趣味の漢詩と日本文学

趣味の漢詩と日本文学

October 10, 2016
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カテゴリ: 学習・教育
【本文】右京の大夫宗于の君の家には、前栽をなんいたう好みてつくりける。女郎花・菊などあり。この男のもと(「もの」?)へ行きたりける間をうかがひて、月いと明かりけるに、女房集まりて、群れてこの前栽を見歩きて、いと高き札に歌をかきつけて、その花の中に立てける、
きてみれば 昔の人は すだきけり 花のゆゑある 宿にぞ有りける
【注】
・「前栽」=庭先の植え込み。
・「女郎花・菊」=オミナエシとキク。いずれも秋の花。オミナエシは萩・桔梗・尾花・撫子・葛・藤袴と並ぶ秋の七草の一。
・「すだく」=集まる。
・「宿」=屋敷の中庭。庭先。
【訳】右京の大夫宗于様の家には、前栽をとても情緒たっぷりに配置していた。女郎花・菊などが植えてあった。この男がどこかよそに行っていたすきをうかがって、月が非常に明るかったときに、女房たちが集まって、集団でこの前栽を見て歩きて、とても高い立て札に歌をかきつけて、その花の中に立てた、その立札の歌
やってきてみると、昔なじみの人たちが、多くあつまっていたことよ。花が風情たっぷりに咲いている屋敷の中庭だったわ。




我がやどの 花は植ゑにし心あれば まもる人のみ すだくばかりぞ
と書き付けたりける、さて、もし取る人もやあるとうかがはせけるに、一夜二夜来ざりければ、たゆみてまもらざりける間にぞとりてける。口惜しくえ知らでやみにけんかし。
【注】
・「AもやB」=AがBだと困る。
・「まもる」=見張る。
・「たゆむ」=怠る。油断する。
・「え~で」=~できないで。
・「やむ」=そのままになってしまう。
【訳】こんなふうだったので、男は相手が誰だともわからなかったが、またやってきて花を摘み取ったりすると困ると立札に書いて立てておいた、その歌、
私の家の中庭の花は、植えた際に気持ちがこもっているから、見張り番だけが警戒して集まるだけだ
と書き付けておいた。そうして、万一とる人がいたら困ると思って、使用人に様子をうかがわせたところ、一晩か二晩は来なかったので、油断して監視しなかったすきに取ってしまった。無念にも犯人が誰か知ることもできずじまいになってしまったのだろうよ。



時雨ふる 時ぞ折りける 菊の花 うつろふからに 色のまされば
とて奉れり。悪しも良しもえ知らず。
【注】
・「仁和の御門」=宇多法王。第五十九代の天皇。亭子院のみかど。菅原道真を重用し、藤原氏の台頭を抑え、政治刷新に努め、寛平の治と評価された。『古今集』以下の勅撰集に十七首入集。初段に既出。
・「召す」=お呼び寄せになる。

・「かしこまる」=命令を慎んで承る。
【訳】また、この男を、宇多法皇がお呼び寄せになった。「仁和寺の御室に植えさせるつもりなので、風情ある菊を献上せよ。」とお命じになった。承知して退出いたしたところ、再度およびもどしになって、「そのほうの献上の菊に名を付けて参上しないなら、帝はお納にならないだろう。」とおっしゃったので、承知して退出して、菊などを調達して献上した。
時雨がふる時に折ったことだ菊の花は 色が変色するにつれて色が濃くなるので
と歌を作って添えて献上した。歌の評価の悪い・良いも理解することができなかった。


【本文】又、この男の許に、国経の大納言のもとより、いささかなる事の給ひて、御文をぞ給へりける。御返事きこゆとて、おもしろき菊につけたりければ、いかが見給ひけん、かかる歌をよみ給ひける、
(   )この部分 和歌が欠落

とて有ける、この男驚きて、とかくおもはば、程経へんに、かの御使ひの思ふ事もあらんとて、ただとくぞ、ふと走り書きて奉れりける。
花衣 君がきをらば 浅茅生に まじれる菊の 香にまさりなん
【注】
・「国経の大納言」=藤原長良の長男。二条の后の兄。六段に既出。
・「おもしろし」=美しい。風情がある。
・「花衣」=華麗な衣。
・「浅茅生」=丈の低いチガヤが生い茂ってるところ。
・「ほどふ」=時間がたつ。
【訳】また、この男のところに、大納言藤原国経のところから、ちょっとしたことをコメントなさって、お手紙をくださった。お返事を申し上げるにあたって、美しい菊の花に手紙を添えておいたところ、どんなふうにご覧になったのだろうか、このような和歌をおつくりになった。
(    )
とお書きになっていた。
この男がびっくりして、歌を作るのにあれこれ考えていたら、時間が経過してしまうだろうし、大納言さまからの使者もどう思うかしれないと思って、ただ早く返事をしようと、さらさらと走り書きをして献上した、その歌、
美しい衣をおめしになっている大納言さまが拙宅へ来られて手ずから折りとりなさるのなら、浅茅の生えている粗末なうちの庭に混じって咲いている菊の香に比べて、きっとまさった良い香りがするでしょう。

【本文】この男、音には聞きならして、まだ物など言ひつかぬ所有りけり。いかでと思ふ心ありければ、常にその家の前をわたる。
【訳】この男が、うわさには常々聞いてはいたが、まだ恋心を打ち明けていない女性がいた。なんとかして言い寄ろうと思う気持ちがあったので、常にその女の家の前を通る。

【本文】されど、言ひつく便りもなきを、灯などいとあかかりける夜、門の前よりわたるに、女どもなど立てり。
【訳】けれども、言いよる機会もなかったが、灯火などがとても明るかった夜に、門の前から通ってよりわたるに、女たちなども立っていた。

【本文】かかれば、馬よりおりて物などいひたりけり。いらへなどしければ、いと嬉しくて立とまりにけり。
【訳】こういう状況だったので、馬からおりて話しかけたのだった。相手の女も返事などしたので、とても嬉しくて立ちどまった。

【本文】女ども、「誰ぞ」とて供なる人にとはせければ、「その人なり」とぞいはせける。かかれば、女ども「音にのみ聞渡るを、いざおなじくは庭の月みん」とぞいひける。
【訳】女たちが、「どなたですか」といって、お供の人に質問させたところ、「だれそれである」と供の者にいわせた。こういうわけで、女たちが「うわさにだけはずっと聞いていましたが、さあ、どうせ同じことなら庭の月を観賞しましょう」と言った。

【本文】男、よき事とて、「いとうれしきおほせ事なり」とて諸共にいりにけり。
【注】
・「おほせ事」=お言葉。
・「諸共に」=そろって。一緒に。
【訳】男は、好都合だと思って、「非常にうれしいお言葉です」と言って、一緒に門のうちに入ってしまった。


