の代作を頼まれてやった事がある。

ところが、私にはどうも、眼色毛色の異つたその人の肖像を作るのが、余程困難であった。

こんな場合に、製作者が、日本人の私でなしに、そのモデルの人と同国人が同民族の人だったら、直接に直感的に私の感じた様な困難は感ぜずにやれるだらうと思はれた。

私の様に自分と種族のちがった人間を表現するために、色々と無理に考へたりしなくても、きわめて自然にスラスラと作れただらうと思ふ。

つまりその国の作家がやれば、習慣的にきわめてたやすく出来る所のものを、私には、直感的にすらすらと出来ない。

何だか、わだかまりがあって、一歩退いて考へなけれはならぬものがあった。

それだけ損なわけである。

この事は肖像製作の場合の例であるから、このまゝ他の製作の場合には、当てはまらぬ事なのかも知れないが、然し、見のがす事は出来ないと思ふ。

私は自分の信念として、
空想に浮かべたものを表現しやうと、
無駄な努力をするよりも、

自分の眼前に見えてゐる実在から、
真実なものを掴むことがよいと思ってゐる。

眼に見えるものを、親切に謙遜に観察して、次第に進んで行くと、自ら、美は研究の後に得られる。

而し、
実在のものを、
唯たんに写す丈けでは、
本当の製作は得られない。

自然を観察し咀嚼し、自己を其中にぶち込んでこそ初めて、製作は成り立つものと考へて居る。

(尚、空想に浮かべたものを実体化し研究を重ねて、或作品を得られる事は勿論である。)


議論はこれ位にして本題に帰る。


人体を研究する場合には、先づモデルをモデル台上に置く。

その時にモデルを自由に置くことが大切だ。

故意に、「こんな形、こんなポーズ」などと、無理に不自然なポーズを取らせることは大の禁物だ。

モデルは手本であって、しかも同時に一つの美術品を與へてくれるものと考へて、モデル自身が個性的に持ってゐるポーズをなるたけ生かす様に心がけて、無理の無い、不自然にならぬポーズを取らせる。

この場合、作家が先入主的に、自分に都合のよい注文をするのはいけない。

少し永い間かゝつてもよいから、モデル自身の自由なポーズを見出だす様に努力する。

なにげ無い様な、しかも何処となく引きしまった面白いポーズは無理やりに考へ出しては出て来ない。

ある時間の間モデルを放任してゐる間に、ある瞬間に全く自発的に、しかも無意識的に「これだ!と言ふポーズ」が出て来るものだ。

この無意識のポーズと言ふことが大事なことだ。

職業的なモデルになると、よく他の作家などの所でやりつけてゐるポーズを、得意になってやることがあるが、それでは自然なポーズとは言へない。

或作家の輿へた特殊のポーズである、其故にどうせいい作品の出来るのはわかりきった事だ。

此点注意を要する。

で、「こゝだ!」と言ふ面白いポーズをとらまえたら、ようく考へた後に、塑造台上の塑造板に心棒を取りつける。

この場合の塑造台は、頭像の場合とちがって、たけが低い。
図に示してある通りのものである。
(人体製作の塑造台九ページの挿画参照)
心棒の取りつけ方は、頭像の際に述べたものと同様。
たゞ幾分規模が大きくなっただけである。

モデルの與へたムーヴマンに従つて、心棒がそのムーヴマンの丁度中心になる様に拵へる。

ムーヴマンの外へ出てはならぬ。

心棒の必要でない所には心棒を入れぬがよい。

と言ふのは、無理に心棒を方々に入れると、堅くなってしまって、窮屈な、いぢけた製作が出来る恐れがあるからだ。
だから土が落ちない程度に、簡略な心棒だけにとゞめて置く。


