凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

2016.06.13
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カテゴリ: 矢延平六
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墓所聞書7


矢延平六の墓所についての聞き書き
南正邦
歴史民俗協会紀要
平成一八年

1、はじめに

江戸時代の水利技術者、矢延平六の名前はひょうげ祭りなどで広く知られています。
しかし、その墓所については、まったく知られておりません。今回初めて、ご子孫の方から直接墓所についておうかがいする事ができましたので、ここに報告い


2、南久榮の矢延平六調査

私の母、南久榮は矢延平六を調べ、昭和五九年に自費で「人形の里」を出版しました。

人形作家で香川町浅野出身の母は、香川町役場から人形でひょうげ祭りを再現するように依頼を受け、制作の参考にと、矢延平六を図書館で調べました。しかし人物像がはっきりしていない事がわかりました。

そもそも、矢延平六は当時の文献には、ほとんど記されておりません。
松平家登仕録には「矢延庄兵衛、初め平六郎、天和元年酉(一六八一)改め庄兵衛」とあり、その延宝七年(一六七九)の記述の後「以後の成り行きは知らず」とされています。

綾歌町仁池の碑文では「初代松平頼重公に従って常陸下館から来て、数々のため池を作った」とあり、仁池を「必要以上の大きなため池を作り、藩に多大の出費をさせた」という理由で牢人になったと記されています。

香川町新池のひょうげ祭りの伝承では、「新池が高松城を水攻めにするとの、讒言で罪になり、阿波に追放された」とされています。

高松藩に貢献した割には不遇の人物です。

また讃岐香川郡志では、「三谷の犬(いん)の馬場に矢野部平六が住んでいたとされ、新池を築き、ゆるぬきの一番水は、池から最も遠い水すその三谷に配水する習慣となり、浅野村の人は三谷の矢野部氏を尊敬していた」旨が記され、矢野部の墓が三谷にあると言われていました。

母が、その墓を調査にいくと「地元では矢野とは言うが、矢野部とは言わない」。その通り、墓の拓本を採ると「矢野」と書いてありました。

後に矢野氏の子孫がわかり、古文書を見せて頂き、その中の戒名と墓の戒名が一致しました。



免場の矢野と技術者の矢延(ヤノベ)とが混同され、誤って矢野部(ヤノブ)と書かれていた事が判明しました。


また追放先の徳島県美馬町では「讃岐のヤノブへ六」が作ったと伝えられている坊僧池がある事を紹介し、仁池には矢延平六を祭神にした飛渡(ひわたし)神社 があり、白鳥には宮奥池を矢延平六が作ったという伝承が残っている事、満濃町土器川の岩肌に「天和二壬戌暦五月上旬此井出成就、矢延可次刻」の文字がある 事を紹介しています。

矢延平六は晩年、綾歌の富熊で亡くなられ、現在は中尾、飛渡、十河の家がそれぞれ矢延平六を祖先としている事を紹介しました。

十河家で飛渡神社の由来所と仁池委細書の巻物が、中尾家でその原本の古文書と矢延平六の位牌がまつられている事を書いています。

この本が縁で、母は仁池の飛渡神社の遷宮落成、新池の高塚山(たこづかやま)の新池神社修復に参列し、昭和六十年に仏生山法然寺で矢延べ平六没後三百年法要を執り行いました。





この本が書かれてから二十一年。
母の矢延平六の子孫の調査には確たる証拠がないと、矢延研究から遠ざけられ、未だ伝説の人物と紹介されている事について憤りを感じました。

そこで私は、母と一緒にこれらの三つの家を訪問して、確認して参りました。

一軒目が矢延平六からの代々の位牌が祀られて、古文書が伝わっている「中尾家」。
二軒目が矢延平六関係の古文書を所蔵している「十河家」。
三軒目が矢延平六を祭神とした飛渡神社に縁の深い「飛渡家」。

まず、中尾家です。当主の中尾信一氏にご案内をいただきました。

ここには昔から伝わる漆塗りの矢延平六の位牌がまつられています。

表には「法号釈仁厚恵善芳居士」裏には「貞享二乙丑年 七月朔日没 矢延平六叶次」。

また、この中尾家には享保十五年戌年(一七三〇)に孫の金平によって書かれた文書が残されています。

ここには、「飛渡神社の祭神である矢延平六が松平頼重公に仕え、常陸(茨城県)下館より高松へ国替えの寛永十九年(一六四二)に頼重公に従って来た事」などが書かれています。