【本文】さてこの男、簀子によびのぼせて、女どもは簀のうへに集まりて、いとあやしく音にのみききわたりつるを、かくよそにても物をいふ事ども、女も男もかたみにいひかはして、をかしく物がたりしけるに、女も心つけていふ事有りけり。
【注】
・「簀子」=廂の外に細い板を横に並べ、間を少しずつ透かして打ち付け、雨露がたまらぬように作った縁。縁側。
・「かたみに」=互いに。
・「いひかはす」=話し合う。
・「心つく」=ある考えや気持ちを持つようになる。
【訳】そうして、この男を、簀子に招き上げて、女たちは簀の上に集まって、とても不思議なことにうわさにだけ聞きつづけていたのに、こうやって物を間に隔ててでも、話ができたことを、女も男も互いに喜びあって、楽しく会話を交わしたので、女のほうも男に好意を寄せて話した。


【本文】男もあやしく嬉しく、かくいひつきぬる事と思ひつつ語らひをりける間に、「乗れる馬の放れて、いぬらん方しらず」といへば、「さればなの、ただかくれよ」といひて追ひ返してけり。
【注】
・「いひつく」=言って近づく。言い寄る。
【訳】男も不思議な気持ちで嬉しく、こんなふうに言い寄ったことだと思いながら親しく会話しているうちに、「乗っていた馬が離れて行ってしまい、どこへ行ってしまったかわかりません」と供の者が言ったので、「それがどうした、どこへでも姿を隠すがよい」と言って追い返してしまった。

【本文】それを女どもみて、「何事ぞ」と問ふ。「いさなに事にもあらず。馬なんおぢて放れにけり」と男答ふれば、「いな、これは夜ふくるまで来ねば、家刀自のつくり事したなむめり。あなむくつけな。はかなきあだごとをさへかう言はん家刀自もたらん物はなににかはすべき」と心憂がりさざめきて皆かくれにけり。
【注】
・「いさ」=いや、なに。ええと。
・「おづ」=恐れる。こわがる。
・「家刀自」=一家の主婦。イエトウジ・イエトジ・イエノトジなどとよむ。
・「むくつけ」=恐ろしい。
・「心憂がる」=不快に感じる。
【訳】それを女たちが見ていて、「何があったの」と質問した。「さあ、たいしたこともない。馬がこわがって逃げてしまった」と男が答えたところ、「いいえ、これは夜がおそくなるまであなたが来なかったので、奥様ががでっちあげたように思われる。本当にいやだわ。ちょっとしたたわいもないことをまで、こんなふうに。言うような夫人を持っているようなかたは、どうしようもないわ」と、不快に思ってざわめいて、皆姿を隠してしまった。


【本文】「あなわびしや。死なんや。もはらさには侍らずなん」といへど絶えてきかず。はては物言ひつかん人もなくなりにけり。居わづらひてぞ逃げにける。さてそのつとめて、時雨のふりければ、男、
 さ夜中に うき名取川わたるらん 濡れにし袖に 時雨さへふる
かへし、女、
 時雨のみ ふるやなればぞ 濡れにけん 立隠れたる ことや悔しき
といひたりければ、喜びてまた物などいひやりけれど、いらへもせず。言ふかひなくて、いはでやみにけり。
【注】
・「わびし」=困った。つらい。
・「もはら」=下に打消しの表現がくると、「まったく~ない」「けっして~ない」。
・「絶えて」=下に打消しの表現がくると、「まったく~ない」「けっして~ない」。
・「つとめて」=あることがあった翌朝。
・「うき名」=つらい評判。汚名。
・「名取川」=宮城県名取市を流れる川。『古今集』六二八番「陸奥にありといふなる名取川なき名取りては苦しかりけり」。和歌では「名取る」の意と掛詞になることが多い。「川」に対してあとの「わたる」は縁語。
・「濡れ」に対し「袖」は縁語。
・「時雨」=秋から冬にかけて、降ったりやんだりする小雨。涙を落して泣くことをもいう。「ふる」は、「時雨」に対して縁語。
・「時雨のみふるや」=「降る」と「古家」は掛詞。
【訳】男が、「ああつらいなあ。死んでしまおうか。けっして、そんなことはありません」と言ったけれども、女たちは全く聞き入れない。しまいには、話しかける人もいなくなってしまった。いたたまれなくなって、退散してしまった。そうして、その翌朝、時雨が降ったので、男が、
 ゆうべ夜中に憂き名を取る名取川を渡ったのだろうか、つらい思いをして涙に濡れた私の袖に冷たい時雨まで降りかかることよ。
その歌に対する女からの返事の歌、
時雨ばかり降りそそぐ古家だから雨漏りで濡れてしまったのだろうか、それともあなたの奥様のやきもちがいやで私が家に入って隠れてしまったことが悔しくて涙にぬれたのだろうか。
と歌を作って手紙に書いて送ったところ、男は喜んで再び歌など作って手紙に書いて送ったけれども、今度は返事もなかった。しかたがなくて、その後は相手に何も言わずじまいになってしまった。


【本文】又、この同じ男、忍びて知れる人有けり。久しくはあはぬ事などいひてやれりければ、「ここにもさなん。迎へに人をおこせよ」といひければ、いとをかしき友達をぞ率て行きたりける。友達、「送りはしつ。今かへりなむ」といへりければ、男「こよひばかりは、など、とまれ」といひければ、「あなむくつけ。こはなに事」をいふ物から、かかる歌をなんよみける。
 難波潟 おきてもゆかん 葦田鶴の 声ふりたてて いきてとどめよ
といへば、男
 難波江の 潮満つまでに 鳴くたづを 又いかなれば 過ぎて行くらん
といひけれど、「あなそら事や、露だにも置かざめる物を」といへど、又いかが思ひけん、その夜とまりにけり。さていかが語らひけん。
【注】
・「忍ぶ」=人目を避けて事を行う。特に、秘密のうちに恋愛関係を結ぶ。
・「知る」=つきあいがある。特に、恋愛関係にある。
・「ここ」=この身。私。
・「をかし」=容姿や態度などが魅力的だ。
・「むくつけ」=気味がわるく、いやだ。
・「難波潟」=摂津の国の海岸。古くから港として開けていた。港内にアシが生い茂り、澪標(=水路指導標)が立てられていた。和歌では「何は」と掛詞に用いることがある。
・「葦田鶴」(あしたづ)=アシの生えている水辺にいるツル。
・「ふりたつ」=大きな声を出す。
・「そら事」=うそ。いつわり。
【訳】又、この同じ男が、人目を避けて交際していた女がいた。長い間会わないことなどを手紙に書いて送ったところ、「私の方も、そう思っております。迎えに人をよこてください」と言ってきたので、男は非常に風流な友達を連れて行った。友達が、「送り終えたよ。もう私は帰ろう」といったので、男が「今夜ぐらいは一緒にいてくれ。どうしてすぐ帰るなんていうのだ。泊まっていけ」と言ったところ、「ああいやだ。これはいったいどういうことだ」と言って、こんな歌を作った。
 難波潟に君を置き去りにして行こう。難波江のアシのあたりで群れいるツルのように声をあげて、引き留められるものなら去私がるのを引き留めてみなさい。
と言ったので、男が
 難波江の海岸に潮が満ちるほど泣いて涙に袖がぬれている私を、君は、また、どういうわけで無情にも そしらぬふりで帰っていくのだろう。
となんとか引き留める気持ちを歌に作ったけれども、友達は「ああうそっぱちだなあ、露ほどの涙も目に浮かべていないように見えたのに」といったが、また、友人のほうも、どう思ったのだろうか、その夜は泊まったのだった。そうして、どんなことを話したのだろうか。