心棒に蝶々をむすびつける。

蝶々と言ふのは小さい木片であって、つまり、土がよく心棒に粘着するためのものである。

心棒の鉄棒には棕櫚縄を丁寧に巻きつけこれを水で湿して置く。

これも土の粘着をよくするためである。

さて土を付け始める。

最初は「糊」といふもので、つまり最も軟かい土をつける。

心棒と土とをしっかりと密着させるためである。

それから次第に土附けを進めて行くが、 最初はなるたけムーヴマンをよく出す様に心懸けて、それ以外のことは先づ考へないがよい。

然し次第に進むにつれてヴォリュームと言ふ事を考へつゝやって行く。

腰部のヴォリュームに対して胸のヴォリュームはどんな釣合になってゐるか。

頭は胸に比してどんなヴォリュームになってゐるか。

それらをハッキリと見きわめて作って行く。

人体に於ては、
この人体各部のヴォリュームの比較対照、
又は釣合を見ると言ふ事は、
非常に大事な事であって、
これは作家が当然踏まなければならぬ製作順序である。

大体のヴォリュームが正確にとらえられたら、既に土は単なる粘土ではなくなる。

感じを待った一個の有機体となって見える。

つまり生命が土に流れはじめたのである。

然し勿論それだけでは足りない。

此処でとゞめて置けば、
蛮人の作った、創意的な彫刻の面白さを持つにとゞまる。

一体 このヴォリュームも、
コンストリクション(構成)から出発して来るものだ。

人体に於ては殊に然りである。

前にも述べた様に 彫刻は建築である。

ことに、
人体製作は、
建築であるコンストリクションの悪い建築は、
如何に、
その部分的な、
又は表面的な装飾などが立派でも、
結局は、
立派な建築とは言へない。

これがそのまゝ彫刻に就ても言へる。

コンストリクションが完全なものでなければ、いくらその表面装飾がたくみであっても卓越した作品にはならぬ。

コンストリクションは、その基礎工事から始まる。

基礎工事が出来たらそれに柱が立ち、壁が塗られ、瓦がふかれる。

この 基礎工事と言ふのは、内的な基礎工事のことである。

内面的な精神のことだ。

つまり、最後に瓦をふいた後にも、 決して倒れない強固な感じを、とらまえることだ。

それだからコンストリクションは最も大切だ。

で、コンストリクションがきまり、ヴォリュームもちゃんと掴んだ。

その 次ぎには面を見る。

この面に依って製作の大体のプラン(plane面)を立てる。

プランと言ふのは、
自分がこれから作らうとする人体に、
鮮明な光を與へるか、
又曖昧な光を與へるか、
弱いヒョロヒョロした光を與へるか、
又は固い針金の様なスッパリとした光を與へるか、
換言すれば、
その人体に如何なる強弱細大軟硬の感じを與へるかを、
モデルを見て決定する事である。


それが決定出来たら、面を見つゝ土をつけて行く。

つまり、
人体を、
面に見て進むので、
此の場合に注意しなければならぬ事は、
面を見て行きながらも、
前にも言った、
シルエットやヴォリュームの事を忘れてしまはぬ様にすることだ。

何故私がこんな注意をするかと言へば、
面を見つゝやってゐると、
いつの間にかシルエットのことやヴォリュームのことがお留守になって、
作品をこはすことになるからだ。

面を見るのは、
常に「大きい面を大きい面を」と、
心懸けて進む。

つまり 綜合の面を作って行く。

最初から小さな面から眼をごまかされてはならぬ。

それから面は、いくつもあるのだから、唯単独に此の面あの面と言ふ風に見ないで、
相関達したものとして見る。

即ち 面と面との対照、釣合を考へて進む。

大きな面が出来たら、順次に今度はそれよりも小さな面に進む。

然し此場合には、
再三言ったことであるが、 デテイルの興味にひきずられて大きな面のことを忘れてはならぬ。

藤川勇造

面が出来たら、
筋肉の連動を見る。

筋肉の柔軟さを見る。

筋肉と筋肉との間の谷、筋肉と筋肉との境界を見る。



彫刻は、
簡単に言へば、
凹凸の芸術だ。

凹凸は、
何に依って見えるかと言へば、
影と日向のためだ。

だから影と日向の芸術とも言へる。


無論、
彫刻は形ちだ。

形ちさへ、うまく出来て居れば、
「ネットnette(明確)」であれば、
総て光りは美しく当り、
何処から見ても、たしかなデッサンが見える。

表面の粘土の粗密の技巧よりも、
形ちが、確か(ネット)であると云ふ事が、
最も大切だ。

[凡声庵注記:プランネット、Plane Nette、平面]

だから、この筋肉の凹凸はよほどしっかり見て作らなければならぬ。

筋肉の凹凸を見るための一方法として、
人体の解剖を理解して置くのも無駄ではない。
解剖で一応人体の組織を理解して置くのも、有益な場合がある。
然し解剖に拘泥してはならぬ。

