凡声庵閑話:南正邦の覚え書き Minami Masakuni

2016.07.25
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カテゴリ: 矢延平六
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南正邦
夫留佐土51号
平成17年3月発行


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高松藩の河川計画を推察
南正邦

香東川は、紫雲山麓西側を流れて瀬戸内海へと注いでいますが、江戸初期の頃までは大野村から東山に分かれて流れていました。
その流れを変えたのは、生駒公時代(一六三一頃)の水利技術者の西嶋八兵衛です。
今回はその香東川の「東分流」と、さらに詰田川から高松港の河川計画を推察L





まず図1です。明治三十四年の測量図から川筋を辿ってみました。
香東川が分離された付近から戦後に分離記念碑の「大禹謨(だいうぼ)」が倍発見され西嶋本人の筆のものと認められています。
その香東川東分流筋は、現在の御坊川とほぼ一致すると言われています。
現在の御坊川は地図のように詰田の河口にて合流しています。
その詰田川の上流は春日川から分岐していて、古川が三谷池から流れてその合流地点に向かって注ぎ込んでいます。




図2は「讃岐一国密図」と呼ばれる地図をトレースしたものです。
西嶋の頃から百年後の一七一〇年頃に描かれたと推定されていますが、この図から川筋をたどってみました。

 詰田川が三谷池を源流としてまっすぐ林村と六条の間を流れていますし、古川がありません。
また香南川が臼井付近で東何に分流して描かれています。
御坊川の河口では、二股に分かれて、詰田川に合流する筋と高松城と沖松島の





これを明治の測量図の中に書き込んでみたのが図3です。
香東川が二股にわかれた地点を臼井付近の大野石清尾八幡神社西と推定しました。
また御坊川の直線筋との分岐点を、現在の高松一高東側の「楠川橋」付近ではないかと考えました。
また詰田川も林と六条の間の用水路から流れをつけてみました。




次に図4は、「讃岐高松城下絵図」(一八四五頃)の水路をもとに作成した図面です。

延長上に川筋があったと推定してみました。



「大野録」の記述によると、「香渡川は、寛永の頃まで大野郷の西より二またにわかれ、一筋は一の宮、坂山の郷を経て室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、糸が浜の四に入れり」とあります。
私はこれを霊源寺池から西浜港へ続く川筋があったと仮定しました。




図5は、これを図3の上に重ねて旧香東川の東西分流を考えてみました。
これが西嶋八兵術が工事をする以前の姿と想像します。
この図から現在の鶴尾中学校付近で川をせき止める人きな工事がなされたのではないかと思われます。




次に図六では、現在の川筋と昔の推定川筋から、埋められた川を白地に点線で、掘られた川と推定される川を四角い破線で表現しました。

川は最短距離で海に流れようとします。しかしそれでは周辺の田畑に水を送り出すことができません。

そこで高松藩は配水経路が広くなるように詰田川の小直線の川筋を埋めて、春日川から斜めに掘り平池から春日川までこれも斜めに人工的に掘ることで新田開発をしたのではないかと思います。
また杣場川、につながる川筋は高松城下の利水の他に、外周の堀の役目を果たし
ているのではないかと考えられます。
そうすると古川も防衛ラインの一部とも考えるのは早計でしょ
うか。



 市外の歴史愛好者が勝手に思い付きで言うことです。識者の御意見をお付いしたいと思います。




 (参考 特別展「高松城と栗林公園」高松市歴史資料館、藤田勝重「栗林公園」、中西勉「造園史」)





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Last updated  2016.07.25 17:10:05
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