【本文】又、この同じ男、親近江なる人に忍びてすみけり。親、けしきを見てせちにまもり、日暮るれば門をさしてうかがひければ、女物思ひ侘びてのみあり。
【注】
・「親近江なる人」=親が近江の守の任にある女性。
・「すむ」=男性が結婚して、女性のもとに通う。
・「けしき」=視覚でとらえたようす。
・「せちに」=ひたすら。
・「まもる」=見張る。『伊勢物語』五段に「その通ひ路に夜ごとに人をすゑてまもらせければ、行けども、えあはで帰りにけり」。
・「さす」=閉ざす。
・「うかがふ」=ようすを探る。
・「物思ひ侘ぶ」=物思いに悩む。
【訳】また、この同じ男が、親が近江の守である女性のところに人目を避けて通っていた。親が、娘のところに男が通ってきているのを目撃して厳重に見張った。日が暮れると門を閉ざして様子を探っていたので、女は物思いに悩んでばかりいた。

【本文】男もあふ夜もなくて、からうして、「築地をこえてなむ来つる」といはせけるに、伝へ人のもとに寄りて物いひけるけしきを親みて、いみじくののしりければ、「いな、けしき取りつればあふべくもあらず。早う帰られね」といひいだしけり。
【注】
・「からうして」=やっと。ようやく。
・「築地」=柱を立て、板を芯として泥で塗り固め、屋根を河原で葺いた垣。土塀。
・「伝へ人」=伝言をつたえる召使。
・「物いふ」=言葉を話す。
・「いみじく」=たいそう。
・「ののしる」=声高に悪く言う。口汚く言う。『大和物語』六十三段「親聞きつけて、ののしりて、会はせざりければ」。
・「早う帰られね」=早く、お帰りなさいませ。
・「いひいだす」=室内から外にいる人にことばをかける。
【訳】男も女と逢う夜もなくて、やっと、「築地をこえてやってきたよ」と召使に言わせたところ、伝言をする召使のそばに近寄って話しかけているようすを親がみて、ひどく口汚く言ったので、「いいえ、わたしたちの様子に気づいたので、逢うことはできません。早くお帰りなさいませ」と部屋から外にいる男に伝言した。

【本文】男、「いで、大かたはなどかうしもはいふべき。ただ入りなんよ」とぞいひたりける。「行先をも、なほわれを露思はば、この度ばかりは帰りね」と親に怖ぢて切にいひいだしたりける、「いとかういふ物を。よし、此度ばかり帰りなん」とて、かくいひいれける、
  みるめなみ 立ちや帰らん あふみぢは 何の浦なる うらと恨みて
(返し)
  関山の 嵐の声の あらければ 君にあふみは 名のみ成けり。
 かかれば、男いらへをだにせずなりにけり。なに事にも物たかき人にもあらず。親のかくにくげにいふをめざましきに、女は親につつみければ、さてやみにけり。
【注】
・「いで」=否定や反発の気持ちで発する語。いや。
・「大かた」=改めて言い出すときに用いて、そもそも。いったい。およそ。
・「行先」=将来。
・「なほ」=まだ。
・「怖づ」=恐れる。こわがる。
・「みるめなみ」=「見る目」と海藻の「みるめ」を言いかけた。
・「あふみぢ」=「会ふ身」と「近江路」を言いかけた。
・「関山」=逢坂山(滋賀県大津市)。大化二年(六四六)に逢坂の関が設けられた。東海道・東山道から京都への入り口であったが、延暦十四年(七九五)に廃止。和歌では「逢ふ」と掛詞に用いることが多い。
・「いらへ」=返事。をだにせずなりにけり。なに事にも物たかき人にもあらず。親のかく
・「にくげに」=憎らしい。不愉快だ。
・「めざましき」=気に食わない。
・「つつむ」=隠す。
【訳】男が、「いや、いったいなぜこんなことを言うのか。なにがなんでも入るよ」と言った。女が「将来も、まだ私を少しでも愛しているのならば、今度ばかりはお帰りください」と親に恐れてひたすら帰ってくれるように部屋の外に言って伝えた。「まあここまで言うのなら、わかった、今度ばかりは帰ろう」といって、こんなふうに歌を作って女の部屋に言い入れた。
  逢える見込みがないので立ち帰ろうかしら、逢う身という名の近江路とは名前ばかりで、ここは近江の何の浦なのかしらと恨みを残して
(男の歌に対する返し)
  逢う坂の関がある関山から吹くの嵐のように親の怒りの声が荒々しいので、君に逢う身という名の近江の守の娘だというが名前ばかりだなあ。
 こんなふうだったので、男は返事をさえしなくなってしまった。なに事にも物たかき人にもあらず。親がこんなふうに憎らしそうに言うのが気に入らないので、女は親に隠していたので、そのまま交際が途絶えてしまった。

【本文】又、この男志賀に詣でにけり。逢坂の走井に、女どもあまた乗れる車をおろし立てたり。男馬より下りてとばかり立てりければ、車の人、人来ぬとうてみてかけさせてゆく。男、かの車の人に、「いづちおはしますぞ」ととふ。「志賀へまうで給ふ」とこたへければ、男、車よりすこし立ちおくれゆく。逢坂の関こえて、浜へゆき下るるほどに、車よりかかる事をいひおこせたる、
  あふさかは名にたのまれぬ関水のながれて音にきく人を見て
 男、あやしと思ひて、さすがにをかしかりければ、
  名をたのみ我もかよはん相坂を越ゆれば君にあふみなりけり
といひやる。
【注】
・「志賀」=近江の国の瀬田川河口付近から琵琶湖西岸の中間ほどまでの地。西部は山城の国と接する。今の滋賀県滋賀郡および大津市の北部。ここでは大津にあった志賀寺。天智天皇の勅願寺で、のちに崇福寺といったが、平安時代末期に荒廃した。
・「逢坂」=滋賀県大津市にある山。
・「走井」=勢いよく水の湧き出る泉。また、流水を井戸水のように用いることのできる場所。
・「おろし立つ」=牛車のナガエをシジにかけてとめておく。
・「とばかり」=少しの間。
・「人来ぬとうてみて」=岩波書店の日本古典文学大系の注に「うて」は「こそ」の誤写かとするが、あるいは「人来ぬとうとみて」とすべきか。
・「かけさせて」=車に牛を取り付けさせて。
・「逢坂の関」=近江の国(滋賀県)大津市内にその跡と称えられているものがあって、そこに人丸神社、関の清水などがある。もとは近江と山城(京都府)との境にあって、京都から東国に往復する者の必ず通ったところである、これに美濃の不破の関、伊勢(三重県)の鈴鹿の関を併せて三関と称せられ、関所としては、最も有名であった。歌枕としても知られ、これを題材とした和歌は数限りもなく残っている(浅尾芳之助『百人一首の新解釈』「これやこの」注)。
・「いひおこす」=言ってよこす。
・「関水」=滋賀県逢坂の関付近にあった清水。
・「音にきく」=うわさに聞く。評判に聞く。
・「あやしと思ひて、
・「さすがに」=そうはいうものの、やはり。
・「をかし」=言葉のやり取りが優れている。
・「相坂を越ゆ」=山城の国から、逢坂の関を越えて近江の国に行く。また、男女が契りを結ぶこと。
・「あふみ」=「逢ふ身」と「近江」の掛詞。
【訳】又、この男が志賀寺に参詣した。逢坂の関の清水の所に、女どもが大勢乗っていた牛車をおろし立たせていた。男が馬から下りて、少しの間立っていたところ、牛車の女が、他人が来てしまうと嫌がって、車に牛を取り付けさせてうてみてかけさせてゆく。男が、その牛車の女に、「どちらへいらっしゃるのか」と質問した。「志賀寺へ参詣なさいます」と答えたところ、男が、車よりすこし遅れがちについてゆく。逢坂の関を越えて、湖畔にくだってゆくうちに、牛車からこんな事を和歌に作ってよこしたその歌、
「逢ふ坂」という名はあてになりませんね。関の清水のように勢いよく流れる、浮気っぽいと評判に聞くあなたを見て。
 男は、いきなりそんなことを言われて、不躾だと思って、そうはいうものの、やはり和歌の技巧がすぐれていると感じたので、
  「逢坂」の「逢ふ」という名をあてにして私もここへ通ってこよう。逢坂の関を越えると近江だからあなたに逢ふ身になれると信じて。
と和歌に作って言ってやった。

