第百二十三段
【本文】
むかし、男ありけり。深草に住みける女を、やうやう飽き方にや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
年を経て 住み来し里を いでていなば いとど深草 野とやなりなむ
女、返し、
野とならば 鶉となりて 鳴きをらむ 狩にだにやは 君は来ざらむ
とよめりけるにめでて、行かむと思ふ心なくなりにけり。
【注】
〇やうやう=しだいに。だんだん。
〇飽き方=いやけがさしてきた。
〇かかる=こんな。このようなこういう。二十三段に「男、こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて」。
〇里=都に対して辺地の村。在所。いなか。『古今和歌集』九七一番「深草の里に住み侍りて、京までまうで来とて」。
〇いとど=ますます。
〇深草野=深く草が茂った野と、地名の深草の掛詞。『角川必携古語辞典』の「ふかくさ」の条に、京都市伏見区深草町。歌などでは、草が深く尾生い茂った所とし、また『伊勢物語』の本段の短歌の唱和以後、鶉と結びつけることが多いという。
〇返し=贈られた歌に対する返事の歌。
〇鳴き=「泣き」の意ももたせる。
〇狩に=「仮に」の意ももたせる。
〇だに=せめて~だけでも。
〇やは=「や」も「は」も係助詞。ふつう反語表現ととらえられているが、「やは~ぬ」の場合に準じて勧誘・希望の意を表していると考えることも可能。その場合は「せめて狩り(仮)にだけでも私に会いに来てくれたらいいのに」の意。
〇めでて=感動して。
【訳】
むかし、男がいたとさ。深草に一緒に住んでいた女を、しだいにいやけがさしてきたのだろうか、こんな歌を作った。
何年にもわたって住んできたこの土地を私が出ていったしまったら、そうでなくても深い草の野という地名の在所なのに、ますます草深い野となってしまうだろうか。
女が、男から贈られた歌に対して作った返事の歌、
もしも草が深い野となったら私は鶉となって鳴いておりましょう。そうしたらせめて狩にだけでもあなたは来てくださらないでしょうか、いいえ、きっときてくださるでしょう。
と作ったその歌に感動し、男は出て行こうと思う心がなくなってしまったとさ。