作家はよろしく、解剖を一度知った上で、それを忘れてかゝる事が必要だ。

解剖からいつまでも左右されてゐては、
筋肉の凹凸を作るに急になりがちなために、作品全体の大切な調子を失ふ事になるからだ。


さて此処で再び、
シルエット(silhouette)に就て
一言したい。

なるほど、
シルエットは、
彫刻に取っては非常に大事なものだ。

がしかし、
そのシルエットを持たせるために、
モデルの外線のみを見て、
それをそのまゝに写したのでは、
力の弱い線が出来てしまって、
死んだシルエットが出来る。

彫刻的な強固な線のシルエットにはならぬ。

やはり、
シルエットと言ふものは、
面が出来上りながら、
少しつゝおもむろに出来て来るもので無ければ、
真実なものでは無い。

シルエットを形造る線は、
常に単純でなければならない。


サンプリシテ(単純化)の必要がある。

線を単純にするためには、ある一本の線があれは、その線を延長したらどんな方向になるかを考へて大きく線を見るのがよい。


早計に小ぢんまりとした線を取って早くまとめようとすると、往々にしていぢけて了ふ。

つゝしむべきである。

このシルエット、即ち外線は、遠くの方から作品を見た場合に第一番に人の眼につくものであるから、粗末にあつかってはならぬ。

大きなモニューマン(記念像或ひは銅像)などでは、この遠くから眼につくのが目的であるから、これが最も大切なことだ。

藤川勇造2

人体を製作するには、人体を見るに一個の塊として見て作らねばならぬ。

人体製作の要素は、
この塊と言ふ点にある。

それ故に、なまじ手や足の先などは邪魔になる位のものである。

レッシングの「ラオコーン論」中にも
「或る高所から一個の彫刻を投げ落して、その作品が破損してもその破損したものが立派な彫刻になってゐなければならぬ」と言ふ意味の言葉が書いてある。

それをロダンもよい言葉だと言ってゐる。
実に味ふべき言葉である。
人体製作品では首が折れても手が折れても、足が折れても、立派な作品として受け取れるだけの塊が無くてはならない。

要するに、
彫刻に取って最も大事なことは、
第一に塊(masseマッス)、
第二に動き(movementムーヴマン)、
第三に力(Forceフォルス)だ。

この三つが、或るまとまりの中に渾然として流れてゐなくてはならぬ。

ところがこれは、永い問の経験に待つ可きで容易に得らる可きものではない。

附記
以上で人体製作に就て私が言はねばならぬ事の大体を言ったつもりである。
詳細に就ては保田氏の書かれる所を読まれたい。
然し人体製作の実際にあたって尚他に知ってゐてよろしい事を二三列記して置く。




(A)心棒のこと

人体製作では最初には、等身よりも三尺から四尺位のものを作るがよい。
大きなものを作る場合には心棒は当然それに順じて、しつかりした大きな材料を使ふべきである。
立像などの心棒は、下肢の部分に少し余裕を見て置かなければならぬ。
と言ふのは、製作の進行とゝともに、下肢はよく予想よりも伸びがちのものであるからだ。
それから台になる土の部分の余裕を見て置かなければならぬ。

それから心棒を作る場合に、これから製作しようと言ふモティーフを考へて、それによく適合した心棒を作ること。

即ち、これから作る人体が、例へば非常に、ほっそりしたものであるなれば、心棒も細く作って、既に心棒の時から、製作の完成の時の感じを現はして置く。
さうしないと細い人体を作るのに太い心棒を入れてやると、最初心棒の感じから負かされてしまって、最初のモティーフを忘れて了ふ事がある。
反対に太い頑丈な形を作る場合には、これと反対に太い頑丈な心棒を作って置く。
モデルのムーヴマンを考へた上で、心棒が土の外にはみ出さぬ様に、ぐれぐれも注意して、あらかじめ心棒を作ると言ふ事は、頭像の場合でも言った通りである。


(B)比例

練習を経た作家の眼は、モデルを見て直ぐに、モデルの各部のプロポーション(比例)を見る事が出来る。
そしてそれを製作に取り入れて行く事が出来る。

然し、
これは最初からは困難なことであるから、比例尺を使用するのも練習の一方法としては無駄で無い。

(而し、比例尺を常に用ひよと、進めるわけではない)