【本文】女、「まめやかにはいづち行くぞ」ととはせける。男、「志賀へなん詣づ」「さらば諸共に。我もさなん」といひて行く。うれしき事なりとて、かの寺に男の局、女のもおなじ心に住して、物語などかたみにおなじやうに思ひなして、言ひぞ語らひける。男の詣でたりける所より方塞がりけり。されば明日までもえあるまじければ、方違ふべき所へいにけり。「いのち惜しき事もただ行くさきのためなり」などいひて、されば女どもも、「なほあるよりは、いかがせん、京にてだにもとぶらへよ」といひて、百敷わたりに宮仕へしける物どもなれば、曹司をも教へ、人々の名をもいひけり。男、うちつけながら、いとたつ事をもがりければ、かかる事をぞいひたりける。
   立ちて行く ゆくへもしらぬ(平瀬本「ゆくへもしらず」) かくのみぞ 旅の空には とふべかりける
かくいひければ、
  かくのみし ゆくへまどはば 我玉は たぐへやらまし 旅の空には
とぞ有ける。又かへさむとしけるに、この男の許より、ものども、「方塞がれるに、夜明けぬべし」なんどいひければ、え立ちどまらで、この男は人のもとにいにけり。
【注】
「まめやかには」=実際には。
「諸共に」=いっしょに。
「我もさなん」=私も、ものもうでに行こう。
「局」=広間を屏風などで仕切った部屋。
「かたみに」=互いに。
「言ひ語らふ」=うちとけて語り合う。
「方塞がり」=陰陽道で、行こうとする方角に天一神(ナカガミ)がいて、行くことができないこと。
「方違へ」=陰陽道で、外出のときに天一神・太白神(ヒトヒメグリ)などのいる凶とされる方角を避けること。前夜、吉方(エホウ)の家などに一泊し、一度、方角を変えてから目的地へ行く。客を迎えた家では、もてなしをするのが通例。
いのち惜しき事もただ行くさきのためなり」などいひて、されば女どもも、「なほあるよりは、いかがせん、京にてだにもとぶらへよ」といひて、
「百敷」=宮廷。皇居。
「宮仕へ」=宮中に仕えること。
「曹司」=宮中や貴族の邸内に設けられた官人・女官などの個人用の部屋。
「うちつけながら」=偶然の出会いだったけれども。
「もがる」=いやがる。
【訳】女が、「実際には、どちらへ行くのですか」と召使に質問させた。男は、「志賀寺へもの詣でに参ります」と答えたので、女は「それではご一緒に。私も志賀寺へもの詣でにまいります」と言って一緒に滋賀へ行く。うれしい事だと思って、目的の寺で、男の部屋、女の部屋も、心を合わせて屏風で仕切って用意し、世間話などして意気投合して、お互いにうちとけて話し合った。男が参拝していた所から次の目的地が方塞がりの方角にあたってしまった。そういうわけで、明日までここにいるわけにいかなかったので、方違えできる知人の所へ行ってしまった。男は「いのちが惜しくて方違えすることも、ひとえに将来あなたと楽しく過ごすためだ」などと言って立ち去る、そういうわけで、女どもも、「やはり、こうしてここにずっといるよりは、方違えすべきです。しかたがありません、せめて京でだけでも再びお尋ねください」と言って、皇居あたりにお仕えしていた連中なので、割り当てられた個室をも男に教え、人々の名をも告げた。男も、偶然の出会いだったけれども、方違えに出発することを非常にしぶったので、次のような内容の歌を女にいった。ここを出発して行くその先の将来のことはわかりませんので、こんなふうに旅の途中ではお互い訪問するべきだなあ。こんなふうに言ったところ、
女が、こんなふうに、あなたが旅の途中でお迷いになるのなら、私の霊魂は、道中のあなたに添わせて一緒に行かせたいものです。
と言ってよこした。又、男が返歌をしようとしたが、この男の所から、召使どもが、「方塞がりになっているのに、夜が明けてしまいそうだ」などと言ったので、立ちどまることもできずに、この男は知人の所に行ってしまった。

【本文】さて朝に、車にあはむとて、はしに網引かせなどしければ、あひしれる人、瀬田の方に逍遥せんとてよびければ、そちぞ此男はいにける。その程にこの女内裏へぞまゐりにけるに、さて友達どもに、志賀にてをかしかりつる事なぞどいひいひける。それを、この男の、物などいひけるがいひやみにけるぞ、そが中にをりける。さてききてぞ、「たれとかいひつる、その男をば」といひければ、此又ある女のいひける、「いでかれはさこそあれ」といひて、「世になくあさましき事をつくりいでて」といひちらしければ、「いで、案内しらで過ぎぬべかりける。さらば、いとうき事にこそ有りけれ。もし人来ともゆめ文などとりいるな」とこの女にをしへてけり。それをば知らで、この男、かの瀬田のかたにて逍遥して帰りきて、かの内裏わたりに教へける程に、ありつるやうなど、この男いひやりたりけり。
【注】
「さて」=そして。
「瀬田」=今の滋賀県大津市瀬田。琵琶湖南端の瀬田川への流出口に位置する。古くからの交通の要地。「逍遥」=行楽。遊覧。気の向くままにあちこち歩き回ること。
「をかし」=風変りだ。
「物いふ」=親しく言葉を交わす。男女が情を通わせる。
「いで」=いやもう。
「世になし」=世にまたとない。
「あさまし」=おどろきあきれる。
「案内」=事情。
「うし」=つらい。
「ゆめ~な」=決して~するな。
【訳】そして、翌朝に、志賀寺から牛車で出てくる女に逢おうと思って、湖のへりで漁師に網を引かせなどして時間をつぶしていたところ、知り合いが、瀬田の方に遊山に行こうと呼んだので、そちらに此の男は行ってしまった。そうしているうちに、この女は宮中へ参上し、そして友達どもに、志賀であった風変りな出来事なぞをあれこれ話した。ところが、この男の、かつて言い寄ったりしていた女で、交際が途絶えていた女が、その中にいた。そうして、女友達の報告を聞いて、「誰といったっけ、その男は」といったので、此のもう一人の女が、「いやもう、あの人は、そういういい加減なことを言うのよ」と言って、「とんでもない、おどろきあきれるような口から出まかせを言ったりして」と、散々言ったので、「本当に、どんな男だかもわからずじまいで過ぎてしまうところだった。そんな男と付き合ったらつらい目に遭うところだった。たとえあの男がやってきても、手紙など受け取るな」と、この女に教えてしまった。そのことを知らずに、この男が、例の瀬田の方面で遊山して帰ってきて、例の内裏あたりと女が教えたところに、その後の消息などを、この男が召使に報告させた。