またさらに「仁池の大きさや資材の量、藩に負担をかけ過ぎ多大の出費をさせた罪で阿波へ移り住み、再び戻り貞享二年(一六八五)七月一日、七十六歳で病没した事」が書かれています。


二軒目の十河家には、三本の巻物が残されています。

十河秋雄氏にその巻物を見せていただきました。

その内の一本は中尾家の文書を書写したもので、二本目は明治期に「矢延平六が飛渡神社祭神とする勅令が下りた」旨の内容。三本目は過去帳になっています。


三軒目の飛渡家は、飛渡神社を新しく移築し、先年お亡くなりになられた義孝氏の息子さんがいらっしゃいましたが、「あまり歴史には興味がなく、みなさんの方がよくご存知ですので教えてください」とおっしゃられていました。



4、ここが矢延平六の墓所

後日あらためて中尾家に、矢延平六の墓所についてお伺いいたしました所、親切にご案内くださり、興味深いお話をいただきました。

富熊小学校を南に見下ろす小高い山に、代々伝わる中尾家の墓所があります。

昭和五十五年、中尾氏が家を新築する際に、菩提寺の助言によって、ご自身で中尾家の土盛の墓所を改葬し一基の石の墓にまとめられました。


以下は、中尾氏よりその時うかがったお話の要点です。

「この場所は、見晴らしがよく平六さんが作った仁池の堰堤、象頭山までもよく見渡せます。
改葬するまで、ここは畑のような盛り土の棟続きの土葬墓でした。毎年竹筒を切って花立にしてお参りをしていました。

墓を改葬するために、その盛り土を掘り返したところ、丸石が点々と十個ほど並んで埋まっており、それぞれの石の下から人骨が沢山出てきました。遺体は木の桶に入れられていたのでしょうが、桶は腐って残っていません。古銭や遺髪、カンザシも出てきました。

人の上に人を重ねるように埋葬されているような状態でしたので、どれが誰か特定できるようなものではありません。

横にはまだ掘り返していない土盛りがありますが、ここは棟続きから離れて、隔てられた様に作られておりますので、事情のある墓でしょう。

この土盛りも、もともとは丸石も見えないくらいに土が盛られてておりましたが、雨であらわれて石が出てきました。

ここの間に遠くからでも見える大きな立派な松の木が植えられておりました。でも近年松食い虫にやられて切り倒しました。

中尾にある位牌の人は全てこの中尾家の土盛りに葬られておりますので、平六さんもこの土盛りから出てきたお骨の中の一体だと思っております。

でも、埋葬者が沢山ありすぎて、この新しい墓石には誰の名前も刻んでおりません。

上に飛渡家の墓所がありますが、ここより後から開かれたものです。

飛渡家の墓所には、飛渡義孝さんが生前「飛渡家家系譜」の石碑を残され矢延平六の戒名を刻みました。

でも位牌は中尾家にありますので、いずれ矢延平六さんのお名前は、中尾の墓に刻んでおかねばと考えております。」

と語っておられました。



5、飛渡家家系譜の誤り

改めて「飛渡家家系譜」を見直すと、矢延平六の戒名と没年に誤記がありました。

「家系譜」の戒名には「芳」の字がなく、没年が「貞享元年」になっています。

これは位牌にある「芳」に相当する文字が読みづらく、十河家文書でも平六の戒名から、「芳」の文字が抜けている箇所がありますから、そのまま参照したのでしょうか。

また没年が違っているのは「二乙」が「元」に読めたのでしょう。

また行年が「七四歳」になっています。

中尾家十河家に残されている文書でも平六は七六歳で病没したと書かれているのに、満年齢に数えなおしたのでしょうか。

中尾家、十河家文書は、昭和五年に綾歌郡出身の学習院大学の漢学者、古川喜九郎によって調査され、これが仁池の堰堤に「飛渡神社碑文」として刻まれました。


6、なぜ矢延平六は追放されたのか


松平頼重公当時の高松藩内では、わが国初の本格的都市上水道が整備されました。
推定ですが、時代的、技術的に照らし合わせてみても矢延平六が、この事業の中心に参加したと思われます。

しかし、この高松藩には、前の生駒家に仕え伊賀に帰ってもなお影響力を持つ水利技術者、西島八兵衛から学んだ、普請に強い企画力を持つ者がいたのではないでしょうか。

池や上水道を作る高い技術が必要な時は矢延を登用し、工事が完成すると逆に派閥の影響力に支障をきたす為、罪をでっちあげ平六を追放したのではないでしょうか。

いずれにせよ、墓所をきっかけに、水利技術者としての矢延平六が正しく顕彰される事を願っています。











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Last updated  2016.06.13 17:40:11
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