就中、比例尺は、小さな雛形を大きなものに引伸ばす場合にも、又同様に大きなものを小さなものに縮める時にも重要なものである。

比例尺を極く簡単に言へば、写真の引伸し法と同様である。
例へば高さ一尺の立像を一丈に引伸ばす場合には、一尺の像の上端から二寸なら二寸の所が陳の線であったとすれば、これを引伸すと一丈のものでは上端から二尺の所が陳の線になるわけである。
この要領で、各部を計って、それを同じ比例でうつして行けばよい。

(比例尺の作り方)

 1、一枚の板の上へ一つの水平線を引く

 2、モデルの全身長の半分を測る、此コンパスの尺を水平線の上に移して之を「イ、ロ」とする「イ、ロ」を半径とし「イ」を中心として「ロ」を過ぎる弧を画く。

 3、製作の高さの半分を測る
「コンパス」の一脚を「ロ」 に置き他脚で弧を画いて前の弧を交はらして一点を得る。

 4、「イ、ハ」を直線で結ぶ、
そこで比例尺は出来たのである。
「モデル」の尺を測ったら「イ」を中心として其コンパスで二つの直線「イロ」「イハ」と交はる弧を画く一つの交点と他の交点との距離が求むる所の比例尺である。



(C)力の中心

モデルを見る場合に、そのポーズのフォルスの中心を見のがしてはならない。
例へばモデルが片足で全身を支えて立ってゐる場合があれば、そのポーズでの運動の中心は、その片足にある。

遊脚には運動の中心は無い。

また、しゃがんでゐるポーズのヴォリュームの中心は腹の辺にある。
このヴォリュームの中心をよく観察した上で製作にかからぬと、美しいムーヴマンは取れぬ。
フォルスもヴォリュームの関係で出来る。

(D)モデルのこと

それからモデルは生きた人間であるから、長時間やってゐると疲れる。
疲れると、どうしてもポーズは乱れて来る。
だから短時間づゝやったがよい。
しかも短時間づゝやっても、そう一度々々すっかり寸分たがわぬポーズの取れる筈は無いから、最初自分が「ここだ!」と思って受けた印象とポーズを忘れぬ様につねに頭に置いて進むがよい。
即ちモティーフを見失はぬ様にしなければならぬ。




(E)さげふり

モデルを観察する限を正確ならしめるために便宜上「さげふり」を使ってもよい。
然しこれは、あまり使ひ過ぎると、それからしばられてしまって、窮屈になるから注意すべきである。


(F)「土で消す」と言ふこと

この事は製作に次第に苦労が積んで来れば解ることであるが、
例へば、 モデルを見て、
腋の下が空虚である処を、製作の上では土を埋めたり、土を余分につけたりする場合がある。
何故さうするかと言へば、
作品全体としてのマッスを、強固に現はすがためである。

たとへば、ロダンの彫刻などで、人が上方に両手を突出して、握り合してゐるもの等がある。
そんな場合よく手首と手首との問が土で埋まってゐたり、モデルに無い余分な土がついてゐることがある。

これ皆全体としての安固なマッスの感じを無くすまいがためである。

(G)立像のムーヴマンを見る場合

一例をあげる。
此処に一方の足で立った立像を作るとする。
そのモデルのムーヴマンは勿論作家が限で見たばかりで理解すべきであるが、便宜上「さげふり」を用ひて見る。
「さげふり」の絆の端をモデルの胸骨の上窩にあてると、大概の場合釣玉は支脚の脛骨の内踝にあたりに落ちる。

もっともこれは基本的なポーズであって、このポーズからすべての運動が起る。
だから心棒を作るにはそれを心得て、正確にムーヴマンの中心になる様に(心棒を)作らねばならぬ。