【本文】されば、「まだ里になん、志賀へとて詣で給ひしままに参り給はず」といひて、専ら文も取り入れずなりにけり。使ひ、さ言ひて帰りきたれば、この男あやしがりて、ゆゑをし聞き得ねば、しきりにに三日やりけれど、遂にその文とらずなりにければ、かの志賀に出で詣でたりし中に、友達たりけるが、物のゆゑ知りたりけるをぞ呼びにやりて、物のあるやうありし次第など諸共にみける人なりければ、「げにあやしく人々やいひたらん」などぞいひける。男、庭の前栽を見て、かかるくちずさみをぞしける。
   たすくべき 草木ならねど 哀れとぞ 物思ふ時の目にはみえける
とぞいひける。 
【注】
「里」=実家。
「専ら~ず」=まったく~ない。
「ありし次第」=今までのいきさつ。
「諸共に」=いっしょに。
「げに」=本当に。
「あやしく」=不可解にも。
「前栽」=庭先の植え込み。
「くちずさみ」=心に浮かんだ詩歌を小声で口に出す。
【訳】そうしたところ、女の同室の者が、「まだ実家のほうにいるのでしょう。志賀へともの詣でにお出かけになったまままだお帰りになっていません」と言って、全然手紙も受け取らずじまいになってしまった。使者として行った召使が、そんなことを言って戻ってきたので、男が不思議に思って、理由を聞き出すことができなかったので、ひんぱんに二三日使者に手紙を持たせてやったけれども、とうとうその手紙をうけとらずじまいだったので、例の志賀に参詣した連中のうち、友人だった男で、もののわかった人物を呼びにやって、その人は当時の女との出会いや男との関係など今までのいきさつを一緒に見て事情に通じていた人だったので、「本当に、不可解にもそんなふうに人々が言っているのだろうか」などと言った。男は、庭の植え込みを見て、こんな歌を小声でくちずさんだ。私への誤解から救ってくれる草木ではないけれども、気持ちが沈んでいる時の目にはしみじみ見ていやされるなあ、と口ずさんだ。

【本文】かかれば、この友達の男、「げにことわりなりや」といらへをりけるほどに、日暮れて月いとおもしろかりけるに、この男、「いざ西の京に、時とものいふ所に、物かたらはせん」といひければ、「よるなら」といひてこのありける男二人、二条の大路より西の京さして往にけり。かの志賀の事のみ恋しくおぼえければ、かの女の初めによみたりける歌を、ふりあげつつ恋歌にうたひけり。さいだちて車來けり。やうやう近く、すざかの間に来て、この車にゆきつき、なほうたひければ、「たれぞ、この歌を盗みて歌ふは」とぞいひおこせたりける。されば、男いとあやしきやうに覚えて、「かくとめてよぶ給ふ人やおはしますとてなん、道の大路に乗りてうたふ」などいひやりたりければ、「いな、いとなれたりける人ありければ、憂き事もこれなりや。しばし」と言ひおこせたり。
【注】
「かかれば」=こういうわけで。
「げに」=なるほど。
「ことわりなり」=もっともだ。
「いらふ」=返事をする。
「おもしろし」=美しい。
「いざ」=どれ。さあ。
「西の京」=平安京のうち、朱雀大路から西の地域。
「ものいふ」=意中を打ち明ける。
「かたらふ」=説得して同意させる。
「ありける」=例の。さっきの。
「二条の大路」=京の東西の大通りで、北から二番目のもの。
「さす」=目的地を目指す。目的の方向へ向かう。
「志賀の事」=一緒に志賀寺に参詣したときの出来事。
「すざか」=朱雀大路。平安京の中央を南北に通じる大路。大内裏の朱雀門から九条の羅城門までで、幅は二十八丈(約八十余メートル)あったという。これを境に東を左京、西を右京と称した。
「なほ」=依然として。それでもやはり。
「いひおこす」=言ってくる。
「あやし」=不思議だ。
「おはします」=いらっしゃる。
「大路」=大通り。
「なる」=親しくなる。
【訳】こういうわけで、この友達の男が、「なるほどもっともなことだなあ」と返事をしているうちに、日が暮れて月がとても美しかったので、この男が、「どれ、西の京の、時として私が意中を打ち明ける気心の知れた女に、口ききをさせてあげよう」と言ったところ、「夜なら都合がつきます」と言ってきたので、この先ほどの男二人は、二条の大路を通って西の京を目指して行った。男は例の志賀寺での出来事ばかり恋しく思われたので、例の女が最初に作ってよこした歌を、声を張り上げながら恋歌として歌った。前方から牛車がやってきた。しだいに近づいて、朱雀大路のなかに進んで、この車と接近した、依然として歌っていたところ、「どなた、私の作った歌を盗んで歌っているのは」と言ってよこした。それで、男が非常に不思議な偶然もあるものだと思って、「こんなふうにあなたのように声をかけて車をお呼び止めになる人がいらっしゃるかと思って、道の大路に馬に乗りながら歌っていました」などと言ってやったところ、「いいえ、もうたくさん。あなたと非常に親しかった知人がいたので、いりいろ聞いています。つらい事もこうしてありましたし。しばらくはお付き合いしたくありません」と言ってよこした。

【本文】そのかみ男思ひけるに、世に憂き心ちして、「もし然か」と問ひければ、「さぞかし」と女こたへけり。「さらばかた時車とどめん」といひおこせたりければ、「耳とくに聞かむ」とて、車をとどめたれば、男馬よりおりて車の許によりて、「いづちおはしますぞ」「里へなんまかる」と答ふ。男、文とらせぬ事よりはじめていみじう恨みけり。深く憂きやうにいひければ、をさをさ答へもせで、いとつれなくこたへつついひ、「ただひたおもむきにあるべきかな。万の憂き事人いふとも、かうやは」と思ひて、車のもとを立ちしりぞきたり。この車かけいでんとしければ、男思ひけるやう、わきてもあやなし。なほ言ひとどめて、物のあるやうもいひ、誰、かう憂き事は聞こえしなどもいはんと思ひて、この供なる男して、「いと身も心憂く、御心もうらめしかりつれば、身投げてんとてまかりつるに、ただ一こときこゆべき事なん侍る。さてもこの身、異かはへすみ見でなん、帰りまうできぬる」とて、
  身のうさを いとひすてにと 出でつれど 涙の川は 渡るともなし
といひければ、
【注】
そのかみ=そのとき。
「かた時」=ほんのしばらくの間。
「耳とし」=よく聞こえる状態。馬のひづめの音や車輪の音でよく聞こえない状態を避けようとしたのであろう。
「許(もと)」=かたわら。そば。
「まかる」=行く。
「をさをさ~で」=あまり~しないで。
「つれなし」=冷淡だ。
「ひたおもむきなり」=いちずだ。
「かく」=牛を牛車につなぐ。
「わきて」=特に。
「あやなし」=道理に合わない。
「言ひとどむ」=言ってとめる。
「異」=ほかの。別の。
「いとふ」=いやだと思う。
「涙の川」=多く流れる涙を川にたとえた語。
【訳】そのとき男が胸中に思ったとことには、このうえなくつらい気がして、「ひょっとすると私が不誠実だとでも聞いたのか」と質問したところ、「その通りですわ」と女が答えた。「それでは、ちょっと車をとめてください」といってよこしたので、「よく聞きましょう」といって、車をとめたので、男が馬からおりて車のそばによって、「どちらへいらっしゃるのか」と聞いたら、女が「実家へ参ります」と答えた。男が、手紙を受け取らない事からはじめて、ひどく恨みごとを述べた。深く傷ついたように言ったところ、女はろくに返答もしないで、とても冷淡に答えながら、男のほうは、「まったく、いちずに、向こうの言い分ばかり信じるのだなあ。さまざまな悪口を他人が言っても、こんなふうに一方的に鵜呑みにするものだろうか」と思って、車のそばを立ちのいた。この女の車が牛をかけて再出発しようとしたので、男が思ったことには、とんでもない誤解だ。さらに話かけて車を引き留めて、こちらの詳しい事情も知らせ、いったい誰が、こんなひどい事をあなたのお耳にいれたのかなどと、言おうと思って、この同行していた男に、「非常に自分としてもつらく、私のいうことを信じてくださらないあなたの御心うらめしかったので、身投げしてしまおうと思って参りましたが、ただ一言申し上げる事がございます。それにしても、この身を、別の川に入ってみずに、帰って参りましたことが後悔されます」といって、
  わが身のつらさを嫌い、身を捨てにと家を出たけれども、あなたに誤解されたことでとめどなく流れる涙の川は渡ることもできないのでした。
と歌を詠んだところ、


【本文】女、
  まことにて 渡る瀬ならば 涙川 流れて早き 身とをたのまむ
といひおこせて、「よしなほ立ち寄れ、物一言いひてなむ」といひければ、男、車のもとに立よりて物などいひつるほどに、やうやう暁にもなれば、女、「今はいなん。ゆめ此たびにたたり、人にかくな。すべて忘れじ。現となおもひそ」といひてかへるに、かくいへりける。
 秋のよの 夢ははかなく ありといへば 春にかへりて まさしからなん
などいひけるほどに、夜明うなりければ、女、「今ははやう往ね」と切にいへど、夢にも立ちしりぞかず、女の入らん家を見むとて、男いかざりければ、女、家を見せじと切に思ひて、男かかる事をぞいひける。
 ことならば あかしはててよ 衣手に ふれる涙の 色も見すべく
かく返しける、女、
 衣手に ふらん涙の色見んと あかさば我も あらはれぬかな
といひけるほどに、いと明うなれば、童一人をとどめて、「車の入らん所みてこ」とて男は帰りにけり。童、車のいる家は見てけり。さていかがなりにけん。

【注】
「渡る瀬ならば」=「渡る瀬なくば」の誤写とされる。
「いぬ」=立ち去る。
「ゆめ此たびにたたり」=この部分、誤脱あるとされる。
「人にかくな」=「人にかくなのたまひそ」などの略。
「すべて忘れじ」=あるいは「すべて忘れし」(「し」を過去の助動詞「き」の連体止めにとって)、「わたしはあなたについて知人から聞かされた悪いうわさを全部わすれました」の意とするべきか。
「現」=現実。
「な~そ」=~しないでほしい。
「まさし」=ほんとう。
「切なり」=強い。さしせまっているようす。
「夢にも~ず」=ちっとも~ない。
「ことならば」=同じことならば。それならいっそ。
「涙の色」=血のまじった涙の色。非常につらく悲しい時に流す涙には血がまじると考えられていた。
「あらはる」=姿が見える。人に知られる。
「童」=召使の少年。
「いかが」=どのように。
【訳】女が、
  本当に渡れる浅瀬がないほど涙をお流しになったのならば、あなたの誠意をあてにしましょう。
と詠んで寄越して、「わかりました。ではもう一度おそばに立ち寄りなさい。言いたいことがあるなら一言どうぞ」といったので、男が、女の車のそばに立ち寄って話しかけるうちに、しだいに明け方近くなったので、女が、「今はもう私は帰ります。決して此たび私と出会って言葉を交わしたことは、他人にお話になりませんように。わたしは全部忘れません。あなたは今日のことは現実だとはお思いにならないでほしい。」といって帰るときに、男はこんなふうに歌を詠んだ。
 秋の夜の夢ははかないと世間では言うので季節が春にもどったらあなたの言葉が現実になってほしいものだ。
などと歌を詠むうちに、夜が明るくなったので、女が、「今はとりあえず早く立ち去ってください」と懸命にいったが、決して男は立ち去らずに、女が入っていく家を見てやろうと思って、男がどこへも行かなかったので、女は、家を見せまいと真剣に思っていると、男がこんな事を歌に詠んでいってきた。
 同じことならば一緒に夜をあかしてしまってほしい。わたしの着衣の袖に降っている涙の色も見せたいから。
こんなふうに男は返歌をした、それに対し再び女が、
 着物の袖に降ったというあなたの涙の色を見ようとして夜を一緒にあかしたら、私の姿も人に見られてしまいますわ。
と歌を詠み合ううちに、
とても明るくなってきたので、召使の少年一人をあとに残して、「車が入る屋敷を見届けて帰ってこい」といって男は帰ってしまった。召使の少年は、車が入る家は見て確認した。そうして、その後この男女はどうなったのだろうか。