(H)解剖学的知識の利害

解剖学のみでは、芸術作品は出来ない。
しかし人体は解剖学に依って理解を深められるものである。

解剖学は人体の形の一般の規則を教へるもので人体構造の抽象的な規則が解剖学である。
しかし個々の人体個々のモデルは、その抽象的な規則を内に含みながらもしかもそれ独特の個性的な要素を持ってゐる。
言ひ換へれば解剖学的の規則無しには如何なる人体も存在し得ぬが、個々の人体はその規則のみでは成立ってゐない。
解剖学と個々の人体との相異は、抽象的観念と、具体物質との相異である。
つまり、 解剖学のみの人体は存在しないが、しかも解剖学の無い人体は存在しない。
それ故に、人体を理解し、観察の眼を鋭くするために入って、解剖学でも必要あるに相異ない。
しかし、解剖学だけでは、これまた不可である。

つまり解剖学を知って居れは、人体が複雑なポーズを採った場合などに、表面の筋肉だけに迷はされずに、内部にある骨格や筋肉がどうなってゐるかを理解してゐるために、安心して確信を以て製作する事が出来るのである。
無論解剖学に全然たよってはならぬ。これはあくまでも一つの手段である。

解剖学を知って居れは、モデルが如何なるポーズや形を見せても、そのポーズや形の依て以て生ずる理由を了解することが出来るから、製作の上に明暗や活気を思ひ切って與へることが出来るのである。

例へば、人体の胸部は、胸骨が有って鎧の様に内臓を包んでゐて、これは運動に依って変動することが無い。
又、腰部は骨盤で以てしっかりと出来てゐる。
胸部と腰部との間の腹部は骨が無くて、すべて柔軟な脂肪質と筋肉であって、人体が運動する時には堅い胸部と腰部と対照して、面白い美しい変化を生ずる。
と言ふ様な事を知ってゐれは、製作の上で、非常な利益を受ける場合がある。

英国大英博物館にあるギリシャのイリサス河神像を見ても、腹部と胸部の変化が実に美しく現はされてゐる。


矢張解剖の知識が有つて、変化の美を人体に興へる自由自在であったために、あの様に美しい作品が出来たものに相違ない。

人体の骨格にも、筋肉にも、その理論がある。
この理論が即ち解剖学である。
モデリング(modelling)の面白さや技巧も、人体の皮下にある。
解剖学的な原理をよく知り抜いてゐると、ただ漠然とやる時よりも、倍加される、 人体製作上の知識として最も重大なる解剖の知識は、骨格に就いてゞある。
と言ふのは、筋肉は脂肪を附随してゐるから、個々人に依っての変化が多いが、骨格は一切そんな事が無いのである。
又、 骨格は人体運動の基礎になるものだからである。
即ち彫刻に取って大切なムーヴマンの第一の基礎になるものだからである。

骨格に次いで重大なのは筋肉なのは無論であるが前にもちょっと言つたと憶へてゐるが、 筋肉の谷と言ふこと、筋肉と、筋肉との接続の面其他を解剖を研究して知って置くと、自信ある土附けが出来て、自由自在にモデリングの愉快さを便駆することが出来る。

解剖を知らないと、皮膚上の面の運動を明敏に視て取ることが出来ない。
たとへ視て取り得たとしても、これに活気を與へる事が困難である。
その原因を知らぬからだ。
従って、面と面との谷、或ひは面の傾斜に適当な加減を加へて、作品の調子を強める事も出来ない。
そして この調子を強めると言ふ事は、作品の単調を破る唯一の道である。

然し、再三言った通りに解剖は一度知って忘れられなけれはならぬ。
解剖からばかり支配されたゐることは愚である。
作者は理論で製作を作ってはならぬからだ。
又、実を言へば、理論だけでよい作品が作れる道理も無い。