【本文】又、女、男、いと忍びて知れる人あり。人目しげき所なれば、からうして又も明けぬさきにぞ帰りける。いとまだ夜深く暗かりければ、かかぐりいでんとおもへども、入るかたもなく、出るにも難ければ、門の前に渡したる橋の上にたてり。供なる人して言ひ入れける、
  夜には出て 渡りぞわぶる 涙川 淵と流れて 深くみゆれば
女も寝で起きたりければ、
  さ夜中に をくれてわぶる 涙こそ 君があたりの 淵となるらめ
とぞ有りける。大路に人歩きければ、え立てらで出て往にけり。
【注】
「忍びて知れる人」=こっそりと知り合って交際している人。
「人目しげき所なれば」=人目が多い場所なので。『伊勢物語』六十九段「されど、人目しげければ、えあはず」。
「からうして」=ようやく。やっとのことで。『日仏辞書』に「Carǒchite」とあり第四音節は清音。
「明けぬさきにぞ帰りける」=平安時代の結婚生活においては、まだ暗い「暁」が、女の家に通ってきた男が、女と別れて帰らなければならない時とされていた。
「夜深く」=夜明けまでずいぶんまがある時刻。
「かかぐりいでん」=手探りして出よう。
「供なる人」=召使。
「渡りわぶ」=わたりかねる。
「涙川」=物思いするときに涙があふれ流れるようすを川にたとえた語。
「さ夜中」=夜中。真夜中。「さ」は、接頭語。
「をくれてわぶる涙」=男が去ってあとに取り残されてつらい思いをして流す涙。
「とぞ有りける」=~と短歌に作ってあった。
「大路」=大通り。平安京で南北に通じるものをさす場合が多い。
「え立てらで」=ずっと立っているわけにもいかずに。「ら」は、存続の助動詞「り」の未然形。「で」は、打消しの接続助詞。
【訳】また、女と男で、とても人目を気にしてこっそり交際している人がいた。人通りが多い場所なので、やっと人目がとぎれたタイミングを見計らって、またもや、夜が明けぬ先に帰っていった。まだ夜明けまでずいぶん時間がある時分で暗かったので、手探りで女の屋敷を出て行こうとおもったけれども、暗すぎてもとの女の屋敷に入る手立てもなく、屋敷を出るにも困難だったので、門の前に架け渡してある橋の上にたっていた。それから供に連れていた召使に、女の部屋に言い入れさせた歌、
  夜暗い時に出て渡りかねています。あなたとの別れがつらくて流した涙の川が淵となって流れて深くみえるので。
女も寝ずに起きていたので、すぐに返しの歌を作って寄越した
  真夜中にあなたが去ってあとに残されてつらい思いをしている私が流す涙が、あなたがいまいるあたりの深い淵となっているのでしょう。つらいのは私の方なのです。
と歌に作ってあった。大通りに人が多く歩きだしたので、ぐずぐずしては目立ってしまうのでその場に立っているわけにもいかずに、橋を渡り切って女の住む屋敷から出て去って行ってしまった。

【本文】又、この同じ男、はかなき物のたよりにて、雲ゐよりもなほ張るかにてみる人ぞありける。さは、はるかに見けれど、物いはすべきたより・よすがありければ、いかで物いひよらむとおもへば、はじめて言ひ渡る程に、ほど経にければ、「いかで、人づてならず、かかる水茎の跡ならでもきこえてしがな」と、男せめて言ひわたりけれど、「いかがはすべき。げによそにてもいはん事をや聞かまし」と思ひける程に、女の親、さがなき朽女、さすがにいとよう物の気色みて、いとことがましき物なりければ、かかる文通はしける気色ありと見て、はては文をだにえ通はさず、責めまもりつついひければ、この男「せめてあはむ」といひけるにわびて、この女思ひける友達に、「我なんかかる思ひをする。われはせきある人なり。さなんあるとだにきかで、せむれば、いとかたし。ただかういふ人をしる人にてやみねといふ事ばかりを、いかでたばからむとてなん」とぞいひける。
【注】
「はかなき物のたよりにて」=ちょっとしたことがきっかけで。
「雲ゐよりもなほ遥かにてみる人」=身分がひどくかけはなれて高貴な女性。高嶺の花。
「さは、はるかに見けれど」=そんなふうに、遠くから指をくわえて見ていたが。
「物いはすべきたより・よすがありければ」=お声をかけてくださりそうな機会があったので。「す」は、尊敬の助動詞。
「いかで物いひよらむ」=どうにかして恋を打ち明けて近づこう。
「言ひ渡る程に」=熱い思いを手紙でアピールしつづけるうちに。
「ほど経にければ」=月日が経過したので。
「人づてならず」=間に仲介者をはさまず。『小倉百人一首』藤原道雅「今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな」。
「水茎の跡」=手紙。
「きこえてしがな」=自分の口から申し上げたいなあ。「てしが」は、自分の願望をあらわす終助詞。「な」は、詠嘆の終助詞。
「せめて」=しつこく。強引に。
「言ひわたる」=言いつづける。
「いかがはすべき」=どうしたらよかろう。
「げに」=ほんとうに。
「よそにてもいはん事をや聞かまし」=直接顔を見なくても男の言う話を聞いてみようかしら。
「女の親」=この女の母親。
「さがなき朽女」=性格の悪い、くされ女。
「さすがに」=はじめは気づかなかったのであろうが、やはり。
「いとよう物の気色みて」=じゅうぶんに女のようすを察して。
「いとことがましき物なりければ」=とても口うるさい連中だったので。
「かかる文」=恋文。
「はては」=挙句の果てには。
「文をだにえ通はさず」=じかに逢うどころか手紙のやりとりさえできないようにさせ。
「責めまもりつついひければ」=どこのどういう男と付き合っているのか質問責めにして、付き合えないように見張って、身分違いの男と付き合わないように言い聞かせたので。
「せめてあはむ」=ぜひ直接逢おう。
「わびて」=困って。
「思ひける友達」=親友。
「せきある」=見張りがいて自由がきかない。
「いとかたし」=とても苦しんでいる。
「かういふ人をしる人にてやみね」=こんなに身分の高い知りあいがいるという事だけで満足し、それ以上の仲になるのを求めるのは諦めなさい。
「いかでたばからむとてなん」=どうやって説得して諦めさせようかと思ってあなたに相談するのです。
【訳】また、この同じ男が、ちょっとしたことがきっかけで、雲の浮かぶ空よりももっと遥か遠くから心ひかれて見る身分がひどくかけはなれて高貴な女がいた。そんなふうに、遠くから指をくわえて見ていたが、お声をかけてくださりそうな機会があったので、どうにかして恋を打ち明けて近づこうとおもって、熱い思いを手紙でアピールしつづけるうちに、月日が経過したので、「なんとかして、あいだに人を介さずに、こんな手紙ではなく、じかに話がしたいものだなあ」と、男が、しつこく言いつづけたので、「どうすればいいのかしら。ほんとうに、わたしも、直接顔を合わせるのではなくても、お話を聞こうかしら」と思っていたところ、女の親で、性格の悪い腐れ女が、最初のうちは気づかなかったが、やはり、十分に女のようすを察して、とても口うるさい連中だったので、女が男と恋文をやりとりしているらしい気配を察して、挙句の果てには手紙さえやりとりできなくさせ、どこのどういう男と付き合っているのか質問責めにして、付き合えないように見張って、身分違いの男と付き合わないように言い聞かせたので、女はこの男が「ぜひ逢おう」といってきたことに困って、この女が信頼している友達に、「わたしはこんなつらい思いをしています。私は厳重に見張られている自由のない身です。そんな状況にいるのだということさえ聞く耳もたず、なぜじかに逢えないのだと男が責めるので、とても苦しい。ただ自分にはこんなに身分の高い知りあいがいるという事だけで満足し、それ以上の仲になるのを求めるのは諦めなさい。という事だけを、どうやって諦めるように言いくるめようかと思ってあなたに相談するのです」と言った。

【本文】されば、この友達、「などかいとうらめしく、今まで我にはいはざりける。人気色とらぬさきに、ようたばかりてまし」などいひて、「月のおもしろきを見んとて端のかたにいでて、我ことをもそれに紛れて簀子のほどに呼び寄せて、物いへ」などたばかりて、かの男のもとに、「いと忍びてこの簀子のもとに立ちよれ。おぼろけになおもひそ」などいへりければ、男何時しか待ち暮らして立ちよりにけり。かの友達、「わがごとくに」などいへりければ、それがうれしき事など、女も男もをかしきやうに思ひていひ語らひけるに、かの母の朽女、さがなき物宵まどひしてねにけるこそあれ、夜ふくるすなはち目をさまして起き上りて、「あなさがな、なぞかく今まで寝られぬ。もしあるやうある」といひて起き走りいで來ければ、男ふと簀子のしたになめりいりにけり。のぞきてみる。人もなければ、「おいや」などいひてぞ奥へ入りにける。
【注】
「されば」=そこで。
「などか」=どうして。
「人気色とらぬさきに」=ほかの人が察しないうちに。
「ようたばかりてまし」=きっとうまくやってあげたのに。「て」は、強意の助動詞「つ」の未然形。「まし」は、反実仮想の助動詞。ここは、この前に「さ聞きたらば」(そんなふうに事情を聞いていたら)のような表現が省略されているのであろう。
「月のおもしろき」=美しい月。「の」は同格の格助詞。
「端のかた」=部屋のはしっこ。いわゆる端近の状態。
「いと忍びて」=人に覚られぬように用心して。
「おぼろけになおもひそ」=並々のことだとお考えなさいますな。
「何時しか」=早く日が暮れないかと待ちかねて。
「待ち暮らして立ちよりにけり」=待って、その日の夕暮を迎えて女の家に立ち寄った。
「わがごとくに」=わたしの言うとおりにやりなさい。
「かの母の朽女、さがなき物」=女の母親にあたる性格の悪い腐れ女で、口やかましい女。
「宵まどひ」=夜の早いうちから眠くなること。
「すなはち」=~したとたんに。~するとすぐに。
「もしあるやうある」=ひょっとすると何か不吉なことがあるのかしら。
「なめりいりにけり」=身をすべらせるようにしてもぐりこんでしまった。
「おいや」=「をいや」。ああ。まあ。
【訳】そこで、この友達は、「どうして今まで私に言わなかったの。とてもみずくさいわね。事情を知ってたら、ほかの人にけどられないうちに、うまく処理してあげたのに」などといって、「美しい月を見ようといって、部屋の端のほうにいて、自分のこともそれに紛れて簀子のところに呼び寄せて、話しなさい」などと計略を立てて、例の男のところに、「じゅうぶんに人目を避けて、うちの屋敷の簀子のところに立ちよりなさい。こうやって機会を作ってあげるのは並大抵の努力とはお考えになるな」などといったので、男は「早く日が暮れないかなあ」と待って夕暮れを迎えて、やっと女の住む屋敷に立ち寄った。例の友達が、「私が言ったとおりに(演じるのですよ)」などと言っておいたので、女はこうして逢えたことのうれしい事など、女も男も相手を風流な人だなあと思って、打ち解けて語り合っていたところ、例の女の母で性格の悪いくされ女で、口のわるい女が、夜の早いうちから眠くなって寝たのならともかく、夜が更けたかとおもうとただちに目をさまして起き上がって、「まあ、なんてこと。どうしてこんなに遅くまで寝られないのかしら。ひょっとすると、何か不吉なことがあるのかしら」と言って起き上がって走って現れたので、男はサッと簀子の下に滑り込んで身を隠してしまった。母親が女の部屋をのぞいてみた。誰もいないので、「ああ、気のせいかしら」などと言って奥へひっこんでしまった。

【本文】そのままに男出きてぞ物いひける。「よし、これを見よ。かかればなんいふ。誰も命あらば」などいひ契るほどに、又この朽女、「あやしうも入り来ぬかな」といひければ、なほこの女、「又いきなん。今は帰りね」といへば、男くちをしう思ひて、
  玉さかに 君と調ぶる 琴の音に あひてもあはぬ 恋をする哉
 此事ばかりいとをかしきやうにおもひて、「早うかへりしといへや」などたゆたふほどに、朽女は密かに覗きて見をれば、「どこなりし盗人のかたゐぞ、さればよるやうありと言へるぞかし」とて縛りければ、沓をはきもあへず男は逃げにけり。女も息もせでうつぶしにけり。それよりこの女さらに事のつてをだにえすまじう、物いはせけるたよりもたえて、よせずなりにければ、いふかひなくて、(中絶)
【注】
「いひ契る」=口に出して夫婦の約束をする。
「あやしうも入り来ぬかな」=不思議なことに娘を訪ねてこないなあ。
「今は帰りね」=もうお帰りなさい。
「くちをしう」=残念に。「くちをしく」のウ音便。
「玉さかに」=めったに会えないものに会う。
「君と調ぶる琴の音」=「琴瑟相和す」という言葉をふまえるか。
「たゆたふ」=ためらう。
「密かに」=こっそり。
「どこなりし盗人のかたゐぞ」=どこに隠れていたぬすっと野郎め。
「さればよるやうありと言へるぞかし」=だから夜中になんか変だといったのだ。
「沓をはきもあへず」=靴をはく余裕もなく。
「さらに事のつてをだにえすまじう」=まったく、伝言さえできなくなり。
「よせずなりにければ」=近寄せなくなってしまったので。
「いふかひなくて」=しかたがなくて。
【訳】
そのまますぐ男が簀子のしたから現れて女と話をした。「まあ、この縁の下のクモの巣や土で汚れた格好をみてごらんなさい。こんなふうだから、言うのでしょう。誰でも身分違いの恋は命があったらもうけものだと。」などと言って、口に出して夫婦の約束をするところに、ふたたび、この母親のくされ女が、「変ねえ。誰も入って来ないなあ」と言いながらやってきたので、やはりこの女が、「また母がきちゃうわ。もう今は帰ってください」というので、男は残念に思って、作った歌、
  めったに会えないあなたに会って、あなたと一緒に演奏する琴の音に、思わぬ邪魔がはいって、あってもあった気がしないような、心満たされない恋をするものだなあ。
 このことだけを、とても風流な出来事だとおもって、「もうとっくに帰ってしまったと母親には言いなさい」などと指示してぐずぐずしているうちに、くされ女は、こっそり覗いて見ていたので、「どこに隠れていた盗びと野郎め、だから夜中に不吉な感じがすると言ったのだ」と言って女を縛りあげたので、クツをはく余裕もなく男は逃げてしまった。女も息もしないでつっぷしてしまった。それから、この女は、まったく、伝言さえできなくなり、手紙をやり取りする手立ても失い、男を近寄せなくなってしまったので、男もしかたがなくて、(中絶)     をはり





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