解剖学は、あくまで製作を助けるもので、最も重要な事は解剖学以上のものである。
この本末顛倒してはならぬ。

如何に解剖の知識を応用取捨して、製作に役立てるかと言ふ事は、一つに作家の考へにあるのだ。

解剖に就ては、紙数の制限があるから、詳細は述べない。各自諸君がよく研究考察した上で、過誤に陥らない様に進んで行かれたい。

尚解剖に就ての参考書としては、次ぎに列挙して置く。

久米桂一郎先生、森鴎外先生共著
「芸用解剖学」
芸用解剖学
芸用解剖学

ランテリー著「モデリング」
モデリング表紙
モデリング

この他に
櫻井常次郎著
「芸用解剖学」




終篇

全章に述べ来った事によって諸君は彫塑は粘土で作りあげた自然の模写ではない、粘土は仮体であって、其内容の大切な事を理解になった事と思ふ。
論議は、成る丈け技法よりも内容に重きを於いて書いた積もりであったが、充分に述べられなかった事を遺憾とする。
そして彫塑は文学でも詩でもない、彫塑は彫塑として独立して、生きて行かなければならぬ事を、特に云って置きたい。
其内容のもり方に、光線或は製作室、彫塑台、ヘラ、等製作をするに便益な方法を大体に於てお話したのに過ぎない。
そして技術に関した事はとても筆では説明することは無理であって、矢張り技術は目で見て獲得するもので理論のものではない。
技術は自分に工面して如何にして製作するか、それ等の製作の方法は各自の考へによって作り出していゝので、其中心精神即ち内容を如何に含蓄させるかが問題なのである。

製作は自分自身に求めるものであって教へられるものではない。

以心伝心のものである。

其は 自分自身の個性に相待って出来上る と云ふ事を考へなければならぬ。

彫塑は絵画と比するに、割合組織的のもので、絵画は平面に実物を或方法(遠近法)等で現はすが、 彫塑は、省略しつゝも、或実体の如きものを、空間に存在させるものである。
それ故に 一つの個体 と云ふ事に就て考へなければならぬ。

つまり組織と云ふ事をゆるがせには出来ない。
それと同時に其個体が持つ内容、つまり精神と云ふ事を考へなければならぬ。

幾度も、内容とか精神とかに就て、抽象的にお話したが、それは説明する迄もなく、各人の全生涯が製作にもられるもので、 其の時代の精神は、其の作家を通じて作品にもられるものと考へていゝのである

例へば、人の言葉の如く、人各異なって居る言葉を持つて居る、 其言葉は色々の形ちとなって、製作に織り込まれて行く と云ふ様に考へても差支へないのだから、作品は方法を決して選ばない。

ヘラは何の必要もない。
心棒は土を支へる丈けで澤山だ。
唯精神をもる方法として便益な事を述べた丈けで、或場合に於ては 只一塊の粘土丈けでそれでもいゝ と云ふ事を考へて貰ひたい。

海鳥を射る


私の述べ来った事は、紙数にも限りがあつた為に、細かき技法の事に就ては、述べる事を多少省いて、少しでも彫塑と云ふ事に触れたいと思った。

技法の事に就ては、諸君各自に工面して諸君の精神を丸出しとするのに、よりよき方法をとって貰ひたい。

尚内容の点は、生活其自身が内容をもり立てると云ふ事は、或一面から云へば
「芸術は遊戯ではない生活だ」
と云ふ事が出来るので、
其内容を次第に含蓄させる事は、
とりもなほさず、各自日日の生活の充実によってもり上るもので、
それが次第に積り重なって、芸術の魂となると云ふ事を考へて貰ひたい。

御互に自省して、「 芸術、即生活」 と云ふ境地に迄、
諸君と共に、研究して行きたいと思って居る。






















文章、不完全で読みにくかった事と思ふが、講座が終篇になり、
時日も迫って来たので、
言ひ残した内容と云ふ事に就て、
之を述べ諸君と此講座のお別れをする事にする。


ミケランジェロ
ロンダリーニのピエタ


彫刻は建築である。

彫刻家の姿勢、
決して倒れない強固な感じを、とらまえることだ。
自分の眼前に見えてゐる実在から、真実なものを掴むこと。

骨格は彫刻に取って大切なムーヴマンの第一の基礎。
解剖学のみの人体は存在しないが、しかも解剖学の無い人体は存在しない。

彫刻製作の態度、
全体のムーヴマン(movement)。
そのシルエット(Silhouette)と、
サンプリシテ(Simplicite)を追求することである。

人体を製作するには、人体を見るに一個の塊として見て作らねばならぬ。

人体においては、
この人体各部のヴォリュームの比較対照、
又は釣合を見ると言う事は、
非常に大事な事であって、
これは作家が当然踏まなければならぬ製作順序である。

人体を、
単純な明確な面に見て進む。

面を見て行きながらも、
シルエットやヴォリュームの事を忘れない。

彫刻にとって最も大事なことは、
第一に塊(masseマッス)、
第二に動き(movementムーヴマン)、
第三に力(Forceフォルス)だ。

空間の重力と人体の重心の釣り合いの形を見ること。






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